暁の大地


第十ニ章




フィルデンラント
王城

数人の使者とともに城門を潜り抜けたラインハルトは、取りあえず控えの間に通された。
使者を表す白いマントの下に衛兵の制服を纏ったラインハルトは警備の目が緩んだ隙を狙ってマントを脱ぎ捨てるとそっと部屋を抜け出した。

腰にはルドルフから預かった剣を下げている。
太身の剣は少し目立つが妖魔族対策の為には持っていたほうがいいと思われた。
ヴィクトールは偽国王とともに使者を謁見する為の準備を整えているはずだ。
少しでも彼の目が逸れているうちに何とか兄の捕らえられている牢獄へ忍び込みたかった。

例の通路は今日は両方の出口に警備兵が立っている。
警備の兵を元に戻したのか。
もしかして先日自分が侵入したことを知ってヴィクトールがまた配置することにしたのだろうか・・・

ラインハルトは通路入り口の前で逡巡した。
柱の陰からしばらく様子を伺っていると、反対の方向から数人の人声が響いてくるのが聞こえてきた。
「おい、隊長がお呼びだ、至急詰め所に集合せよとのお達しだ」
そのうちの一人が警備の兵に口早に話しかける。

「隊長の?だがここの警備は?ニコラス様からここは決して持ち場を離れてはならないときつく命令されているのだが・・・」
「そのニコラス様のご意向だそうだぜ。とにかく伝えたからな!」
「ああ、了解した」
警備兵は仲間に一歩遅れながら歩き出す。

とっさに壁際によけて自分もまた警備中を装ったラインハルトに先ほどの兵士が
「聞こえたろう、集合だ。お前も早く来い!」
と言い捨てるようにして一団の兵士たちは遠ざかって行った。

何かあったのだろうか、ニコラスとは一体誰のことだろう―――
少し気にはなったがこのチャンスを逃すのも惜しく、ラインハルトは兵士たちの姿が完全に見えなくなるまで見送ってから足早に通路に入った。

この間と同様静かに扉を開け、暗くて狭い通路をたどる。
痕跡を残さぬため燭台に手を触れなかったラインハルトはあまりの暗さに魔法で明かりをと思ったが、取りあえず今はやめておいたほうがいいと思い直し、壁に手を当てながらゆっくりと地下への階段をおり始めた。

どこかに通風孔があるのか空気はさほど澱んでいない。
壁はうっすらと湿り気を帯び、足元もぬれて滑り易い。
大分目が慣れたがどうにも心もとない足元に気を急かされながら、ラインハルトは兄の下へと急いだ。

永遠に続くように思われる長い階段を降りきって牢獄の扉が並ぶ場所へと辿り付いたラインハルトは、兄の閉じ込められている部屋の扉へと一目散に駆けつける。

錠前も扉の様子もこの前の時とどこといって変わったところは無い。
この錠前だけは魔法を使わなければ壊せない、ラインハルトは力を抑えてそっと錠前を壊した。

「兄上?」
そっと声をかけたが返事はない。
サイドテーブルに置かれた燭台に灯る仄かな明かりにを頼りにラインハルトはベッドへと近寄った。

「兄上!ご無事で・・・」
ベッドの上に横たわった人物は頭まですっぽりと毛布を被っていて身動きもしない。
「兄上、お休み中なのですか・・・?」

はやる心を抑えそう小声で呼びかけたラインハルトは返事を待たずに少しだけ毛布を捲ってみた。
これでは息が苦しいだろうと思ったからだった。
だが、ベッドに横たわる人物を一目見た途端、ラインハルトは驚愕で息を呑んだ。

「なんてことだ・・・クリストフ・・・」
木製の粗末なベッドに眠っているのは兄と良く似ているが別人―――
影武者として国王の務めを果たしているはずのあのクリストフだった。

その顔は蒼白で、息をしていない事は一目で分かったが、ラインハルトはそっとその頬に手を触れてみた。
まだほんのり温かみが残っているところを見ると、命を失ってそう時間は経っていないようだ。

