神鏡封魔録


蠢動

  1.

憂鬱な気分を抱えたまま絵美奈が家を出、最初の角を曲がったところで伊織が
「おはよう!」
とやけににこやかに声をかけて来た。
驚く絵美奈にくるりと一回転してみせ、
「どう、似合うかな、僕、詰襟の制服って初めてなんだけど」
とおどけて見せた。

「あんた一体どうしてこんなとこにいるの?
それになんでウチの学校の制服着てるのよ・・・」
「なんで、って僕君と一緒の学校に通うんだよ、今日からしばらくの間。巫女姫の力が安定するまではボディガードをつけたほうがいいって、ともりんが言うから・・・」

「ともり・・・朋之さんが?」
絵美奈が顔を赤らめたのを見て
「ふうん、巫女姫もアイツが気に入ったの?」
と言う伊織に絵美奈は少しムキになって
「別に気に入ってないわよ!」
と、噛み付くように言った。

「そう?まあ付くのが僕で残念だろうけど、とにかくこれからしばらくは一緒にいることになるからよろしくね」
と伊織は茶化すように言った。
だから気に入ってないって、と言いながら、絵美奈は伊織のことをかなり手酷く扱っていた朋之の姿を思い出す。

「あんた、あの人に絶対服従なのね・・・」
「そう見える?」
「・・・違うの?あの人、あんたにこんな事させといて、自分はちゃっかり学校へ通っているわけ?」
伊織はそれには答えず、駅へと向かって歩き出す。

「あ、待ってよ。にしても、よく制服がすぐ手に入ったわね・・・」
と絵美奈は半ば呆れたようにった。
「ははは、いろいろ手はあるからね。通ってる学校はすぐ判ったし、その学校指定の洋服屋なんて簡単にわれるから・・・」
「でも、あんた学校、たしか桜英学園とかっていうところに通ってるんじゃなかったの?」
あの朋之と一緒の・・・

「うん、一応ね。でも僕には学校に通う必要なんてないから、どこだって大して変わらないんだ。
ただ、僕らくらいの年齢のものが昼間ふらふらしていると結構不信がられるから、高校生っていうのはなかなかいい隠れ蓑になるけどね。
ま、ともりんは大学まで行くつもりらしいから、僕も卒業までは付き合うことになるんだろうけど」
「ふうん・・・」
大学、か。
絵美奈は高校に入ったばかりでその先に進路についてはほとんど考えたこともなかったが、そういえば朋之は三年生だと言っていたっけ・・・

絵美奈の通う学校は電車を一度乗り換え自宅から約一時間の所にある。
駅の売店に置かれた朝刊紙はどれも昨日の怪事件の記事が大々的に報じられていた。
駅で電車を待ちながら絵美奈は伊織に
「昨日のあの場所・・・あのままにしておいて大丈夫なのかな・・・
あの妄蛾というのは何とか封印したけど、またあそこから変なのがでてきたら」
とそっと聞いてみた。

「うん、まあね・・・
本当はあの場所に新しく結印して完全に地脈の裂け目を封じ込んでから封印塚でも建ててしまえれば一番いいんだけどね、ま、いずれ巫女姫の力がもっと高まったらそうすることになると思うよ。
とりあえずはあの後ともりんが結界を張ったはずだからしばらくは大丈夫だと思うけど」

その言葉に絵美奈はずっと疑問に思っていたことを訊いてみる。
「ねえ、あんたたちそんな力を持っているのなら、どうして自分たちであの変なの・・・異類異形っていうのを封印しないの?
何で私なんかに・・・昨日はなんとかなったけど、またあんなのがでてきたら私一人ではとても無理だと思う」

不安そうな絵美奈の目に伊織も少し顔を曇らせて、
「残念だけど、僕らには彼らを封じることはできないんだ。それができれば苦労はない、というか、まず君には頼んでないと思うけどね」
と最後は絵美奈の気を引き立てるように軽い口調で言った。

その時絵美奈の友人遠藤千夏がホームに駆け上がってきて絵美奈の姿を見つけ走り寄ってきた。
「おはよう、絵美奈」
千夏はそう絵美奈に声をかけると次に伊織のほうを向いて不思議そうな顔をした。
絵美奈が困ったように
「あの、この人は・・・」
と口篭もっていると、伊織は
「僕は松野伊織、家は彼女の隣。しばらく一緒の学校に通うことになったのでよろしく」
と言ってにっこりと笑った。

「はあ、こちらこそ・・・」
千夏は初めはなんとも奇妙な顔をしていたがすぐに伊織のペースに巻き込まれ、すぐに昔からの知り合いのように意気投合して、夕べの事件のことなど話し込んでいた。
結局人懐こい性格なんだな、コイツ・・・

学校でも伊織は時期はずれの転校生ということですんなり収まって席も絵美奈の隣になってしまった。
今まで隣席だったクラスメイトはいつの間にか別の席にかわっている。
「また、変な力を使ったの?」
絵美奈が小声で訊くと、
「変な、ってのは酷いな〜、でも簡単な記憶操作はさせてもらったけどね。できるだけ揉め事は避けたいから」
と伊織はすまして答えた。

一人二人ならともかくクラス全員の、いや、下手をすれば学校中の人間の記憶を操作するなんて、と思うと何やら不気味な感じがしてくる。
一昨日から不思議なことの連続でいつの間にか伊織や朋之と仲間であるような感覚に陥ってしまっていたが、彼らは自分たちとは根本的に違うのだということを絵美奈は改めて痛感した。
この二人本当に信用していいんだろうか・・・
これほどの力をもってしても封印出来ないものを、自分が封印できると言うのもおかしな気がするし・・・

昨日の妄蛾は人間に幻覚を見せるのだと朋之が言っていたが、相手の記憶を操作して自分の都合のよいように操るというのも、やっていることはそう変わらないのではないか、絵美奈にはそんな風に思えてきた。
第一こんな風に人の記憶を塗り替えてしまえるなら、自分の昨日の体験も本当にあったことではなく、あったと思わされているのではないだろうか、そんな気さえしてくる。

伊織にしろ朋之にしろ、一昨日始めて会ったばかりであり、向こうは絵美奈のことをいろいろと知っているようだが、こちらは何も知らないに等しい相手なのだ。
放課後、伊織は当然のように絵美奈と一緒に帰ろうとする。
クラス中の誰もがそれを不思議にも思わない状況に、絵美奈はどこか薄気味悪いものを感じてしまった。

