暁の大地


第四章




グリスデルガルド 北東の森

眩いばかりの光のトンネルを潜り抜け、三人が着いた所はどこか深い森の中だった。
まだ昼にはなっていない時刻のはずだが鬱蒼と茂った樹木が日光を遮っているせいか、あたりは夕暮れのような薄暗さだった。
だが幸い妖魔族の力の及ぶ範囲からは逃れることが出来たらしいことにラインハルトは安堵していた。
ここなら魔法が使える、そう思うと少しは気が軽くなる。

森の住人である小動物たちが警戒心を露わに遠巻きに自分たちを取り巻いているのが気配で感じられる中、アルベルトは下草の柔らかそうな地面をえらんでそっとルドルフの身体を横たえた。
出血は止まってきているが顔色は悪く、唇は紫色をしている。
その手からすべり落ちた剣を拾い、ラインハルトはその傍らに置いてやった。

「本当になんて重い剣だ・・・。こんなのを軽々と振り回す奴が女の子だなんてな・・・」
ラインハルトはそう言うとまだ新しい血がにじみ出ている額の傷の上に手をかざし、回復の魔法をかけた。
「体中傷だらけだ。一つ一つの傷は浅いようだが出血が酷い・・・」

アルベルトの言葉に
「ああ、魔法で傷口を塞ぐことはできるが完全に回復するには時間が必要だ。休養と滋養のある食べ物が・・・」
と、ラインハルトが答える。
「・・・この額の傷は跡が残ってしまうかも知れないな・・・これだけはかなり深いから・・・」
ラインハルトはそう呟くと一つ一つの傷口に回復の魔法をかけてやった。

しばらくその様子を見守っていたアルベルトは羽織っていたローブをルドルフにかけてやると、
「それにしてもこの辺りは一体どこなんでしょうね。地図も方位磁石も、荷物はみな城の中に置いてきてしまったので見当もつきませんが・・・」
と言って辺りを見回した。

「うん、僕もこの国の地理にはあまり明るくないし、第一ここまでこれたのは多分僕の魔法の力ではないような気がするんだ。
えっと、アルベルト殿だったな、貴方は何か魔具を持っているだろう、あの黒いオーブの力に反応していた・・・。
あの妖魔族の強力な結界を抜けてこられたのは、その魔具の力だと思うから、僕たちがここに運ばれたのはあえて言えばその魔具の意思なのだと思う」
アルベルトは隠しポケットから赤いオーブを取り出してラインハルトに示した。

「貴方が言っておられるのはこれの事でしょう。
これは私が師オルランドから預かったもので、師はもう一つこれよりは少し大きめの緑色のオーブを持っておられて、これを使って離れた場所に居る師と連絡をつけることが出来るのです。
その緑色のオーブは異界への接点を開く鍵だと師は仰っていました」

「異界への鍵・・・」
「太陽の光がある決まった角度で差し込むとき、このオーブを使って師と連絡を取る事が出来るのです」
そう言ってアルベルトはオーブを僅かに零れている木漏れ日にかざす。
その途端遥か頭上でギャーという気味の悪い声が響いた。

「何だろう」
ラインハルトが慌てて立ち上がると
「どうやら鳥の鳴き声のようですが、何とも不気味な声ですね。この森もやけに薄暗いし」
とアルベルトもうっそうと茂った木々の間から僅かに覗く空を見上げた。

「少しこのあたりを歩き回ってみましょう。どこか開けたところに出られればここがどこなのか少しは見当もつくでしょうから・・・」
「しかしアルベルト殿、一人で歩き回るのは危険では・・・?」
とラインハルトは引き止めたがアルベルトは
「とりあえず妖魔族の手もこの辺りには及んでいない様子、あまり遠くまでは行かないように致します。
それより王子様もそれだけ魔法を使ったらかなりお疲れでしょう、グリスデルガルドにはそう危険な動物は棲息していないように聞き及んでおりますから、今のうち少しお休みされるといい」
と言い置いて行ってしまった。

ルドルフのすぐ傍に腰掛け、ラインハルトはぐったりと横たわるその姿に静かに目を遣る。
この数時間で随分沢山のことが目まぐるしく起こり、何が何だかわからないうちに三人だけでこんな場所へと飛んで来てしまった。
いろいろなことがあったけど、何よりも驚きだったのはずっと男だと思っていたこの王子が実は王女だったと言うこと・・・

確かによく見れば顔立ちも体つきもどことなく柔らかい感じはするのだが、日頃年頃の女の子と言えば側仕えの侍女ぐらいしか目にしないラインハルトには、目の前に横たわる自分よりは数段男らしく見えるこの人物と彼女たちとはどうしても結びつかなかった。

にしても自分たちが後にしてきたあの城はあの後どうなったのか。
ルドルフに国王と王太子の暗殺の汚名を着せたあのテレシウスという男がいずれフランツに代わって王位に就くことになるのだろうが・・・
とすればこのルドルフの存在は彼にとってはかなり厄介な物となるはず。
早晩追っ手を放ってくるのは必定だろう。

また、あのルガニスという男・・・
自分やアルベルトがどうにか助かったのはあの男が自分たちの命を奪うつもりが無かったからに過ぎない。
そうでなければ二人とも一撃で絶命していたことだろう。

自分たちに何らかの使い道があると思って生かして連れ帰ることにしたのだ。
アイツがこのまま自分たちを見逃すはずがない。
そう思うと三人が三人とも非常に危険な状態にあるわけだ。
おちおちこんなところで休んでいるわけにも行くまいと気があせるが、やはり魔法の使いすぎで疲れていたのだろう、腰を下ろして休むうちラインハルトもいつの間にか深い眠りに落ちていた。