さらに毛布を捲くったラインハルトの目に、クリストフの左胸に無常に突き刺さった短剣の柄が飛び込んできた。
見事な象嵌の施された高価そうな短剣。
これは確か歴代の国王のコレクションの一つとして宝物倉にしまわれていたものの一つだ。

「これは・・・」
ベッドの上からクリストフの腕が滑り落ち、その手首につけていた金象嵌のブレスレットがカランと音を立てて床の上に落ちた。

「いけない」
金細工の立てた思いがけない大きな音に慌ててブレスレットを拾い上げたラインハルトの耳をつんざくように、
「貴様、何者だ!国王陛下を手にかけるとはなんと恐れ多い・・・!」
と言う大音声が辺り一面に響き渡った。

「なっ・・・」
いつの間に現れたのか見知らぬ男が扉を開け放して立っている。

道服の上に黒いマントを羽織ったその男は
「大変だ、大変だ」
と大声で騒ぎながら傍らにつれていた従者に、
「国王陛下が不届き物に暗殺された!大変な事だ、すぐにヴィクトール様にお知らせしろ!それから衛兵を・・・」
と口早に命令すると自分もゆっくりと後退り、軽く手を振った。

ガラガラとあちこちでバケツを転がしたような金属製の大きな音が響き渡る。
「くそっ!」
とっさに手にしたブレスレットを腕にはめるとラインハルトは小さく舌打ちし、男を取り押さえるべく駆け寄ろうとしたが、その目の前にいくつもの黒い影が床から盛り上りラインハルトの行く手を阻んだ。

影はすぐに人の姿となり、気が付くとラインハルトは周囲を影から現れた黒衣の者達に囲まれてしまった。
「お前たち、妖魔族か・・・」
「まあな、この者どもは闇の中でなくては動けない。こんな場所の警備はうってつけ、というわけだ。国王ヴィンフリート陛下は亡くなられた。乱心した衛兵の手にかかってあっけなく、な」

「ふざけるな、これはヴィンフリートではない!」
ラインハルトは光の魔法を発動し、周囲の妖魔族を一気になぎ倒した。
「ほう、お前は衛兵の癖に魔法を使うのか・・・」

「ふざけるな!僕は・・・」
「何だ?」
発動した光が消えるとまた黒い影が持ち上がり人の形になる。
ラインハルトは再び魔法で妖魔族を打ち倒すと一跳びで男の面前に立つと襟首を掴んで締め上げた。

「僕のことより、国王は、ヴィンフリートはどこへやったのだ!?まさか・・・」
男はニヤリと笑うと
「国王はそこで死んでいるではないか、お前に殺されてな」
という。

「あくまで謀るか!」
ラインハルトは男を思い切り突き飛ばして壁に叩きつけると、腰に差していた剣を抜いた。
「ほう、その剣は・・・」
「この剣に見覚えがあるのか。お前に光の魔法はきかないようだが、やはりこの剣は怖いのか」

ルドルフ王子から預かった伝説の剣だ。
ケンペスに頼んで兵士に稽古をつけてもらったおかげで、この重い剣を少しだが使いこなせるようになったラインハルトだった。

男は人を食ったような笑いを浮かべたまま半歩下がる。
「ふん、見覚えも何も、それはもともと我等一族のものではないか。わずかにエリオルの血を引くといっても人の子のお前にその剣の本当の力を使いこなせるわけが無い!」

「何だと!?それはどういうことだ!?ではルドルフ一世は妖魔族だったとでもいうのか!?」
驚き目を見張るラインハルトの隙を突いて男は扉の隙間から外へと飛び出す。
「待て!」

ラインハルトが続いて飛び出した時、大勢の人声と足音が響いてきて、手に手にたいまつを掲げた数人の人影が駆け寄ってきた。
「ニコラス!何事だ!」
良く響く低い声にラインハルトは眦を決して叫ぶ。
「ヴィクトール、兄上をどこへやった!!」

