暁の大地


第十一章




フィルデンラント
アディエール
フォン・カステルの離宮、ラインハルト私室

ラインハルトは自分にとケンペスが用意してくれた部屋で久々にゆっくりと身体を伸ばしながら、兵士の用意してくれた服に身を包みこざっぱりとした姿になったアルベルトと一別以来の出来事を互いに報告しあった。
アルベルトは、ルドルフがいずこへとも無く姿を消してしまったことを聞いて眉を顰めた。

「たしかにルドルフの手をしっかりと掴んでいたんだけど・・・」
「それは心配ですね。あのオーブについては私も分からない事だらけで、ルドルフ様がどこへ行ってしまわれたのか見当もつきませんが、ルドルフ様は大層お兄様思いでしたから」
「ああ、グリスデルガルドから離れたくないと言ってはいたんだが」

「たしか、妖魔族の少年がフランツ様は生きていると言っていたとルドルフ様は仰っていましたよね。その真偽を確めるまでは故国を離れたくなかったのでは?」
「そうだな、彼女、フランツ王子のことになると見境無いところがあったから」
「・・・お兄様の側に行ってしまわれたのかも知れませんね」

「その妖魔族の言う事が本当だったとしたても、フランツ王子は妖魔族に囚われているという事だし、いくら女の格好をしているといっても王子だと分かれば命に関わるよな・・・」
「ラインハルト様・・・」

「アルベルト殿、僕は今すぐにでもルドルフを探しに行くべきだと思いますか」
「難しいところですが、万一貴方までが妖魔族に囚われてしまうようなことがあれば兄上の命運も尽きてしまう、ひいてはこのフィルデンラントも・・・。
ルドルフ様のことも心配ですが、一刻も早く兄上を救出されるほうが先決だと思います」
「やはりそう思いますか」

「兄上はかなり危険な状態なのでしょう?貴方がケンペス将軍の下に身を寄せた事が分かれば宰相ヴィクトール殿も対抗策を取ってくるはず。下手をしてヴィンフリート様の身柄を他へ移されたら厄介です」
「ああ、僕も少しでも早くヴィンフリートを助け出したいと思っているんだ」
「ええ、国王様の身柄を確保すればヴィクトール殿を国賊として討伐できる。ケンペス将軍が決起すれば他の将軍方も後に従うでしょうから」

「でも妖魔族が黙って見ているだろうか。必ず手を打ってくるだろうし・・・」
ラインハルトはグリスデルガルドの戴冠式当日の惨事を沈痛な面持ちで思い出した。
あの圧倒的な力と手際のよさ・・・
テレシウスを抱きこんだとはいえ、たった二人で王城を制圧してしまったルガニスとカタリナという二人の妖魔族の姿を―――

「今こうしている間にも向こうは何らかの手を打っているかもしれませんね・・・」
アルベルトが考えに沈みながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
「アルベルト殿、僕は・・・すぐにでもヴィンフリートを連れ出しに戻るべきだろうか、どう思う?」
「そうですね・・・」

ラインハルトは赤いオーブを取り出して日に透かしてみる。
それを眺めながらアルベルトは言った。
「妖魔族は神出鬼没、しかも行動は迅速だ。こちらも出来る事は早めにやっておいたほうがいいかも知れませんね、彼らが行動を制約される昼間のうちに」

そういえば、とラインハルトはルドルフに聞かれたあの遺跡の神格文字の事をアルベルトに語った。
「・・・神を讃える言葉・・・、それを妖魔族が・・・、ですか」
アルベルトは深く考えながら呟く。
「その神は、多分、我等が信奉するエリオル神とは別の神、でしょうね、彼らの信仰する・・・」

「ああ、僕もそう思う。ルドルフとはその遺跡を見に行こうと言っていたのだが・・・」
あの時、このオーブで飛ばなければ港へ行く途中、その遺跡へ寄ってみるつもりでいたことをラインハルトは思い出す。
彼女はいまごろどうしているのだろう。もしかしてあのままグリスデルガルドに留まってリヒャルトたちと一緒にいるのかもしれないが・・・

