暁の大地


第七章




グリスデルガルド
ディーターホルクスの港

頃合を見てラインハルトは酒場を出て港を見下ろす丘の上にと向った。
そこから旗艦の甲板へと空間移動する。
突然姿を現した少年に旗艦の乗組員達は仰天した。

「お前、どこから湧いて出た!」
そんな声とともにわらわらと人が集まってくる。
「僕はラインハルト王子だ!指揮官と話したい」
そう言い切ったラインハルトはあっと言う間に縄で縛られて望みどおり指揮官の前に引き据えられた。

「僕は王子だぞ、早くこの縄を解け!」
と喚くラインハルトに
「貴様、恐れ多くもラインハルト王子の名を語るとは・・・。王子はグリスデルガルドの政変に巻き込まれ命を落とされたのだぞ。
我らは王子の命を奪った極悪人の身柄を引き受けにきたのだ。
グリスデルガルドが首謀者の第二王子を速やかに差し出さないときには力ずくでも連れて戻るよう国王陛下からの厳命を受けてな」

「だから僕は死んでいない、死んだのは僕の身代わりを務めていたハラルドという兵士なんだ。この縄を緩めてくれれば僕が王子である証拠を見せてやる」
「お前は魔導士だろう?縄を緩めた途端、魔法でこの船に火でも放つつもりか?」
「ばかな、魔法を使うつもりならこの状態でも充分使える。僕は賢者ゲラルドの弟子だぞ!」

「王子が賢者の弟子、か?」
「ゲラルドは僕の祖父だ!」
指揮官の男はじっとラインハルトを見詰める。
たしかに先王の王妃様は賢者ゲラルドの娘だったし、ラインハルト王子自身優れた魔導士であると聞いたことがあるが・・・
金髪で水色の瞳、それだけで王子と信じてよいものか―――

「よかろう、王子の証拠とやらを見せてみろ」
指揮官は顎をしゃくって部下に合図するとラインハルトの縄を解かせた。
ラインハルトは例の紋章入の指輪を取り出し指揮官に見せた。
指揮官が指輪を掴もうと手をだすと、ラインハルトはすっとその指輪を右手の薬指に嵌め紋章の部分がよく見えるよう指を曲げて見せた。

「貴様、まさか王子の遺骸から掠め取ってきたものではあるまいな・・・」
その余りにも心外な言葉にラインハルトの怒りは爆発する。
「な、何て事を。貴様僕を愚弄すると許さんぞ!」
指揮官はしばらく考えていたが、この突然の珍客の処遇をどうしたものか決めかねて部下にしばらく船室に閉じ込めておくよう命じた。

「な、僕のいう事を信じないのか、この馬鹿者が!」
そのときラインハルトと指揮官の周りを取り囲んでいた人垣が自然にわかれ、一人の男が歩み寄ってきた。
「ようやくグリスデルガルドに着いたというのに一体何の騒ぎか」

「あ、これはヘルムート殿、いや、この者が自分はラインハルト王子だと言い張るものですから・・・」
「お前は・・・」
ラインハルトはこの男に見覚えがある。
たしか宰相ヴィクトールが従僕として使っていた男だったと思う。

「笑止だな、ラインハルト王子はこのような品の無い子供ではないわ。貴様、名をかたるにも相手を選ぶことだ」
「何だと、貴様・・・!」
指揮官はこのヘルムートと言う男に
「しかしこの者は王家の紋章入の指輪を持っていますが・・・」
と耳打ちする。

ヘルムートはほう、と言った顔でラインハルトの手に視線を向ける。
ラインハルトは強い危機感を感じ魔法でこの場を逃れようとしたがなぜか強い抵抗を感じた。
「お前は・・・まさか・・・」
そう呟いたラインハルトは最大限の力で魔法を発動させ、先程の丘の上へと舞い戻った。

一瞬にして姿を消したラインハルトに指揮官初め船の乗組員はしばし唖然としたままだった。
「ふん、魔力は向こうが上、か」
ヘルムートはそう呟き、もと来た方へと引き返す。

「お待ち下さい、ヘルムート殿、あの者は一体どこへ・・・」
「知らぬ」
「あれは本当に王子ではなかったのでしょうか。ラインハルト王子は魔導をよくするという噂ですが・・・」
「王子は亡くなった、私はそう聞いている」

「それはわれわれも同様ですが・・・、その報せ自体が間違いだったなら」
「そのようなことあるわけ無かろう。それに我らの真の目的を忘れたわけではあるまい」
「ヘルムート殿・・・」

「あれは王子を語る不届き者の魔導士。あの指輪もどのような手を使ったか知れぬが不当な手段で手に入れたものであろう。今度現れたら迷わず捕らえて私の前に連れてくるのだ、よいな」
そう言って自分に割り当てられた船室に戻ったヘルムートは備え付けの書き物机の引き出しから白く丸い石を取り出してなにやら呪文を唱え始めた。

やがてその石から煙が立ち昇りその煙の中に人影が現れる。
「何ごとだ、ヘルムート」
「フィリップ卿、つい先程ディーターホルクスの港に着きまして御座います。ご連絡が遅れたのには訳が御座いまして・・・」
ヴィクトールの従僕ヘルムートは煙の中の人影にラインハルト王子が船中に現れた顛末を語った。






グリスデルガルド
ディーターホルクス周辺の丘

フィルデンラントの軍船から逃げ出してきたラインハルトはまだ混乱していた。
ヴィクトールの従者のあの男はラインハルトの顔を知っているはずだ。
なのに彼は即座に自分が王子である事を否定した。
その理由が全くわからない。
とにかくフィルデンラントのものは自分が死んだと思っているらしい。
なぜ?
あの手紙はヴィンフリートには届いていないのか?

