神鏡封魔録


邂逅

  1.

「大変大変、遅れちゃう〜」
不思議の国のアリスに出てくるウサギのような台詞をはきながら園部絵美奈は夕暮れの街を走っていた。
予定より部活が長引いてしまい、通っている塾の授業に遅れそうなのだ。

今日は憧れの堀内先生の数学の授業なので出来れば初めから聴きたい。
絵美奈は私立高校の一年生なのでさし当たって塾に通う必要も無いのだが、昔から数学だけは苦手なので親に頼み込んで通わせて貰っていた。
それでも苦手科目、あまりやる気はなかったのだが、担任の堀内京介の授業を一度受けたとたん俄然やる気が出たのだった。

堀内先生はこの四月大学を卒業したばかりのフレッシュマン、しかも美形にして笑顔爽やかなナイスガイ、しかも授業は解り易いとあって、生徒たちには絶大な人気を誇っている。
堀内先生の授業の時には最前列中央の席の奪い合いで文字通り血の雨が降りそうな勢いなのである。

というわけで絵美奈は今猛烈に急いでいるわけなのだが・・・
塾に付く直前の曲がり角を曲がったところで絵美奈は塀の上で黒猫と烏が大騒ぎで喧嘩をしているのに出くわした。
烏が飛び立とうとするのを猫が脚を銜えて引き摺り下ろそうとしているように見える。
日頃絵美奈は烏が大嫌いだが、この時ばかりは羽根を散らして必死で猫から逃れようとしている烏がなんだかかわいそうになって、とっさに道端の石を拾って猫めがけて投げつけた。

石は猫に当たりはしなかったがひるませるには充分でそのスキに烏は無事大空へと逃げていった。
羽根がやられているのか飛び方が少しばかり変だったが。
猫はまるで絵美奈を恨むかのように金色の目を向けてきたが、絵美奈が身構えているのを見てさっと駆け去ってしまった。

その猫の目が残像のように絵美奈の頭に張り付いて、せっかく間に合った堀内先生の授業にもあまり集中できず、絵美奈はなんだか気分が悪かった。
「ハ〜イ、絵美奈。今日はなんだかぼんやりしてるわね」
学校のクラスメイトでやはり同じ数学の授業を受けている遠藤千夏が声を掛けてくる。
「う〜ん、来る途中変な猫にあっちゃって・・・」
そういいつつ塾の出口を出た途端絵美奈の脚が止まった。

路の向こうの端にうずくまっている黒猫は間違いなく先程のあの猫だ。
金の瞳は爛々と輝き絵美奈を憎んででも居るように睨み付けてくる。
そんな風に絵美奈には感じられた。
「どうしたの?」
千夏は怪訝そうに絵美奈の顔を見ている。
「あの猫・・・」
絵美奈がそう言って指差した途端、猫はひょいと塀の上に飛び乗ってその向こう側に姿を消してしまった。

なんだか気味が悪い。黒猫は祟ると言うし、先程の事を根に持って絵美奈に恨みを抱いて見張っていたのだろうか。
まさか、そんなこと・・・
帰宅して食事を済ませ入浴を終えてひと段落しても絵美奈の気分はすっきりしなかった。
二階の自室でベッドに転がりぼんやりとあの猫のことを思い出していると、階下から
「きゃ〜」という母のけたたましい悲鳴が聞こえてきた。

「一体何事?」と慌てて駆け下りる。
妹の裕美奈も隣室から顔を覗かせ絵美奈に続いた。
下の客間では床の間の前で母が呆然としている。
母の手には絵美奈の家に古くから伝わるという家宝の鏡が握られていたのだが・・・

その鏡が何時の時代のものか絵美奈にはよく判らないが、祖母の祖母が持っていたというのは確からしいので少なくとも江戸時代のものではあるはずだ。
鏡と言っても鏡面はにごっていてほとんど何も映さない。
裏面には漆が塗られていたようだが、あちこち剥げてなんとも見窄らしいモノになっている。

祖母はこの鏡を大層大事にしていて何かある度に取り出しては台に乗せ神棚に飾っていた。
祖母亡き後この鏡は父に相続され、結局は絵美奈の母が受け継ぎ今に至っている。
今の家には神棚が無いので母は盆暮れ正月その他何かに付けて行事の折には床の間にこの鏡を飾っていた。
この鏡に一体何の効用あって行事の折々に飾るのか、その理由はすでに伝わらなくなって久しいらしく、母も祖母から何も聞いていないといっていた。

