神鏡封魔録


昇天

  5.

突然に開けた広い空間、壁中に青と銀の不思議な文様が浮かび上がる不思議な円形の広間のちょうど真ん中に彫像のようなものが立っていて、それを挟むようにして絵美奈と朋之はこちらに背を向け、中空に浮かんでいる姫神様、天照と対峙しているのが伊織の目に映った。

「朋之様!」
伊織の声に絵美奈が振り向き、
「伊織君、乙彦君!」
と大きく声を上げた。

「へっ、やっぱり手こずってるようじゃねえか、月読」
「須佐か、やられたままで済ませるような奴じゃないとは思っていたが、ここまで追ってくるとはな、正直言って驚いたぜ」
朋之は振り向きもせずに声をかける。

「月読!俺の剣・・・」
「分かってる、だがプレート無しでいけるか?」
朋之は剣を掴んだ手を乙彦の方へと伸ばした。
その隙を突いて暁野は壁際まで転がった鏡のそばへと身を翻す。
が、伊織の方がわずかに早く鏡を拾い上げ瞬時に朋之の元へ戻った。

「ふん、死に損ないが集まって、わらわに勝つつもりとは笑わせる。しかも国つ神の助力まで仰ぐとは一族の権威も地に落ちたものよ」
国つ神、と言う言葉に絵美奈は伊織、乙彦とともに現れたもう一人の男に驚きの目を向けた。
その視線に答えるように穴牟遅は無言で軽く頭を下げる。

「巫女姫様、この者は国つ神の長穴牟遅、大己貴命です」
と伊織が早口で紹介する。
「穴牟遅・・・?」
「大国主命と言った方が分かり易いですか?我等はそう言った呼び方はしませんが」

「あ・・・!」
因幡の白兎の・・・と言おうとして絵美奈は慌てて口元を押さえた。
こんなときにいくらなんでも子供っぽ過ぎる、と思ったからだった。
その様子に穴牟遅は穏やかな微笑を浮かべた。

「よう、麗しの姉上様、威勢はいいが顔色が悪いぜ。守護の鏡無しじゃ分が悪いんじゃないのか?」
「プレートも持たぬそなた等など何ほどのものでもない。恐るるに足りぬわ!」
「そうかよ!この剣が恐くないとは恐れ入ったぜ!」
乙彦はそう言いざま思い切り振り上げた剣を暁野めがけて打ち下ろす。

だがその刀は暁野の身体に届く寸前で跳ね返された。
激しい光が瞬間的に迸りすぐに消える。
暁野の顔には不敵な笑みが浮かんだ。

乙彦は構わずに幾度も剣を振りかざし暁野に斬りつけるが結果は同じだった。
「須佐、無駄だ、相手の力が強すぎる」
「いや、そうでもないみたいだぜ」
そう言って幾度目かの攻撃を加える乙彦の剣が微かながら暁野が咄嗟に振り上げた腕をかすったように見えた。
暁野の腕が赤く腫れ上がっているのが見て取れる。

勢いづいた乙彦がすかさず剣を振り下ろすのを暁野は再び腕で受け止めた。
「ふん!」
その瞳が妖しく輝いたように見えた時、伊織の手にしていた八咫の鏡にピッという鋭い音が走った。

「何!」
鏡面にはあっと言う間にくもの巣のようなひび割れが広がっている。
「攻撃の衝撃を鏡に転じたか・・・」
「いけない、この鏡が割れたら・・・」
封印が破れる・・・

「もう遅い、ヒルコ神達は鳥船が動き出した事を知った。地表は割れこの世は異類異形の跋扈する世界となる」
「ばかな、奴等は太陽の光の下では生きられない・・・」
「それでももうあ奴等を止められる者はいない。ヒルコ神たちは鳥船目指して進んでくる。仲間の屍を乗り越えてな」
「そんなこと・・・」

「わらわが死ねばその鏡も割れる。東の封印は完全に破れるな。西のヒルコ神たちも大人しく眠っては居るまい」
「貴女はこの星を去っていこうとしているのに、何故そんなことを!」
「わらわのせいではない、鏡に打撃を与えているのは須佐だし、そもそもこの鏡にヒルコ神を封じたのは巫女姫、そなたではないか」

