暁の大地


第九章




グリスデルガルド
南部に続く街道沿いの山中

街道沿いの小さな街でラインハルトとテオドールはルドルフがアルベルトから分けてもらった路銀で大量の食料を買いだした。
ついでに街中の噂話をさりげなく聞いて回ってみたが、アルトシュレーゼンの火事は火の不始末によるボヤ騒ぎ、とういことで決着がついたようだ。
それよりも一夜にして街の一部が壊滅的な打撃を受けたことのほうが重大に受け止められているようだった。

草原から街を取り囲む森の一部まで巨大な岩石でも転がったように草木や建物が押しつぶされ、外形を留めないほどに破壊されてしまったのだそうだ。
実際見たものの話では黒い霧状のものが凄いスピードで回転しながら転がっていたらしいが、霧が樹木や建物を倒壊させるなど聞いた事が無い。
しかもその跡は大地が焼け爛れてしまい、草木は朽ち見るも無惨な状態となっているらしい。
ラインハルトとテオドールは無言で頷きあった。

あの晩ラインハルトが光の魔法で撃退したあの霧・・・、あの後あの霧は消えうせてしまったが、それほどの被害を齎していたとは・・・
「どうりで追手がかからないわけだ。それどころじゃなかった、ってことだよな」
「そうですね・・・。坊ちゃんがいなければ私らも体中焼かれて野垂れ死にしていたかもしれませんね、ああ全くこんな国に来るんじゃなかった・・・」
テオドールは人前ではラインハルトの事を坊ちゃんと呼ぶことにしている。
ラインハルトは大地に残った一筋の線を思い浮かべ今更ながら身震いした。

ラインハルトとテオドールから話を聞いたリヒャルトは黙って考え込んだ。
見かけ以上の年寄りらしいこの男はその黒い霧について何か知っている、ラインハルトはそう感じ取った。
そしてルドルフもまた・・・
普通だったら興味津々であれこれ詳しく聞きたがるところだろうに、こちらもその話を聞いて考えに沈んでしまった。
一体何を知っているのか・・・

あの時の黒い霧、いきなり目の前に現れ自分を聖少女と呼んだ不気味な霧の塊のことをルドルフは思い出していた。
あの圧倒的な威圧感は決して忘れる事はできないだろう。
そしてあの場には確かにマティアスがいた。
姿こそはっきりとは見えなかったけど・・・

自分を見つめ、名を呼んでくれた。
今ではルドルフはそう確信している。
ルドルフはそっと剣の鞘に触れ、命令が変わって俺はもうこの剣に用はなくなったんだ、と言ったマティアスの言葉を思い出した。

剣に用が無くなれば自分も用無し、そんな事は始めから分かっていることだったはず。
逆にこの剣の奪取を諦めてくれた事はありがたい事なのだろうに、ルドルフは手放しで喜べない自分を感じている。
何故こんな気持ちになるのかな・・・
テオドールの軽口を上の空で聞きながらルドルフは、きっともうマティアスからフランツの情報を得られなくなってしまった事が残念で少し寂しくなっているのだ、と思った。

そんなルドルフの様子にラインハルトはすっきりしないものを感じる。
ルドルフもあの霧のことで何か知っている。
何故それを話してくれないのだろう。
妖魔族に関する事はどんな些細な情報でも欲しいというのに・・・
そういえばルドルフとアルベルトが見つけた遺跡の祭壇に掘られていたという神格文字のことをすっかり忘れていたことにラインハルトは気が付いた。

あの剣の銘とよく似た文字だった、とルドルフは言っていた。
英雄ルドルフの剣―――僕等に血塗られた運命を共に生きよ、と言ったあの剣に刻まれた文字が本当に妖魔族が彫ったものだとは考え難いが・・・
ラインハルトは勢い込んでルドルフの腕を掴むとその耳元で
「あの神格文字の事なんだけど・・・、早く読んでみたほうがいいと思うんだ」
と囁いた。

リヒャルトとテオドールが怪訝そうに見ているがそんなことには構っていられない。
取り敢えず何と彫られているのか確めるまではこの二人、特にリヒャルトには教えないほうがいいようにラインハルトには感じられた。
「うん、僕もずっと気になっていたんだ。でも・・・」
「あの二人に話す前にともかく僕たちで読んでみよう、今夜僕が見張りの時そっと君を起こすから・・・」
「分かった」

ルドルフはラインハルトが前のように話しかけてくれたのがやはり嬉しかった。
何と言っても初めてできた友人らしい友人なのだから・・・
そう思って相手の目を見詰めたルドルフは、何時の間にかラインハルトの背が自分と変わらなくなっていることに気が付いた。
初めて会ったときは少しだけど僕のほうが高かったはずなのに・・・
この時期の男の子は急速に成長するものなのだが、ずっとラインハルトのことを弟の様に思っていたルドルフは正直かなり焦りを感じた。

今まではどこかよそよそしかったのに急に仲良くなった二人を見て、テオドールが人の悪そうな笑みを浮かべてからかってくる。
「遠くて近きは何とやら、とか言いますけど、若いっていいことですね、お二人さん」
ルドルフは何のことだかよく分からなくて怪訝な顔だがラインハルトのほうは心中を見透かされたようで思わず頬を染めた。

リヒャルトはよせ、と言ってテオドールを嗜めるが、これほどからかい甲斐のある獲物は滅多にいないとテオドールはラインハルトの周りをうろついてあれこれ聞き始めた。
「お二人はそもそもどういった馴れ初めで知り合われたんです?」
「馴れ初めって、僕は戴冠式に出るためにこの国に来ただけだよ」

