パンゲア大陸 ホーファーベルゲン 聖ロドニウス教会 オルランドは僧房にもどり、オーブを鍵付きの引き出しにしまうと部屋で帰りを待っていたまだ幼さの残る少年僧に、院長を呼んでくるついでにお茶を入れてもらうよう料理番にたのんでくるようにと言いつけた。 少年僧は「はい」と言って駆け出すように部屋を出て行く。 「これ、ロナウドよ、院内では走ってはいかんと・・・」 オルランドはたしなめるように言ったが、その言葉はもう少年には届いていないに違いない。 オルランドにバルコニーへ案内され、置かれていた簡易椅子に腰をおろしながら、 「先ほどの僧はまだ幼いようですね」 とラインハルトは言った。 「はい、あれはロナウドという名で、アルベルトと同じ北国の出身でしてね、その縁でわしのところで面倒を見ることになったのですが、あれでなかなか利発なところもある子ですわい。まあ一番の取り柄は素直なことでしょうが・・・」 「こちらへは来たばかりで?」 「はい、ご存知の様にこの大陸に住む男子は十歳で試験を受け、それに通った者は学僧として聖ロドニウス教会に仕えることとなります。二年間出身地の分教会で基本的な学問を受けた後もう一度試験を受け、それに通った者だけがこの本院で僧侶として修行を積むことが許されるのです。 あれはまだ十三ですから、こちらに来て一年足らずと言ったところですかな」 「ふうん・・・」 聖ロドニウス教会の僧侶となる事は、全てを捨てて神の僕として生きる事、それは家族との永遠の別れを意味した。 あんなに幼いのに寂しくは無いのだろうか・・・ ラインハルトはふとそう思ったが黙っていた。 あまりにも愚問だ、と思った。 寂しくないはずがない、だがそれを口にしてもどうにもならないことを幼いながらもあの子は知っているのだ。 いや、あの子だけではない、優秀な頭脳を持って生まれたがゆえに学僧として生きることを余儀なくされた子供たちはみなそうなのだ。 もちろん、あのアルベルトも、そして、おそらくこのオルランドもそうだったのだろう――― まもなくロナウドを従えてオルランドの僧房をおとずれたナタニエル総院長とオルランドと三人、バルコニーから深い森の奥にそびえる稜線の美しい山並みを眺めながら美味しいお茶に心と身体を温められたラインハルトは、これまでの出来事をなるべく端折らずに話し始めた。 二人とも途中幾度も顔色を変えたり、ピクリと頬を動かしたりしたが、ラインハルトの言葉を中断する事は無くただじっと話に聞き入っていた。 兄国王の下を辞してグリスデルガルドに向ってから、オルランドによってこの聖ロドニウス教会の小堂に引き寄せられるまでの顛末を、ラインハルトはなるべく分かり易く語って聞かせた。 ラインハルトがひとまず語り終えて一口お茶を飲むと、ナタニエル総院長はほっと溜め息を吐き呟いた。 「妖魔族の二人・・・ふうむ・・・」 総院長はとくに最後に話に出てきた二人の男に強く興味を引かれたようだ。 「妖魔族―――いや、彼等は自分たちのことをプレヴィア・ロム・アデリアと言うんだったかな」 オルランドが無言で頷くのを見てラインハルトは 「プレヴィア・・・?古語ですか?」 と尋ねる。 「妖魔族、というのは我等人間が彼等を呼ぶのに便宜上つけた呼称、いわば蔑称です。彼等は自分たちのことを妖魔族とは呼びません」 ナタニエルが答えるとオルランドがその後を続けて言う。 「プレヴィア・ロム・アデリア―――現代の言葉に直すと“初めから在る者達”、にでもなりますかな」 「そうなのですか、僕は初めて知りました。でもそうですよね、彼等が自らを妖魔などと呼ぶわけが無い。そうですか、初めから在る者達・・・ですか」 「その流儀で言うなら、我等は後から来た者達となるのでしょうかな。人間は後から来て彼等の住む場所を奪った、彼等から見れば憎い敵となるわけです」 ラインハルトには返す言葉が無い。 この大地は彼等のものだった、それを奪ったのは我々人間・・・ セドリックの瞳に一瞬浮かんだ悲しみの色がラインハルトの胸を衝いた。 「セドリックにマティアス、か。総院長は聞き覚えがおありで?」 オルランドの問いにナタニエルはゆっくりと首を横に振る。 