伊織はそんな絵美奈の顔を少し怪訝そうに見つめている。
いけない、こんな風に思っていることもこの相手には読み取られてしまう・・・
そう考えると何だか気が重かった。
身辺をガードすると言いつつ見張られているような気もする。
最寄駅に向かう道すがら、絵美奈はそれでも多少遠慮がちに
「ねえ、いつまで傍にくっついているつもり・・・?」
と訊いてみた。

自分ではそのつもりは無かったが言外に迷惑そうなニュアンスが出ていたのだろう、伊織は
「一応一日中巫女姫様の傍を離れるな、というのがともりんの命令だからね。
今夜は君の家で夜明かしだね。
ま、僕の本来の役目はアイツの護衛なんだけど・・・」
と両手を頭の後ろで組みながら答えた。

「へえ、そうなんだ・・・って、なにそれ、じゃ夜も一緒ってこと!?」
絵美奈がギョッとして訊ねると、
「まあ、そうなるね。あ、でも心配しなくていいよ。僕、巫女姫様に手を出す勇気なんてないからさ・・・」
と伊織はしれっとして答えた。

「そっちはよくてもこっちは困るわよ、男の子と一晩中一緒だなんて・・・!」
思わず大声になったせいか道行く人が振り返っている。
「冗談だよ、ちゃんと外で見張るから」
「そんな・・・いくらなんでもそんなこと、させられるわけ無いじゃないの・・・」

「別に僕にはそれくらいなんともないんだけど・・・ま、つまり、巫女姫様は僕のガードではお気に召さないと、そういうことだね」
と伊織はわざと拗ねたように言う。
「そうじゃないんだけど・・・」
伊織は絵美奈をじっと見詰めてから
「分かった、では巫女姫様のご意向をともりんに伝えてくるよ。取り合えず昼間は何の動きもないだろうし・・・」
と言う言葉もいい終わらぬうちに姿を消してしまった。

「あ、ちょっと待って・・・」
と慌てて言ったが多分その声は伊織に届いてはいないだろう。
絵美奈が彼らに対し疑念を持っているのを読み取って気を悪くしたのだろうか・・・
伊織のことが嫌だと言うつもりではなかったのだが、彼らと一緒にいると心の中を丸裸にされて覗かれてしまいそうで、気が重かったのは確かだ。
少し傷つけてしまったろうか・・・、そう思うと悪いことをしてしまったような気がした。

絵美奈はまっすぐ帰宅する気になれないまま、駅前の大きな書店に足を運んでみた。
日頃近寄ったことすらない古典文学のコーナーを覗いてみる。
幾つか並ぶ日本神話の本のうち比較的読みやすそうなのを手にとって見た。

月読命ツクヨミノミコトというのは、子供の頃絵本で読んだ記憶がある。
黄泉の国から生還した伊耶那岐命イザナギノミコトが禊を行い生まれた三人の神のうちの一人。
絵本では父伊耶那岐命から夜の国を治めるよう命じられたことになっていたように思う。

一方建御雷神タケミカヅチノカミというのは絵美奈はよく知らなかったが、天孫光臨の際の国譲りの時、素直に従おうとしなかった神様と力比べをしてこれを倒したという勇猛な雷神だった。
あの二人はこの神話の神々と何か関連があるのだろうか・・・
これまでは神話など所詮空想上のお話、絵空事だとばかり思っていたが・・・

結局ぱらぱらと立ち読みしただけで本屋を出、すこし重い気分で帰宅すると母が、
「お友達が来たので客間で待ってもらってるわよ」
と言ってキッチンから出て来た。
玄関には確かに見慣れぬ靴が一足並んでいる。
それが男ものの靴であることに嫌な予感を覚えながら客間を覗いたがそこには誰もいなかった。

もしかして、と二階に駆け上り部屋のドアを開けると、案の定朋之がベッドの端に腰掛けてくつろいでいるのが絵美奈の目に飛び込んできた。
「な、何であんたがこんなとこにいるのよ!?」
口をパクパクさせながらようやくそれだけ言うことが出来た絵美奈を横目で眺めながら
「何でって、伊織の護衛では気に入らないんだろう。だから俺が代わりに出向いてやったんじゃないか」
と朋之はどこか物憂そうに言った。

「そんなこと・・・」
どう言ったらいいか判らず慌てる絵美奈をからかうように朋之は
「それとも俺が来たのではもっと迷惑、だったかな?」
とうっすらと笑う。

「そんなとこに突っ立ってないで荷物を置いて座ったらどうだ?自分の部屋なんだし・・・」
「言われなくても判ってるわよ・・・!」
取り合えず鞄を置き、椅子に腰掛けたが妙に居心地が悪い。
これでは着替えもできないし・・・

話すことも無く気まずい雰囲気が漂うのを打開すべく絵美奈は
「あんたたち、ホントに一体何者なの?どこに住んで何やってる人たちなの?
何でそんな変な力を持っているのよ・・・」
と訊いてみた。

「そうだな、住んでるところは都内某所、一応昼間は高校に通っている。
ふざけた一族に生まれついてしまったため、欲しくも無い力と引き換えに厄介ごとを抱え込む羽目に陥った哀れな子羊といったところか。
大体のところ、お前と一緒だな」
「どこが一緒なのよ、私はそんな力・・・」
そう言いつつ絵美奈は伊織が、僕たちには封印は出来ないんだと言った言葉を思い出した。

「まあ、確かに俺たちも胡散臭く見えるんだろうが、とにかく昨夜のあんなのがぼこぼこ出てきちゃ困るだろ?
取り合えずあれを封じ込められるのは今はお前しかいないんだから、望むと望まざるとに関わらずお前には協力してもらう。
その代わりお前の身は俺たちが守ってやる。そのためお前には伊織を付けることにしたんだが・・・」

「ねえ、どうして・・・」
そう言いかけた時、いきなりドアが開いて妹の裕美奈が怒鳴り込んできた。
「ちょっとお姉ちゃん、また勝手に私の部屋に入ったでしょ!困るんだよね、こっちだっていろいろあるんだから・・・」
そう言ったきり裕美奈は入口で立ち止まりぽかんとして朋之を見詰める。
朋之は驚いた様子も無く「よう!」といって軽く笑みを浮かべた。

―――ワォ!、イケメン君だ・・・。お姉ちゃんにしては上々ジャン・・・。
同じ学校の制服じゃないみたいだけど、お姉ちゃんたら、どこでこんなの引っ掛けてきたんだろう・・・
突然そんな言葉が絵美奈の頭の中に流れ込んできた。
!!!
何、今のって・・・裕美奈の考えてること・・・だよね・・・
恐らく朋之も今のを読み取ったことだろう、そう思うと気まずさに顔が赤くなってきた。


  2.

