暁の大地


第八章




グリスデルガルド
アルトシュレーゼン

自称旅の騎士リヒャルトとその従者テオドールと出会ってから数日、ラインハルトは体力も順調に回復し、どうにか歩き回れるようになった。
まだ王子だった頃の父にあったことがあるとリヒャルトは言っていたが、父が王位に就く前といえばかなりの昔になる。
ざっと見積もっても三十年は前だろうと思われるが、リヒャルトはどう見ても二十代半ばくらいにしか見えない。
いくら若作りといっても限界があるだろうし・・・

従者のテオドールはリヒャルトと行動を共にするようになったのはこの五年くらいの事なのでそれ以前リヒャルトがどこでどうしていたのかは知らない、と言った。
少なくとも自分が付き従うようになってからは行方を定めぬ気侭な旅を続けていて、パンゲア大陸の目ぼしい場所はほぼ踏破しつくしたのだと自慢げに語る。

テオドールは南の国ローゼンシュタットの生まれだそうだが、リヒャルトの出身地は知らないらしい。
生国不明、年齢不明、ただその剣の腕前は相当のものだという事だが・・・
口調は少しぞんざいなところがあるが物腰などは結構洗練されていて、高い身分の出身である事が窺える。

剣の名手・・・か
その剣もここへ連れてこられた時没収されてしまったそうで、実際の腕前を見せてもらうことは出来ないが・・・
剣といえばいやでも思い出されるのはルドルフとあの伝説の剣―――

クラウディアを送り届けてディーターホルクスに戻ったルドルフとアルベルトはフィルデンラントの船団をみてたいそう驚いた事だろう。
自分が姿を消してしまったことをあの二人はどう考えただろう。
あれから正確に何日経ったのかわからないが、こうも戻りが遅ければ、二人とも自分が彼らを置いて一人で故国へ帰ってしまったと思っているのかもしれない。
恐らくアルベルトはルドルフと二人でフィルデンラントへ渡る手はずを考えているだろうが・・・

自分がいなければ彼らはフィルデンラントではなくロドニウス教会に、白の帝国に真っ直ぐ向かおうとするだろうな。
ただあの様子では国外へ出るのはますます難しくなってしまったろうし、二人ともまだ足止めを食っている可能性は充分ある。

ラインハルトは雑なつくりの壁に出来た小さな隙間から外の様子を伺ってみる。
何人かの兵士が何事か話し合いながら外を歩き回っているのが遠くに見えた。
何とかここを抜け出してもう一度彼らと合流できないだろうか・・・
女の姿をしたルドルフの姿が心に浮かぶ。
強がっていてもやっぱり女の子だ、きっと心細い思いをしているだろう、大分身体も思うように動かせるようになったし、今夜辺り夜陰に乗じて魔法で抜け出そう、ラインハルトはそう思った。

「何を考えているんです、王子様?」
急に肩を叩かれてラインハルトはハッとして振り向く。
「今夜辺り魔法で・・・、そうお考えで?」
すぐ間近でリヒャルトの目がキラリと光る。
「え、あの・・・」

「ラインハルト王子は賢者ゲラルドの孫にして最後で最強の秘蔵の弟子―――と聞いていますからね」
「はあ・・・」
自分が魔導士だというのはそんなに知れ渡っていたろうか・・・

「あまり魔法はお勧めできないですね。この街の周囲には結界が張ってありますからね。
いわゆる魔導士対策と言う奴で。無理に破ればその反応で妖魔族がすぐに飛んでくる。
この牢を抜け出しても街からは出られない、ということで」

「そんなこと、どうしてご存知なんですか・・・?」
ラインハルトは目を見張ったまま尋ねる。
「いえね、兵士達の話し声が時々聞こえてくるんですよ。私は遠目遠耳が利くものでね」
「・・・」

「グリスデルガルドのマリウス国王にはテレシウスと言う弟がいた。今回の騒動はそのテレシウスが王位を奪うために妖魔族と結んで起こしたもの・・・。
国王と第一王子が死亡、第二王子は反乱の首謀者として処刑、となれば王位は黙っていても転がり込む・・・
テレシウスとしてはそう踏んだんだろうが妖魔族はそう甘っちょろい連中じゃない。
うまく利用したつもりがどうも事は思ったのとは違う方向に進んでいくようだ、テレシウスは今頃はかなりヤキモキとこの状況を見守っている事でしょうな・・・」

「リヒャルト殿・・・」
「そして王子様、貴方は自分とともに故国から付き従ってきた者達をむざむざと見殺しにせざるを得なかったことを悔いている。
勿論、報復もお考えの事でしょうが・・・
それに、第二王子ルドルフ殿、その方をなんとか助けてあげたいと思っていらっしゃる、そんなところですかな」

「何だってそんなこと分かるんですか!まさか貴方は・・・」
ラインハルトの切迫したような声に戸口で兵士と何事か揉めていたテオドールも思わず振り向いた。
リヒャルトはテオドールに何でもないというように手を振って笑って見せてから
「ご安心を、私は妖魔族などではありませんよ。ここ数日の状況や兵士の話、貴方の様子からおおかたそんなところではないかと見当をつけただけで・・・」
と言った。

「ルドルフ王子・・・いや、本当は王女様ですよね、あの方は。今頃は美しい乙女になられた事でしょうな」
「え、ああ・・・。でもずっと男として育ったから男顔負けの剣士ですけど・・・」
ラインハルトは少し顔を赤くしながらそう言った。

「おやおや、そうなんですか。まあ今はそうでも女性というのは突然変るものですからね」
「そうなのかな・・・」
「王子様はご存じないでしょうが、女の子はあっと言う間に大人になりますよ。
ルドルフ様の母君はたいそうお美しい方でしたから、お会いできる日が楽しみですね」
確かにルドルフは想像以上に綺麗だった。男の姿をしていたときも美少年の部類だとは思ったけど。

「でもなぜ貴方はルドルフが女の子だと知っているんですか?
グリスデルガルドのものでも知ってる者はほとんどいないようでしたが」
「私も随分長い事旅を続けいろんなところへ行きましたからね。
ルドルフ様の父君、ステファン王子とはふとしたご縁がきっかけでかなり親しくさせていただいたのですよ」
「そうなんだ・・・」

このリヒャルトという騎士、父の昔のことも知っていると言っていたし、本当に一体何者なんだろう。
ルドルフが生まれたばかりということは今から十五年前になるが、それならこの人だってまだ十代前半の子供だったろうに、ルドルフの父ステファン王子と親しかったとは・・・

それ以前に自分の父が王子だった頃といえば、この男はそれこそまだ生まれてもいなかったのではないだろうか・・・
どういう事なんだろう―――
ラインハルトが不思議そうに見詰めるのをリヒャルトは楽しそうに笑って眺めている。

そのとき扉の外側で騒ぎ声が上がり、ラインハルトとリヒャルトは扉越しに見張りの兵士と遣り合っていたテオドールの傍に近寄った。
「どうしたんだ、テオ?」
リヒャルトの問い掛けにテオドールは
「さあ、急に喚き声が聞こえてきましたが、何て言っているのかよく分かりませんでしたね」
と呑気に答える。

リヒャルトはしばらく耳をすませていたが、
「どうやら他の部屋に居る囚人が他へ転送されるようですね。
それを嫌がって暴れているものがいるようだ」
と言った。
「へえ、そんなことが分かるんで?」
ラインハルトもテオドールに全く同感と言った面持ちでリヒャルトを見詰める。