「いや、だがグリスデルガルドから強奪した黒いオーブを持っていたことからして妖魔族でもそうとう上位の者達なのであろうな、その二人は・・・」 「はい、二人ともとても強い力を持っていることが感じられました。特にセドリックのほうは・・・」 あのルガニスなど問題にならないほどの強力な波動に、ラインハルトは蛇に睨まれた蛙よろしく身動きも出来なかったのだ。 あの力の源は何なのだろう―――ラインハルトはセドリックの陰鬱な瞳を思い出し全身を震わせた。 「それにしても・・・」 総院長は手にしたカップを傾け、残っていたお茶を飲み干すと、傍に仕えていた従者にもう一杯皆のカップにお茶を注いでからしばらく席を外すよう言いつけた。 「アルベルトの帰還が待たれますな。ラインハルト殿と別れたのが数日前ならもう国境についてもいい頃だ」 「そうですね、アルベルト殿は一番足の速い馬をケンペスから借り受けて出立したのですが・・・」 「政変のゴタゴタで教会員証も失くしてしまったようですからな、途中幾度も足止めを食らっているのでしょう」 従者は三人のカップに新しいお茶を注ぐと黙礼して部屋を出て行く。 それを目で見送りながらラインハルトはカップを手に取った。 「いや、その点は大丈夫でしょう。アルベルト殿はケンペスが発行した特別な通行許可証を持っているはずですから・・・」 総院長がその言葉に鋭い反応を見せたのでラインハルトは少したじろいだ。 「ケンペス将軍の許可証ですか・・・」 「はい、そうですが・・・」 ラインハルトは総院長を見、ついでオルランドを振り返る。 「ケンペス将軍と王子が手を結んだ事はヴィクトール殿は先刻承知でしょう、ならば将軍が発行した特別な許可証を持っている事は逆に作用してしまうかもしれませんな」 「あっ!」 そうか、南部はヴィクトールの勢力が強い地方ではないが、要所要所で通行のチェックはしているかもしれない、ケンペス発行の許可証を持ったものが通ったらその場に留め置くような通達でも出ていたとしたら・・・ 「分かりました、こちらから数名の者を迎えに出しましょう。同時にフィルデンラント分教会に急使を送ります。聖ロドニウス教会の学僧を名乗るものがもし捉えられるようなことがあれば至急連絡をよこすように、と」 「急使?でもそれでは・・・」 どんなに速い馬でも数日はかかってしまうでしょう、と言いかけたラインハルトにオルランドは 「ご心配いりません、教会には特別な者達がおりましてな、僧侶ではないため表向きは教会の雑役夫ということになっておりますが、彼等を使えば馬で三日かかるところを一昼夜で着くことが出来ます」 と自慢げに言う。 驚くラインハルトにオルランドは 「まあ、そのような者がこの教会内にいることはごく一部のものしか知りませんがな・・・」 と言って片目を瞑って見せた。 それでは、と言って総院長は席を立つ。 「午後の勤行がありますのでな」 慇懃に礼をして退出しようとする院長をラインハルトは思わず呼び止めていた。 「あの・・・」 「どうなされたかな、王子様?」 「あの、もし出来たらでいいんですけど、ルドルフの・・・グリスデルガルドのルドルフ王子の行方を捜して欲しいんです。王子と言っても本当は王女だからいまは女性の姿でいるかもしれませんが・・・」 「グリスデルガルドの・・・。政変の張本人と目されている人物ですな」 「はい、途中まで僕と一緒にいたんですが途中ではぐれてしまって・・・。教会の情報網ならもしかして彼女の行方が分かるのではないかと」 「ふむ・・・。無事でいたとして身分は隠しているでしょうからな、そう簡単に消息をつかめるとも思えませんが、とにかくやってみましょう。大切な生き証人の一人ですからね」 「お願いします、僕の大切な・・・友人です」 総院長は大きく頷くと、ルドルフ探索をラインハルトに固く約して部屋を出て行った。 その後姿を見送った後ラインハルトはオルランドに聞くともなしに聞いた。 「ルドルフ王子が女だったと聞いても驚かないんですね、貴方も総院長殿も・・・」 「はい、帝国や他の諸国は欺けてもこの聖ロドニウス教会の目は誤魔化せません。