「!」
壁面はいつの間にか壁が透明になり、所々に雲が浮かぶ晩秋の青空が覗いている。
その大空の所々に薄黒い塊が出来始めていた。

「絵美奈、鏡を持ってるか・・・?」
「鏡?ううん、今朝は慌てて出てきたから・・・」
「そうか、そうだよな・・・」

絵美奈は「そうだ」と言って服の胸ポケットに手を当てた。
朋之に貰ったピンブローチの刺さった上着のポケットに、服のブラシとセットになった小さな鏡を入れていたのを思い出したのだった。
「これでよければ・・・」

絵美奈が手にする小さな鏡を見て朋之は絶句する。
「こんなのしかなかったのか・・・」
その台詞、たしか初めての封印の時と同じだ―――絵美奈はたったそれだけのことでなぜかとても嬉しくなって思わず笑顔を見せた。

「まあその元気があれば何とかなりそうだ。これにヒルコ神どもを封印しろ!」
「え、でも・・・」
「いいから、早く!」

こんな鏡で大丈夫だろうか、と絵美奈は思ったが迷っている暇は無かった。
とにかくやってみるしかない、絵美奈は封印の呪文を口の中で小さく唱える。
大気中に散った薄黒い塊は吸い寄せられるように鳥船の周りに集まり、やがて壁を通り越して絵美奈の手にする鏡へと吸い込まれていく。

伊織が手にした八咫の鏡は千々にひび割れ、欠片が飛び散り始めていた。
「無駄なこと、そのようなもので抑えきれるものではないわ!」
鳥船の周りがびっしりと黒い塊で覆われるのを見計らったようにガクンと船体が大きく揺れ、船の上昇が止まった。


闇御津羽は晄琉と久延彦を連れ、先程休んでいた場所まで移動した。
大地は絶えずぐらぐらと揺れ、里人は恐れをなしたのか家に閉じこもって外には出てこない。
あるいは姫神様からそういうお達しが出ているのかもしれなかった。

宮はあちこち破壊され、見るも無惨な状況になっている。
あちこちで連鎖的に柱が倒れ屋根が落ちていた。
地面の振動はますます激しくなる。

「我等はともかく、この方のためにはもっと安全な場所へ避難したほうがいいのでは・・・?」
躊躇いがちに言う久延彦に闇御津羽は晄琉を気遣いながらも
「逃げたければお前一人でどこへなりと行くがよい。里の中をうろつくのでなければ何処で何をしようが関心はない。万一に備えて私はここにいた方がいい、いや、いなければならないのだ・・・」
ときっぱりと言った。

「だが、貴女の身体は・・・」
「どの道私は長くはない、清らかな清流の沸き出づるところでなければ私は生きられないのだから・・・」
「闇御津羽さん!」
晄琉は思わずそう叫んで闇御津羽に抱きついた。

「大丈夫、皆無事に戻ってきます、それまでは何があっても持ちこたえ、貴女をお守りしますから・・・」
「ですが、この気配は・・・、どうやらあちこちでヒルコ様が騒ぎ出した様子・・・」
久延彦は眉を顰めながら呟く。
「ああ、そのようだな・・・」

激しい地震に地面に座り込みながら闇御津羽は眼下へと視線を向けた。
宮の北側、里の北端との半ばくらいの鬱蒼と茂った森の辺りが急激に盛り上がり、ぱっくりと地面が割れるのが見えた。

青というよりは銀灰色に輝きを放つドーム型のものがゆっくりと地面の下からせり上がってくる。
陽光を乱反射して一面に煌く巨大な球体を見て晄琉は思わず、「きれい・・・」と呟いた。
中央部分が上方に少しだけ盛り上がった形の薄い円盤状のものが次第にその全貌を現してくる。

「あれが天の鳥船、ですか。貴女方天つ神の乗り物である・・・」
「ああ。私もこうして実際に空を飛んでいるのを見るのは初めてだが」
闇御津羽は晄琉をしっかりと抱きしめながらそう呟いた。

