暁の大地


第六章




グリスデルガルド
ディーターホルクス南部の街道

麗かな陽光を浴びながら進む幌無しの馬車に揺られて、久々にルドルフは晴れやかな気分を味わった。
御者席で手綱を握るアルベルトも隣に座ったクラウディアも心なしか浮き浮きしているように見える。

自分達の置かれた状況を考えると呑気に旅気分を味わってなどいられないのだが、若い心はそういつもいつも陰鬱なままではいられなかった。
きっとまた笑顔で暮らせる日々を取り戻せる、暖かな日光はそんなことを約束してくれているように思える。

クラウディアを送って行くにあたり、ルドルフは不本意ながら女の子の服装を取る事になった。
黒髪のものはこの国でもあまり多くないから目立ち易い。
お触書と一緒に出回っている人相書きは“王子”、つまり男となっているわけで、その点女なら人の注意を引く事も無いだろうと思われたのだ。

ルドルフとしてはかなり抵抗したのだが、ラインハルトとアルベルトにフィルデンラントへ渡る目算が付いた今、少しでも危険は避けるべきだと言われルドルフも従わざるを得なかった。

アルベルトとクラウディアに無理矢理洋品店へ連れて行かれ初めて女性の服に身を包んだときは何とも面映い気持ちがしたものだ。
男の服装に慣れた身には飾りばかりが多く実用的でない女の服はなんとも動きにくく頼りない感じがして、どうにも馴染めない。

第一自分に女の服など似合うわけがない。
ルドルフが実は女の子だと聞いて初めはかなりビックリしていたクラウディアもよく似合ってますよ、と言ってくれたがルドルフには到底信じられなかった。

それでもいつも後ろで一つに束ねている髪を下ろすと何とか女に見れないことも無い。
髪に飾りをつければそれなりに年頃の娘に見えるから不思議なものだ。
鏡に映る自分の姿をまるで他人のように眺めながらルドルフは思った。

店の外で待っていたラインハルトはルドルフを見て目を見張ったが何も言わなかった。
やっぱりかなり変なんだろうな、と思いながらしばしの別れの言葉を交わしてルドルフはクラウディアとともにアルベルトが調達した馬車に乗り込んで急いで港町を出てきたのだった。

決死の覚悟で臨んだ変装のおかげか、行き交う人に怪しまれる事も無く目指す村への旅は快調に進んでいた。
どこかのお嬢様二人が馬車の旅を楽しんでいると言った一行の様子に、ルドルフが手配中の王子だと疑うものは誰一人いないようだ。

気分が浮かれ気味なのは日頃の自分とは別人になった解放感のせいかもしれない。
自分でも気付かぬうちに無理をしていたんだろうか、男として振舞うことに・・・

だがクラウディアを無事送り届けたらまた男に戻って敵を討つための旅に出なければならない。
目の前で無念の死を遂げた者達の事を忘れるわけにはいかなかった。

フランツ・・・
ルドルフの思いはどうしても最愛の兄フランツの上へと飛んでしまう。
夕べはやはりあの少年は現れなかった。
アイツはクラウディアの村からケッフェルへと自分の事を追ってきた。
当然ルドルフ達がディーターホルクスへ出たことも気付いているだろう。
多分今もどこかで見張りながら隙を狙っているのかもしれない。

できればこんな姿をアイツには見られたくない。
自分が王女である事はもうルガニスから聞いて知っているのだろうけど・・・
ルドルフはあの少年の攻撃が他の妖魔族と比べて手ぬるかったことを思い出す。
自分に怪我をさせてはいけないとでも密命を受けているのか、あるいは女相手では本気は出せないという事か・・・

その辺があの少年が他の妖魔族とどこか違うように感じた原因なのかもしれないが、ルドルフはなぜかあの相手とだけはお互い死力の限りを尽くして戦ってみたい、と思っていた。
だからアイツには自分が女である事を知られたくない。
女だからと手加減などして欲しくないのだ。

それにしてもアイツに会ってから他の妖魔族が襲ってこないのは何やら不気味だ。
彼がルドルフの剣の奪取に成功するのを待って猛攻をかけてくるつもりなのかもしれない。

いずれにしろ目的を達するまでアイツは何度でも接触してくるだろう。
できれば女の姿の時には現れて欲しくないものだ。
この服では思い切り戦えないじゃないか・・・

そんなことを考えながらすぐ傍に置いたボロ布に包んだ剣を見下ろす。
ディーターホルクスの港でこの剣に合う鞘を探したが案の定ピッタリ合うものは見つけられず、特注で作ってもらう事にしたのだが、どんなに急いでも出来上がるのに数日はかかると言われてしまった。
それまでは格好は悪いが当分はこのままだな・・・

あの戴冠式の日自分が着ていた服。ルガニスの攻撃でボロボロになってしまったその服で包んでいるのではこの剣にも申し訳ない。
クラウディアを送って戻ったときには鞘が出来上がっているといいが・・・
ルドルフはそう思いながらもう一度雲ひとつ無い空を見上げた。









グリスデルガルド
ディーターホルクスの港

乗船を待つ人、見送り出迎えの人、そして荷揚げ荷降ろしを待つ人で相変わらずごった返している港を見下ろす小高い丘の上でラインハルトは海風を正面から受け故国フィルデンラントの方角を見詰めていた。
こんなに早く返信が来るとは思えないが、一人酒場でじっとしているのも落ち着かなかった。

ルドルフ達はもう大分進んだろうか。馬車なら当初の予定より早く戻ってこられるだろう。
兄があの手紙を受け取ってすぐに船を手配してくれたら最短で四日目にはこの港に入港するはず、クラウディアを送り届けて戻ってくる二人を向かえ、フィルデンラントに発つには丁度いいタイミングだ・・・
早く故国に戻りたい、早く兄に会ってそして・・・