グリスデルガルド王家の第二子は女の子であったことはすぐに分かってしまいますからね、マリウス王から皇帝陛下と総院長宛に出生届が出された時、その間の事情を説明する書簡がともに届きました」 「書簡・・・?」 「はい、さる重大な事由により王女ルドルフは男子として育てられる旨了承いただきたいと」 「重大な事由?それは一体なんです?」 「その理由は私も聞かされていません。当時の皇帝陛下と総院長のみが知り得た事ですからな。今ではどちらも代替わりなされておりますから・・・」 「先代の皇帝陛下は亡くなられているが、総院長殿は?引退はされてもまだご存命なのでしょう?」 ラインハルトの様子にオルランドは逆に尋ねる。 「そのような事お聞きになってどうしようと言うおつもりですか?王女の事は・・・」 「オルランド様、僕は興味本位で聞いているのではありません、ただ彼女が女性でありながら男子として育てられたその理由が今回のこととなにか関わりがあるように思えてきたのです」 「ふむ、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。だが、残念ながら先代の総院長から話を聞く事は恐らく出来ないでしょう」 「それは、どうしてですか?」 オルランドはふうと長い溜め息をつき空を見上げた。 「先代の総院長、エドマンド様は息をしてはいらっしゃるが生きているとはいえない状態にあるからです」 「?」 「エドマンド様はこの三年間、ずっと眠り続けておられるのです」 |
パンゲア大陸 ゾーネンニーデルン リエナシュタット郊外 ルミナス公爵家の別邸 「テオドール、どう、怪我の具合は」 ルドルフに聞かれテオドールは少し照れくさそうに笑いながら包帯の巻かれた頭を撫でた。 「はい、大分いいですよ。まだ頭が少しぐらぐらしますが、傷口も塞がってきたようだし」 「そうか、顔色もいいようだしよかったね」 ルドルフはベッドの足元に腰掛け、盆に乗せて運んできた果物の盛り合わせをテオドールに差し出した。 「こりゃあ申し訳ないですね、王子様にこんなことまでさせてしまって」 恐縮しながらもテオドールは差し出された皿を受け取り果物を頬張った。 「こりゃ、南国の果物ですね。この季節でも穫れるとは知らなかった」 「ふうん、そうなんだ。道理で見たことの無いものばかりだと思ったよ」 「うん、こりゃあ上手い!一口食べるごとに寿命が三年延びるようです」 痛みに時々顔を歪めながらもテオドールは盛られた果物を次々と口に放り込んでいく。 その様子をベッドの傍らで呆れ顔で見下ろしていたリヒャルトが 「おいおい、テオ、お前一人で全部食ってしまうつもりか?少しは王子様に・・・」 と言ったときにはテオドールは最後の一つを口に放り込んだ後だった。 「おや、これは失礼しました、あんまり美味しかったもんでつい・・・」 テオドールはひょいと頭を下げてルドルフに詫びる格好をして見せたが、本心から悪かったと思っている様子は無い。 だがルドルフは楽しそうな笑顔を浮かべて 「僕はいいよ、さっきご馳走になったばかりだから・・・」 と呟いた。 南国の王女サンドラにすっかり気に入られたルドルフは毎日ほとんど一日中彼女の相手をさせられ少々辟易気味である。 今も、リヒャルトたちと大切な話があるから、と言ってどうにか抜け出してきたところだった。 サンドラは明るくておしゃべりな典型的な女の子だ。 それに好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、納得できるまで相手を質問攻めにして周囲を困らせる事もしばしばだ。 その興味も猫の目の様にくるくるとしかも気紛れに移り変わる。 それに付き合うのは骨の折れる仕事だった。 こんな調子でずっとやっていけるのだろうか―――ルドルフはかなり気が重い。 「わがままお姫様に手を焼いていらっしゃいますか?」 リヒャルトはルドルフの向かいに椅子を引っ張ってきて座るとそう尋ねた。 「ああ、まあね。それだけ大切に育てられたお姫様なんだろうけど」 「ルドルフ様とは大分雰囲気が違いますな」 空になった皿を手にテオドールがおどけて言う。 その皿を受け取りながらルドルフは 「僕も王女として育っていたらああいう感じだったのかな・・・」 と呟いた。 