「ああ、兵士達が数人係で宥めているが、その囚人は他所へ送られたら命をとられると思い込んでいるらしい」
その後しばらくは数人の叫び声や怒鳴り声が響いてきたがやがてドサリというものが床に落ちるような音がして、数人の話し声や何かを引き摺るような音が聞こえてきたと思ったらまた遠ざかっていき、すぐにあたりはもとどおりの静けさを取り戻した。
テオドールと話していた兵士もその騒ぎに加わり、皆と一緒にいなくなってしまったようだ。

「いずれ我々も何処かへ転送される事になるのでしょうね。ここは本当の一時しのぎの仮の簡易牢のようですから」
リヒャルトの言葉に
「冗談じゃない、これ以上変なトコに連れて行かれる前にトンズラこきましょうよ、ご主人様!」
とテオドールが勢い込む。

「僕も早くここを逃げ出してなんとかディーターホルクスまで戻らなければ」
「ディーターホルクス西部の草原にフィルデンラントの軍が駐屯しているらしいですよ。
先ごろ第一陣の船団が入港したが、その後もぞくぞくとグリスデルガルドに向けて大量の兵士を乗せた船団が送り出される事になっているらしいとか・・・」
「・・・」

兄のヴィンフリートには一体どういう風に自分の事を考えているんだろう
前に出した手紙は二通とも兄の手には渡っていない、ヴィンフリートはテレシウスが発表したとおりに事を考えているのだ。
それにしても・・・

「フィルデンラントはこれを機にグリスデルガルドを併合しようと思っているのですか?」
リヒャルトの問いにラインハルトは言葉に詰まる。
ルドルフ一人の身柄を要求するにしては確かに大軍過ぎる。
領土的野心を疑われても仕方ないだろう。

いくら属国とはいえ、グリスデルガルドは一応は国王を戴く独立国。
それを武力で併合となれば帝国はもとより他の八聖国や新興の狭小国家も黙ってはいないだろう。
必ず干渉してくるはず、下手をすれば大陸全土を巻き込む戦渦になりかねない。

ヴィンフリートは温厚で思慮深い性格だ。
こんなやり方は兄らしくない、やはり兄の知らぬところで国全体がおかしな方向へと大きく動き始めているのだ。
一刻も早く兄に報せなければ大変な事になる・・・

ラインハルトはリヒャルトの問いには答えずに
「リヒャルト殿、僕は至急国に帰らねばなりません、その理由はお分かりですよね。
ですからお願いします、僕に力を貸して下さい」
と言った。

見ず知らずの氏素性も怪しい男だが今のラインハルトには他に頼れるものはいない。
それにここ数日一緒に過ごしてみてラインハルトはこの騎士がそう悪い人間には思えなかった。
「ラインハルト様・・・」

「今の僕には何の力も無い、貴方に見返りとして差し上げる物も・・・。
ですが、フィルデンラントの王族は受けた恩義は忘れない、必ずや貴方にはそれ相応の褒賞を差し上げるつもりです、ですから・・・」

リヒャルトは笑って
「私はこの世のあらゆる事は見尽くし経験し尽くしてきましたからね、今更褒賞など望みませんよ。
私は面白い事が大好な酔狂者。貴方が私に血が滾るばかりの経験をさせてくださるというのなら喜んでご助力いたしましょう」
と言う。

「貴方が望むような事になるかどうかは自信ありませんが・・・」
「いいでしょう、牢破りなど滅多に経験できるものではありませんからね、喜んで従いますよ」
こうしてテオドールも巻き込んでの脱獄計画が練られる事となった。






その結果―――
ラインハルトが魔法で身代わりを作り壁を破ってこっそり抜け出す。
あちこちで火の魔法を使って騒ぎを起こし、遅れて逃げ出したリヒャルトとテオドールはどさくさにまぎれて詰め所に忍び込み武器を奪取、それを持って周辺の森に逃げ込み夜を待って結界を越える。
夜が明けてしまえばこっちのもの、あとは魔法でトンズラ、という手はずで話が決まった。

かなり杜撰な計画だが、テオドールに言わせると緻密な計画ほど破綻も多いという事で、大筋はこの程度大雑把で後は臨機応変というのがいいのだそうだ。
街の周囲に張られた魔導士避けの結界さえ超えてしまえば後はどうにでもなる。
三人同時に移動するのはラインハルトは経験済みだった。

妖魔族が動くのは夜、だが兵士の目をかいくぐって結界を越えるのは夜陰に乗じるしかない。
よって決行は日の入り後すぐという事になった。
待っている時ほど時間の進みは遅いものである。
ラインハルトはじりじりしながら日暮れ時を待った。

上手くすれば明日中にルドルフとアルベルトに会える。後の事はそれからだ。
身を焦がすような思いで待ち続けた日の入りがとうとうやってきて、ラインハルトははやる心を抑えながら自分達にとあてがわれた寝具で三人分の身代わり人形を作った。
部屋の目立たない部分に魔法で穴を開けそっと身を滑り出させる。

この時間の警備の兵士の動きは充分研究し尽くした。
ラインハルトはその死角を縫いながら魔法であちこちの建物に火を放ちながら周辺の森へたどり着き姿を隠した。

ラインハルトが唱える呪文に小さかった火の手は一気に燃え上がる。
突然の炎に兵士達は慌てて消火を試みるが、火の手が多すぎて対処できないでいる。

そのドサクサに乗じてあちこちで脱走を試みるものが現れたらしく、いたるところで怒声が上がった。
リヒャルトたちはうまくやっただろうか・・・
苛々しながら待つ事しばらくしてすぐ傍からガサガサいう音と
「ラインハルト様・・・どちらに?」
という押し殺した声が聞こえて来た。

リヒャルトだ、とラインハルトは
「こっちだ」
とこれまた囁き声で呟き、音のしたほうに身体をずらす。
「おう、王子様、首尾は上々で」
とのテオドールの声にラインハルトもああ、と一声返す。
そのまま三人揃って街の外へと抜けるべく身を潜めながら深い森へと入っていった。

地を這うようにして進む三人の頭上でギャーギャーといういやな鳴き声が聞こえる。
凶鳥だ・・・
この騒ぎをもう妖魔族がかぎつけたのか・・・
この前は凶鳥は森の中までは襲ってこなかった。
コイツらだけならどうにかやり過ごせそうだ、とラインハルトは思う。

背後でもどうにか火を消し終えた兵士達が囚人の点呼を始めたようだ。
自分達が逃げたことが知れるのは時間の問題だ。
「ラインハルト様、少しでも移動しましょう。進めるうちになるべく遠ざかっておきたい・・・」
リヒャルトに促され、ラインハルトは音を立てないように気をつけながら先へと歩を運んだ。

かなり進んだと思われたところで三人は小休止する。
背後の人声ももう届かなくなった。
「そういえばお二人とも武器は手に入れましたか?」
ラインハルトは気になっていたことを尋ねる。

「ああ、無事自分の剣を取り戻せたよ。これには愛着があるからな」
とリヒャルトが言うとテオドールも、
「その辺においてあるのを片っ端から頂いてきましたから」
と言って腰のベルトに挿した細身の剣を示した後、手にした袋を開けて沢山の短剣を見せた。

「手は二本しかないというのにこんなに一杯どうするつもりだ」
とリヒャルトが呆れて言う。
「いざとなりゃ、売り払って路銀の一部に当てましょうや。ま、そっちの方もしっかり回収してきましたが・・・」
テオドールの袋の中には短剣のほかにもいろいろなものが詰め込まれているようだった。