そんなラインハルトの様子を見てアルベルトは
「とにかくヴィンフリート国王の事は急を要する、この離宮内に宰相のスパイがいるとしたらラインハルト様の事は既に知られているでしょうから」
「そうだな。この離宮の周囲には結界を張ったから魔法で連絡をつける事は出来ないと思ったが、少し離れてしまえば・・・」
「そうですね、こんな手はどうでしょう・・・」







フィルデンラント
王城
謁見の間

国王のフリをしたクリストフは玉座に腰掛け、東の国ゲルトマイシュタルフからの使者の口上を聞いている。
その傍らでは宰相ヴィクトールが満足そうな笑顔を浮かべて自分が見出してきた影武者の堂々たる国王ぶりを眺めている。
使者は人払いを願い出た上で北の隣国アイゲンシュタインでのここ最近の奇妙な動きについて述べ始めた。

アイゲンシュタインでは数年前国王が急病で倒れ、第一王子が摂政という事で国務を代行している。
それはよくあることなのだが、この一年余りの間に急速に軍事力を強め、強力な軍事国家に生まれ変わりつつあり、特に南に向けての軍備が強化されているように思われる。

つまりはゲルトマイシュタルフとしてはアイゲンシュタインに脅威を感じているという事で、白の帝国初めアイゲンシュタインを除く八聖国に同じ内容を伝える使者を送っているという事だった。
ゲルトマイシュタルフはアイゲンシュタインに併合されるのでは、という危機感を覚えているのだろう、それを帝国が容認するとは思えないが・・・

クリストフは使者の言葉を聞きながら漠然とそう思った。
フィルデンラント初め他の八聖国にも同じ使者を送ったということは、いざと言うとき軍事的援助を請いたいということなのだろう。
ヴィクトールは僅かに身体の向きを変えさりげなくクリストフに合図を送る。
それを見たクリストフは使者にねぎらいの言葉を送り、ゆっくり休むよう告げた。

使者が退出してしまうとクリストフはヴィクトールに
「宰相閣下、今のことどう思われますか?」
とおずおずと尋ねた。

「クリストフ、私室以外では私の事はヴィクトールと呼び捨てにしろ、それから、お前はそのようなこと気にする必要は無い。あくまで私の指示通りに国王の振りをするだけでよい」
ヴィクトールはそういうと手を差し出し、クリストフを立ち上がらせる。

「ですが・・・、戦争が起こるのでしょうか?」
ヴィクトールは軽い笑みを見せると
「そういうことになるかも知れぬが、東国でのこと、まず我等に直接関わってくるような事もあるまいよ」
と言って退出を促した。

戦争の予感に思い気分になりながらクリストフは先に立って謁見の間を出る。
ラインハルトの来訪以来クリストフはさりげなくヴィクトールの動静に注意を払っていたが、ヴィクトールはラインハルトの事は気付いていない様子だ。
城の内外にも目立った動きはなく、クリストフはほっと安堵の溜め息を付いていた。

私室へ戻り扉を閉めた途端、背後から今までよりも低めのトーンで声が掛かった。
「そういえば、近頃とくに変わった事はなかったかな」
驚いて振り向くクリストフにヴィクトールは少し皮肉な笑みを見せる。

「変わったこと、といいますと?」
務めて平静を装ったつもりだが上手く誤魔化せたろうか・・・
そう思いつつクリストフはヴィクトールの顔をじっと見詰めた。
「いや、何も無ければいいんだ、私の気のせいかも知れぬ」
「ヴィクトール様・・・?」
クリストフは不安そうな表情を隠しきれずおずおずと宰相を見詰めた。

「いや、お前がどうこうという事ではないのだ、近頃何者かが城内に侵入したらしい形跡を感じると言う者がおってな・・・」
「形跡・・・ですか?」
「ああ、その者が言うには城内で魔法が使われたらしい。気付いた時には大分時間が経ってしまっていたので確かとは言えないらしいが・・・」

「でもこの城にもお抱えの魔導士が何人もいますし、魔法が使われてもそう不思議な事では・・・」
「彼らは皆心当たりが無いと言うのだ。魔法が使われた場所が少々微妙なところだからな、連中が嘘を付いているとも思えないのだよ」
「それは一体・・・」
クリストフは言葉も無くヴィクトールを見詰める。

