神鏡封魔録


波紋

  1.

絵美奈を送って家に戻った伊織は朋之がまだ応接間に居ることに少しばかり驚いた。
頭を背凭れに預けるようにして気だるげに腰をかけている朋之に伊織は
「お部屋でお休みになりますか?」
と声をかけた。

「ああ、そうだな・・・」
伊織がその腕に手をかけようとすると、
「いや、一人で行けるから、いい」
と言って朋之は体勢を立て直し、足を組みなおして伊織を見上げた。

「随分早く戻ったんだな。もっとゆっくりしてくればよかったのに」
「生憎ですが、一刻も早く月読様の元へもどれと言うのが姫神様のご意向で・・・」
その言葉に朋之は軽い苦笑を漏らし、頬杖をつくと伊織から視線をそらせて
「四六時中見張っていないと安心できないってか?」
と言った。

「月読様には当てが外れて残念でしょうが」
伊織は朋之をじっと見下ろしたまま拗ねたような口調で答える。
「・・・やけに突っかかるんだな・・・」
「僕がお傍にいてはお邪魔なようですし」

朋之は手で頭を支えながら伊織の方を横目で見て、
「・・・そうだな、少しばかり鬱陶しいかな・・・」
と軽く笑う。
「僕は姫神様のご命令に従っているだけですから」
気分を害したのを隠しもせず伊織はそう言ってそっぽを向いた。

「そうむくれるなよ、冗談だろ。久々に家族に会えたのだからのんびり羽を伸ばして来たら良かったのに、と思っただけじゃないか。で、いつできるって?」
宥めるような口調で問い掛ける朋之に、これはかなり疲れてるな、と思いながら、
「貴方の口からそんな台詞を聞くなんて明日は嵐ですかね、いや、戯言はともかく、かなり念を込めて造りたいので暫く猶予をいただきたいとのことで」
と伊織は答える。

「暫くとはどのくらいだ?」
「それは彼の者の胸先三寸。僕には分かりかねますね」
「・・・全く役に立たない奴だな。もういい、退がって休め」
軽く頭を振りながらそう言いつつ朋之は立ち上がろうとしたが、伊織が動こうとしないのを見て、
「どうした?まだ何かあるのか?」
と訊ねながら再びソファに身体を沈めた。

「姫神様の水鏡に近頃黒い影が過ぎるようになったそうで」
「姉上の?」
「今回の騒動と何かかかわりがあるやも知れぬので重々気をつけるようにと」
朋之は溜め息を漏らしながら呟く。

「やれやれ、厄介なことだ。さっさとケリをつけてしまわないとな」
「軽挙妄動は慎むようにとの厳重なお達しです」
「分かってるさ。確かに封印の破れが早すぎる。かなり強力な術者が動いているのは間違いないだろう」
「少々面倒なことになりそうですね」
「ああ、そうだな・・・」

そう言って立ち上がる朋之の横顔をそっと伺いつつ伊織が訊ねる。
「術者の心当たりがおありで?」
「いや・・・、可能性としては幾つか考えられるが、どれもぞっとしないな」
朋之はそう言うとまた軽い笑みを見せた。

伊織は歩き出そうとする朋之の腕を取るとその部屋まで瞬間移動した。
「一人で行けると言ったのに・・・」
口を押さえつつふらつく朋之の身体を支えながら
「随分とお疲れのご様子ですので。僕を追っ払っておいて、お楽しみだったというわけですか?」
と伊織は皮肉な口調で問い掛ける。

「馬鹿なことを言うなよ。封印が破れたんだ。あの鏡には時封じの術を施しておいたというのに・・・
まさか、こんなに早く破れるとは思わなかったからな。
にしても、何度経験しても気分の悪いものだな、この空間移動という奴は・・・」

ベッドに身体を投げ出すように倒れこんだ朋之に
「全然平気な人もいるようですけどね」
と言う言葉を投げつけて伊織は
「それでは、僕も部屋に戻ります。御用があったらまた呼んでください」
と続けた。
「ああ、ご苦労だった。夕方までゆっくり休むといい」
目の上に腕を乗せて気だるそうに横たわる朋之の姿にチラリと目をやってから、伊織は音も無く姿を消した。

一方、疲れた身体をどうにかベッドに横たえた絵美奈は、たちまち睡魔に襲われて意識が朦朧としてきた。
その夢とも現ともつかないぼんやりした状態の頭の中に聞き覚えのある声が響いて来た。

―――随分と早く・・・
―――暫くの猶予を・・・
―――まだ何か・・・
―――軽挙妄動は・・・
―――術者が動いている・・・

ごく断片的にしか聞き取れないが、話しているのは朋之と伊織だろう。
何の話だかよく分からないが、今の絵美奈には考える気力は無かった。
ただ、術者が動いている・・・と言う言葉だけは聞き捨てできるものではなく、絵美奈の頭の中に何時までもこだまのように響きつづけた。

眠ったかどうかよく分からないうちに、無常にも起床の時間になり、絵美奈は疲れの抜けきらない身体をどうにかベッドから起こした。
朋之に言われたとおりここ数日録に寝ていないため、鏡には睡眠不足のせいで目の下にクマが出来た情けない顔が映る。

溜め息をつきながら視線を下げると、うっすらと赤い掻き傷の残る喉が見えた。
痛みは少しも残っていないその喉にそっと手を当てると、朋之の手が触れた時の感触が甦ってきた。
あの時の軽く伏せた真摯な眼差しが思い出され、絵美奈はどこか上の空になる。
母の急かせる声に我に返り、慌てて制服に着替えようとして、絵美奈は胸ポケットに挿したピンブローチに軽く触れた。