「まさか!天地が引っ繰り返ったってルドルフ様はあんな風にはならないですよ、このテオドールが保障しますぜ」 「こいつの保障などまるっきり当てにはできませんがね、その意見には私も同感ですね」 リヒャルトはルドルフが手にしていた盆を受け取り、サイドテーブルへ置く。 「女性の相手は気疲れするもの、とくに慣れていないお坊ちゃんにはね、すこしばかりここでゆっくり休んでいかれるといい」 「はい・・・」 ルドルフは小さく頷くと、少し躊躇うような素振りを見せた後、遠慮がちに口を開いた。 「あの、リヒャルト殿・・・。前に聖少女の伝説を聞いた事があると言っていたでしょう? その伝説について教えてもらえませんか?あの時はほとんど憶えていないと言っていたけど本当はそうではないのじゃありませんか?」 「ルドルフ様?」 「ずっと頭の隅に引っ掛かっていたんです、聖少女と言う言葉・・・」 それに、お前は聖少女か、と尋ねた声――― まるで咽び泣いているように感じられた痛ましい声も・・・ あの時姿は見えなかったが確かに傍にマティアスがいた。 ということは彼も“聖少女”と無縁ではない事になる。 どんな小さなことでも彼に繋がる事は知っておきたい。 もう一度彼と会えるよすがを掴めるかも知れないことは何でも――― このところ少し落ち着いて考えを巡らせることが出来るようになったルドルフは、自分が思っていた以上にこのリヒャルトと言う不思議な騎士はなにか重大なことを知っている、と思えてきたのだった。 「先史時代の伝説と言うことでしたが・・・」 遠慮がちにリヒャルトを見遣りながらルドルフはそう尋ねた。 「私も祖母から聞いたので、あまりよく憶えてはいないのですが・・・」 リヒャルトは居住まいを正し、ルドルフにきっちりと向き合うとその目を真っ直ぐに見詰めて話し始めた。 「遠い昔、この大地には球体をした美しい輝きを放つ聖なる石が幾つか存在していたのだそうです。 それらの石はある特別な場所で特別な並べ方をすると途方も無い力を有する事ができるのだと、そして聖石それぞれの力を制御してその強大な力を操る事ができるのが聖少女と呼ばれる特別な力を持つ巫女なのだと言われていたそうです」 「巫女―――ですか?」 「巫女、つまり神に仕える未婚の女性ですね。聖少女に選ばれるのはある決まった一族の女性のみ、そして聖少女となったものは数日間神殿に篭り神から特別な力を授かるのだそうです」 「ではその女性は初めから特別な力を持っているわけではないのですか?」 「いや、やはり常人には持ち得ない力を持っている者が選ばれるのだとは思います。だから誰でもなれるわけではない。そういった素地があってこそ、神から与えられた強い力を使いこなす事ができるのではないでしょうか」 「素地・・・」 ルドルフはしばらく考え込んでいたが不意に顔を上げた。 「聖少女になれるのはある決まった一族の女性だと仰いましたよね、その決まった一族って・・・」 「申し訳ないが私もそう詳しく聞いたわけではないので・・・」 リヒャルトの困ったような顔を見てルドルフは 「そうですか」 とだけ小声で言った。 ルドルフの心中には、その一族とはあの不思議な竜眼と呼ばれる目をもつマティアスの一族の事ではないのか、そしてマティアスの姉レティシアこそが聖少女であったのではないのだろうか、という疑問があふれ出している。 明言を避けるリヒャルトの態度も、その推測が当たっていることを裏付けているように感じられた。 「恐らく、貴女が持って現れ、今はラインハルト王子の手にあるあの赤いオーブはその聖石の一つだと思います」 リヒャルトは言葉を選びながらもそうルドルフに告げた。 「やっぱりそう思いますか?」 その問いにリヒャルトはただ無言で頷いた。 「でも、僕はあのオーブで移動する事ができた。僕だけでなく、ラインハルトやアルベルト殿も」 「ラインハルト王子は魔導士です。魔道や占術をよくするものは古の光の一族の血を引いているといいます。まあラインハルト王子はそれ以前に八聖国の王族ですけどね。 