ラインハルトは女の子の服を着たルドルフの姿を思い出す。
日頃の小姓のような姿からは想像もできないほど可憐な少女に変身した友人にラインハルトはかける言葉を思いつけなかった。
着慣れない服に戸惑っているルドルフに本当は何か気の利いたことを言ってやれればよかったんだが。

アルベルトに同調して女性の格好をするよう奨めたラインハルトだったが、そもそもルドルフが女の格好をした姿など本当は想像も付かなかった。
失礼だとは思ったが実は厳つい男が取ってつけたような不恰好な女装をしたといった、そんな姿を予想していたのだ。

だが実際は・・・ルドルフは本当に十五歳の少女だったのだ。
それもかなり美しい・・・
初めからこんな姿をした相手と出会っていたなら自分だって・・・

珍しく恥ずかしそうに頬を染めて簡単な別れの言葉を告げ、ルドルフはアルベルトに助けられて馬車に乗り込むと、軽く手を振ってそのまま行ってしまった。
こんなことなら僕も一緒に行けばよかった―――
三人を乗せた馬車が走り去った南東の方角を眺めながらラインハルトは心の中で小さく呟いた。






グリスデルガルド
南街道の宿場町

馬車の旅は何事も無く進み、夕方には目指す村への中間点にあたる宿場町に付いたので、ルドルフ、アルベルト、クラウディアの三人は数軒ある宿屋の一つに宿を取りゆっくり身体を休める事にした。
そうのんびりできない事は良く分かっていたがここ数日緊張の連続だった三人にはやはり心休まる一時だった。

部屋に着くなりルドルフは早速着慣れない女の服を脱ぎ捨て、持ってきた元の服に着替えた。
やっぱりこちらの方が落ち着く。
翌日の事を打ち合わせるため部屋を訪れたアルベルトは
「もう着替えてしまったんですか」
と呆れ気味に笑った。

アルベルトもディーターホルクスで地図だの方位磁石だの携帯測量器具だのと、あの騒ぎで失くしてしまったものを調達できて嬉しそうである。
宇宙構造論の本だけは諦めざるを得なかったようだが・・・

馬車を使ったおかげで早く目的地まで着けそうなので明日はクラウディアを送り届けたらその足で引き返しましょう、とアルベルトは言う。
ルドルフに依存はない。
今のところディーターホルクスはまだ安全なようだが、ラインハルトを一人置いておくのはやはり心配だ。
なるべく早く合流してフィルデンラントの船をともに待ちたかった。

クラウディアも交えて夜遅くまで談笑した後、三人はそれぞれの部屋で休む事にした。
ルドルフとアルベルトは交代で睡眠をとり万一に備える事にする。
初めにアルベルトが仮眠を取り、夜半過ぎにルドルフと交代した。

アイツもさすがにこんなところまでは追って来ないか・・・
物音一つなくしんしんと更けていく夜に包み込まれルドルフはあの妖魔族の少年の事を思い出す。
そういえばアイツの名前も知らないな・・・

あの七色に輝く不思議な瞳は一体どういうのなんだろう
ルガニスやカタリナ、それにもう一人の妖魔族の男、アイツらはあんな目をしていなかったのに
ルドルフはベッドに腰掛けてぼんやりと考えていた。

スッと隙間風が吹き込むのを感じた瞬間、ルドルフはすぐ傍に人影が立っているのに気付く。
「お前は・・・」
そう言って慌てて剣の包みを手に取り立ち上がった。

「ご自慢の剣はその中か?」
黒のマントに身を包んだあの少年がすぐ目の前でそう言って笑う。
相手との距離の意外な近さにたじろいでルドルフは思わず一歩後ずさった。

その拍子に身体がサイドテーブルにぶつかり思いがけず大きな音が出た。
すぐに隣の部屋から
「ルドルフ様、何かありましたか?」
とアルベルトの声が聞こえて来た。

「あ、いや、何でも・・・」
ルドルフがそう言いかけたとき目の前の相手はいきなり剣の包みを持つルドルフの腕を掴んで引き寄せた。
「あっ!」
その力の思わぬ強さに手にした包みを取り落としそうになってルドルフは声を上げた。

アルベルトの足音が廊下に響く。
「ルドルフ様、どうかなさったのですか?・・・」
ドアが勢い良く開けられアルベルトが姿を見せた瞬間、妖魔族の少年は思わぬ行動に出た。

ルドルフを思い切り抱きしめて後ろで結んだ髪留めを瞬時に解く。
髪を下ろし真赤な顔をして男の腕に抱かれるルドルフの姿を見てアルベルトは驚いて戸口で固まってしまった。
「ルドルフ様、これは一体・・・」

「いきなり踏み込んでくるとは無粋な奴だな」
ルドルフを強く抱きしめたまま少年は揶揄するような口調で言う。
「いや、しかし君は・・・」
「昼間見初めたんでな、こうして忍んできたというわけさ。なあ」

反論しようと口を開きかけたルドルフの耳に囁き声が響く。
「兄貴の事、知りたいんだろう・・・」
その言葉にルドルフは出かかった言葉を飲み込み小さく頷いた。
「なら俺に合わせろ」

そう言われルドルフは
「アルベルト、僕は大丈夫だから・・・」
と消え入りそうな声で言った。
「でも、君はこの方の部屋で何を・・・」
この手のことには慣れていないアルベルトはかなり狼狽している。

「何をって、男と女が一つ部屋にいてする事は決まっているだろう。分かったらさっさと気を利かせてくれ」
アルベルトはもう一度ルドルフを見る。
「アルベルト、ホントに僕は大丈夫だ、何かあったらすぐ呼ぶから・・・」
そう言いかけた途中で少年は見せびらかすようにルドルフをもう一度硬く抱きしめた。

「これは大変な失礼を・・・」
アルベルトは真赤になってドアを閉めて部屋へと帰って行った。
「一体どういうつもりなんだ!」
その途端ルドルフは相手を思い切り突き飛ばす。