「で、王女様と運命の出会い、というわけで?」
「初めは王子だと思っていたけどね」
「いつ王女様だとお分かりになったので?」
「まあ、いろいろとね」

ルドルフは妙に気恥ずかしくてそんな会話を聞いていられなくて、そっと二人から離れ遅れ気味に歩いた。
戴冠式、と言う言葉で思い出したくないことが胸中に蘇った事もある。
ラインハルトはテオドールのしつこさに舌を巻きながらいい加減この話題から離れたいと思い始めた。

「ご婚約は故国に帰られてから正式に、というわけで」
そう聞かれたラインハルトは思わず
「何を勘違いしてるのか知らないが、僕にはもう婚約者がいるから」
と言ってしまった。
二人のやり取りを聞くとも無しに聞いていたルドルフも思わず顔を上げて前方のラインハルトを見詰める。

「そうなんですか、それはまた・・・」
わざとらしくルドルフを振り返りながら大袈裟に言うテオドールにリヒャルトは
「こちらは八聖国の王子、しかも現王位継承者だ。結婚は国の大事、婚約者くらいいて当然だろう。お前がその辺の娘と所帯を持つようなわけにはいかないんだ」
といって襟首を掴んで強く引っ張ると
「かわいそうに、王子様は困っているじゃないか、いい加減にしてやれ」
と耳元で小声で言って、前方へ放り出した。

「お前は少し前方の偵察でもして来い!」
テオドールがあたふたと行ってしまうとリヒャルトは
「申し訳ない王子様、従者のしつけがなってませんで」
とラインハルトに詫びた。
「いや、別に・・・」
ラインハルトはルドルフのほうをちらりと見るが、ルドルフは
「凄いね、ラインハルトはもう婚約してたんだ。全然知らなかったよ。言ってくれたらよかったのに」
と心底感心しているらしい。

「そう言いふらすような事でもないだろう・・・」
「まだ内密な話なの?だったら誰にも言わないよ。でもお相手は?やっぱり八聖国のどこかの王女様?」
そう無邪気に尋ねる様子からルドルフは自分が婚約していることに対し特別な感情を持ってはいない事を思い知らされ、ラインハルトは軽い苛立ちと落胆を感じた。

「君にとっては僕の婚約なんてどうでもいいことなんだろうけどね」
リヒャルトと少し距離ができたのを見計らってラインハルトはルドルフにそう呟いた。
「そんなことないさ。君にそんなお相手がいたのはかなり驚いたけど、でもおめでたいことだし。僕だって自分の事のように嬉しいよ」
そう言って笑顔を見せたルドルフだがラインハルトは機嫌を損ねたようにフイと横を向くと一人で先に行ってリヒャルトとなにやら話を始めてしまった。

ルドルフにはラインハルトがまた急に気分を害してしまったわけが少しも分からない。
正直ラインハルトに婚約者がいたなんてルドルフにとってもショックではあった。
口にこそ出さなかったがラインハルトよりは自分の方が大人だとずっと思っていたのに・・・
それでもルドルフは、秘密にしていた婚約が図らずもばれてしまってラインハルトも気恥ずかしいのだろう、と思って今後この話題には触れないことに決めたのだった。

その夜街道から大きく南に外れた山中で四人は焚き火を炊いて野宿した。
夜になるとどこからともなくあの凶鳥の声が聞こえてくる。
その声がかなり小さいものである事から、自分達とは相当距離を隔てた場所を飛んでいる事が察せられた。

ラインハルトは躊躇いながらも約束どおりルドルフを起こすと少し離れた場所で小さな火を起こし、ルドルフから渡されたメモを広げた。
ラインハルトがじっとそのメモを見詰めるとルドルフもすぐ側に近寄って一緒に覗き込む。
互いの額が触れ合ってしまいそうでラインハルトは落ち着かないが、ルドルフは何と書いてあるのか早く知りたくてウズウズしているようだ。

「ええと、これは・・・途中からなんで微妙だけど、どうやら神の偉大さを讃えたもののようだな。
かくして公明正大にして慈悲深い我等が唯一の神は忠実な僕である我等に永久に代わらぬ恩寵を約された。
神の栄光は朽ちる事無く我等を照らし導く。神に従う我等には永劫の喜びがあるのみ・・・
大体こんなトコかな。あとは祈りの言葉、或いは呪文のようだ。意味を無さない文字がいくつか羅列されてる」

ルドルフはあの宝剣の銘を読んだ時同様の畏怖と尊敬の入り混じった視線でラインハルトを見つめる。
それが何とも心地よく感じられラインハルトは気分がよかった。
「すごいな、こんな文字が読めてしまうなんて・・・。じゃ、やっぱりあの遺跡は昔の神殿なんだね。
あの時は気付かなかったけど、他にも神格文字は刻まれていたのかもしれない。本当は君にも見に行ってもらえるといいんだけど・・・」
帰国を急ぐラインハルトに無理を言うわけには行かない、ルドルフはそう思って口ごもった。

「その遺跡はクラウディアの伯母さんの村の側だったよね。少し遠回りになるけど出来たらそこへ寄ってみようか」
「本当に?でも君は一刻も早く兄上に会いたいだろう?」
「まあ気は急くけど、妖魔族に関しては資料不足だから、すこしでも彼等を知る手がかりは欲しいからね。君ももし何か知っていることがあれば何でも教えて欲しい」
ルドルフは何かを隠している、そう踏んでいるラインハルトはじっとルドルフを見詰めた。

「うん、そうだね・・・」
ラインハルトの目を見返しながらルドルフは迷う。
マティアスから聞いた話を全部でなくともラインハルトに伝えるべきだろうか。
すくなくともフィルデンラントに関することは・・・
「あの・・・」
ルドルフが口を開きかけた瞬間黒い影がすぐ近くを過ぎった。

