暁の大地


第三章




グリスデルガルド王宮

ルドルフとハルが郊外で不気味な男に出合ったことが告げられて以来、城の警備は強化され、ルドルフも以前のように気ままに城の外に出ることは出来にくくなっていた。
あれ以来ハルは常にセルダンと行動を共にしていて、顔をあわせてもルドルフと親しく話せる機会はなかった。

それでもハルはいつもルドルフを見かけると笑顔を見せてくれるのだが、あのあと彼もセルダンからきつく叱られたのだろうなと思うとなんだか申し訳ない。
だがセルダンはルドルフがハルに話し掛けるのを喜ばない様子を露骨に表すので、ルドルフとしてはありきたりの挨拶を交わすくらいが精一杯だった。

そしていよいよ明日は戴冠式という日、城内は高まる緊張感でどこかピリピリとした空気が立ち込めていた。
ルドルフは取り立ててすることも無く手持ち無沙汰のまま見張り用の城壁からぼんやりと遠く東の方を眺めていた。
ヨアヒムはルドルフの足元にどっかと腰を下ろしてあくびをしている。

「何をなさっているのですか?」
いきなり声をかけられてルドルフは驚いて振り向いた。
いつの間にここまで上がってきたのかハルがすぐ後ろに立っている。

「やあ驚いたな、君が上がってきたのに少しも気付かなかったよ。今日は珍しくお目付け役は一緒じゃないのか?」
「いつもセルダンと一緒では僕も息が詰まってしまいますからね、そっと抜け出してきたんです。それに結界のチェックもしておきたかったし」

「結界?」
「はい、この間のあの男・・・あれは恐らく妖魔族のものでしょう」
「妖魔族!」

「人間の身であれだけ強い魔力を持てるものではないはず、僕も妖魔族を見たことは無いので絶対とは言い切れませんが。
それで念のため、この王城全体に妖魔族用の結界を張っておいたんです。
人間ならば何の問題も無く通れますが、妖魔族には強力な抵抗を示し、侵入を阻止できるはず。
今のところ妖魔族が結界に触れた形跡もないので、このまま杞憂で終わってくれればそれに越したことは無いんですが・・・」

「あれが妖魔族・・・」
漆黒の髪に氷のように冷たそうな限りなく黒に誓い緑色の瞳をしていたあの男
何の感情も持たぬような目付きで自分を眺めていた。
お前がルドルフの末裔か・・・
地の底から響いてくるような低い声・・・
思い出しただけで背筋を悪寒が走りぬけた。

「ここから見回した限りでも異常ないようですから僕は部屋に戻ります。午後には聖ロドニウス教会から立会いの僧侶達もやってくるそうですし」
ハルがそう言って立ち去ろうとしたのでルドルフも一緒に下りることにした。
妖魔族についてもっと聞きたいと思ったのである。

勇者ルドルフが倒したという妖魔族については全くといっていいほど何も伝わっていなかった。
どんな姿をしているのか、どのような力をもっているのか、どのような場所に住み何を食しているのか・・・
人間とは全てにおいてかけ離れた存在であることだけは朧げに感じられるのだが、詳しいことはルドルフは何も知らなかった。

ヨアヒムを従えて二人連れ立って階下へと下りていくと、マリウス王の居室から年配の男が出て来るのに行き会った。
「あの方は確か・・・」

「あれは祖父マリウスの母方の甥に当たるテレシウス卿だ。普段は南西地方の自分の領地から滅多に出てこないんだが、今回の戴冠式には珍しく顔を見せた。
ま、僕たちにとって数少ない親類縁者の一人というわけだ。僕の父は男二人の兄弟でどちらも早世しているし、祖父の兄弟ももう大叔母が一人残っているだけだし・・・」

テレシウス卿はルドルフに気付くととってつけたような笑顔を浮かべて
「これはこれは、ルドルフ王子。戴冠式をひかえて国王陛下も少々気が立っておられるようで少し昔語りなどしてお慰め申し上げていたのですよ」
と何も訊きもしないうちからそう話しかけてきた。

「それはご苦労だった、テレシウス卿。お爺様も長らくこの国を支えてきた心労がでてこられたのだろう。これからも折に触れよき話し相手になってやってくれ」
ルドルフはそう言って通り過ぎようとする。