僅かだが確かな力の脈動が伝わってきて、絵美奈の心に温かいものが流れ込んできた。
朋之に守られている、そう実感しながら家を出たが、いつもの場所に伊織の姿はなかった。
今朝方戻ったばかりなので、休んでいるのだろう。
伊織が休んでいても、学校では気にする者は一人もいない。
本当に一体どういう人達なのか。

それでも朋之が自分を守ってくれた事は確かだ。
いろいろと気を使ってもくれたし・・・
伊織は朋之が少し疲れているようだと言っていたが、神様でも疲れたりするのかな・・・
気がつけば朋之のことばかり考えている、絵美奈はそう気付いてかなり慌てた。

今日一日乗り切れば明日は休みだからと、午前中は頑張ってどうにか目を開けていた絵美奈だが、午後になるとどうにも眠気を堪える事が出来ず、何時の間にか居眠りをしてしまった。
いつの間にか絵美奈は遠くに山並みの見える開けた場所に来ていた。
どこまでも続く一面の草原の只中に、少年が一人立っているのが見える。

背が高くほっそりとして、どちらかといえば華奢な感じの少年は、古代の男性がしていたような髪形と服装をしており、その肩には美しく精悍な鳥が止まっている。
吹き抜ける強い風が、耳のところで輪に結った後肩に垂らされた長い髪や、ゆったりとした衣服をはためかせるのを、少年は気持ちよさそうに楽しんでいた。

少年は、やがてこちらを向きゆっくりと口元を綻ばせた。
綺麗な笑顔をみせたその少年の口から言葉が発せられるが、絵美奈には何を言っているのかは分からなかった。
「朋之・・・さん?あなたは朋之さんなの・・・?」
その名を口にしたとたん、耳慣れた喧騒がどっと絵美奈の頭の中に流れ込んできた。

「園部、園部・・・」
と誰かが自分の名を呼ぶ声にハッとして目を開けると、その時間の担当の教師が目の前に立っていた。
「園部な、そこまで爆睡されるといっそ気持ちいいが、これでは教室にいても意味無いから、無理せず保健室へ行け」
クラス中の失笑の中絵美奈はそっと辺りを見回してやっと夢だったのかと気がついた。

不思議な夢だ。
あの鳥を肩に乗せた少年は朋之だったのだろうか。
よく似ていたような気もすれば、全然違う顔だったような気もしてよくわからない。
あんな場所には行ったことも無いし、何故自分はこんな夢を見たのか・・・

それでも短時間でも熟睡できて気分もすっきりした絵美奈は、部活を済ませ帰途についた。
相変わらずかなり唐突に知らない人間の言葉や思考が唐突に頭のなかに流れ込んでくる。
少しは慣れてきたが、人の秘密を覗き見している様でなんだか気分が悪い。
朋之や伊織はいつもこんな感じでいるのだろうか。

そのうち聞きたいことだけ聞けるようになると伊織は言っていたが、早くそうなりたいものである。
今のままではノイローゼになってしまいそうだ。
家にたどり着き、そのままベッドに身体を投げ出した。
やっとゆっくりできると思ったが、一人になると今度は今まで気がまぎれて考えずにすんでいた朋之のことが頭に浮かんできてしまった。

どうしちゃったんだろう、私。アイツのことが頭から離れない―――
指先で唇に触れながら、もし朋之がここに触れたのだとしても、あんなのキスのうちに入らないだろう、と思う。
錯乱している自分を落ち着かせるためにした事なのだろうから・・・
それでも、自分にとっては初めてのキスなのに・・・
いくら考えまいとしても思いはいつもそこへと行ってしまう。
朋之はどう思って居るのか、はっきりと聞いてみるのは怖かった。

夕べの朋之は、日頃の高圧的で不遜にすら見える彼と同一人物とは思えないように優しい一面を見せた。
どちらが本当の朋之なのだろう。
こんなことばかりウジウジと考えている自分は嫌だ。
出来れば今晩はゆっくり眠りたい、そう思いながらも絵美奈は寝付かれぬ夜を過した。

―――巫女姫様、起きてる!?
夜半過ぎ、頭のなかに伊織の声が響く。
―――封印が解ける、すぐ迎えに行くから、支度して外に出ていて!
―――うん、分かった・・・
目は瞑っていても眠っていたわけではないので、すぐさま着替えるとあのブローチを急いで付け替えて、絵美奈は家人を起こさぬよう静かに玄関から表へ出た。



  2.

辺りを見回してすぐに傍の電柱の影に伊織が待っているのを見付けると、
「まあ、女性が寝てる部屋に押し入るわけにもいかないからね・・・」
と言って伊織は絵美奈の手を取った。
次の瞬間には絵美奈は眼下に小さな街並みを見下ろす小高い丘の上に立っていた。
空気中に月明かりを反射してキラキラと光るものが一面に乱舞してる。
無数の色鮮やかな蛾が宙に浮かんだまま静止していた。

その蛾の周りには細かい鱗粉が全て空中で固定して、微かに瞬いている。
「これは・・・」
「毒蛾だよ。大した奴らじゃないけど、数がすごいな・・・」
伊織の言葉に絵美奈は
「毒蛾・・・?」
と呟き、呆然と見つめる。
空気の流れさえない静寂の中で宙に漂う鱗粉が満天の星のように輝いている、そのあまりの壮麗さに絵美奈は我知らず見惚れていた。

