暁の大地


第十三章




ゾーネンニーデルン
コノリー伯爵邸

サンドラとルドルフの旅は滞りなく進み、夕刻にはゾーネンニーデルンの名門貴族コノリー公爵の離宮に着いた。
すでに先触れが届いていたらしく、王都に詰めている公爵に代わり夫人がサンドラを丁重に迎えてくれた。

「王女様、せっかくこのような辺境の地までおいでくださったのですから、ぜひごゆっくりしていって下さいましね」
母親位の年齢の公爵夫人に優しく言われ、サンドラも珍しく素直に頷いた。

「そうですわね、この辺りには珍しいものが沢山あるし、お言葉に甘えてゆっくりさせていただきますわ。貴方にもぜひ見てもらいたいものがいろいろあるのよ」
最後の言葉はルドルフに向けて放ちながらサンドラはにっこりと笑う。

まっすぐに王都へ向うのではないのか、サンドラとの旅が長引きそうな気配にルドルフは思わず漏れ出そうになる溜め息を堪えながら笑顔を返した。

公爵夫人はルドルフの身分を訝ったようだが、サンドラが
「こちらは兄の指南役ヴェルテル卿の甥に当たるルドルフ殿です。私の護衛にと兄が特別に付けてくださったの」
と言った言葉を取り敢えずは信じたようで、ルドルフはサンドラの護衛兼賓客として夫人から手厚いもてなしを受ける事となった。

コノリー公爵の離宮での日々は特に目立った事件もなく穏やかに過ぎていく。
夫人やサンドラと遊戯ゲームをしたり、時には馬で遠乗りをしたり、ルドルフは久々に王子だった頃の暮らしに戻ったような数日を過ごす事ができた。

「ルドルフ様も随分明るくなられてようございましたね、リヒャルトの旦那」
「ああ、そうだな」
中天にかかる満月を窓辺に腰掛けて見上げながらリヒャルトはこれまたご機嫌のテオドールに答えた。

ふかふかのベッドに美味しいご馳走、テオドールはここでの暮らしがすっかり気に行ったようだ。
それに何より召使の侍女たちも若くて美人揃いのうえに、王女様の護衛係であるルドルフの友人ということでリヒャルトもテオドールもなかなかの好待遇を得ていた。

「こんなとこでずっと暮らせたらさぞや幸せでしょうな・・・」
「まあ、そうかもしれんな・・・」
リヒャルトの気の無い返事にもひるむ事無くテオドールはベッドに転がりながら、ああ幸せだ、と繰り返している。

ルドルフは今グリスデルガルドとフィルデンラントで起きている事を忘れたわけでは無いだろう。
本心では成す術もなく自分ひとり安全な場所でのうのうとしている事に忸怩たる思いを抱いているに違いない。
だが今の彼女に出来る事は、取り敢えずは身を隠し生き延びる事―――いつか時流が変わる、その時まで―――

彼女が無事に生き続ける、それがマティアス卿の望みならば自分はその実現を最優先するまで、たとえルドルフの望みがどうあろうとも・・・
それにしてもマティアス卿は何を考えておられるのか―――

リヒャルトは腰から下げた剣の柄にそっと手を触れた。
そしてそのまま象嵌された竜眼石に指を這わせる。
この石はかつてマティアス卿から頂いたもの。
騎士として旅立つ朝、成人の餞として・・・

あの時自分は今のルドルフと同じ位、いやもっと幼かったかもしれない。
随分昔の事だが、今でもはっきり憶えている。

マティアス卿は今とほとんど変わらぬ姿で自ら私にこの石を手渡し、出立を寿いでくださった。
わざわざ我が祖父の家を訪れて・・・
あのころすでにマティアス卿が皇帝陛下のお傍付という要職にあったことを知ったのは随分後になってからだったが―――

月の光に輝きを変える不思議な石を眺めながら、マティアス卿は今頃何をしているのだろうかと思いを馳せるリヒャルトの耳に微かに囁き声が聞こえてきた。
城外の少し離れた場所で囁かれているようだが、リヒャルトの鋭い聴覚にはすぐ隣の部屋で話し合われているかのごとくはっきりと聞こえてくる。

「お前たちがお守りしている王女様、あれとべったり一緒にいる若い男―――あれはルドルフだろう?グリスデルガルドの」

「さあどうだかな、王女様が一目惚れしたというだけの相手だ。本当の素姓はわからん」
初めのほうは聞き覚えの無い声だが、後のは間違いなくあのダルシアの声だった。

「ふざけるな、我等を謀れるとでも思っているのか。どんなに隠しても我等には一目で分かる、なぜならあの王子には・・・」
「しっ、めったな事を言うな、どこでだれが聞いているとも限らん」
「だがダルシア・・・」