そのクリストフを値踏みするような目で眺めやりながら
「何もなければそれでいい。少しでもおかしなことがあったらすぐに私に言うのだ、よいな」
ヴィクトールはそういうと静かに国王の私室を退出した。







フィルデンラント
王城
国王ヴィンフリートの私室

ヴィクトールと別れぐったりと椅子に座り込んだクリストフは大きく伸びをするとほっと一息ついた。
宰相閣下は恐らくラインハルト王子のことを感づいて自分にカマをかけてきたのだろう、そう思った。
今のところは自分が王子と接触した事は知られずにいるようだが、このことを何とか王子に知られる術はないだろうか、と思う。
それに東方での不穏な動きについても―――

西のフィルデンラントと東のゲルトマイシュタルフで同時に戦争が起こりつつある、これは本当に偶然なのだろうか・・・
南に向いた窓から眺めるもなく外を眺める。
この大地のずっと向こうではケンペス将軍がグリスデルガルドへの渡航のため大軍を擁して駐留しているアディエールの港がある。
ラインハルト王子は賢者ゲラルドの屋敷へ向ったままだが、いずれはケンペスを頼って行くことになろう。
ケンペスが王子の意を受けて動き出したらヴィクトール殿はどう出るのか・・・

クリストフは視線を東方へと転じる。
深い森と高い山並みの向こうには白の帝国があり、その向こうにもまた東の国々が横たわっている。
アイゲンシュタインの脅威はゲルトマイシュタルフとは反対の隣国、ノルドファフスベルクにも及ぶ事になるかもしれない。
そうなればノルドファフスベルクとは国境を接しているフィルデンラントとて対岸の火事と抛っておく事もできまいに・・・

クリストフはヴィクトールのあまりにも落ち着き払った様子に、もしかして彼は既にこの情報を知っていたのではないだろうか、と疑念を持った。
どこまでも広がる青空には数羽の鳥が飛び交っている。
この平和な風景からはこれから戦争が始まるかもしれない事など微塵も予感できなかった。

クリストフは国王が愛した竪琴にそっと手を触れてみた。
弦の上をさっと手を滑らすと美しい音色が響いて消える。
いくら上手に国王を演じてみても、この楽器を同じ様に演奏する事はできない。
同じ様に自分には国政を動かすことなどできないだろう。

それがヴィクトールの意図なのだろうが、このようなことが許されていいはずが無い。
自分は知らぬ間にとんでもないことに巻き込まれてしまったのだ、そう思うと今更ながらクリストフは身体が震えてくるような恐怖感を感じた。

ずっと日陰の存在で一生を終えるはずだった自分が宰相閣下に見出され大事なお役目につけた、クリストフにとっては望外の名誉のお役目であったはずが、結局は謀反の片棒を担がされるハメになってしまったなんて・・・
早くラインハルト王子が迎えに来てくれないだろうか、ヴィクトールの氷の様に冷たい目にじっと見詰められていると本当の事をつい話してしまいそうでクリストフは気が重かった。

ピーッという甲高い鳴き声と共に一羽の鳥が勢い良く窓の外を過ぎる。
この辺では珍しい鳥だ、クリストフは竪琴を元通りに置くと窓辺へ近寄ってみた。
既に鳥の姿は無い。
もう飛び去ってしまったのだろうか。
クリストフは自由に大空を舞う鳥が羨ましくてならなかった。






フィルデンラント
王城
ヴィクトール私室

窓から飛び込んできた鳥はヴィクトールの手に触れ一枚の紙に変わりヒラヒラと床に落ちる。
「ふん、思ったとおりラインハルトはケンペスの元に身を寄せたか・・・」
そう呟いたヴィクトールが呼び鈴の紐を引くとすぐに従者が飛んでくる。

「ヴィクトール様、お呼びでございますか」
「ニコラス、やはり睨んだとおりだったぞ。ラインハルトとケンペスが手を結んでしまった」
その姿を認めヴィクトールは間髪を入れずに声をかけた。

「ほう、やはり城内に残った魔法の痕跡はラインハルトのものでしたか。しかし動きを見せるのが思ったよりも遅かったですな」
「まあ、ラインハルトとしてはほとぼりを冷ましたつもりだろうが、まだまだ子供だな、こうも簡単に尻尾をつかませるとは」
そう言ってヴィクトールは見事な銀髪を軽くかき上げた。

