暁の大地


第二章




フィルデンラント
西岸の港町 アディエール

「リヒャルト様、これはまた随分な賑わいですな」
「ああ、そのようだな。以前来た時はさびれた港町、といった感じだったが・・・」
港からは幾艘もの船が次々に出港していく。
岸壁は出港する船を見送る人と、次に出航する船に乗り込もうとする人でごった返していた。

その様子を酒場の窓から眺めながらリヒャルトとテオドールの二人連れは久々の酒を酌み交わしていた。
「あんたたち知らんのかね。グリスデルガルドで久々に戴冠式があるっていうんで各国の大使やら祝い客やらが渡航するんでここ何日かは大変な混雑振りなんだ」
すぐ脇を通りかかった酒場の親父が満足げに言う。

「この間はラインハルト王子の船が出港したんだ。フィルデンラントとグリスデルガルドの国旗を掲げたそれは壮麗な船だったぜ。 王族の姿を間近で見れるなんて滅多に無いことだから、人出も今日見たいんなもんじゃなかった。向こうの山のほうにまで見物の行列ができてたもんな。 あんたたちももっと早く来たら王子様の姿が見れたのに残念だったなあ」

親父としてみればそれこそここ何日かで数年分の儲けを見込んでいるのだろう、顔がにやけっぱなしである。
「王子様、ね・・・」
「しかし、これではグリスデルガルドには簡単に渡れそうも無いですし、リヒャルト様、ここは一つ当初の予定通りフィルデンラントの王都へ向かうことにしてはいかがでしょう」
テオドールは揉み手をしながら言う。

「お前としてはこの状況は願ったり、といったところというわけか・・・」
リヒャルトが皮肉な口調で言うのを
「と、とんでもない、私はだた、この様子では渡航する船の手配も大変だろうと思っただけですよ。そんな・・・」
「まあ、確かにそうだな。親父、グリスデルガルド行きの船に乗るにはどうすればいいのかな?定期便くらいあるのだろう?」

「へえ、定期便の他に臨時便もかなり出ていますが、もう全部予約で一杯でしょうよ。
貨物専用船なら多少の空きはあるかも知んねえですけど」
「うへぇ・・・」
「変な声をだすな、テオドール。戴冠式までにはまだ間がある。船主と掛け合ってみよう」
リヒャルトはそう言うと親父に船主を何人か教えてもらった。

善は急げと渋るテオドールの尻を蹴飛ばすようにしてリヒャルトが教えられた船主の一人のところにやって来ると、すでに先客がいてなにやら揉めている様子だ。
船主らしき年配の恰幅のいい男と喧喧諤諤交渉しているのはまだ若い商人風の男だった。
「何としても急いでグリスデルガルドに渡らねばならぬのだ。
無理を承知でなんとか一艘手配してもらえぬだろうか。
金ならいくらでも出す」

「いや、旦那、いくら金を積まれても無理なんでさ、船と言う船がもう予約で一杯で・・・
これでも持ち船をフル回転させて頑張ってるんですがね、何と言っても戴冠式が終わって一段落つかないと・・・」
「緊急事態なんだ、貨物船でも何でもこの際構わないから・・・」
「そう言われてもねえ、申し訳ないがよそを当たってもらえんかねえ・・・」

これ以上話しても埒があかないと踏んだのか、男は溜め息をついて傍らに控えた二人の従者のうちの一人に仕方ない他を当たるか、と言った。
「ですがアルベルト様、他を当たると言っても・・・」
「そうだな・・・」

その男の横顔をチラリと見てリヒャルトはおや、と思った。
何処かで見かけたような・・・
一度見た相手の顔は忘れない、それがリヒャルトが生まれながらに授かった人に誇れる才能の一つだった。
確かに見覚えがあるがはて、何処で会ったのかは思い出せない・・・

「かなりお困りのご様子ですな」
リヒャルトはアルベルトと呼ばれた男に声をかけた。
アルベルトはやや不審そうな面持ちでリヒャルトを見詰めながらも
「ええ、この戴冠式騒ぎで何処の船もすっかり押えられてしまっていて・・・
これまでも何軒か船主のところを回ってみたのですが、何処でも断られてしまいました」
と苦笑気味に答えを返してきた。

「聞けば緊急事態だとか・・・」
「はい、ちょっと急ぎの事情がありまして・・・どうしてもグリスデルガルドに、しかも至急に渡らねばならぬのですが・・・」
「リヒャルト様、こりゃ、諦めたほうが良さそうで・・・」
とテオドールが口を挟むのに肘鉄を食らわせ、
「実は私どももグリスデルガルドに渡らんと船を捜しているのですが、後何軒か船主を紹介してもらっているのでよろしかったらご一緒にどうですか?」
リヒャルトはアルベルトにそう申し出てみた。

日頃の主人に似つかわしくない行動にテオドールは目を白黒させている。
アルベルトは
「それはありがたいことで。ですが、私共ももう何軒も回って断られています。その紹介された中にすでに回ったところが含まれているかもしれません、よかったら何処を紹介されたのか教えていただけませんか。」
と言って来た。

リヒャルトは勿論ですとも、無駄足はこちらもごめんだ、とアルベルトに酒場の親父が言った名前を書き付けた紙を見せた。
結局その中でアルベルトたちが行っていないところは一軒しかなく、アルベルトとリヒャルト、そしてその従者たちの五人は連れ立ってその船主のところへ行く事になった。

「なんですかね、ここは。まるで廃屋じゃないですか・・・」
街はずれの場末の崩れかけた建物を見てテオドールが素っ頓狂な声を上げる。
「しっ、滅多なことを言うな、ここで断られたらお手上げなのだぞ」
リヒャルトに思い切り足を踏まれアルベルト主従には横目で睨まれてテオドールはしゅんと身を小さくする。