「畏まりましてございます」
そう言って頭を下げたテレシウス卿は、ルドルフとその連れの一行の姿が見えなくなったとたん、皮肉な薄笑いを浮かべたのだった。

一方聖ロドニウス教会で潔斎の秘儀を済ませたアルベルトは分教会の僧達と共に昼過ぎに王城入りした。
ニコラス、ヨーゼフの従者たちももちろん引き連れている。
国王と世継ぎの王子に挨拶を済ませた後、王城内に居室を与えられた僧侶達は戴冠式前日の儀式に備え準備を整えた上で短い休息を取った。

王都郊外に建つ神殿を守る巫女の一行も到着し、日の入りを待って宝物庫からルドルフ一世の剣とオーブを取り出す儀式が始められた。
この儀式には現国王と新国王、王子ルドルフ、フィルデンラント王子ラインハルト、セルダンそしてハルのほか、聖ロドニウス協会の僧侶達も立ち会った。

最高位の巫女、名はヴェロニカというそうだが、は純白の装束に妖精の羽を思わせるような薄物のベールを被り、先頭にたち宝物庫へと進む。
その後ろから二人の巫女が厳かに続き、さらにマリウス王、フランツ王子、ラインハルト王子、ルドルフ、セルダン、ハル、そしてアルベルトら僧侶達の順で続いた。

ヴェロニカは例のルドルフ一世の剣のガラスケースの前で立ち止まり、口の中で何やら呪文らしき言葉を呟くと、そっと剣のガラスケースに手を触れた。
蓋は音もなく開き、ヴェロニカはその剣を両手で恭しく捧げもつと傍らにたっていた次位の巫女に手渡した。
同様に今度は黒いオーブをもう一人の次位の巫女に渡すと、ヴェロニカはまた先頭にたって玉座の間へと引き返していく。

三人の巫女たちは皆大層若く、最高位の巫女のヴェロニカでさえせいぜい二十代前半といったところで、戴冠式に列席するのは初めてと思われるが、こうも滞りなく儀式が進んだところを見ると戴冠式用のマニュアルでもありそうだ。
明日の戴冠式を前に、珍しく昂揚しているらしい兄フランツの様子を盗み見ながら、ルドルフは妙に醒めた気分でそんなつまらないことを考えていた。

宝物出庫の儀式は無事終了し、取り出された剣とオーブは継承される王冠と共に翌日戴冠式の行われる玉座の間に安置された。
そしてそれらの宝物を守るため、夜を徹しての警備体制が敷かれる。
アルベルトも従者たちと共に警護の一員として謁見の間で夜明かしをすることにした。

マリウス国王やフランツ王子は、ロドニウス教会の学僧殿がそこまでする事は、と止めたが、なぜか妙な胸騒ぎを感じたアルベルトはそれを押して寝ずの番につくことにしたのだった。

夜半過ぎ、寝袋に包まり仮眠を取っている従者二人の隣で、同じく寝袋に半身を差し入れながらアルベルトは室内の所々に置かれた松明の灯りで持参した本を読みながら時間を過ごしていた。

時折警邏の兵が巡回している他はさしたる物音もしない静寂の中で、従者の寝息と松明に飛び込んだ虫の羽がじりじりと焼ける音が遮る物の少ない空間にやたらに大きく響いているように感じられる。

薄暗がりの中で何時しか字を追うのに熱中していたアルベルトはふと、見回りの兵士の立てる金属が触れ合う音の混じった足音とは違う、もっと静かに近づいてくるものを感じて眦を決して顔を上げた。

玉座の間の入口に人影が立っている。
廊下に置かれた松明を背にしているので顔は見えないが、背格好からどうやらこの国の第二王子と想像がついた。

王子はアルベルトが半身を持ち上げるようにして自分を見詰めているのを認め、まっすぐそちらのほうへと歩を運んできた。
「ガラにも無く気が昂ぶっているのか、どうにも眠れなくてね・・・」
ルドルフ王子はそう言ってアルベルトのすぐ傍に腰を下ろした。

アルベルトが慌てて寝袋から這い出し跪下の礼を取ろうとするのを留めて、ルドルフは
「気にしなくていいよ。僕はただの穀潰しだ。それより、寝ずの番ご苦労様だ。
聖ロドニウス教会の学僧殿にこんなことまでして頂いて有難いと思っている」
と静かに言った。

「暖かいお言葉痛み入ります、王子様。どうか私のことはアルベルト、とお呼びくださいませ。学僧殿などと言われましてはなにやら気恥ずかしゅうございます」

「何を言う、知の殿堂聖ロドニウス教会の学僧といえば知恵者の代名詞ではないか。今も随分と難しい本を読んでいたようだが・・・」
アルベルトは開いていたページにしおりを挟むとパタンと閉じ、ルドルフに差し出した。

