暁の大地


第十三章




フィルデンラント
国境の町ゲーベルズハウゼン

一体何日経ったろう、粗末な木製のベッドに寝転がり天井近くの上方にただ一つ小さく穿たれた明り取りともいえないような小さな窓から差し込むわずかな光を見上げながらアルベルトは思った。

アディエール郊外のケンペス将軍の駐屯地でラインハルトと別れ一路帝国へと向かったアルベルトだったが、いまだフィルデンラント国内から抜け出せてはいなかった。

それでも初めの一日二日ばかりは順調にいったのだ。
ケンペスは持ち馬の中でも一番足の速い駿馬をアルベルトに用意してくれた。
アルゴスという名の見事な鬣の美しい鹿毛で、瞬く間に街道を駆け町を抜け旅は順調に進んでいくかに思えた。

だが、もう少しで帝国との国境に出るというところでアルベルトは思わぬ足止めを食ってしまう。
ケンペス将軍発行の通行許可証を持っているという油断もあったかもしれない。
今思えば街道を通らずに裏道から山越えのコースを辿るべきだったのだ。

国境の町ゲーベルズハウゼンの少し手前に検問所が置かれていた。
グリスデルガルドの戴冠式に向かうため通ったときにはなかったはずだ。
遠目にそれと気付いてアルベルトは一瞬躊躇したが、引き返すのもかえって怪しい、そう思いなおしそのまま進むことにしたのが悪かった。
アルベルトはしばらく検問所に留め置かれることになってしまったのだった。

通行許可証は取り上げられてしまった。
憲兵は中央に送って照会するのでその結果が届くまで留まるようアルベルトに告げた。
自分は聖ロドニウス教会の学僧であり、教会の至急の用で先を急いでいるのだと言ってもまるで取り合ってはもらえず、アルベルトは逃亡の恐れがあるとして営倉に留置されることとなってしまったのだった。

軽く寝返りを打ちながらアルベルトは深い溜息を吐く。
参ったな、本当ならもうとっくに教会総本部に戻っているはずなのに・・・

一刻も早く総院長と老師オルランドに自分の見聞きしたことを報告しなければならない。
そしてラインハルト、ルドルフ両王子と約した妖魔族についての調査研究を進めねばならないのだが・・・

どうやらケンペス将軍は旗色が悪いようだな。
ということはラインハルト王子の国王救出作戦は失敗に終わったということか・・・
フィルデンラントに入り込んだ妖魔族はよほど中枢にまで食い込んでいるらしい。
もしかするとこの国はすでに妖魔族の意に沿って動き始めているのかもしれない―――

なんとも嫌な感じだ。
そう思ったとたん窓から差し込む日差しが遮られた。
雲が過ぎったのだろうか、アルベルトは再び仰向けになって遥か上方の小窓を見上げた。
先ほどまでかなりの上天気だったように思うが今は空は灰色に陰って見える。

程なくして粗末な鉄扉の外の廊下に規則正しい足音が響いてきた。
看守の見回りにしては時間が早いな・・・
そう思ってアルベルトが扉のほうへ顔を向けると、ギイイといやな音がして目の前の扉が開いた。

「出ろ。取調べだ」
無機質の冷たい声が石造りの殺風景な部屋に響く。
「生憎だが何度訊かれても同じ事しか言えないぞ」

この看守にこんな事を言っても始まらない事は重々承知の上でアルベルトはからかうようにそう言った。
コイツだって上からの命令で動いているに過ぎないんだろうから・・・

だがその上の連中ときたらアルベルトの言葉にはほとんど耳を貸さないばかりか、お前はケンペスの密使だろう、誰のところに向うつもりだったのか、とそれしか訊ねない。
ここに留置されるようになってから毎日幾度も同じ問いを投げかけられ辟易気味のアルベルトとしては、軽い皮肉の一つも言ってみたい心境だった。

当然の事に看守はアルベルトの言葉を無視すると顎をしゃくって部屋を出るよう合図すると先に立って歩き出す。
アルベルトがそれに従うと背後から下級の兵士が従った。
足音だけが響く細く薄暗い廊下を辿り長い階段を上ると少し広い空間に出る。

いつもならそのまま上階の狭い取調室へと連れて行かれるので上へと通じる階段のほうへとアルベルトが歩き出そうとすると、その場に立っていた別の男がそれを手で制し、
「今日は別棟で取調べを行う。私についてくるように」
と言って、ドアを開けた。