「建御雷、巫女姫!」
朋之が駆け寄り声をかけてくる。
「思ったより早かったな。取り合えず時封じの術をかけておいたが、余り長引くのはうまくない。とっとと封印してしまえ。
ただの毒蛾だから、そう大変ではないだろう。ただしあの鱗粉は猛毒だがな」

「時封じの術?」
昨日の事など完全に忘れている様子の朋之は平然とした口調で
「この一体の時間の流れを一時的に止める術をかけた。この術は空間を歪めることになるから、あまり使いたくないんだが」
と言って木立の密集している方を指し示した。

「あの辺りに封印の裂け目が有って毒蛾が溢れ出してきている。鱗粉の一番多く飛んでいる辺りだ」
「うん、気配を感じる・・・」
「いいか、術を解くぞ」
朋之がそういった途端、空気が流れ出し宙に止まったままだった鱗粉が風の流れに乗って動き始めた。

煌く金色の粉に目を奪われ、不思議な感覚に捕らわれた。
体が軽くなって宙に浮かんでいる。魚だの鳥だの様々なものが形を歪めながら鮮やかに輝き同じように空中を舞っていた。
「しっかりしろ!この粉には幻覚作用もあるようだな」
強く腕をつかまれ我に返った絵美奈は、周り中の草や樹木がじゅうじゅうといやな音を立てて爛れたように溶けているのに気がついた。

「これ・・・」
「あの粉が触れるとこうなる。くそ、また吹き付けてくるぞ」
無数の蛾が羽を震わせ、沢山の鱗粉が再び舞い飛んだ。
伊織は高く宙に舞い上がりそれを避ける。
鱗粉は絵美奈の身体にも吹き付けられてきたが、絵美奈の身体に触れることなくすぐ手前でジュッと音を立てて燃え尽きた。

呆然とする絵美奈に
「巫女姫様、あれが民家のほうに飛んで行くとまずい・・・」
伊織が高く跳躍したまま電光を迸らせた。
電光を浴びた蛾が次々と地上に落ちてき、鱗粉の散乱が少なくなる。
それを見て絵美奈は急いで封印の呪文を唱えた。

あたり一帯が強い光に照らし出され、一面の蛾は無数の黒い筋となって鏡に吸い取られていった。
朋之はそれを確認すると木立の中へと分け入っていく。
伊織がすぐその傍らに降り立つのを見て、絵美奈もそのほうへ一歩踏み出した。
「伊織、早く連れて帰ってやれ」
朋之の一言に伊織は絵美奈の方へと向かう。
伊織が絵美奈の腕を取った瞬間、木立の中に突然青白い光が強く瞬き、ほんの一瞬辺りを昼のように照らし出した。

あっ、と思ったときには絵美奈は伊織とともに自宅の前に立っている。
すぐに引き返そうとする伊織を引きとめ、絵美奈は尋ねる。
「待って、さっきの光は・・・」
「ともりんがあの辺り一体を浄化したんだ」
「浄化・・・?」

「うん、その後結界を張って、しばらくは同じ場所から異類異形が出てこれないようにするのさ」
「へえ・・・」
と感心しつつ絵美奈は、
「ねえ、そういえば、時封じの術ってどんな術なの?」
とさらに疑問をぶつけてみた。

伊織は、目の前で見て分からなかったの、と言いながら、
「ともりんが自分で言ったじゃない、あの辺の時間の流れを止めた、って」
とかなり呆れ気味に答えた。
「時間の流れを止める・・・そんなことが出来るの・・・?」

かなり驚いているらしい絵美奈に伊織は、
「だって、月読とは暦、つまり時を数え、管理する神様だろ。短時間時を止めるなんて朝飯前さ。
ただ言ってたように時封じの術はこの世界では禁じ手の一つだからね、月読様といえどもやたらには使えないんだ」
と至極平然と言う。

「じゃ、僕は月読様を迎えに行かなきゃならないから。あれでも一応ご主人様から警護をまかされた大切な弟君だからね」
伊織はそう言うと姿を消してしまった。

全くいつも慌しいこと・・・
絵美奈は家族に気づかれぬ様そっと家に戻った。
かなり静かに階段を上がったつもりだったが、物音を敏感に聞きつけて妹が起き出してしまったようだ。
「何、お姉ちゃん夜遊び?彼氏が出来たとたんにハデだね〜」
寝ぼけ眼で部屋のドアから顔をのぞかせる妹に顰め面をしてみせながら、こんな時自分にもコイツの記憶を消す能力があったら、などと思ってしまった。

ブツブツ呟きながら部屋のドアノブに手をかけた瞬間、また誰かの声が流れ込んできた。
―――このあたりにいるのは確かなのが
―――肝心の場所に近づくと焦点がぶれたようにぼやけてしまう
―――結界を張っているのだろう
―――では結界破りの秘術を・・・
―――いや、その前に・・・

男の声のようだが、何かに反響して大きくなったり小さくなったりしてよく聞き取れない。
絵美奈は聞き覚えのない声に思わず身震いがでた。
誰かが封印を故意に破ろうとしている。
絵美奈は今朝方聞こえてきた、術者が動いている、という朋之と伊織の会話を思い出した。