「宇宙の構造論です。最近ちょっと興味を惹かれるようになりましてね・・・」
ルドルフはずっしりと重いその本を手にとってパラパラとめくってみたが、目が字の上を滑っていくだけで少しも頭に残りそうも無い。

「アルベルト殿はいつもこんな本を読んでいるのだな。僕には難しすぎてさっぱり判らないが」
そう言って本を返すルドルフにアルベルトは
「まあ、他にすることがそうあるわけじゃないですからね」と言って笑った。

その物静かで優しそうな眼差しはどこか兄フランツを思わせる。
ルドルフは眠っている従者たちを起こさぬように小声でアルベルトに、教会での生活や本で得た知識のことなどをつ次々と質問しつづけた。
どんなつまらない質問にもアルベルトは丁寧に返答を返してくれる。

教育係がこの人だったら、自分ももっと真剣に勉強に取り組んでいたかもしれないな・・・
そんなことを思いながらルドルフは
「アルベルト殿がこうして寝ずの番をしているというのは、やはりなにか気になることでもあってのことなのか?」
と聞いてみた。
それはこの学僧が徹夜で見張りをすると言い出したときから感じていた疑問だった。

「いや、そういうことでは・・・」
「ならば何故こうして寝ずの番についておられるのか?」
「ああ、戴冠式に立ち会えるなど滅多にできる経験ではありませんからね、どんな事でも一通りやっておきたいだけですよ」
アルベルトはそう答えるとルドルフが返して寄越した本を手に取った。

「そうか、では引き続きよろしく頼む」
ルドルフはそう言って部屋へと戻ることにした。
なにかあれば結界を張っていると言うハルが何らかの動きを見せるだろう。
それにしても何故こんなに落ち着かないのか。自分が戴冠するわけでもないのに・・・

それより自分も明日に備えて少しでも身体を休めておかねば。
明日は兄フランツの晴の日。国王の衣装を身に纏ったフランツはきっと壮麗な美丈夫ぶりを見せてくれることだろう。
そう自分に言い聞かせルドルフはベッドの上に寝転がった。






翌早朝、
「大変です、ルドルフ様!すぐに起きてください!!城の周りを黒ずくめの大軍が取り巻いているんです!」
というヨアヒムのただならぬ声に叩き起こされたルドルフは、彼に促されるままに見張りの城壁へと登ってみた。

昨日見たときには確かに何も無かった城壁の回りにどこのものとも知れぬ軍隊が進駐していた。
城壁を取り巻くように幾重にも重なりあってなお、並びきれない軍勢は城下町の道路にも立ち並びその列は更に郊外にまでも続いている。

「なんだ、この軍隊は。こんなに沢山の軍勢が一体どこから湧いて出たと言うんだ・・・?」
と呆然とするルドルフに、あとから駆け上がってきたハルが
「ルドルフ王子、これは大変なことになりましたね・・・」
と声をかけてきた。

セルダンとラインハルト王子も一緒にいて、二人とも表情を曇らせてこの大軍を見渡している。
「きのう、就寝前にもう一度見回ったときはこんな軍隊は影も形も無かったと言うのに・・・
これほどの軍隊が一夜のうちに出現するとは・・・」
とセルダンが呆然と呟いた。

「ハル、もしかしてこの軍隊は、妖魔族のものなのでは・・・?」
とのルドルフの言葉にハルは
「妖魔族なら日中太陽の下で行動することは避けると思うので恐らくは人間の部隊と思われますが・・・」

「そうなのか・・・では・・・」
ルドルフがそこまで言ったとき、
「ルドルフ様、ラインハルト王子と従者の方々も、至急玉座の間においでください。
国王陛下が内密で至急皆様方にお集まりいただくようにと仰っていられます」
と使いの兵士が声をかけた。
恐らくこの謎の軍隊のことだろう、そう思い皆一様に顔を曇らせたまま足早に階下へ降り玉座の間へと向かった。

人払いの上厳重に施錠された玉座の間に集められたのは、フランツ、ルドルフ両王子、ラインハルト王子にセルダン、ハル、そしてマリウス王の末弟でルドルフには大叔父にあたるテレシウス卿の七人だった。
部屋には剣やオーブが昨夜安置されたままの形で置かれている。
テレシウス卿はハルとセルダンの同席に初め難色を示したが、ラインハルト王子がやはりどうしてもこの二人も一緒にと言い張ったので渋々認めたのだった。