枯葉が火にはぜる音と美味しそうなシチューのにおいとにはっとしてラインハルトが目を覚ますと、すっかり暗くなった木立を背景に暖かな焚き火がすぐ傍で燃えているのが目に入った。
その向こうではアルベルトが大木に背を預けてぼんやりと座り込んでいる。
「あ、起きられましたか」
アルベルトはラインハルトの気配に気付いて振り向きながらそう声をかけてきた。

「ここから南へしばらく行ったところに樵小屋がありまして、そこでパンとシチューを少し分けてもらえました。
あと着替えも。農民の服ですがルドルフ王子の服はボロボロだし、貴方のも血だらけだ。
こんな格好でうろうろしていたら人目につきすぎますからね。
小屋に住んでいるのは老夫婦ですが、出征した息子の服が残っていて丁度よかった」
よく見るとそういうアルベルトも農民の服に着替えていた。

「あの男がみすみす我らを見逃すとは思えない。必ず追手を差し向けてくるでしょう。王子二人と僧侶ではすぐに足がついてしまう」
「ああ、僕も同じ事を考えていた。ルドルフも危険だが僕らも同様に、いや、それ以上に危険かもしれないとね」
ラインハルトはそう言って傍らに横たわったルドルフを見遣った。

先程に比べると顔色も大分よくなっている。
「早く意識を取り戻してくれるといいが・・・」
それでも、目の前で兄と祖父を惨殺されたショックは十五歳の少女にとっては余りにも大きいものだろう。

自分もまた国から共に従ってきた家臣たちをむざむざと無駄死にさせてしまった、その後悔と無念さは言葉に表しようも無いものがあるのだが、それは多分アルベルトも同じことだ。
こうして自分たちだけが生き残っている事に後ろめたさすら感じてしまうが、それでも九死に一生を得たからには、死んでいった者の無念を晴らすため出来るだけのことをせねば、とラインハルトは思った。

「粗末な椀ですが頂いてきましたのでどうぞ」
といってアルベルトがよそってくれたシチューに口をつけながら、ラインハルトはそういえば朝から食事を取っていなかった事に今更ながら気がついた。
まあ、確かに食事どころではなかったが。
固いパンに具のほとんど無いシチューを頬張りながら、ラインハルトはどんな豪華な食事よりも美味しい、と思う。
そしてそれは多分、空腹のせいだけではないだろう、と。

ラインハルトが食事を終えて一息ついたところでアルベルトは
「老夫婦の話ではここはグリスデルガルドの王都から北東に数百リーグ離れた森の中で、東に何日か進むと海に出るはずだといっていました。
さらに海岸沿いに南下すれば小さい漁港があるはずだと。
そこからフィルデンラントへ渡り、貴方の兄上に庇護を求めるのが上策と思いますが」
と言った。

「そうだな。とりあえず魔法で東へ移動してみるか」
「ええ、ただ夜動くのは危険ですから今夜はここで野宿して明日朝一番で、ということにしませんか。
それまでにはルドルフ王子も意識を取り戻すかもしれませんし」
「わかった。そうしよう」
ラインハルトはアルベルトが調達してきた服に着替えると焚き火の横に再び座り込む。

夜はアルベルトと交代で番をすることになり、先にアルベルトに休んでもらう事にした。
この森の中では太陽の光が足りないのか、師と連絡をつける事はできなかった、とアルベルトは言っていた。
いくら鬱蒼とした森の中とはいえこの薄暗さは尋常ではないような気がする。
頭上からは今も時折あの気味の悪い鳥の声が聞こえてくる。
うまく虎口を逃れたつもりで自分たちは未だ妖魔族の手の内にあるのではないか・・・
ラインハルトはそんな思いを振り払うように首を振った。

魔法を使えればすぐにその漁港に出られる。そこで何とか船を調達して一日も早くフィルデンラントへ戻らねば。
おそらく故国のものはまだ誰もグリスデルガルドのこの事態を知らないだろう。
フィルデンラントはおろかグリスデルガルドのものでさえ大半は何が起こったのか知らずにいるはずだ。
妖魔族の手がグリスデルガルド全域の及ぶ前にこの地を離れるのだ。
そう思っていたときかすかな呻き声が聞こえてきた。






ルドルフは夢を見ていた。
ぼんやりとした視界に自分を見つめている人の顔が浮かぶ。
男の人だ。多分年齢は三十半ばくらいだろう。
金髪にうすい水色の瞳をしている。
どうやら泣いているようだ。
何をそんなに泣いていらっしゃるのですか、と聞こうとして視界が暗転する。

かすかな光の気配にゆっくりと目を開けると、今見ていた夢と同様誰かが自分の顔を覗き込んでいた。
金髪にうすい水色の瞳。
夢で見た人物とどこか面差しが似たその顔は、だがまだずっと若い少年のものだった。
「気がついたのかルドルフ王子」
その顔には見覚えがある。
「ハル・・・いや、ラインハルト王子・・・」
その声にアルベルトも目を覚まし、そっと近付いてきた。

「僕達は助かったのか・・・、それとも捕らわれているのかな・・・ここは一体・・・」
そう言って身体を起こそうとするのをアルベルトが背中に手を回して助けた。
「ここはグリスデルガルドの北東の森の中だそうだ。なんとか城からは抜け出せたが」
ラインハルトが答えた時、またあの気味の悪い鳴き声が聞こえてきた。

「いやな声だ・・・」
「そうですね」
その声があのルガニスという男を思い出させたのかルドルフは軽く身を震わせる。
「何てことだ、何て・・・。今日はフランツが王位を継ぐ晴れの日になるはずだったのに・・・」
目の前で祖父と兄を殺された無念さに唇を噛んで俯き、きつく握り締めたその拳に血管が浮き上がるのを見下ろしながら、ラインハルトもアルベルトも慰める言葉も無く一様に黙り込んだ。