蝋燭の薄明かりしか光源の無かった薄暗い空間に一気に外界に光が流れ込み、アルベルトは思わず目を細める。
曇り空とはいえ、暫くぶりに目にした外光は容赦なく鋭くアルベルトの暗がりになれた目を射た。

男はそんなアルベルトの様子には斟酌なく足早に外へと足を踏み出した。
先ほどの看守に背中を押されアルベルトも後に続く。
その後ろから兵士が従おうとするのを看守は目で制した。

「護衛の必要はないとのお言葉だ」
「ですが・・・」
「ニコラス様が必要ないと仰ったのだ、ならば余計な手出しは無用というもの。返って足手まといになっては申し訳なかろう」
そう言われ兵士は大人しく俯いた。

その会話を耳にかすめながらアルベルトは男の後に従う。
ニコラス、というのはこの男のことだろうか・・・?
アルベルトは悠々と自分に背を向けて歩き続ける黒いマントに隠された男の後姿を追った。

ニコラス―――か・・・
グリスデルガルドへ自分と同行した従者二人のうち一人が同じ名前だった。
自分が護衛兼従者としてあの二人の兵僧を選ばなければ、彼等は今頃教会で日課である鍛錬と農作業に精を出していたことだろう・・・

若いが豪胆で屈強な彼等に、今度のグリスデルガルド行はいい経験になる、オルランドの推薦を受け、アルベルト自身が選んだ二人だった。
年齢も近く話しやすかったことも人選の大きな要因だった。

その二人をアルベルトは成す術もなく見殺しにしてしまった。
いや、ラインハルトとルドルフがいなければアルベルト自身もあの修羅場で絶命していた事だろうが・・・

営倉とは別棟の兵士詰め所の主棟のほうへ向うのかと思いきや、男の足は反対側の林のほうへと向かって行く。
空は更に一層雲が広がり大地は陰鬱な雰囲気に包まれていた。

そういえば先ほどまでうるさいくらいにさえずっていた小鳥の声もピッタリと止んでいる。
どこへ連れて行くつもりだろうと思いながら黙って付いて行くと、鬱蒼としたナラ林の中ほどに小ぶりの亭が見えてきた。

木製の小さな亭で簡単な屋根がついている。
腰より少し上くらいまで円形に壁が巡らされていて、その上は屋根を支える数本の柱だけが伸びている。

円形の壁の内側に沿って簡易な座席がしつらえられているが、三四人が座ったらいっぱいになってしまいそうな大きさだ。
真ん中に一本通った太柱が支えになっているのだろう。
その柱の中ほどに円形の卓がついていて、飲み物などが少しだが置けるように作られていた。

男の足は迷わずその亭へと向かい、ばさばさと衣擦れの音高く一方に座り込んだ。
アルベルトは少し躊躇ったが相手と向かい合うような位置に腰を下ろした。
柱越しに見詰めた相手の顔はアルベルトの見知っているニコラスとは似ても似つかぬもっと年長の男のものだった。

「このようなむさくるしい場所で失礼とは思いましたが、衛兵の詰め所でお話を伺うのも憚られましたのでね」
男はゆっくりとした口調でそう切り出した。

「私を・・・尋問するのではないのですか・・・」
「尋問?そうですね、場合によってはそういうことになるかもしれませんね」
男はそう言うとじっとアルベルトの目を見詰めた。

深く覗き込まれるような気がして思わず視線を逸らそうとしたアルベルトだったがどうしても逸らす事が出来ないことに気がついた。

―――何!これは一体・・・
そう思ったが声が出ない。
アルベルトは男にじっと見据えられ心の中が全て読み取られて行くような気がして「やめろ!」と強く叫んだ。

気がつくとアルベルトは頭を抱えて座席に倒れこんでいた。
「ふうん、やはりそう簡単には覗けないか・・・」
頭上で男の声がした。

「お前は一体何者なんだ・・・。さっきの看守はたしかニコラスと呼んでいたが」
髪の毛を掴まれて顔をぐいと上向けられた。
小さな呻きがアルベルトの口から零れる。

「私の事などお前が知る必要はない。確かにニコラスと言うのは私の名前だがお前にとっては何の意味も持たないことだ。お前はこの私に今まで見聞きした全ての事を包み隠さずさらけ出せばそれでよいのだ」