マリウス王が玉座に腰掛け、後の者は三々五々その周囲に立つと、マリウス王のすぐ傍に立ったテレシウス卿が
「皆様にこうして早朝からお集まりいただいたのは他でもない、城外に進駐している軍隊のことですがな・・・」
と口火を切った。

皆がテレシウス卿に注目する中、高窓から差し込む日差しがつくるルドルフの影が小さく揺らいだ。
それを目ざとく見咎めたハルが
「ルドルフ王子!」と叫ぶのと、影が大きくせり上り人間のような形を取ったと見るや、その手がルドルフの腰に差していた剣を引き抜くのが同時だった。

「えっ!」
虚を突かれたルドルフはあっけに取られて自らの剣が黒い影に握られ振り回されるのを見詰める。
影はすぐに人間の男の姿となり、その手に握られた剣は玉座のマリウス王の左胸を一突きし引き抜かれ様に傍らに立つフランツ王子を一刀両断に切り捨てた。

その間僅か数秒の出来事を皆がただ呆然と凝視する中、突然現れた男のすぐ隣に歩み寄ったテレシウス卿が
「これは大変なことになりましたな。ルドルフ王子がご乱心の上国王陛下と兄王子を殺害されるとは・・・」
と皮肉な口調で言い放つ。

「なんだと!?貴様、何を馬鹿なことを」
そう呻くように言ってセルダンが剣の塚に手をやるのを尻目に、件の男は息をもつかせぬ早業でハルに体当たりを食らわせセルダンを剣で薙ぎ払うと、返す刀でラインハルト王子を斬りつけた。

王子が倒れかかるところをマリウス王の時と同様に左胸に深く剣を突き刺すと男はそのまま王子の身体を軽く押した。
心臓に剣をつきたてられた王子は大きく目を見開いたまま後ろ向きに床の上に音をたてて倒れた。
男は更にざっくりと斬られた左肩を押えながら身体を起こそうとしているセルダンを
「邪魔だ」と一言呟き壁際へと蹴り飛ばした。

「な、何とこれは・・・宗主国であるフィルデンラントの王子までをも手にかけるとは・・・この場で切り伏せられても当然の悪行ですな、ルドルフ様・・・」
テレシウス卿の言葉が響き渡るが、ルドルフは目の前で起こった惨劇を現実のものとは捉えられず、がっくりと膝をついたままいまだ茫然自失の体である。

体当たりを食らわされた胸を押えながらそれに駆け寄ったハルが、
「しっかりしろ、ルドルフ王子!これは罠だ!」
と強く身体を揺するがルドルフは
「そんな馬鹿な、フランツが・・・、お爺様が・・・」
とへたり込んだまま呟くばかりだ。
「ルドルフ王子!こいつらは君に罪を着せて殺すつもりだ。しっかりしてくれ!」
ハルはそう言ってルドルフの頬を強く叩いた。

「お前はなかなか察しがいいな。だが安心しろ、そいつにはまだ役目が残っているからな、今殺しはしない。それよりも魔道士の小僧、自分の心配をしたほうがいいぞ」
振り向くとすぐ間近にあの男が立っている。
「お前はやはりこの間の者か・・・」
ハルはルドルフを庇うように立ち男を睨みつけた。

「気付かぬか?我らがこうしている間に城外に配した我が配下達がすでにこの城を制圧しておるのに。お前の張った結界はすでに破られているのだぞ」
男はそう言って不敵な笑みを浮かべハルに手を伸ばす。
ハルがはっとして高窓を見上げると、先程まで陽光溢れる晴天が広がっていたはずの空はいつの間にか夏の嵐の前のように真暗になっていた。






そのとき何かが激しくドアにぶつかる音がしたかと思うとドアは蝶番の部分から外れそのまま内側へと倒れた。
けたたましいばかりの怒号や悲鳴、剣や甲冑のぶつかり合う金属音とともに何人もの兵士が倒れたドアの上に雪崩れ込んできた。

倒れた兵士たちの首や胸には一様に黒い薄布のようなものが巻きつき、皆それを引き剥がそうと躍起になって床の上をのた打ち回っている。
その中にはあのヨアヒムも混じっていて、激しく咳き込みながら首をかきむしっていた。 「何事だ!」
ハルが問うが答えは無く、皆次々に口から血を吐いて動かなくなった。
ハルが呆然と男を見詰める。