「兄上?何のことだ」
たいまつの火に輝く銀髪を軽く掻き揚げ、黒衣の男が尋ねる。
その口元には酷薄そうな笑みが浮かんでいた。

「とぼけるな、国王ヴィンフリート三世陛下の事だ!お前は僕の留守の間に兄をこんなところに閉じ込めて・・・」
剣を手にいきり立つラインハルトを愉しそうに見下ろしながら
「おかしなこと、国王陛下の唯一人の弟君ラインハルト王子はグリスデルガルドの政変に巻き込まれ亡くなられている。まあ王子を名乗る不届き者があちこちに出没し詐欺まがいの行為を働いているという噂は聞き及んでいるがな」
とヴィクトールはからかうように言った。

「貴様、僕の顔を見忘れたとでもいうつもりか」
「ふん、衛兵一人一人の顔なぞとても覚え切れんわ」
「ヴィクトール!!」

ラインハルトの叫びをよそに、先程の男がヴィクトールに告げる。
「国王陛下は部屋の中でお亡くなりになられています。どうやらこの衛兵に扮した賊が殺害に及んだ模様です」
「なっ、貴様!ふざけるな、僕が来た時にはもう死んでいた、第一あの男は兄ヴィンフリートではない!」

ラインハルトの言葉にヴィクトールの背後に控えた兵士達にどよめきが広がった。
それを抑えるようにヴィクトールは
「この者が国王陛下をこのような場所へ拉致し弑した、それに間違いないか、ニコラス」
と高圧的な口調で尋ねる。

ニコラスが「御意」という答えを言い終わるのを待たず、ヴィクトールは軽く手を振り、背後に控えた兵士達にラインハルトを捕らえるよう合図した。

「ヴィクトール、兄上はどこだ!!!」
ラインハルトの声は押し寄せる兵士達の叫びにかき消される。
このままでは多勢に無勢、とても勝ち目はないと踏んだラインハルトは内ポケットにしまったオーブを慌てて取り出すと、口の中で軽く呪文を唱える。

兵士達の人垣の中で一際強い赤い光が閃いたのを見てニコラスが
「しまった、逃げられた」
と叫んだが、ヴィクトールはさほど気にした風もなく
「ふん、お前が結界を張っていたのではなかったのか?」
と幾分見下したように言う。

「残念ながら我が結界よりも更に強い力が働いたもようです」
ニコラスは憮然とした表情で答える。
「更に強い力?」
確かに取り押さえたはずの賊が跡形もなく姿を消してしまった事に驚き慌てる兵士達を尻目にビクトールは悠然と長い髪を翻し階段へと向った。

「はい、ラインハルト・・・、いや、あの賊は何らかの魔具を持っていたのでしょう。でなければああもやすやすと我が結界を越える事は出来ぬはずです」
慌ててその後を追いながらニコラスは呟くように言う。

「魔具?一体どのような?」
「それは私にも分かりませぬ。」
ヴィクトールに続きながらニコラスは長い階段を上り始めた。

―――あれは・・・あんな強い光を発せられるのはまさか伝説の聖石の力ではなかろうか。だがそうだとすれば、なぜラインハルトが聖石をもっているのか。一体どういうことだ・・・?

「本当かな?」
揶揄するような口調で振り向きもせず尋ねるヴィクトールにニコラスは表情を読み取られないよう気をつけながら
「嘘など申し上げても仕方ないでしょう。それより至急仲間に連絡を取ってラインハルトの足取りを追う事にいたしましょう」
と答えた。






パンゲア大陸
某所

ラインハルトは兄の下へ行きたいと強く願った。
体の周りを包んだ赤い光は次第に弱まりながら螺旋状にまとわり付くようにラインハルトを取り囲んだ。
その周りは漆黒の闇―――