ルドルフはしばらく俯いたままで居たが、やがて決然として顔を上げると、
「ハル、いや、ラインハルト王子、そしてアルベルト殿。とにかくお二人だけでも無事でよかった。他のものは助からなかったのだろうな、恐らく・・・」
と言った。

「こうして逃げてこられたのが奇跡のようなものだからね・・・」
ラインハルトはそう言いながらあの男の氷のように冷たい目を思い出した。
「それにしても君が本当の王子様だったなんてね。まあ、何か変だなとは思っていたけど」
ルドルフがほんの少しだけ笑顔を見せた事に心を和ませながらラインハルトは答える。

「ああ、グリスデルガルドに不穏な動きがある、と言う事は祖父ゲラルドだけで無く兄ヴィンフリートからも聞いていたからね、セルダンと相談して念のため戴冠式直前まで身代わりを立てることにしたんだ。
で、直前に近衛兵の一人と入れ替わった。ほら、入場の前小休止したろう、あの時にね。僕と髪や目の色が一番近かったのがあのハラルド、つまり本物のハルだったから・・・
でも、彼には気の毒な結果になってしまって・・・」

最後は俯いてしまったラインハルトにアルベルトが
「仕方ありませんよ、どの道あの状況では助かりようが無かったでしょうから・・・」
と取り成すように言う。
「それでも、あんなむごい殺され方をするなんて・・・」
そう言ってラインハルトはルドルフのことに思い至り口を噤んだ。

アルベルトはルドルフを木に寄りかからせると温めなおしたシチューをよそってその手に渡す。
ルドルフはそれを一口だけ口にしてからラインハルトに言った。
「あの男・・・アイツの本当の狙いはどうやら君だったようだが・・・」

「ああ。フィルデンラントの王族の血がどうとか言っていた。
でも、それなら君やフランツ王子、マリウス国王だって遠いとはいえフィルデンラントの王族の血が流れているはずなんだが。
だってグリスデルガルドの創始者ルドルフはフィルデンラントの王子だったんだから」

「そうだよな・・・」
ルドルフがポツリと答える。
まずいな、また嫌な事を思い出させてしまったか・・・
ルドルフが女の子だと分かってからどうも調子の出ないラインハルトである。

その時、
「そういえば、ルドルフ様、貴女の事を本当は何とお呼びすればよいのでしょうね。
ルドルフと言うのは通り名なのでしょう。貴女の本当の名前は何と仰るのです?」
とアルベルトが尋ねたのでラインハルトは内心ほっとした。

「いや、ルドルフと言うのは本名だ。セカンドネームはエミリアだけど。
僕は父の考えで生まれたときからずっと男として育てられたから、これからもずっと男として扱ってくれて結構だ」
「お父上のお考えで?」

「ああ、父は僕がまだ幼い頃はやり病で亡くなったと聞いている。
母は僕が生まれるとすぐに亡くなったそうだし。僕を男として育てるというのは父の考えだったらしい。ルドルフと言う名も父がつけてくれたものだと祖父から聞いたけど。
父がそうした理由は今となっては分からないが」

「・・・恐らくお父上は予知夢でも見られたのかもしれませんね。今日のこの日のことを。
この騒乱で生き残るのが貴女だけだと分かっていたから、だから貴女にグリスデルガルドの命運を託すため男として育てるよう言い残されたのかも・・・」
アルベルトが深く考え込むような口調で呟くように言う。

「でも、父にそんな力があったとは聞いていないが。
大体我が一族にそんな能力を持っていた者などいないと思う・・・」
ルドルフは不審気にアルベルトを見上げて言う。

「では、どなたかから助言を受けられたのかも。
私の師オルランドのそのまた師匠へルマン大聖は自分の死後数百年たった後の世のことまでも夢に見ることが出来たと言います。
それほどの方でなくとも後の余の事を夢に見れる者は幾人もいるでしょう。
この地の者でなくとも旅の賢者とかからお聞きになったのかもしれませんね」

アルベルトの言葉にラインハルトは先程見せてもらった赤いオーブのことを思い出し、尋ねる。
「そういえば、アルベルト殿、先程の不思議なオーブのことだが、あれは一体何なのだ?
グリスデルガルドの王宮にあったあの黒いオーブと関係があるものなのか?」

「実は、私にもこのオーブの事はまったくわかりません。
どういった原理でどのようなことが出来るのか皆目検討がつかんのです、恥ずかしい話ですが。
師のオルランドも詳しくは知らないようでした。
ただ、この大地にははるか昔滅んだ文明があって、このオーブもその文明の遺産かもしれないと、師は言っておられましたが・・・」

「はるか昔の文明?この大地は神によって暗黒の中から生み出されたのではないのか?」
「ええ、神話ではそういうことになっていますね」
「神話では・・・!!」
ラインハルトとルドルフが異口同音に驚きの声を上げる。

それを見てアルベルトはハッとしたように
「申し訳ありません、私も聖ロドニウス教会の僧侶の端くれ、これ以上の事は話せません」
と言った。
ラインハルトは呆然とアルベルトを見つめていたが
「分かった。いろいろと事情があるようだ、これ以上は聞かないが・・・」
と呟くように言い、ルドルフも無言で同意を示した。

「それよりも王子様方、今日はとりあえずここで野宿するしかなさそうですが、明日は東南にあるという漁港に向おうと思います。
それについては念のため我等の身分は明かさぬ方が賢明と思われますが」
アルベルトの言葉にラインハルトは
「ああ、分かっている。とりあえず農民を装う事にしよう。いいだろう、ルドルフ王子」
と言ってルドルフにアルベルトが調達してきた服を渡す。

「ああ、僕に依存はないが、王子と言う敬称は止めた方がいいだろうな」
ルドルフはそう答えアルベルトを見遣る。
「そうですね、では、失礼ながらお二人の事は、ラインハルト、ルドルフ、と呼ばせていただきましょう。私の事もただアルベルト、とだけお呼び下さい」
「ああ、分かった」
「承知した」