一瞬緊張感に身を硬くした二人だがラインハルトが放った魔法の光りに照らし出されたのは夜行性の小動物のようだった。
光を恐れてあっと言う間に深い茂みに逃げ込んでしまったその様子にルドルフとラインハルトの顔には同時に微笑が浮かんだ。
「かわいいな」
「うん」

ルドルフの笑顔を間近でみてラインハルトは心臓が高鳴った。
その視線はまだ茂みの方に向けられたままで、ラインハルトがじっと自分を見詰めていることには少しも気付いていないようだ。
笑みを浮かべたその唇に触れてみたい・・・ラインハルトはそんな思いを懸命に押さえつけた。

「もう戻ろう」
そうぶっきらぼうに言うとサッと立ち上がり、先にリヒャルトたちの眠る場所へと向う。
リヒャルトやテオドールに二人きりでいたことを知られて変に勘ぐられたくなかったこともあるが、これ以上一緒に居ると歯止めが利かなくなりそうだった。

「あ、うん・・・」
ルドルフはまたフィリップ卿という男のことを話しそびれてしまった、と思うとすこし困ったような気分になった。
ラインハルトが急に不機嫌になってしまった理由がさっぱり分からないまま、ルドルフは急いでその後を追った。






フィルデンラント王宮
宰相ヴィクトールの私室

燭台に並んだ蝋燭のうち一本だけに火が灯された薄暗い部屋で腰掛けた二人の男が小声で話し合っている。
ちらつく細い灯りが映し出すのは魔導士風の男の纏う黒衣と、それに向かい合う相手の豊かに波打つ見事な銀色の髪―――

「閣下のご計画は着々と進んでいるようで喜ばしいかぎりですな。私も大層な手土産ができて嬉しゅうございます」
戸口に背を向け腰掛けた黒髪黒衣の男の言葉に
「私の計画に抜かりはないさ。それよりもそちらはどうなっているのだ。ラインハルトもルドルフも未だ身柄を確保できないとはどういうことかな」
と、壮麗な銀髪を軽く掻き揚げて窓辺に座った方が口を開いた。

「まあ、居場所は掴んでおりますので、あの二人に関しては時間の問題。
東方での作戦も順調に展開しておりまして我らの勢力範囲は確実に広がっております。
閣下には心置きなく次の手をお打ちくださいませ、とのフィリップ卿のお言葉でございます」
「ふん、まともに信用してよいものかな」
「ヴィクトール様、わが主フィリップ卿のお言葉にお疑いでも・・・?」

ヴィクトールは口元に皮肉な笑みを浮かべながら、サイドテーブルに置いた血の様に赤いぶどう酒入りのグラスを手に取った。
「本当ならいまごろラインハルトは死体となってこの地に戻ってきていたはず。無惨にも体中の血を抜かれてな・・・
それが未だに行方不明の状態では・・・、いつ舞い戻ってくるかわからない状態で安心して次の手に進む事などできるわけがない」

「そうですね、取り敢えずラインハルト王子の死体が発見されたことを国中にお知らせくださいませ。
遺体は損傷が酷く現地で葬った事にしてもよいし、後のことなどいかようにも取り繕う事はできましょう。
そうして王子の死を公式のものとしてしまえば、王子を名乗る小僧が何を喚こうがまともに相手にする者もおりますまい。
よしんばいたところで・・・」

「あんな子供一人どうということはない。私が一番恐れているのはケンペスがラインハルトと手を結ぶことだ。ケンペスは私の行動にどうやら疑問を抱きつつあるようだからな」
「フィルデンラント一の猛将ケンペス将軍ですか。あの方は今・・・」

「あいつにはグリスデルガルド討伐の総大将を命じておるのに、未だアディエール郊外に駐屯したままだ。この都の警備が手薄になるのを案じてギリギリまですぐ駆けつけられるよう待機する、というのがその理由だが、このところの急速な動きに軍人としての勘が動いたのかもしれないな」

「まあ、最悪の場合にはこちらで何とかいたしますよ、いつもどおりに・・・」
人を食ったような相手の微笑にヴィクトールは軽く眉を顰めた。
「ルドルフのほうも早晩手は打つつもりですが、こちらはシェリー卿がらみとなりますからね、少しばかり時間が必要なのですよ」

「妖魔族も一枚岩ではない、ということか。笑えんな・・・。にしてもどんな手を打つというのだ?身代わりでも立てるというのか?」
「身代わりがお得意なのはフィルデンラントの方でしょう。危うく我等まで騙されるところだったのですからね。
王子と近衛兵が入れ替わっていたなどと事前にまったく聞いておりませんでしたし・・・
まあ、我等にとってはシェリー卿やその配下がうまく騙されてくれたならば、それはそれで溜飲が下がるものではあったのですがね・・・」

「分かった、では早速偽の早馬を仕立てさせよう。明日の早朝、急使が悲報を齎すようにな・・・」
「では、あとは手はずどおりに」
その言葉と共に男の姿は消えうせる。

ヴィクトールが燭台の蝋燭の数を増やすと部屋は一気に明るさを増した。
壁一面にかけられた勇壮な柄のタペストリーが鮮やかに浮かび上がる。
「妖魔族は光が苦手・・・か。まあ、そうでなければこの世はとっくに奴等のもの、いや本当はそうであったのだよな・・・」
ヴィクトールはそう呟くと呼び鈴を鳴らしヘルムートの変わりに側仕えに召抱えた新しい従僕を呼んだ。







グリスデルガルド
南部に続く街道沿いの山中

翌朝になるとラインハルトは明らかにルドルフとは少し距離を取り碌に口も利かなくなった。
その変化にテオドールはあれこれラインハルトをからかうが、ラインハルトは努めて聞き流すことにしたため、テオドールもとうとう諦め矛先をルドルフに向けてきた。