そんな絵美奈の様子を気にも留めずに裕美奈はちゃっかりと朋之の隣に腰掛けると、
「ねえ、高校生だよね、どこの学校?名前、何ていうの・・・?」
と朋之を質問攻めにしている。
―――お前の妹か?よく似てるな
今度はそんな声が頭に響いてきた。

思わず朋之のほうを見遣るが、朋之は素知らぬ顔で
「君は中学生?何年かな?」
などと裕美奈に話しかけている。
どこを見て似ていると言うのだろう。
それは、顔は少し似ていると時々言われるが、性格は全然違うと思う。
にしても妹がこれほど積極的だとは今の今まで気付かなかった・・・

「ねえねえ、ギター弾ける?」
「え、ああ・・・」
「私さぁ、実は友達とバンド組もうと思って練習してるんだけど、よく判らないコードがあるんだ。教えてもらえないかなぁ?」
「ああ、いいけど・・・」
その返事を聞き終わる前に裕美奈は朋之の腕を取って自分の部屋へと引っ張っていってしまった。

一人取り残された絵美奈はしばし呆然としていたが、そのうちだんだん腹立たしくなってきた。
朋之がどうやら裕美奈に興味を持ったらしいことが何となく面白くなかった。
隣の部屋からは音量を絞ったエレキギターの音が漏れ聞こえてくる。

裕美奈の奴、バンドを組むなんて話、聞いてないわよ。
第一いつギターなんて買ったんだろう。
あいつのお小遣いで買えるとは思えないからきっと父さんにおねだりしたんだわ。
全く父さんたら裕美奈には甘いんだから・・・

朋之も朋之だ。伊織の代わりに私をガードするために来たんだとか言ってたくせに、これじゃ一体何しに来たんだか・・・
大体、私と初めて会ったときと随分態度が違うじゃないの・・・!

しばらくギターの音が聞こえていたがやがて静かになったので、絵美奈はどうしたのだろうかとやっぱり気になって、そっと裕美奈の部屋を開けてみると、妹が一人でギターを抱えて奮闘中だった。
「あれ、お姉ちゃん何か用?」
怪訝そうに振り向く妹に
「あの、アイツは・・・?」
と訊くと、
「え、お姉ちゃんの部屋に戻ったんじゃないの?黙って帰っちゃったのかな?」
と裕美奈はきょとんとした表情で逆に訊いてきた。

「そう・・・。」
「ねえねえ、彼氏とどこで知り合ったの?
ギターとっても上手!絶対また連れてきてよね。
あ〜あ、あんな人がウチのバンドに入ってくれたらな〜」
あまりいろいろ突っ込まれても面倒なので絵美奈は適当に切り上げて部屋に戻ろうとして、ふと階下に下りてみた。
何故か判らないが朋之が鏡の傍にいるような気がしたのだ。

思ったとおり朋之は客間で床の間に飾られた鏡に手を触れ、何やらブツブツと呟いていた。
絵美奈がそっと後ろに立つと、朋之は絵美奈に背を向けたままで、
「取り合えず応急措置を施したが時間の問題だな・・・まあ、二、三日くらいは大丈夫だろうが」
と言った。

「応急処置?」
絵美奈が問うとそれには答えず朋之はゆっくりと立ち上がって振り向くと
「ほら」
と上着のポケットに手を入れ何かを取り出して絵美奈のほうにその手を差し出した。
つられて出した絵美奈の手に金色のピンブローチが落ちる。

「女の子だからそんなのがいいだろう。当面は必ずそれを身に付けているようにしろ、いいな」
手のひらに載せられた蝶の飾りのついた綺麗なピンブローチを眺めながら絵美奈が、
「これ、なあに・・・?」
と訊ねると、朋之は軽く笑って、
「まあ、お守りのようなものだと思えばいいさ」
と言っただけで絵美奈の横をすり抜けて玄関へと向かった。

「あの・・・帰るの・・・?」
絵美奈が慌てて尋ねると
「ああ、多分今夜は何も起きないと思うから」
「えっ、でも・・・」
「俺たちがいたら迷惑、なんだろ?」
「そんな・・・ことは・・・」
確かに伊織にはそれに近いことを言ってしまったかもしれないが・・・

朋之はそう言って出て行こうとしたが、ふいに立ち止まりくるりと振り向くと、
「そうだ、妹っていうのは結構可愛いものなんだな、よろしく言っといてくれ」
と言った。
裕美奈と結構楽しそうに話していた朋之の姿を思い出し、
「あの子の記憶、消さなかったのね・・・」
と絵美奈は思わずポツリと呟いた。

「あのな、俺たちはそうやたらに人の心を読んだり記憶を操ったりしないんだ。
どうしても必要だと判断した時以外はな。
伊織の奴はどうしようもない頓馬野郎だが一応アイツの名誉のためにも言っといてやるよ。じゃあな」
朋之はそう言うと静かに玄関から出て行った。
すぐに絵美奈も後を追って外へ出たが、朋之の姿はもう随分と遠ざかっている。

やっぱり怒ったよね・・・
絵美奈は取り合えずピンブローチをポケットに突っ込むと、なんとも重い気分で客間に戻り鏡を手にとって見た。
応急処置を施したとのことだが、どこと言って変わりはないようだ。
しばらくためつ眇めつ眺めてから鏡をそっと元に戻し、絵美奈は部屋へと向かった。

途中もう一度裕美奈の部屋を覗いてみると妹はまだギターと格闘中だった。
「まったく、ギターを買ってもらったなんて少しも知らなかった。ずるいぞ、裕美奈ばっかり・・・」
「えへへ、ごめん。こないだの試験で成績がちょっと上がったからさ。でもお姉ちゃんの勉強の邪魔にならないよう家では音を出さないようにしてたんだよ。これでも気を使ってるんだから・・・」
床に散らばったギターの教本を掻き分けて腰を下ろすと絵美奈は
「それでアイツちゃんと教えてくれたの?」
と訊いてみた。

「ふ〜ん、お姉ちゃん、やっぱり気になるんだ」
そう言ってニヤっと笑った裕美奈の顔を見ながら、妹なんて少しも可愛くない!と心から思う絵美奈である。
「大丈夫、やっと出来た彼氏だもんね、お姉ちゃんから奪っちゃうなんて残酷なことしないから安心していいよ。ちょっと惜しいけど・・・」