アルベルト殿は聖ロドニウス教会のなかでもかなり位の高い学僧でしょう、でなければあの若さでグリスデルガルドの戴冠式に派遣されるはずがない。彼もまたおそらく僅かながらその素地を持って生まれついているのでしょう、本人にその自覚は無いでしょうが・・・」 「!そうなんですか!」 「多分・・・。そして貴女もまたフィルデンラント王家に繋がるもの、オーブの力を引き出すことができたとしてもおかしくはない」 「でも、僕には・・・」 ルドルフはラインハルトとマティアスの言葉を思い出した。 英雄ルドルフに神の血は流れていなかった、とすれば・・・ ルドルフは不安げな面持ちでリヒャルトを見上げたが、相手はただ穏やかな微笑を返してきただけだった。 「そうだ、さっき言っていた光の一族って、何ですか?」 ルドルフは気を取り直したように尋ねる。 リヒャルトは一瞬、まずい事を言ったかなという顔をしたが、 「昔の伝承の一つ、たんなる昔語りですよ。だからあまり真剣に聞かないでくださいね。この大陸にはずっと昔人間とは違う種族が住んでいて、優れた文明を築いていた。 その種族の一つが光の一族と呼ばれていたのだといいます」 と言った。 「へえ、そんな伝承があったなんて・・・、僕は少しも知らなかったな」 感心するルドルフにリヒャルトは躊躇いながらも言葉を継いだ。 「だがこの伝承の事は他のものに言ってはなりませんよ、王子様」 「えっ、どうして?」 「この話は邪説として公に語るのを禁じられているのです」 リヒャルトの真剣なまなざしにルドルフは戸惑う。 「そんな、なぜ・・・」 「それは・・・、唯一絶対の神エリオルを大地の創始者とする神話体系とそぐわないからですよ」 ルドルフはいつか命からがら逃げ出したグリスデルガルドの山中でアルベルトからこの地にははるか昔に滅んだ文明があったという話を聞いた事を朧気に思い出した。 あの時アルベルトもたしか、神話では・・・、という言い方をしていたと思う。 「リヒャルト殿、この世界は・・・」 ルドルフがそう言いかけたとき、サンドラの侍女がルドルフを迎えにやってきた。 ルドルフとしてはリヒャルトからもっといろいろ聞きたかったが、サンドラの命令とあれば彼等の部屋を辞さないわけにはいかなくなった。 リヒャルトはもっといろいろなことを知っている。 なによりマティアスとは知り合いだったのだし――― 聞きたい事がいっぱいありすぎて整理がつかない、もっとゆっくり彼と話せる時間が欲しい、心の中でそう焦りながらもルドルフはサンドラのおしゃべりに気長に付き合ってやった。 初めはただ我儘なだけの王女様かと思ったが、この数日いろいろ話しているうちに結構素直なところのある少女だと分かった。 ずっと日陰の身として扱われ、実の兄ヘンドリック王子ともあまり兄妹仲は良くないようだ。 周囲は義姉たちのスパイに取り囲まれ、本当に気を許せる相手は子供の頃から仕えているアリサという侍女一人だけ。 さらに何者かに身柄を狙われ、落ち着いて寛ぐ事もままならない・・・ そのくせ警備のものが視界に入ることをサンドラは極端に嫌うのだった。 自分が誰かに狙われていると思いたくないのだろう。 サンドラも寂しいんだ、ルドルフはそう思った。 |
パンゲア大陸 フォーファーベルゲン 聖ロドニウス教会 ラインハルトはオルランドの客分として聖ロドニウス教会に一室を与えられ、しばらくそこで暮らす事になった。 オルランドは慣れない教会暮らしでラインハルトが少しでも不自由を感じないようにとあのロナウドを従者として付けてくれた。 ラインハルトとしては兄のことを思うといてもたってもいられない心境だが、フィルデンラントの現状が全く分からないでは打つ手も無い。 それでも何かせずにはいられず、オルランドに頼みこんで書庫の閲覧を許可してもらった。 「本当は部外者は第一の書庫にも立ち入りを許されないのですが、緊急事態という事もあり、王子様は特別ですぞ。 ただ、わしも英雄ルドルフの冒険記録などと言うものは目にした事がありません。妖魔族の生態や歴史などについての記述は散見したことは記憶に残っておりますがな」 他の学僧の手前、僧侶の服を着ることを条件にラインハルトはオルランドに最高機密文書を収めているという第一書庫へと連れて行ってもらった。 