恐らくそうなのだろう
ラインハルトの手紙はヴィンフリートには届かず・・・
鳥が戻ってこなかった事を考えると、誰か別のものが受け取ったのだ。
あるいはフィルデンラントに届く前に何者かによって奪い取られたか・・・

その時ラインハルトは突然、クラウディアの村が襲われた夜現れた妖魔族の男の言葉を思い出した。
親切なものがここにお前達が居ると知らせてくれた・・・
自分はグリスデルガルドの政変と自分の居場所をあの手紙に書いて送った。
何てことだ、自分で敵に居場所を教えたようなものだ。

フィルデンラントの軍船には結界が張ってあった。
逃げ出そうとしたとき感じた抵抗がその証拠だ。
あのヘルムートと言う男は魔導士だ、おそらく自分の手紙を握りつぶしたのはあの男・・・
ということはどういうことか・・・

もしかするとグリスデルガルドのみならず、故国フィルデンラントでも異変が起こっているのでは?
手紙の件はヘルムートの独断での行動か、それとももっと上のものが噛んでいるのか・・・
強い不安感とともにラインハルトはヘルムートの主人であるヴィクトールを思い浮かべた。

まさか、とラインハルトは思う。
ヴィクトールは前宰相の息子でヴィンフリートの幼馴染であり親友である。
その彼がヴィンフリートを裏切るとは思えなかった。
だが・・・

ヴィクトールはそうでも、彼の父、前宰相グレゴリウスはどうだろう。
幼くして王位についた兄の摂政として長年国政をほしいままにしていたグレゴリウスは兄の成人とともにその位を退いた。
親政を敷いた兄は新宰相にヴィクトールを指名し、思い切った改革を断行させてきた。
グレゴリウスにしては心穏やかに隠居してはいられないものがあったかもしれない・・・

「探しましたよ、王子様。こんな所においでとは」
不意に声をかけられてラインハルトは心臓が飛び出るほど驚いて振り向いた。
樹木の茂みを背景に薄ぼんやりと人影が浮かぶ。
「お前は!」

クラウディアの村で襲ってきたあの男だった。
彼の言う親切な男と言うのがあのヘルムートである事はもはや間違いないだろう。
「お仲間がご一緒でないのは残念ですが、貴方だけでも充分だ。ぜひ我らの国にご足労願いたいもので・・・」
男はふっと姿を消すと次の瞬間にはラインハルトの懐に飛び込んでその顔を覆うように手を広げる。
ラインハルトは後方に飛びのき様に光の魔法を発動させた。

相手は黒衣の袖で光を避けながら横に飛ぶ。
その身体から湧き出た黒い霧がすっと伸びてラインハルトの首に巻きついた。
「必要なのは貴様の血。傷を付けずに殺せば問題ないからな」
「くっ・・・!」

霧を引き剥がそうともがくラインハルトだが、締め付ける力が強まるにつれ意識が遠退いていく。
ラインハルトは薄れゆく意識の中最後の力を振り絞って光の魔法を放った。
その光に男の力が少しだけ弱まったが、ラインハルトの手から迸る光もあっと言う間に消えていった。

「手こずらせおって・・・」
その声とともにラインハルトの身体はどさりと地面に落ちる。
男がその襟元へ手を伸ばした時、松明の明かりとともに人声が聞こえてきた。

「おい、そこに誰かいるのか!」
「何だ、お前は・・・?」
当たりが急に明るくなり男はとっさに見を隠した。
松明を手にした数人の兵士が倒れたラインハルトを取り囲む。

「人が倒れてるぞ!」
「農民のようだが」
「側にもう一人いたはずだ、よく捜せ」
木陰からその様子を見ていた男は兵士の数がどんどん増えてくるのに小さく舌打ちする。

「こいつ、まだ息があるぞ」
「取りあえず詰め所に運ぶんだ」
「おう」
ラインハルトが兵士たちに連れて行かれるのを見て、男は一瞬躊躇ったがそのまま身を潜め続けた。

―――あの連中はグリスデルガルドの兵士、テレシウス配下の者どもか。迂闊に手を出すとシェリー卿が煩いか・・・。奴らあれがラインハルトだと気づくだろうか・・・
しばらくして数名の人数を見張りに残し、兵士たちはラインハルトを連れて街へ向かって行った。

遺された兵士たちが三々五々散っていくのを確かめてから男はゆっくりと茂みの影から姿を現した。
―――仕方ない、どの道アイツは後方に送られるだろうからその途中を狙うとするか・・・
そう思って街の要所に設営された兵隊詰め所を見遣っていると、背後から密かに人が丘を登ってくる気配を感じた。






「ルドルフ様、大丈夫ですか?」
「ああ、どうもこの服は動きにくくていけない、どこかで着替えられるといいんだが・・・」

兵士の目を掻い潜ってどうにか丘の上に上り詰めたルドルフとアルベルトは、小声で話しながら途中の難路で泥だらけとなった手や服を軽くはたいた。

「しっ、誰かいるようです、今人影が・・・」
その言葉にルドルフは音を立てぬよう気をつけながら剣を包みから取り出した。
右手に握られた抜き身の剣が月明かりにほんの一瞬だが照り映えるのを男は見逃さなかった。
「その剣・・・ルドルフ王子か?」
男はそう言って二人の前に姿を現す。

「!貴様、妖魔族か?」
ルドルフはゆっくりと剣を相手に向けて構える。
「ふん、まだその剣を持っているところを見るとマティアス卿はしくじったようだな」
マティアスの名が出たことで驚いて相手を見つめるルドルフの隙を突いて 相手の身体から伸びた黒い霧がするするとルドルフの剣を握った腕に巻きついた。

「何とも乱暴な王子様だが・・・なぜ女の格好をしているのだ?」
その瞬間相手はルドルフのすぐ目の前に立っている。
コイツはあの時の・・・クラウディアの村を襲った男だ・・・
右腕をギリギリと締め付けられ苦痛に顔を歪めながらルドルフは思った。

霧がルドルフの首にも巻きつこうとした時、アルベルトが男に体当たりを食らわせたので相手の力が少し緩んだ。
ルドルフは左手に剣を持ち替え思い切り薙ぎ払う。
「ぎゃっ!」
と言う悲鳴とともに男は飛び退った。

ルドルフの剣に切り裂かれたその身体からはあのカタリナという女の時と同様、黒い霧が吹き出ている。
「まったく、油断のならない野郎だ」
男はそう言って掌を傷に当てた。

「おうい、まだ、誰かいるのか?」
警邏の声に男はこの姿では分が悪いと踏んだのか
「ふん、運のいいヤツラだ。今日のところは見逃してやる。どのみち魔道士の王子抜きではお前達が捕らえられるのも時間の問題だろうからな・・・」
と捨て台詞を残して身を翻す。
「待て!」
ルドルフが駆け寄るが一瞬早く男は黒衣を翻し姿を消してしまった。

「何だ、どうしたんだ?」
騒ぎを聞きつけて他の兵士も駆けつけて来たようだ。
「まずいですね、今警備兵に捕まる訳には・・・」
「茂みの中に隠れよう。声を立てないように」
ルドルフとアルベルトは立ち並ぶ樹木の下生えの陰に身を隠し、じっと息を殺した。