男の顔が近付く。
アルベルトは魅入られたようにその瞳に見入った。

―――いけない、この目を見ては。コイツは妖魔族だ・・・!
直感的にそう悟った。

そうだ、何故もっと早くに気付かなかったのか。
垂れ込めた雲に覆われたこの空間、鳥のさえずりはおろか葉ずれの音すら聞こえない、この空間がすでにしてこの男の結界の中だったのだ。

見開いた目に男の暗い瞳が大写しになる。
―――思い描け、お前がこれまでに出会ったこと全てを―――
頭の中にいびつな声が幾度もこだまを繰り返して響き続ける。

いけない、何も考えては・・・
そう思いつつもアルベルトは身体中の力が抜け神経が麻痺して行くのを感じていた。






脳裏に遠い昔後にした故郷の風景が浮かぶ。
山間の小さな田舎町。
小さな教会を中心に幾つか商店が並ぶ以外はただひたすら農地ばかりが続く土地だった。

地味は痩せ収穫は乏しく暮らしはどこも貧しく、アルベルトの生家とて例外ではなかったはずだが、幼い心にはそれが不幸だとか悲しいとか言う感情はなかったように思う。
一つ下の弟と幼い妹と両親と近所に住む祖父母と伯父夫婦、たくさんの同じ様な境遇の友人達と過ごす毎日はそれでも結構楽しかった。

唯一つ、アルベルトの心を曇らせたのは妹が生まれ付き目が余りよく見えないことだった。
村の医者は手術を受ければあるいは直るかもしれないと言った。
だが自分には出来ない、大きな町の設備の整った病院で優秀な医者に見てもらうことが出来ればの話であると。
ただしとても難しい手術になるため、莫大な費用がかかるだろうとも言った。

弟と二人物陰で医者と両親の話を聞いていたアルベルトは子供ながらも、それでは諦めるしかないではないか、と涙を流したものだった。

それでも子供は嘆いてばかりいられるものではない。
アルベルトの毎日は多くの笑い声と少しの涙とに囲まれて飛ぶように過ぎていく。
そして聖エンゲルスファフトのお祭りで沸き返る一週間―――
そのときばかりは大人たちも嫌な事は全て忘れ生きている喜びを謳歌した。
過ぎ去ってしまえばまた無味乾燥な日々が続く、そう分かっているからこそ浮き立つ気持ちも強かったのかもしれない。

子供の日々が過ぎ去り大人になってもずっとそんな毎日が続いて行くものとアルベルトは漠然と思っていた。
いつかこの魂が天に召され躯が土に返るその日まで・・・

聖ロドニウス教会の試験に受からなければアルベルトは今頃ただの農夫として父や弟とともに畑仕事に精を出していたことだろう。
十歳の時同年の友人達とともにわけも分からないままに受けさせられた試験で思いのほか好成績を取ったアルベルトは、そのままもっと大きな町の聖ロドニウス教会分教会で修行を受ける事となったのだった。

家にはただ一度身の回りのものを取りに戻るのを許されただけで、アルベルトは家族とも友人とも別れる事となってしまった。

数年してからやっと届いた母からの手紙で、アルベルトの支度金のおかげで弟が上の学校に行けることになった事、妹の目が日常生活に困らないほどに良く見えるようになったことを知ったのだった。
その手紙は幾度も彼方此方に転送され、出した日から一年以上も経ってから届いたものだった。
そのころアルベルトはもう教会総本山でオルランドの弟子として学問に明け暮れる毎日を送っていたのだが・・・

アルベルトの脳裏には家族や友人、近所の知り合いの顔が走馬灯の様に浮かんでは消えて行く。
そして懐かしい思い出があふれ出し胸が熱くなった。

「ふん、感傷に浸るのはそれ位で充分だろう。その先を思い出せ。聖ロドニウス教会で暮らし始めてお前は何を見、何を聞いたのだ?」
痛いほどにあの声が頭に響く。

アルベルトはその声に命じられるまま聖ロドニウス教会での日々を思い出そうとした。
だが意外なことに教会とそれに関わることはアルベルトはほとんど思い起こす事が出来なかった。

教会内部の構造も自分にあてがわれた僧房の間取りも、寝食を共にした学僧仲間の顔もなにより大恩ある老師オルランドの顔も声も思い浮かべる事が出来なかったのだ。
おぼろげなイメージなら湧いてくるのだが、もっと細かく細部にわたって思い出そうとすると全体像がぼやけてしまう、そんな感じだった。