―――あの形は我らが受け継いできたプレートに似ている。我らの力の源でもあり、それによってまた我らが縛られてもきたプレートに・・・
プレートにはそれぞれの分かち持つ力が文様として彫りこまれている。
今眼前に舞い上がった巨大なプレートにはさまざまな文様が影のようにその形を変えながら浮かんでは消えて、を繰り返していた。

その鳥船を包み込むように上空彼方から軟らかな光が降り注いでいた。
かつて先祖とともにこの星に降り立ち、さらなる新天地を探すため飛び立って行った仲間たち、その遠い子孫がかつての盟約を忘れずにこの地へと我等を迎えに来た。

不思議な光に導かれるように粗末なつくりの家々から里人がふらふらと表へ姿を現しだした。
皆一様に上空を指差し、何事か話し合っている。
里人達も悟った事だろう、長と仰ぐ姫神様が自分たちを見捨てて一人かつての仲間の待つ星へと旅立とうとしている事を―――

大地が揺らぎ、無数のヒルコ神とその子孫である異類異形と呼ばれる神々が地面の割れ目から噴出してくる。
そのほとんどは太陽の光を浴びて地面に落ち干からびてゆくが、その幾つかは群れを成してこの里へと、中空に浮かぶ鳥船の周りへと集まりつつあった。
太陽が秋の雲の陰に隠れるとヒルコ神達の動きは活発になり、見る間に鳥船の周りを取り囲み船体を覆いつくした。

それでも鳥船は上空からの光に導かれるようにゆっくりと上昇を続けて行く。
「お兄さんたちは・・・」
晄琉の口から心配そうな声が漏れる。
久延彦もまた不安そうに闇御津羽を見詰めていた。

「ああ・・・」
朋之や伊織達はまだ鳥船の中に居る。
姫神様の力は強大だ。
その手から逃れる事は難しいのだろう。
闇御津羽は最後の力を振り絞った。

大地の裂け目から激しい水流が噴き上げ、既にかなりの高度まで上昇していた鳥船をヒルコ神ごと包み込んだ。
水流は上空の低温に冷やされそのまま氷の塊となって鳥船を取り囲む。
船体がガクンと揺れ鳥船の上昇が止まるのが晄琉にも見えた。


「どうなったの?」
突然の揺れに倒れこみそうになった絵美奈は朋之に支えられてどうにか体勢を立て直した。
ヒルコ神たちは壁をするすると通り抜けて船体無いに入り込み次々と絵美奈の手にした鏡へと吸い込まれていた。

「鳥船の上昇が止まった。誰かが地上から上昇を阻止しているんだ」
「え?」
朋之の言葉に聞き返す絵美奈に今度は伊織が答える。
「こんなことが出来るのは、多分闇御津羽でしょう。アイツも怪我をしてるのに無茶をして・・・」

「アイツばかりにいい格好はさせられないぜ!」
乙彦はそう言うと伊織が手にした八咫の鏡を思い切り叩き割った。
「乙彦君、何をするの!!」

絵美奈の絶叫の中、粉々に割れた鏡の欠片は物凄い勢いで部屋の中央の彫像へと吸い寄せられるように飛んで行く。
その欠片の一片一片が鋭い刃物となって彫像の前に浮かぶように立っていた暁野の身体に突き立った。

破片は暁野の身体ごと彫像へと突き立つ。
「な、何としたこと・・・。なぜ・・・」
彫像に貼り付けられるような形で体中の傷から血を滴らせながら暁野は呟いた。

「忘れたのか、天照。銀晶石は互いに引き合う力が有る。お前のプレートだって引き寄せられていたんだ。ただお前の力が強いのでおまえ自身は気付かなかっただけなのさ。

この鏡も銀晶石で作られている。小さな破片とその彫像では引き合う力は断然そっちの方が強いから物凄い勢いで吸いつけられたんだ。
お前は丁度その間に立っていたというわけさ」
乙彦はうっとりと刀身を眺めながら得意げに言う。

「貴様、無鉄砲に攻撃していると見せかけて距離と角度を測っていたというのか・・・」
暁野の口からは薄っすらと血が流れていた。
「まあな、俺だって長い間には少しは学習したんだよ」
乙彦はそう言いざま、目にも留まらぬ速さで再び剣を大上段に振りかざし天照めがけて振り下ろした。