「朋之・・・」
そっとその名を口にすると、
―――何だ?
と言う声が響いてきた。

―――どうしたんだ、俺のことを呼んだろう?
―――朋之・・・なの・・・?
―――他の誰だと思うんだ・・・そんなことより、どうかしたのか?
―――うん、変な声が聞こえてきて・・・頭の中に響いてきたから何処からかはよく判らないけど・・・
―――・・・詳しく言ってみろ
絵美奈はさっき聞いた会話をなるべく正確に朋之に伝えた。

―――分かった、取り合えず今はお前は家の中にいた方が安全だ。夜が完全に明けるまでは絶対に外に出るな。明日、いやもう今日だな、学校は休みだろう
―――うん・・・
―――では、そうだな、俺たちの家まで一人で来れるか?
―――うん、行けると思うけど

―――じゃあ、夕方日が傾く頃家を出ろ。出来れば一応泊まる支度をしてくるといいかもしれないな。昼間は何も起こらないと思うが、それまでにもしまた何か気になる事があったら、さっきみたいに呼んでくれ
―――でも、一人で出歩いて大丈夫かな・・・
―――ああ、大丈夫だ
それきり朋之の声は聞こえなくなった。



  3.

それからは特に何事も無く、絵美奈は小ぶりのボストンに着替え等一式を詰め、朋之に言われたとおり夕方になって家を出た。
一人で出歩く事にためらいはあったが、とりあえず朋之の言うとおりに動くしかないだろう。
母には友人の家に遊びに行ってそのまま泊まるかもしれないと言っておいた。

途中簡単に軽食を取り、絵美奈は一昨日朋之と二人でとった経路を一人で辿りながらどうにか目指す洋館までやって来た。
―――思ったより早く着いたな
朋之の声が頭に響く。
―――もう大分暗くなっちゃったけど
―――俺たちは裏庭に居るから、家に入らずにそのまま真っ直ぐすすんで来い
―――分かった

玄関を素通りしてポーチにそって進み道なりに家の裏に回りこむとコスモスで埋まったレンガ造りの花壇に囲まれた小さな池が有った。
池の中央には肩に水がめを乗せた女性をかたどったギリシア風の彫像が立っている。
恐らくその水がめから水がこぼれ出る仕掛けになっているのだろうが、今は池に水が張られているだけでその仕掛けは動いていなかった。

池の周りに巡らされた庭園灯の光を反射して池の水は夜目にも鮮やかに光り輝いている。
朋之は池の縁に腰掛け、伊織はその傍らに立って一様に水面を覗き込んでいた。
「来てみろよ、面白いものが見られるぜ」
朋之が顔を水面に向けたまま声をかける。

「やあ、巫女姫様。僕らの愛の巣へようこそ、ってこないだ来たっけ?」
伊織が振り向いて声をかけると、
「誤解を招くような言動はやめろ」
と朋之は軽く組んでいた脚で伊織の向う脛を蹴りつけた。

「軽いジョークでしょう、何も向う脛を蹴ることないでしょうに・・・。全く、誰も誤解なんかしないですよ、ねえ」
と伊織は脛を撫でつつ絵美奈に同意を求めるように言ってから口調を変えて
「でも、私服だとまた感じが変わっていいですね、その洋服よくお似合いで」
と言ってにっこりした。
薄手のタートルネックのセーターにミニフレアーと言う組み合わせの上にジーンズのジャケットを軽く羽織っただけの姿だが・・・

「そっちこそ、私服なんて珍しい」
絵美奈はそう言って二人を見比べた。
そういえば朋之の私服姿を見るのは初めてだ。
伊織は最初に会った時と同じセーターにジーンズ姿で、朋之の方は黒いシャツとオフホワイトのチノパンに薄手のカーキのカーディガンを羽織っていた。

「そうだっけ」
「うん。そうしていると二人とも普通の高校生に見えるよね」
軽く頷きながら絵美奈は朋之の方を見遣ったが、朋之は池の中をじっと見詰めていて振り向いてはくれなかった。

「で、首尾は上々のようで」
伊織は幾分真面目な口調で、再び朋之の傍に寄る。
「ああ、うまく引っかかってくれたようだ。さて、コイツをどうしてくれようか」
と朋之は何とも愉しそうな口調で答える。
絵美奈は伊織の隣に立って、朋之の肩越しに池の中を覗き込んだ。

静かな水面には絵美奈が歩いてきた道が映っている。
道の反対側に鈍く光る金色の小さな光が見えた。
「ほら、お前を追ってきたものだ。見覚えがあるだろう?」
朋之の言葉に絵美奈はじっと水面を見詰める。
すでに辺りが薄暗くなっているため分かり難いが、黒い猫が一匹様子を伺うようにコチラを見つめている。あの小さな光はその猫の瞳だった。

猫はゆっくりと近寄ってくる。
あの猫だ・・・ずっと私をつけてきたんだろうか・・・
絵美奈が言いようのない恐怖に足元がふらつくのを伊織が支えてくれた。
「コイツには何もできやしないから、そんなに怖がることも無いんだが、まあ鬱陶しい事に変わりはない。もうお前に付きまとえないようにしてやろう」
朋之はそう言うと、口元に笑みを浮かべながら水面をじっと覗き込んだ。

やがて水盤一杯に猫の姿が映った時、朋之が水面の上に右手をかざした。
その途端猫は狂ったように同じところをぐるぐると回りだした。
激しく走り回りながら何かに飛び掛ったり爪を立てたりする仕草を繰り返している。
何時まで経ってもそんな動きをやめようとしない猫の姿に不気味なものを感じ、絵美奈は
「あれ・・・、どうしたの・・・?」
と恐る恐る朋之に訊ねた。