重厚な木製の扉の前でオルランドは念を押すようにラインハルトに言う。 「よろしいかな、王子様、この書庫内でどのような文書を目にされたとしても決して驚いてはなりませんぞ」 何時に無く鋭い光を帯びたオルランドの瞳を真っ直ぐに見返し、ラインハルトは無言で頷いた。 書庫はあの小堂と同じ様な造りだがずっと奥が深く、たくさんの書棚が平行して並び、その全ての棚に重厚な装丁の書籍が隙間なく並べられていた。 小堂と同様に窓が無いのは直射日光が書物に当たるのを避ける為だと思われる。 オルランドは入ってすぐのテーブルに置かれた燭台の蝋燭に火をともすとガラス製のカバーをかけて手に持った。 ラインハルトの不思議そうな顔に気付くとオルランドは悪戯っぽく笑って、 「このガラスは特別製でしてな、もっと温度の高いものに触れても割れたりせんのです。これもまたエリオル神が我等に齎してくれた大いなる知恵の一つと言われておりますが」 と言った。 オルランドは書棚の間を縫うようにして歩き回りながら一通りラインハルトを案内して回った。 原書そのままのものもあれば、学僧たちにより書き写しされ、原本は残っていないものもある。 「妖魔族は神格文字を使うらしい、神格文字で書かれた文書などにも記述は無いですか?」 「神格文字は使われなくなってもう何千年も経ちますからな、古代の遺跡に掘り込まれていたものを採録したものが数冊はあると思います。もちろん、書籍は傷みますからな、我が先人達が幾たびも書き写しなおしたものですが。 ただ私も神格文字は自在に読みこなせるほどに精通はしておらんのです、いや、不勉強でお恥ずかしい話ですが・・・」 オルランドはラインハルトを書庫の最奥に当たる書棚へと導く。 最後の書棚だけは数冊の本がまばらに平積にされていた。 「この書棚に置かれているのが神格文字の写本です。王子様は神格文字を読めるのですな」 オルランドの問いにラインハルトは軽く頷く。 「子供の頃兄と一緒に父から習いました。僕は兄より覚えが早かったんですよ」 「ほう、それは・・・」 オルランドが少し驚いた様子を見せたので今度はラインハルトが 「どうかしましたか?」 と尋ねる。 「いや、神格文字は次の王位継承者のみに伝えるのが習いかとおもっておりましたので。まあ、それぞれの王家で伝え方は様々なのかもしれませんが」 「そうなんですか・・・」 ラインハルトはじっとオルランドを見詰めながら父の言葉を思い出した。 「ヴィンフリートは身体が弱い、だからお前には兄のよき盾となり剣となり杖ともなって兄を盛り立ててやって欲しい」 父と自分、二人きりになったとき父に言われた言葉だった。 そうだ、あれは自分が祖父の下で魔導士としての修行を積むため城を後にした日のことだった。 それからしばらく自分は祖父ゲラルドの領地であるメルバントの公爵領で魔法の修行に明け暮れる事になったのだが・・・ 書籍の持ち出しは何人といえども厳禁である。 ラインハルトは数冊を選んで、書庫の隣に設えられた閲覧室へと持ち込み、じっくりと目を通してみる事にした。 ラインハルトとてそう簡単に神格文字を読みこなせるわけではない、しかも本はどれもかなり古いもので、そっと扱わないとボロボロになってしまいそうだ。 機密文書という事で立ち入れる学僧も少ない以上、写本にも限界があるのだろうが・・・ ラインハルトがまず目を通した書籍は神の事跡について書かれた本だった。 唯一の神エリオルがこの大地に足を下ろした瞬間からパンゲアの歴史は始まる。 人智の及ばぬ優れた力を持つエリオルはこの世のありとあらゆるものをたった一人で作り出した。 土や水だけではない、大空に太陽に月、そしてあらゆる植物と動物そして人間を・・・ かなりの長命であったらしいエリオルは長い月日をかけてその全てを作り上げ、死に際して愛弟子達にその全てを分け与えた――― ところどころ分からない単語はあるが大意はそういったところだろうと思う。 パンゲア大陸の住民なら恐らく知らぬものはない神話だった。 書籍はその神話を一しきり述べた後、エリオルの生涯の出来事を年代気風に綴っているらしい。 