松明を持った数人の兵士が辺りをざっと調べ始めたが、しばらくするとブツブツ呟きながら引き上げて行った。
「全く、さっきから一体何だってんだ・・・」
ほっと安堵の息を漏らしながらルドルフとアルベルトはゆっくりと立ち上がる。
「ラインハルトはどうしているだろうか・・・?」
魔道士の王子抜きでは、と言ったあの男の言葉が気にかかり、ルドルフはアルベルトにそっと訊ねた。

妖魔族の狙いはラインハルトの血・・・
もしかして自分たちの留守中に何かあったのでは・・・
そんな不安を抱きつつルドルフは丘の上からディーターホルクスの港を見下ろした。

丘の港側の斜面には要所要所に兵士が立ち警戒態勢を敷いている。
港はフィルデンラントの軍船に占拠されているような感じで、民間の船は南側の一角に集められているようだ。
だがまだ軍隊は上陸を開始してはいないように見えた。

途中で聞いた噂ではこの船団は先遣の第一陣でフィルデンラントからはさらに大量の軍隊が送られてくるらしい。
ルドルフは呆然として隣に立つアルベルトを見遣る。
「これがまだ第一波だとすると総勢ではかなりの大軍になるな・・・」
それに対しアルベルトは真っ直ぐ前を向いたまま呟くように口を開いた。

「これだけの大軍をこうも即座に派遣するとは、予め準備されていたとしか思えません。フィルデンラントの上層部はグリスデルガルドで何か起こることを予見していたか、或いは・・・」
「アルベルト・・・」
「一枚噛んでいるか・・・」

「ラインハルトは彼等と合流したんだろうか?」
「さあ、分かりませんが、万一フィルデンラントの上層部に妖魔族が入り込んでいるというようなことがあったとしたら・・・」
「ラインハルトが危険だ!」

「まだ今のところ推論でしかありませんが、妖魔族としてはこの際、小さな島国グリスデルガルドだけでは飽きたらず、大陸に足がかりを作ろうとしてるのかもしれません。そのためフィルデンラントをも利用しようとしているのではないでしょうか・・・」
「そんな・・・、それでは僕はどうしたらいい・・・?フィルデンラントも頼りにならないなら・・・。それにラインハルトの事も。まさかもう彼は・・・」

珍しく動揺を露わにするルドルフにアルベルトは躊躇いつつ言う。
「とにかくラインハルト王子を捜して合流せねば・・・。それがどうしてもかなわぬ時には・・・
何にせよ、貴女は一刻も早くこの国を離れたほうがいい。フィルデンラントが頼りにならぬなら、私が貴女を白の帝国までお連れしましょう。幾ら何でもそこまでは妖魔族も手を出せないでしょうから、帝国からフィルデンラントへ働きかけてもらって・・・」
「うん・・・」

アルベルトの言葉に頷きながらルドルフはマティアスのことを考える。
皇帝の側近である彼ならいろいろと詳しい事情を知っているはず・・・
彼の欲しがっているこの剣を餌にうまくそのへんの情報を引き出せないだろうか・・・

それにフランツのことも気になる。
兄を妖魔族の手に渡したままこの地を離れる事はルドルフにはとてもできそうにない。
そのまま丘の上にいるわけにも行かず、夜陰に乗じて警備の目をすり抜け、ルドルフとアルベルトはどうにか街中へと潜り込む事に成功した。






グリスデルガルド
ディーターホルクスの街

警備の目を掻い潜って剣の鞘を頼んでおいた皮職人の店で出来上がったばかりだという鞘を受け取ると、二人はもといた酒場に裏口からこっそりと行ってみる。
おかみさんはあんたたち、急に姿が見えなくなったから心配してたけど無事だったんだね、と言って涙を流して迎えてくれた。

ルドルフが女性の格好をしているのを初めて見たおかみさんはたいそう驚いた。
道中は何かと物騒なので男の振りをしていたのだと説明するとおかみさんはさして疑いもせず納得してくれ、女の子と知っていたなら他の男どもと一緒に馬小屋なんかに寝かせなかったのにと言った。

「いや、僕は男並みですから・・・」
と訳の分からない言い訳をしながらルドルフは苦笑する。
おかみさんは、フィルデンラントの軍船のおかげで私達は外出も儘ならなくて参ってしまったよ、とぼやいた。

ラインハルトは夕刻どこへともなく出かけたきり戻ってきていないという。
ルドルフとアルベルトはとにかく今晩は様子を見ながら休むことにした。
明日になればラインハルトもひょっこりと戻ってくるかもわからない。
ただその可能性は低そうだが・・・

桟橋は厳重な警備に守られて一般人は近寄る事も出来そうに無い。
夜出歩くのは危険だという事もあり、その夜はとにかくまた酒場に厄介になることになった。
まえにクラウディアが寝かせてもらった空き部屋でルドルフは睡眠をとる。
一人馬小屋で眠るアルベルトが気がかりだが、女の子をあんなところに寝かせられないというおかみさんの強い主張でそうせざるを得なかった。

街中が寝静まった頃を見計らってルドルフは窓からそっと港の様子を伺う。
警備の兵が何人も夜の街を歩き回っている。
フィルデンラントと戦争になってしまうのだろうか・・・
そんなことを考えていた時不意に背後に気配を感じ振り向くと、すぐ目の前につい先ごろまでは来訪を待ち望んだはずの相手が立っていた。

「マティアス!」
「悪かったな、かなり手間取っちまって・・・」
相変わらず人を食ったような笑顔を見せる相手にルドルフは微妙な表情を見せて一歩下がり距離を取った。
剣は枕の下に置いたままだ。

「どうした、そんな顔して?せっかくの美人が台無しだぜ?」
マティアスは馴れ馴れしくルドルフの腕をつかみ引き寄せる。
「よせ、触るな・・・」
ルドルフはそう言って身を引いた。

「今日はやけによそよそしいんだな。この間はあんなに・・・」
マティアスはそう言いながらルドルフを強く抱きしめてくる。
「よせと言っているのに・・・」
男の力に抗しきれずルドルフは結局相手の腕の中に捕らえられた。
唇がその首筋に触れてしまいそうで呼吸が苦しくなる。

「フランツが生きているなんてやっぱり嘘なんだろう・・・」
少しでも相手から離れようとルドルフは身を捩ったがマティアスは余計に力を込めてくるようだ。
「どうしてそう思うんだ?お前の望む証拠を持ってきてやったというのに」
ルドルフは逃れるのを諦めて小さく溜め息をついた。

「・・・さっき丘の上で妖魔族の男に会った。お前の仲間に・・・」
マティアスはルドルフの髪を優しい手つきで撫でている。
本当に恋人と抱き合っているようだ、少なくとも端からはそうとしか見えないだろうな・・・