だがその闇に濃淡があることがラインハルトには感じられた。
―――空間がゆがんでいる・・・

兄上、僕はどうすればお側に行かれますか・・・!
兄上、どうか返事をしてください―――
ラインハルトは心の中で強く念じた。

ラインハルトの耳にかすかな声が聞こえてくる。
優しい懐かしい声―――
―――ラインハルト、ここへ来てはいけない、お前まで殺されてしまう・・・

―――兄上!よかった、生きていらしたんですね!待っててください、今すぐ・・・
ラインハルトは声のする方へ手を伸ばすが、その手に触れるものはなかった。

―――ラインハルト、お前だけは逃げてくれ、そして私の分も生きてくれ。もう王位などはどうでもいい、お前が無事でいてくれたら・・・
―――兄上、僕は

―――私が悪かったのだ、ヴィクトールを信頼しすぎてしまった。常人が知ってはならぬことまで話してしまった。だから彼は・・・
―――兄上、何を仰っているのですか・・・?
ラインハルトは強い力で弾かれ、放り出されたような気がした。

―――ヴィンフリート!!!
叫ぼうとしたが声にならない。
兄の声が聞こえた方へ飛ぼうとするが、その想いとは裏腹に、ラインハルトは抗いがたい力で引き寄せられるように黒い渦に引き寄せられて行った。

渦の中心辺りにぼんやりとした映像が浮かぶ。
初めは何か分からなかったが、近づくに連れそれは大写しになった誰かの瞳であることが分かった。
一見漆黒に見えたその瞳はよく見ると濃い紫色なのだった。

カメラが遠ざかるように瞳はだんだん小さくなり、やがて一人の男の顔が映し出される。
端正だがどこか冷たさを感じさせる陰鬱な表情の若い男だ。
その心中を表したかのように、長く真っ直ぐな髪の色は漆黒だった。

さっきの瞳はこの男のものだったのか・・・
ラインハルトの耳に男の声が響いてきた。
「聖少女は見付からぬか。もうこの地にはおらぬのか・・・」

「はい、我らの結界が及ぶ前に離れたものかと思われます」
どうやらもう一人別の男が傍にいるようだ。

「そうか、大陸に渡られてはやっかいだな」
男の顔が引き、ゆっくりと後ろを向く。
魚眼レンズに映し出されたような映像が少しずつ大きくなり、男の全体の姿や周りの様子が次第にはっきりと見えてきた。

「どうしてもあの娘を探し出したいとお望みですか?私にはあれが聖少女であったとは思えないのですが」
男のすぐ後ろに別の男が跪き、遠慮がちに答えているのが映った。

随分と若い、まだ少年と言ってもいい年頃に見える。
自分といくつも違わなそうだ、とラインハルトは思った。
それにしても、聖少女とは・・・
聞き覚えの有る言葉だが、どこで聞いたものだったかラインハルトには思い出せなかった。

「ああ、そなたの言うとおりであろうな。だが・・・」
最初の男は幾分緩慢な動きでもう一人に近寄ると、その手をとって立ちあがらせた。

若いほうの男は心配そうな面持ちで相手を心持ち見上げる。
その目が本当の一瞬、赤茶色に光ったようにラインハルトには見えた。
あれ、さっきは緑色のように見えたけど・・・

映像はどんどん大きくなっていく。
それにつれ男達の声も大きくはっきりしてきた。
「それでも私はあの娘にもう一度会ってみたい。あれは・・・どこかレティシアに似ていた、そうは思わなかったか?」
「セドリック・・・」

セドリックと呼ばれた男は相手につと近寄り、相手の肩に手を置く。
「今一度私の目となってあの娘を探してはもらえぬか、マティアス。本当に信頼できるのはそなただけだ」
そう言われた若い男の顔になんとも言えない微妙な表情が浮かんで消えた。

「それは・・・ご命令とあれば・・・」
「命令ではない。私は友としてそなたに頼んでいるのだ・・・」
そう言いつつ再びこちらを向いた年長の男の紫色の瞳にラインハルトは自分の姿が映っているのをはっきりと認めた。