「アイツがいたんじゃしたい話もできないだろうと思ってさ」
「僕は別に・・・」
「あの野郎は聖ロドニウス教会の学僧だろう?ある意味俺より危険かもしれないぜ?」
「どういう意味だ」
「さあな」

「とにかくお前に合わせてやったんだ、フランツの事を教えてもらおう」
相手はルドルフの下ろした髪を一房手に取りながら
「この姿ですごまれても迫力無いな。なんで着替えてしまったんだ?よく似合ってたのに」
とニヤニヤ笑いながら言う。

「お前・・・」
「何だ?」
「僕が女だと知っていたのか?」
「まあな」
「・・・ルガニスと言う男から聞いたのか?」
「ルガニス?誰だ、それ」

「お前の仲間だろう、僕の祖父と兄を殺した男だ!」
「しっ、もっと小さい声で喋れよ、隣に丸聞こえだぞ」
「・・・妖魔族の男だ・・・」
ルドルフは相手を睨みながら小声で言いなおす。
「そんな奴は知らないな・・・ユージン卿の手のものかな」

「とぼけるな、じゃ、どうして僕が女だと分ったんだっ」
相手は相変わらずからかうような笑みを口元に浮かべたまま
「そりゃ、見れば分るさ。まあ最初に会った時にはもしかして、と思っただけだったけど、次に会った時にははっきりとね。第一お前、俺の上に乗ったろうが」
と言った。

ルドルフはかっと赤くなると、まだ髪を掴んでいる相手の手を空いている左手で振り払った。
少年はすかさずその手を掴み
「どうして男の格好してるのか知らないが、どの道そういつまでも誤魔化しきれるもんじゃないと思うぜ」
と言って上目遣いにルドルフを見る。

「大きなお世話だ、そんなことより・・・」
「そんなに兄貴が大切か?」
先手を打たれてルドルフはきつく相手を睨みつけた。

「どうだ、取引といかないか?お前は兄貴の事が知りたいんだろう?そして俺は・・・俺の欲しい物はもう分ってるはずだ」
「この剣・・・か」
「ああ。俺はお前に兄貴の事を教えてやる。そうだな、お前が会いたいなら会わせてやる事も出来るぜ。そのかわり・・・」

ルドルフの心を見透かすように少年は怪しい笑みを浮かべたままその不思議な色の瞳でじっと見詰めてくる。
その瞳を見ていると頭が朦朧としてくるような気がしてルドルフは慌てて目を逸らした。

「フランツが生きていると・・・、お前の言っている事が本当だと言う証拠はあるのか?」
この剣は今のところ唯一妖魔族に有効な武器・・・
いくらフランツのためとはいえ簡単に渡してしまうわけにはいかない、ルドルフはそう思った。

「証拠・・・ねえ」
「そうだ。確たる証拠が無ければお前のいう事など信じられない」
認めたくは無いがフランツは確かに死んだのだ、自分の目の前で・・・
それを覆すだけのものをコイツは用意できるというのか

「まあ、それも道理か。よかろう、お前を納得させられるだけのものを持ってくるとしよう。少し時間がかかるがな」
そう言って身を翻そうとする相手にルドルフは急いで待てよ、と声をかけた。

「何だ?」
「いい加減名を名乗ったらどうだ。僕はお前の名前すら知らないぞ」
少年は少しばかり驚いたように答えを返す。
「俺の名など聞いても仕方なかろう?妖魔族の男、それで充分だ」

ルドルフは呆れ気味に
「では聞くが妖魔族には一体何人男がいるんだ。
お前のことを話すのにいちいち目の色が変わる梟に化けるのが好きなおかしなヤツ、とでも言うのか。
交渉相手の名も分らぬでは話にならない」
と言ってやった。

「別にそれで構わんだろうと思うがな。まあいいだろう、俺の名はマティアスだ。
次に会うときは確たる証拠を持ってこよう」
「お前はおかしな奴だな。剣を奪うだけならそんな面倒なことをしなくても・・・」
「ああ、他の奴にもよく言われるが・・・、俺の受けた命令はその剣を持ち帰ること、他の事は聞いていないからな。それに・・・」

「何?」
「女相手に力ずくと言うのも寝覚めが悪い。お前は美人だしな」
「・・・!」
「お前には剣より花の方が似合いそうだ」
「馬鹿なこと・・・」
ルドルフは真赤になってそっぽを向く。

その様子にマティアスは両手でルドルフの腕を取り引き寄せると
「どうだ、そう満更でもないなら、いっそのことさっきの野郎に言った通りになってみるか?」
と囁いた。

ルドルフは慌てて身を離す。
「ふざけるのもいい加減にしろ!なんで僕が妖魔族と。大体人間とお前達とでは・・・」
相手の顔に浮かぶ揶揄するような笑みにルドルフの頬は益々赤く染まり心臓は止めようが無いくらいに高鳴った。

「そう本気にするなよ、冗談だろう。だが、お前は知らぬだろうが人間と妖魔族の混血の者は結構居るんだぜ。
まあ確かに俺たちと人間とでは相容れない部分も多いがな」
その言葉が消えぬうちに相手の姿はない。

軽くからかわれたのだと思うとルドルフは強い怒りを感じずにはいられなかった。
「全く、何て奴・・・」
真赤に頬を染めたまま布に包んだ剣を抱きしめて、ルドルフは憤然とした面持ちでしばらくその場に立ち尽くしていた。






グリスデルガルド
南の街道

前日同様のうららかな陽光の下、ルドルフ、アルベルトそしてクラウディアの三人旅はのんびりムードに包まれて続けられる。
朝方顔を合わせたとき、アルベルトは努めてルドルフと目を合わさないようにしているのが分った。

完全に誤解しているな、と思うがヘタに言い訳するのも余計変だ。
アルベルトは夕べの珍客が妖魔族だとは気付いていない。
単純にルドルフが逢引していたのだと思っているのだろう。
どうしようか迷ったが誤解されたままで居るのはそれこそ寝覚めが悪い。
ルドルフは思い切ってアルベルトに話しかけた。

