暁の大地


第九章




パンゲア大陸某所

眩い光りのハレーションの中強い力で弾き飛ばされたルドルフはしばらく空中を漂っているような奇妙な感覚を味わった後激しく地面に叩きつけられた。
「っ・・・」
激しい痛みに声も出ない。
これは骨が折れたかな・・・

身動きも出来ず横たわったままルドルフはそっと首を動かし辺りを見回してみた。
辺りは真の暗闇で何も見えない。
ここは一体どこなんだろう
ラインハルトに腕を掴まれ移動した時自分はフィルデンラントには行きたくないと思った。
その途端自分の身体はあの強い光りから弾き飛ばされたのだ。

あの時オーブはラインハルトの意思に支配されていた、そしてその意思に従わないものは異物として排除されたのだ―――ルドルフにはそんな風に思えた。
ラインハルトは無事に故国へ帰れたのだろうか、本当は彼と一緒に行ってあげたらよかったのかもしれない。
ラインハルトも一人ぼっちになってしまったのだから、一緒にお兄さんを助けに行ってあげれば・・・

でも、あの時はどうしてもグリスデルガルドを離れたくなかった。
出来るだけフランツのそばから離れたくなかったのだ・・・
背中の痛みがすこし和らいできたのを感じたルドルフは腕をそっと動かしてみた。
胸に下げた巾着に隠し持ったあの白い石がほんのりと熱を持って温かい。

背中の痛みに耐えながら手探りで巾着から取り出すと、ルドルフはどうにかその石を目の前に持ってきた。
石から発せられた薄ぼんやりとした光でそこが洞窟のような空間になっている事が分かった。
ごつごつとした岩の向こうに何か四角いものが置かれているようだがよく見えない。
両手でそっと石を包むと心が温まってくるような気がした。

フランツ―――
僕はフランツの側に来れたのかな・・・
ルドルフはその石を胸の上に置いたまま静かに目を閉じた。
そのままルドルフは深い眠りに引き込まれた。

どれくらい眠っていたのか、ルドルフはゆっくりと目を開く。
その目に映るのは相変わらずの闇の世界だが背中の痛みはずっと薄らいでいた。
ルドルフはゆっくりと起き上がってみる。
まだ背に鈍痛は残っていたが動けないほどの痛みではなくなっていた。

よかった、骨は折れてなかったらしい、そう思いながら手にした白い石を見下ろす。
石はほんのりと熱を帯びている。
もしかして、この石が直してくれたのか?
不思議な思いで立ち上がってみる。
どうやらここに飛ばされたのは自分の身体だけで荷物は別の場所へ行ってしまったようだ。

荷物の中にはあの剣も入れてあったのに
ラインハルトが持っていてくれるといいんだが・・・
気を取り直して辺りを見回す。暗がりに大分慣れた目に白く光る四角いものが映った。
さっき見えていたのはあれに違いない。
あの四角いものは何だろうとルドルフはずっと気になってならなかった。

石の仄かな光でそれはどうやら透明の素材で出来た棺であることが分かった。
中には長い黒髪の少女が横たわっている。胸で組んだ手には百合の花が握られていた。
綺麗な女の子だな、歳は僕と同じ位かな
死んでいるのだろうか?眠っているようにしか見えないけど・・・

空気の動く気配にルドルフは急いで岩陰に身を隠した。
ここは恐らく普通の人間は立ち入ってはいけない場所だろう、本能的にルドルフはそう思ったのだ。
棺のすぐ側に薄い靄がかかり次第に人の形になった。
妖魔族か?
ルドルフの身体を緊張感が走り抜ける。
その影がすっと片手を上げるとぼうっとした狐火が一つ二つ中に浮かんだ。

その狐火に照らし出されたその人物の顔にルドルフは息が止まりそうになる。
山のような百合の花束を抱えて棺をじっと見下ろしているその男の瞳は、ちらつく光の強弱に合わせて赤から緑へとその色を変えた。
マティアス・・・!

「やあ、久しぶり、レティ・・・」
マティアスはそう呟いてしばらく棺の側に佇んでいたが、やがて膝を折って屈みこむと信じられないほど優しい微笑をその顔に浮かべた。

「君の好きな花を摘んできたんだ。この花、大好きだったろう?」
そう言って手に持った百合の花束を棺の上に置く。
その様子を見ていたルドルフはなぜか胸が締め付けられるような気がして顔を背けた。

あの棺の中に眠る少女はマティアスの恋人なのだろうか
百合の花のむせかえるような匂いの中ルドルフは涙が零れ落ちそうになって自分でも驚いた。
やだ、一体どうしたというんだろう・・・

軽く身じろぎした気配に気付いたのかマティアスは
「誰かいるのか!」
と鋭い声を発した。
「ここは禁断の場所だぞ」
そう言って目の前に躍り出た相手をルドルフは言葉もなくただ見上げた。

「王女様・・・どうしてこんなところにお前が・・・」
マティアスにとってもルドルフがこの場所にいることはあまりにも意外だったようで、そう言ったきり言葉が続かないようだった。
「分からない、気が付いたらここに飛ばされていたんだ。僕は・・・フランツに会いたかっただけなのに」

フランツに?
いや、違う僕は本当は・・・

「驚いたな、お前はホントにとんでもない場所に現れるんだな・・・」
「マティアス、ここはどこなの?」
マティアスの黒衣に残る百合の匂いに酔いながらルドルフは改めて辺りを見回す。

「ここは死者を祀る場所、我らの聖地の一つだ。一族といえどもごく限られたものしか立ち入りは許されない。やはりお前は特別なんだな」
マティアスはルドルフの髪を手にとってそう呟いた。

「僕は特別って、どういうこと?」
「だから、僕、なんて言うなって・・・。でも今日のこの日にここで会うなんてな」
マティアスはとても優しい目でルドルフを見詰める。
そのまなざしを受けるのが気恥ずかしくてルドルフはそっと俯いた。