とりあえず話がつきラインハルトとアルベルトは引き続き交代で見張りにつき、ルドルフは明日に備えもう一眠りする事にする。
今日一日の出来事を思い返し、明日からのことを考えるととても眠れるものではなかったがとにかく今は身体を休めるしかない。
ルドルフは傍らに置かれた自分と同じ名の勇者がかつて振るった剣を見遣りながら、兄と祖父の敵は必ずこの手で取る、と固く誓った。

その思いをもってラインハルトを見遣ると、彼もまた思うところあるらしくひざを抱えて座り込みじっと焚き火の火を見詰めている。
ラインハルトは一刻も早く祖国に戻る事を考えていた。
兄ヴィンフリートにルドルフの身柄を保護してもらい、妖魔族とテレシウス卿討伐の軍を起こしてもらおう。
フィルデンラントを敵に回した事を嫌と言うほど後悔させてやる・・・
自分の身代わりとなってしまったセルダンや近衛兵のハル、その他の従者たちの無念を晴らしてやらねば、心に思うのはそのことばかりである。

二人からは少し離れた場所で身体を休めるアルベルトも、なんとも大変なことになってしまった、と溜め息をつく。
まさかこんな大事件の渦中に自分が身を置く事になろうとは・・・
この騒動がグリスデルガルド一国の問題で済むと思えない。
下手をすればフィルデンラントだけではなく他の国や帝国をも巻き込んだ戦乱に繋がってしまう可能性もある。
そう思うとなんとも気が重い。

だが、とりあえずこの両王子の身は自分が守らねばならないだろう。
自分には武術の心得などもとより無い。
この二人に抜きん出るものが自分にあるとすれば、何がしかの知識と多少の経験・・・と言っても十歳からの僧院暮らしでは世間知らずの王子様といい勝負だが・・・
とにかくフィルデンラントまででも無事送り届けねば、と決意を固めるアルベルトだった。






翌早朝、農民の服に着替えた三人は取り敢えずラインハルトの魔法で東の海岸まで移動し、徒歩で南下する事にした。
一晩中聞こえていたあの不気味な鳴き声は夜が明けてもまだ時折空から降ってきていた。
その声を聞くたび不安な予感に付きまとわれる三人だったが、まだ体調万全とは言いがたいルドルフに森の中の行軍はきついだろう。
何といってもやはり女の子なのだし、あまり無理をさせたくないと、ラインハルトもアルベルトも思ったのだった。

勇者の剣はルドルフが着ていた服で包んで持ち歩く事にした。
不思議な事に拭ったわけでもないのに、あの時鞘についた血糊も妖魔族の女の体液も剣には残っていなかった。
ラインハルトは自分がやっとのことで持ち上げた剣をルドルフがいとも簡単に手にするのをなんともいえない表情で眺める。

「その剣、異様に重くないか・・・?」
ラインハルトの問いにルドルフは
「いや。羽根のように軽いけど」
と答える。
「この剣は多分僕の血に反応するんだろうな。君からこの剣を受け取った時、僕の脈動とこの剣の波動が一致するのを確かに感じたもの」
へえ、とラインハルトが感心するのを
「要するにルドルフの剣が使えるのはルドルフだけ、ということですか」
とアルベルトが引き取る。
その言葉にルドルフは照れたような笑みを見せた。

ラインハルトの唱える呪文で足元に浮かび上がった魔方陣から立ち昇る強い光と共に三人の姿は森の奥深くから消える。
次の瞬間には三人は海を見下ろす崖の上に立っていた。
「さすが、賢者ゲラルドが秘蔵の弟子と言っただけの事はある。たいしたものですね、ラインハルト様」

「お褒めいただいて恐縮だがアルベルト、当面の間はお互い呼び捨てって事だったろ?」
とラインハルトに言われ、
「そうでした。どうも癖がぬけなくて・・・」
とアルベルトが頭をかきながら答える。

「すぐに慣れるよ。それより先を急ごう。少しでも早くフィルデンラントに渡った方がいいんだろう?」
ルドルフに言われ三人は崖上の道を南へと辿り始めた。
空はどんよりと曇り、そのせいか三人の気分も自然と重くなる。
すぐ傍らに深い森の迫る細い道を辿りながら、ラインハルトは嫌な感じを振り払えずにいた。

はるか遠く西の空に小さな黒いものが舞っているのが見える。
初めは大気中の誇りのように見えたものが次第にその大きさを増していく。
やがて三人の耳にあのギャーギャーと言う嫌な声が届くようになった。
「ラインハルト、あれは・・・」
ルドルフが尋ねる。

「鳥の鳴き声のようだが・・・」
ラインハルトが答えると、アルベルトが
「グリスデルガルドに生態系にはあのような鳴き声の鳥はいなかったように記憶していますが・・・」
と言う。
「ああ、確かにこんな鳴き声は僕も聞いた事がない。まあ、国中端から端まで行ってみたことはないが・・・」
ルドルフも不安を隠しきれない声でそう言った。

すぐに三人の頭上は漆黒の羽を持つ鳥に覆われた。
猛禽の鋭い嘴が三人に襲い掛かる。
「うわっ」
手を振り回して鳥の攻撃を避けながら、三人は急いで森の中へと駆け込んだ。

うっそうと茂った森の複雑に絡み合った樹木の枝を掻い潜り、三人は這うようにして奥へと入り込んで行く。
途中アルベルトは落ちていた枯れ枝を何本か拾い集めた。
素手では鳥の攻撃を防ぎきれない、こんなものでも無いよりはマシだろうと思ったのだ。
戦力にはなれないまでも王子二人の足手まといにはなりたくなかった。