「あの、夕べは・・・」
アルベルトはそれだけで真赤になり、
「いや、こちらこそとんだご無礼を働いてしまって・・・。ご婦人の部屋にいきなり立ち入るなど、本当に申し訳ない」
と小声で言った。

そうじゃないんだけど、と思いつつ
「アルベルトは僕のことを心配して駆けつけてくれたんだから、その、感謝してるよ」
と言うと、
「やめてくださいよ、感謝だなんて。にしても、よかったですよ、ルドルフ様も世俗の事に興味を持たれるようになって」
との答えが返ってくる。

「世俗の事、って・・・」
「すごい美男子でしたものね、夕べの方・・・。
あ、いや、別に私はそのジロジロ見るつもりは無かったのですがつい、目に入ってしまいまして・・・」
後はもごもごと意味を成さない言葉を呟きながら、アルベルトはルドルフから逃れてクラウディアの傍に行ってしまった。

だめだ、こりゃ・・・
にしても、すごい美男子、ねえ
まあ確かに・・・
ルドルフはマティアスと名乗った相手の整った顔立ちと不思議な瞳を思い出し、理由も無く赤くなった。

クラウディアはそんな二人の様子を見てこちらはルドルフとアルベルトが、と誤解したようで何かと二人が近くになるように気を使ってくれる。
ルドルフとしては、数日とはいえ共に旅したクラウディアと分かれるのは名残惜しいが、この旅自体は早く終わってくれないだろうかと心中溜め息をついた。









グリスデルガルド
南東部の小村

クラウディアを無事叔母の元へ送り届けたルドルフとアルベルトはその足でディーターホルクスへ引き返すつもりだったが、クラウディアとの再会を喜んだ叔母が強き引きとめたためその夜は叔母の家に泊めてもらうことになった。
一人残してきたラインハルトのことを思うと一刻も早く立ち返りたかったが、親切な申し出を無碍に断る事もできなかったのだ。

その夜もアルベルトと交代で夜明かしをしながらルドルフはマティアスのことを考える。
少し時間がかかるかもしれないと言っていたのだから昨日の今日でフランツの手がかりを持ってくるとは思えない。
それでももしかして・・・

もしフランツが本当に生きているのなら一日も早く会いに行きたい。
かすかな風の音にもマティアスの訪れかと胸を躍らせる自分に、これでは本当に恋人を待っているようじゃないか、とルドルフは苦笑を漏らした。

翌日もクラウディアの叔母はルドルフ達を引きとめ、せっかくこんな田舎にいらしてくださったんですからもう一日泊まってこの辺りを見ていってくださいな、と言った。
「ここから少しはなれたところに昔の遺跡があるんですよ。
お二人で散歩されるには丁度いい距離ですし、天気もよい事だしちょっと言って見られては?
姪の恩人を碌なおもてなしもせずにお返しするわけには参りません。昨日は急だったもので何も出来ませんでしたが今日はぜひ田舎料理を召し上がっていってくださいませ」
と言われてお弁当を持たされ半ば強引に散歩に出されてしまった。

アルベルトと二人林の中の細い石畳の道を辿りながらルドルフは、これは叔母さんも誤解してるな、と思う。
それでもしばらく二人で歩きながら他愛も無い会話を交わしているうちにだんだんといつもの調子に戻ってきた。
二人ともあえてマティアスのことには触れなかったが・・・

ゆっくりと数刻をかけて道なりに歩いていくと小高い岡を一つ超えた谷間にその遺跡はあった。
茫々に生い茂った草の中に石を組んで作られた建物の土台部分が途切れ途切れに続いていて、東南の隅にはかつては櫓の一部だったと思われる高い壁も残っていた。

弁当の昼食を済ませるとアルベルトは早速遺跡をあちこち詳細に調べ始める。
初めはそれに付き合って一緒に見て回っていたルドルフだったがすぐに飽きてしまって一人で周辺を見に行ってみた。
一人きりで行動するのは危険かもしれないが、妖魔族は光が苦手らしく、これまでも昼日中襲ってくる事はなかった。

唯一の例外はルガニスだが・・・
散歩に大きな包みを持ち歩く事もできず剣を置いて来てしまったことを少しだけ悔いたが、この雲ひとつない爽やかな陽光の下をあのルガニスが闊歩するとも思えなかった。

少し歩いたところに噴水の跡のような丸い遺跡があった。
中央が少し高くなっていてその周りを取り囲むように低い石垣が小さな円形に並んでいた。
石垣の内側に薄緑色の線が水平についている。
想像通りかつてはここに水が張られていたのだろうと思われた。

その噴水の奥に水を引き込む細い水路の後を見つけたルドルフはその水路を辿ってみた。
水路は森の中へと続いている。誘われるようにルドルフはその森の中へと足を踏み入れて行った。

森はだんだん鬱蒼としてきて、木漏れ日もほとんど射さなくなってくる。
少し不安になってきたルドルフがもう引き返そうかと考え始めた時、行く手に何か光るものが見えた。
何だろうと思ってもう少しだけ進んで行くと突然森が開け大きな湖に出た。

透明度の高い水面に湖の向こうの森やその背景の山並みが綺麗に写っている。
湖の真ん中には大きな岩が立っていて、その上にも石でできた小さな建物の跡があるようだ。
更に湖の対岸にも石垣の残骸が小さく見えていた。

なんて綺麗な湖だろう・・・
あの水路はこの湖の水を噴水に引き込むためのものだったんだ・・・
しばらくその景色と清浄な空気を満喫してからルドルフはゆっくりと踵を返し、アルベルトのいる遺跡へと戻って行った。

アルベルトは森の奥にも遺跡があると聞いて非常な興味を示し、ルドルフにそこまで連れて行ってくれるよう頼み込んだ。
アルベルトは噴水や水路よりも対岸の遺跡に関心があるらしく、湖を廻って向こう側に行ってみたいという。
まだ日も高いし少しくらいなら、とルドルフも付き合って行ってみる事にした。