「今日のこの日に、って言ったけどそれは・・・」
「俺にとっては特別な日だ、そして俺たち一族にとってもな」
マティアスはそう言って棺の方を振り返った。

「この間丘の上にいただろう?君の声が聞こえた。あれは、あの黒い霧の固まりは一体なんだったの、君は僕・・・いや私を助けてくれたの?」
「さあ、どうだかな・・・」
そう言ってルドルフの腕を掴み軽く引き寄せようとしたマティアスは、相手の顔に苦痛の表情が走るのを見て
「どうした怪我でもしたのか?」
と尋ねた。

「うん、さっきここへ飛ばされたとき背中を強く打ったらしい。初めは骨が折れたかと思ったけど背骨が折れたら動けないだろうから大丈夫だったみたい」
その答えにほんの少し眉を顰めたマティアスがそっとルドルフの背に触れると、残っていた鈍い痛みもすっと消えていった。

「あの、今何したの?」
「まあちょっと簡単な回復術をね」
ルドルフは驚いてじっとマティアスを見詰める。
マティアスはその視線を避けるようにルドルフから身を離した。

「さっき、飛ばされたと言ったようだがどういうことだ?」
そう尋ねながらマティアスは棺の側へと歩を運ぶ。
その後を追うような形で棺に近寄ったルドルフはそれには答えず逆に問いかけた。
「すごく綺麗な人だね・・・。この人は誰?君の大切な人なの?」

久しぶり、レティ・・・
君の好きな花を摘んできたんだ―――
そう言った時の甘く優しい声と泣き出しそうなほど悲しそうな瞳はこの少女が彼にとって聞くまでも無く特別な存在であることを物語っていた。

「ああ、確かに大切な人には間違いないだろうな。俺の心は半分死んだままだ、レティが逝ってしまったあの時から・・・」
薄々分かっていはいてもマティアスの口からこうはっきりと言われてしまうとルドルフは切なくてやりきれなくなった。

「どうした、泣いてるのか?」
「まさか!泣いてなど」
そうは言ったものの声に心の動揺が透けて見えるようでルドルフはうろたえた。

「馬鹿だな、レティは・・・」
いや、その先は聞きたくない、そう思ってルドルフはくるりと背を向けた。
「邪魔をして悪かったけど、どうしてこんな所に来てしまったのか自分でも分からないんだ」
あのオーブの力は確かに分からないことだらけだ。
マティアスはなにか知っているかもしれないと思ったが今は聞いてみる気にはなれない。

肩に相手の手が触れる感覚にルドルフはびくりと飛び上がった。
「お前が思ってるような相手じゃないよ」
そういうとマティアスはルドルフを静かに抱き寄せた。
その腕から逃れようと身悶えたルドルフだが例によってそれは敵わなかった。

「残念だがいつまでもここに居るわけには行かない。死者の眠りを妨げては申し訳ないからな」
そう言ってマティアスはゆっくりとルドルフを振り向かせる。
「マティアス・・・」

「兄貴に会いたいんだろう、連れてってやるよ」
「でも」
「前にそう言ったからな」
その途端、マティアスの肩越しに黒い霧が現れるのが見え、あっと思ったときにはルドルフの唇は激しい口付けで塞がれていた。

驚いたルドルフが逃れようと身を捩るとマティアスはさらに強く抱きしめてきた。
腕の力が強まるにつれ口付けも深いものとなる。
その熱く甘い感触にルドルフもまた相手の背に腕を回して強くしがみついた。
マティアスは軽く身体を動かしルドルフが相手の視界に入らないようにしてからそっと唇を離した。

長い口付けに上がる息の下からルドルフは思わず呟く。
「マティアス・・・あ・・・」
そんなルドルフを背後に庇いながらゆっくりと振り向いて侵入者と向き合ったマティアスは
「こんなところで覗きとは無粋なヤツもあるものだな」
と人の形をとった霧に向って声をかけた。

マティアスに皮肉を言われた相手はこれまた意趣を含んだ物言いで答える。
「これは失礼、さきほど結界に僅かながら反応があったという報告を受けたので見回りに来てみたのですが、まさか閣下がこの聖地でお愉しみの最中とは思いもよりませんでしたので」
聞き覚えのある声にルドルフの身は一瞬で硬くなった。

「フィリップ卿か・・・。怪我の具合はすっかりいいようだが、フィルデンラントに詰めていなくてもよろしいのかな?」
「マティアス卿、恐れながら軍事方面の事に口出しは無用に願いたい。それより、その娘は・・・。
結界に反応したのはその娘でしょうが、この聖地に人間を連れ込むとは恐れ入る」

「この娘は特別なのでね、一緒に姉のために祈ってもらいたかったのさ、今日は姉の命日だ」
姉?じゃあ、あの棺に眠るレティという人は・・・

「まあ、確かに、今日は我等一族にとって忘れられない日ではありますがね。それにしてもその娘、どこぞで見たような・・・」
フィリップ卿の言葉にルドルフは心臓が止まりそうになる。
前に会った時は二度ともかなり暗かったが、この男、自分がルドルフだと気付くだろうか・・・

「はは、バレたかな」
その答えにルドルフは驚いてマティアスを見上げた。
「綺麗な娘だろう、一目で気に入ったのでランディ卿のところからこっそりいただいてきたんだ。人間の娘一人位いなくなってもどうという事もないだろうからな」
と言ってマティアスはルドルフを抱き寄せた。

「それはそうでしょうが・・・、あまり勝手な事をなさるといくら閣下だといっても」
「いくら私だといっても?何だと言うのだ?」

「閣下はルドルフの剣を奪うことに失敗された、どのように取り繕おうともそれは隠し様のない事実。
そして今度はランディ卿のところから人間の娘を無断で連れ出し、しかも聖地へ連れ込まれた。
このようなことが続けば、いかに皇帝陛下のお覚えめでたき閣下といえども不味い立場に立たされまいかと、老婆心ながらご心配申し上げているのですよ」