“やっと出来た”だけ余計だ。しかも彼氏なんかじゃない!
そんな絵美奈の思いをよそに、裕美奈は軽くワンフレーズ弾いて見せた。
「ここんとこの指使いがどうしてもうまくいかなくて綺麗に弾けなかったんだけど、バッチリ教えてもらったから」
そう言ってにこっと笑った顔を見て、絵美奈は朋之はこういうコが好みなのかな、とふと思った。

絵美奈は部屋へ戻るとすぐに貰ったピンブローチを取り出してみた。
凝った細工の綺麗なものだがこちらも特別何かありそうなものには見えないが・・・
それでも男の子からこんなものを貰ったのも初めてだ。
そう思うと、くれたのがあの朋之でも絵美奈は少しだけ嬉しかった。

その晩は朋之の言葉通り特に何事も無く過ぎ、翌朝、件のピンブローチを襟元に刺し家を出た絵美奈は、伊織が昨日と同じ場所で伊織が立っているのを見て少なからず驚いた。
「あ・・・!」
「よっ、お早う巫女姫様!」
と屈託の無い笑顔を見せる伊織に
「もう来ないのかと思った。昨日は何だか気をわるくしたみたいだったし」
と絵美奈は戸惑いながら答える。

「じゃあ、少しは気にしてくれたんだ。いや、だってさ、巫女姫様は僕のこと嫌いなんだと思ったから」
「それは・・・本当は少しだけ気味が悪かったけど、でも、私のためにわざわざ転校までしてくれたのに悪かったわ。ごめんなさい・・・」
伊織はクスクスと笑うと、
「そんなに気にしてくれたとは光栄だね。まあ、さっきのは冗談半分、巫女姫はともりんに会いたがっていたみたいだから、お膳立てしてあげたのさ」
と言って片目をつぶって見せた。

「別に会いたかったわけじゃ・・・」
「そう?まあ、確かに僕たちはかなり怪しい存在なんだろうね。でも僕は今の状況、結構気に入ってるんだ、これはともりんには内緒だけどね」
と言うと絵美奈の襟元に目を留めて、
「それ、ともりんが・・・?」と訊ねた。
「え、うん。当面はいつも身につけてろって」

伊織が珍しく意味深に笑ったのを見て絵美奈は
「なに、どうしたの?」
と慌て気味に訊ねる。
「いや、あの澄まし屋がどんな顔して女物のアクセサリーなんて買ったのかな、と思ってさ・・・」
伊織はくすっと笑うと
「いいな、巫女姫は。月読ツクヨミ様は僕には冷たいから・・・。おっと、この名は禁句だったっけ・・・」と続けた。

「あんたたちってホント、よくわかんない人たちね。仲がいいんだか悪いんだか・・・」
絵美奈が呆れ気味に言うと
「うん、僕の方はともりんが大好きなんだけど、向こうは野郎には興味ないってつれないんだ」
とそんな軽口が返ってくる。

「気障で性悪でいけ好かないって言ってたくせに・・・」
「あはは、それもまた真実、だけどね」
どちらが本音なのかよくわからない。
伊織は朋之から結構酷い扱いを受けていたようだったが、不思議と彼を本気で嫌っているようには感じられなかった。
朋之のほうも、どうしようもない頓馬野郎だと言いながら、なにげに伊織のことを庇っていたし。

この二人が実のところどういう間柄なのかすらつかめないが、伊織の笑顔を見ているうちに、そんな事はどうでもいいように思えてきた。
「そういえばあの人・・・朋之さんは応急処置をしたとか言ってすぐ帰っちゃったけど、何しに来たのかなあ・・・」
「おや、随分と残念そうだけど、やっぱり一晩一緒にいたかったわけ?」
「ちょっと、どうしてそういうことになるのよっ!」

絵美奈の剣幕にちょっとたじたじになりながら
「そんなにマジギレしないでよ、巫女姫様。軽いジョークでしょー。
でも、ともりんは明日くらいまでは何とかあの鏡、持ちこたえられるだろうって言ってたから、もう一晩くらいはゆっくり眠れると思うよ」
と伊織は最後のほうは結構真剣な顔になって言った。

「あの人本当は何をしていったの?」
不信感を露にした絵美奈の問いに伊織は
「そうだね・・・、ともりんが何も言わなかったなら僕から言うのも何だし、もう一度直接本人に聞いてみたら?
ま、君の家の周りに魔封じの結界を張ったのは確かだと思うけど」
と答える。

「魔封じ?」
「この間の黒猫、覚えてる?アレはただの使い魔だけど、アレを操っているものが居るはずだしね。そいつに君のことをあまり知られたくないからね」
絵美奈はあの猫の目つきを思い出し背筋が寒くなった。
燃えるような瞳で絵美奈を睨みつけていたあの黒猫―――
まるで絵美奈のことを憎んでいるような目だった。

「なんだか、気味が悪い・・・」
「大丈夫だよ、巫女姫にはそれがあるじゃないの」
伊織はそう言って胸に挿したピンブローチを指し示した。
「でも、そんなことが出来るなんてあんたたちやっぱり普通の人間じゃないじゃない。
あんたたちは神様・・・なの・・・?」
絵美奈のその言葉に伊織は何ともいえない複雑な表情を見せた。

やがて昨日とほとんど変わらない学校生活が始まった。
だが、なぜだろう、絵美奈には周囲がやけにざわついているように感じられた。
時折誰かの声が頭の中にパッと響いてくる。
授業中しんと静まり返った時に、突然街中の雑踏のような音とともに誰かの言葉が流れ込んできたりした。
昨日、絵美奈の声が頭に響いた時と同じような感じだ。

なんだろう、これ・・・
そう思って伊織の方を見遣ったが伊織は他のことに気を取られているようで、絵美奈には視線を向けなかった。
昼休み、絵美奈は人気のない校庭の隅で、
「朝からなんだか変な声が聞こえたりするんだけど」
と伊織に言ってみた。

「ああ、それは巫女姫様が自分の力を自分で自覚するようになってきたからだと思うよ。
そのうち、聞きたい事を自分で選べるようになるから」
「私の力?」
「そ、巫女姫様にも僕らと同じように人の考えを読み取る力があるってこと。
少しずつだけどそれを自分でコントロールできるようになるはずだ」
伊織がそこまで言った時、空を切って飛んできた鳥が二人のすぐ傍に立つ木の枝に止まった。

黒い斑のある青灰色の羽の、小ぶりだが精悍そうな鳥だった。
―――建御雷神タケミカヅチノカミよ、月読様の御召しである。至急参られよ
そんな声が頭に響いてくる。
おうっ、と一声聞こえたと思ったら、伊織の姿は消え、鳥もいつの間にかいなくなっていた。


  3.