「王女様、また何かあったんで?」
テオドールの問いに
「何かって?」
とルドルフはわざととぼけて見せた。

「何って、だから王子様とまた何か・・・」
「何もあるわけ無いだろう。ラインハルトには婚約者がいるんだし。僕だって・・・」
その言葉にテオドールは俄然色めき立つ。
「王女様も婚約者がいらっしゃるので?」
「そんな者いるわけ無いさ。僕は兄に一生を捧げると決めたんだから、結婚なんかしないよ」

二人の会話はラインハルトにも充分聞こえていたが、ラインハルトは聞こえないフリをして黙って先を歩き続けた。
「そんな、勿体無い。王女様なら引く手あまたでしょうに・・・。それに王女様の兄上様、フランツ王子様はお亡くなりになったことだし・・・」

その少し無神経な物言いにラインハルトが嗜めようとした時、
「フランツは死んでなどいない!」
とかなり強くルドルフが叫んだので、ラインハルトのみならずリヒャルトまで振り向いた。
「どうしたんだ、ルドルフ」
ラインハルトに尋ねられルドルフは口ごもりながら
「あ、いや・・・、何でも無いんだ。すまなかったな、大きな声を出して」
と気まずそうに答え、俯いてしまった。

テオドールはリヒャルトからゲンコをもらい、また前方の偵察へと向わされる。
「本当にアイツは無神経で申し訳ない。あとでうんときつく言っておくから・・・」
リヒャルトに言われルドルフは
「いや、でも僕はフランツが死んだとはどうしても思いたくないんです」
と呟くように言った。

フランツは生きている―――そのマティアスの言葉に嘘があるとは思いたくなかった。
フランツの死を認めたくない思いとマティアスの言葉を信じたい思い、そのどちらも同じくらい強かった。

まったくブラコンめ・・・、自分の事は棚に上げてラインハルトは心中呟く。
ルドルフは一生兄に仕えるのだと常々言っていたことを思い出す。
ラインハルトは微妙に気付いていた。ルドルフがアルベルトに兄の面影を見ていることを・・・
アルベルトは僧侶だし、そういう対象にはならないと分かっていてもラインハルトはルドルフが何かと自分よりアルベルトを頼るのが正直面白くなかった。

兄貴が一番か。まあ人の事は言えないか
でも・・・
ラインハルトはいくら見ないようにしても視線がついルドルフに向いてしまうのを自分でも腹立たしく思った。
あの唇に触れてみたい、あの身体を思い切り抱き締めてみたい―――
こんなことを思う自分はどうかしている、そう思いながらもラインハルトはそんな思いを堪えるのに必死だった。

その夜はやけに凶鳥がうるさく騒ぎ、皆ぐっすりとは眠れない嫌な一夜を過ごした。
またあの黒い霧の塊が大地を蹂躙しているのだろうか、とルドルフは夢現にぼんやりと考える。
フィルデンラント方面の軍事行動はフィリップ卿という男が担当で、そのフィリップ卿はクラウディアの村を襲い、ラインハルトの血を持ち帰った―――
そんな言葉が凶鳥の声と共に頭の中に何重にもこだまして響く。

あの時言いそびれてしまったが、本当はこのことをラインハルトに伝えなくては・・・
話しかけるのは少し気まずいが、でも大事なことだし、なにかきっかけを掴んで―――
翌朝目覚めて四人は一様に異変に気付いた。
北のほうの空が、もう夜が明けてしばらく経つというのに少しも明るくならないのだ。
どんよりと真黒な雲に覆われた空には無数の凶鳥が飛び交っていた。

絶句するルドルフとラインハルトにリヒャルトは
「どうやら妖魔族の力が格段に強まったようですね。一体何が起こったのか・・・」
と小さく呟く。
「夕べはあの凶鳥がやたらにうるさかった。またどこかの村でも襲っているのかと思ったが・・・」

ラインハルトの言葉にルドルフは
「なんだか嫌な予感がする。どこかで情報を集めたほうがよくはないか・・・?」
と青ざめた顔で言った。
「そうですね・・・」

地図を広げながらリヒャルトは
「ここから東へ進んで南東の街道へ出ましょう。ディーターホルクスから南の港へ延びている街道です。その宿場町で少し情報を集めましょう、少し遠回りになりますが」
と言ってラインハルトを同意を求めるように見詰めた。

「ああ、そのほうがいいだろう」
ラインハルトもすぐに頷く。
「その街道ってもしかして・・・」 地図を覗き込んだルドルフはその街道がクラウディアの伯母の村へ行くとき通った街道の延長にあたる事に気付いた。

ルドルフの話にラインハルトも興味を示し、
「どうせならその遺跡に行ってみるか」
と言い出した。
緊急事態に強張ったラインハルトの顔は昨日までの気まずい雰囲気などすっかり忘れたようだ。

ルドルフも「そうしてもらえるなら」と一も二も無く賛成する。
「前に行ったときはあのルガニスが現れたんだろう」
ラインハルトにそっと聞かれルドルフは黙って頷く。
「だとしたら、その遺跡はかなり妖しい。もしかしたら奴等の弱点を知る手がかりが掴めるかもしれないしな」

そう言って強気に笑うラインハルトは王子付の魔導士として接していた頃に戻ったようで嬉しくなったルドルフは、酒場で小耳に挟んだということにして妖魔族のフィリップ卿のことをラインハルトに話して聞かせた。
ラインハルトはよくそんな情報がつかめたな、とアルベルト同様の感想を述べた後、なんとも険しい表情をした。