「あうっ・・・」
嗚咽のような悲鳴と共に暁野の首はがっくりと垂れる。
その身体を切り裂いた剣はゆっくりと彫像に飲み込まれ暁野の身体だけが床に滑り落ちた。

「止めを刺したのか・・・」
暫しの無言を破って朋之が乙彦に問う。
「ああ、そう思うが・・・」

絵美奈は微かに震えながらただ呆然と暁野の姿を見下ろした。
朋之と自分との間に立ちふさがる者はもういない、だが現実に血を流して倒れている女性の姿を目にして喜びなど感じられなかった。



  6.

「朋之様、早くこの船から逃れましょう。闇御津羽の術も長くは持たないし、巫女姫様の鏡も・・・」
伊織に言われ手にした鏡を見下ろした絵美奈は小さく悲鳴を上げた。
どす黒く染まった鏡面にはすでに幾筋ものひびが入っている。

「朋之、これ・・・」
絵美奈がそう呟いた時、倒れていた暁野の腕が微かに動いた。
身体中から血を滴らせながら暁野がゆっくりと起き上がる。
宙に浮いた身体は力なくダラリと垂れているがきっとこちらを見据えたその瞳はぎらぎらと輝いていた。

その様子に朋之はほんの少し目を細めため息を漏らした。
「わらわはこんな事では死なぬ・・・。わらわには・・・これがある・・・」
暁野はそういうと胸元から赤いカプセルを取り出した。
カプセルは暁野の掌で溶け、後にはゼリー状の小さな球体が残った。

「それが生命の木の実ってやつか・・・」
乙彦の言葉に穴牟遅の腕が小さく揺れた。
「木の実のエキスを半固体状に加工したものだ。長期間保存できるようにな。
我等が宝生命の木は旅の途中で枯れてしまった。この星に持ち込まれたのはその最後の実から作られたこのカプセルのみ。これは我等に無限の生命力を与えてくれる・・・」
暁野はそう言いながらカプセルを口に含む。

「ほほほほほ、そなたたちにわらわは倒せぬ。最後の頼み、天叢雲剣も飲み込まれてしまってはな。
だがせっかくこうして集まったのだ、我が新天地への旅立ちの供として召し具してつかわそう」

「伯母上、生命の木の実は危険だ。もはや我らの身体には・・・」
ゴクリと音を立てて暁野はカプセルを飲み込み、美しい笑みを浮かべる。
「巫女姫、そなたは月読は渡さぬ。伝説は繰り返されるのだ!」
その瞬間暁野の身体はまさに太陽の如く光り輝き部屋中を照らし出すように見えた。

「ふざけるな、巫女姫は月読と生涯添い遂げる、それが伝説の続きだ!」
乙彦が叫ぶ。
「ほほほ、愚かなこと!そんなはず・・・」

「あんたがどう思おうが勝手だが俺のプレートにははっきり記憶が刻まれている。月読命、璋瑛王は地上に降りて俺に、須佐に会いに来た、これから巫女姫とともにこの下界で暮らすのだと言ってな!」

「本当!?乙彦君」
「ああ、あの時月読はプレートを剥奪されてたから、朋之のプレートにはその記憶が残ってないだけだ。月読は巫女姫と暮らした、ひっそりと、だが幸せにな!」

そうか、では璋瑛王はあの後巫女姫ともう一度会って・・・そして一緒に暮らせたんだ―――
絵美奈は右の掌がぽっと温かくなるのを感じ左の手をそっと添えた。
その同じ乙彦の言葉に暁野の顔は歪む。
「ふん、伝説など何ほどのものでもない、わらわには関係ないわ!」

それが強がりであることを感じ思わず視線を落とした時、
―――生命の木の実・・・私のものだ・・・!
聞き覚えの無いしわがれ声が一瞬頭の隅を過ぎったような気がして絵美奈はえっと振り向いた。

今まで静かに事の成り行きを見守っていた穴牟遅の腕が音も無く持ち上げられる。
あっ、と思ったときにはその腕に巻きついた赤い珠を連ねた数珠がすっと腕からはずれ、宙を飛んで暁野の身体に硬く巻きついていた。