何度か声をかけてようやく奥の暗がりからよろよろと小汚い爺さんが出てきた。
昼間から安物の酒を飲んでいるらしい。
「うっせえな〜、人がせっかく気持ちよく寝てたって言うのに一体何の用でえ」
こりゃ〜見込みなさそうだ。もっとも俺っちにはその方がありがたいが・・・
と、テオドールは内心ほくそえんだ。

アルベルトはお休みのところ申し訳ない、と言って懐から巾着袋を取り出す。
紐をほんの少しだけ緩めて金色の光をチラリと拝ませると老人は打って変わって慇懃な態度で、
「これはこれは、大変失礼をば・・・して御用の向きは・・・?」
ということになったのだった。
かくして、今にも沈みそうな老朽船ではあるがとりあえず船の手配をつけることが出来た一行は、早速明朝早く出立することとし、支度を整える為その場は別れた。

「まったく、リヒャルト様大丈夫なんですか。あんなボロ船でホントにグリスデルガルドにたどり着けるとお思いで?
それにあのアルベルトとか言う奴、見てくれは商人風でしたがどうにも腰が高い。本当に商人かどうかわかったものではないですぜ」
と宿屋で夕食を取りながらテオドールが言う。
「まったく、そんなにグリスデルガルドに行きたくないのならお前は来なくてもよいのだぞ」
リヒャルトは少々うんざり気味にそう言ってやった。

「いや、ご主人様どうか私をお見捨てにならないで下さいよ〜。そんなつもりで言ったのではないんですから・・・」
「では、どんなつもりなんだ。確かにあのアルベルトという男は商人というよりは学生とでも言ったほうがいいような雰囲気だったが、最近は学のある商人も増えているしな。
物腰は丁寧だったし育ちも良さそうだ。金もたんまり持っているようだったし。
それに向こうから見れば我らこそ胡散臭い連中だと思われているのではないか? とくにお前はな」

「へええっ!そりゃないですよ、ご主人様・・・」
テオドールはテーブルに顎をつけてへこんだ様子を実演して見せた。
「にしても、リヒャルト様は何故そんなにグリスデルガルドへお行きになりたいんで。別にお知りあいもいないんでしょ、あんな辺境に」

「まあそうなんだが、何かが動きそうな気がするんだ、私のいつものカン、という奴だが。」
リヒャルトは蒸留度の低い地酒をあおりながら言う。
「へえ、まあご主人様のカンはよく当たりますけどね・・・」
確かにリヒャルトのカンは良く当たる。そのお陰でリヒャルトと行動をともにするようになって以来テオドールも結構いい目を見せてもらってきた。

今度も何かいいことがあるのなら、田舎めぐりもそう捨てたものでもないかもしれない、そう思ったとたん現金なテオドールは
「ま、そういうことならわれわれのグリスデルガルド行きの旅が平穏であることを祈ってもう一杯行きましょうや」
とたちどころにご機嫌になる。
「まったく、私の金だぞ、少しは遠慮しろ」
リヒャルトはやれやれと肩をすくめた。

その夜アディエールの港から少しばかり南に下った人気のない岸壁の上に黒衣に身を包んだ二つの人影が立っていた。
遠めに夜半まで賑わう港町の明かりが仄見えている。
「暢気なものね、人間て。危険が喉元まで迫らないと何も感じないなんて」
「・・・」
「ま、そのお蔭で私たちも動きやすいって訳だけど・・・」
「ふっ、そういうことだ。」

海から吹きぬけた一陣の風に黒衣のすそが舞い上がる。
服装からして男女の二人連れのようだ。
「間もなく風が変わる。そのときに一気にこの海を渡るぞ」
「わかったわ。風の魔法は私の得意技。任せて頂戴」
「その言葉、信じて大丈夫か?」
「勿論。あなたはただ立っているだけでいい。次の瞬間にはもうこの海を越えているわ。」
「・・・そう願いたいものだ・・・」
男のほうが風で乱れたフードを直す。月明かりにを反射して輝いた瞳は限りなく黒に近い深い緑色だった。






グリスデルガルド
王宮

「早く、早く、ヨアヒム」
元気のよいルドルフの声が王城の中庭にこだまする。
「フィルデンラントのご一行の行列が見えてきたってよ」
物見用の城壁から身を乗り出すようにして東の方角を仰ぎ見るルドルフを、ヨアヒムは
「ルドルフ様、あまり身を乗り出してご覧になると危ないですよ」
とたしなめた。

いくら見てくれは小姓の様でも一応は年頃の王女様だ。
もすこし落ち着いて大人しくしてもらわねばこちらの身が持たない・・・ヨアヒムは人知れず溜め息をつく。

フィルデンラントの王子ラインハルトの一行は端指物を立てながらゆっくりと近づいてくる。
王子と側近の者数名、後は近衛兵と護衛の武官たち総勢三十人弱にグリスデルガルドの迎えの使者と兵士を加えた五十人近くの隊列だが、騎士の装備や武具に日の光が反射してたいそう壮麗な行列である。
従者と思われる歩兵に傘を差しかけられているのが王子だろう。
遠目なので姿かたちはよく判らないが・・・

一行は城外で小休止したのち入城してきた。
ルドルフも謁見の間で兄フランツとともに現国王の祖父マリウス王の両脇に控え王子を迎えた。
ラインハルト王子はフィルデンラントの王族の徴である金髪碧眼のなかなかの美少年で、その物腰や態度もたいそう優雅で気品を感じさせ、並み居るグリスデルガルドの面々は、やはり神の血を引くと言う八聖国の王族は普通の人間とはどこか違うものだと驚嘆したのだった。