「これはまた、お心を煩わせて恐縮なことだが一言言わせてもらうなら、ルドルフの剣に関しては皇帝陛下の思し召しが変わられたのであって、この私が失敗したわけではない。
だがまあ仮に私が失脚するような事があってもその後任に陛下が貴殿を選ばれる事はまず無いゆえご安心召されよ、フィリップ卿」
軽く見下した感を含んだその言葉にフィリップ卿は唇を噛んでマティアスをきっと睨んだがすぐに表情を隠し俯いた。

「あの剣をダシに私を皇帝陛下の側から引き離しあわよくば・・・を狙ったんだろうが残念だったな。ユージン卿とシェリー卿にも貴殿から良しなに伝えてくれ」
「マティアス卿!」
「生憎、貴殿達の思惑など私には関係ない。私は私の流儀で動くまでさ」
そう言うとマティアスは黒衣を翻し腕に抱いた娘とともに姿を消す。

ふん、陛下の寵臣だと思って、図に乗りおって・・・
そうやってふんぞり返っていられるのも今のうちさ
フィリップ卿は一人ぶつぶつと呟きながらこちらもまた瞬時に姿を消していた。






フィルデンラント
王城

警備の兵がたてる鎧の音以外はしんと静まり返った城内を足音を忍ばせるようにして長身の男が歩いて行く。
時折すれ違う警備の兵は男の姿を見ても大して驚きもせず、ただ軽く頭を下げてやり過ごしていた。

その後ろを少し遅れてラインハルトは気配を消しながらついて行った。
警備兵の脇を通り過ぎるときは魔法で相手の目をくらませた。
城内に妖魔族の気配がない事は夜を待つ間に調べがついていた。

ヴィクトールは廊下の所々にともされた蝋燭の灯りに自慢の銀髪を煌かせながらゆったりと歩を運んでいる。
そのあまりに落ち着き払った様子にラインハルトはもしかして自分がこうして城内に潜んでいる事をこの男はすでに察知しているのかもしれないと思った。
フィリップ卿とかいう妖魔族の男から知らせを受けて・・・

とすればコレは罠か・・・?
ヴィクトールはクリストフがその姿を見失ったという西の塔へと続く渡り廊下へと進んで行く。
おかしなことに廊下の入り口には警備の兵はいなかった。
どういうことだ、自分がグリスデルガルドへ旅立つ前はここは警備兵が常駐する事になっていたはず・・・

廊下へ入る直前でヴィクトールはいきなり振り返った。
自分がここにいることを誰にも見られたくないというように辺りを見回してからすっと廊下を渡りだした。
ラインハルトがそっと見守る中ヴィクトールの姿は廊下の途中で壁に吸い込まれるように消える。

やはりな―――
少し間を置いてからラインハルトはそっとヴィクトールが消えた辺りへ近付いた。
昔まだ父が元気だった頃、ヴィンフリートと自分にこっそりと教えてくれた。
この城のあちこちに隠された隠し部屋や通路のことを。

ラインハルトは壁に掛けられた燭台から蝋燭を一本取ると、一個だけ色が違っている煉瓦を静かに押してみる。
すると壁の一部が奥へと動き、人一人が通り抜けれるほどの隙間が出来た。
ラインハルトはさっとその中に入ると内側から壁を元に戻した。

真暗な中をラインハルトは蝋燭の小さな火を頼りに進んで行く。
細い通路を延々と辿ると道はやがて上下へと分岐する階段の踊り場に出、ラインハルトは迷わず下への道を選んだ。
下のほうへと伸びる道にだけ新しい蝋の垂れた後が残っていた。

通路はさらに狭まり、もし相手が逆戻りしてきたら逃げ場は無い。
だがラインハルトには勝算は充分にあった。
この際ヴィクトールを捕らえてその真意を質してみるのも悪くない。
そしてヴィンフリートの行方も・・・

幸か不幸か途中ヴィクトールと出会う事は無く、ラインハルトは足音を立てぬよう気を配りながら狭くて急な螺旋状の階段を降りて行った。
どれほど下りたろうか、狭い踊り場に出た後、道は平坦となりやがて少し開けた空間に出る。
重厚な木材で作られた頑丈そうな扉が幾つか通路に沿って一列に並んでいた。

ここは地下牢だ、政治犯や大罪を犯して公には裁く事が出来ない者を一生閉じ込めておく場所だと父は言った。
他にも王位継承の争いに敗れた王族はほとんどがここに幽閉されたのだと・・・

伝説の勇者ルドルフの兄フランツ五世も即位後自分を廃嫡の憂き目に合わせようとした父の寵妃と異母弟をここに閉じ込めたという。
今もそんな者達の怨嗟の声が壁や床から聞こえてきそうで、ラインハルトはそんな考えを振り払うように頭を揺すった。

奥まった扉の向こうからくぐもった声が漏れ聞こえてくる。
あそこか―――
ヴィンフリートがここに閉じ込められている事は間違いない。
こんなところにいるのが兄の意思であるわけが無い。
ヴィクトールが謀反を企んでいることは明白だった。

扉が開く気配にラインハルトは慌てて火を吹き消し自らも気配を消した。
ヴィクトールを捕らえるよりもヴィンフリートの無事を確める方が先だと思えたからだ。
小さな燭台を手に引き返して行くヴィクトールを息を殺してやり過ごしてからラインハルトは魔法で火を起こすと急いで彼が出てきた扉に向った。

扉にかかる頑丈な錠を魔法で簡単に外すと、扉を押し開けるのももどかしくラインハルトは中へ飛び込む。
狭い部屋の一方の壁は粗末なベッドで塞がり、その上に見る影も無くやせ細った兄が横たわっているのがすぐに目に入った。

「ヴィンフリート!」
慌てて駆け寄りその手を取るが懐かしい兄は意識が朦朧としているらしくラインハルトの事が良く分からないようだ。
何日も碌な食事をしていないのだろう、目は虚ろに濁り唇は乾ききって皮膚も髪も艶を失くしていた。