数珠が蛇に変形し首に巻きつくのにも平然として暁野は微笑を浮かべ続ける。
「ほう、国つ神にしてはなかなかやるな。死者の怨念を式神に使うとは・・・、だがこの程度では・・・」
そう言って高笑いを上げようとした暁野の顔は瞬時にして大きく歪んだ。
「ぐふっ、まさか・・・」
暁野は口から大量の血を吐き、そのまま床の上に落下する。

その顔に浮かんだ表情は苦痛ではなく驚愕・・・、そう絵美奈には見えた。
「ばかな、生命の木の実がわらわの身体を蝕むはずが・・・」
暁野は胸をかきむしりながらのたうちまわっている。

穴牟遅は硬く印を結んだまま
「建御雷殿、電撃を!」
と素早く叫んだ。
暁野に巻きついた蛇は益々強く暁野の身体を締め上げていた。

「おうっ!」
伊織は暁野のすぐ間近に飛ぶとその襟元を掴んで渾身の力を込めて電撃を見舞った。
「姫神様、お許し下さい。貴女にお仕えし、里の為に力を尽くすのが僕の使命だとずっと思ってきました。でも僕は・・・僕は自分の信じた方の為に僕の全てを捧げます!」

自分の呟くような声が暁野に届いたかどうか伊織には定かではなかった。
だが伊織には確かに聞こえたような気がした。
―――ふん、いずれ屈強の戦士に育つと見込んだわらわの目に狂いはなかったか・・・。今となっては皮肉な事だが・・・
「姫神様!」
伊織が一瞬力を緩めた時、暁野は信じられないほどの力で伊織を弾き飛ばした。

「まだだ、わらわはまだ・・・」
ごほごほと咳き込むたびに血を吐き出し身体に巻きつく蛇を振り払いながら暁野は彫像に手を付きながら上半身を持ち上げる。
なんて執念だろう・・・
絵美奈がその壮絶さに畏怖の念すら感じたとき、パリンと言う乾いた音が部屋中に響き渡った。

あっと言う間に部屋中に広がった黒い影に皆一様に言葉を失ったとき、
「ヒルコ神達よ、血の盟約を破りし者に血の制裁を!」
と言う声が響いた。
部屋中に溢れだした黒い影がいっせいに暁野に襲い掛かる。
暁野の身体はあっと言う間に影に取り込まれ見る間に干からびて行った。

「何てことを・・・。朋之・・・」
「仲間が迎えに来た時には我らは一族こぞって旅立つ・・・それが我等の盟約。貴女はその盟約を破った。一族の血の制裁を逃れる事はたとえ貴女でもできないのです」
朋之はひどく冷静に言葉を紡ぐ。
だがその本心は血の涙を流している事を絵美奈は充分すぎるほどに感じていた。

自分と父とを恐らくこの世の誰よりも愛してくれた伯母―――その思いを朋之は胸の奥深くへと押し込んでヒルコ神に飲み込まれていく暁野の姿をじっと見入った。

不意に朋之の上着が揺れ、ポケットから丸いものが飛び出した。
「あれは・・・」
「叔父のプレートだ。さっきポケットに入れたのを忘れてたな」

靖之の作らせたプレートは中央に深い亀裂を残したまま吸い寄せられるように彫像めがけて飛んでいく。
伊織のすぐ脇をすり抜けたプレートはヒルコ神たちと合体し、ぼんやりと人の形を取った。
「叔父上!」
「靖之様・・・」

「ふん、姉貴でもとうとうお前には勝てなかったな、朋之、いや浩之・・・。だがまあ,これでよかったのかもしれん。俺は新しい世界へ行く。こんな女でもたった一人の姉だ。一人で旅立たせるのも気の毒だからな・・・」
「叔父上、何を・・・」

影はゆらゆらと揺れながら暁野のものだった無惨な残骸を抱き上げると朋之と絵美奈にゆっくりと向き合った。
「さて、このヒルコ神たちは俺と一緒に仲間の元へ行きたいらしいが、お前たちは?
一緒に行きたいのなら連れて行ってやらんでもないが・・・」