次にこの鏡を受け継ぐのは長女である絵美奈と言うことになるらしい。
絵美奈自身はこんな鏡、少しも欲しいとは思わなかったが・・・
母の手にあるその鏡に今、大きなヒビが横に一筋入っている。
「おかあさん、どうしたのそれ。落っことしちゃったの?」
絵美奈の後から降りてきた裕美奈が母の手元を覗き込むようにして訊いた。

「違うの、今朝はなんともなかったのに今しまおうと思って手に取ったら突然ピシッと言う音がしてヒビが入ってしまったのよ。
どうしましょう、おばあちゃんがあんなに大事にしていた鏡なのに・・・」
「古くなったんで壊れてきたのよ、寿命よ、もう」
中学ニ年生にしてはかなり醒めている裕美奈が、そんなことで大騒ぎしないで、といいながら自室へ戻っていく。

そのときもう一度ピシッと言う音がして鏡のヒビが二本になった。
絵美奈にはそれが世界が壊れる音のように感じられた。
すぐに冷静になって、なぜそんなことを感じたのだろうと絵美奈は自問自答する。
さっき見た猫の目がまた脳裏に甦ってきた。
あの変な猫にあったせいで少し神経が高ぶっているのだろう、絵美奈は自分にそう言い聞かせて自室に戻ったがなんだか嫌な感じが心に残る。

この不安感は何なんだろう、一体・・・と思って居ると窓の外でばたばたと鳥の羽音のような五月蝿い音が聞こえてきた。

全く今度は一体何?と思って窓を見ると真黒な烏が窓のすぐ外でギャーギャーと泣き喚きながらくちばしでガラスをつついている。
こっちがギャーといいたくなりながら、このままでは窓ガラスを破られると思った絵美奈は手近にあった部活用の剣道の竹刀を手にそっと鍵をはずして窓を開けた。

烏が中に入ってこようとするのを竹刀を振り回して阻止しようとする。
何よ、この烏、乙女の部屋に入ってこようとするなんて何て図々しいの!
この部屋には食べ物なんてないわよっ!
そう思いながら竹刀を振り回していると、
「おい、ちょっと待ってってば」
と、どこからか人間の声が聞こえてきたので絵美奈は腰を抜かしそうになった。

烏は図々しくも竹刀を掻い潜って絵美奈の部屋へと入り込むとベッドの上に降り立つ。
「ちょっ・・・、このっ!」
と絵美奈が竹刀を大上段に振りかざした時、烏がいたはずの場所には絵美奈と同い年くらいの男の子が座っていた。

その肩にはあの烏がちゃっかりと止まっている。
「あんた一体どこから・・・」
絵美奈はあんぐりと口を開けたまま絶句した。
「よっ!見付けたぜ巫女姫様。こんなしけた所に居るとは思いもよらず、見当違いなとこばかり捜しちまったぜ」
セーターにジーンズ、軽めのジャケットを羽織ったその少年はそう言って片目を瞑って見せた。

色白で目がくりっとした、顔立ちの整った少年である。
少年が烏に
「ご苦労様だったね」
と言うと烏はいずこへともなく姿を消してしまった。

「あ、あんた誰・・・」
呆然と立ち尽くす絵美奈に少年はふんぞり返ってベッドに腰掛けたままの姿勢で
「あ、俺は伊織、ま、いおちゃんと呼んでくれていいから・・・
さっきはあの烏くんを助けてくれてありがとうね。
それより、とりあえずどっかに座ったら?話せば・・・長くもないけどさ」
と言った。

「ちょっと図々しいにも程があるってものよ。ここを誰の部屋だと思ってるの!?」
絵美奈の怒鳴り声を聞きつけて裕美奈がいきなり部屋のドアを開けた。
「お姉ちゃん、うるさいよ・・・・」
裕美奈も少年の姿を見て鳩が豆鉄砲と言った顔をして固まってしまった。

まずい、これでは絵美奈が男友達を部屋に連れ込んだみたいではないか・・・
慌てる絵美奈を尻目に伊織はゆっくりと裕美奈に近付き目の前に手をかざした。
すると裕美奈は
「なんだ、お姉ちゃんの同級生か。脅かさないでよ、何時来たのか全然わかんなかったよ。」
と言って自分の部屋に戻ってしまった。

「どういうこと・・・あんた・・・」
この突然どこからともなく現れた少年は、裕美奈に手こそ触れなかったが何かしたらしい。
コイツは一体何者!?