「ヴィンフリート、なんてことだ。この国を後にしたときはあんなに元気に僕を見送ってくれたのに、どうしてこんなことに・・・」
ラインハルトは兄に回復の魔法をかけた。
怪我をしたわけではないので目に見えるような効果は出ないが、それでも少しは血色が戻ってきたようでラインハルトはほっとした。

「ラインハルト・・・、お前なのか・・・?」
やや生気を取り戻したヴィンフリートの口から途切れ途切れながら言葉が紡がれる。
「そうです、兄上。やっと戻って来れました。どれほどお会いしたかったか」
思わず零れ落ちた涙がヴィンフリートの頬を濡らす。

やつれてもなお壮麗な美貌の持主である国王は
「ああ、ラインハルト、生きていたんだな・・・。お前が死んだと聞いて私は・・・」
と言って無理に微笑もうとした。
「罠に嵌ったのです、兄上。僕もグリスデルガルドの王子ルドルフも」
「お前が無事でよかった・・・、本当に・・・」
そこまで言ってヴィンフリートは気を失ってしまったらしい。

ラインハルトは兄をここから連れ出すことを考えたが、さてどこへ連れて行こうかと言う段になってハタと考えてしまった。
兄はかなり体力を消耗している。
碌な食事を与えられていないせいだけではなく、これは恐らく血を吸い取られている。
酷い貧血を起こした自分と同じだ、多分・・・
グリスデルガルドで急に妖魔族の勢力が強まったのはこのせいか

ともかくこの状態の兄を連れて行くにはどこでもいいと言うわけにはいかないだろう。
とりあえずは祖父の屋敷へ連れて行くにしても、ヴィンフリートが姿を消した事はヴィクトールもすぐに察するだろうからすぐに足が付くだろう。
彼に対抗するためにはある程度の軍事力も準備しておかねばならないし
ラインハルトはもう一度回復の魔法を兄にかけると、ヴィクトールに自分の存在を気取られぬよう扉の鍵を元に戻した後、ひとまずクリストフの待つ兄の私室へと魔法で戻った。






パンゲア大陸某所

ルドルフがマティアスに連れられてきたのは一面百合の花が咲き誇る草原の只中だった。
何時の間にかすっかり日が暮れて夜になっている。
自分はかなり長い事あそこに倒れていたんだ、とルドルフは思う。
月の高さからかなり遅い時刻である事が分かった。

百合は月の光りを浴びて銀色に輝いていて、そのあまりの壮麗さにルドルフは思わず溜め息を漏らした。
「綺麗だろ?パッと見にはただの百合に見えるだろうが、これは月光草と言って満月の前後三日間だけ咲く花なんだ」
マティアスはそう言って両手を広げて辺りを指し示した。

「すごい、まるでこの世のものではないみたいだ。こんなに綺麗な花、生まれて初めて見る・・・。お姉さんのために摘んだのはこの花だったの?」
「ああ、レティは月光草の銀色の輝きが大好きだったから・・・」
口付けの余韻が抜けきらず頭の芯がどこか朦朧としているルドルフは花の香りに酔い痴れながらその身を相手の腕に預けた。

「あの、ありがとう、ぼ・・・私を助けてくれたんだろう、だからあんなこと・・・」
呟くように言ったが、恥ずかしくて相手の顔を正視できず、顔は俯けたままだ。
「今日は特別な日だ、血は見たくない。それにお前は・・・」
マティアスはその顎に手を当てて上向かせる。

「お前は、何?」
うっとりと夢見るような瞳で見詰めるルドルフにマティアスは
「お前は綺麗だ」
と言って強く抱きしめた。

これまでにもルドルフは幾度か綺麗だと言われたことがあった。
フランツやフォルマン、小姓のヨアキム、乳母や側仕えの侍女たちから―――
でも、同じ言葉がマティアスの口から囁かれると、なぜか蕩かすように甘く優しく響いてルドルフの心をくすぐった。

鼓動が高鳴って息が苦しくなるなか、ルドルフは小鳥のように小さな声で呟いた。
「マティアス、私は・・・会いたかった、ずっと君に会いたかったんだ」
そう、本当は君に会いたかった、だからオーブは自分をあの場所へ飛ばしたのだ、フランツの元ではなく―――

「だとしたら光栄な事だが、本当かな」
「嘘なんか言わない・・・」
優しい口付けがそっと落ちてくる。
その甘い心地よさと強い花の香りにルドルフは頭がくらくらしてきた。

ふらつくルドルフにマティアスが声をかける。
「おい、大丈夫か?」
「うん、何だか目眩がする」
「かなり酷く背を打ったらしいからな、命が助かったのは飛ばされたのがあの場所だったからだ。お前は運がいいんだな」

「そうなの?」
「英雄の末裔―――か」
マティアスはそう言ってルドルフの髪を手に取る。
「英雄・・・」
ルドルフ一世は本当のフィルデンラントの王子ではなく、何処の誰とも知れない身代わりの男だった・・・、そう思うとルドルフの顔は自然と曇る。

「どうしたんだ、しけた顔して。そんなに具合悪いのか?」
「確かに気分も悪いけど・・・。英雄ルドルフは本物の王子ではなく、身代わりだったんだと分かったから」
ルドルフの言葉に今度はマティアスが驚いて目を見張る。
「何を言ってるんだ、そんなことあるはずが・・・」

「だって、君達は僕やフランツや祖父の血は狙わなかった、それは僕たちに神の血が流れていないからなのだろう?だったら・・・」
「だから俺の前では僕、なんて言うなって。確かにお前たちには神の血は流れていないが、ルドルフは身代わりなんかじゃないぜ」
「そんなはず・・・。フィルデンラントの王族は・・・」
「俺が保証してやるよ、お前の先祖は確かにフィルデンラントの王子だ」

「マティアス、どういうことなの?どうして君はそんなこと言えるの・・・?」
マティアスは答える代わりにルドルフをじっと見詰める。
ラインハルトに言われてからずっと心に引っ掛かっていたことだが、マティアスの腕に抱かれているとそんなことはどうでもよく思われてきて、ルドルフは軽く目を閉じて相手の腕に身体を預けた。

「ルドルフは酷い怪我をしたからな。それこそ体中の血を失うほどの。そのとき神の血もすべて流れ出てしまっただけさ」
「でも、それでは・・・」
死んでしまうのでは、そう言おうとしてルドルフは考える。
完全に命を落としたと思ったフランツが生きているというなら、ルドルフ一世だって―――
頭がぼうっとしてあまり考えられないがそんなこともあるのかもしれない。でも待てよ・・・

「ルドルフ一世は大怪我をしたが命は取り留めた、それはもしかして・・・」
マティアスはさっき手を触れただけで自分の怪我を治した。
重症のフランツが生きているとしたら助けたのは妖魔族だろう。
だったらルドルフ一世を助けたのも妖魔族なのか?