「そもそもこの城内で魔法を使ったのが迂闊でしたな。魔法を使えばどうしても大気が揺らぐ。いくら時間が経とうとも我等の目はごまかせません」
「まあ、あれはちょうどお前がこの城を離れていた間だったので、気付くのが遅れてしまったが・・・」

「あの時は東部で不穏な動きがあると閣下が私に国境の視察をお命じになられたのではありませんか。暴動を初期段階で抑えられて結果としてはよかったわけですが・・・」
「そうだったな、間が悪かったな・・・」

「あの日は我等にとっては運命の日とも言える日に当たっていて、グリスデルガルドでも大規模な作戦が展開されましたからね。正直ラインハルトの探索に避ける人手が少なかったのです。
まあおかげで作戦は大成功、我らの勢力範囲は格段に広がったというわけですが」

「ふん、私の協力にも感謝してもらいたいものだ」
「ふふ、閣下には大いに感謝しておりますよ、何と言っても大量の新鮮な血を我等に提供してくださったのですから。何万と言うフィルデンラントの兵士の・・・ね」

「本当ならケンペスの軍勢は根絶やしにしてやるつもりだったのだが、あやつ妙に勘がよくてな、何やかやと理由を付けては本隊を渡航させようとはしなかった。
それでも手勢の大半はグリスデルガルドに渡ったはずだから・・・」

「本当に恐ろしい方だ、ご自分のあくなき欲望のためには自国の兵士の命すら顧みないとは・・・」
「無礼な事を言うな、私は私利私欲のためにやっているのではない、あくまでフィルデンラントの事を思い行動している。あの腑抜けなヴィンフリートに任せておいてはこの国はいずれ滅びてしまう。
この国を建て直し帝国と並ぶ、いやそれ以上の力を付け大陸に君臨するためには多少の犠牲もやむを得まい。今やフィルデンラントはそこまで追い詰められているのだ。
なのに国王は歌舞音曲の類にばかり現を抜かして国政を顧みようともしないのだからな」

苦々しげにぶどう酒を口にするヴィクトールを盗み見ながらニコラスは思う。
―――ふん、好きなだけ奇麗事を並べるがいいさ。どう言い繕おうとお前のやっている事は反逆だ。
国王が愚昧なら弟であるラインハルトを王位に就ければよい。それを自分が取って代わろうというのだからな、謀反以外の何だと言うのだ。
過ぎた野望は身を滅ぼす元。まあ我等にとっては好都合だが・・・

そこでふと思い出したようにニコラスは
「にしても、ラインハルトはどうやってこのフィルデンラントへ渡る事ができたのでしょう」
と疑問を口にした。
「わが同胞の情報では王子が魔法を使った形跡は無かったそうですが・・・」

「さあな、私には分からん。だがヤツはこの城から更に移動して今はケンペスのところにいるらしいからな。何か特別な移動の方法があるのかも知れんな」
「特別な方法、ですか・・・」
「ああ、そういうことに関してはお前たちのほうが詳しいのだろう?」
「まあそうですが・・・」

不審気に首を捻るニコラスを尻目にヴィクトールは
「さて、切り札を手中にしてケンペスとしてはどう出てくるかな」
と状況を愉しむように微笑を漏らした。

「まず、ラインハルトの生還を発表して閣下を国賊として討伐の軍を興しましょうな」
「だが、こちらにも国王と言う切り札がある」
「その国王の事ですが」
「抜かりは無い。ラインハルトといえども絶対に見つけられぬ場所に移してある」
「・・・」

「どうした?ニコラス」
「国王の身柄は我等に引き渡す、そういうお約束だった筈では・・・」
「分かっているさ、だがこの国を完全に手中に治めるまでは私にも担保が必要と言う事だ。国王の血はこれまでどおり提供すれば問題なかろう?
お前たちは東方でも着々と手を広げているようだし」

「それはそうですが」
「それよりケンペスへの対策は?妖魔族としてはどう手を打つ?」
「手もなにも・・・。我等がその気になればケンペスの軍くらいはどうとでもしてみせますよ。
できればケンペスの本隊もグリスデルガルドにおびき寄せたところで手を打ちたかったのですが、致し方ないでしょうな」