「しっ・・・」
遠くからガサガサという音が聞こえてくるのをリヒャルトは耳ざとく聞き取り、
「我等が逃げたのに気づいて森の中を探し始めたようだ。向こうに洞窟があるからそこに身を隠そう・・・」
と言って先に立って進み始めた。

かなり行った所でリヒャルトの言葉どおり小さな洞窟が見えてきた。
遠目遠耳が聞くと言うのは本当らしい。
この暗がりではラインハルトにはすぐ近くの木の洞すら碌に見えないが・・・
洞窟は入り口は狭いが中は結構広い。
ラインハルトは魔法で小さな炎を起こした。

「コイツは寝床にちょうどいい、今夜はここで夜明かしといきましょう」
とのテオドールの言葉に残りの二人も一も二もなく賛同した。
凶鳥が鳴いているのがまだ聞こえている。
そういえば今までも時折この声が夜中聞こえてきたことがあったな、とラインハルトは思い出す。
今でもどこかの村を襲っているのだろうか・・・

どのくらいそうしていたものか、人声が近付いてくるのがラインハルトにも感じられた。
「リヒャルト殿、誰かが・・・」
「ああ、逃げ出した囚人を探しているのだろう、二人とも声を立てるなよ」
ラインハルトとテオドールは無言で頷く。

「全く、どこへ行きやがったんだ?面倒かけやがって」
「もう森を抜けて逃げおおせてしまっているんじゃないか?大分時間が経ってしまったし・・・」
手に手にたいまつを持った兵士達が木立を縫うようにして近付いてくる。

「この暗さではもう見付からんだろうし、適当なところで引き上げるか」
「そうだな・・・」
いかにもやる気の無さそうな会話だが今の状況ではありがたい、そう思った途端、兵士達の苦悶の声が聞こえて来た。
驚いたラインハルトが洞窟の入り口からそっと様子を窺うがあたりは真暗で何も見えない。

変だな、兵士達はたいまつを持っていたはずだが・・・
そのときいきなり襟首をつかまれ、ラインハルトは洞窟の奥へと引き戻された。
それを追いかけるように入り口から黒い霧が飛び込んでくる。
「この霧は!」
「妖魔族のようだな」
「ひえっ、もう見付かっちまったんですかい?」

妖魔族は光が苦手―――ラインハルトは光の魔法の呪文を唱えた。
突然迸った強烈な光に霧がたじろいだように四散する。
そのときラインハルトは空気を切り裂くように発せられた、短く悲しげな誰かの叫び声を聞いたような気がした。







グリスデルガルド
中部の街道

日が落ちてすっかり暗くなった街道をルドルフは休む事無く進み続ける。
随所に兵士が警備を敷いているため街道は強盗、追いはぎの類が出ることもなく至って安全だ。
警備兵の詰め所をうまく避けながらルドルフは途中面倒に会うこともなく目指すアルトシュレーゼンへと着実に近付いていた。
こうも平和だとこの国が政変に巻き込まれて非常事態に陥っているとはとても思えない。
テレシウスも妖魔族も何を考えているのかルドルフには一向に分からなかった。

行く手を見通そうとルドルフは小高い山に登ってみた。
峠を越えたところで行く手を見晴るかす。
日の入り後の暗闇の中でも町や村は明かりで分かる。
アルトシュレーゼンの街はもうすぐのはずだ。
期待に胸を弾ませながらルドルフは行く手を眺めた。

かなり先の平地に大きな街らしい明かりの集合が見える。
あれがラインハルトが捕らわれている場所だろうか。
取り敢えずはラインハルトがまだあそこにいるか確めなくてはならないが・・・
兵士に近付くなら女の方が便利だ、そう判断したルドルフは夜が明けたら女の格好であの街へ行ってみようと思う。

とにかく今日はこの山中で野宿を、と思っていると街の裏手、深い森の手前辺りで突然火の手が上がるのが見えた。
何だろう、火事か・・・?
火の手は一つではないようだ。ちらちら揺れる点のような明かりは兵士が持つたいまつと想われる。
その慌しそうな動きから兵士達がかなり動転している様子が伺えた。

あの火は魔法によるものだろうか?
とすればラインハルトが・・・?
どうしたものかルドルフは迷う。
魔法を使えるものはラインハルト一人ではない、あの火はラインハルトとは何の関係もないかもしれないが、ここでじっと様子を見ているだけでいいものか・・・

しばらく逡巡しているとギャーギャーという聞き覚えのある声が響いてきてルドルフは思わず木の陰に身を隠した。
妖魔族の凶鳥だ・・・
何度聞いても嫌な鳴き声だ・・・
木の陰から窺うと凶鳥は火の上がった辺りを取り巻くように滑空しているだけで街を襲う様子はない。

何だ、一体・・・
そう思ったとき遠く広がった草原の草が凪倒され一筋の太い線が大地に形作られた。
何かが草原を横切っているようだが暗くてよく見えない。
だが線の太さからかなり巨大なものである事は間違いない。

筋は一直線に進み森の木々をもなぎ倒し街の一部を過ぎって進んでいく。
煉瓦で造られた頑丈な家が柔らかい草同様なぎ倒され潰されていくのをルドルフは呆然と見下ろした。
筋は街を縦断して周囲を取り囲んでいる森へと進んでいく。
大木があっと言う間に薙倒されていくのをルドルフは呆然と見ていた。

街の明かりでその筋をつけているものが黒い巨大な球形のものである事はおぼろげに分かった。
その球形の物体の周りには夥しい数の凶鳥が取り巻いているのが見て取れた。

深い森の中ほどまでその球体が進んだ時、突然強い光が迸った。
青白く輝く光の筋に貫かれた瞬間、球体はゆらゆらと揺らいだようにルドルフには見えた。
そして次の瞬間には一気にこれまでの数倍の大きさに肥大したかとおもうとぱっと四散して消えてしまった。

さっきのは魔法の光だ・・・、ではもしかしてラインハルトはあの森の中にいるのか?
急に上着の内ポケットの辺りに重みが増し、ルドルフは驚いて見下ろした。
あの赤いオーブが熱を帯びて輝いているのが服の上からでも分かる。
ルドルフはオーブをポケットから取り出して手のひらに載せた。

赤い光が球体の中でキラキラと仄かな光を放っている。
呆然とその輝きを見つめるルドルフは突然風の流れが変わるのを感じ、はっとして目を上げた。
いつの間にか視界全体を覆うように黒い霧が広がっている。
全身を激しい悪寒といわれのない恐怖感に襲われルドルフはただ呆然と立ち尽くした。

霧はゆらゆら揺れながら次第に人の形に近づいていく。
「聖石を持つ者よ、お前は聖少女か・・・?」
人形に口のような裂け目が出来、地の底から搾り出されたようなくぐもった不気味な声が発せられた。
「何・・・?」
「お前のその顔・・・、お前は・・・」
人形の黒い手が伸ばされるが、ルドルフは金縛りなったように身動き一つできずにいた。

「エミリア!」
黒い霧に取り込まれる、そう覚悟を聞けた瞬間、聞き覚えのある声が耳を貫いて脳裏に響いたような気がした。
「え・・・」
「逃げろ、早く!俺が押えているうちに・・・」
この声は・・・マティアス?