映像が大きくなっているのではない、自分がこの空間に引き寄せられているのだ、そう思った瞬間、ラインハルトは抗いようも無いほど強い力で身体を引っ張られるのを感じた。

はっと気が付くとラインハルトは赤い光に包まれたまま薄暗い部屋の隅に立っていた。
先ほどの男二人が顔を黒衣の袖で隠すようにしてこちらを見ている。

「貴様は・・・!」
あの若い方の男がもう一人を背に庇うようにしてラインハルトと向き合った。
オーブの光に照らされたその瞳が様々な色に移り変わりながら輝く様にラインハルトは目を奪われる。
こいつは、確かマティアスと呼ばれていたっけ、そしてもう一人がセドリック―――

「なんとも大胆な刺客だな。単身でこんなところまで侵入するとは」
ラインハルトを包んでいた光が弱まるにつれ、マティアスはゆっくりと腕を下ろし、ラインハルトに一歩近付いた。
その顔に不敵な笑みが浮かぶ。

ラインハルトは手に抜き身の剣を持ったままであることを思い出し、しまった、と臍をかんだ。
この状況では刺客と勘違いされても文句は言えないだろう、だが・・・

この二人と戦うつもりなど、もとよりラインハルトには無かった。
それでも、いくらそう言っても聞いてもらえそうにはない。
この二人は妖魔族だ。
それもこの強い妖力の気配から相当強い力を持っているのが窺える。

瞬時にそう悟ったラインハルトは身を守るため、剣を構えた。
マティアスはほう、というように剣とラインハルトを交互に見て、少しばかり口元を緩めた。

「その剣は・・・」
地の底から聞こえてくるような低い声が響く。
マティアスにばかり気を取られていたラインハルトがはっとして目を向けると、マティアスの背後から食い入るように自分を見詰めているセドリックの暗い瞳と視線がぶつかった。

「エリオルの血を引く者よ、金色に輝く髪と薄水色の瞳を持つ者―――そなたはフィルデンラントの王子ルドルフか・・・?」
セドリックは射抜くような鋭い眼差しでラインハルトを見詰め呟くように言った。

「えっ?」
ルドルフと言う名を口にした時男の目に一瞬浮かんだ深い悲しみの色がラインハルトを戸惑わせる。
だがその悲しみは瞬時に消え、それはすぐさま深い憎悪へと変わった。

「ルドルフ―――我等一族の宿敵。ようもこの私の前に姿を見せられたものだ」
その目に暗い光が浮かび、同時にマティアスが叫んだ。
「落ち着いてくれセドリック、これはルドルフではない!ルドルフは死んだ、とうの昔に・・・」

セドリックの瞳が凶悪な光を帯びその周囲の空気がざわめいた。
凄い妖気だ・・・!
ラインハルトはそのあまりの妖力の強さに圧倒され、金縛りにあったように身動きができなかった。

「ルドルフよ、そなたはなぜまだ生きているのだ、レティシアは死んだというのに・・・」
セドリックの声は低くくぐもり辺りの空気をビリビリと奮わせた。
「ちがう、僕は、僕の名はライン・・・」
「セドリック!!!」

セドリックの手が伸び黒い霧となってラインハルトに迫る。
その霧が首に触れようとした瞬間手にしたオーブから赤い光が迸り、ラインハルトは誰かに襟首をつかまれ、再び強く引っ張られた。

「・・・!」
この空間から引きずり出される―――
そう思ったときあの二人の後ろに立っていたテーブルの上に黒いオーブが置かれているのが目の端に入った。

あれはルガニスに奪われたオーブだ・・・
あっと声を発するまもなく再び不思議な空間に捕らわれたラインハルトは次の瞬間にはまた別の空間に身を置いていた。

満天の星が輝く夜空の只中をラインハルトは漂うように浮かんでいる。
いや、違う。
足は地に付いている、ただそれが感覚として捉えられないだけだ―――

必死で足に意識を集中しようとするラインハルトの頭にセドリックの悲痛なまでの叫び声がこだまする。
―――なぜだ、ルドルフ、なぜそなたは生きているのだ・・・
―――人違いだ、僕は・・・