船上で自分とであったヘルムートは早速そのフィリップ卿にご注進に及び、自分はディーターホルクスの丘で奴に襲われるハメに陥った。
アルトシュレーゼンの森で襲ってきたのはその男の配下のものだろう。
その後刺客を差し向けてこないのは自分が魔法を使わないせいで足取りがつかめずにいるためか、ほかに理由があるのか・・・

「教えてくれてありがとう、他にもなにか知ってたら隠さず教えて欲しいんだけど・・・」
ラインハルトにそう言われルドルフは山中の峠で黒い霧に遭遇したことも話すことにした。
黒い霧が自分の事を聖少女か、と尋ねた事を・・・
「聖少女?何のことだろうな・・・」
「さあ・・・」

「でもその時王女様は男の格好をしていらしたんでしょ?なのにどうして・・・」
テオドールに聞かれルドルフは
「うん、僕の顔がどうとか言ってたような気もするけど・・・」
と答える。

「聖少女か、昔聞いた伝説にそんな話があったような・・・」
とリヒャルトが言ったので一同は驚いて振り向いた。

「先史時代の伝説で・・・子供の頃に聞いたので私ももうほとんど思い出せませんが」
「聖ロドニウス教会なら古い史料もたくさんあるだろうし、アルベルトに頼んで調べてもらえば・・・」
ラインハルトはそう言ってルドルフを見詰める。

「そういえばアルベルトはどうしているだろう。無事帝国に帰りつけたかな」
いまだにオーブを使っての連絡が無いところを見ると、まだ老師と呼んでいた先生とは再会できていないのだろう。
「この海さえ渡ってしまえば帝国まではすぐだ。もしかしてまだディーターホルクスで足止め食らってるかもしれませんね」
テオドールは冗談めかして言ったつもりだがルドルフとラインハルトには冗談には聞こえず、とても笑う気にはなれなかった。






グリスデルガルド
南東の街道

山越えの後数日で街道まで出た一行はあまりの警備の物々しさに言葉を失った。
街道は大きな荷物を馬車や荷車に積んで南へと移動して行く人々で一杯で、あちこちで早く進めだの車輪が溝に嵌っただの大騒ぎになっていた。
街道の脇では大勢の兵士が等間隔に並んで警備がてら紛争の仲裁に当たっている。
テオドールは警備の目を掻い潜って荷車を押している男にこの有様は一体どうしたことかと尋ねた。

「あんた、何呑気な事を言ってるのかね。フィルデンラントの軍がとうとう動き出したんで、わしら急いで避難しているところさ。
無抵抗のものには危害は加えないなんて言ってるけど信用できるもんか。とりあえず南部の親戚のとこまで行くつもりだけどさ、いずれそこも危なくなったらどうなることか・・・」

「フィルデンラントの軍が攻撃を仕掛けてきたのか?」
「王都に向って進軍を始めたのさ。いまのところ戦闘にはなってないようだけど、進路に当たる村や街じゃ相当な混乱があるようだ。
こっちはいまのところ無事だけどいつ何時戦火が飛び火してくるか分からんからの」

「やけに大人しく駐屯していると思ったが、やっぱり仕掛けてきやがったか・・・」
テオドールの言葉に男は
「仕方ないさ、ラインハルト王子が死体で発見されたんだ、その報復さ。
ルドルフ王子の身柄は未だに見付からないし、フィルデンラントとしては代わりに新王テレシウス様の首を要求しているらしいよ」

「!・・・てことは、つまり・・・」
「要するに、それを口実にこの国を征服しようということだろう。
もともとグリスデルガルドはフィルデンラントの属国、領土の一部みたいなものではあるんだけどさ。
王子様の死をこんな形で利用するなんて大国にしてはセコイやり方だが、わし等にはどうすることもできないしなあ・・・」

テオドールは警備兵が荷馬車同士の揉め事に気を取られた隙にこっそり皆のもとに逃げ戻り、今聞いた話を伝えた。
そのあまりの内容にルドルフもラインハルトもしばらく口も利けなかった。
「何てことだろう・・・、どうしてこんなことに・・・」
「やはりテレシウスは利用されただけだった、とすれば初めから仕組まれていたんだ。
妖魔族とフィルデンラントの間で・・・」

「だけど、そんな」
呆然とするラインハルトにリヒャルトは
「気になっていたんです、急に妖魔族の力が強まった。それには何か訳があるはずだと・・・
妖魔族は貴方の血を欲しがった、貴方は八聖国の王子、僅かながらも神の血を引いている。
奴等の狙いがその神の血なのだとしたら、貴方同様神の血を引いている兄上も、いや、他の八聖国の王族も狙われるはずだ・・・」
と言う。

「まさか、貴方は兄の身にも何か起こったと・・・?」
「そこまでは分かりませんが・・・」
「でも、それなら僕にも少しだけど神の血は流れているはずだ。フランツや祖父マリウスにも。だけど・・・」
そう言葉を挟むルドルフにラインハルトは気まずそうな視線を投げて
「君には神の血は流れていない、恐らくね・・・」
と呟いた。

「ラインハルト、それはどういうこと・・・?」
驚いて目を見張るルドルフの顔がすぐ目の前にある。
リヒャルトやテオドールが側にいなければ強く抱きしめてしまいたかった。
「前にアルベルトと話したんだ。ルガニスと言ったっけ、アイツは僕の血だけを狙ってきた。ということはつまり、君達には神の血は流れていないのだろうと。
英雄ルドルフはフィルデンラントの王子ではなく多分身代わりの・・・」

「そんな!」
思わずよろめいたその身体をリヒャルトが支えた。
何故僕がこんなことを君に言わなくてはならないのか・・・
大きく見開かれた菫色の瞳から視線を逸らしながらラインハルトは唇を噛んだ。