しばらくその場で待ってみたが伊織が戻ってくる気配は無い。
結局放課後まで伊織は学校に戻らず、仕方なく絵美奈は伊織は気分が悪くなって早退したことにした。
担任もクラスメイトも大して不審がりもしないのは、伊織が予めそういう暗示をかけているのかもしれない。
絵美奈は取り合えず部活を終え、帰宅してから塾に向かった。

いつもどおり途中千夏と落ち合って並んで講習を受けたが、学校でと同様時折全然知らない誰かの声が頭に響いてきてかなり閉口させられた以外は特に変わったことも無く絵美奈は家路に着く。
すっかり暗くなった道を家へと辿る道すがら、絵美奈は鋭い視線を感じ振り向いた。

通りの向こう側の塀の上に黒い猫が座ってじっとこちらを見ている。
あの猫だ・・・
だれぞの使い魔だと伊織の言っていた・・・
その瞳の怪しい煌きが絵美奈に強い不安を感じさせる。

金縛りにあったように立ち尽くしていた絵美奈は
「おい、どうした?」
そんな声と共にいきなり肩に手を置かれ、飛び上がらんばかりに驚いた。
その瞬間に猫はふいと横を向きあっという間に塀の上を駆け去ってしまった。

恐る恐る振り向いた絵美奈の瞳に朋之の顔が映る。
「・・・大丈夫か?幽霊でも見たような顔してるぜ」
「あ、あんたがいきなり現れたりするからでしょう!どうしてこんなトコにいるのよ・・・」
「どうしてって・・・」
もしかしてずっと私の事見守ってくれてたのかな・・・
そう思って朋之の顔を見上げるが、相手はじっと猫の消えた方を見ていた。

「あの猫・・・前にも見たことがある・・・」
あんたたちと初めて会った同じ日に・・・
絵美奈の言葉に朋之は、猫の行方を捜すように視線を宙に浮かせたまま
「ああ」
と呟いた。
―――俺が思っている以上に事は厄介かもしれないな・・・
頭の中にそんな言葉が過ぎり、絵美奈は朋之を見上げる。

「伊織君が言っていたけど、あの猫は使い魔で、あれを使っている者がいるはずだって・・・。それ、本当なの・・・?」
突然強い不安感に襲われ、絵美奈は朋之の服の袖を掴んだ。
朋之は少しためらうようなそぶりを見せたが、すぐに
「ああ、そういうことだ」
と言った。

「私、なんだか、怖い。あの猫・・・」
「・・・」
「ねえ、私を守ってくれるって言ってくれたよね・・・ずっと傍に居てくれるの・・・?」
「お望みとあらばそうしてもいいが・・・」
朋之はそこまでいって軽く笑みを浮かべると、
「男と一晩一緒に過ごすのはまずいんだろう?」
と続けた。

絵美奈は自分の言った言葉が急に恥ずかしくなって慌てて朋之から離れた。
やだ、そんなつもりで言ったんじゃないのに・・・私は・・・
そう思いつつ自然と顔が赤くなってくる。
いけない、この人は私の考えたことが判ってしまうんだった・・・
と絵美奈は慌てて他のことを考えようとするが、そうすると余計に一昨夜ずっとこの相手にしがみ付いていたこととかが思い出されてしまった。

そんな絵美奈の様子を可笑しそうに眺めながら、
「昨日も言ったが、俺たちはやたらに人の心を読んだりしない。余計な心配は無用だ。」
と朋之が言う。
「私は別にあんたのことなんて・・・」
と言ってしまって、これでは墓穴を掘ったようなものだと思ったが後の祭だ。
ぷいと横を向く絵美奈の顔をみて、朋之は再び軽い笑みを浮かべた。
コイツ、ホントに性悪だわ、全く。

「判ったよ、そんなに心配なら今夜は一緒にいてやる。
昨日かけた術がまだ利いているとは思うが、伊織の奴は使いに出してしまったし、万一何かあったとき俺はアイツほど早く動けないからな。」
「使いに?」
「ああ、急用ができたんでな・・・
それより、お前の家では思うように動けない。俺と一緒に来てもらおう。」

絵美奈が
「え、今から?」
と躊躇っていると、朋之は絵美奈の髪に刺したピンを一本引き抜き軽く息を吹きかけた。
ピンは見る間に人型となり、絵美奈そっくりの少女に変わる。
朋之が荷物を渡すよう促したので、絵美奈は慌ててコンパクトを取り出してリュックをその少女に渡した。

「いけ。」
朋之がそう言って前を指差すと、少女ははい、と答え、くるりと背を向けてそのまま家への道を歩きだした。
絵美奈は呆然とそれを見送るしかない。

「多分明日の朝くらいまではあれで誤魔化せると思う。」
「何だか信じられない・・・」
「よくできてるだろ?じゃ、時間もあるし、電車でいこう。どこかで食事もしないと巫女姫様のお腹が悲鳴をあげそうだしな・・・」

との朋之の余りに現実的な言葉にかえって違和感を感じた絵美奈が
「何だか、不思議ね。神様が電車に乗るなんて」
と言うと、
「空を飛んで行ってもいいが、今の時間は人目につきすぎる。
それに俺はこの世界では出来るだけ普通の人間でいたいんだ」
と言う答えが返ってきた。
この世界、ということはこの人にはまた別の生きる世界があるのだ。
それがどんな世界なのか絵美奈には想像も出来ないが・・・

朋之と二人で電車に乗って出かける―――絵美奈にとってはなんとも不思議な状況だが、端から見れば何の変哲もない高校生がデートしてるようにしか見えないようだ。
多少会話が途切れがちではあるが、それでも朋之もそれなりに気は使ってくれているらしい。
そう思うと、時折気紛れに向けられる視線や笑顔を受け止める度、絵美奈は自然と心が浮き立ってくるのを押えられなかった。