思ったよりも広い湖の岸辺を辿って対岸の遺跡にたどり着いたときは日が傾き始めていた。
ルドルフとしては早く戻りたかったがアルベルトは遺跡に夢中で他の事は眼中にないようだ。
こんな感じでなくては聖ロドニウス教会の学僧は務まらないんだろうな、と苦笑を漏らしながらルドルフもまた見るともなしに見て回った。

どうやらこの遺跡は神殿のようである。
崩れた階段跡の傍にはかつては祭壇だったと思われる大きな石が半分土に埋もれて地面に転がっていた。
「この祭壇には何か字が彫ってありますね。前半分は埋もれてしまって読めませんが・・・」
かがみこむようにして祭壇を調べていたアルベルトが呟く。

「そうなのか?」
と言って覗き込んだルドルフの目に見覚えのある字体が映った。
「あれ、これは・・・」
「神格文字、ですね。それもかなり古い・・・」
あの勇者の剣に彫られていた銘とよく似た字体がずらずらと並んでいる。

「そのようだな。なんて書いてあるんだろう?残念だな、ラインハルトなら読めるんだろうに・・・」
「ええ、私も神格文字は読めません。ただ字体からこの文字は第一期に書かれたもののようですね」

「第一期?」
「はい、神格文字には大きく分けて二種類あり、第一期は古代文明のもの、第二期は古代文明終焉の頃より我らが唯一の神エリオルとその弟子達が活躍した頃くらいまで使われていたもの、とされています」

「え、ということは」
「今の我らの文明が栄える前にこの大地にはかなり発達した文明があったと思われます。二つの神格文字は多少の違いはあれ文法や修辞はほぼ共通していますから、第二期のものはそれまでのものを土台に整理発展したものだと考えられているのです」

「でもこの祭壇の石自体はそれほど古いもののようには見えないね」
「はい、この石はせいぜい五、六百年前のものでしょうから、この地に第一期の神格文字を読み書きできる人々が住んでいたのでしょうね」

「でも、五、六百年前と言うと、この地に住んでいたのは・・・」
「妖魔族、という事になりましょうね」
「じゃ、もしかしてあの剣は・・・」
この祭壇の文字と似た神格文字が刻まれたあの剣は一体どういう剣なのか?

「ルドルフ様、少し力を貸していただけますか。この石を掘り起こして読み取れる限りこの字を紙に写し取りましょう。それをラインハルト様に見ていただけば」
「そうだね、ラインハルトならなんて書いてあるのか分かる。そうと決まれば・・・」
二人は木の枝で石の周りの土をできるだけ掘り返し、読み取れた文字をアルベルトが持っていた雑記帳に書き写していった。

「何か道具があればもっと掘り起こせるのに・・・」
「残念ですが今の我々にはこれくらいが精一杯ですね。それに余り遅くなると皆さん心配されるでしょう。ここは落ち着いたらまた訪れる事にしてとりあえずクラウディアさんの叔母様の家に戻りましょう」
「うん・・・」

ルドルフとしてはこのままこの地を後にするのはなぜか後ろ髪引かれる思いだったが、今は無理は禁物と自分に言い聞かせアルベルトに従って踵を返した時、夕焼け空を背景に薄暗い影がぼんやりと浮かんだ。

「マティアス?」
彼が現れるには時刻が早すぎるとは思ったが、ルドルフの口からは来訪を待ち望む相手の名が呟きとなって漏れ出た。

その小さな呼びかけに答えた声は、だが思い描いた相手のものではなかった。
「マティアス―――今そう言ったか?」
「お前は!」
ゆっくりと人の形を取っていく影は忘れもしない憎い敵―――

「お前は確かルガニスとかいう・・・」
アルベルトも急ぎルドルフの傍に駆け寄ってくる。
「なるほどな、マティアス卿が動いているのか」
「マティアス・・・卿?」

「結界に反応があったので見に来てみたが王女様にお会いできるとは大変な収穫だったな。ついでに坊主も一緒か。あの魔導士の王子様はいないようだが」
「貴様・・・」
「ふん、そんな格好をしていると一応女に見えるから不思議だな。ところで剣はどうした?まさか失くしたのではあるまいな」
「貴様に答える必要など無い!」

不味いな、この状況では分が悪すぎる・・・
ルドルフもアルベルトも考えは同じだ。
どうしたらいい・・・

「今は持っていないのか・・・、まあいい、お前達を連れ帰れば大手柄だ。マティアス卿の鼻も明かせる。
お前達のおかげで俺は降格処分になってしまったんだ、そのお礼はさせてもらうぞ」
「マティアス卿とは誰だ、僕はそんなヤツ知らないぞ」
掴みかかってくるルガニスの手を振り払いながらルドルフは叫んだ。

何でもいい、少しでも時間稼ぎをして・・・、それでどうなるという目算もないが・・・
「とぼけるなよ、さっき確かにマティアスと言ったではないか。マティアス卿は最高幹部の一人で皇帝陛下の側近中の側近、唯一皇帝陛下の命令でのみ動く御仁だ。俺のような下っ端は顔も拝ませてはもらえないがな」

「皇帝・・・?」
「ああ、神聖皇帝セドリック陛下さ」
ルガニスはそう言って呪文を呟く。
ルドルフは周りの空気が瞬時に刃物のように鋭く尖っていくのを感じた。
この間と同じだ、やられる!