「詳しい事はおいおい話すとして、君んちに古い鏡があるだろう」
「!何で知ってるの?」
「やっぱりね。この辺にはでっかい地脈が縦横に走ってるから封印の鏡がどこかにあるはずだと当たりをつけてたんだ。
でもこんなパンピーの家にあるとは思ってなくってさ」

「パンピーで悪かったわね。」
「その鏡に何か変わったことない?何もなければそれでいいんだけど・・・」
相手の言葉に絵美奈は絶句する。
「鏡にヒビが入ったわ。二本大きなヒビが・・・」
絵美奈の言葉にどこか軽そうな伊織の表情が強張り、真剣なものとなった。

「それはいつ?」
「ついさっきよ。それまでは古いけど何ともなかったと思うけど・・・」
「その鏡、見れるかな」
「え、下の床の間に飾ってあるけど・・・」
少年の剣幕に押され絵美奈はその鏡を床の間へ取りに行き、こっそり部屋へと運んできた。

鏡面のヒビはさらに深くなり、本数も増えている。
「ふうん・・・これは急いだ方がよさそうだな」
伊織はじっと絵美奈の顔を見ていたが
「会って欲しい人が居るんだ、出来れば今すぐに」
と唐突に言い出した。

「え・・・?」
「いや、気障で性悪でいけすかねー野郎だけどさ、見てくれは悪くないから」
「って、そういう問題じゃなく・・・」
慌てて後退る絵美奈の腕を強引に掴んで伊織は軽くウィンクした。

その後起こった現象をどう表現すればいいのか、絵美奈にはよく分からない。
七色の光が乱舞する世界を風が吹きぬけたような感じがしたと思ったら、絵美奈はどこか海辺の崖の上に居た。
空には満月が掛かっている。
その冴え冴えとした月光を背に、トレンチコート姿の一人の男がこちらに背を向けて立っていた。

自分は夢を見ているのだろうか。
いや、靴下を履いただけの足に感じるひんやりとした冷たさはこの大地が幻想の産物ではない事を教えてくれている。
「ツクヨミ様、鏡の巫女を見付けまして御座います」
伊織が隣で跪き、後姿の男にそう声をかけた。
その声に件の男がおもむろに振り向く。
逆光で顔はよく見えないが、背が高く、背広のような服を着ているのが何となく判った。

ツクヨミと呼ばれたその男は
「ふうん・・・」
と言って絵美奈のすぐ傍まで近付き、それこそ頭のてっぺんからつま先まで絵美奈をジロジロと見つめた。
間近で見ると思ったよりはずっと若そうな感じだ。
絵美奈よりは二三年上だろうか。
確かに端正な顔立ちをしているのが見て取れる。

それにしても、初対面の女性をまるで値踏みするようにジロジロ見るのは失礼だろう。
男性からこんな不躾な視線を浴びせられたのは初めてだったので、絵美奈は思わず頬を染めた。
―――確かに気障で性悪でいけすかなそう・・・
そう思った途端、
「これは失礼した、巫女姫よ。本物かどうか確めたかったもので・・・」
とツクヨミは言った。

「?」
ツクヨミは口元に軽く笑みを浮かべながらまだ跪いたままの伊織に向って
「誰が、気障で性悪でいけすかねー野郎だって?」
と皮肉混じりに言ったので絵美奈は吃驚して声も出なかった。

しかもその途端伊織が突然尻餅をついたので絵美奈はますます驚いた。
「うわ、どうかお許しを・・・でもどうしてお分かりになったので?」
と伊織が立ち上がりながら訊くのに、
「巫女姫の心にお前の言葉が浮かんだのだ。姫はまだ力が不安定なようだから簡単に読み取れる。お前も今後はこの女には滅多なことは言わぬほうが利口だな」
と言う答えが返ってきた。
「!」
この人は私の考えた事が判るんだ・・・!

「全く今代のツクヨミ様は手厳しー。目下のものにはもっと鷹揚に接しなければますます人望が・・・」
そこまで言って伊織は相手の一睨みで口を噤んだ。
「大きなお世話だ。それより封印の鏡の事だが・・・」
「はい、事は緊急を要するようで・・・」

ツクヨミはまたじっと絵美奈の顔を見つめたが、すぐにフイと視線を逸らせると
「明日、お前の家を訪ねよう。鏡をじかに見たい。話はそれからだ」
と言って、服に付いた泥を叩き落としながらようやく立ち上がった伊織に、
「伊織、早く巫女姫を連れ帰ってやれ。その格好では寒そうだ」
と命じた。

そう言われれば靴を履いていない足はすっかり冷え切って体にも鳥肌が立っている。
あまりの急展開に気を取られうっかりしていたが・・・
伊織にもう一度腕をとられると、あっと言う間に絵美奈は部屋に戻っていた。
伊織は、じゃ、また明日ね、というと次の瞬間には掻き消したように姿が見えなくなっていた。
後には絵美奈ひとりが呆然と立っている。
今までの出来事が夢や幻でない事は靴下に付いた泥が証明してくれていた。


  2.