頭は益々朦朧としてきて芯がズキズキと痛んでくる。
どうしたんだろう、何だか変だ・・・
ルドルフの様子を察したのかマティアスは
「少し休んだ方がいいかな。月光草の花粉は人間には刺激が強すぎるのかもしれない。そうでなくても月には魔力があるからな・・・」
と優しく言った。

「魔力?」
「ああ、月の光は不思議だろう?何の変哲もないつまらない物でも美しく魅力的なものに変えしまう。月の魔力に捉えられたら逃れるのは難しい―――」
月の光もだけど、君の瞳にも強い魔力があるみたいだ・・・、ルドルフはそう思いつつうっとりとマティアスを見詰めた。

「それにランディ卿のところはちょっとばかりややこしいからな」
「ランディ卿・・・?フランツがいるところ?」
「ああ。ランディ卿は一族きっての変わり者、いわばマッドサイエンティスト、ってトコだ」
「何の事かよく分からないけど」

「分からなくてもいいさ、それより少し眠れよ、俺が側についていてやるから」
そう言ってマティアスはルドルフを抱き上げた。
「でも・・・」
たしかに少し身体がつらい。
ルドルフはマティアスの肩に頭をもたせかけた。

何ともいえない安心感にルドルフは体中の力が抜けていくのを感じる。
「心配しなくても何もしやしないぜ」
「そんなこと・・・」
考えてないよ、と言うつもりだったがそれが言葉になる前にルドルフは急速に意識を失って行った。

マティアスは気を失ったルドルフを自分の寝所へと連れて行った。
そっとベッドに横たえるとその側に腰かけ、安らかな寝顔を見詰める。
俺は敵だと言ったのに、少しも分かってないな・・・
まあ、俺だって―――

長く艶やかな黒髪を指に絡めながらマティアスは、自分はこのお姫様をどうしたいのだろうと考える。
初心で晩熟で多分にこの自分に恋している英雄の血を引く王女様・・・
マティアスは少し青ざめた相手の顔をそっと撫でる。

そう、俺だって惹かれている、この不思議な少女に。だったら・・・
滾るような欲望に身を任せ手折ってしまおうか
このままただの娘としてずっと自分の側において―――
この娘がルドルフ王子だと気付くものもいるかもしれないが、自分が庇護しているとなれば迂闊に手を出すものはいないだろう

意識のない相手の唇にそっと口付けを落としながらマティアスは思いを巡らす。
いや、だめだ・・・
彼女は彼と出会ってしまった、聖石を持つ聖少女として・・・
自分の側に居れば早晩彼に見付かってしまうだろう―――

小さな声を上げてルドルフが寝返りを打つ。
その額に微かに残る傷跡を認めてマティアスはそっと手を当てた。
数秒後その手が離されたときには傷跡は綺麗になくなっていた。






フィルデンラント
王城
国王の私室

「ラインハルト様、ご無事で」
突然現れたラインハルトの姿を認めてクリストフが駆け寄ってきた。
「ああ、ヴィンフリートの居場所も突き止めた。ヴィクトールは僕のことには全く気付いていないようだ」

「国王陛下はどうしていらっしゃるのですか、やはりご病気で?」
「秘密の地下牢に閉じ込められていたが命は無事だ。かなり体力を消耗していたが」
「そうですか、それは・・・」

ラインハルトはきっとクリストフを見据えて尋ねる。
「このままにしておいたらヴィンフリートは危ない、なんとか助け出したいがとりあえず受け入れの準備を整えてからでないとな。
昔から仕えていた者たちはすべて遠ざけられたとの事だが皆どうしているのだろうな。お前は何か聞いていないか?」

「そうですね、お側つきの侍女などはお暇を出されて郷里へ帰ったり親類の下へ身を寄せたりしているようです。
ケンペス将軍初め、軍人の主だった方の半分はグリスデルガルド討伐に向われるためアディエールへと向いました。
残りのほとんどは帝国の干渉に備えると称して東の国境の要衝へと派遣されてしまいました。
近衛の親衛隊は国王陛下に対し無礼が多かったとの理由で全員解任され、すっかり顔ぶれが変わりましたから」

ラインハルトは腕組みをしたまま深い溜め息をつく。
「随分手回しのいいことだ。これは余程前から計画を進めていたのだな。お前がヴィクトールに見出されて王城に来たのは一体どれくらい前なのだ?」
「ヴィクトール様と初めてお会いしたのは昨年の秋ですが、王都に呼ばれたのは三月ほど前になります。
その間ヴィクトール様のお屋敷で国王としての立ち居振る舞いを習いまして、陛下の名代を務めるようになりましたのはここ一週間ほどですが・・・」

一週間ほど前・・・というと自分がアルトシュレーゼンの牢から脱出し、南部へ向けて進んでいた頃だ。
ヴィクトールとしては準備はすっかり整ったと踏んでヴィンフリートを幽閉し、影武者を立てたわけか・・・

当面はクリストフに国王を演じさせ、折を見て次の手を打つ―――
ラインハルトは辺境の地で客死、それを苦にヴィンフリートも病死、継承者のいない王家は傍系の王族に継がれる、大方そんなところだろう。
新しい国王はヴィクトールの傀儡、だがそんなことでは満足できないであろう彼はおそらくいずれはなんらかの形で王位を簒奪する心算だ。
幼馴染で親友の兄を平気で裏切るような男だ、このクリストフも役目がすめば口封じのために殺すつもりに違いない・・・