「二度と悪さが出来ないようにあの猫を結界の中に閉じ込めたのさ。ほら」
と言って朋之が水の上から手を離すと、猫の周りの空間だけが歪み、やがて真っ黒い球がその身体を包んだ。
黒い球の映像がすっと消えたかと思った瞬間、静かだった池の水が激しく波打ちあっという間に真っ黒く濁った。

黒く濁った水は池の中で大きく渦をまきながらだんだんと塊となり、やがて蛇のような形を取り逃れようとするかのように激しく動き回った。
その塊がいきなり自分のほうに飛び掛ってきたので絵美奈は悲鳴を上げて思わず伊織の腕に強くしがみついた。
「コイツはよほどお前にご執心らしいな」
朋之はそんな軽口をたたきながらその塊を右手で鷲掴みにし、袖口が濡れるのも構わずにそのまま池の中へとその手を突っ込んだ。

その瞬間水面から強烈な光が迸り同時にジュウジュウとものが焦げるような音が大きく響いた。
「同族殺しの血塗られた天つ神ども、貴様等に安寧の日々が訪れる事などありえぬぞ・・・」
黒い塊は朋之の手から逃れようともがきながらズルズルと崩れていき、最後にそんな叫び声をあげた。

「言いたい事はそれだけか?」
朋之は軽く目を細めてそう言うと握る腕に力を込める。
激しい断末魔の声と共に黒い塊は完全に溶けて黒い水に戻り、水面一杯に広がった後、少しずつ薄まって行った。
やがて池の水は元通りの青白く輝く清浄なものに戻る。
絵美奈は伊織の腕に捕まったまま恐る恐る池の中を覗き込んだ。

朋之はうっとりしたような目つきで池の中をじっと見詰めていたが、すっと右手を差し入れ池の底から何かを摘み上げた。
朋之は絵美奈の掌にその拾い上げたものを載せると、ハンカチで濡れた手を拭いながら
「あの猫の本体さ。本物の翡翠だぜ。よっぽど念を込めたかったんだな」
と言った。

「これに見覚えは?」
「あるわけないわ、そんなもの・・・」
「でもお前を追って来たものだろう?この術者はお前と何らかの繋がりがあるはずだ」
朋之は絵美奈の手から勾玉を拾い上げ、軽く息を吹きかけて小鳥の姿に変えた。

「さあ、コイツはどこへ飛んでいくかな?」
鳥はすっかり暮れ落ちて暗くなった大空に飛び立っていく。
朋之はその姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、ゆっくりとその手を水面の上に翳した。

やがて水面には夜の街の風景が映り始める。
初めはぼんやりとしていた映像は次第にはっきりしたものになっていく。
「巫女姫、ここがどこか分かるか?お前の家の近くだと思うが・・・」
朋之に言われ絵美奈は池のふちに手を付いて水面にじっと顔を近づけた。
「そういわれても暗くて・・・」

「ここはおそらく巫女姫様が通っている塾の近くですよ。巫女姫様を探している時、僕の式神があの猫と出くわしたのもこの辺りだと思いますが・・・」
伊織の言葉に絵美奈が
「そういわれればそんな感じね。あの看板には見覚えがあるし・・・」
と言ったとき、突然水面に細かい波紋が広がり何も見えなくなった。

「月読様」
伊織が声をかけると朋之は軽く頷いて答える。
「あの式神の気配が消えた。術者がコチラの意図を察して先手を打ったのだな。なかなかに食えないヤツらしい」
朋之がそう言って左腕のバングルを外そうとするのを留めて伊織が、
「僕が追ってみますよ。式神では返されるかもしれない。相手も結構手強そうだし・・・」
と言う。

朋之は少し躊躇ったが
「そうだな、ではお前に任せよう。ただ、あまり深追いはするなよ」
と言った。
「分かってますよ」
伊織の姿が消えてしまうと、絵美奈は朋之の隣に腰掛けながら
「伊織君、何だかうれしそうね」
と、鳥の飛び去った方角を眺めている朋之に声をかけた。

「ああ、あいつは力をもてあまし気味だからな。ま、最近はこの騒動があって気が紛れてるが」
「へ〜、そうなんだ。大人しそうに見えるのに・・・」
「ああ見えてアイツは柔道部の猛者だぜ。俺なんかよりよっぽど逞しいよ。
もともと建御雷は勇猛な戦神だからな。それが俺の監視役ではストレスも溜まるんだろうけど」

そう言われれば伊織に比べ朋之は上背はあるが体つきはずっと華奢な感じがする。
今までは二人とも制服を着ていることが多くてあまり気付かなかったが。
そんなことを思いつつ絵美奈は
「監視役?護衛じゃないの?」
と訊いてみた。

「表向きはそうなってるんだろうさ。でも俺には護衛なんて必要ないんだから、本当のところはアイツの役目は俺を絶えず監視することなんだ。
俺はまあ、言わば変り種だから・・・」
朋之はそう答えてから再び水面に向って何事か呟いた。

見る間に水面が波立ち大きくうねったと思ったら水柱が立ち、一気に空中に吹き上がるとやがて一匹の白い蛇のような姿となって朋之の右腕に巻きつく。
その蛇が銀色の細身のブレスレットに変わるのを絵美奈は呆然と見つめるしかない。
池は元通り静まり、波紋ひとつ立っていなかった。