マリウス王は自ら玉座を滑り降りラインハルト王子の手を取って出迎え、王子を自分の代わりに玉座に座らせ自らはその傍らに控えるようにして立った。
ラインハルトは一旦は辞退するような素振りを見せたが、自らが連れてきた初老の従者が無言で大きく頷くのを見て、では、とその玉座に座った。

グリスデルガルドはフィルデンラントの属国なのだからこれはある意味当たり前のことなのだろうが、ルドルフとしては何となく面白くない。
ほんの少し頬を膨らませて視線を逸らせたルドルフは、ラインハルトの従者の一人である道服を着た少年と目が合った。

ふくれっつらを見られたかと、一瞬顔を強張らせたルドルフだが、相手はほんの少し微笑を見せただけですぐに視線をそらせてしまった。
ラインハルトの侍従であるという先ほど頷いて見せたセルダンという名の初老の男が自ら自己紹介した後、こちらは王子付きの魔道士で、今回特別に連れてきた者ですと言ってルドルフと目の合った少年を皆に紹介した。

少年の名はハラルド、通称ハルといい、歳はまだ十五だが魔法の腕前は大人顔負けで、ヴィンフリート国王もたいそう目をかけている者だと言うことだった。
ルドルフは自分と同い年のこの金髪で水色の瞳の少年に少しばかり興味を持った。

次の日、フランツ王子はラインハルト王子を図書室に招き、大陸の情勢やら各国間の力関係のことなどを話し合った。
フランツはラインハルト王子から大陸の色々な話を聞けてたいそう興味深いらしい。
ルドルフも初めは鹿爪らしい顔をして二人の会話に加わっていたのだが、すぐに退屈になってしまった。
その様子を察したフランツはお前は下がっていてもよいぞ、と言ってくれた。

では、と思い退出しようとするとあのハルが
「ラインハルト様、僕も下がっていてよいでしょうか。できればお城の中をいろいろと見て回りたいと思っているのですが・・・」
と言い出した。

セルダンが慌てて
「何を言うのだハラルド、そんな勝手なことを・・・」
と言うのを、フランツは
「まあ、よろしいではないですか、魔道士殿にはこんな話は退屈なのでしょう。
ラインハルト様さえお構いなければ、好きにさせてあげたら・・・
ルドルフ、お前どうせ暇なのだろうから魔道士殿を案内してあげるがよい。
こんな田舎ですから興味を引かれるようなものは無いかも知れませんが・・・」
と笑いながら言った。

ラインハルト王子は少し困ったようだが、ハルがにっこり笑っているのを見て、
「私は別に構わないが・・・」
と言ったのでセルダンも渋々了承し、かくてルドルフはハルを案内して城内を回ることになった。

「よかった、退屈していたんですよ。僕は政治の話とかはあまり好きではないんで」
ハルが笑いながら言う。
「あの・・・ハル、って呼んでいいかな・・・」
「勿論ですよ、王子様」

「実は僕も政治の話とか苦手なんだ。フランツには王族たる者そんなことではいけないといつも言われてしまうんだけど・・・」
「ハハ、本当はラインハルト様もしょっちゅう国王陛下から同じようなことを言われているんですよ、内緒ですけど」
「ええ―――っ!信じられない、あんなにカタブツそうなのに・・・」

ハルがいたずらっぽく笑っているのに
「嘘だろう、フランツととても熱心に話していたし・・・
それに背も高いしとても落ち着いていたし何だか僕と同い年には見えない感じだな。
そういえばハルも同じ十五歳だったっけ・・・」
ルドルフは自分より幾分小柄でどことなく華奢な感じのする少年をまじまじと見詰めた。

「まあ、そうなんですけどね。でもフランツ様はとても聡明で誠実そうな方だ。新しい王様を頂いて、きっとグリスデルガルドはこれからもっともっと発展していくでしょうね」
フランツを誉めてくれたからだけではないのだろうが、ルドルフはこの魔道士の少年がとても気に入った。
何より、長く王子に仕えているせいか、はきはきと物怖じしない性格で卑屈なところが無いのがいい。

ルドルフはひとしきり城内を案内した後、王族以外のものは決して立ち入ってはいけないと言われている宝物庫にハルをこっそりと案内してやった。
どうせフォルマンやヨアヒムもルドルフに引き摺られて入ったことがあるのだし、ラインハルト王子の従者なら問題ないだろうと思ったのだ。

城の奥深くタペストリーの裏に隠された秘密の裏階段を何階分も下りてたどり着く秘密の部屋―――
「この部屋の鍵はお爺様とフランツ、そして僕しか持っていないんだ・・・
本当は王族以外のものは入れちゃいけないんだけどね、今は特別なものがあるからハルにだけこっそり見せてやるよ」
そう言って何年ぶりかで宝物庫の扉を開ける。

明り取りの窓すらない真っ暗な部屋だが何処かに通気孔だけはあるらしく、細い風の流れがあり空気は新鮮だった。
ルドルフが手にした細い松明の光に照らされて、数多くの財宝が闇の中から浮かび上がってくる。
宝玉を散りばめた装飾品の数々や壁に掛けられた数え切れぬほどの宝剣や、宝槍の類。
美しい機織物や壮大なタペストリーもあった。

中でも部屋の中央の大理石の上にガラスのケースに収められて置かれている剣が一際目を引く。
「あれが特別なものですね・・・」
ハルの言葉にルドルフは自慢げに頷く。
その剣からはオーロラを思わせるような淡い光が放たれていて、ガラスケースを通過してあたりをぼんやりと照らしている。
ハルは魅せられたようにその剣に近づいて行った。