「早くしろって言ってるだろうが!死にたいのか!!」
その声に押されるようにしてルドルフは傍らに置いた荷物をとっさに引っつかむと数歩後ずさり、そのまま後ろを向いて一目散に駆け出した。
ほんの一瞬黒い霧の中にマティアスの七色に変わる不思議な瞳が見えたような気がしたが、本当に見えたのかどうか、よく分からなかった。

どれほど走りつづけたのか分からないが前方に街道と警備の兵の詰め所の明かりが見えてきて、ルドルフはようやく歩を緩めた。
無我夢中で逃げてきたため気付かなかったが、かなり息が上がってしまっている。
しばらく木陰に身を潜めてあの霧がって来ないことを確かめ、ルドルフはへなへなと座り込んだ。

恐かった・・・まだ全身の毛が逆立っている。
ルガニスやフィリップ卿と退治したときとは比較にならないほどの圧倒的な恐怖感にルドルフは今更になって足が震えてくるのを感じている。
あの黒い霧と自分はどのくらい対峙していたのだろう。
その間の記憶はかなり曖昧だった。

逃げろ、という声も本当に聞こえたのかどうか、今となってはあまり自信がない。
あの声・・・本当にマティアスだったのだろうか
もうルドルフと会うことはないと言っていたのに・・・
だが自分の事をエミリアと呼ぶのは彼しかいない。

「マティアス・・・」
そっと名を呼び、かの瞳を思い出すと、ルドルフはなぜか胸が苦しくなった。

兵士に見つかるのを裂けるためルドルフはその木陰に身を潜め夜明けを待つことにした。
あの黒い霧が言った聖少女とは何のことだろう・・・
かなり気になったが、ルドルフはもう一度あの峠に行ってみる気にはなれず、その夜はその場で夜明けを待つことにした。

漠然とした不安感を抱えたままその木陰に身を横たえたが、到底眠る事など出来なかった。
寝返りを打ったルドルフは胸の辺りに異物感を感じ、そっと手をやる。
首からかけて服の中に隠したそう巾着袋の中にラインハルトの指輪と一緒にマティアスから貰ったあの白い石を入れて事を思い出す。
ルドルフは起き上がりその石を取り出した。

月光のほのかな明かりに石に内臓された金の粒がかすかに光る。
光が弱すぎるせいか、フランツの姿は見られなかったが、その石をじっと握っているだけでルドルフには元気が出てくるような気がした。

ルドルフはその石を握り締めたまま静かに横たわった。
眠れないまでも身体を休めておこうと思う。
明日はきっとラインハルトと会える、なぜか分からないがルドルフの心にはそんな確信が生まれていた。






グリスデルガルド
アルトシュレーゼンの森

ラインハルトの放った光に黒い霧は四散したが三人はしばらくは身動きできないでいた。
想像を超えた圧迫感にさしものリヒャルトでさえ言葉がでないようだ。
あの時聞こえた叫び声は、何と言っていたのだろう
遠耳が利くというリヒャルトは聞き取れただろうか・・・
そのまま三人はまんじりともせず夜を明かした。

朝日が鬱蒼と茂った木の葉越しに差し込むのを感じ、ようやく三人は強張った身体を動かした。
我知らず身体に力が入っていたらしく、あちこちの筋肉が軽い悲鳴をあげる。
「いや、しかしすさまじい霊気でしたね、危うく取り殺されるかと思いましたよ・・・」
ラインハルトは無言で頷きながら洞窟を這い出した。

その目に物凄い形相を浮かべたまま絶命している兵士の姿が映る。
傍らに落ちたたいまつはまるで巨人にでも踏まれたようにこなごなに裂けて潰れていた。
辺りの樹木もかなり広範囲に渡って薙ぎ倒され、地面に散らばったその残骸は茶色く変色し朽ち果てている。
「まるで嵐が通った後のようだな・・・」
リヒャルトが見回しながら言った。

木立が一直線に薙ぎ倒されてしまったため、街のはずれにある牢舎から森の中が丸見えになってしまっている。
三人は慌てて無傷で残った茂みの中に逃げ込んだ。
「全く、妖魔族っていうのは薄気味悪いもんですな。あんなのにうろうろされたんじゃ、おちおち暮らしてもいられない。リヒャルト様、こんな国とっととおさらばしましょうぜ」
テオドールが枯れ枝をつま先で軽くつつきながら軽口を叩く。

「妖魔族の住処を奪ったのは我々の方なのだがな・・・」
しばらく無言でいた後で呟くように零れたその言葉にラインハルトははっとして、リヒャルトを見つめたが、相手はラインハルトに聞こえたとは思っていないらしく、静かに木漏れ日を見上げて眩しそうにしている。
テオドールは主人の言葉が本当に聞こえなかった様であちこちキョロキョロしながら森の外へと歩を運んでいた。

「王子様、結界が張られているのを感じますか?」
「ああ、町の周囲十五リーグの範囲に渡って張られているようだ。この結界を魔法で破るものがあれば魔道士ならすぐに気付くだろう」
「ではその結果を抜けるまでは徒歩で行くしかありませんな」
「ああ、まだるっこしいがそうしよう。一度抜けてしまえば後は魔法でどうにでもなるからな・・・」

三人は森の出口へ向けて歩きつづけるが、中天に上った日が傾き始めてもまだ森から出ることは叶わなかった。
「ご主人様、おかしくないですか?ここは先ほど通ったような気がするんですがね・・・」
テオドールに言われリヒャルトもラインハルトも顔を曇らせて辺りを見回す。
「そうだな、見覚えがあるような気がする。それにもういいかげん森を抜けて平地にでてもいい頃合のはずなのに・・・」

三人の行く手にはまだ鬱蒼と茂った木立が延々と続いているのが見えた。
「僕等は幻覚を見せられているのかも知れませんね。きっと先ほどから同じところをぐるぐると回らされているんでしょう」
ラインハルトはそう言ってぐるりと一回り見回す。
急に視界が狭まり、目に見えない空気の壁に三人で取り囲まれてしまったような気がしてきた。
心なしか燦燦と日の光を注いでくれていた太陽も翳りを見せたような気がしてくる。

嫌な予感をかすかに感じた時、
「手間を省いていただいてありがたいことですな、ラインハルト様」
と言う声が空から降ってきた。
「何者だ!?」
ラインハルトは即座に身構える。

「軍の手の内にある間はうかつに手出しできないのでかなりヤキモキさせられましたが、ご自分から抜け出してきてくださるとはね・・・」
目の前に黒衣の男が不意に姿を現した。
今まで見たことのない男だ。
突然の出現に大袈裟に仰天してみせるテオドールを尻目にリヒャルトも愛剣の柄に手をかけた。

男はリヒャルトの姿を認めてほんの少し目を細めると、
「これはまた、珍しいお供をお連れで・・・」
と呟く。
えっ、とリヒャルトを振り向いた瞬間、空気の壁が急速に狭まりラインハルトを押しつぶそうとしているように感じられた。

「くそっ!」
そう叫んでラインハルトは咄嗟に大きく横っ飛びに飛んだ。
風の魔法だ、ルガニスが使ったのと同じ、真空の風で相手を切り裂くカマイタチの魔法・・・

ラインハルトの脳裏を傷だらけになったルドルフの姿が過ぎる。
紙一重の差で今ラインハルトが立っていた場所が、真空の風にまかれ、粉々に切り裂かれた木の枝や木の葉が空高く舞い上がった。
ラインハルトが反撃の魔法を繰り出すより早く、リヒャルトの剣が一閃し、男も高く跳躍して木の枝の上に立つ。

ホッとしたのも束の間、再び空気の壁がラインハルトを取り囲んだ。
一瞬の気の緩みが遅れを招いた。
「王子様!」
とリヒャルトが叫び剣を振り下ろす。
だめだ、間に合わない、そう思って目を瞑る瞬間、ラインハルトは目の前にルドルフの顔を見たような気がした。