ガタガタと船体が揺れ、ゆっくりとした上昇が再び始まる。
「俺たちはもうこの星の生き物だ。この星に根付いて生きていく。それが一番いいんだ」
朋之の言葉に乙彦も伊織も頷いた。

「まあお前ならそう言うと思ったぜ。ならもう行け。早くしないと逃れられなくなるぞ!」
その言葉が終わるまもなく影はゆらりと崩れあっと言う間に彫像に飲み込まれていた。

上昇のスピードが速まっていくのが感じられる。
「伊織、戻るぞ!」
乙彦はそう言って銀晶石の欠片を手にしたが物凄い勢いで欠片は彫像へと吸い寄せられてしまった。

「くそ、しっかり持ってたつもりだったのに・・・」
「とにかく俺たちの力でどうにか船から逃げ出すんだ!巫女姫の身体にはまだ勾玉がある・・・」
朋之の言葉に皆がいっせいに絵美奈を見る。

五人一塊になり、伊織と乙彦が移動の術をかけた。
絵美奈は無事地上へ戻れるよう懸命に念じる。
いつの間にか光を発していた右手が焼けるように熱く感じられた。

―――巫女姫様・・・
どこか遠くで鈴がなるような高く澄んだ声が聞こえた。
―――闇御津羽、私を呼んでくれるの・・・?

虹のハレーションと激しい疾風の中を駆け抜けたように感じ無意識に閉じた目をあけたときには、絵美奈は切り立ったがけ下の平地に立っていた。
「お兄さん、伊織さん!」
軽い耳鳴りの向こうから聞こえてくるのは、晄琉の声だ。
そして大地に横たわっているのは巨大な竜―――

「闇御津羽!」
駆け寄る絵美奈の手に触れた竜の身体は冷たかった。
「闇御津羽、貴女が呼んでくれたんでしょう、私たちのこと・・・」
「お義姉さん、この人さっきから少しも動かないの。少し前までは身体も温かかったのに・・・」
絵美奈の隣に座り込んだ晄琉は目に一杯の涙を湛えてそう言った。

「これがお前を呼んだんだ・・・」
絵美奈の髪に軽く触れた朋之がそっと言った。
「え・・・?」
見上げたその手にはキラキラ光る小さなものが握られている。

「お前の髪に引っ掛かっていた、闇御津羽の鱗の破片だ」
そう言って朋之は絵美奈の手にその破片を落とした。
朋之に斬られた鱗の一部が偶然絵美奈の髪についていたのだ。
偶然?
いや、きっとちがう、闇御津羽は・・・

絵美奈の目に涙が浮かぶ。
―――私は貴女が嫌いだ・・・
そう言った彼女の言葉が思い出され涙が止まらない。
―――でもそれと同じだけ貴女が好きだ。運命の女神に愛された幸せな貴女が・・・
そう、あの時闇御津羽はそう言った、その言葉が自分の死後絵美奈に届くように術をかけて・・・

絵美奈はそっと闇御津羽の傷付いた身体を撫でてやった。
まだほんのり光を発している右手で撫でてやると、闇御津羽の傷は少しずつではあるが塞がって行くように思えた。

「見ろよ、鳥船が飛んでいく」
乙彦の言葉に空を見上げた絵美奈の目に太陽よりも強い輝きを放つ小さな球体が天空の彼方に消えて行くのが映った。
残照だけが何時までも目に焼きつく。
光が消え去った後もしばらく朋之も乙彦も伊織も声もなく上空を見守っていた。

「さて、我らはもう退散した方がよいでしょうね。何時までも天つ神の聖域に留まっていてはご迷惑でしょうし、ヒルコ神達の噴出で世は大いに乱れていることでしょうから・・・」
穴牟遅の声に朋之、乙彦とともに振り向いた伊織は闇御津羽の身体が少しだか動いたように感じた。
止まっていた心臓が微かに動き出した気配も僅かだが感じられる。

「朋之様、闇御津羽が!」
えっ、と顔を上げた絵美奈に伊織が勢い込んで言う。
「闇御津羽が息を吹き返した!止まっていた心臓が動き出したんです。でもどうしてそんなことが・・・」