「これは・・・すごい剣ですね。周りの空気がこの剣の力で鳴動している」
「そうなのか?僕には何も感じられないけど・・・」
ルドルフは不思議そうな顔をしてすぐ傍に近寄った。
ハルがケースに手を触れようとして弾かれたようにその手を引っ込めた。
「どうした?」

「これは・・・結界が張ってありますね。やたらなものが触れられぬようにとの配慮でしょう・・・」
「そうなのか?」
ルドルフもケースに手を近寄せてみる。
確かに軽い電流のようなものを指先に感じあわてて手を離した。
「本当だ」

ハルは屈みこむようにしてケース越しにじっと剣を見詰めていたが
「刃に銘が彫ってあるな・・・ええと・・・」
と言ってルドルフから松明を借り受けいろいろな角度から剣を照らしてみた。
ルドルフもその傍に動揺に屈みこみ剣を見つめる。
確かに剣の柄に近い部分に何か文字のようなものが刻まれているようだ。
これは確か・・・

「これは多分・・・清らかなる者には恩寵を、邪なる者には鉄槌を・・・と読むのだと思うけど・・・」
とのハルの言葉にルドルフは驚きを隠せない。
「ハル!この文字が読めるのか!?
これは神格文字だろう?読み方は一般には伝わっていないはずだ。
前に神格文字を読み解く方法が伝わっているのは神の血を引く八聖国の王家だけだろうとフォルマンが言っていた。
僕もこれが神格文字である事だけは判るけど、なんて書いてあるのかはさっぱり判らないのに・・・」

目を見開いて自分を見つめるルドルフにハルは少し照れたように、
「えっと・・・実は、僕は国王陛下やラインハルト様と一緒に育ったので、こういう文字も教えていただけたのです。
本当は僕のような者が読めてしまってはいけないものなのでしょうが・・・
長い文章を完全に読みこなすことは無理ですが、この程度の短いものなら何とか・・・」
と言った。

ルドルフは驚嘆を持ってこの魔道士の少年を見詰める。
「へえ、すごいんだ・・・」
その剣の傍らに黒曜石のような黒い石で出来た小さいオーブが台座に乗せられて置かれている。
「この剣とオーブはルドルフ一世のものなんだ。妖魔族を倒すのに使ったものらしい。剣はともかくオーブのほうはどうやって使うのかよく判らないけど・・・」

「このオーブにも強い波動を感じますね。」
ハルはそう言ってオーブにそっと手を近づける。
「やっぱり・・・このオーブには強い力を感じる・・・これをどう使いこなすのか僕にも判らないですが・・・そしてこれにも結界が張ってありますね。」
「そうなんだ。」
そう言うとルドルフは静かに立ち上がった。

「この剣とオーブは戴冠式のとき使うんだ。普段はこの城の北東にある神殿に厳重に保管されていて誰も近寄る事さえ出来ないんだけど、今度の戴冠式のためにこの間、こっそりここに運び込まれたんだ。三日間潔斎した巫女しか触れないことになっているんだぜ。
戴冠式の前日またその巫女がこの部屋まで取りに来て一晩玉座の間に安置しておくのが慣わしなんだって。
多分その巫女が結界を張ったんだろう。やたらなものが触れないように」
「そうなんでしょうね・・・」
ルドルフは他にも目ぼしそうな宝物をハルに見せてやり、宝物庫を後にした。

その日からハルはルドルフのお気に入りとなり、ヨアヒムと一緒にルドルフと始終行動を共にするようになった。
ハルは本来ラインハルト王子のすぐ傍に控えていなければならないのだが、ルドルフが何だかんだと理由をつけて引っ張り出したがるので、ラインハルト王子もハルがルドルフとともに行動するのを黙認してくれていた。

もっともラインハルトの教育係兼お目付け役のセルダンはハルが他国の王子とばかり一緒にいるのがどうにも容認できないらしく、始終ハルの様子を覗きに来ていた。
ラインハルト王子はセルダンには全く頭が上がらないようで何事においてもセルダンの言いなりになっている。

ラインハルト王子といえばかなり闊達な王子様だと聞いていたグリスデルガルトの面々は、物腰柔らかく何事につけ行き届いた気配りを見せる王子に、本当に見ると聞くとでは大違いだ、と口々に噂しあった。

フォルマンなどは、
「まったく王子様の典雅で優美なことといったら、さすが八聖国の王子様はやはりどこか違いますな、まったくルドルフ様と同い年とはとても思えません。
フランツ様とお話されているのを聞いていてもその博識ぶりは目を瞠るものがありますし・・・」
とすっかり気に入ってしまった様子だ。

この後は必ず
「ルドルフ様も少しは見習って頂きたいもので・・・」
と長いお説教が続くことは判っているのでルドルフは先手を打って、いつも煙に巻いてしまうのだった。






グリスデルガルド
ディーターホルクスの港町

今にも沈みそうな船で地獄のような船旅を三昼夜辛抱し、どうにかグリスデルガルドに辿り付いたリヒャルトとテオドールは急いで王都に向かうと言うアルベルト一行と船着場で別れ、とりあえず手近な酒場で一杯としゃれ込んだ。

「まったく、よく揺れる船で。まだ頭がぐらぐらして地面が揺れているような気がしますよ。あの連中すぐに馬を買い入れて王都に向かうといっていたけど、よく平気な顔して馬になんか乗れますよね。あれじゃ商人じゃなくてまるで軍人だ」