「うわっ!」
男とテオドールが同時に叫びを上げている。
突然ラインハルトの体から強烈な光が迸り目を晦ませたからだった。
いや、正確にはラインハルトの身体のすぐ近くから、だが・・・

「ラインハルト!君なのか?」
あまりの光の強さに思わず目を瞑ったラインハルトの耳に懐かしい友の声が響く。
「ルドルフ・・・?」
ラインハルトはほんの少し目を開いて、目の前に立つ相手の姿を認めた。
最後に見たときと同じ、女の子の服を着て長い髪を下ろした友人の姿を・・・

「よかった、ラインハルト、無事だったんだね」
「王子様、旧交を温めている暇はない、この男の始末を早く・・・」
気がつけば男がラインハルトめがけて掴みかかろうとしていた。

男は先ほどの光でやられたのか瞑った目から血を流していたが周りの景色はちゃんと見えているようだ。
ラインハルトが呪文を唱えて身構え、ルドルフが剣を抜き出そうと荷物に手を伸ばした時、男はあえなく膝を追って崩折れた。
リヒャルトが男の背後で剣を振り下ろした姿で立っている。
剣の刃からはどす黒い血がいく筋かになって滴り落ちていた。

男は倒れたまま動かない。
ルドルフが息を呑んで顔を強張らせるのを見てラインハルトはそっとその身体を抱き締めて視界を塞いでやった。
リヒャルトがその血を持っていたハンカチで拭う。

ラインハルトはこの男は人間なのか・・・と思いながら、
「助けてくれて有難う。コイツは死んだのか・・・?」
と尋ねた。
「いや、手加減した。命に別状はないはずだ」
その答えにルドルフはホッと吐息を漏らし、慌ててラインハルトから身を離す。
それを少し寂しく感じてしまった自分にラインハルトはかなり戸惑った。

テオドールに手足を縛らせてからラインハルトは男に回復の魔法をかけた。
この男から聞きだしたい事は一杯ある。
素直に話しはしないかもしれないが・・・
取り敢えず出血は止まったが相手は気絶したままだった。

「コイツのことご存知なんで、王子様」
テオドールが地面に転がされた男を見下ろして訊ねる。
「いや、だが妖魔族と通じた魔道士である事は間違いないだろう。
フィルデンラントの軍と共にやって来た宰相の従者でヘルムートと言う奴が妖魔族と内通していたんだ。
この男はおそらくその手下だと思う」

「ラインハルト・・・」
ルドルフの言葉にラインハルトは大きく頷いて
「僕の手紙は兄に届いていない、だから兄は軍の派兵を決めたのだろうと思う。
恐らくヘルムート一人の画策ではないだろう。もっと上部の物が妖魔族と繋がっているとしたらヴィンフリートも危険だ・・・」
と言った。

「やっぱりフィルデンラントにも妖魔族の手が・・・」
ルドルフの顔が大きく曇った。「アルベルトの言ったとおりだ・・・」
「アルベルト・・・?今、アルベルトとおっしゃいましたか、綺麗なお嬢さん」
テオドールがルドルフの周りをウロウロしながら訊ねる。
「あ、ああ・・・」

その興味丸出しのあからさまな視線に戸惑いながらルドルフは小さく頷いた。
「よせ、失礼だぞ、テオドール」
主人にたしなめられてテオドールは残念そうにルドルフの傍から離れる。
「ああ、ごめん。紹介がまだだったね。こちらは旅の騎士リヒャルト殿とその従者テオドール殿。アルトシュレーゼンの牢屋で知り合ったんだ。こちらは・・・」

ラインハルトがそう言ってルドルフを二人に紹介しようとすると、リヒャルトは一歩進み出てルドルフの手を取りその甲に軽く口付けた。
「グリスデルガルドの王子、いや王女、ルドルフ殿下。お目にかかれて光栄です」
その光景にラインハルトは目を丸くした。
いや、ルドルフは今は女性の姿をしているのだから普通に考えればそう驚くこともないのだが・・・

「ご主人様、ではこちらの方は・・・王女様なので?」
泡を吹くテオドールを横目に見ながら
「間違いない、王女様、貴女は母君に生き写しだ・・・」
とリヒャルトはその手を握り締めたまま言う。
「僕の・・・、いや、私の母をご存知なのですか・・・?」
ルドルフは驚いて相手を見つめた。

「昔一度お会いしたことがある。貴女のように黒髪に綺麗な菫色の瞳の美しい方でした」
リヒャルトにじっと見つめられてルドルフは頬を染めて俯く。
その様子を見てラインハルトは何となく面白くないものを感じ、ぷいと視線を反らせた。

「にしても王女様、どうしてまたいきなりご登場なさったんで?
歩いてこられた様には見えませんでしたが・・・」
ようやく解放された手をそっと上着のポケットに当てながらルドルフは
「不思議な魔具のお蔭だと思うんだけど・・・」
と言った。
ラインハルトにはあのオーブのことだろうとすぐに見当がついたが、リヒャルト達に聖ロドニウス教会の秘宝のことを軽々しく話していいものだろうかという躊躇いがあり、黙っていた。

ルドルフは夜が明けるとやはり気になってあの峠までもう一度行ってみたのだ。
峠には夕べの出来事が夢ではなかった証拠に、大きくぽっかりと地面が抉れて樹木が薙倒された後がくっきりと残っていた。
遠く見はるかすと大地に残る筋は昨夜光が見えた辺りで途切れている。
日の光の下で見るとそれは街を取り囲む深い森の中ほどに当たっていた。

無駄足かもしれないがやはりアルトシュレーゼンへ行ってみよう。
ルドルフはそう思い女の服に着替えた。
万が一にもここで手配中の王子だと気取られたくなかった。
そうして峠の道を下り始めた時、森の外れの上空が急に暗くなり始めた。
へんだ、空には雲ひとつないというのに・・・

何か嫌な予感がする。
昨夜からずっとうっすらと熱を持ちつづけていたあのオーブがルドルフの不安と呼応するかのように熱くなり始めた。
このオーブは一体どういうものなのだろう。
聖石というのはこのオーブのことなのか・・・
ルドルフはオーブをポケットから取り出した。

その途端彼方の森の一角で木々が大きく揺れ始め、やがて切れ切れになった樹木の枝葉が空中に吹きげられるのが見えた。
また魔法だ、しかもこの魔法はあのルガニスが使うのと同じ風の魔法―――
直感的にルドルフはあの森の中にラインハルトがいるのだと悟った。

いけない、ラインハルトが危険だ。
恐らく妖魔族に襲われているのだ、でも急いで駆けつけても間に合うだろうか・・・
そのとき日の光が一筋オーブに射し込み、鈍い紅色のオーブを目にも鮮やかな緋色へと染め上げた。

光の波長がオーブから迸り出る。
ルドルフはその瞬間、ラインハルトを助けに行きたいと強く願っていた。
そして・・・
あまりにも強い光に思わず閉じた目を開けたときにはルドルフはラインハルトのすぐ傍に立っていたのだった。






ルドルフはリヒャルトとテオドールに躊躇いながらも赤いオーブを見せた。
柔らかな木漏れ日の下ではオーブはただの球形の石に過ぎない。
「アルベルトというのはあの、商人だと言ってはいたが実は聖ロドニウス教会の回しもののアイツのことですよね、ご主人様」
不思議な赤い石を為つ眇めつしながらテオドールはリヒャルトにそう言った。