「俺の?」
「そうなんだろう?僕が剣を構えるのを見て、まだその剣を持っているところを見るとマティアス卿はしくじったようだな、と言ったんだ。お前が僕から剣を巻き上げたところで襲う、そういう手はずだったのだろう?」

その途端相手が身を硬くしたのがルドルフにもよく分かった。
「・・・ソイツは、本当にそう言ったのか・・・?」
その声音はこれまでの甘いものとは打って変わって別人のように低く凄みの利いたものだった。

「マティアス?・・・つっ!」
驚いて見上げるルドルフの腕を掴んだ手に強い力が込められ、ルドルフの口からは思わず苦痛の声が漏れ出る。
「そいつは・・・どんなヤツだ?」
「くっ・・・」

ルドルフは渾身の力で腕を突っ張りマティアスの腕から逃れたが、すぐに両の手首を捕まれ強く壁に押し付けられた。
思いがけない強さで掴まれ、手首は骨が折れそうに軋む。
「言え!どんなヤツだ」

「い、痛い・・・」
遂にルドルフの口から悲鳴に近い声が上がる。
その言葉にマティアスは両手の力を少しだけ弱めた。
「女に乱暴はしたくないが、素直に言わぬとこの細い手首をへし折るぞ、王女様」

ルドルフは口惜しそうに横を向くと
「どんな、と言われても顔などロクに・・・」
と呟いたがすぐに、
「そうだ、お前と初めて会ったあの村を襲ったヤツだ」
とマティアスを見上げて言った。

何の感情も浮かべない冷たい瞳でただ一言、そうか、とだけ答えてルドルフの手を離したマティアスは
「手荒なことをして悪かったな」
と真顔で言う。

「あの男はお前の仲間ではないのか・・・?」
捕まれた痕が赤く残る手首をさすりながらルドルフは躊躇いがちに訊ねる。
その問にマティアスは苦い微笑を浮かべながら
「お前が知りたいのは兄貴の事じゃなかったのか?」
と意地悪そうに訊き返す。
「・・・!」

「せっかく証拠の品を持ってきてやったのに、もう興味がなくなったのか、王女様」
「僕は・・・!」
フランツ、大好きな兄・・・
生きているのならもう一度会いたい、何とか囚われの場所から助け出してあげたい
けど―――

「何だい、やけに騒がしいけどどうしたのさ・・・」
そんな声がしておかみさんがドアを叩く。
ルドルフがそちらに視線を向けた瞬間、
「ほらよ」
そう言ってルドルフの手に冷やりとする触感のものを押し付けるとマティアスは不意に姿を消した。

「ごめんなさい、寝ぼけたみたいで」
そう言っておかみさんを誤魔化すとルドルフは暖炉の側に座り、マティアスから渡されたものをそっと見てみた。
乳白色の楕円の球体をした滑らかな手触りの石―――
その中央部は内部に小さな光の粒を集めたようにキラキラと輝く細かい粒が埋め込まれたようになっている。

この石は一体・・・
これがフランツが生きている証拠・・・?
綺麗な石だがこれが何で証拠になるのかルドルフにはよく分からない。
ただその石を手のひらで撫でていると次第に熱を帯びてくるように感じられた。

やがてキラキラと光る細かい石の粒から淡い光が立ち上り始める。
光の中に仄かに浮き出た人影は、忘れもしない兄フランツのものだった。
「あっ・・・」
食い入るように見つめるルドルフの視界の中でフランツの姿は次第にはっきりと映し出されてくる。
フランツはベッドで半身を起こしているようだ。
すぐ傍らで談笑している女性は確かどこかで・・・

もっとはっきり見たいと思った瞬間映像はぼやけて行き、やがて淡い光とともに消え去った。
「待って、もう少し・・・」
思わず声が出たが、その声は無人の部屋に空しくこだまするだけだった。

この映像をアルベルトにも見てもらったほうがいいだろうか・・・
彼なら自分よりもずっと豊富な知識を持っている。
フランツの生存を強く願いながらもルドルフは心のどこかでは、これはまやかしだ、マティアスが妖力を使って見せている幻覚の類ではないのか、と思った。
それをアルベルトに確かめてもらいたかった。

戴冠式のあの朝、ルガニスに切り伏せられたフランツの心臓はあの時既に鼓動を刻んでいなかった。
そのフランツが生きているわけはない、と思う。
でも、だとするとこの映像はどういうことになるのか。
マティアスがなにか細工したのだろうか・・・
とすれば、どんな?

もう一度手のひらで撫でさすると先ほどと同様淡い光が立ち上りフランツの姿が浮きあがる。
先程とは顔の角度や仕草が微妙に違っていた。
フランツ・・・本当に生きているの・・・?

ルドルフは石を握る手首に残った赤い痣を見下ろす。
なんて力だろう。
男はみな、あんな力が出るものなのか、それともアイツが妖魔族だから?
ケッフェルの村であの状況であれほど落ち着き払っていたのは簡単に形勢逆転できる自信があったからだったのか・・・
力では男に敵わない、そう分かっていてもルドルフはマティアスに事あるごとに女扱いされるのが悔しくてならなかった。






翌朝ルドルフは昨夜のように石を撫でてみたが妖魔族の魔具はやはり光に弱いのか何の反応も見せなかった。
ルドルフはその石を馬小屋へ持ち込み、アルベルトに見せてみた。
妖魔族から貰った事は伏せ、あの湖の側の遺跡で拾ったのをすっかり忘れていたのだ、ということにして・・・

アルベルトは自分もこのような石は見た事が無いが・・・、と前置し、
「聖ロドニウス教会にもどれば資料や石の成分を検査する器具も色々なものがあります。是非調べてみたい。ルドルフ王子、この石を預からせてはもらえませんか」
と言った。

「それは・・・、悪いけど僕、コレを手放したくないんだ」
とルドルフが言うとアルベルトは
「そうですね、たいそう綺麗な石だし・・・。一体なんで出来ているのか。すこしだけ欠いてみてもいいでしょうか?」
と興味津々に尋ねてくる。

「え、うん・・・」
ルドルフとしては断りたいところだが、アルベルトは既に学者モードに入っていて相手の残念そうな表情には気がつかないようだ。
アルベルトは早速おかみさんから鑿と金槌を借りてくると石の端っこに鑿を当て金槌で力いっぱい叩いた。
ルドルフは思わず目を閉じる。
が、カン、と高い音がしただけで石にはヒビひとつ入らない。