「そんなことって・・・」
「王女様、しっかりして!」
「ああ、大丈夫だよ、すこし驚いただけだ・・・」
ルドルフはそう呟いたがすこしも大丈夫でない事はその蒼白の面が物語っていた。

「すこしお休みになったほうがいい、顔色が悪い」
リヒャルトはそう言って有無を言わさずルドルフを軽々と抱き上げると街道からすこし外れた森の中へと連れて行き大きな木の根元に静かに座らせた。

「坊ちゃん、いくら何でもいきなりあんな話・・・」
「僕だってあんなこと言いたくなかったよ、でもいずれ分かってしまうだろうし」
ラインハルトはリヒャルトと何事か話しあっているルドルフの様子をすこし離れた場所から見遣った。
ルドルフの手はリヒャルトにしっかりと握られその瞳は目の前の相手をひたすらに見詰めている。
そんな友の様子に無性に腹立たしさを感じてラインハルトはプイと視線を逸らせた。

やがてルドルフ一人を残してリヒャルトはラインハルトとテオドールのところへ戻ってきた。
「王女様には少しばかりショックだったようですね。でも、もう落ち着いたようですから」
「リヒャルト殿はあのことを知っていらしたのですか?」

「英雄ルドルフは出征前と戻ってきたときではかなり様子が違っていた事は事実のようですからね。妖魔族との戦いのさなかに何かがあった事は間違いないでしょう。
だからと言ってそれがすぐ別人に摩り替わっていたとも言い切れません、王女様にはそう話しました。
いずれにしろルドルフ一世は建国の英雄である事は間違いないのですから」

「僕は・・・あんなこと言うべきではなかったとお思いですか?」
「いや、そういう疑念がある事はいずれ分かることでしょうから。
それより貴方の兄上の方が気がかりです。貴方は一刻も早くフィルデンラントに戻るべきでしょう。
悠長な事は言っていられない、魔法を使えば妖魔族に知れる危険も増えるが、ここはいっそ魔法で南の港まで移動した方がいいかもしれませんね」

「そうだな・・・」
ラインハルトは俯いたままのルドルフに視線をちらりと投げてから呟いた。
ルドルフが言っていた遺跡のことも気になるが、たしかにリヒャルトの言うとおり一刻も早く帰国した方がよさそうだ。
兄の身に何かが起こっているとしたら手遅れにならないうちに・・・

いっそフィルデンラントまで飛んでしまうか、そんなに長距離を移動した事はないが、自分一人なら何とかなるかもしれない・・・
ただルドルフをこの地において行くことはどうしてもできない、とラインハルトは思った。

「そうだ、あの王女様はいきなり現れましたよね、あの赤いオーブとやらのせいで。あれを使えば・・・」
テオドールが思い出したように言う。
「そうか、忘れていた。あのオーブはそういう使い方が出来たんだ」
ラインハルトは勢い込んでルドルフの側へと飛んで行くと、
「ルドルフ、あのオーブを貸してくれ、あれで一気にフィルデンラントへ飛ぶんだ!」
とやや興奮気味に言った。

「え、ああ・・・」
ルドルフは上着のポケットからオーブを取り出してラインハルトに渡しながら
「一気にって、今から?」
と尋ねる。
その顔色は未だすこし青ざめていたが、新しい考えに夢中のラインハルトにはそれに気を使うだけの余裕がなかった。

「ああ、ヴィンフリートのことが気がかりでしょうがないんだ、少しでも早く故国に帰った方がいいと思う。これを使えば一飛びにフィルデンラントへ戻れる」
ラインハルトは手に取った赤いオーブを日の光にさらして見た。
このオーブに魔法で強い光をあて、同時に移動の魔法をかければ、グリスデルガルドの王宮から逃げ出せたように長い距離を移動できる、ルドルフが自分のもとへ現れた時のように望む場所へと着けるだろう

帰国の希望に輝くラインハルトの瞳を見上げながらルドルフはぼんやりと思う。
ラインハルトが自分によそよそしかったのは自分がフィルデンラントの王族とは縁もゆかりもない人間だと分かったからという理由もあったからかもしれない。
フィルデンラントとしては長年に渡り騙され続けてきた事になるのだ、ルドルフ王子の身代わりだった男とその子孫に―――

「帰国の目途が付いてよかったね、ラインハルト」
ルドルフはそう言ってゆっくりと立ち上がった。
「ああ、兄のこともあるけど、これで一つ心配事が減るよ。君の安全を確保できる。兄に真実を話してフィルデンラントの軍がテレシウスを討ち取ったら君は晴れて・・・」
ラインハルトはそこまで言って不意にルドルフに微妙な表情に気付き、
「どうした?君も勿論一緒に行くだろう・・・?」
と尋ねた。

「前にも言ったけどラインハルト、僕はフィルデンラントには行かないよ。僕はここに残る。まだしなくちゃいけないことがあるんだ。このオーブは君が持っていてアルベルトに返してくれ」
ルドルフはそう言って笑った。
「何を馬鹿なこと、君を置いて僕一人帰れるわけないだろう」

「僕の事は心配要らない、そんなことより君は兄上の事だけ考えなくちゃ。
兄上は君が死んだと思っているのだろう。君の無事な顔を見たらきっととても喜ぶ」
「だから君も一緒に」
「これ以上君に迷惑をかけるわけにはいかないよ。この国の事は僕が・・・」

「君一人で何が出来るって言うんだ。いい加減に人のいう事聞けよ!」
ラインハルトはそう言ってルドルフの手を掴むと引き摺るようにリヒャルトのところに戻り、
「善は急げだ、僕は早速このオーブでフィルデンラントへ向おうと思います。あなた方も一緒に・・・」
と言う。