「ルドルフ様!」
アルベルトがルドルフを突き飛ばし代わってルガニスと対峙する。
「いけない、アルベルト!」
衝撃で倒れこんだルドルフが叫ぶ。
アルベルトの周りの空間が歪んでいるのが感じられる。
このままではアルベルトは身体中真空の風に切り裂かれてしまう―――

アルベルトは先程からポケットの奥に隠し持った赤いオーブが熱を帯びていることに気付いていた。
この湖の遺跡に近付いてからは特に・・・
このオーブには老師オルランドですら知らない特殊な力が備わっている。
どうせやられるなら、イチかバチか・・・

アルベルトはポケットからオーブを取り出し掌に載せるとその手をルガニスに向けて差し出した。
その赤いオーブを残照の最後の一閃が照らし出す。
目を開けてはいられないほどの強烈な光がオーブから迸り、空気の歪みを吹き飛ばしさらに四方へと広がった。

同時にルガニスの口から恐ろしい悲鳴が漏れる。
片膝をつきながら半分顔を抑えてルガニスは何事か毒づく。
顔を抑えた指の間からは赤黒い血が流れ出していた。

「どういうことだ、お前は・・・」
呆然とするルドルフに「クソっ」と一言ルガニスは姿を消した。
アルベルトの手の上のオーブはまだキラキラと赤く輝いている。
そのオーブから照射された光の筋が湖の中の岩と神殿跡の遺跡へと伸びていた。

その有様をルドルフは倒れこんだままの格好で魅入られたように眺める。
アルベルトはちらりとその光を眺めたが、すぐにオーブに浮かんだ師の姿が浮かぶのを認め、懸命に話しかけ始めた。
「老師、やっと連絡できました」

「アルベルト、ひさしぶりじゃの。一体どうしておったのじゃ。グリスデルガルドで政変があったと聞いて心配していたのじゃぞ。
マリウス王とフランツ王子、それにフィルデンラントのラインハルト王子まで惨殺されたとの一報が我らのもとにも入っての」

「ラインハルト王子は無事です。妖魔族が王弟テレシウスを操って反乱を起こさせたのです」
「反乱を起こしたのは第二王子ルドルフじゃろう?ドサクサで分教会も焼き討ちに合い、全く連絡がつかなくなって状況がさっぱり分からんが、フィルデンラントの分教会からの早馬によるとそなたも一役買っているとか」

「ルドルフ王子は無実です。汚名を着せられただけで。私はルドルフ王子、ラインハルト王子とともにどうにか逃れましたが、そのため反逆者の仲間と思われてしまったようですね。
状況が把握できていないのは私も同様ですが、現在グリスデルガルドの北半分は妖魔族の勢力下に落ちたといってもよいでしょう。南半分はいまのところ無事のようですが」

「分かった、とにかくじゃ、なるべく早く帰還して正確な情報を教会に齎せ、それが今一番のそなたの使命じゃ」
その声を最後にオーブから映像と光が急速に消えた。
「アルベルト・・・」
「ルドルフ様、ご無事でしたか」

「ああ、お蔭様で。それより凄いものだね、このオーブって。さっきの光もだけど、今そのオーブに写っていた人がアルベルトの先生なんだね」
「はい、老師オルランドです。図らずも連絡をつけられてよかったですよ。あのルガニスを撃退した光の事は私も少しも知らなかったんですけどね。」

「湖の岩とあの祭壇あたりを光の筋が射していたように見えたけど」
「このオーブはこの遺跡と何らかの関連があるのかもしれませんね」
服に付いた土ぼこりを払い落とし、ルドルフとアルベルトは急ぎ足でクラウディアの叔母の家に戻った。
既に日は沈みかけている。
また妖魔族の襲撃を受けたら今度は反撃の手立てが無かった。

それにしてもマティアスがそんなに身分の高いヤツだったなんて、ルドルフには驚きだった。
最高幹部の一人で皇帝の側近中の側近、唯一皇帝の命令で動く、ルガニスには顔さえ見られないような相手・・・
マティアスがルガニスのことを知らないと言ったのは嘘ではなかったのだ。
マティアスに命令を下せるのはセドリックと言う名の妖魔族の皇帝のみ。
ではルドルフの剣を奪うよう彼に命じたのは皇帝ということになる・・・

また、ルガニスは確かに血を流していた。色はかなりどす黒かったが・・・
あのカタリナと言う女は血など流さなかったのに。
どういうことだろう
あのオーブも遺跡とどんな関連があるのか
そして剣に掘り込まれた銘と同じ神格文字が刻まれた祭壇・・・
こうしてみると分からない事だらけだ・・・

道すがらそんなことを考えながらどうにか無事帰り着くと
「随分ごゆっくりでしたわね、たっぷり楽しんでいただけました?」
とクラウディアと叔母さんが出迎えてくれた。






グリスデルガルド
ディーターホルクスの港

その日も何度目か丘に昇り故国フィルデンラントからの連絡を待つラインハルトの目に、夕焼けの陽射しとは別の光の筋が西の方角に見えた気がした。
あの方角はクラウディアの叔母が嫁いだという村の辺りのようだが・・・
何ともいえない嫌な感じがラインハルトの胸を過ぎった。

まあルドルフは剣士としては中々の腕前らしいから、何かあったとしてもまず大丈夫だろうが・・・
だがあの姿では思うようには動けないかもしれない
故国からの連絡を少しでも早く受けたくて一人この街で待つ事にしたラインハルトだが、やはり自分も一緒に行くべきだったと強く後悔していた。






フィルデンラント
王城
ヴィンフリート王の私室

美しい音色を奏でる竪琴を傍らのテーブルに置き、国王ヴィンフリートは目の前に畏まった宰相ヴィクトールに問いかける。
「ラインハルトからその後の連絡はないか?」
「はい、残念ながら・・・、国王陛下のところにはいかがで?」
「連絡が来ていればそなたに尋ねたりしておらぬ」
「御意。愚かな質問でした。ご容赦下さい」

「よい、わが軍は何時頃グリスデルガルドに着く?」
「王子よりの一方が入ってすぐ、出動可能な部隊を乗せた軍船を出港させましたから、順調に行けば明日の夜か明後日の早朝には現地に着くと思われます」
「その後も波状的に軍船を送り出しておりますが・・・」
「その者どもはうまくやってくれるだろうか・・・」