枝に邪魔されて鳥は森の中までは入ってこれず、ギャーギャーと五月蝿く鳴き叫びながら上空を飛び回っていた。
その声の大きさから鳥の数が半端でない事が分かる。
しばらく進んで少し開けたところに出た三人は、そこでじっと息を潜め様子を伺った。

鳥の声は随分長い事聞こえていたが、次第にその声は小さくなっていきやがて聞こえなくなっていった。
鳥の鳴き声が完全に聞こえなくなってからもしばらくは三人は口を利く勇気もなく押し黙っていたが、やがてやっとアルベルトが重い口を開いた。
「あれは・・・もしかしたら妖魔族の凶鳥と言うものかもしれませんね。あんな鳥は図鑑でも見た事がない」

「ああ、僕もそうだと思う。と言っても僕は妖魔族の事はほとんど何も知らないが・・・」
ラインハルトが相槌を打つ。
「では、この辺りももう妖魔族の勢力下に入っているということか・・・?」
ルドルフに聞かれ、アルベルトは
「一晩寝ているうちに妖魔族は一気に勢力を拡大したのかも・・・。空もやけに薄暗かったし」
と答える。

「そうだな・・・、だがまだ完全に奴等の手に落ちたわけではないだろう。そうでなければあんな鳥の攻撃だけでは済まないはずだ。昨日の王都の上空は真暗になっていたから・・・」
ラインハルトの言葉に
「そうでしたね。私が聞いた話でも妖魔族は光が苦手なので昼は活動する事はないといわれていました」
とアルベルトが続ける。

「でも、あのルガニスと言う男は昼間でも平気で僕らの前に姿を現したじゃないか。確かにあの時もうす曇で快晴というわけではなかったが・・・」
ルドルフに言われラインハルトは考え込みながら答える。
「アイツは・・・特別なのかもしれない。僕の張った結界にも何の反応もなく城に入り込めたくらいだから・・・」

「妖魔族の事は実はほとんど分かっていないのです。ルドルフ一世の伝説でその片鱗が僅かに窺い知れるだけで・・・。
聖ロドニウス教会にも資料は全く残っていないし・・・」
「今まであまり考えたことも無いが、なんだか妙な話だな。ルドルフ一世が退治するまではこのグリスデルガルドの地は妖魔族が住む土地だったのだろう?」
ラインハルトの不審そうな視線にルドルフは
「そう聞いているが・・・」
と至極頼りない返事を返した。

自分の国の歴史もロクに知らないというのも王族としては恥ずかしい限りだが、実際勇者ルドルフがどのように妖魔族と戦い、どのようにこの地を平定したのか詳しい事はほとんど伝わっていないのだった。
まして妖魔族とはどのような種族でどのような暮らしをしているのか主食は何なのか等と言う事はおそらく国中の誰も知らない事だろう。

ルドルフはあの剣の包みにそっと手を触れる。
そう、この剣を、神格文字の刻まれたこの勇者の剣をルドルフはどうやって手に入れたのかすら、自分は知らない。
「この剣はフィルデンラントに伝わる剣だったのかな・・・」
今度はルドルフが不審気にラインハルトを見つめた。

「さあ・・・、ただルドルフ王子が征西出発の時から持っていたのだとすると、そういうことになるのかも・・・あの文字はもしかして青の賢者フィルドクリフトがあの剣を神から頂いた証拠なのかも・・・」
「どうしてそう思われるのですか?」

「あの剣には神格文字で銘が彫ってあったんだ。
確か・・・清らかなる者には恩寵を、邪なる者には鉄槌を・・・だっけ、そんな風な言葉が」
ラインハルトの言葉にルドルフも頷く。
「なるほど・・・、あの剣にそんな文字が彫ってあったとは気付きませんでした」
「そうか、アルベルトも神格文字が読めるんだ・・・」
「いえ、残念ながら私はまだ若輩者ですからね。神格文字は教えてもらえないんですよ」

そういえば、とアルベルトは懐からあの赤いオーブを取り出してみたがこの曇天のしかも密集した枝振りの下では、オーブはやはり何の反応も示さなかった。
「参りましたね。やはりこの地は妖魔族の影響の下に置かれているらしい。
思うに先程の鳥たちは貴方の魔法に反応したのかもしれませんね」
アルベルトはラインハルトに向けて言う。

「そうだな、魔法は使えてもそれは僕らの存在を敵に教える事になってしまうのかもしれないな。まあ、この地にも魔導士は沢山いるだろうから、他にも魔法を使うものはいるだろうが・・・」
「要するに魔法は使えないって事だな。ならば足で移動するしかないわけだ。とにかくあの鳥の声は聞こえなくなったのだから、少しずつでも南へ向かった方がよくはないか?」
ルドルフの提案に残り二人も賛成し、一行は再び海岸沿いの崖上の道に出て、南を目指すことにした。

ただし、先程のようにすぐ逃げ込めるように出来る限り森の近くを通るようにする。
あまりの薄暗さに時刻すら分かりかねたが、どうやら昼過ぎくらいに崖は急な下り坂になってそのまま海沿いの集落へと落ち込んでいる場所に出た。
「ここが目的の漁港かな・・・」
三人は崖の上からそっと様子を伺った。

「老夫婦の話し振りではもっとずっと南のようでしたが。でもここもどうやら漁村のようですから船を調達できれば海岸伝いに海路を南下した方が陸を行くより安全かも・・・」
「ここで船をかりて直接フィルデンラントへ渡れないかな・・・」
「どうでしょう、それほどに大きくてしっかりした船があるようには見えませんが・・・」
アルベルトが今は船が出払っている粗末な桟橋を見下ろしながら言う。

「それにさ、ラインハルト、君は船が扱えるのか?フィルデンラントまではどう見積もっても三日はかかる。その間常に順風満帆とはいかないだろうし・・・」
ルドルフにそういわれラインハルトは少し顔を赤らめて反論しようとしたがすぐに、
「分かってる、船だけではどうしようもない。船乗りも一緒に雇わなければ、それも熟練の奴をね!」
と語気荒く言い切った。