「お前が結界を解いたんだな・・・だがお前はどうやって城内に侵入したのだ。妖魔族ならあの結界に反応するはずなのに・・・」

ハルの呟きに男は
「さあ、どうやってかな・・・」
とからかうように答えた。
その様子は明らかにハルの反応を楽しんでいるといった感じだ。

「ルガニス殿、早くこの小僧とその従者も息の根を止めてしまってください。生かしておいては後々・・・」
テレシウス卿の言葉が終わらぬうちに
「国王陛下!こちらですか・・・」
と言う声とともにアルベルトが床に転がる兵士たちを避けながら玉座の間へと駆け込んできた。

「城門が破られ、突然の攻撃を受けて城内は混乱を極めて・・・」
アルベルトは血だらけの床に転がるラインハルト王子の死骸を見下ろし絶句する。
その目にはさらに玉座から半分滑り落ちた形になったマリウス王とその傍らに倒れているフランツ王子、そして床にへたり込み茫然自失の体で涙を流しつづけているルドルフの姿が映った。

更に少し離れた壁際にはセルダンが尻餅をついた格好で肩を押えながら呻き声を上げている。
立っているのはマリウス王の甥にあたるテレシウスという貴族とラインハルト王子の従者だと言う魔道士の少年、そして見覚えの無い黒い道服の男―――

「ほう、お前は無事な様だな。ただの僧侶のように見えるが・・・その懐に何を持っている・・・?」
不気味な雰囲気を身に纏ったその男がゆっくりとアルベルトをその瞳に捉える。
アルベルトはとっさに僧服の胸を押えた。

ちょうど聖ロドニウス教会の紋章が縫い取りされている部分である。
この裏にある隠しポケットには師オルランドから預かった赤いオーブが入っていた。
アルベルトは台座の上に置かれた黒いオーブを目の端で見遣った。
そうだ、色こそ違えこれはあの黒いオーブと形状がよく似ている・・・

男がアルベルトに気を取られている隙にハルはルドルフを引き摺り、壁際のセルダンのすぐ傍まで連れて行った。
「セルダン、大丈夫か・・・?」
「はい、不覚を取りましたがなんとか・・・、しかしこれは・・・」
「やはり妖魔族が絡んでいたようだな。あのテレシウスという男を巻き込んで・・・」

「ハル、フランツとお爺様が・・・、僕、僕は・・・」
やっと正気に返ってきたルドルフにハルは
「罠に嵌ったんです。あのテレシウスという男は国王と第一王子を暗殺してその罪を貴方に被せ自分が王位に就くつもりだったんだ。そのために妖魔族を利用して・・・」
いや、本当に利用されたのはどちらか・・・

「そんな、テレシウス卿が・・・」
ルドルフが零れ落ちる涙を拭いもせずに見上げるのをテレシウス卿は野卑な笑顔で見下ろしながら、
「ルドルフ様、ようやく正気に戻られたようだが、乱心していたとはいえ祖父と兄そしてフィルデンラントの王子の血を流した罪は重いですぞ・・・」
と言ってクックッと笑った。

その言葉が終わらぬうちにテレシウス卿は服のすそを飛んできた短剣に床に縫い付けられ、ギャッと言って尻餅をついた。
ハルが懐に隠し持った短剣を投げつけたのだ。
その様子をルガニスと呼ばれた男は蔑むように薄笑いを浮かべたまま冷たい瞳で見下ろしている。

「ふん、小僧、魔法が上手く利かぬようだな。魔法の使えぬ魔導士か。これはお笑いだ」
セルダンが驚いたようにハルを見上げる。

ハルは大丈夫、心配するな、と小声で囁いたが、内心では男のいうとおりテレシウス卿に向けてはなった電撃の魔法が全く効力を持たなかったことに、かなり焦りを感じていた。
だがそれをこの男に気取られてはならない、ハルはこぶしを握り締めながら相手をきつく睨み続けた。

「あら、まだてこずっているの、口ほどにも無いわね、ルガニス」
そんな声がして黒装束の女があの最高位の巫女ヴェロニカを引き摺るようにして玉座の間に入ってきた。
足元に倒れた兵士を無常にも踏みつけながら。

「城内は完全に制圧したわ。この城の者で生き残っているのは我らの手のものの他はここにいる連中だけよ。よかったわねテレシウス、長年の願望が叶って・・・」

女はそう言うと床に転がったラインハルト王子の姿を見て
「あらあら、フィルデンラントの王子を本当に殺してしまったのはまずいんじゃないの?」
と足の先で軽くその遺体をつついた。