「しっ、滅多なことを言うな、事情があって身分を隠していたのだろう」
とのリヒャルトの答えにルドルフは
「あなた方は聖ロドニウス教会の学僧のアルベルト殿とお知り合いなのですか?」
と訊ねた。

「お知り合いって程のものじゃありませんがね、私等、あの方とはフィルデンラントからの船で一緒だったものですから」
テオドールの答えにルドルフは
「そうだったんですか、何だか不思議なご縁ですね」
と言って笑顔を見せる。
その笑顔にテオドールの顔は見事に緩んだ。

「で、そのアルベルトは?君と一緒なんだとばかり思ってたけど・・・」
ラインハルトは少しぶっきらぼうに訊ねる。
「ああ、君がグリスデルガルドの軍に捕らえられたらしいと聞いて、僕はアルトシュレーゼンへ向かい、彼には一人で聖ロドニウス教会へ戻ってもらう事にしたんだ。
アルベルトは躊躇っていたけど、彼一人のほうが行動し易いだろうし、いろいろ調べてもらいたい事もあるしね。
それで別れ際に僕と連絡が取れるようにってこのオーブを持たせてくれたんだ」
ルドルフはそう言ってオーブを元通りポケットにしまった。

ラインハルトが少しばかり不機嫌な事にルドルフは気付いていたが、務めて気にしないようにした。
あの戴冠式の日以来、ラインハルトはルドルフにはどことなくよそよそしい。
多分自分が女であることを隠していたことでラインハルトは騙されたような気になって怒っているのだろう、とルドルフは思っていた。

「どうして君一人で戻って来たりしたんだ。僕より君のほうがよほど危険じゃないか・・・」
本当は助けに来てくれて嬉しかったのにラインハルトはその気持ちを素直に口にする事が出来ず、そんな言い方をしてしまった。
「だって、君はフィルデンラントの王子、この国の大切なお客様だし・・・、僕達は友達じゃないか。君一人を置いて逃げ出すことなど出来るわけないだろう」
ルドルフは少し照れながらそう言う。

ラインハルトは何と答えて言いか分からずただ
「全く、君は向こう見ずだな・・・」
とだけ答えた。
テオドールはそんな二人のやり取りをニヤニヤしながら聞いている。
リヒャルトは、
「お二人にはいろいろお話があるでしょうから」
と言ってテオドールを引張って、森の外の様子を見に行ってしまった。

変に気を使われると返って話しにくいじゃないか、と思いながらラインハルトはルドルフを盗み見る。
ルドルフは二人がいなくなると少し待っていて、と言って樹木の陰に隠れ、服の胸を開けて首から提げていた巾着袋から大切にしまっておいた指輪を取り出した。
服をまた元に戻すと急いでラインハルトの側に戻り、怪訝そうな相手の手をとって掌に指輪を載せてやった。

「これは君の指輪だろう?この指輪を拾った兵士から、君がここに連れてこられたらしいと聞いたんだ」
ラインハルトには本当の事は言いづらくてルドルフはそんな嘘を吐いた。
ラインハルトは諦めていた指輪が戻った事で有頂天になり、ルドルフがこの指輪を手に入れるためにどんな思いをしたかには考えが及ばない。
だがルドルフは嬉しそうなラインハルトの笑顔を見て、心からよかったと思ったのだった。

「そういえば、君、怪我をしたんじゃないのか?かなり酷い・・・」
ルドルフに聞かれてラインハルトは
「いや、怪我はしていないよ。ただ妖魔族に血を吸われたらしくて酷い貧血で何日もおきられんなかったんだ。
僕がこうしていられるのはリヒャルト殿とテオドール殿のおかげなんだよ」
と言って二人の歩き去った方を向いた。

「ふうん、そうなんだ・・・」
ルドルフはラインハルトが元気そうでよかったと喜ぶと同時に、妖魔族は血を吸うことも出来るのか、と憂鬱な気分になった。
「そうだ、君に見てもらいたいものがあったんだ」
ルドルフはそう言って地面に置いた包みの中からあの遺跡の祭壇に刻まれた神格文字の写しをラインハルトに見せた。

「クラウディアの伯母さんの村の近くの古い遺跡で見付けたんだ。君なら読めると思って。
あの剣の神格文字と似ているような気がするし・・・」
「うん、これは・・・」
ラインハルトが文字を指でなぞりながら読み始めようとしたとき、男がううん、という声を出した。

どうやら意識を取り戻したようだ。
ラインハルトは急いで写しを折りたたむとルドルフに返し、
「これは後で読む。今はコイツの詮議が先だ・・・」
と男に向き直った。

「一思いに殺せ。敵に情けは受けぬ」
嘯く男の髪を掴みラインハルトは思い切り地面に相手の顔を擦りつけた。
「ふざけるんじゃない、お前は妖魔族の手先だな。お前達の陰謀、包み隠さず話して貰おうか」
「だれが・・・、貴様ごときに話すものか。それくらいなら・・・」
男はうっと大きく顔を顰めたが、やがて口から一筋の血流を流しガックリと首を垂れた。

「おいっ、貴様・・・!」
ラインハルトはすぐにその身体を引き起こすが既に脈は無い。
「ラインハルト・・・」
「ちくしょう、せっかくの生き証人だったのに、自害されてしまった・・・!」
ラインハルトはガックリと遺体を地面に下ろした。

やがてその死体は少しずつ霧状となり空気中に四散して行ってしまった。
その様子をルドルフもラインハルトも呆然と見詰める。
「ラインハルト、コイツは妖魔族だったんだ・・・」
ルドルフが呟く。

「ああ、だが妖魔族は強い光が苦手だろう。どうしてコイツは昼日中出歩けるんだ?」
「分からないけど・・・、あのルガニスも割りと平気そうだったよな・・・」
「そうだったな・・・。それにコイツには血が流れていた。色はかなりどす黒かったけど・・・」

血・・・
お前は知らないだろうが人間と妖魔族の混血は結構一杯いるんだぜ―――
マティアスの言葉が不意に脳裏に甦る。

もしかしてこの男もルガニスも人間と妖魔族の混血なのでは・・・
だから昼でも出歩けるし、ラインハルトが張った妖魔族用の結界にも阻止される事無く王城へ入り込めたのでは・・・?
ルドルフはそう思ったが、それを示す確実な証拠は無い。
とすればラインハルトにはまだ言わないほうがいいだろうか・・・

ガサガサと音がしてリヒャルトとテオドールが戻ってきた。
リヒャルトは男が自ら命を絶って霧となって消えたことを聞くと、大して驚いた様子も無く、
「それは残念でしたね。何か情報が得られるとよかったんですが・・・」
と言った。

「今はもう、森の外に難なく出られました。とりあえず、街の外に張られているという結界を越えてみましょう」
とのリヒャルトの言葉に従い、四人は森を抜けるべく歩を運んだ。
何だかんだとこじつけてルドルフの周りをうろうろしたがるテオドールにリヒャルトは先に立って道案内する様言いつけた。
それでもテオドールは満面に笑みを浮かべてルドルフにあれこれ話しかける。
ルドルフはそんな二人にはにかんだような笑顔を見せながら楽しそうに歩いていた。

その様子を見ながら少し遅れて一人後から従うラインハルトは、なぜか落ち着かないものを感じていた。
ルドルフは以前とはどこか様子が違っているように思える。
どこがどう違うのかと聞かれてもうまく答えられないが、少なくともこの間まではあんな風に恥ずかしそうに俯くなんて事は絶対にしなかったはずだ・・・
テオドールにからかわれたのかほんのり頬を染める友の様子にラインハルトは訳も無く苛立った。