「僕はラインハルトだ!」
やっと出せた声はだがセドリックには届かなかったろう。
ラインハルトの言葉に答えたのはずっと穏やかな老人の声だった。

「ほう、いい名前じゃの、お若いの」
驚いて辺りを見回し、ラインハルトは小さな聖堂のような場所に尻餅を着いて座り込んでいる自分に気がついた。
目の前には穏やかな微笑を浮かべた老人がこちらを見詰めている。

「あなたは・・・」
この老人には見覚えがある、ラインハルトがそう思ったとき、相手が徐に口を開いた。
「ふうむ、わしは我が弟子を引き寄せたつもりだったのだが・・・、思わぬ御仁が引っ掛かったものだわい。まあいいか、危ないところだったな、ラインハルト殿」






パンゲア大陸
ホーファーベルゲン
聖ロドニウス教会

質素な内装のこじんまりとした辺りのたたずまいを呆然と見回しながらラインハルトは呟いた。
雰囲気からいってここはどうやら教会の祈祷所か何かのようである。
だが祭壇も祈祷台もなく、壁にも窓一つなかった。
どこにも光源は見当たらない、それなのに堂内は不思議な光に満ちていた。

「・・・ここは一体?どうして僕はこんなところに・・・?」
なぜこのような場所に突然来てしまったのか、ラインハルトは訳が分からず目の前の老人に尋ねた。

その服装からしてこの温厚そうな老人は高位の僧侶らしい、そう考え至ったところで思い出した。
「そうか、あなたはアルベルト殿の師匠ですね!」

「御名答!わしは聖ロドニウス教会の学僧長を勤めるオルランドと申します。で、そういう貴殿はフィルデンラントのラインハルト王子、そうですな」
オルランドは少し悪戯っぽい笑顔を浮かべながら手を差し出してラインハルトを立ち上がらせた。

「仰せの通りです。僕はラインハルト・フォン・フィルドクリフト、正確には現国王の弟に当たりますが・・・」
どうやら自分は白の帝国の中心、聖ロドニウス教会総本部に来てしまったらしい、そう思いながらラインハルトは居住まいを正して本当の名を名乗った。
アルベルトの師なら信用できる、そう思ったからだった。

「ふむ、表向き貴方は亡くなったことになっているが、アルベルトからの連絡で本当は生きておられる事は聞き及んでおりました。ただこのことは私と総院長しか知りません。状況がどう変わるか見極めが付かぬうちは貴方の生存を公表するのは控えたほうがいいというのが我ら二人の一致した見解でありますのでな・・・」

オルランドの言葉にラインハルトも深く頷いた。
「僕はこのオーブで・・・」
ラインハルトはそう言ってオルランドに赤いオーブを示すと言葉を続けた。

「兄の下へ行こうと思いました。フィルデンラントでは反逆が企てられ、着々と進行しています。まもなく国王の逝去が発表されるでしょう。
不慮の死、という事に落ち着くと思いますが、本当は兄国王は生きている、少なくともつい先ほどまでは生きていた。僕ははっきりと兄の声を聞きました、不思議な空間で、兄の姿は見えなかったけど」

オルランドはラインハルトの手に乗った赤いオーブを見、自分の掌中にある緑色のオーブを見詰めた。
「そのオーブは弟子アルベルトに渡したもの。あまりにも帰りが遅く連絡も無いもので、オーブを使って渡りをつけてみたのですが・・・」

「僕が強引にアルベルト殿からお借りしたのです。大切なものだと分かっていたのですがどうしても兄を助け出したかったので、でも・・・」

オルランドはラインハルトの肩をポンと叩くと、
「お気になさるな、アルベルトも教会の学僧として学問も積み鍛錬も受けた者、心配には及びませぬ。恐らくどこぞで足止めを食らっているのでしょうぞ」
と穏やかな微笑を見せた。