総院長から受けた訓辞も師オルランドの教えも思い出そうとすればするほど曖昧模糊としてつかみ所がなく、やっとその尻尾を掴んだと思った途端、掴んだ手からするりと抜けてあっと言う間に手の届かぬ彼方へと飛び去っていってしまうのだった。

そんな時間がどれほど続いたのか、再び頭上で聞き覚えのある声がした。
「ふうむ、どうやらかなり強いガードがかかっているようだな。聖ロドニウス教会の事となるととたんに霞がかかったようにぼんやりしてしまうか・・・」

その声が遠ざかりアルベルトの脳裏には再び誰かの顔が浮かんできた。
あれはラインハルト王子だ、それからルドルフ王子にルガニスという男―――

ほかにもマリウス王やフランツ王子、そして騎士リヒャルトやその従者テオドール、クラウディアにケンペス将軍など数え切れない人々の顔がアルベルトの記憶をかすめて行った。

「仕方ない、俺の力ではここまでのようだ・・・」
その声と共にアルベルトの知覚は鮮やかに覚醒した。
小さくだが鳥のさえずりが彼方此方で聞こえてきた。

「ニコラス様、いかがいたしましょう」
詰め所の司令官と思われる男の声がはっきりと聞こえる。

「この男が聖ロドニウス教会の学僧アルベルト様の名を語る不届き者である事は間違い無いようだ。畢竟ケンペスの通行証にしてもなんらかの不正な方法で手に入れたものであろう。だがもっと詳しく調べる必要を感じる。王都に連れ帰りさらに詳しい尋問を加えようと思うがよいか」
「はっ、畏まりましてございます」

アルベルトは呆然と目の前の男を見上げる。
なんとアルベルトはいつの間にか衛兵詰め所の主棟にある取調室の椅子に座ってあのニコラスと言う男と向かい合っていたのだった。
小鳥の声はほんの少し開かれた窓から聞こえていたのだ。

「私は一体・・・」
「ふふ、案ずることはない、お前には我等が王都にご足労願おう。何よりもまずわが主ヴィクトール様に会ってもらわねばならぬからな・・・」

二コラスはアルベルトにだけ聞こえるように小声で呟いた。
営倉の広間で出合った時からこの男の術中に嵌っていたのか・・・
アルベルトは小さく呻いたが頭が割れるように痛み、深く考える事は出来なかった。

引き摺られるようにして外に出されしばらく歩かされた後、アルベルトは箱型の馬車に乗せられ、そのままニコラスと同乗の旅に出ることとなってしまった。

ニコラスは自分を王都へ連れて行くと言っていた。
王都ヴァーリンシュタットは宰相ヴィクトールの手の内、この先一体どうなって行くのかアルベルトには見当もつかない。

大陸の街道は帝国の指示もあってかなり整備されていて、しっかりした馬車ならさほど揺れを感じるはずは無い。
だがアルベルトは先ほどから身体がガクガクと揺れてなかなか姿勢を保っていられなかった。

車輪が小石に当たって少し揺れた時にはアルベルトは窓枠に頭をぶつけてしまうほど態勢を崩してしまったのだった。
その様子をニコラスは口元に冷笑を浮かべ頬杖をつきながら楽しそうに眺めている。

アルベルトは小さく舌打ちしフイと横を向いた。
この男に頭の中をまさぐられた―――先ほどのいやな気分がぶり返してきて気持ちが悪くなった。
揺れのせいもあるのだろうが今朝方口にしたものが這い上がってきそうで、アルベルトは思わず口元を押さえた。

それにしても・・・
アルベルトは久々に家族の事を考えた。
先ほど否応無しに思い出させられた弟妹のことを―――

弟はその後都会の上級学校に進み昨年からは故郷に戻って小学校の先生になったと母は手紙で伝えてきた。
そして妹も元気に成長していると―――

弟は十七、そして妹は十四になるはずだ。
二人ともどうしているだろう、そして両親や友人達は・・・

アルベルトと同時に選ばれた者達のうち成績がさほど芳しくないものは地方の分教会に留め置かれそこで修行を受ける事になる。
そうした者達は希望によっては生まれ故郷の分協会支部に配属される事も可能で、言うならば故郷に戻ることも出来るのだが、好むと好まざるとに関わらずオルランドの後継者として超エリートの道を歩まざるを得なかったアルベルトには総本山を離れて他国へ赴任することは許されない。