「そういうことですね、とりあえず村まで下りていってみましょうか」
とアルベルトがいった時、再びあの嫌な鳴き声が近付いてくるのが聞こえた。
「またアイツらか」
「僕らを見張っているのかな」
「とにかく一旦森の中へ入りましょう」
三人が森の中からそっと様子を伺うと、凶鳥はルドルフ達ではなく、真っ直ぐ村の方へと向って行った。

三人は顔を見合わせて、急いで村を見下ろす崖上まで走り出てみた。
さほど大きくない集落を何羽もの凶鳥が襲い、村人や家畜を追いかけまわしている。
凶鳥の鋭い嘴に小動物は引き裂かれ、村人も体中から血を流して倒れていく。
「いけない!」
そう言うなりルドルフは剣を手に駆け出していた。

ラインハルトとアルベルトも慌てて追う。
「待てよ、ルドルフ!」
ラインハルトが呼ぶがルドルフにその声は全く届いていないようだ。
ルドルフは険しい崖を滑り落ちるようにして村へと向かっている。
崖から下を覗きラインハルトはアルベルトに問う。
「さて、僕らはどうする?」
「そうですね・・・」

ルドルフはすでに崖を降りきって剣を振りかざし、子供の上に乗りかかっている凶鳥に斬りつけていた。
「女性にここまでされて私達が黙ってみているわけにも行かないでしょうが・・・」
「では。」
ラインハルトはアルベルトの腕を掴み崖下へと魔法で移動した。






グリスデルガルド 東岸の漁村

魔法に反応して凶鳥がラインハルトの周りに集まってくる。
ラインハルトは鳥を出来るだけ引きつけてから炎の魔法で反撃した。
アルベルトもまた村人に襲い掛かる鳥を木の枝で払い落としている。
ルドルフは二人が追いついた事を認め、アルベルトが叩き落した凶鳥を剣でなで斬りにしていった。

不思議な事にルドルフの剣で斬られた鳥はさらさらと砂のように崩れ、やがて風に飛ばされて消えていく。
ルドルフはさらに炎に包まれながらもなおもラインハルトに襲いかかっている凶鳥を次々と斬り倒した。
「全く、なんてしつこい連中だろう・・・」
手に軽い火傷を負ったラインハルトが呆れたような口調で呟く。

「ラインハルト、この連中は炎よりも光が苦手かもしれません」
アルベルトが枝を振り回しながら声をかける。
「そうだな、やってみるか」
ラインハルトが口の中で軽く呪文を唱え両の手を突き出すとその手から光が迸り辺りを煌々と照らし出した。

光にあった凶鳥はルドルフに斬られたとき同様砂状になって地面の上に零れていく。
同時にアルベルトの胸の辺りが赤く輝きだした。
残った鳥もルドルフが斬り捨て、取り敢えず村を襲った凶鳥は全て撃退する事が出来た。
アルベルトは慌ててポケットからあの赤いオーブを取り出す。

斜めから差し込む光を取り込んで赤いオーブはキラキラと輝いている。
思わず駆け寄りオーブを見つめるルドルフとラインハルトの目に、球体にうっすらと浮かぶ初老の男の顔が映った。
「老師!」
とアルベルトが叫んだが、輝きは急速に失われ男の顔もすぐに消えてしまった。
「やはり、もっと強い光がないとダメか・・・」
アルベルトが悔しそうに呟く。

「アルベルト、今のは・・・」
ルドルフに問われ、アルベルトは
「今映ったのは私の師、オルランドです。なんとか師と連絡を取って今の状況を知らせたかったのですが・・・」
と答えた。
周りに人が集まってくる気配にアルベルトは急いでオーブをポケットにしまう。

「あの、有難うございます。おかげで助かりました」
三人を取り囲んだ村人たちは口々に礼を言う。
「あの鳥は一体なんだったんでしょう。あんな恐ろしい鳥は今まで見たことが無い」
「さあ、僕達もあんな鳥は初めて見ましたから」

一人の少女がラインハルトの手の火傷を見て、
「酷い怪我、すぐ手当てをしなくては・・・」
と言ったのを機に、三人はその少女の父である村長の家で休ませてもらうことになった。
ラインハルトは魔法で回復できるから、と言ったが少女の父である村長も村を救ってくれたお礼をしたいと強く勧めたので、その言葉に甘えさせてもらうことにしたのである。

クラウディアと言う名のその少女はラインハルトの火傷に薬を塗り、包帯を巻いてくれた。
銀髪にブルーグレイの瞳の可愛い少女に手当てしてもらって、ラインハルトはすこし照れているようだ。
村人の話では今朝目が覚めたときからこのうす曇の状態で、この季節こんな天候は滅多に無いのでなにか不吉な事の前兆ではないかと皆で噂しあっていたらしい。
この村は漁村なので男達は漁に出ているがもう間もなく戻ってくるだろうということだった。

どうりで襲われていた村人は女子供や老人だけだったわけだ、と三人はやっと合点する。
今日はこの家に泊まって言ってくれと頼む村長にラインハルトは
「せっかくのお言葉だが、我等は先を急ぎますので」
と丁重ながらもはっきりと断った。

「出来れば船を一層用立てていただきたいのですが。勿論代金はそちらの言い値でお支払いいたしますので」
とアルベルトが言う。
「大丈夫なの、アルベルト?」
とこっそり訊くルドルフにアルベルトは
「勿論です。路銀はオーブと一緒にいつも肌身離さずしっかりと身に付けていましたからね」
と囁いて片目を瞑ってみせた。