「軍人ね・・・そういう感じには見えなかったが。よほど急いでいたのだろう、瑣末なことなど気にしていられないくらいに」
「ちっとも瑣末じゃないですよ〜。俺っち三日間戻しっぱなしで最後の方にはもう戻すものすら無くて死にそうな思いを・・・」
「判った、酒がまずくなるからその辺にしてくれ。にしても、その割にはよく飲み欲食うなお前・・・」
「まあ、切り替えの早いのがテオドール様の取柄、ってね」
テオドールはそう言ってえへへ、と笑った。

アディエール同様この港町もたいそうな賑わいを見せている。
普段なら定期便が入るほかは漁船が水揚げに来るくらいしか船の出入りも無さそうな港が引きも要らず入港して来る船でごった返している。
そのため、宿屋なども相部屋は当たり前、それでも部屋が足りず、民家が余った部屋を提供する一次的な木賃宿まで出来ている始末だ。
なんとかグリスデルガルドに渡れたもののこれじゃ先が思いやられる、テオドールはまたまた悲観しそうになる。

リヒャルトは宿が無いなら野宿すればよいだろうと至って呑気である。
それはそうなのだがずっと野宿を続けてきてやっとフィルデンラントの王都でのんびり出来るはずがボロ船に揺られてこんな田舎まで来てまたしても野宿かよ、とテオドールとしては泣きたくなるような気分だった。

「一休みしたら出かけるか?王都までは二日もあれば余裕で着くがこの分では宿の確保が難しそうだからな、少しでも早く向かった方がいいだろう」
「やっぱり行くんですか〜?今なら帰りの船はどれもスカスカだから楽にフィルデンラントへ戻れそうなのに・・・」

「せっかくここまで来たのだ、戴冠式を拝まずに帰る手は無いだろう」
リヒャルトの言葉に
「戴冠式って、我々のような一介の旅のものが戴冠式に出席できるわけが・・・」
とテオドールが言うと、
「城の中には入れなくても、新王のお披露目のパレードが行われるはずだ。滅多に見れない見物だぞ」
リヒャルトはそう言って笑ったのだった。







グリスデルガルド
街道の宿場町

一方早馬を雇って王都への道を突き進むアルベルト一行は、従者の一人が体調を崩している事もあり、途中の村で馬を休ませるため小休止を取っていた。
「申し訳ありません、アルベルト様、私のせいで予定が大分遅れてしまって・・・」
「気にするなヨーゼフ、どの道船の手配が思うように行かず大分遅れてしまったのだ。こうなったら遅れついでだ。明日中に王都の分協会にたどり着ければ問題はない。戴冠式にもどうやら間に合いそうだしな」

「やはりアディエールの港で我等の身分を明かして船を調達した方が宜しかったのでは?ロドニウス教会の命令を拒めるものはおらぬはず・・・」
「しっ・・・ニコラス、言葉に気をつけろ。ロドニウス教会が動いている事は極秘、そう賢者ゲラルド様に念を押されたのをもう忘れたのか。二度と教会の名を口にするな、よいな」

「はっ、申し訳ありません、アルベルト様・・・」
「われらは商人、教会へ詣でるのも加護を祈り寄進を行うため、重々忘れるなよ」
「はい・・・」

アルベルトたちが話をしている宿屋の厩舎の裏側、大地に落ちたその厩舎の影が陽炎のように揺れた。
やがて影の一部は細長く盛り上がり人型を取る。
「やはり動き出したか、ロドニウス教会が・・・」
そのまま影はかき消すように消え、後にはもとどおりいつもの厩舎の影だけが残った。






グリスデルガルド
王城郊外

王宮ではこの頃はフォルマンもフランツ、ラインハルト両王子の政治談議に加わるようになり、ルドルフの教育係は一時返上の形になっている。
それをいいことにルドルフは毎日のように城外へと馬で遠乗りに出かけていた。
戴冠式の見物に他国のものが大勢王都に詰めかけていて中には不穏な動きをするものもあるからと兄や教育係に諌められても大人しく聞くようなルドルフではない。
こっそり目を盗んではヨアヒムをつれ、城を抜け出していた。

戴冠式を明後日に控えたその日も城外へ繰り出すべくヨアヒムを従え忍び足で厩舎へ向っていると、途中ラインハルトの用事でフランツを捜しているというハルとばったり出会ってしまった。
へたに注進されても面倒だと思ったルドルフはこれもまた強引に従者に加えることにする。

ハルはセルダンに黙って城を離れることをひどく心配している様子だったが、ルドルフが侍女に伝言を頼めば大丈夫だと半ば無理やり連れ出したものである。
ルドルフは魔法というものをまだ見たことが無いので、どうせならこの機会に煩く言うものがいない城外でハルにその魔法を実際に使って見せて欲しいと思ったのだった。

小姓二人が城下町を駆け抜けるのはいつもの風景だが、それが王子様とその従者だと気付いているものは居ない。
今日はそれに魔導士が加わっての三人連れだったが、気に留めるものはほとんどいなかった。
早馬など珍しくも無いし、それより皆間近に迫った戴冠式のほうに夢中だったのである。

郊外の見晴らしのいい丘の上まで来て草むらの上に座り込みながらルドルフはハルに何か魔法を使ってみてくれないか、と頼んでみた。
「うんと簡単なものでいいから・・・」
そういうルドルフにハルは躊躇いながらも
「それは出来ません」
と言った。

「なぜ?君は魔導士なんだろう?」
ルドルフが不思議そうに聞くと
「それはそうですが・・・
必要もなく魔法を使うことはできません、それは魔道の理に反しこの世の流れに逆らう元となる。そう僕は師から教わりました」
とハルはきっぱりと答えた。