「はい、そりゃあありがたいことで」
とテオドールが満面の笑みで揉み手するのを襟首を掴んで引っ張ると
「いや、私たちはもう少しこの国を旅してみます。こうして今この地にいるのも不思議な縁、私はこの国の行く末を見届けたいと思いますので」
とリヒャルトは言った。

「ご、ご主人様・・・」
「情けない声を出すなよ、テオドール。生涯に二度とは出来ない体験になるかもしれんぞ」
リヒャルトは続けてラインハルトに
「兄上のご無事をお祈りしていますよ」というと耳元に口を寄せて
「ついでに王女様と上手くいくように、ね」
と言ったのでラインハルトの頬は真赤に染まった。

「ま、そのためにも魔法だけでなく腕っ節の方も少しは鍛えないとね」
そう言ってリヒャルトはラインハルトの方をポンと叩いた。
その様子をまだ腕を捕まれたままのルドルフは怪訝な顔で見上げる。

リヒャルトとテオドールが街道に出、南に向けて歩き去るのを見届けてからラインハルトは掌にオーブを載せ徐に呪文を唱えた。
もう片方の手はまだルドルフの腕を掴んだままだ。
そうしていないとこの王女様はさっとどこかへ姿を消してしまいそうで、ラインハルトとしては心配でならなかった。

「ラインハルト、僕は本当にこの国を離れたくないんだ。だからフィルデンラントへは・・・」
ルドルフはなおも言い続けるがラインハルトは軽く無視して光の魔法を発動させる。
「あの遺跡の事も気になるし・・・」
赤いオーブに光が差し込み全体が鮮やかに輝きだしたのを見計らってラインハルトは空間移動の呪文を唱えた。

思い描くは住み慣れたフィルデンラント王城、ヴィンフリート国王の私室―――
だれが妖魔族との内通者か分からないうちは滅多な人間に会いたくなかった。
「ラインハルト、頼むからこの手を離して!」
ルドルフは懸命にラインハルトの手を振り解こうとする。

今この国を離れたらもうフランツと会えるかどうか
そして、マティアスとも・・・
いや、フィルデンラントには行きたくない―――
その瞬間真紅の光りが弾けてルドルフは身体が吹き飛ばされるような衝撃を感じた。






フィルデンラント
王城
国王ヴィンフリートの私室

目を射るような眩い光に思わず閉じた目を開けた瞬間、ラインハルトの視界には懐かしい兄の部屋の風景が映った。
よかった、思い通りの場所に飛べた、そう安堵したのも束の間、共に移動したはずのルドルフの姿が何処にもないことにラインハルトは愕然とした。

彼女が手に持っていた荷物はちゃんと足元に落ちているというのに本人の姿だけが見当たらない。
どういうことだ、あれほどきつく腕を掴んでいたのに
このオーブで飛べるのは一人だけなのか?
いや、そんなはずは・・・

ルドルフはグリスデルガルドの地を離れるのを嫌がっていた。
まさか、彼女は自分の願う場所に飛んだ、とでも言うのだろうか
しばし呆然としていたラインハルトだが部屋の外に人が立つ気配に慌てて荷物を引っつかみ仕切りのカーテンの陰に身を隠した。
ヴィンフリート一人ならいいが、他の者には極力姿を見られたくなかった。

やがてゆっくりと木製の重厚なドアがいやな音を立てて開かれ、カツカツという足音と共に数人の人声が聞こえて来た。
戸口辺りでしばらく何事か話し合っていた後、二人の足音と話し声が奥へと入ってくる。
そのうちの一人はヴィクトールだということにラインハルトはすぐに気付いた。
だがもう一人は・・・
ヴィンフリートの声と似ている気もするが微妙に違う。
ラインハルトはそっとカーテンの陰から覗いてみた。

「国王ぶりもなかなか板についてきたな、クリストフ」
「ありがとうございます、宰相閣下。僕が少しでも国王陛下のお役に立つ事が出来ればこんなに名誉な事はありません」
「ああ、その調子で頑張ってくれ。陛下に昔から仕えてきたものは殆ど遠ざけたからまず、お前が影武者だと見破られる事はあるまいが気をつけるに越した事はないからな」
「はい」

「では、今日はもう休め。私以外のものが来ても応対する必要はないぞ」
「心得ております」
衣擦れの音と共にヴィクトールが立ち去るのをじっと身を潜めてやり過ごしたラインハルトはドアが開き再び閉じられてからもしばらくはそのまま隠れ続けた。

クリストフという名の影武者はホッと一息つくとソファに身を投げ出し大きく伸びをした。
ラインハルトが隠れている事など少しも気付いていない様子でクリストフはやがて寝息を立て始めた。
クリストフがグッスリと寝入るのを待ってからラインハルトは音を立てないよう気をつけながら前に回ってその男をじっと眺めた。

声もだが、顔だちも姿もヴィンフリートによく似ている。
今は瞑られている瞳も開けばおそらくは自分と同じ薄水色をしているのだろう。
遠目には分からないだろうがごく近くで見れば別人とすぐ分かる。
長年仕えているものなら一目瞭然だ。
ヴィクトールはそのため古くからヴィンフリートに仕えているもの達をすべて遠ざけたのだろう。

こうして影武者を立てたという事はヴィンフリート本人は一体どこへ行ってしまったのだろう。
それが兄の意思によるものでないとすれば、黒幕はあのヴィクトールということになるが・・・
ラインハルトはカーテンの紐を魔法で長いロープに変え、クリストフを椅子に縛り付けるとその頬を軽く叩いて目を覚まさせた。

ぐっすり寝込んでいたところを起こされ眠そうに目を開けたクリストフは目の前に立った少年に驚いて目を見張った。
「お、お前は何者・・・!」
大声を上げようとした相手の喉元にラインハルトはテオドールから分けて貰った短剣を押し当てる。