呆然と顔を見合わせる絵美奈と伊織の傍に朋之もしゃがみ込んで絵美奈の右手を取った。
「これが勾玉の本当の力なんだ・・・。鏡と剣と勾玉―――天照は創造を、須佐は破壊を司る。そして月読は・・・
時の神でもある月読が司るものは再生―――欠けても満ちる月を象徴するように・・・」

絵美奈の手にもはや輝きはない。
同時に強い力も失われてしまったのを絵美奈は感じた。
「銀晶石はその力を使い果たし消滅した。勾玉は闇御津羽の命を蘇らせる代わりに永遠に失われたんだ」

「朋之・・・」
絵美奈は何と言っていいか分からず朋之をただ見つめる。
「これでよかったんだ、この星にないものは我等に必要ない。我らはこの星の生き物として生きていくのだから・・・」
朋之は乙彦と須佐を交互に見てそう言った。

「おうともさ」
「はい」
二人の力強い声に絵美奈にもやっと笑顔が戻る。
晄琉もまた一緒に笑っていた。



  7.

息を吹き返した闇御津羽は穴牟遅の元に身を寄せることになった。
国つ神の里に湧き出る結界に守られた穢れのない清流で身体を休めることにしたのだった。
身体が完全に回復するまで、という話になって居るが闇御津羽はそのままずっと穴牟遅のところに留まるのだろうと絵美奈は思った。

天つ神闇御津羽を守り神としていただく事は国つ神にとってはこの上ない後ろ盾だろう。
だが闇御津羽が渋々ながらもそれを受けたのにはもっと別な理由がありそうだ、と絵美奈には感じられたのだった。

鳥船は宇宙の彼方に去ったが絵美奈たちはその後始末にしばらくの間忙殺されることになった。
鳥船に乗り損ねたヒルコ神たちを再び封印し浄化しなければならなかったし、長に去られた里と天つ神たちのことも考えなければならなかった。
幸い残ったヒルコ神達は数も少なく力も弱いものばかりだったので、封印と浄化はそれほど大変ではなかった。

新しく天つ神の長となった、というか、ならざるを得なくなった朋之はこれからは外の世界と接触しながら生きていくことを里の方針とする大改革を行うこととした。
多少のゴタゴタはあったが今や朋之に逆らうものはなく、天つ神たちも少しずつ外界に溶け込んで行くことになった。

朋之は今までどおり外界に住んで折に触れ里に戻る事にし、晄琉も念願かなって兄と一緒に東京の家で暮らせるようになった。
朋之としては里のことを伊織に任せたかったようだが、伊織は本人の強い希望でそのままあの洋館に同居を続けている。
朋之がそれを認めたのはそうすることが妹・晄琉の願いでもあることを感じ取っていたからだろう。

恐らく伊織もうすうす分かっているのだろう、そんな伊織に朋之は
「この家に居るのは認めるが、お前みたいな阿呆に妹はやらないぞ」
と本気とも冗談ともつかない意地悪を言う。
それに対し複雑な想いを胸に秘め、照れたように笑うしかない伊織を見て晄琉はほっと溜め息をついた。

伊織が本当に好きなのは兄なのだと晄琉には分かっている。
それでも好きになるのは止められない。
だがいつかきっと兄の代わりではなく自分自身が好きなのだと伊織に言わせて見せる。
そしてそんな日が来るのはそう遠くない、そんな予感が晄琉にはあった。

一方乙彦も朋之の居候を決め込んでなかなかに快適な生活を満喫していた。
大半の力は失ってしまったが生来楽天的な性格なのか悠々自適に暮らしている。
新年度から桜英学園が共学校になったこともあり至極ご満悦、と言ったようすである。

そして、絵美奈は・・・

あのあと二人きりになった時に絵美奈は疑問に思ったことを朋之に尋ねた。
「最後に叔父さんは朋之のこと浩之って呼んだけど、どうしてかな」
「ああ、あれは多分、父が俺にかけた術のせいだと思う」
「術?」

「ああ、別れ際父は俺に術をかけると言った。俺がより実り多い人生を歩けるようにと言って・・・」
「うん、それは・・・」
前に朋之の心を読んだとき絵美奈も聞いた言葉だった。