ヨアヒムが
「おいっ、我が王子のご命令が聞けないというのか!?」
と気色ばむのにハルは平然と
「たとえ王子様のご命令でも従うわけにはいきません」
と言い放つ。

「貴様・・・属国の王子と思ってルドルフ様を軽んじるか!?」
ヨアヒムがハルに詰め寄ろうとした時一陣の風が舞い上がり大気が揺れた。
「その小僧の言うとおりだ」
その言葉とともに三人のすぐ傍に黒衣の男が出現していた。

黒い道服を着た魔道士だ。
肌の色は抜けるように白いが、その目は限りなく黒に近い深い緑色で、フードから零れる軽く波打つ髪は漆黒だった。

「お前、一体何処から・・・」
ルドルフが呆然と訊ねる。
確かについ先程まで此処にはルドルフ、ヨアヒム、ハルの三人しかいなかったはずだ。

ハルはふっと我に返り、
「ルドルフ様これは魔道士です。魔法を使ったのです!」
と叫んだ。

それにしても、なんと言う強大な魔法の力だろう、とハルは心中驚いていた。
この男の魔法の余韻にまだ大気が振動している。
自分の魔法などではとても太刀打ちできそうもないない。
これほどまで強大な力を人間の身でもつことができるとは・・・

ハルの声にヨアヒムも我に返り、ルドルフを庇うように男との間に割り入った。
「王子様とやら、その魔道士の小僧の言うのが正論。
それでもこの世の理を乱し悪戯に魔法を使わせてその結果引き起こされる全ての事態に責任を持てると言うなら止めはしないがな・・・」

目深に被ったフードのせいで顔は半分ほど隠れているが、かなりの美形である事は間違いない。
ルドルフは魅入られたようにその瞳を見つめたまま呆然と突っ立ったままだ。
ヨアヒムもまたその圧倒的な迫力に気後れして脚が震えている。
ハルは自分がしっかりせねばと気を取り直し、一歩前に進み出て男と対峙した。

この男が現れたとたん地脈が大きくが震えだした。
まるで恐怖に身を捩り泣き叫んでいるような大地の波動・・・
魔道の心得の無いルドルフ王子やヨアヒムは何も感じていないようだが、これは大地の信号だ。

この男は危険―――
危険―――
危険―――

男はヨアヒムとルドルフにはかまわずに真っ直ぐハル目指して歩を運ぶ。

「ほう、大地の震えを感じるか・・・、少しは使えるようだな、小僧」
光を映さぬ深い緑の瞳がハルを見据える。
その手がほんの一瞬僅かに伸ばされただけでハルは体中を電流が流れるような衝撃を感じその場に尻餅を付いた。

「お、お前は・・・」
「ハル!」
ルドルフが抜き放った剣を男に向けてハルに駆け寄った。
いけない、王子。貴方では敵わない・・・
ハルはとっさにそう思ったが言葉にならない。

男はルドルフをちらりと見て、
「勇者ルドルフの血を引く者か。奇しくも名まで同じようだが、果たしてあやつほどの力を持てるものかな・・・?」
と呟くと、口元に嘲笑を浮かべながら揺れるように身を動かし、次の瞬間には音もなく消え去っていた。

三人はしばらく金縛りに会ったように指一本動かすこともかなわず、その場にそのままの姿で取り残された。
「あれは一体・・・」
しばらくしてようやく言葉が出せるようになったルドルフが言う。

「あんな強い魔力は初めて感じました。あれではまるで・・・」
ハルは立ち上がろうとしたが足が痺れて立ち上がることが出来なかった。
「ハル?」
言いかけた言葉を途中で飲み込んだハルにルドルフは先を促すように声をかけたが、ハルは無言のままだった。

ヨアヒムに先に城に戻って迎えの者を呼んでくるよう言いつけ、ルドルフはハルの傍に付いていてやりながら、
「ハル、無理を言ってすまなかった。君の言うとおり魔法はやたらに使うものではないのだな。グリスデルガルドの王宮には魔道士がいないから、つい珍しくて無茶を言ってしまったようだ。許してくれ」
と詫びた。

「いえ、僕のほうこそご無礼を」
「無礼だなんて思っていないよ。僕が悪いんだし・・・」
ルドルフはそう言って笑うと、
「ハルがずっとこの国に残ってくれたらいいのにな」
と小声で続けた。

「それは・・・」
「どうしても無理かな、フランツからラインハルト王子にお願いしてもらっても・・・」
ハルは一瞬躊躇ったが、
「申し訳ありませんがルドルフ様、僕はお仕えする方は生涯ただ一人と決めております」
ときっぱりと言った。

ルドルフは何か気おされるようなものを感じながら、
「それは・・・やっぱりラインハルト王子?」と聞く。
「いえ・・・」
ハルは少し口篭もったが、やがて決然とした面持ちで言った。
「ヴィンフリート国王陛下です」

「そう・・・なんだ。君はラインハルト王子付きだと聞いたからてっきり・・・」
「ええ、本当はそうなんですけど・・・」
そうこうするうちヨアヒムが何人かの騎馬兵を引き連れて戻ってきた。
中にはあのセルダンもいて、ハルはセルダンの馬に同乗して城へ戻った。

その夜フランツに呼ばれたルドルフはハルを黙って城外に連れ出したことについてラインハルト王子から厳重な抗議があったことを伝えられた。
今後このようなことがあれば戴冠式を待たずに王子は帰国するとまで言ってきたそうで、ルドルフはフランツに今後一切ラインハルト王子の関係者に勝手に近付かないよう誓いまで立てされられたのだった。