ルガニスは軽く笑みを浮かべて、
「それがな、おかしなこともあるものでこの王子からは神の血の臭いがせぬのよ。 どうしたというのだろうな、フィルデンラントの王子は神の血をうけし愛弟子フィルドクリフトの末裔のはず・・・なのに」
と言いながら視線を巡らし正面からハルを見据えた。

それを見てセルダンが懸命に体制を建て直しハルを背に庇うように低く身構えた。
女はアルベルトを目で威嚇しながらヴェロニカに剣とオーブを取るよう促し、自らはラインハルト王子の胸に突き刺さったままのルドルフの剣を引き抜いた。
その剣を手に女はルドルフへと近付く。

「何をするつもりだ!」
とハルが怒鳴りつけたが女は平然と
「残念ね、魔導士の坊や。お前の魔法なんか怖くないのよ。嘘だと思うなら試して御覧なさいよ、倍にして返してやる」
と言うと、座り込んでいるルドルフの正面に座り込み、ルドルフの右手を取った。






「ほら王子様、貴方の剣よ、祖父と兄殺しのルドルフ王子。あら、結構可愛い顔してるじゃないの・・・」
そう言いつつその手に持った剣をルドルフの右手に握らせた。
ルドルフは血塗られた剣をただ呆然と見つめる。

女はヴェロニカをつついて取らせたオーブをその手に乗せると愛しそうに眺めた。
ヴェロニカは続いてルドルフ一世の剣を手に取り女に渡そうとしたが、女はほんのわずか身を引くと
「その剣はお前が持っていろ」
と言った。

先程からの様子を見て大体の事情を察したアルベルトだが、相手はどうやら妖魔族、やたらな手出しはできないし、城内は敵に完全に抑えられてしまった今は、とにかく様子を伺いなんとかルドルフ王子だけでも助けなければと思案を巡らしていた。

一方ハルもルガニスを睨みつけながらも、女がどうやらルドルフ一世の剣に恐れを抱いているらしい事を感じ取った。
なんとかきっかけを掴んであの剣を・・・そう思っていた矢先、半ば放心状態だと思っていたルドルフが音も無く立ち上がり、なにやら叫び声を上げながら完全に油断していたルガニスと呼ばれた男に切りかかった。

男は空気の流れを読み取ったかのようにルドルフには顔も向けずに右手を上げる。
手にした剣を振りかざしたままルドルフは動きを止めたと思うと次の瞬間には体中から血を流しながら後ろ向きに飛ばされ壁にしたたか身体を打ち付けられていた。

床に崩れ落ちることろに慌ててアルベルトが駆け寄る。
「おやおや、不意打ちとは酷いんじゃないの、王子様?大人しくしていれば少しは楽に死なせてあげたものを・・・」
と女が薄笑いを浮かべながらふらふらと近寄って来た。
「残念ね、そんな剣では私たちは倒せないのよ」

「余計な事を言うな、カタリナ!」
ルガニスは突き放したように言うとその顔を心持ちルドルフのほうに向けた。
「ルドルフ王子、大丈夫ですか・・・」
アルベルトがそっと訊ねると、ルドルフは無数の細い線状の傷から血を流しながらも意外としっかりした声で、
「ああ、今のは魔法か・・・こんな攻撃は生まれて始めて受けた。だが、おかげではっきりと目が覚めたよ・・・」
と答えた。

「ふん、まだ殺すわけにはいかないからな、手加減してやったんだ、ありがたく思え。」
「ルガニス殿、あの小僧が・・・」
と服のすそを破ってようやく立ち上がれるようになったテレシウス卿が叫ぶ。

ルガニスとカタリナと言う女とがルドルフのほうを見ている隙に、ハルはヴェロニカからルドルフ一世の剣を奪い取りルガニスに向けて構えていた。
「お前たちはどうやらこの剣が苦手のようだな。数多の妖魔族の血を吸ったこの伝説の勇者の剣が怖いのだろう?」
そう言いつつハルは考える。

さっきのはカマイタチだ。とりあえずルドルフ王子は命に別状は無いようだが・・・
それにしても何て重い剣なんだ。持っているだけで腕が痺れてくるようだ。
だが、コイツらが手出しをしてこないところを見るとやはりこの剣が怖いものとみえる・・・

ハルは剣をルガニスに向けたまま、セルダンやルドルフの居る壁際へとじりじりと移動していった。
「これは面白い、その細腕でまともに剣が振るえるのかな、魔導士殿?いや・・・」
ルガニスがもう一度手をかざした。