その夜あの二人組みや鏡の事が気になって、絵美奈はなかなか寝付けず、次の日は寝不足で散々な一日だった。
あのツクヨミと言う男は今日鏡を見にウチへ来ると言っていたが・・・
そう思いながら帰宅すると、家の前に昨日の二人が立っていた。

背の低い方が絵美奈を見つけて親しげに手を振ってくる。
「よう!」
絵美奈が溜め息をつきながら近寄ると背の高いほう、つまりツクヨミが声を掛けた。
二人とも揃いのブレザースーツにネクタイ姿をしているところを見るとどこかの制服なのだろう。

「あんたたちほんとに来たのね・・・」
「そううんざりした顔するなよ。鏡を見たらすぐ引き上げるさ。」
とツクヨミが言う。
夕べはどこか不気味で胡散臭い感じがしたが昼の光の中で見ると、ごく普通の学生に見える。

とりあえず家に入ると二人も後からついて入って来た。
「ちょっと・・・」
と絵美奈が慌てるのを気にも留めずに上がりこんでくる。
「困るわ、家族に見られたら・・・」
と言う傍から母がキッチンから出て来た。

「あら、絵美奈お帰りなさい。そちらはお友達・・・?」
との母の言葉にツクヨミはにこやかな笑みを浮かべて
「初めまして、僕は桜英学園高等部三年の北条朋之と言います。こちらは松野伊織、同じく一年生です。お嬢さんとは伊織が塾でご一緒させていただいています。
実は僕等は新聞部所属で、こちらに大変珍しい鏡があることを聞きおよび、是非学校新聞に掲載したいとこうしてお邪魔した次第です。
お構いなければその鏡を見せていただけないでしょうか」
と、よどみなく述べ立てた。

その様子はどこから見ても感じのいい好青年といった感じで、絵美奈は内心舌を巻く。
母はツクヨミがすっかり気に入った様子で
「まあまあ、珍しいといってもただ古いだけで大したものじゃないんですけれどね」
と言いながらツクヨミと伊織をいそいそと客間へ案内する。

アイツ、確か今、北条何とかって名乗ってたけど・・・ツクヨミって名前じゃないのかしら?
昨日伊織はたしかそう呼んでたのに・・・
ツクヨミは絵美奈を無視して客間へ入り込んで母と鏡を見ながら何やかやと話し込んでいる。

それを横目に伊織は絵美奈にこっそりと
「夕べはかなり吃驚したでしょう?あの後大丈夫だった?」
と聞いてきた。
「まあ、かなり驚いたけどね、大丈夫だった、って何が?」
と絵美奈が答えると、
「ふうん、なんともなかったようだね。空間移動をすると気分が悪くなったりする奴が結構居るんだけど、巫女姫はやっぱり特別なのかな・・・」
と伊織は首を捻っている。

「ねえ、そういえば巫女姫って、昨日も言ってたけど何のこと?」
と絵美奈が聞いたとき、
「伊織!」
とツクヨミに呼びつけられ、伊織はそそくさとその傍に駆け寄った。

母がお菓子でも、と言ってキッチンに向ったので絵美奈は代わって床の間の前で鏡を手になにやら話し込んでいるツクヨミと伊織の傍に近寄った。
「あの・・・ツクヨミさん・・・?」
絵美奈がそう声を掛けるとツクヨミはいきなり絵美奈の腕を掴んでぐいと引き寄せた。
「きゃっ」と悲鳴を上げて倒れるように座り込むと、ツクヨミの深緑色の瞳がすぐ間近に見えて絵美奈は思わず赤くなった。

「その名はやたらに口にするな。俺の事は朋之と呼べ。いいな」
ツクヨミ、いや朋之は小声で口早にそう囁くと絵美奈の腕を放した。
「ごめんなさい・・・」
絵美奈が口ごもるようにそう言うと、伊織が
「では通称ともりんと言うことで」
とチャカす。

朋之は
「誰がともりんだっ!」と低く一括すると伊織はひえ〜、と言って見事に一回転していた。
この二人一体何なんだろう・・・
二人とも不思議な力を持っているようだけど・・・