「同じ年ごろで気安いとはいえ、あの少年はフィルデンラントからの客人の一人、お前の従者ではないのだ。その辺をよくわきまえろ。
他の国々からも大勢使節が来ているのだ、あまりみっともない真似を見せるものではない」
いつになく厳しい口調で兄に叱られ、さしものルドルフもしゅんとなる。

たかが魔導士一人にそんなに怒らなくたって、と思うが、お仕えする相手は国王陛下ただ一人、と言い切ったハルの顔を思い出すと、もしかしてハルはただの魔導士ではないのかもしれない、とルドルフはふと思った。






グリスデルガルド
王都ノイエグリスデルシュタット
ロドニウス教会分協会内

「このような辺境の地へようこそ、アルベルト殿。お噂はかねがね伺っております。お若いのにたいそうな博識で、今やオルランド様の一番弟子でいらっしゃると・・・」
長年の分協会努めですっかり落ち着き込んだ年配の学僧たちの出迎えを受け、アルベルトは院長に目通りを願った。

六十がらみと思われる、顔付きも物腰も温厚そうな年配の院長は一しきり挨拶が終わった後で、
「我らもロドニウス教会の代表として戴冠式に列席することになっています。
前日に入場し、ルドルフ一世の宝剣とオーブを巫女が宝物庫から取り出すのに立会うこととなっております。アルベルト殿にもご一緒にお立会いいただくよう、フィルデンラントの分協会本部より指令を受けております。
戴冠式まで後三日でございます。それまでどうぞごゆっくり休息いただいて、旅の疲れをお癒しくださいます様」
と言った。

「温かいお言葉、痛み入ります。今日のところは従者ともども休ませて頂くことにするとして、明日は少しばかり城下を見て回りたいと思います。明後日はもう入城の日となるわけですから、ほんの少しでも街の様子も見ておきたいので・・・ それから王城に入るまでは我々は寄進に訪れた商人ということにしておきたいのですが」

とのアルベルトの言葉に院長は、
「心得ましてございます。教会の他の者にもそのように含みおきましょう」
と快く応じてくれた。

与えられた部屋で従者と共にくつろぎながら
「なんとか戴冠式に間に合ってよかった。本当はもう少し余裕が欲しかったところだが・・・」
とアルベルトは一息つく。
「さようで・・・、一時はどうなることかと思いましたが・・・」

「うむ、賢者ゲラルド様の話ではやはり妖魔族に何らかの動きがあるのは確からしい。
奴らが動けば大気の流れでゲラルド様にはお判りになるそうだ。
ただ、奴らもかなり慎重に動いているらしく、賢者さまと言えどもその真意は掴みきれぬと仰っていたがな・・・」

「五十年前にも不穏な動きがあったとか・・・」
「ああ、その時にはゲラルド様自らこの地に乗り込んで妖魔族の動きを封じられたらしいが、今回は御歳八十のご高齢、とてもご自身で海を渡ることはおできにらず、秘蔵の弟子を代わりに送り込んだ、と仰っていたが・・・」

「秘蔵の弟子、ですか?」
「ああ、まだ若いが大層優秀な魔道士だそうだ」
「ほう・・・。賢者ゲラルドの弟子ならば何とも心強うございますな」
「どんな人物なのかゲラルド様は何も教えてくださらなかったがな」

旅装を解いてくつろいだ格好になり、固いとはいえベッドに横になると、やはりここ数日のたびの疲れが出てきてアルベルトはしばらく休むと従者に言い置くとそのまま眠りについてしまった。






ノイエグリスデルシュタット
城下町

充分休息をとって身も心もさっぱりしたアルベルトは翌日従者ヨーゼフを連れ、城下町へと出て行った。
待ちに待った戴冠式を明後日に控え、街は異様な盛り上がりを見せている。
路上にはいたるところ露店が並び道幅は人一人がかろうじてすれ違えるほどまで狭められ、さらに広場には大道芸人の簡易小屋がいくつも建てられ、その前で様々な芸が披露され、見物客からやんややんやの声援を浴びていた。

その合間にも商品を値切る声や、財布を掏り取られたの、肩がぶつかっただのと様々な声があちらこちらで上がり、賑やかな事この上ない。
十歳で教会の学僧として外部から隔絶された生活を送ってきたアルベルトにとっては、このような喧騒は本当に久しぶりだった。

アルベルトの出身地はノルドファフスベルクの田舎町で、年に一度の一週間の聖エンゲルスファフトのお祭りが唯一の楽しみだった。
その一週間だけは静かな農村が喧騒に溢れた。
アルベルトも親から貰ったわずかばかりの小遣いを手に友人と露天商を冷やかしてみたり、剣を飲み込む男だの、動物の言葉がわかる美女だののいささか怪しい大道芸に夢中になったりして過ごしたものだ。

賑やかでどこか猥雑な祭りの雰囲気は少年アルベルトの心を随分と高揚させてくれた。
一週間だけ覗く事を許された別世界。
限られた楽しい日々はあっと言う間に過ぎ、後はまた何の変化も無い日常をただひたすらこなしていくだけの毎日が続く。
そう、来年の祭りを待ちわびながら・・・
教会に入ってからはその年に一度の楽しみさえもアルベルトは取り上げられてしまった。
そのかわり無限の知識を得る喜びを与えられたわけなのだが・・・

人々の熱気はアルベルトに教会で身に付けたあらゆる窮屈な制約を一瞬で忘れさせ、子供の頃に戻らせる力を充分すぎるほど持っている。
それでも無事戴冠式が終わるのを見届けるまで気を抜くわけには行かないのだが、祭りの雰囲気に浸りこみこの喧騒の渦に埋没してしまいたいという誘惑は抗いがたい力でアルベルトを魅了した。
商人のなりをしていることも開放感に拍車をかけているかもしれない・・・