「・・・まあ、俺の口からはそうだとも違うとも言えぬ、とだけ言っておくよ。にしてもなぜお前がそんなことを聞いてくるのだ?お前たちは教会の犬、お前たちに分からぬ事が我等などに分かるはずもないだろうに」

相手はしばらく黙っていたがやがてゆっくりとした口調で話し出した。
「実はな、フィルデンラントの王子ラインハルトがルドルフの行方を捜している。聖ロドニウス教会総院長から我等に探索の指令が下ったのだ」

「ラインハルトが?ではヤツは今帝国に・・・?」
「ああ、教会が匿っている。どうやって潜り込んだのかは我等にもわからんが」
「お前等に知られず教会に出入りできるとは思えんが」
「我等も万能ではない、ということだ」

「ラインハルト―――か」
ダルシアは揶揄するように呟く。

「まごうかたなき神の末裔、というやつだな。そいつが妙な事を言ったらしい」
「妙な事?」
「ああ、ルドルフは実は女で、今も女の格好をしてるかもしれない、と」

「ほう・・・」
「驚かんところをみるとやっぱりあれが・・・」
相手の言葉に一呼吸おいてダルシアが口を開く。

「だとしたらどうする。お前は総院長とラインハルトにルドルフが今ゾーネンニーデルンの王女と一緒に居ると報告するか?」
男が一瞬息を呑む音がリヒャルトの耳に鮮明に響いた。

「・・・ダルシア、何を考えている?」
「俺が考えている事は一つだけ、お前たちと同じだ、多分な・・・」

男はしばらく躊躇った後答えた。
「俺が見たことをそのまま報告すると言えばお前はここで俺の命を断つのだろうな」

「まさか、そんなことをすれば今度はお前の探索に別のものが遣されるだけだ。それより、教会はいやラインハルトはどこまで掴んでいるのだ。それを教えてくれたらお前に手出しはしない。お前が教会でどう報告してもそれは俺の関知するところでは無いしな」

「ふん、俺がルドルフの事を報告しないと決めてかかっているような言い方だな、まあいい、この件はとりあえず伏せて置いてやる、俺らにとってもアイツの存在は切り札になるかもしれないからな。
ラインハルトがどこまで掴んでいるかなど俺にもわからん、ただ、ルドルフの探索と同時に聖ロドニウス教会のアルベルトという学僧の探索命令も発せられた」

「アルベルト?」
「ああ、グリスデルガルドの戴冠式に派遣された僧だ。グリスデルガルド側は政変のドサクサで死んだと発表しているはずだ」

「・・・で、そいつは今どこに?」
「さあな、俺はその件に関してはノータッチだからな・・・」

「喰えない野郎だ」
「お互い様だろう、ではな」
それきり声は聞こえなくなった。

アルベルト、か・・・。ここでその名を聞こうとは思わなかったな―――
リヒャルトはそっと呟いた。

グリスデルガルドへの船旅をともにした聖ロドニウス教会の学僧。
あの時は商人と名乗っていたがただの商人でないことはリヒャルトには何となく分かった。
そしてまたその名をラインハルトやルドルフの口から聞くことになった。
なんとも不思議な縁だと思っていたが・・・

あのときのルドルフの話では単身教会へと向かった筈だったが、いまだに辿り着いていないとすれば、恐らくフィルデンラントに留め置かれているのだろう。
ダルシアも相手の口ぶりから容易に察したに違いない。
それにしても・・・

ダルシア、か。やはり只者ではないようだ。とすれば自分の事ももううすうす気付いているかもしれないな―――
リヒャルトは再びかの妖魔族の瞳を思わせる竜岩石に視線を落とし、
「さてどうしたものか」と呟いた。






フォーファーベルゲン
聖ロドニウス教会

ミミズが這ったような読みにくい筆記体の神格文字を一字一字辿りながらラインハルトはエリオルが歴史に登場する以前の情報を少しでも得ようと地道な解読作業を続けていた。

燭台に灯された蝋燭の明かりだけでは心もとなく魔法で現出させた小さな光の球がラインハルトの手元を照らすように空中を浮遊している。

ラインハルトは不意に顔を挙げ軽く手を上げてその球を掴んだ。
光はすっと音もなく消え去る。
ラインハルトは大きく背を反らせて天上を見上げ長く深い溜め息を吐いた。

いつも作業を手伝ってくれるオルランドは今日は総院長とともに外出していてラインハルトは書庫の中に一人きりだった。
厚い石壁で外界と隔てられた書庫は物音一つ聞こえない。
ラインハルトがメモを取るために滑らすペンの音がカリカリとこだまするだけだ。