ラインハルトの意を察したのかクリストフは
「ラインハルト様、僕は貴方のためならどんな事でもします、ですから国王陛下をお助けするときにはこの私も一緒にお連れ下さい。このままヴィクトール様にお仕えしていても私はいずれ・・・」
と泣きそうな顔で懇願する。

「分かった、お前の事は必ず何とかしよう。そのためにも僕は一度祖父のところに行ってみようと思う。賢者と呼ばれた稀代の魔導士ゲラルドなら・・・」
「王子様、ご存じないのですか・・・」
クリストフの何とも言えない表情にラインハルトの胸には最悪の状況が浮かぶ。
「おい、まさか・・・」

「賢者ゲラルドはお亡くなりになりました。つい先ごろの事ですが、そのこともあって国王様はがっくりと力を落とされそのまま病の床についてしまわれたとの事です。
ゲラルド卿の葬儀は国葬となりましたので、陛下もご病気を押して出席されました。
陛下は悲しみのあまりゲラルド卿のお姿を正視することがおできにならなかったようだとヴィクトール様は仰っておられました。
閣下は陛下に代わり教会まで卿の棺に従っていらしたはずです」

「そんな馬鹿な・・・!祖父が、あの賢者ゲラルドが死ぬなんて・・・」
「ゲラルド卿はご高齢でいらした上に最近ではご病気がちだったとか。見事な大往生だったと私はお聞きしましたが」
「では、祖父は老齢のために・・・?」
「ラインハルト様がなくなられたという第一報を聞いてたいそうお力落としだったそうですが・・・」
「そんな・・・」

唯一頼みにしていた祖父はもうこの世にいない、では自分は一体どうすればよいのか・・・
ガックリと肩を落とすラインハルトにクリストフは恐る恐る声をかける。
「ゲラルド様にお仕えしていたものたちは皆郷里に帰ったそうですが、一人だけ身寄りのない侍女が残ってお屋敷の管理をしているはずです。
その者ならお亡くなりになったときの様子を詳しく知っていると思いますが・・・」

「身寄りのない侍女?・・・アンナのことかな・・・」
ラインハルトは父王の命令で魔道を習得するため祖父の下で長年暮らした。
その間主に面倒を見てくれたのは若い頃から祖父に仕えてたアンナという気のいい年配の侍女だった。
アンナが居るというなら祖父の家に会いに行ってみるか
何かクリストフの知らない情報が聞けるかもしれない・・・

「そうだな、少し話をきいてくるか」
「ラインハルト様・・・」
「とにかくヴィンフリートを一日でも早く救い出さねば・・・。そのためにはヴィクトールに僕が動いていることを知られたくない。先程も言ったように準備が整うまでお前はもう少し兄の振りを続けていてくれ」
「はい、きっとうまくやって見せます、ですから・・・」
「ああ、分かってるさ、兄を連れ出すときはお前も一緒だ」

萎えそうになる気持ちをどうにか建て直し、ラインハルトはルドルフの荷物からあの剣を抜き出して腰に帯びると祖父の屋敷へと飛んだ。
自分がいない間にヴィクトールがクリストフを訪れないとも限らない。
万一ヴィクトールに見付かってこの剣を奪われてしまったらルドルフに申し訳が立たない。
他のものはともかく、この剣だけは・・・

それに城下にもし妖魔族がいたとしたらこの剣が役に立つだろう。
相変わらず重い剣だから、自分にどれだけ使いこなせるか分からないが・・・
剣を手にした男装のルドルフは小憎らしいほどサマになっていたと思う。
子供の頃から剣の稽古に明け暮れてきた成果なのだろうが・・・

剣戟で女の子に負けると思うとラインハルトはやはり悔しい。
いままでは魔法の力を上げる事しか考えなかったが、リヒャルトに言われたとおり腕っ節の方も鍛えておかなくては、と真剣に思うラインハルトだった。



10


パンゲア大陸某所
フィリップ卿私室

フィリップ卿は私室へもどってからもしばらく気分が悪かった。
マティアス卿は特別、そうは思ってもやはり心中面白くない。
なぜ皇帝陛下はあんな男をあれほど厚遇されるのか
いくらアイツがレティシア姫の弟だといっても、そもそも姫は―――

憤懣やるかたなくソファに腰を下ろしたまま少し眠ってしまっていたらしい。
気がつくと奥の寝室のサイドテーブルにおいた白い石から靄が立ち上っているのが見えた。
フィリップ卿は物憂げに立ち上がるとベッドに腰掛け白い石に手を翳す。
すると靄の中に男の姿が現れた。

「モリソンか、どうした?何かあったのか?」
「フィリップ卿、申し訳ございません、ラインハルトの姿を見失いました」
「何!!」
「移動の魔法を使った形跡もないのに忽然と姿を消してしまいまして・・・。
アルトシュレーゼンの牢から共に逃げた男二人はこれまでどおり南部への道を進んでおりますが、ラインハルトはどこにも見当たりません。
捜索範囲をかなり広げて探してみたのですがとうとう見つけられませんでした」

「馬鹿者が!あれほど厳重に言い置いたではないか」
「はっ、弁解の言葉もございませんが・・・」
ラインハルトが姿を消した―――
まさかフィルデンラントへ舞い戻ったなどと言う事はあるまいな・・・

「移動の魔法は使っていない、そう言ったな」
「はい、その痕跡があれば私には分かりますから」
「ならば他の一族が奴の行方を掴んで何らかの手を打ったのか?」
「そのようなことも無いようでしたが、ただ・・・」

「ただ、何だ?」
「はい、アルトシュレーゼンから南へ向う途中で合流したと思われる娘の姿も王子と共に消えています。その娘に特別な力があったのかも」
「娘?どんな女だ?」

「黒髪で目は紫、細身で長身のまだ若い娘です。多分十四、五といったところでしょう」
「そんな娘が一緒だという報告は受けていないぞ」
「すみません、ただの村娘に見えたものですから。まあ、ラインハルトも男ですからね、そっちのほうの相手かと・・・」

「・・・とにかくお前はもう少し捜索範囲を広げて全力でラインハルトを探し出せ。フィルデンラントの方は私が手配する。
いいか、判断は私がする、今後はどんな小さなことでも必ず報告するのだぞ」

「はっ」
そう言って男の姿は消え、靄は白い石の中に吸い込まれる。
全くどいつもこいつも使えないものばかりだ・・・
なにがそっちの相手だ、あのガキにそんな・・・
待てよ―――

黒髪に目は紫の若い娘といえばさっきマティアス卿が連れていたのもそんな娘だった。
あの娘、確かに見覚えがある。
本当にランディ卿のところで見たのだったろうか・・・?