「今の蛇みたいなのは何?あれも式神ってヤツなの?」
「まあな。あいつは蛇じゃなくて蛟だけど」
「蛟・・・?」
「ああ、水鏡を見るときはいつも使うんだ」
朋之はそう言って立ち上がると、
「日が落ちて肌寒くなったし、中へ入らないか?」
と前庭へと歩を進めながら言った。

その言葉に先ほどから風の冷たさを感じ始めていた絵美奈は素直に頷いてその後に従いながら
「ねえ、そういえば、さっきのあの変なのが言っていた同族殺しとかって何の事?
血塗られたとかも言ってたけど」
と訊ねた。

「ああ、俺たちの一族は常人の持ち得ない力を持っている分、表には出せない影の部分も多いって事さ」
「何それ・・・」
「どうしても聞きたいというのなら、答えないわけには行かないのだろうな、巫女姫様の御所望とあれば」
朋之が立ち止まってそう言うのに
「どうしても言いたくないというのなら仕方ないけど」
と絵美奈は朋之の口調を真似て言ってみた。

再び歩き出しながら朋之は苦笑を漏らしつつ先程の質問に答えた。
「俺たちは自らの力を恃んでかなり非道な事もやってきた。一族同士血で血を洗うような諍いも有ったようだしな。
それを忌み嫌ったり恨みに思ったりする者達も当然いるということだ」

その顔にほんの一瞬だが苦渋の色が浮かぶのを見た絵美奈は
「・・・分かった、じゃ、別のことを訊くわ」
と言った。
「そうね・・・朋之さんは伊織君のことが嫌いなの・・・?」

「二人でいるときは呼び捨てでいいよ。そんな風に呼ばれると返って気持ち悪い・・・」
「分かった。じゃあ、朋之・・・は伊織君が監視役だから嫌いなの?
どうして伊織君にはいつもあんなに高圧的な態度を取るのか、すごく不思議だったんだ。だって私にはとても優しいのに・・・」
「おい、俺は・・・」
「だって、ホントに優しいと思うよ。その、いろいろと・・・」
そこまで言って絵美奈は相手の視線を受けるのが急に息苦しくなって目を伏せた。

「まあ、お前は一応女だしな」
「一応だけ余計だよ」
「ああ、失礼、そういうつもりでは・・・」
ムキになって顔を上げた絵美奈に朋之の笑顔が直撃する。
この笑顔は苦手だ。しかも不意打ちなんて卑怯だ・・・

「俺のことを嫌ってるのは寧ろアイツのほうだろう。
まあ、姉上の命令だから仕方ないってトコだろうけどさ。
アイツにとってこんな役目は屈辱でしかないんだろうし、まあ俺だってアイツは俺なんかと一緒に居ない方がいいとは思うよな。
だからさっさと里へ帰っちまえばいいと思うよ。
こっちだって、いやいや一緒に居られてもウザいだけだし・・・

けど自分からお役御免を願い出もしないし、逆に俺が他のものに役目を変えるよう姉上に言ったらえらく反発して大変だったし、何か変なヤツだよな。
だが、確かに俺も下僕根性の抜けない奴は嫌いだ。俺の一族はそんな奴らばかりだが」
朋之はふと視線を反らせて自嘲気味にそう言った。

「朋之はお姉さんがいるの?」
と訊ねた絵美奈に
「ああ、随分歳が離れた姉貴だが。俺たちの一族の長、皆が姫神様と呼んでいるお方だよ」
と朋之はどこか遠い目をして答えた。
―――伊織の奴、深追いするなと言ったのに・・・
家に入る直前、そんな朋之の呟きが絵美奈の胸に響いた。



  4.

玄関ホールにはこの間は一昨日来た時には無かった大きな花瓶が置いてあり、豪華な花が飾られていた。
「わあ、綺麗・・・どうしたの、これ?」
「通いの使用人が居るっていったろ?その人の娘さん夫婦が花屋をやっているんで、あまりものだけど時々持ってきてくれるんだ。
やっぱり花があるとそれだけで楽しいし」

朋之は赤い花を一輪摘み取って絵美奈の髪に挿してくれた。
「綺麗な髪によく似合ってる・・・って、ちょっと気障かな」
髪に触れるその手にそっと触れながら、絵美奈はあの時のことを思い切って聞いてみようかとじっと朋之を見詰めた。

だが朋之は絵美奈の心中を知ってか知らずかフイと目をそらすと玄関脇の細窓の方へと歩いて行き、窓を開けると
「それにしても伊織の奴どこまで追いかけて行ったものやら・・・」
と呟き、先程手を拭いたハンカチを取り出して空に放った。

そのハンカチが一陣の風になって消えていったと思う間もなく伊織が部屋の中に姿を現した。
「やあ、月読様。お導きありがとうございます。結界に閉じ込められて、危うく戻ってこれなくなるところでした」
伊織の言葉に朋之は表情を曇らせ、
「俺と同じ術を返してきた、というのか・・・」
と呟いた。

「あの勾玉は粉々に砕かれてあの塾の近くに落ちていました。あの近辺に問題の術者が居るのかも。
ただ、そんな気配は感じられないのですが・・・」
「ああ、俺もこの間少しあの辺を歩いてみたがおかしな気配は感じなかった。
上手に気配を消しているのかもしれないが」
「月読様の目を欺くとはよほどの術者ということですかね」
「どうだかな・・・」
絵美奈の顔色を見て朋之と伊織はその話題を打ち切った。