二度ほど電車を乗り換え下りた駅で食事を済ませ、絵美奈が連れてこられたのは広大な邸宅が建ち並ぶ高級住宅街の一角にある小奇麗な洋館だった。
ゴシック風の門を潜り木立の中の石畳の道を辿ると、ポーチに縁取られたお洒落な建物の玄関に着く。
ぽかんと口を開け周囲を見回す絵美奈に、朋之は凝った細工のドアノブの付いた木製の玄関扉を開け中へ入るように促した。
中は品良く飾られた広い玄関ホールになっていて、奥には二階へと続く立派な階段が見えている。
吹き抜けの天井からは豪華なシャンデリアが下がっていた。

「一応俺たちが今使っている家だ。通いの使用人がいる他は伊織と二人きりだから、こんな大きな家は要らないんだが・・・」
朋之はそう言って階段の脇の廊下へと進み、一番近くのドアを開けた。
そこは応接間になっていて、やはり贅沢に飾られた調度に取り囲まれ、数脚のソファと低いテーブルが置かれている。
朋之は絵美奈に掛けるよう示すと、自分もテーブルを挟んで向かい合わせのソファに腰を下ろした。

「随分立派な家に住んでるのね」
壁にかかった油絵やタペストリー、並べられた調度棚などに目を奪われ、絵美奈がキョロキョロしているのを、朋之は肘掛に置いた左手で頬杖をつき、組んだ脚をぶらぶらさせながら物憂そうに眺めている。
「これくらい、そう珍しくもないだろう」
朋之はそう言ったきり背凭れに寄りかかると目を窓の外に向けた。

外はもうすっかり暗くなっている。
静まり返った部屋に時計の音だけがこだまするのに堪えかねて、絵美奈は
「ねえ、そういえば、伊織君は何時戻って来るの?」
と訊ねてみた。

「さあ・・・、早ければ明日には戻って来るだろうけど、まあ、アイツもあれでいろいろあるからな・・・」
朋之は顔を向けもせずに答える。
―――じゃあ、今この家には二人きりなんだ
そう思うと心臓が高鳴ってきそうで絵美奈は慌てて別のことを考えようとした。

何となく気まずい沈黙を打ち破るため、絵美奈は朋之に話しかける話題を必死に探す。
「あの、昼休み綺麗な鳥が飛んできたと思ったら、伊織君と一緒にいなくなってしまったけどあの鳥は・・・」
あの鳥は確かに、月読様のお召しだと伊織に告げた。

「ああ、あれは・・・」
朋之は左袖を軽くまくると、時計と共に嵌めていた繊細な細工の施された細い金のバングルを外して掌に載せると、先ほど絵美奈のピンにしたように軽く息を吹きかけた。
そのとたんバングルは宙に舞いすぐに忙しく羽ばたいている鳥に変わった。

鳥はやがてゆっくりと朋之の肩に止まる。
「術者の遣ういわゆる式神って奴だ。この鳥はチョウゲンボウ。鷹狩に使う鳥なんだぜ」
「わあ、すごい・・・羽の色がとっても綺麗・・・」
そう言って絵美奈がそっと手を触れようとしたとたん、鳥は一筋の赤い光に変わって朋之の手首に巻きつき、元のバングルに戻った。

「あっ・・・」
朋之は笑いながら袖を直し、
「残念ながら、コイツは俺にしか懐かないんだ」
と言う。
「ふうん・・・」
やっぱり普通の人間とは思えない・・・大体鷹狩なんて普通の高校生はやらないだろうし・・・

またしばらく沈黙が続いた後、絵美奈があくびをかみ殺すのを見て、
「疲れているなら二階で休むか?
使っていない客間がいくつもあるし、ちゃんと中から鍵もかかるから」
と朋之はそう言って立ち上がろうとした。

「朋之さんも休むの?」
絵美奈もまた立ち上がりながらそう訊ねた。
俺のことは呼び捨てでいいよ、といいながら朋之は
「俺はここにいる。何かあったらすぐ駆けつけてやるから、少し身体を休めろ。
ここんとこ碌に寝てないんだろ?」
と言う。

「じゃ、私もここにいちゃ駄目かな・・・」
「それは、俺は構わないけど・・・」
知らない家で一人きりで眠る気にはなれない。
それならまだここで知った相手と一緒にいたほうが心強い気がした。

朋之はそれなら、と言って部屋を出るとしばらくしてから、毛布と飲物を持って戻って来た。
「夜は結構冷えるからな」
そう言って渡された毛布に包まり、暖められたマグカップを手に取る。
ホットココアが知らぬ間に冷えていた身体を温めてくれた。

「こんなこと、伊織には言うなよ。アイツは口うるさくてかなわないからな」
少しばかり照れたようなぶっきらぼうな口調がなんだか可愛く感じられる。
伊織に冷やかされるのが嫌なんだろうな・・・
「うん」と頷きながら、なんだかんだ言ってコイツ結構優しい―――絵美奈は第一印象とは随分違う朋之の一面に触れ、少しばかり愉しくなった。

「それを飲んだらホントに少し眠るといい」
そう言いながら朋之は毛布と一緒に持ってきた雑誌を手にとり、読み始めた。
「一応言っといてやるが、俺、発育不全には興味ないから安心して・・・」
その途端、絵美奈は丸めた毛布を朋之めがけ投げつけた。

「ひでえな〜、そっちが一緒に居てくれって言ったくせに・・・」
「言っていいことと悪いことがあるでしょー、人が気にしてることをっ!」
「ふ〜ん、やっぱり気にしてるんだ」
そう言って揶揄を含んだ笑みを見せながら毛布を投げ返してくる相手の端正な顔を睨みつけながら、
やっぱりコイツ根は性悪だわ!
絵美奈は改めてそう思った。

やがて朋之はソファにかけたまま軽い寝息を立て始めた。
色白の肌に長い睫が影を落としているその寝顔を見ていると、確かにかなりの美形なんだろうとは思うが・・・
ずり落ちた毛布をかけなおしてやってから、絵美奈もまたソファに身体を埋めそっと目を閉じる。
だた目を休めるだけのつもりが、いつの間にか寝入ってしまっていたらしく、絵美奈はガラスが割れるような音でハっと目が覚めた。

中途半端に眠ってしまったせいか、少しばかり痛む頭を押えながら身体を起こすと、朋之も頭を軽く振りながら、
「聞こえたか?鏡が・・・」
と言った。
「そうか、あれは鏡が割れる音だったんだ・・・」
「ああ、いつの間にか二人とも寝入ってたんだな・・・
今夜はもうでてこないと思ったのが油断だったな」
朋之はそう言うと窓辺に走りより、観音開きの窓を一杯に開けた。

初秋の夜風が部屋の中へとなだれ込んでくる。
「どうするの!?」
絵美奈が驚いて叫ぶと
「行くぞ、早くしろ!」
そう言って朋之は先程のバングルを外し外に放り投げた。

バングルはすぐに鳥の形になり、見る間に大きくなっていく。
朋之は慌てて駆け寄る絵美奈の身体を抱きかかえると窓枠に脚をかけて身を浮かし、そのまま鳥の背に飛び乗った。
「いや、ちょっと、何これ・・・」
鳥はそのまま急上昇すると速度を増して飛び始める。
眼下に見える町並みがどんどん小さくなり、絵美奈は恐怖に眩暈がした。


  4.