あの娘には特別な力は無さそうだった。
ただ―――
フィリップ卿は軽く頭を振る。
ラインハルトの連れがマティアス卿と一緒にいるはずがない。
自分も少し疲れているのかもしれないとフィリップ卿は軽い苦笑を漏らした。



11


フィルデンラント
賢者ゲラルドの屋敷

ラインハルトは久しぶりに城下のはずれに位置する祖父の屋敷の居間へと姿を現した。
赤々と燃える暖炉も重厚なロッキングチェアも所狭しと並べられた数々の魔具も、読み散らかされあちこちに置かれた魔道書も相変わらずだ。

いつも祖父はこのロッキングチェアにゆったりと腰掛け、パイプを銜えていた。
その足元にはこれまたかなり老齢となった愛犬のリードルが常に横たわり、時折物憂げに瞼を持ち上げる以外は全く動かずにほとんど一日中眠っていたものだった。

だが今は祖父だけでなくその愛犬も姿が見えなかった。
祖父が亡くなってあの犬もどこかへ引き取られたのだろうか?
あいつが暖炉の前の特等席から離れることなどまず無いはずだが・・・
乱雑に積み上げられた魔道書を一冊手にとってラインハルトは暖炉の側によりパラパラと眺めてみた。

いくつかの魔法はまだ習得できていないものだ。
老齢とはいえまだまだ元気だった祖父―――
ラインハルトはもっと多くのことを祖父から学ぶはずだった。
グリスデルガルドの戴冠式から戻ったら再び賢者の弟子として・・・

出発前にラインハルトの送別の宴をこの屋敷で開いてくれた時の祖父の様子を思い出しラインハルトの頬には涙が一筋伝った。
「お爺様・・・」
そう呟いた時、突然部屋のドアが開いて、
「誰か居るの?まさか泥棒・・・」
という女性の声が聞こえた。

「アンナか?僕だ、ラインハルトだよ」
燭台を手に恐る恐るこちらを見詰めている年配の女性にラインハルトはそう言って駆け寄った。
「ラインハルト様!まあ、本当に本物のラインハルト様なのですか!?まあ、まあ・・・」
アンナはそう言ったきり言葉を失ってしまった。
その目には涙が浮かんでいる。

「ああ、間違いなく本物のラインハルトだよ!やっと戻ってきたんだ、でも僕のほかは皆死んでしまったけど・・・」
「ああ、本当に王子様だ、お小さい頃からこのアンナがお仕えした・・・。では、やはり亡くなったというのは何かの間違いだったのですね。
先日王子様のご遺体が発見されたという急使が届いたそうですが、まあまあ、何てことでしょう。王子様はこうしてご無事でいらっしゃるというのに・・・
旦那様はラインハルト様が簡単に命を落とされるはずがない、と頑なに仰っていられましたが、本当に旦那様のお言葉に間違いはございませんでした・・・」
と言ってアンナはエプロンで目頭を覆った。

「アンナ、お爺様は・・・亡くなられたと聞いたが間違いないのか?」
ラインハルトの言葉にアンナは
「はい、大変残念なことですが・・・旦那様はお亡くなりになられました。ラインハルト様はきっと無事にお戻りになる、そうお信じになったまま」
と涙をポロポロと零しながら言った。

「お爺様、あんなにお元気そうだったのに、どうしてこんなに突然・・・」
そう言ってゆっくりと主のいない部屋を見回すラインハルトにアンナは
「旦那様は表向きは老齢で眠るように息を引き取られた、という事になっていますが実はそうではないんです」
と声を潜めながら言った。

「何だって!それはどういうことだ・・・」
「宰相のヴィクトール様からはグリスデルガルドとの戦を前に世情が不穏な状況だからと決して口外してはならぬと硬く申しつけられましたが、ラインハルト様にだけは本当の事をお話申し上げるべきと思いますので・・・」
アンナの口からヴィクトールの名が出たことにラインハルトの表情は強張る。

「詳しく話してくれ、アンナ」
「はい、もう二週間ほど前になります、その朝私が起きてくると旦那様はこの椅子に座ったままお亡くなりになっていらしたのです。何かで首を絞められたらしいのですが、賊が侵入した形跡もなく、この部屋も前の晩私が部屋に下がったときと全く同じ状態で、だれかが訪れたとも思えませんでしたし、さらに不思議な事には愛犬のリードルまで一緒に死んでいたのです。
私を初め使用人たちは随分と疑われ何度も話を聞かれましたが、夜半妖しい物音を聞いたものもなく何も答える事は出来ませんでしたのです」
と話した。

妖魔族か・・・
しかしいかに老齢で最盛期の力は失っているとはいえあの祖父をこうも簡単に死に追いやってしまうとは・・・
「多分旦那さまはぐっすり眠っていらしたのだと思います。この頃はしょっちゅう疲れたと仰ってはこの椅子で居眠りをしていらしたので・・・」