アルベルトはさらに何回か叩いてみたが、石は傷ひとつ付かないばかりか、逆に鑿のほうが刃こぼれしてしまった。
「何て硬い石だろう」
アルベルトが呆れて言う。
「本当に・・・」
ルドルフも不思議そうに頷く。

アルベルトは
「ルドルフ様、貴女のその剣でこの石を切ってみてもらえませんか?その剣の刃も普通の金属ではないようだしもしかしたらほんの少しでも砕く事が出来るかもしれません」
と勢い込んで言う。
「え、そうだね・・・」
剣が刃こぼれしたらどうしてくれる、と思いながらルドルフは断りきれず仕方なく剣を鞘から抜いた。

剣の刃を石に当てるとキーンと不思議な音がして、剣が微かに震えた。
石は刃が当たったところを中心に破門状の模様が出来、それが広がってすっと消えた。
「なんとも不思議なものですね。この剣と石は微妙に反応しあっている。共鳴しあっていると言うべきか・・・」
「ああ・・・」
結局剣でも石を砕く事は出来ず、ルドルフは不思議な面持ちで石をポケットにしまった。

その後数日は特に何事も無く過ぎていった。
マティアスは現れずラインハルトも戻ってこなかった。
フィルデンラントの軍は一部を船に残して上陸し、港から少し内陸に陣営を構えたが、特に戦闘状態に陥る事も無く静かに駐屯している。
民間の船もごく一部ずつではあるが入出港できるようになった。
だが戦闘が始まりそうな雰囲気に一刻も早くグリスデルガルドから脱出したがる人は多く、アルベルトはなかなか船の切符を手に出来ないでいた。

おかみさんの手前、また大軍で駐屯している兵士の目を誤魔化すためルドルフはあれ依頼女で通している。名前もエミリアと名乗っていた。
初めは軍の進駐でやりにくくなるとぼやいていたおかみさんも兵士が入れ替わり立ち代り店にやってくるので嬉しい悲鳴を上げている。
時折はフィルデンラントの軍人も立ち寄るようになり緊張する場面もあったが、取り敢えずは平穏な日々が続いていた。

ルドルフとアルベルトもただで泊めてもらっている手前、いろいろと手伝いをさせられるハメになった。
ルドルフがグリスデルガルドやフィルデンラントの兵士に姿を晒すのは危険かとも思ったが、いまや店の看板娘のエミリアが手配中の王子だと気付くものは誰一人いない。
しかも兵士達の話からいろいろな情報が聞けてありがたかった。

ルドルフたちが丘の上で妖魔族にあった夜、フィルデンラントの戦艦に死んだラインハルト王子を語る魔導士が現れたが正体を見破られて姿を消したという話には、ルドルフはギョッとして思わず運んでいたグラスを落としそうになったほどだ。
では、ラインハルトはやはり一人でフィルデンラントの船に乗り込んで行ったのだ。
姿を消したというのは魔法で移動したのだろうが、この酒場に戻ってこないという事は一体その後どこへ行ってしまったのか・・・






グリスデルガルド
中部
アルトシュレーゼンの駐屯地

ラインハルトは横たわったまま夢と現の境を漂っていた。
ここに連れてこられて一体どれくらいの時間がたったのだろう。
頭が割れるように痛い。
身体もだるくて指一本動かすことも億劫だ。

ルドルフとアルベルトはクラウディアを送って、もうディーターホルクスに戻ってきただろうか?
早く彼等と合流してなんとか手を打ってフィルデンラントへ渡るんだ・・・
こんなことなら本当に別行動など取るのではなかった。
ヘルムートが妖魔族と通じていたなんて・・・
そして恐らくはその上の誰か・・・

「くっ・・・」
痛む頭を抱えながらラインハルトは起き上がろうと懸命にもがいた。
このまま寝ていてはいけない、無理をしてでも起きなければますます身体がダメになってしまいそうだ・・・
だが、その努力も空しくラインハルトの身体は力なく崩折れる。

ああ、もう駄目だ・・・そう思ったとき暖かい手が身体を支えてくれるのを感じラインハルトは驚いた。
「あんた、無理しない方がいいぜ。いきなり起き上がるのはよくないよ」
そんな声とともに手の主はそっとラインハルトを元通り横たえてくれる。

「ああ、そうなんだろうが・・・」
そういいつつラインハルトはゆっくりと目を開けてみた。
ぼんやりかすむ視界に男二人の顔が映る。
「大丈夫か、坊や。大分やられたようだが・・・」
さっきとは別の声が聞こえた。

僕は坊やじゃない、と言いたいが声がでない・・・
「おい、何か飲み物を貰ってやれ」
「はい、ご主人様」
最初の声の主がそう返事をして、
「おおい、おおい、だれか来てくれよ〜」
と叫び始めた。

ご主人様、と言う事はあの男はもう一人の男の従者なのだろうか・・・
それにしてもここは一体どこなんだ?
次第に意識がはっきりしてきて辺りの様子がおぼろげながらつかめてきた。
僕はどうやら牢獄に閉じ込められているようだ・・・
そうだ、あの時妖魔族の男に襲われて僕は・・・

「ここは・・・妖魔族の地か・・・?」
ラインハルトは辺りを見回しながら自分を覗き込んでいる男に尋ねた。
「いや、取り敢えずはまだ妖魔族の手には落ちてないはずだが、まあ似たり寄ったりだろうな。我々はグリスデルガルドの虜囚と言うわけだ」

「虜囚?貴方は一体・・・」
「俺は旅の騎士リヒャルト、あのすこし間抜けなヤツは従者のテオドールだ。我々は戴冠式を見にグリスデルガルドまで来たのだが・・・」
すこし離れたところで叫び続けていたもう一人の男がようやく手に水差しを持って近寄ってきた。

「衛兵のやつケチケチしやがって、水しかよこさねえ。全く俺たちからなにもかも取り上げたくせによ」
リヒャルトはラインハルトの背をゆっくりと起こしてくれた。
「とりあえず、水でも飲んで頭をすっきりさせるといい。酷い貧血を起こしたようだからな」

テオドールから水差しを受け取り、少しずつ口に含みながらラインハルトは
「貧血?僕が・・・?」
と尋ねた。
「顔色悪いぜ。唇も紫色だし」
「まあ、こう暗いと大してわかんないですけどね、坊ちゃん」
反論する気も無くなりラインハルトはもう一口水を飲んだ。

高い位置にある明り取りの窓がこの部屋の唯一の光源で、ラインハルトは自分が固い土の床の上にごろ寝させられていたのにようやく気がついた。
僕は妖魔族の男に襲われて、黒い霧に首を絞められたはずだが・・・ではあの時血を吸われてでもいたのだろうか・・・