「私の腹心の部下を顧問格として遣わしましたのでご安心くださいませ。すぐにラインハルト様のご無事なお顔を見られることと思いますよ」
「ラインハルトが捕らわれて命の危険にさらされていると思うと私は生きた心地がしない。
何と言ってもこの世で二人きりの血を分けた兄弟なのだから・・・」

「表向き王子は亡くなったことになっている。だが実際は殺害されたのは従者のハラルドで王子様は生きてルドルフ王子に加担する者たちに捕らわれているのだと、そんな手紙が舞い込んだ時は私も正直たいそう驚きましたが・・・」

「ラインハルトが本当は王子であることが分かれば命はないだろう。その辺をうまく隠して身柄を無事奪回して貰わねば・・・」
ヴィンフリート国王は深い溜め息をつくと掛けていたソファの背に頭を預けた。
その顔には苦悶の表情が浮かんでいる。
実際弟の命が今にも事切れてしまうのでは、と思うとヴィンフリートは気が気ではなかった。

「ラインハルト様としても敵の目を誤魔化して手紙を書くのは大変なのでしょう。下手をすれば本当の身分が知れてしまいますしね。
大丈夫ですよ、便りがないのは無事な知らせと言うではないですか」
実際はラインハルトからの第二報はヴィクトールの私室の暖炉の灰となってしまったのだが・・・

「そうだな、お前の言うとおりだな。よい報せを待つしか今はできまいな・・・」
「お心をしっかり持たれて下さいませ、本当に辛い思いをなさっているのはラインハルト様なのですから・・・」
「違いない、兄の私がもっとしっかりしなくてはな・・・」
ヴィンフリート王はさらさらと零れ落ちる長い金髪を無造作にかきあげながら力なく笑った。






グリスデルガルド
南東部の小村

クラウディアの叔母さんの丹精込めた手料理に舌鼓を打ち、部屋に戻ったルドルフは包みから剣を抜き出してその刃に彫り込まれた銘をそっと指で辿ってみた。
「清らかなる物には恩寵を、邪なる物には鉄槌を・・・か」

あの祭壇の文字と同じ第一期の神格文字がこの剣に彫られているのだとしたら、そしてあの祭壇に文字を刻んだのが妖魔族なのだとしたら、この剣は元々は妖魔族のもの、という事になるのだろうか・・・

着替える気にもなれずベッドに腰掛けたままルドルフは色々な事をぼんやりと考え込んだ。
マティアスに聞いたら教えてもらえるだろうか
ふとそんなことを考えて、ルドルフは慌ててその考えを振り払った。

もし何か知っていたとしても、アイツは自分に話したりはしないだろう。
少なくともルドルフに教える事で自分が優位に立てるような情報しか漏らすはずが無い。
迂闊に信用してはいけない、アイツは妖魔族なんだ・・・

そんな風に思わなくてはならないのは悲しいな―――
軽く溜め息をついてルドルフは剣をまた枕の下に隠して静かに身を横たえた。
目を閉じるとマティアスの面影が、光を受ける角度で様々にその色を変える瞳とともに脳裏に浮かんでくる。
アイツ、今夜はフランツが生きて居るという証拠を持ってくるだろうか・・・






グリスデルガルド
ディーターホルクス南部の街道

その夜もマティアスが訪れる事はなく平穏に過ごしたルドルフとアルベルトは、翌朝早くに発つはずがクラウディアとの別れに思ったより時間をとられ、昼近くなってようやく叔母の家を辞し帰途に着く事ができた。

行きはクラウディアに配慮してかなりゆっくり進んだ道をアルベルトはかなり飛ばし気味に馬車を駆った。
「ルドルフ様、乗り心地悪いでしょうがすこし我慢して下さいね。日の暮れる前にこの間泊まった宿屋に着きたいので」
「ああ、僕なら全然大丈夫だ、気にせず走らせてくれ」

クラウディアの叔母の家に居る間は言葉遣いにも注意せねばならず、気の抜けなかったルドルフもやっと普段どおりの調子に戻れてほっとしている。
予定よりはすこし遅れ目だが無事目指す宿屋に着いてルドルフはゆっくりと身体を休めた。

今夜はアイツ、来るだろうか・・・
ルドルフはその夜も着替える気にならぬままマティアスを待った。
結局その夜も待ちぼうけで、一晩中眠れなかったルドルフは何故とはなし機嫌が悪い。

何やってるんだろう、アイツ。こんなに時間がかかるなんてやっぱりフランツが生きているなんて嘘なんじゃないのか・・・?
ディーターホルクスへと急ぐ馬車の揺れが寝不足の身体に妙に心地よく何時の間にか眠り込んでいたルドルフは、アルベルトに揺り起こされるまで幸せな夢を見ていた。



10


グリスデルガルド
ディーターホルクスの港

ラインハルトはその日も幾度も丘の上から海上を見渡した。
待ち望む報せは届かない。
兄には傍仕えの魔導士が何人がついているはずなのに一体何をして居るのだろう。
何だか、いやな予感がする。

それを振り払うように首を振り宿にしている酒場に戻ろうと踵を返した時、海上に小さな影が見えたような気がしてラインハルトはじっと目を凝らしてみた。
気のせいだったのか・・・?いや・・・
影はだんだん大きくなり数も増えていった。
かなりの数の船が船団を組んでディーターホルクスの港に向ってくるようだ。

すでに薄暗くなり始めた海の上にぼんやりとだが幾艘もの大船の姿が浮かび上がってくる。
旗艦と思われる一際大きな船のマストにはためいているのは、あれは忘れるべくも無い、故国フィルデンラントの国旗だ!