そのとき母が飲み物とお菓子を持ってきたので二人は居住まいを正した。
かしこまって飲み物を手に母に礼を言う姿はどちらもいいところのお坊ちゃん然としている。
母が去った後、
「あの・・・貴方達は一体何者なの?この鏡に何か特別な事でもあるの・・・?」
と絵美奈は恐る恐る切り出した。

朋之は絵美奈をじっと見詰めて
「お前は本当に何も気付いていないんだな、それだけの力を持っているというのに・・・」
と言うと、伊織のほうを向いてめんどくさそうに一言
「説明してやれ」とだけ言った。
伊織はそれを受けておもむろに話し出す。

「えっと、この鏡はこの世にあるまじき異類異形のものを封印している鏡なんだ。そして君は、正確には君の一族のものはその封印する力を持っているはずなんだ。
代を重ねるごとにその力は弱まっていくが、何代かに一度突然変異のように強い力を持つものが現れる。
この鏡にこの地の異形どもを封印したのもその強い力を持つ君のご先祖の誰かだろう。
この鏡の様子からすると百年以上前のようだけどね。
今、この鏡の力は弱まって、封印されていた数々の悪鬼魍魎たちがこの世に甦ろうとしている。
鏡にヒビが入ったって事は封印が解けるのが近いということだ。見てご覧」

伊織がそう言って鏡を絵美奈のほうに差し出す。
その手にとって間近に見ると鏡にはさらにおきなヒビが何本か増えていて、そのヒビを結ぶようにして細かい無数のヒビ割れが出来ている。
「この鏡は長く封印の役目を果たしてきて、もう限界なんだ。だから今度は君が新しい封印の鏡を作ってこの地の平穏を守らなくちゃいけない。
君の一族に力と引き換えに与えられた使命だ。僕たちは新しい鏡を作る巫女を探し、この地の安寧を保つためにやってきた、というわけさ」

「新しい鏡を作る・・・っていわれても、私、鏡の作り方なんて知らないわよ」
絵美奈が慌てて言うと、
「鏡は手近にあるものなら何でもいい。その鏡に力を与えるのがお前の役目だ」
これまで黙っていた朋之がそう言った。

「私にそんな力があるとは思えない。だって・・・」
「まあ、今までそんな力を使うこともなかっただろが、それにしてもお前の一族はそろって健忘症か?重要な事は何も伝わっていないんだな」
絵美奈が手に取っている間にもヒビは一面に広がっていくようで、絵美奈は何だか気味が悪くなった。

「とにかくこの様子では今夜当たり危なそうだ。どうしますか、朋之様?」
伊織にそう訊かれて朋之はしばらく考えていたが
「俺はこの当たりを少し調べてくる。お前は今夜はこの家で巫女姫についていてやれ」
と言って立ち上がった。

「ちょ、困るわ、こんなの置いていかれたら・・・」
絵美奈もそう言って慌てて立ち上がる。
「こ、こんなのって、それはないんじゃないの、巫女姫様」
情けない声を出す伊織に絵美奈は
「私は、園部絵美奈、変な呼び方はそれこそやめて頂戴」
と言い放ち、すでに玄関に向いかけている朋之を追った。

「ちょっと待ってよ、大体あんたたち一体何なの。いきなり現れて勝手な事ばっかり・・・」
朋之はその言葉に
「だから俺は北条朋之でアイツは松野伊織、二人ともただの高校生だよ」
と投げやりに答える。

「嘘ばっかり。あんたもアイツも普通の人間じゃないでしょう・・・」
「失礼な事言うなよ。俺たちはれっきとした霊長目、猿亜目、狭鼻下目、ヒト上科、ヒト科、ヒト属の動物だ」
朋之は絵美奈にまともに答える気はないらしい。
「ま、アイツは・・・」
靴を履きながら朋之は伊織を指差して
「俺の下僕だがな」 と言った。

「いや、僕は正確には貴方の下僕ではなく貴方のお姉さまのげ・・・」
伊織がそこまで言った時靴べらが宙を舞い、スコンと伊織の頭に当たった。
「余計な事を喋ってないでしっかりと護衛しろよ」
朋之はそう言って出て行った。

絵美奈は仕方なく伊織を部屋に隠すことにする。
母は朋之と伊織が二人とも帰ってしまったと思いこんでいる。
部屋で机の上に鏡を置き、絵美奈は椅子に腰掛けて時々ちらちらとその鏡を眺めながら過した。

伊織は何を聞いてもあれ以上の事は教えてくれず、だんだんと話す事も無くなり気まずい沈黙だけが流れていく。
時間の流れってこんなに遅かったっけ、と思いつつ絵美奈は机に教科書を広げ英語の課題をこなし始めたが、勉強になど少しも集中できなかった。