恐らくもう二度と弟妹の顔を見る事はできないだろう・・・
そう思ったときふっと誰かの顔が過ぎったような気がした。

クラウディアか、と思ったが微妙に違っている。
第一髪の毛が赤毛だ。

つぶらな瞳の少しそばかすの浮いたあどけない少女の顔が一瞬だけはっきりと浮かび、すぐにゆらゆらと揺れて消えていった。
―――今のは・・・
アルベルトは幻影を振り払うように首を左右に振った。

おかしい、自分は一体どうしてしまったのか、そう思って額に手を当てると何時の間にか額には油汗がにじみ出ていた。
―――まさかルクレシア・・・、いや、そんなはずは・・・第一自分はあの子の顔を知らないはずだ、別れた時あの子はまだ六つだったのだから・・・

ふと気配を感じて顔を上げるとニコラスは相変わらず頬杖をついたまま窓からの景色を楽しむように視線を外に向けていた。
嫌な気分が抜けないままアルベルトは目を閉じる。
不思議なもので今ならオルランドの顔も声も容易に思い出せた。

―――老師、私は一体どうなってしまうのでしょう・・・
急に弱気になったアルベルトの心にオルランドの声が力強く響く。

―――アルベルトよ、我らは聖ロドニウス教会の僧侶、地上の知性の体現者だ。
如何なるときもその誇りを忘れずに、しかしそれに驕ることなく常に毅然としておれ。
この世の流れは人智の及ばぬことの方が多いものだが、道はいつか必ず開ける。
その時一瞬の機会を逃さぬよう常に神経を張り巡らせておくのじゃ、たとえ身体を休めているときであってもな・・・

―――老師・・・
アルベルトは軽く目を閉じる。
一瞬の後アルベルトは深い眠りの淵に沈んでいた。






ゾーネンニーデルン
王都ドレッシェングラートへの街道

南国特有の強い日差しが容赦なく照りつける街道をルドルフとサンドラを載せた馬車はゆっくりと進んで行く。
その馬車の後ろには数名の騎馬の男が従い、さらにその後ろから大き目の箱馬車が続いていた。

少し離れたその前後にも数名の騎馬の男性が互いに距離を置いて街道をゆっくりと走っていたが、傍目にはそれが馬車の護衛だとは分からなかっただろう。
サンドラは表立って警護されるのを極端に嫌ったが、いくらお忍びの旅とはいえ一国の王女、それも何者かに付け狙われているともなれば、最低限の警備はどうしても必要だった。

ダルシアはその騎馬の男達の中にはいない。
彼とその仲間達は徒歩で付き従っているはずだがいつもと同様、今日もまたその姿をサンドラの前に現す事は無かった。

ダルシアはなぜあれほど早く移動できるのか、ルドルフは不思議でならなかった。
魔法を使っているのではないということだが・・・
いくら遅めに走らせているとはいえ、馬に遅れないように徒歩で進むのは大変だろうに・・・

この世には自分の知らないことがまだまだたくさんあるのだ、ルドルフは窓から外をのぞいて溜め息をついた。

この馬車の少し後ろから付いてきているはずの箱馬車―――そこにはサンドラのお付の者達のほかリヒャルトとテオドールが乗っているはずだった。
テオドールの怪我はサンドラの侍医の丁寧な治療のおかげもあって思いのほか回復が早く、それを聞いたサンドラは王都へ戻る事を承諾したのだった。

あれほど帰城を嫌がっていたサンドラがすんなりと戻る事を承諾したのは、ルドルフの存在を兄や義姉達に自慢したいからだろう、とサンドラの眼を盗んで時折顔を見せるダルシアは言っていた。

ダルシアの兄ヘンドリック王子はこのところ病気がちの父王の摂政として国政を動かしているらしい。
そのためかどうか正室である王妃の生んだ二人の義姉たちは王城を離れ母の実家である公爵家の別棟へと移り住んでいたが、その居城は王城とは目と鼻の先にあるため、何事かあるとすぐに乗り込んできてあれこれと一家言垂れて行くのだそうだ。

「ふふ、お姉様たちきっと凄く悔しがるわね」
向けるような空を飛ぶように過ぎていく白い雲を眺めながらサンドラは楽しそうに呟く。

「え?」
「貴方のことよ!貴方みたいに素敵な人を私が連れて帰ったと知ってきっと地団駄踏んで悔しがるわよ」
「そんな・・・」
「嘘じゃないわ、本当よ。でもプライドが高いもんだから素直になれなくて、この辺に青筋をたててなんかかんかと難癖をつけるに決まってるわ」
サンドラはそういうとこめかみの辺りを人差し指でつついて見せた。