まともな船は全部漁で使っているので、と前置して村長が村人を集めて尋ねてくれた結果、少々難はあるが短時間乗るなら充分役に立つという小船を破格の値段で譲ってもらう事ができた。
小さいながらも立派なマストのついたなかなかの船である。
ただし三人とも帆を操る事は出来ないので仕方ないので櫂も分けてもらって漕いで進むことにしようと話が決まった時、クラウディアが、
「この程度の船なら私が扱えるから、送っていってあげましょう」
と言ってくれた。

「取り敢えずここから南へ下ったところにあるという漁村に行ってみたいんだけど・・・」
手当てしてもらった気安さからかラインハルトはクラウディアにそう言った。
「ここから南・・・たぶんケッフェルの港のことね。確かに陸路を行くとかなり遠回りしなくてはならないから船の方が便利だわ。ここからなら風に恵まれれば半日で着けるはずよ」

「そこでもっと大きな船を手に入れられるかな。僕達フィルデンラントに渡りたいんだ・・・」
「フィルデンラント!それならディーターホルクスから定期便が出てるからそれを利用した方がいいのじゃなくて?」
というクラウディアの至極尤もな意見にラインハルトは
「それはそうなんだけど・・・」
どう答えていいか分からず口ごもる。

それを引き取ってアルベルトが
「定期便は満員なんですよ、戴冠式の影響で。私たちは少しでも早くフィルデンラントに渡りたいので、漁船でもいいからチャーターしたいんです」
と言うとクラウディアはそうなの、と言って
「戴冠式か・・・。パレード、素敵だったでしょうね。フランツ王子はハンサムだって評判だもの。私も見たかったな・・・」
うっとりとした表情を見せた。
ルドルフが拳を握り締めるのを見遣りながらラインハルトは
「そうだね。僕たちも見たかったよ・・・」
とだけ言った。

船はしばらく使っていなかったということで、多少の補修や清掃が必要なため、船大工に修理を頼む事になった。
少しでも出立を早めたい三人としては何か手伝える事は無いかと申し出ては見たが、一応農民の格好をしていても、王子二人に僧侶では大工仕事にはかなり難があり、結局船大工に邪魔にしかならないからと追い返され、村長の家で修理が終わるのを待つことになった。

今すぐにでも故国に向いたいラインハルトは少しイラつき気味だが、アルベルトはルドルフにとってはいい休養になってよかった、と思っていた。
勿論アルベルトとしても一刻も早く妖魔族の影響下にある土地から離れたいのは山々だったが。






アルベルトが村長からこの周辺の話を聞いている間、ラインハルトはそれなら、とクラウディアに頼んで紙とペンを貸してもらい、なにやら書き始めた。
「手紙を書いてるのか?」
とルドルフに尋ねられ、ラインハルトは
「ああ、少しでも早く兄に、グリスデルガルドの政変の事を知らせたいんだ。早急に妖魔族討伐の軍を起してもらわないと、今のままではいつフィルデンラントに帰り着けるかわからないからね。
それに昨日の朝からずっと連絡を入れてないから、ヴィンフリートは、いや兄は僕のことを心配していると思う」
とやや顔を曇らせながら答える。

「でも、せっかく書いても届けようが無いだろう?」
と心配するルドルフにラインハルトは少し自慢げに
「僕が魔導士だってこと、忘れてないか?」
と言った。
書き終えた手紙を器用に折りたたんでラインハルトは窓からそっと空に放り上げる。
手紙は見る間に白い鳩に姿を変えると矢のような速さで東の方角へと飛び去った。

「うわあ、すごい・・・」
「へえ、便利なもんだな、魔法って」
クラウディアとルドルフが感心して言う。
「僕達もあんな風に海の上を飛んでいけるといいのにな・・・」
とのルドルフの言葉に
「ああ、そうだな」
とラインハルトは鳥の飛び去った方角を眺めながら呟くように言う。

しばらく鳥を見送ってから振り向いたラインハルトはクラウディアが尊敬の眼差しをじっと自分に向けているのを見て、照れたように頭をかいた。
「すごい、すごい。ねえ、もっと魔法使って見せて・・・」
とせがまれて一瞬その気になるラインハルトだが、ルドルフから
「魔法って、必要もないのにやたらに使うものじゃないんじゃなかったのか?」
と皮肉を言われて幾分赤くなりながら頬を膨らませた。

「そうなの?」
とクラウディアはルドルフに尋ねる。
「って、僕は以前ある魔導士から聞いたけどね」
そんな言葉を残してルドルフは少し外を歩いてくる、と言って部屋を出て行った。
ラインハルトは魔法を見られなくてとても残念そうな表情を見せるクライディアに、
「今度こっそり見せてあげるよ。アイツには内緒で」
と小声で囁いた。

ルドルフがあちこち見回しながらゆっくりと漁港の方へ歩を運んでいくと、アルベルトと村長が海のほうを指差して何事か話し合っているのが見えてきた。
ルドルフもほんの少し速度を早めて二人と合流する。
アルベルトは村長からこの辺りの潮の流れや風向きなどについて詳しく聞いているようだ。
その聡明そうな物言いや雰囲気から、農民の服を着ていてもやはりただの農夫には見えないな、とルドルフは思う。

それにしても、アルベルトの姿を見るたびルドルフはフランツの事を思い出さずにいられない。
一生傍にいて、弟として剣士として仕えるつもりだった大好きな兄―――その兄があれほどあっけなく命を落としてしまったなんて・・・
フランツが死んでしまったというのに、何故自分はこうして生きているのだろう。
フランツの代わりに自分が死んだ方がどれほどマシだったか・・・

ルドルフが自分の事をぼんやりと見つめているのに気づいたのかアルベルトは、
「やあ、貴女も様子を見に来たのですか?」
と尋ねた。
村長はそれを機に
「では、私はこれで・・・。もうすぐ男達が戻ってきますので港で出迎えてやらねば・・・」
と言って離れて行った。