それでも時は過ぎ、夕闇に包まれたと思ったらすぐに夜になった。
伊織は食事は要らないという。
確かに一食ぐらい抜いてもさして問題はないだろうが、あの不思議な力を思い起こすと、やはり普通の人間ではないから食事も必要ないのでは・・・などと思ってしまう絵美奈だった。

ニコニコと愛想のよい笑顔を見ていると悪い人間ではなさそうだが、仮にも男の子と同じ部屋で夜を過すのはまずくないか・・・
今夜は一睡もできそうにないわ・・・
絵美奈は横目で伊織をちらりと見やってからまた鏡に目を移した。
鏡のヒビは時と共に少しずつ増え、しかも深くなっていくように見える。
これが完全に壊れてしまったら・・・

絵美奈はたまりかねて伊織に声をかけた。
「ねえ、さっきも言ったけど私にそんな力があるとはとても思えない。それに封印するってどうすればいいのか全然分からないし。
それ以前に貴方たちは本当に一体誰なの?」

「大丈夫、君は凄い力を持ってる。あのツクヨミがそう認めたんだ、自信を持って大丈夫だよ。僕たちは君と同じ特別な力と役割を定められた一族の末裔、ってとこかな。
ツクヨミは、もう気付いていると思うけど、月読命――ツクヨミノミコト、つまり月の神様の化身だ。そして僕は・・・」
そのときピシッと言う音がしてまた鏡にひび割れが走り、ごく小さい鏡面のかけらが弾けとんだ。

伊織が弾かれたように突然立ち上がる。
絵美奈もまた何か心に響くものを感じてつられて立ち上がった。
「巫女姫、何か鏡を持ってる?この鏡のほかに・・・」
伊織に言われ絵美奈は鞄からコンパクトを取り出した。
「お化粧用のこんな鏡しかないけど・・・」
伊織はにこっと笑って
「ま、間に合わせには充分か。」

と言うとそうだ、今日は靴を履いておいたほうがいいな、と言って玄関へと向う。
「巫女姫、急いで!」
そう言われ絵美奈も慌てて上着を羽織り、階段を駆け下り玄関に向った。
途中母に見付かったが、母は絵美奈にも伊織にも気付かぬように黙って通り過ぎてしまった。
伊織がまた不思議な力を使ったのだろうか・・・
二人で玄関から外へ出ると伊織に手をとられまた空間を移動した。


  3.

今度連れて行かれたところは、都心のビル街。
華やかな光の渦を眼下に見下ろす高いビルの屋上だった。
すぐ傍に朋之も立っていて、二人の姿を認めすぐに駆け寄って来た。
「巫女姫、このあたりは地脈の裂け目が一番地上近くにまで接しているところだ。感じるか、出てくるぞ・・・」
朋之に言われ、指差すほうを見ると大地が音を立てて揺れ始めた。

「きゃっ、地震?」
足元が大きく揺れたので、絵美奈は立っていることが出来ず思わず隣にいた朋之にすがりついた。
地上では地面が幾筋にも割れて道路も建物も車も人も全てその裂け目に落ち込んでいくのが見える。
建物の倒壊する轟音に、裂け目に飲み込まれていく人々の悲鳴が入り混じり、まさに阿鼻叫喚地獄と言った感じだ。
その裂け目の最深部では真赤に煮えたぎったマグマが湧き上ろうとしているのが見てとれた。

自分もまた、今立っているこのビルもろともにその中に引きずり込まれていく、その恐怖に絵美奈は朋之に文字通りむしゃぶりついた。
「いや、怖い。助けて!」
「おい、しっかりしろ。お前が見ているのは幻覚だ」
朋之がそう言うがパニック状態になった絵美奈には耳に入らず、余計に力を込めて朋之にすがりつく。
絵美奈はもうだめだ、そう思って目を閉じた。

「まったくしょうがないな・・・」
そんな呟きと共に朋之が腕を掴んでグイと絵美奈の身体を引き離した。
「いやっ!」
心もとなさに目を見開いた瞬間、身体が軽くなったような気がしたと思うと、絵美奈は朋之に横抱きにされて宙を飛んでいた。

下はあちこちにぱっくりと口を開けた地面の裂け目からマグマが噴出し、わずかに残った建物の残骸を飲み込みながらさらに勢いを増し広がっていこうとしている。
漆黒の闇にうごめく真紅の化け物―――
これは、多分関東大震災クラスの地震が起きたのだろう。
被害は一体どれくらいになるのか。
いや、それより家族は?父や母、妹は無事でいるのだろうか・・・