「静かにしろ。僕に何者か聞く前にお前のほうこそ何者か答えるがよい」
喉に押し当てられる冷たい感触に目を白黒させながらクリストフは
「余はフィルデンラント国王ヴィンフリートである・・・」
と恐る恐る答える。

「笑止!この僕の顔が分からない国王などいるものか。貴様なぜ兄のフリをしている。正直に答えぬと命はないぞ」
そう言ってラインハルトはさらに強く短剣を押し当てた。
「あ、兄・・・、ということは、貴方はラインハルト王子!」
「その通りだ」

「だが、ラインハルト様はお亡くなりになったはず。そのため国王陛下も・・・」
おたおたと答えるクリストフの答えにラインハルトはフィルドクリフト家の紋章入の指輪を見せた。
クリストフの指には同じ指輪が嵌っている。
それを横目で見ながらクリストフは
「ああ、ではラインハルト様はご無事でいらしたのですね」
と呟いた。

そのクリストフにラインハルトは
「ヴィンフリートがどうしたというのだ!」
と厳しい口調で尋ねた。
「王子様が亡くなられたと聞いて国王陛下はたいそうなお力落としで・・・、ヴィクトール様のお話ではそのまま病の床につかれてしまったと」

「何だって!?それは本当か!?」
「わ、私は国王陛下にお会いできるような身分では在りませんので、よく分かりませんが大層重いご病気の様子です。
国王陛下は未だ独身、万一の場合唯一の王位継承者であるラインハルト王子もお亡くなりになったとあっては王家の直系は絶えてしまう、そうなれば当然後継争いで国は乱れる事になる。だから・・・」

「だから?ヴィンフリートが重体なのは分かったがそれとお前が影武者をやっているのとどんな関係があるんだ?」
「ヴィクトール様としては次の国王様の手配が完全に終わるまで混乱はお避けになりたいのだと思います。
私は貴族の出身ですが母の身分が低いためずっと田舎の父の領地で育ちました。そこへたまたまヴィクトール様が視察にお見えになって私を召抱えて下さったんです。
まさか国王陛下の影武者をする事になるとは夢にも思いませんでしたが、私は国王陛下に似ているとのことで」

「ああ、よく似ているな。ヴィンフリートのほうが目の色が少しだけ薄いが、遠目にはそれと気付くものはまずいないだろう。長年慣れ親しんだ側仕えの者どもはヴィクトールがすべて遠ざけたんだろうし」
「私は、宰相閣下から国のためになる大変名誉なお役目だと言われました、でなければお引き受けしたりしません」
その必死の形相にラインハルトは短剣を喉から離した。

確かにコイツはヴィクトールに上手く乗せられただけだろう。
しかし、次の国王の手配、とは・・・
「お前はヴィンフリートが今どこにいるか知っているのか?
お前の話では重体で命も危ないのだろう?この王城のどこかでひっそりと看病を受けているのか?」
ラインハルトはソファの肱あてに腰掛けてそう尋ねた。

「私には分かりません。ただ、ヴィクトール様は夜時々王城の中を歩き回っていらっしゃいます。
私は一度どこへいらっしゃるのかと思いこっそり後をつけてみたことがあります。
西の塔への渡り廊下の辺りで見失ってしまいましたが」

「どういうことだ?」
「王子様はご存知でしょうがあの渡り廊下は一本道で隠れるところもないのに、閣下がその廊下に入って間も無く私が覘いたときには閣下のお姿は廊下のどこにも見えなかったのです。
早足で駆けても渡りきれる距離ではありませんし、おかしなことなのですが」

「なるほどな」
ラインハルトはしばし沈黙の後
「お前はヴィンフリートの後釜に誰を据える心算なのかヴィクトールから何か聞いているか?」
と短剣をちらつかせながらクリストフに尋ねた。

「そのようなこと、私にお話になるわけがございません。ただ、次の国王陛下という事になれば資格を持つ者はおのずと限られると」
「そうだな。おそらくはヴィクトールとは母方の従兄弟に当たるクレストン公爵あたりか。
どうだ、ヴィクトールの父前宰相グレゴリウスは?アイツもこの件に噛んでいるのか?」

「さあ、私はグレゴリウス様にはお会いした事はありませんので、何とも言えませんが」
「お前は・・・国家に忠誠を誓うか、それともお前が忠実なのはヴィクトールに対してのみか?答えよ」
ラインハルトは真剣な目でクリストフをじっと見詰めた。

「私が忠誠を誓うのは国家と国王陛下に対してです、ラインハルト様。ヴィクトール様が国家に反逆を企んでいると仰るのなら」
「しっ、滅多の事を言うな、まだはっきりそうと決まったわけじゃない。可能性は少ないがヴィクトールがヴィンフリートの意を受けて動いている可能性もある。だがそうでない場合は・・・」

「王子様、私は貴方に忠誠を誓います。どうかお信じください」
ラインハルトはしばらく考え込んでいたが徐に口を開いた。
「分かった、お前を信じよう。お前はこのまま何も知らないフリをしてもうしばらくヴィンフリートの影武者を続けてくれ。
僕はヴィクトールの真意を探ってみる。言っておくが僕は魔導士だ、おかしなことを考えると・・・」

「分かっております。貴方様を裏切るような事は決して致しません」
その言葉にラインハルトはパチンと指をならす。
その途端にクリストフを縛り付けていた紐はするすると緩み、もとのカーテンの紐に戻って床の上に落ちた。

クリストフからヴィクトールが歩き回るという大体の時間を聞くとラインハルトはその時間までそのまま国王の私室で休養をとることにした。
こうしていてもルドルフが一体どこへ行ってしまったのか気になってしかたないラインハルトだったが、今はヴィンフリートのことが先決と自分に言い聞かせた。