「さて、今夜はどうしたものかな・・・」
応接間に三人座り込んで朋之がおもむろに口を開く。
絵美奈は伊織が髪に挿した花をちらちらと盗み見ては揶揄するような笑みを見せるのが気になり、そっと花を外したが、朋之は一向に気にする様子も無く、じっと何事か考え込んでいた。

「あの鏡には俺が術を施したんだ、いくら封印の力が弱まって居るといっても、そう簡単に封印が破れることなどありえない。
それが二晩続けて破れるとは。しかもそのわりに被害は少なかったしな。
おそらく俺たちの存在を知ってあぶりだすために何者かが封印を故意に破って回っているのだと思う。
だから今日は逆手を取ってこちらから誘い出してみたんだが、相手もそう簡単には尻尾を出してこないようだしな」

「今日もまたどこかで封印が破れるのかな・・・」
絵美奈はなんとも不安そうに訊ねる。
「分からない」
「封印が弱まっているところを先回りして封じてしまえばどう?」
「そりゃ、お前にそれが出来る力があれば、話は簡単だが」

「私には無理ってこと・・・?」
「まず今はね・・・」
今まで黙っていた伊織が呟くように言う。
「でもまあいい考えだ。たまには先手を打ってみるか?
根の国の扉が開く刻限にはまだ間があるし、いい加減振り回されるのもうんざりだしな」

朋之の言葉に伊織が
「場所の見当はつきますか?」
と勢い込んで言う。
「一番封印が弱まっているところに行ってみよう」
朋之は右手で絵美奈の腕を取り左手を伊織に預け軽く目を閉じる。
瞬く間に絵美奈は鄙びた田舎道に立っていた。

「月読様の思い描いたところに飛んだのですが・・・どこですか、ここ?」
伊織があたりを見回しながら言う。
三人の背後には廃屋になった古い建物が立っている。
その四角張った形状から何かの工場跡のように見えた。

「俺にもよく分からないがこの辺りが一番封印が弱いように感じた。
まだ封印は破れていないようだが、おかしなものがあちこちにうろついているな」
朋之が口元をハンカチで押さえながらそう答えた。

「月読様、これは多分・・・」
「悪気に引かれて色々なものが寄ってきているんだな。その影響で封印が弱まっているようだ」
「色々なもの、って・・・?」
「まあ、言うなればお前たちが生霊とか自縛霊とか呼んでいるものかな」
そう言われれば空中の至る所なにやら半透明のものがフワフワと浮遊しているように感じられた。

「ちょっと、じゃ、ここって心霊スポットとか言うところじゃないの?」
「そう言うのか?」
「やだ〜」
泣き出しそうになりながら腕にしがみついてくる絵美奈を面白そうに見やりながら朋之は
「何を言ってるんだ、封印の巫女が。こんな連中がお前に何が出来るというんだ」
と笑いながら言う。

「しかし凄い数ですよ、月読様」
伊織が呆れたように呟く。
「どれほど数が多かろうとどうだというんだ。こいつ等の方こそ俺たちを怖れているじゃないか。
さてこの連中を呼び寄せているものが建物の中に有るようだが、どうしたものかな」
朋之が建物を注視しながらそういった時、伊織が
「月読様・・・」
とにわかに緊張した口調で呟いた。

「ああ、食いついてきたようだな。この気配は国つ神か・・・。たいした奴ではなさそうだが」
「のようですね。少し追い回してみますか」
「そうだな、出来れば泳がせて術者をあぶりだしたいところだが」
「分かりました。手加減しながら追ってみますよ。お二人はこの連中の浄化でもしてて下さい」

―――だが、お前一人で大丈夫か?
―――巫女姫様を一人にするわけにはいかないし、月読様もご気分が悪いんでしょ、無理しない方がいいですよ。巫女姫様には黙っていてあげますから
朋之の脳裏にそんな言葉が響いたのと同時に伊織の姿は掻き消えていた。
―――全く・・・今度は深追いするなよ・・・

朋之は軽く眉を顰めながら
「とりあえず中へ入ってみるか」
と絵美奈に声をかける。
絵美奈は断固拒否したいところだったが、かといって一人でここに置いていかれるのも嫌なので仕方なくその言葉に従ったが、その手は朋之の腕をしっかりと握り締めていた。

玄関のドアは壊れ落ち、誰でも自由に入れるようになっている。
「ここは工場の跡か何かかしら」
あたりに金属製の廃材がいたるところ散乱しているのを眺めながら絵美奈が訊ねる。

「のようだな。建物の真ん中辺りに黒い塊がある。あれは我等の言う異類異形とは少し違うがこの世に災いをなすものには違いない。小手調べに封印してやれ。
あと、それとは別に人間の気配がするようだが」
そういえば暗くてよく見えなかったが、建物から少し離れたところに車が止まっていたっけ・・・

明かりも無く真暗な建物内を朋之は何の困難も無く静かに歩いていく。
一歩進むごとに足音が何度も大きく反響して、それを聞いているだけで鳥肌だって来るようだ。
暗闇に目が慣れてくるにつれ少しは見当がつくようになったが、その分空中を彷徨う浮遊霊たちも次第にはっきり見えるようになってきて、絵美奈は涙が出そうになる。

―――そんなに怯えるな。この連中はそんな人間の負の感情に取り付いてさらに大きくなるんだ
―――そんなこと言われても、やっぱり恐いものは恐いよ
―――そんなに俺が信じられないか?
朋之は開いた方の手を自分の腕にしがみついている絵美奈の手にそっと重ねた。
―――大丈夫だ、何があってもお前だけは俺が守ってやるから