結界にさわることなく無事街を離れる事が出来た一行は街道から離れた樹木の木立の中を東へ向けて歩き続けた。
ラインハルトは一気に空間移動するつもりだったが、魔法を使うのはもう少し街から離れてからの方がいいだろうとリヒャルトに言われたのだった。
結局その夜は山中で野宿する事になった。

昼間遠見した街道は早馬が何度も行きかい、緊迫した雰囲気が漂っていた。
僕が歩いてきた時はもっとのんびりしていたのにな、とルドルフが言う。
アルトシュレーゼンの街で牢破りがあったことを四方に伝えているのでしょう、とリヒャルトは答えた。






小さな焚き火を囲みながら途中の宿場町で調達した食料を頬張ると、少し人心地がついて場の雰囲気もずっと和んだ。
女性がいるというだけで随分ちがうもんだな、とラインハルトは心中驚いている。
テオドールなどは顔が緩みっぱなしだ。
リヒャルトも従者ほどあからさまではないが、ルドルフに対する態度は自分に向けられるものとは明らかに違っているのが感じられた。

ルドルフは剣士としてのリヒャルトの腕前にたいそう興味を引かれた様子で、一度手合わせしてもらえないか、などと頼んでいる。
特にリヒャルトの持つ剣には強い関心を示し、その手にとって見せてもらったりしていた。
リヒャルトの剣は柄の部分が竜の形になっていて、その目に当たる部分には七色に光る石がはめ込まれていた。

ルドルフは立ち上がって剣を抜いてみる。
刀身から放たれる氷のような冷たい輝きをルドルフはうっとりと見詰めてから剣を鞘に戻してリヒャルトに返した。
全く仕方ないな、黙って座っていれば本当に綺麗な王女様だというのに・・・
こんなところは相変わらずルドルフらしくてラインハルトは思わず嬉しくなった。

「この石は不思議な石ですね。見る角度で色が違って見える」
ルドルフに言われリヒャルトは
「これは竜眼石といわれる珍しい石でね。竜の目もこんな風に光の当たる角度で色が違って見えるといわれていることからその名が付いたようですよ。
今ではもう採掘されていないので大変貴重なものになってしまいましたが・・・」
と答えた。

「竜の目・・・」
ルドルフは同じような輝きを放つマティアスの瞳を思い出して呟いた。
「伝説の生き物、と言われていますがね」
「へえ、こんな目の生き物が本当にいたんですかね?」
テオドールが疑わしそうな声で混ぜ返す。

「さあ、どうだかな。でも実際こんな目をした生き物がいたとしたらさぞかし綺麗なことだろうな」
「竜が、ですか?」
「馬鹿、目のことだよ」
二人の会話に
「すごく綺麗だよ、きっと・・・」
とルドルフも呟くように言った。

「で、王子様方はやはりフィルデンラントに向われるおつもりで?」
リヒャルトの問いにラインハルトは
「ああ、一刻も早くヴィンフリートに会って真実を伝えなければ」
と勢い込んで答える。

ラインハルトは同意を求めるつもりでルドルフのほうを振り向いたがルドルフは
「僕は・・・」
と困ったように口ごもってしまった。
驚きの表情で自分を見つめているラインハルトの視線を充分意識しながらもルドルフは
「僕はまだこの国でやらなくちゃいけないことがあるんだ、だから君と一緒にフィルデンラントには行かれない・・・」
とはっきりと言った。

「どうして・・・」
ラインハルトは呆然として次の言葉が見付からない様子だ。
「ここは僕の国だからね・・・。でも君は国へ帰らなくちゃ。君が故国へ向う船に無事乗り込むまではちゃんと見届けるつもりだから」
ルドルフはラインハルトの保護者のような口調で言う。

「そんな、だって、君は・・・、この国にいたら危険だ。いずれ捕まって処刑されてしまうんだぞ」
「そうかもしれないけど・・・」
ルドルフはフランツの事がハッキリするまではこの地を離れたくないと思った。
いつかは離れなければならなくなるにしても、そのときはフランツも一緒だ・・・

だが、フランツのことを話せばマティアスのこともここにいる皆に話さなければならなくなる。
ルドルフはマティアスとの事は誰にも話したくないと思った。
この自分が女扱いされた挙句、完全に手玉に取られたなんて絶対に知られたくない。
ラインハルトが自分の真意を測りかねてうろたえているのがわかり、ルドルフは申し訳ないとは思ったが、いま自分がこの地を離れてしまえば二度とフランツに会う機会は無くなる、そんな気がしてならないのだった。

「とにかく君はこの国にいてはいけないよ・・・」
ラインハルトにはそれしか言えなかった。
「でも、フィルデンラントにも妖魔族の手が及んでいるのだろう、だったら・・・」
どんな事があったって僕が君を守るよ、僕の故国では誰だろうと君に手出しなどさせやしないさ・・・
ラインハルトはそう言いたかったがリヒャルトとテオドールの前ではどうしても言葉にすることが出来なかった。

「まあまあ、王子様。ルドルフ様には何か考えがあるようだし、今後の事は夜が明けてから考える事にして少し身体を休めようじゃないですか」
いくら話し合っても平行線だと思ったのか、リヒャルトがそう言葉を挟んだのを機に皆は仮眠をとることにした。

リヒャルトが自分は眠らなくても大丈夫だ、と言うので彼に見張りを頼む事にした。
ラインハルトはリヒャルトが普通の人間ではないらしいことに薄々気付いているが、何も知らないルドルフはかなり恐縮している。
それでも、休むように再三言われて素直に横になった。

身体を横たえ目を瞑ってみたがラインハルトは眠る事などとても出来まいと思う。
一昨日からこっち、あまりにもいろいろなことが次々と起こって、自分でもかなり興奮気味だ。
脱走に成功して妖魔族に襲われて、そしてルドルフと再会して・・・

ラインハルトは少し離れた場所に横たわるルドルフをそっと見遣る。
ルドルフは向こう側を向いて眠っているため顔は見えないが、こうして手を伸ばせば届く距離にいる・・・、それだけでラインハルトは心が落ち着くような気がした。
君が突然現れた時はとても吃驚したけど、でも本当に嬉しかった。
もしかしたら君はアルベルトともう大陸に渡ってしまったかと思っていたから・・・

ラインハルトはルドルフから受け取った指輪を手の中で弄んだ。
もう見付からないだろうと諦めていたこの指輪を君が持ってきてくれた。
自分の身が危険な事は充分すぎるくらい分かっていたろうに・・・
だから今度は僕に君を助けさせてくれよ―――

ルドルフは軽い寝息を立てて寝返りを打つ。
こちらを向いたその寝顔は汚名を背負って逃亡中の身の上とは思えないほど穏やかだ。
ラインハルトは魔導士として王子ルドルフと共に過ごした数日を懐かしく思い出す。
あのころの屈託の無い笑顔をきっと取り戻させてやるから、だから一人でこの国に残るなどと言わないでくれ・・・

その様子を見張りにたったリヒャルトは軽く目を細めながら見遣った。
どうやら王子様は王女様に惹かれているらしい。あまり自覚はないようだが
だが残念ながら王女様の心は他にあるようだ。
まあ、二人とも若い。本当の恋はこれからだろうな・・・