「本当にお前たちに任せておいて大丈夫なのだろうな」
「閣下の方こそ・・・。ケンペスの軍が全滅し、東方の部隊も骨抜きとあらば、その隙をねらう国もあるでしょうに」
「例えばノルドファフスべルクか?」
「あちらは当方の隣国アイゲンシュタインの動きに釘付け状態、この国に手を伸ばす余裕はないでしょう。それよりも・・・」
「ゾーネンニーデルンか」

「南の隣国でも賢王と評判の現国王の健康に陰りが見え始めている様子。国政を代行している野心家の王太子はフィルデンラントとの国境に出来た新興国に次々と使者を送り事実上影響下に置いているようですし・・・」

「ああ、我等にとっては何とも目障りな存在だ。そういえば・・・」
「どうかなさいましたか、ヴィクトール様」
相手の端正な顔に浮かぶ不敵な笑みに戸惑いながらニコラスが怪訝そうに尋ねる。
「ふと思い出してな。たしか南国の姫君はラインハルト王子のお妃候補の一人に上がっていたはずだ」
「ほう、それは・・・」

「国王も帝国の第三皇女と婚約中だが相手がまだ十三だからな、婚姻はお預けだ。
弟の方が先に結婚というのもどうかと思ったが、国王は来年ラインハルトが十六になった時点で結婚させメルヴァントの公爵領を継がせる気でいたから・・・」

「しかし王子は唯一の王位継承者のはず」
「だからよ、ヴィンフリートは自分にもしもの事があったときの為にもう一人王位継承者を作っておきたかったのだ。
ヴィンフリートは子供の頃から病弱だった。恐らく子供は作れないだろう。本人もそれを薄々分かっているのさ。
勿論ラインハルトはそんなこと夢にも思ってはいないだろうが」

「ならば・・・、ラインハルトが死んだとなれば本格的に干渉を考えてくるかも知れませんな」
「まあ、それこそ手はいくらでもある。ケンペスがラインハルトを前面に押し立てて攻勢を掛けてくるならこちらはその逆手を取るまでさ」
その余裕たっぷりの態度を見遣りながらニコラスはまだ裏がありそうだ、と内心考えていた。
「・・・とにかくケンペスの動きに備え味方の応援をフィリップ卿に頼む事にいたしましょう」
そう言ってニコラスはヴィクトールの部屋を辞した。

―――どの道妖魔族は昼間は動けぬ、か・・・。あのニコラスの様に人間の血が混じっているものはどうにか動きが取れるようだが、純血の妖魔族は光が苦手だからな
ニコラスの姿が見えなくなるとヴィクトールはお気に入りの極上の葡萄酒をグラスに注ぎ、その芳醇な味わいをゆっくりと堪能した。








フィルデンラント
南部の港ヴェルシェスト

無事航海を終え朝方港に停泊したエメロット号は昼過ぎには公安の検閲も終え、乗組員たちも無事上陸を許可された。
ルドルフの事を目を瞑ってもらうため、さらに多額の路銀をぶったくられたテオドールは内心文句を言い足りないくらいだが、それを口にする事はできない。

一目で上物と分かる服を身に付けた育ちのよさそうな少年を公安の目を掻い潜って船から連れ出す為に、船長は重ねて多額の金を要求してきたが、リヒャルトは黙って要求に応じるようテオドールに命じたのだった。

今後の事を思うと溜め息が漏れるのをとめられないテオドールだが、肝心の主人は一向に気に留めない様子だ。
まあ、ルドルフの笑顔を見れば愚痴などどこかへすっ飛んでしまうのも事実なのだったが・・・

「ルドルフ様は男として暮らすのなら普段着の服が必要ですね。その服では上等すぎて余計な人目を引いてしまうでしょうから」
そう言ってリヒャルトはテオドールにルドルフの年頃の商家の子弟が着るような服を調達してくるよう言いつけた。
洋品店で手頃な服を物色しながらやはり溜め息がもれ出るテオドールである。