「下ろして、私、家に帰らなきゃ、家族が心配だし・・・」
絵美奈はそう言ってもがいたが朋之は取り合わず、マグマの流れから突出している建物の残骸の上に着地した。
「落ち着け、大地と風の息吹を自分の感覚で捉えろ。地震など起きていないし地面も割れていない」
朋之はそう言って自分のすぐ隣に絵美奈をそっと下ろした。

その残骸にもすでに亀裂が広がっていてマグマに飲み込まれるのは時間の問題に思える。
そのとき突然すぐ傍でマグマが勢いよく吹き上げ、絵美奈は身体が焼き尽くされると思って悲鳴をあげて朋之に抱きついたが、不思議なことに足元はひんやりしたままで、揺れも感じなかった。

絵美奈が目を瞠って朋之を見上げると、朋之は黙って大きく頷いた。
「お前は強い力を持っている。その力の使い方がまだ判っていないだけだ。俺がその力を引き出してやる」
そう言って朋之は
「鏡を持ってきたか?」 と訊ねた。

ええ、とポケットからコンパクトを取り出して開けてみせる。
「こんなのしか無かったのか・・・」
朋之は一瞬絶句したが、絵美奈はその瞬間再び大地が大きくのたうつのを感じた。
絵美奈たちの立っている建物の残骸がぐらぐらと沸き立つマグマの中へと沈んでいく。
だが、そのマグマは絵美奈の脚に触れても、熱さなど感じないどころか触った感触さえなかった。

「気をしっかり持て。大地の本当の姿を自分の感覚で読み取るんだ」
そう言って朋之は絵美奈の手を取った。
手と手の触れ合ったところから大きな力が身体の中に流れ込んでくるような気がしたように感じたとき、絵美奈の目に先程までと変わらない大都会の風景が映った。

人間だけが恐怖に顔を引き攣らせ道端に倒れたり、あたふたと駆けずり回ったりしている。
狭いビルの入り口から押し合うように吐き出されてくる人々。
その様子は恐怖に我を忘れ完全に恐慌状態に陥っていた。
眼下の道路ではあちこちで衝突事故が起こり煙が出たりしていてこちらも逃げ惑う人々でパニック状態である。

絵美奈は朋之と共に大勢の車が行き交う道路を見下ろす歩道橋の上に居た。
周りでも人々が倒れこんだり、這って逃げようとしていた。
彼等の目に絵美奈と朋之の姿は映っていないらしい。

「あそこを見てみろ」
朋之に促され道路を見下ろすと、片道三車線の広い道路の真ん中に小さな裂け目が出来、黒い霧のかたまりのような朧気なものがそこから吹き出していた。
「あれは・・・」
「あれは妄蛾と言う異形の生き物だ。人の心に取り付いて幻覚や妄想を見せる。愚かな人間はすっかり騙されて我とわが身を滅ぼすというやつさ。
お前はその鏡にアイツを封じ込めるんだ」

「でも、どうすればいいのか分からないわ、あんな大きなもの」
黒い霧はそうしている間にもどんどん広がり、あたり一面を覆い始めている。
「鏡をあいつに向けて立ってろ!」
朋之はそう怒鳴ると自分は絵美奈の背後に立ち、後ろから抱きかかえるような形で絵美奈のコンパクトを捧げ持つ両の腕に自らの両手を添えた。

さらに、
「タケミカヅチ!」
と朋之が叫ぶと宙を舞い飛んでいた伊織がおう、と一声答えその腕を大地の裂け目に向けた。
伊織の腕から電光がほとばしり、その電光に撃たれた黒い霧が一点に収縮していく。

「封印の呪文を、早く!」
霧は小さく固まり、巨大な虫のような形になっていく。
細長い触手のようなものがその至る所から伸びていた。
「封印の呪文なんて知らないわよ!」
絵美奈はその得体の知れない生き物にコンパクトを向けたまま、背後の朋之にそう怒鳴った。

「お前は知っているはずだ。お前のうちにあるその呪文をお前自身の言葉で唱えればいい」
そういわれても・・・
自分のうちにある言葉・・・
そういわれれば胸のうちから何か湧き上がってくるものを感じる。
アマノシタシロシメスカケマクモカシコキ・・・