リヒャルトはそんなことを考えながら遠くに目を転じる。
傍らではテオドールが呑気そうに鼾をかいていた。
日の出を迎えリヒャルトは他の三人がぐっすり眠っているのを見て、そっと抜けだして周囲の様子を見に行った。
自分達の逃げ出した後のことがやはり気になっていたのだ。
リヒャルトの目と耳は常人では捉えるこの出来ないような遠くのものを見聞きすることができる。
なにか情報が得られるかもしれない・・・

その気配にラインハルトも目を覚ましたが、ゆっくりと起き上がったときにはリヒャルトの姿はもう消えていた。
テオドールは向こうで高鼾をかいている。
隣に横たわるルドルフもまだよく眠っているようだ。
ほんの少しばかり開かれた唇が妙に肉感的で、ラインハルトはそっと指でその輪郭をなぞってみた。

暖かく柔らかなその感触にラインハルトは慌てて指を引っ込める。
ルドルフの口からは小さな声が漏れた。
いけないと思いつつもラインハルトはもう一度その唇に指を触れた。
瑞々しく濡れた薄紅色の形のいい唇は朝露に濡れたばらの花弁が甘く蝶を誘うように小さく震える。

ラインハルトは自身のうちに、その唇に自らのそれを重ねてみたいという思いが突如湧き上がってきたことに驚いて慌てて手を離した。
身体のうちを突き抜けるような生まれて初めての感覚にラインハルトはかなり戸惑いながら自分は一体どうしてしまったのだろうと思う。

いくら少女の姿をしているといっても相手はルドルフじゃないか。
仲のよい友人でともに妖魔族を倒すことを誓った大事な仲間だ。
それなのに・・・
僕は少しおかしい、ルドルフが女の子だと分かってから、いや、ルドルフが女の子の服を着て目の前に立ったあの時から・・・

相手の目が開かれる気配にラインハルトは慌てて立ち上がると急いでリヒャルトの後を追った。
リヒャルトは小高くなった丘に立って辺りを見回している。
「どうしたんですか、何か気になることでも?」
ラインハルトは平静を装って背後からそう尋ねた。
大地に引かれた一筋の線がくっきりと見える。
その線が一昨日自分達が夜明かしした辺りで途切れているのがラインハルトは少し気になった。

だが、「ああ、王子様」と言って振り向いたリヒャルトはまったく別のことを言う。
「街の様子がやはり気になりますからね。目立った動きはまだないようですが。
もしかしたら我等が逃げ出した事は無かったものとして処理されるかもしれません。得体の知れない男三人がいなくなったところで軍人達にはどうということは無いのでしょう、それより自分達の首の方が可愛いようだ」

「そうですか・・・」
後方部隊ということもあって軍規は弛んでいるようだ、まああのテレシウスの配下なら押して知るべしか、とラインハルトは思う。
「貴方を襲ってきた男ですが、あの男はアルトシュレーゼンの軍とはまた別の関係のようですね。
あの男を差し向けた者も、彼が戻らないので何かあったと察しているとは思いますが・・・」

あの男はヘルムートと通じている妖魔族の配下だろう。
グリスデルガルド軍とは別行動のようだが、どういう関連があるのかラインハルトにはよくわからない。
ただ、あの男が戻らない事がはっきりすれば別なものを差し向けてくるだろうことは容易に想像できた。

「魔法を使うのはあまり得策ではないかもしれませんね。この国には魔導士の類はあまりいないようだ。特に貴方のように強力な力をもった魔導士は」
「魔法を使えばすぐに足が付く、ということですか・・・」
リヒャルトは頷く。
「魔法を使えば大気が揺らぐ。その微妙な揺れを妖魔族なら読み取れるのでしょうから・・・」

「時間はかかるが徒歩でディーターホルクスへ向かった方がいいという事なんですね」
「ほかに大きな港があればそちらへ回ったほうがいいとは思いますけどね」
「大きな港・・・ねえ」
ラインハルトが頭を捻った時、
「それなら南部にもう一つ、港はあります。貨物船が主に付く港ですけど」
と言う声がして、ルドルフが駆け寄ってきた。

すぐ後ろには自分達とルドルフと二つの荷物を抱えたテオドールがヒイヒイいいながら従っている。
「王女様は足がお速い、いや全くカモシカのようなおみ足で」
ゼイゼイ息を切らしているテオドールにルドルフは
「だから自分の荷物は自分で持つと言ったのに・・・」
と笑いながら言う。

「女性に荷物なんか持たせられませんよ、男が廃ります」
「お前の男なんか、とっくに廃ってるだろうが」
そう言ってテオドールの額を軽く小突くとリヒャルトは
「では、その南部の港へ向かう事にしましょう」
とラインハルトとルドルフを交互に見ながら言った。

「そうですね、そのほうがいいでしょう。ディーターホルクスはなにかと物騒だ」
リヒャルトの言葉にルドルフも頷く。
あの街では自分はいろんな人間に姿を見られすぎた、とルドルフは思っていた。
さっそくアルベルトが用意してくれた地図を荷物から引っ張り出し、最短の道を探す。
ともに揃えてくれた方位磁石も役に立った。

わいわいと今後の進路を相談していると切迫した気分も薄れ、なにやら楽しくなってくる。
ルドルフはラインハルトが王子だと分かる前一緒に遠乗りしたときの事を思い出して楽しそうな笑顔を向けた。
ラインハルトはそんな相手の笑顔が眩しすぎてふいと顔を背けた。
先ほど指に触れた柔らかな感触が甦ってきて身体が熱るのを止められなかった。

ルドルフは一瞬ほんの少し寂しそうな顔をみせたがすぐにテオドールの軽口に注意を引かれその相手を始めてしまった。
ルドルフはいろんな国を旅したというリヒャルトの話が興味深くてたまらないらしい。
自分の両親のことをも含め次々とリヒャルトを質問攻めにし、リヒャルトは飽きもせず一つ一つ丁寧に返事をしてやっていた。
それにテオドールが時折茶々を入れ三人は楽しそうに談笑しながら歩いていく。
ラインハルトはそれを見ないようにして少し遅れて歩を運んだ。

それでもラインハルトに気を使ってかルドルフは時折振り向いていろいろ話しかけるが、ラインハルトがあまり会話に乗ってこないので、しまいにはもう振り向かなくなった。
ルドルフは自分の態度を変に思っているだろう、だがラインハルトはルドルフの顔を見るとどうしても唇に視線がいってしまい、まともに向き合えないのだった。
これまでずっとラインハルトは少しでも兄の力になるべく魔法の習得に明け暮れ、女の子と接触したことなどほとんどないのだ。
それでも来年十六になったら公爵領を継ぐと同時に結婚することになってはいるのだが・・・

ヴィンフリートからは三人いるお妃候補から一人選ぶように言われたが、その頃はそんなことには全く興味のなかったラインハルトは僕は誰でもいいからと、この国のために一番益になる相手を選んでくれるよう兄に言ってしまった。
兄が誰を選んだのかはまだ聞いていないが、いずれも主要国の王族や貴族の娘で一度も顔を見た事も無い相手ばかりだ。
誰が相手でも一緒だ、とその時のラインハルトは本気で思っていたのだが・・・

ラインハルトは前方を談笑しながら歩くルドルフの姿をちらと眺める。
例えルドルフが何といおうとこの国に一人置いていけるわけは無い。
いざとなったら力ずくでもフィルデンラントに連れて行こう、相手は女の子だし自分には魔法もあるから何とかなるだろう、ルドルフは怒るかもしれないがそのほうが結局は彼女のためにもなる、ラインハルトはそう思って相手の後姿を見詰め続けた。