朋之は絵美奈の身体を支えながら、
「感じるか?西の方角だ。」
と叫んだが、そう言われてもどちらが西かすら絵美奈にはよく判らない。
急上昇のせいか気分が悪い。
先程からの眩暈のせいで絵美奈はバランスを崩して倒れそうになった。

「危ない、しっかりつかまれ!」
身体に回された腕に力がこもり、グイと引き寄せられた。
「そう言われても、何処につかまればいいのよ・・・」
風圧に吹き飛ばされそうになりながら絵美奈は呟く。

「全く手間のかかる巫女様だ・・・」
朋之はそう言って絵美奈を強く抱き寄せた。
「お気に召さないだろうが、しばらく俺につかまっていてくれ」
強い風に体中を打たれ、髪も服も大きく音を立ててはためく中、絵美奈は朋之の背に腕を回し必死にしがみ付いていた。

どれほどそうやっていたのか、
「飛び降りるぞ」
と言う言葉とともに、ふいに身体が浮き上がったような気がしたと思うと、絵美奈は朋之とともに宙を飛んでいた。
鳥は先程と同様に一筋の光となって朋之の腕に巻きつき、そのままバングルに戻る。
ゆっくりと下降しながら着地したのは、昨日とは打って変わって山間部の荒れ寂びれた草原といった感じのところだった。
あたり一面に黒い影が飛び交い、その一部が時折月明かりを反射してきらきらと光っている。

「もう大分あふれ出てしまったな」
「・・・!遅かったの?」
「いや、どこかに奴らの親玉がいるはずだ。
そいつを封印してしまえば、後は逃がしてもたいしたことはない」
「ホントに・・・?」

「このあたりは地脈の西の端、封印が弱まっているのは確かだが、それにしても早すぎる」
「早すぎるって、何が?」
朋之はそれには答えず黙って四方を見渡していたが、
「あそこに陽炎のように景色が歪んで見えるところがあるだろう。
その下に黒い塊があるのが見えるか?」
と山並みの方角を指差した。

「うん、空気が揺れているように見えるところはあるけれど」
「この連中は人間の耳には聞こえない超低音を発して神経を撹乱してくるが、そう厄介ではないはずだ。
お前一人でも・・・って、おい、ブローチはどうした?つけてこなかったのか?」

「え、あれ、塾に行ったときには確かにつけてたのに・・・さっき慌てて落としちゃったのかな・・・」
「・・・マジかよ・・・」
朋之は軽く頭を押える。

「でもあれって・・・」
「来るぞ、余所見をするな」
その言葉とともに一陣の風が吹き抜けた感じがしたと思うと絵美奈の体中に薄い膜のようなものが纏わりついてきた。
いやっ、何これ―――

体中に巻きつく薄皮の様な物を引き剥がそうとあちこち手をやるが、実体がないのかどうしても掴むことが出来ない。
やがてそれが皮膚を通して体の中に入り込んでくるのを感じ絵美奈は怖気を奮って悲鳴をあげた。

「い、いやっ、気持ち悪い!」
涙を流しながら狂ったように体中をかきむしる絵美奈の身体を抱き取って朋之は、
「落ち着けよ、お前の身体には何もついてやしないだろっ!」
と叫ぶがその声は錯乱状態にある絵美奈には届かない。

絵美奈はアメーバのようなどろどろとした異物が血流にのって体中を駆け巡っているようなおぞましさを覚え、こいつらを身体から排除しなければと、取り付かれたようにそれだけを考えた。
早くしなければこの薄気味悪いものはますます多量に侵入してきて、いずれ体中に溢れそして・・・
絵美奈は何とかしてこの異物を対外へと出してしまおうと、喉に爪を立てて掻き毟った。

その手が強い力で喉から引き剥がされる。
必死の力でそれを振り払おうとする絵美奈の心の奥底に
―――よせ、お前は大丈夫、何ともないだろ。しっかりしろよ。
そんな言葉が微かに響いた。

―――思い出せよ、お前は俺が守ってやると言ったじゃないか。俺がついている限りお前に手出しなどさせない・・・
―――あ、でも・・・
体中に清浄な気が満ちていくような感覚に絵美奈は一瞬恍惚となる。
その唇に暖かく柔らかなものが触れる感覚に、絵美奈はようやく自分を取り戻した。

「やっと落ち着いたか」
朋之の顔が思いのほか近くにあり、絵美奈はきゃっ、といって離れようとして自分がかなりきつく抱きしめられていたことに初めて気が付いた。
今の、もしかして・・・
そう思う暇もなく、

「全く、アイツらは神経を撹乱してくると言ってやってるのに、すっかり術中に嵌りやがって」
という言葉とともに朋之はゆっくりと絵美奈の身体を離した。
「でも、もう大丈夫そうだな」
「うん」

ひらひらと風に舞う黒い薄幕が空気中を大量に舞っている。
その姿はテレビの映像で前に見た蝙蝠の様子とどこか似ていた。
吹き付ける風に乗ってその幾つかが、絵美奈の身体めがけてぶつかってくるが、その身体に触ったものはそのまま力なく地面に落ちてタール状の塊に変わった。

「こんな奴らは放っておけ。お前が封印するのはあの陽炎の中心にいる奴だ」
腕に置かれた朋之の手から脈動する力が流れ込んでくるのを感じる。
絵美奈は取り出したコンパクトの鏡面を陽炎の立ち昇る方角に向け、この間と同じ言葉を喉から迸らせた。

鏡から発せられた強い光にたじろぎ、陽炎はしばらく揺れつづけていたが、絵美奈はそれが詮無い抵抗であることを感じ取っていた。
やがて妄蛾のときよりはずっとあっけなく黒い光が鏡に吸い込まれていくのを、絵美奈はかなり落ち着いた気分で眺めることができた。