ラインハルトは小さく溜め息を吐くと本から目を上げた。 向かいの席に座ったオルランドは妖魔族の記述を探してかなりの数の本を調べてくれている。 「どうかなさいましたか」 ラインハルトの溜め息が聞こえたのかオルランドは読書をするときだけ使っている小降りの眼鏡を外してそう尋ねた。 「いえ、ちょっと疑問に思ったものですから」 「?」 無言で怪訝そうな顔を向けるオルランドにラインハルトは 「唯一の神エリオルがこの大地に脚を下ろした時から大地は始まったのですよね、少なくとも僕はそう教わりました。 でもこの本によると、エリオルは大陸北東部の小村で生まれた事になっている。村の名は伝わっていないようですが」 ラインハルトはそこまで言って言葉を切った。 「それが何か?」 疑問の意味が分からないというようにオルランドは首を傾げる。 「だって、神が脚を下ろすまでこの大地は存在しなかったのではないのですか、とすれば神はどこか別の世界から来たはずだ。なのに大陸北東部の小村の生まれって、どういう事です・・・?」 少しばかり気色ばむラインハルトにオルランドは困ったような微笑を浮かべ、 「それは・・・、つまり言ってしまえば神話は神話、本当のことではないという事になりますね」 と答えた。 「そんな!僕たちは、少なくともフィルデンラントでは神話は事実として語られている。神はこの大地の生き物とは別格の至高の存在と、誰もが信じているはずだ! それが本当のことではないなんて、ではエリオルも本当は人間だった、とでも言うのですか!!」 ラインハルトのショックは大きい。 今まで絶対的に盲目的に信じていたものが根底から覆ってしまった。 エリオルが人間だった、ならばその血を受け継いだといわれている八聖国の王族もまた他の者達と何ら変わらないただの人間だというのか・・・! ラインハルトには俄かには信じられない事だった。 「いや、エリオルはただの人間ではありませんでした。常人では持ち得ない様々な不思議な力を持っていたという記述がたくさんの文献に残っています。 ある言い伝えではエリオルははるかな昔この大陸を支配していた光の一族と呼ばれる種族の最後の生き残りとも言われておりました。 その手からは光を生み出しその瞳ははるか彼方に有るものを見通し、千里先の物音を如実に聞き分け、瞬時に遠く離れた場所に移動する事が出来た・・・」 「光の一族・・・ですか・・・」 「エリオルが触れると腐った果物はもとの瑞々しさを取り戻し、死んだ鳥は再び大空へと舞い上がった。そしてまたエリオルは遠い先の未来を夢に見ることが出来た、と言われておりますな」 呆然とするラインハルトにオルランドは穏やかな微笑を向ける。 「王子様、どのような文書を見たとしても決して驚いてはならないと申し上げたでしょうに」 その笑顔はどこか祖父ゲラルドを思わせラインハルトは 「はい、そうでしたが・・・」 と小声で呟いた。 「エリオルの業績を讃えた文献はどれも後世になって書き起こされたもの、神を崇める余りかなりの誇張や粉飾はあったと思われます。だがその全てが絵空事だったとは思えない。 現実に貴方方魔導士は光を呼び火を起こし風や雷を操ることが出来るでしょう」 「それは魔法です、力も弱く持続する時間も短い、神の力とは全く次元の違うものです」 ラインハルトはそう言って口を噤んだ。 「エリオルは人間ではなかったが、別の世界からこの地に降り立ったものでもなかった。だがその不思議な力で我等人間を助け導き今の文明の基礎を築いた、それは間違いの無いことと思われますよ」 「この大陸には人間よりもはるかに進んだ文明を持つ一族がいたのですね」 「はい、そうです。一般の民衆にはそのような文明があった事は知らされていませんが」 「そんな・・・」 「先史時代の遺跡は聖ロドニウス教会領として一般人民の立ち入りは禁止されておりますからな・・・」 ラインハルトはしばらく俯いていたがやがて決然と顔を挙げオルランドを正面から見据えた。 「オルランド殿、この世をよりよく保つのも聖ロドニウス協会の務め、だそうですが、このような重大な事を教会内部にだけ封じ込めて世に知らしめないというのは僕には民衆に対する背反行為のように思われます。