ようやく意識がはっきりしてきてラインハルトは指に嵌めていたはずの紋章入の指輪がなくなっていることに気がついた。
どこかで落としたのか、兵士に没収されてしまったものか・・・
どちらにしろ自分の身分の証となるものは無くなってしまった。
ラインハルトは落胆の溜め息を吐く。

そんなラインハルトの様子に気付く事無く、陽気そうな従者のテオドールは主人に愚痴をこぼしている。
「全く、だから俺っちの言うとおりフィルデンラントに行ってりゃ、こんな憂き目には会わなかったんですよ。ご主人様のカンも今回ばかりは大はずれだ」
「そう言うなよ、おかげで滅多にないような体験ができたろうが・・・」
「牢獄で臭い飯体験なんて、幾ら珍しくても少しもしたかありませんや」

「貴方たちはフィルデンラントの方なのですか・・・?」
二人のやり取りにラインハルトは故国の名が出たのに興味を引かれそう尋ねてみた。
「いや、そうじゃないんですがね、我等は行方定めぬ旅の途中で、本当はフィルデンラントへ行ってみるつもりだったんですがこの旦那が急にグリスデルガルドの戴冠式を見たいなんぞと言い出したもんで・・・」

「戴冠式は残念な事になってしまったようで・・・」
ラインハルトが言うと
「のようだね、実は我々もよく知らないんだ。前日の夜に様子のおかしい軍隊が王城の周りを取り囲むのを見て、嫌な予感がして街を抜け出し逃げてきたのだが・・・」
「途中の街道で捕まってしまってね。風体が怪しいって、人を泥棒か追いはぎのように扱いやがって」
とリヒャルトとテオドールが口々に言う。

「僕は一体何が何だか・・・、と言う事は僕はグリスデルガルドの軍に捕らえられているということになるのですか?」
「ああ、そうなるな」
「囚われているのは僕達だけ・・・?」
ラインハルトは痛む頭で辺りを見回す。

「この部屋には俺たちだけだが多分他にも沢山つかまって居るとは思うぜ。ここにも初めはもっと大勢いたんだがみんなどこかに連れて行かれてしまったんだ」
「そうなんですか・・・」
良く分からないがここが妖魔族の地でないなら逃げ出す目算はつきそうだ。

「あんた・・・フィルデンラントの人だろう?」
いきなりリヒャルトに言われラインハルトはギョッとする。
「そうですが、どうして・・・」
「前にあんたにそっくりな人を見たことがある。フィルデンラントの王宮で」
「!」
「フィルデンラント国王マクシミリアン七世。いや、その時はまだ王子だったな、もう随分と昔になるが」

「父は七年も前に亡くなったのに・・・あ、いや・・・」
ラインハルトは呆然と呟いた。
「ご主人様、って事はこの坊ちゃんは・・・」
「本物のラインハルト王子、そうでしょう?私は一度会った人の顔は忘れない、例え何年経っても」

「でも、貴方はまだお若いでしょう?父が王子だったのは・・・」
その言葉にリヒャルトは無言の笑顔で返した。
「貴方は・・・一体どなたです・・・?」
「だから旅の騎士リヒャルトさ」






グリスデルガルド
ディーターホルクスの街

ルドルフは相変わらず酒場でおかみさんの手伝いをしながら日を過ごしている。
アルベルトも下働き代わりにこき使われていたが、今では二人とも狭いながらも夜は使用人部屋で休めるようになった。
フィルデンラントへ渡る目算がなかなか立たないことにアルベルトがかなり焦りを感じていることにルドルフも気づいていたが、あえてその事には触れなかった。

マティアスはその後動きを見せない。
どうするつもりなんだろう・・・
あの乳白色の不思議な石はいつもポケットに入れて大切に持ち歩いている。
持っているだけで心が安らいでくるような不思議な石だった。

その日もグリスデルガルドの兵士が数人酒場にやってきた。
彼等は手配中のルドルフ王子らが一向に捕まらないことをしきりに不思議がっている。
当のルドルフが給仕係をしていることなど全く気づいていない様子だ。
テレシウスや妖魔族たちはなぜ自分が本当は王女であることを公表しないんだろう、ルドルフは少し不思議に思い始めていた。

注文の酒のグラスをテーブルに置こうとしてルドルフはすぐ側に座っている兵士が壮麗な指輪を嵌めていることに気がついた。
「あら、この指輪・・・」
間違いない、石に掘り込まれたのはフィルドクリフト家の紋章―――これはラインハルトの指輪だ!

「やあ、目ざといな、さすが女だ」
兵士はそう言って手を上げて見せびらかすようにルドルフに示す。
「素敵な指輪ね、どこで売ってるの?」
ルドルフは努めて動揺を表さないようさりげなく尋ねる。

「これは売り物じゃないんだ」
そう言うと兵士はルドルフに耳を貸すよう合図して、
「実はこれ、拾い物なんだ。街の裏の丘の上で警備中に見つけたのさ。他の奴には内緒だよ」
と囁いた。

「ふうん、うまくやったわね」
ラインハルトが落としたんだ、裏の丘の上で・・・
でもどうしてラインハルトはそんなところに?
ルドルフがあまりじっと見つめたせいか兵士は照れくさそうに指を隠してしまった。

「おおい、こっちも頼むよ」
と他の客にせかされ、ルドルフは仕方なくその兵士の側を離れる。
あの指輪・・・、なんとかして取り戻せないだろうか。ラインハルトには大切なものだろうに・・・
でもそんなに大切な物をなくして何日も探しにこないなんて、やはりラインハルトの身に何か起こったんだ・・・

店が空いた時間を見計らってルドルフはアルベルトに指輪のことを伝えるため裏口から馬小屋へと向かおうとしていきなり腕を捕まれた。
「きゃ・・・」
「しっ、声を出すなよ」
物陰の壁に押し付けられ手で口を塞がれたルドルフはその手に噛み付こうとして相手がさっきの兵士であることに気がついた。

「あ、あんた・・・」
「この指輪に興味があるんだろ?随分ちらちら見てたもんな。これが欲しいのかい?」
兵士は指輪を嵌めた指をルドルフの目の前でちらつかせて見せた。
ルドルフは躊躇いながらも頷く。

「女が嵌めるには少しゴツイが・・・、どうせ拾い物だしな、そんなに欲しいならくれてやってもいいぜ」
「本当?」
「ああ、だがそのかわり・・・、わかってるだろ」
相手はルドルフを抱きしめると腰を撫でまわした。