「ずっと力を貸してくれてたのね、この間も今も・・・」
絵美奈は朋之を見上げて呟く。
「巫女姫様には余計なことだったかな?」
朋之はそう言ってそっと手を離した。

さっき触れたのはこの唇だったのだろうか・・・
そう思うが、恥ずかしくてとても聞けそうにない。
まともに顔を見ていられなくて視線を下げると、地面にはいたるところコールタールのような塊が残っていた。

「これ・・・どうしたらいいの?」
絵美奈の問に、
「こいつらはただの残滓だ。朝日が当たれば自然に消えてなくなる。
どのみち昼の世界では生きられないものたちだからな・・・」
と朋之はどこか少し寂しそうな声音でそう言った。
「これにも名前がついているの、あの妄蛾みたいに・・・」
「そうだな、形状から黒翅蝙蝠と呼ぶ者もいるが・・・いずれにしろこの世の者がかってに付けた名称だけどな」

朋之は再び顕現させた鳥に絵美奈を乗せると、
「俺はこの地に結界を張っておくからお前は先に戻っていろ」
と言った。
「でも」
「大丈夫、俺もすぐに戻るし。何かあってもコイツが居るだろ」
朋之はそう言って鳥の羽に軽く触れた。
絵美奈が言葉を返す前に鳥は風を巻いて宙に舞い上がっていた。
朋之の姿はあっという間に見えなくなる。

西の方に沈み行こうとしている月を背に鳥は絵美奈を乗せて、来た時よりは随分とゆっくり飛んでいった。
―――月読様のことなら心配要らない。あの方に手出しできる者などいない・・・
「今のはお前の声なの?」
絵美奈は鳥に問い掛けてみたが、答えはなかった。

開いたままの窓から元いた部屋に飛び込み絵美奈を下ろすと、鳥はすぐさま今来た方角へと飛び去って行った。
それを見送ってから先ほど寝ていたソファに戻ると、床に落ちた毛布に絵美奈の胸から外れおちたピンブローチが刺さっていた。
留め具にしっかり刺さってなかったのかな・・・
そう思って手に取ると仄かだが力の脈動が感じられた。
朋之はずっと自分を守っていてくれたんだ・・・

絵美奈がブローチを元通り胸に挿そうとした時、思いのほか早く朋之も戻ってきた。
「やあ、早く見付かってよかった。
道すがら探しながら来たが見当たらなかったのでこの家にあるのだろうとは思ったが」
そう言いながら朋之は絵美奈の手からブローチを取り、しばらく両の手で挟みこむようにしてから返してよこした。

「ほら、もう落とすなよ」
「うん」
―――俺が居ない時はこれが代わりにお前を守るから・・・
流れ込んでくる朋之の言葉に絵美奈の頬は我知らず赤くなる。

「あの、あのね、あの時・・・」
絵美奈の言葉に怪訝そうな顔を向けた朋之は、その喉に無数の掻き傷が出来ているのを目に留め、
「随分と酷く掻き毟ったものだな」
とポツリと言った。

「うん、さっきは、変なものが体の中を這い回っているような気がして、体中を切り裂いてでもそいつらを出してしまわなきゃ、と思って・・・」
絵美奈は思い出したくも無い、と言う風に答える。
「多分手近に刃物があったら喉を掻き切っていたのかも・・・」
「もういい・・・」
朋之はそう言ってすっと腕を伸ばし、絵美奈の喉に手を触れた。

えっ・・・、と思う間もなくその手からひんやりと心地よいものが流れ込んでくる。
朋之は伏目勝ちの真摯な眼差しで絵美奈の喉を見詰めていた。
やがてその手が離された時には、蚯蚓腫れのひりひりとした痛みは消えていた。

「あの、ありがとう・・・」
その言葉に軽く微笑んで、朋之は
「では、夜明けも近いし身代わりもそろそろ限界だろうから、家まで送らせよう」
と言った。
「今夜はもう何も起きないと思うし」

「でも・・・」
もう少しだけ一緒にいてはいけないだろうか・・・
そう思ったとき、
「そんなに気を許していいのか?俺は男なんだぜ」
と言われ絵美奈の顔は真赤に染まる。

「発育不全には興味ないって言ってなかった?」
思わず一歩引いてそう言うと、
「それほど不全でも無さそうじゃないか、さっき気付いたけど」
という言葉が返ってきて、絵美奈は恥ずかしさで絶句してしまった。

―――もう、せっかくかなり見直してあげたのに・・・
「分かった、帰るわ」
そう言ったとき、
「月読様!」
と声がして、伊織が部屋の中に立っていた。

「建御雷、早かったな・・・」
との朋之の言葉に、
「もう夜明けですよ、月読様・・・」
と朋之の前に跪きながら答えつつ、伊織は絵美奈の姿を認めて
「おや、これは・・・相変わらず月読様は手が早・・・」
と言いかける。

朋之が軽く舌打ちしたのを受けて伊織は
「これは差し出た事を・・・、にしても月読様は少しお疲れのようで」
と言った。
「余計な事を喋ってないで・・・」
朋之はそこまで言ってからチラリと絵美奈を見遣って、
「伊織、戻ったばかりでご苦労だが、巫女姫を家まで送ってやってくれ。」
と言った。

「俺は少し休む。報告は後で聞く。早くしろ」
矢継ぎ早にそう言われて伊織は、では、と絵美奈の手を取る。
次の瞬間には絵美奈は自分の部屋に土足のまま立っていた。
あわてて靴を脱ぎながら、
「伊織君、何処へ行っていたの?」
と訊ねる絵美奈に、伊織は
「今は内緒。そのうちゆっくり話してあげるよ」
とわざと大袈裟に片目を瞑って見せ、姿を消した。

ベッドで寝ていた身代わりの少女は気配を感じたのかすっと起き上がり、絵美奈に近付いてきた。
そうだ、このコ、どうしろって言うのよ・・・
そう思った瞬間、少女の姿は消え、床の上に元のピンが落ちた。
確かに限界だったのか・・・
窓から見上げた東の空は明らみかけていた。

とうとうほとんど眠れなかったな・・・
そう思いつつベッドの上に転がると、唇に触れた温かく柔らかい感触が甦ってきた。
朋之は自分にキス・・・したんだろうか・・・
だめだ、やっぱり恥ずかしくて聞けそうも無いや、こんなこと・・・
眠る事など出来ないと分かっていたが、絵美奈はそれでもたとえ一時間でも身体を休めようと硬く目を瞑った。