ハルはとっさに防御魔法の呪文を唱える。
だめだ、間に合わない・・・
そう思い目を瞑ったハルが訪れるはずの衝撃が来ない事に驚いて目を開くと、目の前でセルダンがそれこそ体中血まみれになって蹲っていた。

「セルダン!」
ハルの悲痛な叫び声が玉座の間にこだました。
セルダンは目を細めてハルの無事を確めると
「ご無事で・・・なにより・・・」
と言って床の上にくず折れた。

セルダンを抱えるハルの手がとめどなく流れ出る血で真赤に染まる。
「セルダン!ああ、何てことだ、僕がもっとしっかりしていれば・・・」
呆然とするハルにルガニスが手を伸ばした。

とっさにその手を振り払い飛びのいたハルの手にルガニスの爪が付けた傷が一筋走る。
「僕に触るな!下郎が・・・」
そう叫ぶハルに、その爪に一滴ついたハルの血を舌で舐めながらルガニスは 「やはりお前か・・・」
と言ってまた一歩近付いた。

「貴様、よくも我が同胞の血を流したな。この報いは貴様自らの血で贖って貰うぞ!」
そう言って剣を構えたハルにルドルフが駆け寄った。
体中にできた細い傷口から血が溢れ出ていて、特に額からの出血が酷いようだった。

「ハル、剣の扱いは僕のほうが慣れてる・・・」
「でも王子は怪我を・・・」
「構わない、祖父と兄の敵は自分で討つ!
貴様、妖魔族だか何だか知らぬが、フィルデンラントとグリスデルガルドの王族の血を流した報いは受けてもらおう!」

額から流れる血が目に入りそうになるのを手で拭ってその血を振り払いながらルドルフはハルの持つ剣の柄に手をかけた。
二人の手が同時に剣の柄に触れたその瞬間強い光が迸り、低い声が玉座の間に響き渡った。

「血塗られた手で我が剣を手にする愚か者ども、神をも恐れぬ不届き者よ。
我が血族グリスデルガルドの王女・・・そして祖国フィルデンラントの王子・・・。
よかろう、そなたたちはこの剣にふさわしい運命を共に生きるがよい・・・!」

「!・・・フィルデンラントの王子・・・って、ハル、お前は・・・」
「君こそ、王女と言うのは・・・、ルドルフ王子、君は女だったのか!?」
共に目を見張り相手を見つめる二人に、アルベルトが叫ぶ。
「二人とも危ない!」

そのアルベルトの首に背後からカタリナが短剣を突きつける。
「お前、随分珍しいものを持っているようね・・・」
見るとその懐から赤い光が僧服を突き抜けて迸り出ていた。

「よそ見している暇があるのか、愚かものども!」
ルガニスは容赦なく攻撃魔法を仕掛けてくる。
第一撃を左右に飛びのいて避けた二人だが、ルガニスはハルに照準を当てて第二陣の攻撃を仕掛けた。

ルガニスの目的は自分ではなくハルのようだ、そう悟ったルドルフは身軽に跳躍を繰り返してルガニスの攻撃を避けるハルの様子をチラリと確かめると窮地に立つアルベルトを助けるため、傍らに駆け寄りカタリナに剣を向けた。

ルドルフの持つ剣にたじろぎ後ずさった女の腹にアルベルトが肘鉄を食らわし、怯んだところを脚払いでなぎ倒す。
その隙を逃さずルドルフは体勢を崩したまま呪文を唱え始めたカタリナ目がけ大上段に振りかざした剣を力任せに振り下ろした。






ぎゃっ、と言う悲鳴にルガニスもカタリナのほうを振り向く。
カタリナの身体は傷を受けたところから黒い霧状のものが噴出し、砂のように崩れ始めた。
「くっ、この馬鹿力が・・・」
歪んだ口から漏れ出る声は不気味にエコーがかかっている。

「コイツは、本当に人間じゃないんだ・・・」
呆然とするルドルフとアルベルトにハルが駆け寄ってきた。
「ルドルフ王子、大丈夫か・・・?学僧殿、ええとアルベルト殿でしたね、貴殿も・・・」
「ああ、大丈夫、少し驚いただけだ」
ルドルフはそう言って口元をほんの少しだけ緩ませた。