「いやっ」
虫唾が走るほどの嫌悪感にルドルフは思わず身体を離そうとするが男は
「こんな店で働いてるんだ、それほど初心でもねえだろうが。指輪、欲しいんだろ?」
とニヤニヤしながら言う。

「衛兵の詰め所入口から少しばかり港よりに進んだ先に狭い路地がある。その奥に掘っ立て小屋があるから、今晩夜が更けたら一人で抜け出して来い。
誰にも見つからないよう、うまくやれよ。じゃなきゃ指輪はお預けだ・・・」

男はルドルフにキスしようとしたがルドルフが身を捩って避けたので
「おい、もしかしてお前ホントに・・・」
と言って強引に頬にキスすると
「こりゃあ、ますます夜が楽しみだな」
と野卑な笑い声をあげて離れて行った。

ルドルフはごしごしと皮がむけそうなくらい顔を洗った。
それでもまだ頬に触れた男の唇の感触が残っている様で気持ち悪い。
あの兵士の目的は自分の身体・・・
いくらラインハルトの指輪のためとはいえ、あんな男に身を任せるなど死んでも嫌だった。

でもあの指輪をこのままにしておくわけにもいかないだろう。
あの兵士は指輪の価値に全く気づいていないが、あれがテレシウスの手に渡ればどう悪用されるか分からない・・・

こんなことアルベルトに相談する訳にもいかないし、言いなりになると見せかけて指輪を奪うか・・・、だがそんなことをすれば自分がルドルフ王子だとばれてしまうかもしれない。
そうすればアルベルトは一蓮托生、さらにこの酒場のおかみさんにも迷惑をかけてしまうだろう。
ルドルフはかなり思い悩んだが夜半近くになり、みなが寝静まったのを確かめてそっと店を抜け出した。






夜とは言えあちこちに見張りの兵士が立ちかなり明るい。
途中で怪しまれたらと心配したがその手の女が徘徊するのはそう珍しくもないようで、厚での布をヴェール代わりに顔を隠したルドルフが詰め所のほうに向かっても、兵たちは揶揄の言葉を投げつけてくるだけでさほど疑いもしないようだ。
詰め所の入口を横目に少し行くと確かに細い路地があるのが分かった。

路地の入口でそれでもこのまま進むべきか躊躇していると、昼間同様いきなり腕を捕まれ引きずり込まれた。
あの兵士かと思ったが港からの仄かな明かりに一瞬輝いた瞳は青から紫に変わる・・・
「マティアス!」
「王女様が、酌婦の次は娼婦の真似か?」
図星を指されたルドルフは言葉もなくただ相手を睨みつける。

「あの男はお前に指輪をくれてやるつもりなど毛頭ないぞ。あれを餌にお前を思い通りに出来る間は何度でも要求してくる」
「あんな奴の言いなりになるつもりなど初めからない。僕は・・・」
どうしてこんなことまで知っているのだろうと思いながらルドルフはマティアスの手を振り払った。

「その割には剣を持っていないようだが・・・」
「あんな相手に剣など必要ない」
「へえ、そうかい。素手で男に勝てるつもりか?」
「・・・」
マティアスは無言で睨みつけるルドルフの手を取り、その甲に唇をそっと当てた。

「何・・・」
「いいかげん認めろよ、お前は女だ、力技ではどうしたって男の敵じゃない。剣の扱いはまあ、なかなかのものらしいがな」
「!」
「お前はここを動くな、俺に任せておけ」
次の瞬間にはマティアスの姿ははるか遠くに飛んでいる。

その先には確かに小さな小屋があるようだ。
身を潜めるルドルフの傍らを絡み合う男女が数組通り過ぎていった。
「どうしたんだ、待ち人が来ないなら相手してやろうか?」
そんな声をかけて来る者もいる。

そんな連中を避けるためルドルフはいま少し路地の奥へ入った。
路地の奥に粗末なつくりの小屋が幾つも並んでいるのが見える。
恐らくはそういう場所として使われているのだろう。
ルドルフは重い気分でマティアスが戻るのを待った。

どれほど待ったものか不意に目の前に黒い影が立ちふさがり、ルドルフは目を上げる。
「待たせたな」
そう言ってマティアスはルドルフの手を取りその手のひらに例の指輪を乗せた。
相手の少し皮肉めいた笑顔に不思議な安堵感を覚えてしまうのは自分でも気付かぬうちにかなり心細い思いをしていたのだろう。

「あの・・・、アイツ、殺したのか・・・?」
ルドルフは指輪を握り締めながら躊躇いがちに訊いた。
「いや、あの野郎は楽しい夢の真っ最中だ。ついでにこれからはもうお前に纏わりつかないようにしておいたから」

「マティアス・・・けど、どうして?」
不思議そうに見つめるルドルフにマティアスは
「お前は俺を殺さなかったからな、これで貸し借り無しだ」
と言う。

「・・・君は剣が欲しいんじゃないのか?」
その問にマティアスは軽く笑って見せる。
「命令が変わってな、俺はあの剣に用は無くなったんだ。だから、もうお前と会うことも・・・」
「え・・・?」

「他人の思惑で踊らされるのは真っ平だからな、こちらもお返しをしてやったのさ」
そう言って身を翻そうとするその服をルドルフは急いで掴んで引きとめた。
「待って、君はラインハルトがどうなったか知ってるんだろう!?教えてくれ、彼は・・・」

「お前が知りたかったのは兄貴のことじゃなかったのか?兄貴よりは男の方がよくなったのか?」
「そんな、ラインハルトは大切な友達・・・仲間だから・・・」
「俺にはよく分からないが、この近辺で捕まった身元不明の奴は中部の街アルトシュレーゼンの駐屯地の簡易牢送りになるようだぜ」

「!じゃ、ラインハルトはグリスデルガルドの軍に捕まっているのか?」
「多分・・・あの村でお前たちを襲った男、フィリップ卿がフィルデンラントの王子の血を大量に持ち帰ったが身柄を確保したと言う話は聞いていないからな」
「ラインハルトの・・・血・・・」
ラインハルトは怪我をしたのか・・・
大量に、ということはかなり酷い怪我を・・・

「さあ、もういいだろう、その手を離せ・・・」
「一体・・・、この国とフィルデンラントで何が起こっているんだ・・・、君たちの目的は何なんだ?」
「そんなことをお前に話すいわれはないだろう」
「でも・・・」

「王女様、俺たちは敵同士だ。俺はこの場でお前の命を奪うことも出来るんだぜ」
ルドルフは目を見張ってマティアスを見つめていたが
「そう・・・したければ・・・」
と呟いた。
「どの道僕は捕まれば処刑される。フィルデンラントにも妖魔族の手が回っているのなら逃げ場はない。君の手柄になるのならそうすればいい・・・」