「貴方が僕を引き寄せて助けてくださったのですよね。そうでなければ僕は今頃・・・」
ラインハルトはそういうとブルッと震えた。
セドリックと言う名の妖魔族が身に帯びた凄まじいまでの妖気は思い起こしただけで全身粟立つようだ。

「あんな映像が見えたのはわしも初めてですわい。赤いオーブの行方を追おうとしたら突然、赤い光と黒い影がこのオーブに映った。光がまもなく人の形となり、影に飲み込まれそうになるのを見て咄嗟に映像に手を伸ばしたら、なんとオーブを突き抜けて別の次元に手が入ってしまったのでな。
こんなに驚いた事は無いと思っとったら、なんとこの手に触れるものがあった!
それが誰かの服だと気付いたので思い切り引っ張っただけなのです。わしはその人物がアルベルトだとばかり思ってましたのでな・・・」

ラインハルトは目を見開いてオルランドの手にした緑色のオーブを見詰めた。
今自分が手にしているものよりは一回り大きい。

「僕が会った妖魔族たちの部屋にもオーブがありました。あれは戴冠式の日妖魔族の男によってグリスデルガルドの王城から持ち去られた黒いオーブに違いありません。その緑色のものよりまた少し大きめだった様に思いますが・・・」

オルランドはしばらくじっと考えていたが、
「そうですな、このオーブには不思議な力が有る、そしてオーブ同志は互いに引き合うようです。貴方は黒いオーブに引き寄せられて妖魔族の元へと飛んでしまったのでしょうな・・・」
とゆっくりと言った。

「その緑色のオーブは異界を開く鍵だと、アルベルト殿は言っていましたが・・・」
「ふむ、我が師へルマン大聖はそう言っておったがの」
オルランドは緑のオーブを静かに懐にしまった。

「それぞれのオーブには独自の力が有るようですな。そしてオーブが集まればもっと凄いことが出来るのでしょう、恐らく」
「オーブが集まれば?」

「はい、実は聖ロドニウス教会にはこの二つのオーブが伝わっておりますが、他にもいくつかあることは言い伝えられているのです。実際いくつのオーブがあるのかは分かっておりませんが。
そのうちの一つがグリスデルガルド王家にある事は押さえておったのですが・・・」

「ふうん・・・」
ラインハルトはじっと掌の赤いオーブを見詰めるとそのままオルランドにその手を差し出した。
「このオーブは聖ロドニウス教会の宝、お返しするのが筋ですね」

オルランドはじっとラインハルトを見詰めたが、
「分かりました、ではお返しいただきましょう」
と言って赤いオーブを手に取った。
オーブを懐にしまい終わった後もじっと自分を見詰めるオルランドにラインハルトは訝しげな視線を向け
「あの、どうかなさいましたか?」
と尋ねた。

「いや、何でもありません、ただ貴方はゲラルド殿によく似ていると思っての。
いや、容貌のことではなく、その気性と言うか性格が・・・。剛毅で真っ直ぐなご気性でいらっしゃる」

「・・・単純で思慮が足りないとよく言われます」
「そうかもしれませんが、わしにはとても好ましく感じられる。貴方はよい君主になられるでしょう」

オルランドの言葉にラインハルトは少しムキになって答える。
「僕は君主になどなりません、それより兄のよき片腕となりたいと思っています」
オルランドはほっとため息をつくと
「そうですな、いや、お気に障ったなら失礼しましたわい」
と言った。

「いえ、そういうことではないんです・・・」
気に障ったわけではない、ただそういう言い方をされると兄の死が前提となっているようで、素直に聞けなかっただけだ―――
ラインハルトはそう思ったが、言葉にすると上手く表現できないような気がしてただそれだけ言った。

オルランドはしばらくその様子を眺めていたが、やがて徐に口を開く。
「まあ、こうしていても仕方ありません、取りあえずわしの僧房においでいただけますかな。 むさくるしいところではありますが、お茶くらいなら召し上がっていただけます。
この教会の畑でしか栽培されていない特別な茶葉から創った珍しいお茶がありましてな。 そんなものでも飲みながらゆっくりお話を聞かせてくだされ」