ヴィンフリートが早速迎えの船を寄越してくれたのだ、と喜んだラインハルトだが少し早すぎるような気がした。
これだけの船団を準備するだけでも数日はかかるだろうに・・・

ラインハルトは急ぎ港の桟橋へと駆けつけたが、港はフィルデンラントの大船団を迎えて緊迫した空気が漂っていて、一般人は立ち入り禁止になっていた。
グリスデルガルドの軍人が厳戒態勢を敷いていて、港に出入りしようとする者は厳しいチェックを受けている。

ラインハルトは警備をしている軍人の一人に
「一体何事ですか?」
と尋ねてみたが剣で脅されただけで何も教えてはもらえなかった。

「やめときなよ、坊や。連中、ぴりぴりしてるのさ。なんたってフィルデンラントの大軍が進駐してきたんだ。今着いたのはその第一陣だよ」
と隣に居た老人が話しかけてくる。
「フィルデンラントが・・・進駐!?」

「全く、大変なことになっちまったよ。ルドルフ様も面倒なことを引き起こしてくれたものだ。
まあフィルデンラントとしては王位継承者の王子を惨殺されたんだから、おとなしくはい、そうですかと引っ込んでもいられないんだろうけどなぁ・・・」

「そんな!!」
僕は生きているのに・・・
どうしたというんだ、僕の手紙をヴィンフリートは読んでいないのか?
ラインハルトは警備の軍人に、フィルデンラントの指揮官に会いたい旨伝えたが全く相手にしてもらえなかった。

どうしよう、僕が王子ラインハルトであることを話せばここを通してもらえるだろうか・・・
いや、ラインハルトはルドルフに殺された事になっている以上、自分の話をグリスデルガルドの軍人が信用してくれるとは思えない。
逆に手配中の魔導士ハラルドとして捕まえられてしまうかもしれない。
それに・・・

ラインハルトは明日には戻って来るだろうルドルフとアルベルトのことを考える。
このままフィルデンラントの軍と合流してしまえば、彼らと自由に接触する事は出来なくなるかもしれない。
何と言ってもルドルフは反乱の首謀者とされているのだ・・・
ラインハルトはかなり迷ったが、とりあえず、夜になるのを待って魔法でフィルデンラントの旗艦に忍び込んで指揮官に直接会ってみようと思った。

そして自分の無事とこの事件の真相を話して、逆にテレシウスを捕らえてもらうのだ。
そのためにはグリスデルガルドの、テレシウスの部下に自分の存在を知られてはならない。

ラインハルトは酒場に戻ると元着ていた服を取り出してみた。
今来ているのは農民の服。この姿で王子だといっても信用してもらえないかもしれない、と思ったのだが、元の服も魔導士の導服で、しかも血だらけだ。
まいったな・・・

指揮官がある程度身分の高いものならラインハルトの顔を知っているだろうが、そうでなければ今のこの姿では説得力が無さ過ぎる・・・
ラインハルトは巾着にいれ大切に隠し持っていた紋章入の指輪を取り出してみた。
フィルドクリフト家の紋章の刻み込まれたこの指輪を見せれば自分がラインハルトだと認めてくれるだろうか



11


グリスデルガルド
ディーターホルクス南部の街道

「ルドルフ様、起きて下さい」
「アルベルト?どうしたんだ、もうディーターホルクスに着いたのか・・・?」
そう言って目覚めたルドルフはアルベルトの緊張感溢れる面持ちに即座に臨戦態勢になる。

「いえ、ディーターホルクスへの道が封鎖されてしまいました。特別な許可証を持たない民間人は通行を禁止されています」
「・・・!どうして・・・」
「噂ではフィルデンラントの軍隊が進駐してきて厳戒態勢が敷かれているとか」
「フィルデンラントの?ではラインハルトが呼んだ迎えがもう来たのか・・・」

「いえ、どうもそうではないようです。フィルデンラントの軍は今回の反乱の首謀者ルドルフ王子の身柄を引き渡すようグリスデルガルドに要求し、それが聞き届けられない場合は軍事力にものを言わせてグリスデルガルドを制圧すると言っているようで・・・」
「何だって!!?」

「フィルデンラントではラインハルト王子は亡くなられたと信じられているようで」
「そんな馬鹿な、だってラインハルトは・・・」
「ラインハルト様は兄上様に手紙を送られた。その文面は分かりませんが恐らくはご自身の無事と居場所を伝えたものでしょう。
そしてその夜我々が身を寄せた村は妖魔族に襲われた・・・」

「アルベルト、まさか・・・」
「妖魔族の男は親切なものが我々があの村に居ると教えてくれたと言っていましたよね」
「あ・・・!」

「王子の二度目の手紙は届いていない。いや、恐らく初めの手紙も兄上は読んでおられないのでしょう。ヴィンフリート国王は弟君が異国の地で惨殺されたと思っておられる。だから軍隊を進駐させたのだと思います。
それにしても手回しがよすぎる気はしますがね・・・」

「フィルデンラントにも妖魔族の手が及んでいるという事か?」
「恐らく、国王陛下のごく近くに。そうでなければ兄上へあてたラインハルト王子の手紙を握りつぶす事はまず出来ないでしょうから・・・」

「アルベルト、何とかしてディーターホルクスへ戻らないと、ラインハルトを探してこのことを伝えないと・・・」
「ええ、街道は通れませんから裏道を探してみましょう」
馬車を乗り捨て街道から離れた畑の中の畦道を徒歩で辿りながらルドルフとアルベルトは急いで港町へ向う。

街道は要所要所軍人が警備に当たっていて、周辺に監視の目を配っていた。
それを避けるために二人はかなりの遠回りを余儀なくされる。
ラインハルトは故国の軍と合流して、様々な誤解を解くことに成功しただろうか
このままではグリスデルガルドはフィルデンラントの軍に征服されてしまう・・・

剣の包みをしっかりと胸に抱き、ルドルフはアルベルトとともにディーターホルクスへ向けて道なき道をひた走った。
かなり回り道をしたため大分時間を取られてしまったが、夕刻にはどうにかディーターホルクスの街を取り囲む丘の麓にまで出られたルドルフとアルベルトは焦る心を抑え、夕闇が辺りを包むのを待って丘の上へと登り始めた。