「何を言われても気にする事無いわよ、単なるやっかみだから」
「そう・・・」
ルドルフは少したじろぎながら答える。

サンドラはクスクスと笑いながら言う。
「貴方にだけ話すんだけどね、下のお姉様、ベアトリスっていうんだけど、お姉様には婚約の話があったの、フィルデンラントの王子と」

「!」
ラインハルトと、言いそうになってルドルフは慌てて言葉を飲み込んだ。
そういえばラインハルトは婚約者がいるのだと言っていたっけ・・・

「会ったことも無いくせにお姉様ったら有頂天になっちゃって」
驚くルドルフの顔を楽しそうに眺めながらサンドラは続けた。

「だってほら、フィルデンラントの王様って美形で有名でしょ。弟のほうも結構な美少年だって評判だし。王様はまだ独身だし、上手くいってこのまま王様に子供ができなければその王子様が国王になるかもしれない、そしたら自分はフィルデンラントの王妃様だってね。
まったくトラタヌもいいところ、お姉さまはお相手の王子様より三つも年上の癖にね」

「トラタヌ・・・」

「そ、あっさり断られちゃったの。どうやらお妃候補は他にもいたみたいで、そっちに決まったんでしょうね。ま、そうはっきりと言ってきたわけじゃないみたいだけど、お父様もさすがに怒っていらしたから」
「ふうん」

「それ以来お姉様ますますヒステリックになっちゃって、お父様もほとほと手を焼いていらしたわ」
サンドラはふふん、と言って楽しそうに笑った。

ルドルフはそう、と一言言って、
「下のお姉様、ってことは上のお姉様のほうはもうお相手が決まってるってこと?」
と訊ねてみた。

「あら、いいえ、上のお姉さまはコーネリアと言うんだけど、そのお姉様はいずれ修道院に入るの。聖クレメンタイン修道院の院長になるのよ。院長は代々王族の娘が勤める事になってるから。
本当ならもうとっくに修道院に入っているはずなんだけど、王妃様が傍からはなそうとしないんですって。」

こっちのお姉様は無口で静かなだけによけい不気味なのよね、とサンドラは付け足した。

「王妃様?」
「そう、もうずっとご病気でご実家に戻られてからは一度も外にお出にならないの。まあ、出ていらしたとしても私なんかとお会いにならないでしょうけど。
私も王妃様がどんな方だったかもう忘れてしまったわ。コーネリアお姉さまは王妃様に良く似ていらっしゃるそうだからきっと凄く陰気な方なんだと思うわ」

「そうなのか・・・」
君のお母様は、と聞こうとしてルドルフは躊躇った。

サンドラはこれまで自分の本当の母親については何も語らなかった。
話がそちらのほうに流れようとするとうまく話題をかえてしまう、そんな感じがした。
だったらあえて聞かないほうがいいのかもしれない・・・

サンドラはそれからも王城に訪れる各国からの使者や様々な客人のこと、お忍びの旅で見聞きした祝祭や訪れた名所、珍しい南国の風習などルドルフの無言には頓着無しに次から次へと話し続けた。
女の子っておしゃべりなもんだな、そう思ってルドルフは自分も女である事を思い出し苦笑した。

ふと視線を窓外に転じると街道から少しはなれたところに大量の木材が散乱しているのが見えた。
大きさも太さもまちまちで、遠目にもかなり乱暴に放り投げられたように見える。
傍には数人の男が倒れたり蹲ったりしているのも見て取れた。

何だろう、こんなところに―――ルドルフは少し気になったが、すぐにまたサンドラのおしゃべりに引き込まれるうちにそんな光景の事はすっかり忘れてしまった。



リヒャルトはルドルフ達の乗る馬車のすぐ後に続く大きめの箱馬車にサンドラのお付の者達と同乗しながら軽く目を瞑り意識を四方へと飛ばしていた。
リヒャルトの耳には普通の人間では聞き取りえないかなり広範囲で発せられた音声を聞き取ることができる。

サンドラとルドルフを乗せた馬車をさりげなく護衛するように数騎の武者が前後数リーグに散らばりながら進んでいる。
その姿は様々で一目で軍人と分かるものもいれば旅の貴族風のもの、平民姿のものもいる。
王女サンドラの護衛であることを周囲の目から隠すための配慮なのだろう。