ルドルフはあのマティアスに服を貸してもらったと言っていた。
素材も織りも非常に上質のものであることはテオドールにもすぐに分かる。
とくにおしゃれなドレスシャツは何の材質で織られているのか、柔らかくしなやかで独特の光沢があった。
売れば結構いい値段がつくだろうがルドルフはその服を絶対に手放そうとはしないだろう。

ルドルフは時折ポケットから白い石を取り出してはそっと溜め息を吐いている。
その石もきっとあのマティアスという妖魔族にもらったのだろうとすぐに見当がついた。
たった二日ほど会わなかっただけで王女様は随分変わった、とテオドールは思う。
何処がどうという事ではなく全体の雰囲気が・・・

以前リヒャルトは女の子はすぐに大人になるとか言っていたが、本当にそんな感じだ。
恋は女を変える・・・か―――
まあ、確かに相手があの男では妖魔族だという事を割り引いてもラインハルト王子には少々分が悪そうだ。

テオドールが適当な服を見繕ってその日の宿を取った宿屋に戻ると、ルドルフは窓辺に座って遠くの空を眺めていた。
テオドールが戻った事に気付いてすぐに振り向いたが何を思っていたかは一目瞭然だ。
リヒャルトは情報を集めてくるといって出かけたらしい。
王女様はテオドールから渡された服を手に取ると、少し躊躇った後、着替えてくるといって続きで取った隣室へ姿を消した。

やがてリヒャルトが戻って来ると気配を察してかルドルフも再び姿を見せた。
テオドールの買って来た服はルドルフにピッタリだったがテオドールにはどうしてもルドルフが男の子には見えなかった。
いくら父親の遺言とはいえ何だか痛々しい―――そう思ってテオドールは視線を逸らせた。

リヒャルトはそんなテオドールにはお構いなしにつかつかとルドルフに近寄ると、
「グリスデルガルドで何か変事が起きたようです」
と緊迫した表情を隠しもせずに話し始めた。

「変事って?」
「詳しくは分かりませんが港の公安詰所ではなにやら緊迫感が漂っているようです。グリスデルガルドから危急を報せる使者を乗せた早船がアディエールに着いたらしい」
「・・・!」

「しかし、御主人様、俺いや、私は先程王女様の服を買いに街へ出ましたがそんな話はぜんぜん聞きませんでしたぜ」
「ああ、街の連中はまだ知らぬだろう。アディエールへ早船が着いたのは三日前の事らしいからな」

「でも、リヒャルト殿はどうしてそんな事が分かったのですか?」
ルドルフが不思議そうに聞く。
「私は普通の人よりも遠目遠耳が利くのでね。港の公安詰所の様子を見てきたのですよ。アディエールの駐屯軍からこの地の兵士にも警戒態勢を取るよう連絡があったようです」

「そうなんですか・・・」
ルドルフは驚いてリヒャルトを見詰めている。
この人は一体どういう人なんだろう、と。
ルドルフはあの後マティアスとどういう知り合いなのか聞いてみたが、旧い知り合いだと言うだけで上手くはぐらかされてしまって答えてはもらえなかった。

だが単なる知り合いだとは思えない。
以前自分の両親の事もよく知っていると言っていた。
妖魔族ではないようだが、普通の人間とも思えなかった。

「アディエールはフィルデンラントで一番大きな港でしたね」
ルドルフはフィルデンラントの地理を思い出しながら呟いた。
「ええ、商港であり軍港でもある。今はケンペス将軍が駐屯しているらしいですが」

「ケンペス将軍・・・?」
「音に聞こえたフィルデンラント一の猛将ですな、ルドルフ様はご存じないですか?」
テオドールがやっと口を挿む番が回ってきたとばかりに得意げに話し出した。
「うん、僕は・・・」

フィルデンラントはグリスデルガルドの宗主国だ。
ルドルフとしては何かにつけて祖国を見下してきたフィルデンラントに対し子供の頃からずっと好感情は抱けなかった。
国王や王子の名前くらいは聞いていても他のことを積極的に知ろうとは思わなかったのだ。
ラインハルトの事にしても実際に会ってみるまでは、これほど親しみを持てるようになるとは露ほども思っていなかった。
それだって初めは王室付きの魔導士だと思ったから・・・