なぜ・・・」 「ラインハルト殿、今貴方が知ったようなことを大して知識も無い一般民衆が知ったらどうなると思われます?」 「・・・」 「これまでの常識が根底から覆るのです、民衆は混乱し恐らくは暴動が起きるでしょう。大陸全土が混乱に巻き込まれた時、それを治められるだけの力を持ったものが今はいない―――いや、エリオルの死後そのような者は一人もいないのです。 真実を知ることが幸福とは限らない、不用意に民衆に公表する事は我々にはできません」 「でもそれは・・・」 欺瞞ではないのか、八聖国と聖ロドニウス教会が大陸に君臨し続けるための――― ラインハルトがそう言葉を続ける前にオルランドが口を開いた。 「それにこのことは聖ロドニウス教会だけの秘密ではありません。八聖国の王室にも伝わっているはずです。それこそ文書として残すわけにはいかないから王位継承時に次代の国王へと口伝されることになっていると思われますがな」 「あっ・・・」 ラインハルトはあの不思議な空間で聞いた兄の言葉を思い出す。 ―――私が悪かったのだ、ヴィクトールを信頼しすぎてしまった。常人が知ってはならぬことまで話してしまった。だから彼は・・・ あの時兄が言っていたのはこのことだったのか? でも、これだけでは・・・ なにかもっと裏が有るような気がする。 ラインハルトはオルランドを見詰めたが老人の顔には飄々とした笑顔が浮かんでいるだけだ。 何を聞いてもこれ以上の答えは返ってこないような気がする。 ラインハルトは押し黙ったまま俯いた。 オルランドはほっと溜め息をついて、再びテーブルに置いた文書に目を落とした。 「エリオルは人間ではなかったが神でもなかった・・・」 どれほどの時間が流れたか、長い沈黙を破ってラインハルトが呟いた。 「神・・・ですか。何を以って神と呼ぶのか、わしには一口に談じる事は出来かねますが・・・ 常人には持ちえぬ力で人々を導き、幸福を与えた―――そのような者を人は神と呼ぶのではないですかな」 オルランドも書籍から目を上げてそう答えた。 「常人の持ちえぬ力・・・」 「さよう、遠目遠耳が利き瞬時に他の場所へと移動する事が出来、様々な奇跡を起こす不思議な力、それは現代の目で見れば貴方の使う魔法と大差ないものかもしれないが、当時の人の子の目には神の仕業と映った・・・」 「オルランド殿、それでは貴方はエリオルはただの魔導士だったとお思いなのですか・・・」 ラインハルトの声には深い落胆が籠もっていた。 「そうではありませんよ。実際不可思議な力を持った者達は今でも存在している」 ラインハルトはオルランドを見詰めながらふと思いを馳せる。 そういえばあのリヒャルトは遠目遠耳が利くといっていた。 それに・・・きちんと確かめたわけでは無いが、彼は歳の取り方が普通の人間とは違っている。 彼の一年は普通の人間の数年か数十年に当たるのだろう。でなければ父が王子だった頃の事など知るはずが無い。 彼は一体・・・ ラインハルトの無言をどう受け取ったのかオルランドは躊躇いがちに言葉を繋ぐ。 「私が知る限りでは・・・、いや話で聞いただけですがな、そんな力を持つ者たちといえば一種族しかないですな・・・」 「オルランド殿?」 その声が含んだ余りの深刻さにラインハルトはオルランドを注視した。 その先の言葉をラインハルトは知っている。 そんな連中は他にはいない、それは自分達が戦おうとしている相手――― 「妖魔族と我等が読んでいる種族ですな・・・」 オルランドの声は無情に渇ききった空気を震わせて響いた。 「妖魔族・・・、でも彼等は光に弱い。エリオルは・・・」 「そう、エリオルは光を自在に操る力を持っていた。普通の人間にはできないことだ。そして妖魔族もまた人智を超えた力を持っている。 そしていまこの世にそのような力を持つ者は他に知られてはいない、とすればエリオルの属した種族と妖魔族とは何かしらつながりが有るかもしれない、とわしは思います」 「何らかのつながり・・・」 「妖魔族が自らを呼ぶ呼称、初めから在る者―――。そのへんに手がかりが有るような気がしませんかな?」 オルランドはそう言うと真摯な瞳でラインハルトをじっと見詰めた。 |