「俺にもずっと父がどんな術をかけたのか分からなかったんだけどな、父はおそらく自分の力を分けて俺に与えてくれたんだ。
俺が心から誰かを守りたいと思ったときに発動するように・・・。だから伯母が俺を操ろうとした時も俺は伯母の術にはかからなかった・・・」
「ああ!」

「多分そのため父は自分の死期を早めてしまったんだと思うが・・・」
絵美奈はいつか靖之が朋之の父浩之の死について語ったことを思い出した。
靖之のかけた魂写しの秘術に耐えられず浩之の心臓は止まってしまった・・・

そっと朋之の頬を撫でる絵美奈の手をぐっと握って朋之ははにかんだように微笑む。
「大事にしなくっちゃな、親父にもらった命だ。それに俺にはもう守るものが出来たんだし」
「朋之・・・」
朋之は絵美奈の肩を抱くとぐっと抱き寄せた。

「ねえ、そういえば朋之、伯母さんが私の身体に入っていた時私を抱き締めて誰かに話しかけてたよね、あれは誰に言っていたの?あのときあそこには私たちと伯母さんしか居なかったのに」
朋之はまじまじと絵美奈を見詰めた後、あはは、と大笑いした。

理由がわからない絵美奈はおろおろとその顔を見上げ困っている。
その様子をなんとも愛しそうに眺めながら朋之は
「なんだ、やっぱり気付いてないのか」
と楽しそうに呟いた。

「え、何に?」
「お前・・・、なぜ自分の力があんなに不安定だったのか、ほんとに分からないのか?」
「え?それは・・・私が自分の力を完全に使いこなせてないから・・・じゃないの?」

「まあそれもあるが・・・。お前の力は二人分だったってことさ。そしてもう一人はほとんど眠りっぱなしだ。だから・・・」
「?・・・なんのこと?」
困惑顔の絵美奈に朋之はほっと溜め息をつく。

「だから、やっぱり大丈夫じゃなかった、ってことさ。まあ、お前のいう事を鵜呑みにした俺も迂闊だったがな」
「朋之・・・、何のことか分からないよ・・・」
朋之はこれはもう手の施しようが無い、と言った顔をしてクスッと笑うとそっと絵美奈の耳元に唇を寄せて囁いた。
「だから・・・ハネムーンベビーさ!」



さてその後・・・
高校に入ったばかりの身にして、超美形、頭脳明晰な大財閥の御曹司と誰もがうらやむ出来ちゃった玉の輿結婚を遂げた姉、園部いや、北条絵美奈は一年間の休学の後どうにか高校を卒業、現在は通信制の大学で花の女子大生生活を送っている。
なにやら文化人類学を学んでいるそうだが、全く、羨ましいご身分である。

その姉を母親にしてしまった張本人である北条朋之氏は、大学在籍中に国家試験に合格、卒業後の現在は少壮の敏腕弁護士として活躍中である。
やっと十六になったばかりの娘がこともあろうに、と初めは卒倒せんばかりに怒っていた父をたちどころに丸め込んで、いや、味方にしてしまった義兄の手腕を見ればその活躍ぶりも押して知るべしというところか。

我が甥!は父親似の美形で聡明そうな子だが、なにやら人の目には見えないものが見えてしまう体質のようで、困ったものだと私などは思うのだが、義兄も姉もあっけらかんと気にもしていない様子。
ほんとにほっといていいのだろうか?
まあどうしようもないとは思うけど・・・

さて美形の義兄には美人の妹がいて、これが私と同い年なんだけど、モテるモテる、まったく言い寄る男の一人くらい分けてもらいたい・・・いや、それはともかく、その美人の妹にはしっかりイケメンでスポーツマンの婚約者がいるのである!
世の中ってつくづく不公平だわっ!

私にモーション掛けてくるのは義兄の家に居候している乙彦という男の子だけ。
どうやら年上の女の子が好きらしいけど、もうちょっと大人になってくれなきゃね!
てなわけで、今年も暑い日が続く中、姉の様に美形を捕まえるべく自分磨きに涙ぐましい努力を重ねる今日この頃の私なのです。

園部裕美奈