「アディエールに駐屯中と言う事は、これからグリスデルガルドに渡るつもりなんだろうな・・・」
ルドルフはそう呟きながらラインハルトは今頃どうしているのだろうと思った。
お兄さんは助け出せたのだろうか・・・
ラインハルトには無事に兄ヴィンフリート国王との再会を果たして欲しい、とルドルフは思った。
少なくとも自分の様な苦い思いをしては欲しくない。

あの白い石は今でもフランツの様子を映して見せてくれる。
その穏やかそうな暮らしぶりを見るたびにルドルフは胸が締め付けられそうになった。
どうにか涙を堪えていられるのはリヒャルトやテオドールが側にいるからだ。
そうでなければみっともなく泣き崩れてしまうだろう。

そしてフランツの事を思うと考えずにはいられない相手の顔が脳裏に浮かんだ。
マティアス―――
リヒャルトの話によると、フィルデンラントの軍が壊滅的な打撃を受けたのはどうやらルドルフがあの不思議な墓所でマティアスと出合った夜らしい。
あの時自分があんな事を言わなければ、彼はもう少しだけでも一緒にいてくれたのだろうか・・・
そう思うとまだ胸が痛い。

そういえばマティアスは不思議な事を言っていた。
―――そんな格好をしているとお前はあのルドルフに似ているな
あのルドルフ、とはルドルフ一世のことだろうか、僕と同じ黒髪に菫色の瞳の・・・
マティアスはルドルフ一世を知っている、彼の口ぶりからはそう伺えた。

我等はお前たちから見れば想像も付かないほど長い時を生きる―――
遥かな時を生きてきたマティアスは四百年前にルドルフ一世と会って戦ったのだろうか。

フィルデンラントの王子であったルドルフ一世は、故国を旅立つ時には金髪で水色の瞳をしていたという。
きっと、ラインハルトのような澄んだ薄水色の瞳をしていたのだろう。
そして日の光に溶け込むように輝く金髪で―――
ともに郊外での乗馬を楽しんだとき、風になびくラインハルトの綺麗な金色の髪を正直少し羨ましく思ったことをルドルフは懐かしく思い出した。

「・・・でどうでしょう、ルドルフ様」
不意に我に返ったルドルフは一瞬きょとんとリヒャルトを見返した。
「あ、すまない、ぼんやりして聞いてなかった・・・」

「大丈夫ですか、まだ具合が悪いのでは・・・?」
心配そうに覗き込むリヒャルトにルドルフは笑顔を作って見せた。
「ああ、もうすっかり元気だよ、ちょっと考え事をしてただけだ、で、何の話だっけ?」

「ええ、これからどうしましょうか、という事で。アディエールへ向ってみますか?
厳戒態勢が敷かれているとは思いますがラインハルト王子の情報がつかめるかも」
「そうだね・・・」

正直言うと今ラインハルトに会うのはルドルフとしては少し気が重い。
今のルドルフは妖魔族との戦いに以前の様には向き合えなくなっている。
だが、その気持ちをラインハルトに分かってもらえるとは思えなかった。
兄を助け国を救わんとの気概に燃えているだろうラインハルトにフランツの事をどう伝えればよいだろう。
フランツがもう戦う気が無いのなら自分もまた・・・

いや、自分の心境の変化はフランツのためだけではない。
自分はマティアスと戦いたくないのだ。
そんな自分を見たらラインハルトは裏切られたと思うかもしれない。
友人としては彼が兄国王と無事再会できるよう出来るだけ力になりたいと思っている、その気持ちに嘘はないのだが・・・。

「分かりました、ではこの街で少し休養をとり旅装を調えたらアディエールに向いましょう。で・・・」
リヒャルトは一瞬躊躇った後言葉を続けた。
「ルドルフ様はこのまま男の姿を続けるおつもりなのですか?」

「勿論だ、僕は一生男として生きる、そう決めたんだから・・・」
どうして男の格好してるのか知らないが、どの道そういつまでも誤魔化しきれるもんじゃないと思うぜ―――マティアスにはそう言われてしまったが・・・

リヒャルトは何ともいえない微妙な顔つきでルドルフを見遣った。
テオドールはその様子に主人も自分と同じ事を考えているのを感じた。
無理に男の振りをするのは止めて女に戻ったほうがいいのだが―――と。