「ええと、この世にあってはならぬ数々の汚れよ、速やかに己が相応しき場所へと退くがよい」
伊織はなおも妄蛾に電撃を浴びせ続けている。
「目を見開いてしっかり見ろ!」
そんな言葉と共に朋之の手から絵美奈の身体に何かが流れ込んできたような気がした。

黒い生き物は急速に縮まり、小さな虫の姿になる。
「あれが、妄蛾の真の姿だ」
絵美奈は大きく頷き、言葉を続けた。
「汚れなき神の治めるべき地にお前たちの居場所はない。退かぬというのなら鏡の巫女の命に従い光り輝く至上の神に頭を垂れよ!」
そんな言葉が絵美奈の口を吐いて出た瞬間、コンパクトから閃光がほとばしり当たりを真白に照らし出した。

強い光に細められた絵美奈の目に黒い影が宙を飛んで鏡の中に吸い込まれるのが見えた。
その黒い影がすっかり消え去った時手にした鏡に強い衝撃を受けるのを感じ、後方へ弾き飛ばされそうになった絵美奈の身体を朋之が支えてくれた。

気がつくとあたりは元通り大都会のビル群の姿に戻っている。
人々も三々五々我に帰り、きょとんとして当たりを見回している。
「やったね、巫女姫様」
そういいながらすぐ傍に舞い降りた伊織が駆け寄って来た。
「まあ、何とかな・・・」
背後から絵美奈を支えていてくれた朋之がそう言って身体を離した。

「鏡を見てみろ。」
と言われてコンパクトを除いてみると鏡の裏側に何か黒いものがうごめいているのが表面を透かして見えるようだ。
すぐにそれは消えて元のただの鏡に戻ってしまったが。

「これ・・・」
と振り向いて朋之を見上げると
「ああ、お前が封印したんだ。初仕事にしては上出来だ」
と言って朋之が笑ったので絵美奈もつられて笑う。
なんだ、コイツ結構いい奴じゃん・・・
そう思った途端、
「毎回これじゃ敵わないから自分で力をコントロールできるように日頃から訓練しておけよ」
と真顔で言われてしまった。

朋之をその場に残し、伊織の力でまたあっと言う間に部屋に戻った絵美奈は
「訓練って言っても、どうすればいいのか・・・」
と伊織に言ってみた。
「ま、場数を踏むうちに何とかなっていくと思うよ。ツクヨミも君のこと気に入ったみたいだし」
伊織はどこまでも楽観的だ。

「え〜、そうは思えないけど・・・。そういえばツクヨミ、いや朋之さんはあんたのことタケ・・・何とかって呼んでたわね?」
絵美奈がそう聞くと、
「ああ、僕は建御雷―――タケミカヅチ、雷神の化身なんだ、一応ね」
とこれまたにっこり笑うとあっと言う間に姿を消してしまったのだった。

翌朝はニュースも新聞も夕べの怪事件のことで持ちきりだった。
都心の中心部が大地震に襲われたという妄想に何百人もの人々がいっせいに取り付かれ、大騒動を引き起こしたが、その原因は全く不明―――
これだけ大勢の人が同じ幻覚を見るなど前代未聞の事とて、中には宇宙人来襲説までまことしやかに言い立てる専門家までニュース画面に登場していた。

「ふ〜ん、私が寝てる間にこんなことが起こってたんだね〜」
と裕美奈がのんきそうに呟くのを聞きながら絵美奈は苦笑を堪えた。
それでも、パニック状態になった人々が引き起こした事故による損害は想像を超えるもので、命を失った人も大勢いた。
自分がもっと早く妄蛾を封印できていれば被害はずっと少なかったかもしれない・・・
そう思うと胸が痛かった。

自分も恐怖でパニック状態になりみっともなく朋之にしがみついてしまって・・・
そのとき突然、絵美奈はそういえば封印の間ずっと自分は朋之と密着していたのだという事に今更になって気付き、思わず赤くなった。
男の子とあんなに近寄ったのはそれこそ生まれて初めてだ。
そう思うと柄にも無く鼓動が早まってくるのを絵美奈は必死になって静めようとした。

ニュースではまだ被害現場の様子が映し出されている。
その画面に絵美奈と朋之が立っていたあの歩道橋もほんの一瞬だが映し出された。
妄蛾の這い出していた地面の裂け目はすっかり消えていたようだが・・・

それにしてもあんなちっぽけな虫一匹でこんなことが出来るなんて・・・
もっと大きくて強力なものが封印を解かれたとしたら、自分などに本当に押さえ込む事が出来るのだろうか・・・?
絵美奈はいまや貴重な封印の道具となってしまったコンパクトを眺め、そっと溜め息を吐いた。