「おや、あれは・・・」
従者の声にその視線の先を辿ると、見覚えのある二人組みが路上で見事な舞を披露している踊り子に見蕩れていた。
奇妙な縁でグリスデルガルドまでの船旅を共にした、旅の騎士とその従者である。
アルベルトとしてはあまり他人と関わりを持ちたくないところだったので気付かぬフリをして通り過ぎようとしたのだが、騎士はなかなかに目ざとかった。

「これはこれは、アルベルト殿、奇遇ですな。これだけの人出のなかで偶然お会いできるとは。急ぎの御用とやらは無事お済みですかな?」
にこやかに笑いながら話しかけてくる。
従者のほうはまだ踊り子に未練たっぷりのようで、主人の影からアルベルトを恨めしそうな目つきで見ていた。

「ええ、お蔭様で何とか間に合いました。アディエールの港でリヒャルト様にお会いしていなければ今頃どうなっていたことか。本当に助かりました」
とアルベルトも気のいい商人を装って慇懃に一礼して答える。
「いや、船代丸抱えで、礼を言うのはこちらの方です」
リヒャルトはそう言った後、貴族らしく少し反り返った。

「この城下にお泊りですか?」
とのアルベルトの問いに、
「まあ、この賑わいですからな、民家を一時的に開放したといった程度のところですがどうにか宿も確保できました。そちらは・・・?」
リヒャルトはそう言って物問いたげな視線をアルベルトとその従者に投げかけた。

「知り合いの商人の家に厄介になっています。せっかくだから戴冠式が終わるまでは滞在しようかと・・・」
「それは結構ですな。戴冠式の翌日の新王のパレードは是非見ておきたいものですからな。
何せ五十年ぶりだ。今生最後の戴冠式になるかもしれませんし」
「そんな、またいずれどこかの国で御座いましょう。どんなところでも気の向くままに訪れる事の出来る騎士殿が羨ましいですよ」
「さあ、どうでしょうな・・・」

そのとき狭い街路の人手を押し分けるようにして二騎の早馬が城下から郊外へと駆け出していった。
人々は馬を避けて道の両脇へとかたまり、雑踏は一瞬叫喚に包まれた。
その騒ぎに転んだ弾みで怪我をした者もいたようだが、馬はそんなことにはお構い無しに駆け抜けていく。

慌てて壁に張り付くようにしてアルベルトとともに早馬を避けたリヒャルトは、その顔を間近で見ているうちにフィルデンラントの国境でやり過ごした早馬の事を思い出した。
そうだ、どこかで見た顔だとずっと思っていたがこの顔は・・・
ほんの一瞬見ただけだが、自分が一度見た顔を忘れるはずは無い。
今は商人の格好をしているがあの時は僧服だった。聖ロドニウス教会の紋章つきの・・・

「まったく乱暴な早馬もあったものだ、これほどの人出で道幅も狭くなっているというのに・・・」
アルベルトが呆れたように言うのを
「お城の連中は下々の生活の事なんてこれっぽっちも関心ないでしょうからな・・・
そういえばアルベルト殿、お国はどちらで?」

「生まれはノルドファフスベルクですが・・・」
「北方のご出身なんですな。そのわりにはお国訛りはあまり無いようですが・・・」
「はい、幼少の頃国を離れずっとホーファーベルゲンに居りましたから」

「ホーファーベルゲンの深い深い森の中・・・ですかな?」
「まさか、私は商人の子ですから街の中で暮らしておりましたが・・・」
リヒャルトの値踏みするような視線に少しばかり眉をひそめ軽く不信感を表しながらアルベルトは答える。
「はは、そうですよね、貴方はやり手の商人、でしたね」

しばらく他愛ない世間話を交わしてアルベルトはリヒャルトと別れ分教会へ戻った。
リヒャルトに再会の記念に一杯やらないか、と誘われたのだが丁重に断った。
この騎士は思ったより聡そうだ。
酒の勢いでつまらぬ事を口走り大事に至っては、との配慮からだった。
戴冠式がつつがなく終了したことを老師オルランドに報告するまで気を抜く事はできない、アルベルトは祭り気分で知らず知らずに緩んでいた気持ちを改めて引き締めなおした。

「ご主人様、ご命令どおりあのアルベルトという商人の宿を突き止めてまいりましたぜ」
酒場で一人酒を飲んで時間を潰していたリヒャルトの下へテオドールが戻ってきて報告する。
「あの野郎つけられているのを感づいたのかさんざん回り道してましたが、とうとう或る場所へ入って出てこなくなりましたので、戻ってまいりました」

おうご苦労だった、とリヒャルトは酌婦にテオドールの分の酒を言いつける。
「それが、あの野郎どこへ入っていったと思います・・・?」
「聖ロドニウス教会グリスデルガルド分教会・・・か?」
酒を手に絶句するテオドールの少しばかり情けない顔を愉快そうに眺めながら、
「どうやら図星のようだな」
とリヒャルトは言った。

「ご主人様、それは無いですよ〜、最初からご存知ならなんだって俺っちはあんなに苦労して・・・」
その言葉を遮り、
「そんな声をだすな、あてずっぽうがたまたま当たっただけだろうが」
と続ける。

「連中は教会に進物を寄進しに来た熱心な信者だそうですが、どうにも胡散臭い。物腰といい物言いといい商人には見えませんし・・・」
テオドールにもう一杯酒を勧めながらリヒャルトは
「やっぱりか・・・」
と呟いた。