オルランドは一旦言葉を切って軽く息を吸い込んでから続けた。
「グリスデルガルドとフィルデンラントで実際何が起こり、そして何が起ころうとしているのか、を」
その顔に浮かぶ優しげな笑顔とは裏腹にその声音には厳しいものが感じられ、ラインハルトははっとして老僧侶を見詰めた。

「そうだ、僕は咄嗟に一人で逃げ出してしまったけど、あの後どうなったのだろう」
ラインハルトは手首に嵌めたままになっていたクリストフのブレスレットに反対の手を当てながら呟くように言った。

「ラインハルト様?」
「僕はケンペス将軍からの使者の一行に紛れて王城に入城して兄の閉じ込められている地下牢に侵入したのです。だがそこには兄はおらず、兄の影武者を勤めていたものの遺骸があって、僕は国王暗殺の犯人にされてしまったのです。
僕はこのオーブの力で抜け出せましたけど、僕がどうやって城に入ったか分かっていたとしたら、彼等も無事では済まないかもしれない」

思いつめた表情のラインハルトにオルランドはあくまで穏やかに、だが決然とした口調で諭すように答える。
「貴方は城に引き返すおつもりらしいが、それでは貴方が無駄に命を落とすだけになりかねない。貴方の行動がすでに相手に読まれていたのなら、貴方のお仲間にももう手は及んでいるでしょう。おそらくケンペス将軍のほうにも・・・」

「オルランド殿、でも彼等を見殺しには・・・」
「ラインハルト様、また無事に逃げ出せるとは限らない、今貴方にもしものことがあればフィルデンラントで起きた事の真実を知るものはいなくなる。総院長にも同席してもらいます、我等に話を聞かせてくだされ。その上で対策を講じましょうぞ」

「ですが・・・」
ラインハルトの胸中にはケンペスやその部下達、使者として共に入城した者達の顔が浮かぶ。
「皆が危険に陥っているのが分かっていて、僕だけここで安穏としている訳には・・・」

「ラインハルト様、ではお一人で戻ってどんな心算がおありで?」
「どんな、って・・・」
オルランドにじっと見詰められてラインハルトは言葉に詰まった。

「焦るお気持ちはよく分かります、だが、貴方一人では出来る事は少ない。我等にも力を貸させてくださいませぬか」
「でも・・・」

フィルデンラントに問題に聖ロドニウス教会が関与する事は政治的に何を意味するのか、ラインハルトには咄嗟にどう答えたものか分からなかった。
オルランドが真実を知りたがるその背景にある聖ロドニウス教会の真の目的は・・・

ラインハルトの心にはアルベルトの言葉が引っかかっている。
―――この世をよりよく保つのも聖ロドニウス教会の役目・・・
よりよく―――それが今の場合、フィルデンラントにとっては何を意味するのか―――

ラインハルトが躊躇うのを見てオルランドは
「王子様、少なくともわしには政治的野心はございませんよ。ただ、事は妖魔族がらみなのでしょう、とすれば放っておくことは出来ぬのです。
彼等の力は強大だ。本気で大陸の侵攻を目論んでいるのならば我等も団結して当たらねば、彼等を退けるのは難しい、そうではありませんか」
と尋ねた。

「ええ、仰るとおりですが・・・」
ラインハルトはオルランドの言葉に躊躇いながらも頷く。
「事は急を要するなら、少しでも早く」
そう言ってオルランドは小堂の扉を開け、ラインハルトに外へ出るよう促した。

木立越しに爽やかな日差しが辺りを明るく照らしている。
オルランドについて僧房へと続く回廊を辿るラインハルトの耳に聞こえてくるのは小鳥達のさえずりとそよ風が木の葉を揺らす音だけだ。

なんて心地よい風なのだろう、とラインハルトは思う。
こうしているとこの世のどこかでどす黒い陰謀が企まれているなどとは何かの間違いであるように感じられてしまうな、とオルランドの後を追いながらラインハルトは思った。