「村長さんからこの辺りの潮の流れや風向きについて教えてもらっていたんです。南へ向うには朝のほうがいい風が吹くようですね。どの道船の修理に午後いっぱいはかかってしまうでしょうし、いくら海路とはいえ夜行動するのはあまり得策とは思えないから、船出はどうしても明日の早朝ということになってしまいそうです」
とのアルベルトの言葉に
「ラインハルトは一刻も早く故国に戻りたいらしいけどね」
とルドルフは茶化すように言う。

「貴女は・・・フィルデンラントに行くのは気が進みませんか?」
「そんな事はないけど・・・」
アルベルトにじっと見詰められて少し息苦しくなったルドルフは海の方へ顔を向けて、
「僕はこのグリスデルガルドから外へ出た事が無いんだ。実を言うと海を見たのも初めてさ。フランツは子供の頃ホーファーベルゲンに行っていたことがあるけど・・・
だから、フィルデンラントへと言うよりは、この海を渡って外の世界へ出て行くのが少しだけ気が引けるんだろうな・・・」
と言った。

「それは・・・でも・・・」
アルベルトが何か言いかけるのを遮って、ルドルフは更に続けて
「何だか情けないな。僕は祖父と兄の敵を打たなくてはならないというのに・・・」
と呟く。
「僕はもっと強い人間だと自分では思っていたんだけどな・・・」
俯いたその頬に涙が伝わるのを見てアルベルトは
「ルドルフ様・・・、無理をしないほうがいい。泣きたいときには思い切り泣いてしまったほうが・・・」
と言ってそっとその頭を撫でた。

「僕は泣いてなど・・・」
ルドルフはそう言ったが、その声は涙で震えている。
「あんなことがあって、悲しくないはずが無いのです。ご自分の心にもっと素直になってあげて下さい」
その言葉にルドルフはワッと言ってアルベルトに抱きついて泣き崩れた。
「フランツが・・・フランツが・・・、僕が代わりに死ねばよかったのに・・・」

アルベルトはそっとルドルフの身体を抱擁してやりながら
「そんなことを言ってはいけない。フランツ王子は貴方だけでも無事でよかったと思っているはずです」
と言う。
ルドルフはしばらく泣きじゃくっていたが
「本当に、本当にそう思う?」
と泣きながら尋ねる。
「思いますよ。私にも妹がいますから」
ルドルフは涙で濡れた顔を上げてアルベルトを見上げた。

「私なら妹に敵を打ってもらおうとは思わない。そんなことよりも妹には自分の分も幸せな人生を送ってもらいたいと思うでしょうね。だからきっとフランツ王子も・・・」
「でも僕は!・・・僕はフランツを殺したあの男を許せない。どんな事をしてもあの男を倒してやる。たとえ、この命と引き換えにしても・・・。
それからでなければ僕に幸せな人生など訪れない・・・」
アルベルトは伏目がちにそう言い捨て唇を噛むルドルフの様子を見下ろしながら心中溜め息を付く。

いくら男として育ったといってもこの人は王女様―――出来ればそんな血塗られた道を歩んで欲しくは無いのだが・・・
ルドルフは拳で涙を拭うと
「弱気なところを見せてしまってなんとも気恥ずかしい。今の事は忘れてくれ」
と言って気丈に笑って見せた。
その笑顔にアルベルトは無言でただ頷いた。

港の方が騒がしくなり、ルドルフとアルベルトは漁に出ていた男達が戻った事を知った。
港へ駆けつけるとラインハルトとクラウディアも出てきて魚の水揚げの様子を見ている。
ルドルフとラインハルトにとっては勿論、アルベルトにとってもその様子は大変珍しく興味深いものだった。

そのあと、三人はあいた船を一艘借りてクラウディアから帆の操り方を一通り習った。
あまり手際のいいものではなかったが取り敢えず帆を張ったり下ろしたりだけは出来るようになったが、風を読んで上手く舵を操るには熟練が必要との事で、やはり明日はクラウディアの言葉に甘えてケッフェルの港まで送ってもらうことにした。
夕刻には船の修理が完了したとの知らせも届き、三人は村長の家で夕食をご馳走になり、一晩泊めてもらう事になった。






フィルデンラント 王城

王城の中庭の外れにある亭で、国王ヴィンフリートは器楽の演奏に耳を傾けている。
種々の楽器が織り成す美しいハーモニーにうっとりと聞き惚れていた国王は白い鳥が城壁を越えて謁見の間に飛び入ってきたことに気付かない。
謁見の間では摂政ヴィクトールが国王に代わって地方の代表の陳情を受けていたが、突然闖入した鳥が玉座の肘掛に止まったのを認めると、静かに近付いてその鳥を手で握りつぶした。

ヴィクトールの手の中で鳥は元の紙に戻る。
地方の代表は驚いてその様子を見ていたが、ヴィクトールに
「どうした?用件は終わりか」
と尋ねられ、
「いえ、そうでは御座いませんが、確か今鳥が・・・」
と答える。

「鳥?そんなものは知らぬな・・・。それよりまだ用があるならさっさと述べよ。私は忙しいのだ」
そうヴィクトールに言われ、代表者は慌てて陳情の続きを述べ始めた。
ヴィクトールは陳情を聞くのをその男で打ち切り、自室へと戻る。

手の中でクシャクシャになった紙を広げさっと目を通したヴィクトールは口元に軽い笑みを浮かべた。
当てにならぬ妖魔族どもが、しくじりおって・・・
だがこの手紙は使えるかも知れぬな・・・
ヴィクトールは近頃召抱えたお気に入りの男を部屋に呼ぶ。

やがてその男が姿を現すと
「これは魔法で書かれた手紙だが、この一部を変える事はできるか?」
と尋ねる。
「笑止。赤子の手を捻るよりも簡単で御座います・・・」
従僕姿のその男はそう言って声もなく笑った。