「ぎゃ〜っ」
と言う声とともに三人の男女が前方から駆け寄ってくる。
その一人が手に持った懐中電灯の光をまともに浴びて絵美奈は思わず目を閉じた。

「た、助けてくれ、向こうに化け物が・・・」
朋之と絵美奈の姿を認めて男の一人が足元に転がるようにして叫ぶ。
「化け物・・・?」
そう言った朋之の目がライトの薄明かりの中で鮮やかな緑色に輝くのを見て、三人は再び悲鳴を上げ足をもつれさせながら出口目指して駆け出していった。

「何だ、失敬な連中だな。あれでは俺が化け物のようじゃないか」
朋之は少し憮然としてそう言いながら、男たちが落としていった懐中電灯を拾い上げる。
「でも、丁度いいものを置いていってくれたな。ほら、お前にはこれがあったほうがいいだろう」
ライトのついたままの懐中電灯を受け取りながら、絵美奈は確かに少しだけ心強いと思う。

「あの人たち向こうに化け物が、って言ってたわよね・・・」
「ああ、とっとと封印して浄化してしまおう。伊織の方も気になるし」
朋之はそう言うと絵美奈を抱き上げスタスタと歩き始めた。
「お前と付き合って歩いていたんでは埒が明かない」

絵美奈はその肩に頭を持たせながら、それなら最初からこうしてくれればよかったのに、と思う。
その途端、
―――お前が俺の腕を放してくれなかったんだからしょうがないだろう
と言う言葉が響いてきた。

「私の心を読んだの!?」
と絵美奈が噛み付くように訊ねると
「読むまでもなく、お前は感情がまともに顔に出るから何を考えているかすぐ分かるさ」
と言う言葉が返ってきた。

そうこうするうち長く入り組んだ廊下を抜け唐突にがらんとして真暗な空間にでた。
懐中電灯の細いライトが照らし出す部屋の中心に黒くて大きいものが蠢いているのがおぼろげに見て取れた。
目を凝らしてよく見るとその半身は地中に埋もれているようだ。

「なんだか気味悪いわ。何あれ・・・」
妄蛾や黒翅蝙蝠には感じなかった異様な不気味さが絵美奈を襲う。
「あれは何かを寄り代にして人間の怨念、負の感情が固まったものだ。
ある意味異類異形よりも性質が悪いかもな。
でも今のお前なら簡単に封印できると思う」
朋之はそういいながら自分のすぐ傍らに絵美奈を下ろした。

人間の負の感情の塊―――それが先程から空中を浮遊しているものを取り込みどんどん大きくなっている。
それを呆然と眺めていた時足に触れる生暖かいものを感じ、絵美奈はそれこそ耳を劈くような悲鳴を上げた。

「変な声を出すな。お前の声の方がよほど恐いぞ」
あくまで冷静な朋之に抱きつきながら絵美奈は
「だって、足に変なものが・・・」
と涙混じりに恐る恐るやっとそれだけ言った。

「女だな、先程の連中の仲間か・・・?」
ライトに照らし出されたのは血の気の引いた顔をした若い女で、床に倒れ必死の形相で絵美奈たちのほうに手を伸ばして来る。
「た、助けて・・・」
その足にはどす黒いものが植物の蔓のようになって何重にも絡みつき、どうやらあの黒い塊のほうへと引き寄せようとしているようだ。

「全く。何の力もないものがこんなところに近寄るからこういうことになるのだ」
朋之はそう言って女を立ち上がらせようとその体に手をかけたが、今度はその手に黒い蔓が巻きついた。

「朋之!」
絵美奈が悲鳴を上げるが朋之はふっと笑うと、いい度胸だ、と言って軽く腕を振るう。
それだけでバチバチと電気がショートするときのような音がし、黒い蔓はいくつにも寸断され、霧状になって拡散していった。

朋之は足が自由になった女を立ち上がらせようとしたが、腰が抜けているのか女は足元がふらついて立っていられず、すぐにへたり込んでしまう。
そうこうするうち黒い蔓がすぐにまた忍び寄ってきて女の身体に巻きつき、女は悲鳴を上げて朋之にしがみついた。

「全くしつこい奴だ」
朋之は手近に落ちていた鉄の棒を掴むと突き刺すように振り下ろしてそれを退ける。
「こんなのを置いていかれたら迷惑だ。すぐ戻るから少し待ってろ」
朋之はそう言うと今度はその女を抱き上げ軽く跳躍してあっと言う間に遠ざかってしまう。

「ちょっと、こんなトコに一人でおいていかないでよっ!」
そう叫んだが朋之には聞こえてないだろう。
いやっ、私だってそんな大した力持ってないのに・・・
あの女が抱き上げられて朋之に見惚れていたのも妙に癪に障る。
そんな絵美奈の恐怖と嫌悪に反応するように黒い塊はあっと言う間に部屋一杯に広がった。

ただ不思議な事にあの黒い蔓も空中を飛び交っている浮遊霊も絵美奈には近付いてこなかった。
こんな連中がお前に何が出来るというんだ―――
朋之の言葉が心に浮かぶ。
そう思って対峙していると黒い塊は幾分小さくなったように見えた。

だがその塊の下―――地の底に何か居る。
そんな塊など問題にならないくらい憎悪と悪意に満ちた禍々しいものが・・・
それを感じたとき絵美奈は耐え難い恐怖に包まれた。