「私も大丈夫ですよ、魔導士殿、いや、貴方も王子様でしたね」
とアルベルトも言う。
「そういえばハル、いや、王子、君の本当の名は何と言うのだ?」
と真顔で聞くルドルフに、王子は苦笑しながら答える。
「だから僕の名はラインハルトだろうが、何を今更・・・」

「ああそうだったな。悪い、さっきから頭がズキズキするんだ・・・」
ルドルフは額を押えながらそう言って頭を軽く揺すった。
額からの出血が増えているようで押えた手の指の間からどんどん流れ出てくる。
まずい、このままではルドルフ王子は貧血を起こし最悪の場合は・・・アルベルトはふらつくその身体をそっと支えてやった。

「やれやれ、まったく厄介な事をしてくれる王子様、いや、王女様だ。このさいどちらでもいいが・・・」
三人がそんな会話をしている間にルガニスはそう呟きながら崩れ続けるカタリナのほうへと静かに歩み寄った。
カタリナの身体は最後には砂の山になりそのまま影へと溶け込んでしまった。

その身体のあった床の上に黒いオーブが転がっている。
ラインハルトがそれを拾おうと手を伸ばしたがルガニスの手のほうが一瞬早かった。
「ふっ、神の血を引く王子よ。先程のお前の血、これはこうして使うのだ・・・」
ルガニスはそう言って先程ハルの手を傷つけた爪でオーブに触れた。

瞬間黒いオーブは七色の輝きを見せる。
それに反応するようにアルベルトの懐からも赤い光が再び迸った。
黒いオーブの輝きはほんの一瞬ですぐにオーブはまたただの黒い球体に戻る。
同時にアルベルトの胸の光も消えた。

皆が呆然とそれを見詰める中、ルガニスは、
「やはりお前が本物の王子だったようだな。どうもおかしいとは思っていたのだが、王子が魔法を使うとは盲点だったのでな」
と言ってラインハルトを真っ直ぐに見詰めた。

「我が母は賢者ゲラルドの娘。その僕が魔法を使って何の不思議がある」
ラインハルトはそう言ってルドルフとアルベルトを庇うように立った。

そのラインハルトを珍しい動物でも見るような目つきで眺めながらルガニスは
「テレシウスよ、何時までもでくの坊をやってないで、部下どもに命じて早くルドルフの身柄を確保するのだ。かなり凶暴性があるようだから、殺さぬ程度に痛めつけておけ。
フィルデンラントの王子とこの僧侶は私が連れて行く。その後すぐ手はずどおり城に火を放つのだ、よいな」
とテレシウスに命じる。

「ああ、はい、ただいますぐ・・・」
テレシウスがあたふたと配下を呼びに走るのを蔑んだように眺めてルガニスはラインハルトとアルベルトに詰め寄った。
すでにルドルフはアルベルトの腕に凭れ失神状態に陥っている。
アルベルトは敵の手には渡さぬと言う決意を表すように、その身体を強く抱きかかえた。

「貴様の思い通りにはさせぬ!」
後ずさりながら対峙するラインハルトの耳にアルベルトが
「魔導士の王子様、空間移動の魔法は使えますか?」と囁く。
「ああ、三人一遍にと言うのはやったことが無いが何とかやってみる」
ラインハルトはそう答え呪文を唱え始めた。

妖魔族の力が城内に満ち満ちているこの状況で自分の魔法が利く自信は無かったが、それでもできる限りの抵抗をせずにはいられなかった。

そんなラインハルトの考えを見越したようにルガニスは嘲笑を浮かべながら
「無駄だ、この地はすでに妖魔族の手の内。お前程度の力では逃れる事はできまいぞ」
と言ったが、それでもラインハルトは呪文を唱え続けた。

「無駄だというのに・・・」
「やってみなければわからないさ」
ほとんどハッタリだがこんな奴の言うことに大人しく従うのはごめんだった。
ラインハルトが不適に言い放った途端三人の足元の床に魔方陣が浮かび上がった。

アルベルトは剣を握ったまま完全に意識を失ってしまったルドルフを抱きかかえながら、全能の神エオリアルよ、どうか我等にご加護を、老師オルランド、お力をお貸しください、と祈り続けた。
三人の身体が魔方陣から立ち上る光に包まれ始めたのを見て、ルガニスの余裕の顔に驚きの表情が広がる。

ルガニスは攻撃魔法を仕掛けたが三人を包む光に阻まれて届かなかった。
「そんな馬鹿な、我らの手の内なるこの空間で人間の魔法が発動するとは・・・これは・・・」
ルガニスが何やら呟いたが三人の耳には入らなかった。