マティアスは軽く溜め息をつき
「俺は仲間内では信用ないからな、あまり詳しい話は伝わってこないんだ」
と言う。
「でも君は皇帝の側近なんだろう」
相手の様子の変化に戸惑いながらルドルフは呟く。

「よく知ってるな。まあ側近といえばそうなんだが・・・
軍事関係はユージン卿という奴の管轄だ。
グリスデルガルド方面はシェリー卿、フィルデンラント方面はフィリップ卿、コイツはもう知ってるな、この二人のユージン卿配下の者が担当している。
具体的にどんな作戦が展開中かは軍の極秘事項なのでわからない。

お前が前に言ったルガニスとかいう男はシェリー卿が使っている実働部隊のものだろう。
先頃顔に怪我をして戻った者がいるという話を聞いたが、そいつがそんな名だったと思うぜ。
お前の兄はシェリー卿の手からまた別のランディ卿という男の管轄に移っていたので、探し出すのに少しばかり手間取ってしまったが、間違いなく生きている。
俺が言えるのはこの程度だ」

「マティアス、僕は・・・」
「その姿で僕、なんて言うなよ、艶消しもいいとこだ」
マティアスはそう言って顔を近づけると軽く唇を合わせた。
「!」
「まあ、この程度の情報じゃ見返りはこんなとこだな」
「な・・・」
突然の出来事にルドルフは声も出ない。

「ルドルフ、か。お前には硬すぎる名前だな。他に名はないのか?」
「エ、エミリア・・・」
ルドルフはそう答えてぽっと赤くなった。
「ああ、そっちの方がよほど似合ってるな」
マティアスはそう言ってルドルフを抱き寄せる。

次の瞬間には二人はあの酒場の部屋にいた。
「ではな、エミリア姫、お前はこの国の王女、英雄の末裔だろう、つまらんもののために自分を安売りするなよ」
「マティアス、僕・・・いや、私はフランツに会いたい。どこに行けばいい?」
相手の姿はすでになく、ルドルフの声は空しく宙に消えた。

翌早朝ルドルフはアルベルトを叩き起こすようにしてラインハルトがグリスデルガルド軍に捕まっているらしいことを告げた。
マティアスの事はアルベルトには話せないので、酒場にお客としてきた兵士からうまく聞きだしたのだということにして・・・

「凄いですね、ルドルフ様、良くそんなことが分かりましたね・・・」
「まあね」
アルベルトはルドルフをじっと見たがそれ以上は何も聞かなかった。

「で、僕はアルトシュレーゼンというところに行ってみようかと思う。無駄足かもしれないけど、このまま何もせずにはいられいないし、このままここにいてもし手配中の王子だと分かればおかみさんに迷惑をかけてしまうし・・・」
「では私も・・・」

「いや、アルベルト殿は一刻も早くロドニウス協会に戻った方がいい。貴方一人なら何とかなるんだろう?」
「それは・・・、人足の真似でも何でもすれば貨物船にでも潜り込めるとは思いますが、でも貴女お一人では危険です、彼方此方でテレシウスの兵が目を光らせているし、フィルデンラントの軍隊も駐屯しているのですから」

「農民の格好をしていればすぐには王子だとはばれないだろう」
「ですが・・・、貴女は女の子だ、それが分かったら別な危険が・・・」
「大丈夫、僕は剣士としては中々の腕前だとお墨付きも貰ったしね。万一に備え護身用の短剣でも隠し持てば、その辺の男には負けないぜ」
「ルドルフ様・・・」

「もう決めたんだ、この国の事は僕の問題だからね。僕一人だけ逃げ出すわけにはいかない。貴方は先生の言葉どおり一刻も早く教会に戻って真実を伝えて下さい。白の帝国が動いてくれればフィルデンラントへの牽制にもなる」
「全く、貴女という方は、なんて向こう見ずなんだろうな・・・」

「善は急げだ、僕は出来るだけ早く発つつもりです。街道を行くわけには行かないから裏道を探しながら行くことになるのでどうしても時間がとられるからね。その間にラインハルトの状況が変れば手遅れになるかもしれない。
貴方もだけど、彼は戴冠式のために、フランツのためにこの国に来てくれただけの人だ、本来この国の政変とは何の関係もないはず。だから何とか助け出して故国に帰してあげたいんだ。
多分、彼の兄上、ヴィンフリート国王もかなり危険なんだろうし」

アルベルトはしばらくじっと考え込んでいたが
「分かりました、幾ら私が止めても貴女は聞かないんでしょうし・・・、私は即刻教会に戻りこの目で見たことを全て教会と帝国に伝えます。そして貴女とラインハルト王子を迎えにこの地へ戻ることにしましょう。
そのために・・・」
と言って懐からあのオーブを取り出すとルドルフに手渡した。

「これは貴女が持っていてください。老師のところに戻れば私はこれを使って貴女と連絡を取ることが出来るし、我々が知らない力もまだいろいろとあるようだ、きっとお役に立つでしょう」
ルドルフは驚いてアルベルトを見上げる。
「それから・・・」

アルベルトは雑記帳を取り出してページを一枚破り取ると、あの祭壇から写し取った神格文字をざっと書き写した。
「これを・・・、ラインハルト王子にお会いできたら読んでいただいて下さい。私も老師に尋ねてみますが」
「・・・分かった」
ルドルフはその書付を小さく折りたたんでポケットにしまった。

「ルドルフ様、くれぐれもご自分を大切になさってくださいよ・・・」
別れ際アルベルトはそんな言葉を贈ってくれる。
「うん、分かってるよ」
「私は何時の間にか貴女のことを本当の妹のように思っていました。恐れ多い事ですが」
「そんな、僕もフランツと一緒に居るようで楽しかったよ。アルベルトも道中気をつけて、少しでも早く先生に会える事を祈ってるよ」
「はい」

アルベルトに路銀を分けてもらい、短剣と地図と方位磁石を買ってもらってルドルフは一人西へ向けて旅立つ。
剣は着替えや荷物を入れた布袋の底にしまいこみ、パッと見には農民の子、と言った風体で街道を外れた道なき道を辿る。

この先にどんなことが待ち受けているのかと思うと勇気も萎えてしまいそうだが、恐れたり落ち込んだりしている暇は無い。
雲ひとつ無い晴天に輝く陽光に見守られながらルドルフはラインハルトとの再会を目指して歩き続けた。