サンドラという王女様は大仰な護衛を引き連れての王族としての旅はお気に召さないようだ。
何者かに付けねらわれているわりには無用心だな、と思う。

リヒャルトの耳は更に遠く、ずっと前方で発せられている諍いの声を聞き取った。
目を薄く開きじっと意識を遥か前方へと向ける。
脳裏に数名の姿が浮かんできた。

街道とその周辺に大量の木材が積み上げられバリケードのようなものが築かれているようだ。
意味いっぱいに広がったバリケードの真ん中辺りが小さく切れてそこからだけ先に進めるようだ。

その小さな通路の前には屈強そうな男達が抜き身の剣を手に陣取っている。
バリケートの周囲にも数名の武装した荒くれどもがたむろしていた。

どこかの貴族か金持ちの私兵崩れのようだ。
皆腰に大刀を下げている。
道行くものを止めては通行料でも巻き上げているのだろう。

街道を進もうと思えばどうしてもそのバリケードの前で止まらざるを得ない。
バリケートを避けて先へ進むには街道から外れて、整備されていない泥道をかなり迂回しなければならないのだ。

沢山の荷を満載した荷車隊を引き連れた商人が通行を止められ、男たちと押し問答しているのが見て取れた。
商人が渋々ながら懐から金袋を取り出すと傍に立っていた別の男が袋ごと取り上げ、中から数枚の金貨を取り出して商人へと投げて返した後そのまま袋は懐に入れてしまった。

商人が慌ててなにやら抗議の声をあげると、数人の男達が剣を抜きまわりを取り囲む。
商人は口惜しさを露骨に表して二言三言毒づいたが、一番の大男がのっそりと一歩踏み出したのを見て慌てて追従の素振りをみせ、従者を急かせるようにして開けられた狭い通路を通ってそそくさと立ち去ってしまった。

―――このあたりはかなり治安が悪いようだな、あんな追い剥ぎもどきの者どもが横行しているとは・・・。にしても連中が野放しということは官憲も手が出せないかあるいは裏で癒着でもあるのか・・・

にしても、このままではこの一行もいずれ連中にからまれることになるだろう。
連中は王女様の一行だとは夢にも思わないだろうが、お付の面々はどう対処するだろうか。
いざとなれば力技で押し通ることも可能だろうが、出来るだけ揉め事は避けたいはずだ。

リヒャルトがじっと注意を前方に集中していると、不意にどこからか現れた影の様なものが男達の中を駆け抜けたように見え、次の瞬間男達は次々と地面に倒れこんで行った。

男達の身体はあっと言う間に街道脇に放り出され、積み上げられたバリケートも見る間に解体されて行く。
数分後には通行の障害になるものが積み上げられていたなどとは考えられないほど、街道は綺麗に片付けられてしまっていた。
その道をサンドラの一行は何の滞りもなく進んで行く。

「たいしたものだな・・・」
ふと漏れ出た呟きに隣に座っていたテオドールが耳聡く反応する。
「どうしました、旦那?」
「いや、何でもない、気にするな」
「へえ」

リヒャルトはもう一度目を閉じ辺りに注意を飛ばしたが、あのバリケードと男達をあっさりと片付けてしまった影の気配はもう感じられなかった。
彼等は更に前方に向っているのだろう、一行の障害になるものを除いておくために・・・

ダルシアといったか―――リヒャルトはルドルフにこっそりと話しかけてきた若い男の顔を思い出す。
彼とその仲間達はいつもサンドラにつかず離れず付き従いながらこうやって面倒の元になりそうなものを取り除いているのだろう。
そして当のサンドラはそんなことには決して気付くことはなく快適な旅を楽しんでいるのだ。
それがまた彼等の誇りでもあるのだろう。

リヒャルトは街道脇に打ち捨てられたバリケードの残骸とその辺りでうめき声を上げている男達を箱馬車の窓から眺めながら小さく溜め息を付いた。

サンドラは確かにルドルフに一目惚れしただけだろう。
ルドルフの持つ高貴でどこか危うげな雰囲気に引かれるものを感じたのだろうが。だが、あのダルシアは・・・

リヒャルトはダルシアの真意を推し量りながら、サンドラに従って南に向かうという選択はルドルフにとって本当によかったのだろうか、と思い始めていた。