「どのような亡くなり方をしたのかできればお爺様の遺体を見てみたいものだが」
「もう埋葬されてしまいましたから・・・
旦那様の葬儀は国葬となりましたので、お城で葬儀が行われました。
私どもなどは遠くからお別れを惜しむ事しか出来ませんでしたが、国王陛下は旦那様の棺が教会に向われるのを城壁から見送ってくださいました。
ヴィクトール様も教会まで出向いてくださって・・・
その後旦那様にお仕えしていた他の者達は皆郷里へ戻って行きましたが、私だけはどこにも行くところが無いのでこうしてここに住まわせていただいているのでございます。
今でもあの旦那様が亡くなられたなんて少しも信じられないのですが」

「アンナ、ヴィクトールがお前たちに本当の事は黙っているようにと言ったのか・・・?」
ラインハルトは涙を拭っている相手に静かに尋ねた。
「宰相閣下が私どもになど直接お話になるわけがございません、私たちを取り調べた閣下の従僕がそう伝えてきたのです。
ラインハルト様のこともあって確かに街のものも皆不安がっている時でしたから、私たちも尤もな事と従ったので、こんなことをお話したのは貴方様だけです」

「ヴィクトールの従僕・・・、それはヘルムートと言う男か?」
「さあ、名前までは・・・、そう、側にいたほかの方は確かその方をニコラス様と呼んでいたようでした」

ニコラス―――聞いた事のない名だ。
ヘルムートはグリスデルガルドに向ったので別なものを従僕として召抱えたという事か。
ヘルムート同様、妖魔族とかかわりのあるものか、或いは本当に何も知らずただヴィクトールの言葉を伝えただけか―――
「アンナ、知っていたら教えてくれ、ケンペス将軍はもうグリスデルガルドに渡ってしまったろうか」

アンナは驚いて顔を上げた。
「さあ、どうでございましょう、将軍が都を発たれたのは大分前になりますから・・・
ただ、将軍は今度の派兵には賛同してはおられなかったようですから、もしかしたらまだアディエール近辺にいらっしゃるかも」

「ケンペスはグリスデルガルドへの派兵には反対だったという事か」
「表立って反対されたわけではないようですけど、他の主だった将軍達も東方へ派遣されたりしましたので、自分までも都を離れれば王都が空っぽになってしまうと心配されたようです。国王陛下の侍女だった友人がお暇を出されて郷里に戻る途中お別れを言いに寄ってくれて、教えてもらった事ですけど・・・」

「そうか、ケンペスがまだアディエールにいるとしたら好都合なんだが」
ラインハルトの呟きにアンナは怪訝な表情を向ける。
「ラインハルト様、一体どういうことです?何が起こっているのですか?貴方様がこうしてご無事な事をなぜ国王陛下は発表なさらないのでしょう・・・」

「アンナ、今は何も言う事はできない、いずれその時がきたらきちんと話せると思うけど。
君に会えてよかった、いろいろ話も聞けてとても助かったよ」
「勿体無いお言葉です、王子様」
「僕はケンペスに会いに行ってみる、僕が生きている事もここを尋ねてきた事も僕がいいと言うまでは誰にも話してはいけない、分かったね」
ラインハルトは相手の両腕を掴んで力強い微笑を浮かべながらそう諭した。

「・・・何か事情がおありなのですね。分かりました、何事も仰せのままに従います。貴方様の事は決して誰にも話しませんのでご安心下さい」
ラインハルトはその晩は祖父の家で休んで翌朝早くにアディエールへと向かう事にした。

フィルデンラント一の将軍ケンペスの周りには謀反を恐れて妖魔族の見張りがついているかもしれない。
妖魔族相手なら昼間行動した方が得策だ。
ディーターホルクスでの二の舞はごめんだった。
ヴィクトール配下のものもいるかもしれないが普通の人間なら魔法でどうにでも対処できるとラインハルトは考えたのだった。



12


パンゲア大陸 某所
マティアス卿私室

深い眠りから覚めたルドルフの目にさらに深い暗黒が映る。
ここは一体―――頭を抑えながらゆっくりと上半身を起こすと狐火のような灯りが一つ二つ中に浮かび辺りを薄ぼんやりと照らし出した。
久しぶりにフカフカのベッドで眠ってすっかり熟睡してしまったようだ。
上質の絹の手触りを楽しむように掛け布団の上に手を滑らす。
ひんやりと滑らかな感触がすっかり疲れのとれた心と身体にとても心地よかった。

ふと足元を見るとマティアスが上半身をベッドに突っ伏して眠っているのが見えた。
そうか、僕が彼のベッドを取ってしまったから・・・
本当にずっと側についていてくれたんだ―――
ルドルフがそっとその髪に触れると、マティアスはピクリと動いてすぐに起き上がった。

途端に辺りがパッと明るくなり、洗練された調度に囲まれた部屋の様子が明らかになった。
「大分顔色が良くなったな。夕べは死にそうな顔してたからこれでも結構心配したんだぜ」
すぐにそんな軽口が飛び出す。

「うん、すっかり気分よくなったよ、ありがとう」
ルドルフはそう言って笑うと急に夕べの事を思い出して顔を伏せた。
夕べは花の香りに酔って随分恥ずかしい事を口走ってしまったように思う。
マティアスはそんなルドルフの頬をそっと撫でると、
「俺は夜になるまで動けないからな、もう少し休んでろよ」
と言って立ち上がった。

「マティアス、何処かへ行くの?」
「まあ、ちょっとな。お前は気にせず眠っていろ。ここは俺に与えられた部屋だ。誰も立ち入る事はできないから、心配要らない」
「待って、ぼ・・・私も」
慌てて起き上がろうとするのをそっと押しとどめて
「あまり動き回らない方がいい。誰かに見付かると面倒だ。ちゃんと兄貴には会わせてやるから、ここで待ってろ」
と言い置いてマティアスは姿を消してしまった。

一人取り残されたルドルフは何とも言えない寂しさに襲われ、静かに身を横たえた。
目を閉じると夕べの口付けの感触が甦ってきてルドルフは小さく溜め息をつく。
なぜこんなに寂しさを感じてしまうのか、自分の心がよく分からない。
自分で自分を抱き締めながらルドルフはマティアスが少しでも早く戻って来てくれるよう願った。