「まさに別天地だな・・・」
ラインハルトはそう呟くとおもむろに腰を上げて大きく背伸びをした。

薄暗い中での長時間の作業のせいで目がしょぼしょぼしている。
あれから数日ずっと神格文字の文書を解読しているが、思うような内容のものは見出せないでいた。

エリオルの誕生当時の記録はどうやら意図的に廃除されているようだ。
それでも幾つかの事は分かった。
先史時代この大陸は幾度か天変地異に襲われたらしい。

大きな洪水に襲われ低地のほとんどが水中に数日間沈んだこと、大きな地震が幾日も続き山はことごとくその山頂から灼熱の炎を噴出し、同時に瞬く間に押し寄せた大津波で海岸に住む多くの人命が失われたこと、また空が厚いで雲で覆われ太陽の光が地上に届かない日々が何年も続いたこと等々。

その頃の人間たちはまだ文字を持たず、強い力を持つ長の下に多くの小国に分かれ相争っていたが、度重なる異変に人心は乱れ疲弊していた。
やり場の無い怒りと憎しみがもたらす疑心暗鬼にこの世は諍いが絶えず、小国間の戦争は止むことなく毎日夥しい血が流される。

そんな荒みきった世の中が永遠に続くように思われ、人の子から生きる希望が消え去ろうとした時救い主は現れた―――

ある日東北部で一番大きな町といわれたシェンゼンの広場に貧しい身形の一人の若者が現れた。
背の高い細身の青年はその身体から仄かな光を放っていた。
不思議なことにその光を目にしたものは心が洗われたように軽くなり清々しい気持ちになれたという。

青年は手にした長い杖で地面に自分を中心とした円を描きその円の中に不思議な模様を描いた。
不思議に思った周囲の人々に何をしているのかと聞かれ、その青年はただ一言
「これは文字というものだ」
と答えるとにっこりと笑った。

「文字?」
いぶかる人々をゆっくりと見回した後青年はおもむろに杖を真っ直ぐ天に向けて振り上げた。
すると不思議なことにその杖の先の空の雲にほんの少しだけ切れ目ができ、青年の描いた円の中だけ光が射したのだった―――

これがラインハルトがどうにか読み取ったエリオルが初めて記録に登場した時のくだりである。
青年の周りにはあっと言う間に人の輪ができ、やがて一つの集団を成していく。

無口な青年はあまり言葉を発する事はなかったが、不思議とその意思は周りのものによく伝わった。
なかでもケイロンという若者はごく初期から青年の傍近くに仕えたせいか、よくその意志を解し人々との仲立ちとなった。
青年の名がエリオルだと言う事もケイロンが人々にそう教えたことだった。

エリオルは多くの土地へ旅をし、あちこちで奇跡としか言いようの無い現象を引き起こして見せた。
旅を重ねるうちに付き従う人々は次第に膨れ上がり次第に一大勢力へとなって行く。
当時武力を持っていた有力者は数多くいたが誰一人としてエリオルに歯向かえるものはなかった。

エリオルを包む光は日増しに強く、それにつれ垂れ込めた雲は薄まり、地上に射す光は力強いものになっていった。
エリオルに矢を射かけようとする者は強い光にその目を焼かれ、剣で切りかかろうとする者はその手が焼け爛れた。
エリオルは身動き一つせずただ微笑んていただけだというのに・・・

後の事は読まずともわかるような気がした。
エリオルは人々を従え光に満ちた平和な世を築き、やがて神として崇められるようになった。
エリオルは人間に文字で言葉を表すことを教え、石を組み立てて堅牢な建物を建てる技術を教えた。

その他にも農耕や畜産、工芸などの様々な知識や技術を惜しみなく人間たちに分け与えたので、知識を得た人々は闇に怯えることもなくなり、人間の暮らしは日増しに豊かになっていった。

エリオルは大陸の中心の地に自分の住まいとなる神殿を建てさせると、多くの弟子たちの中から自ら選んだ八人の弟子たちに統治を任せ、神殿から外へ出る事はなくなる。
最初の弟子であるケイロン=ロドニウス=ホーファーベルクトを中心に弟子たちはよく国を治め平和な世が続いた。
エリオルがこの世を去るまでは・・・

ラインハルトは固くなった筋肉を揉み解すように軽く肩をぐるぐると回した。
これ以上調べてもラインハルトが求める情報は得られないような気がした。

オルランドも手伝ってくれてはいるが、妖魔族―――初めから在る者達にふれたものは何も見つけられずにいる。
本当にないのか、それとも更に秘密の書庫でもあってそこに保管されているのだろうか。

英雄ルドルフはフィルデンラントの王子だが、彼の残したものはフィルデンラントにはまったく残っていない。
グリスデルガルドにはどうだろう。

今は自分の手元にあるあの剣とセドリックとマティアスという妖魔族の手にある黒いオーブのほか、残した書物や書簡などはなかったのだろうか。
ラインハルトは小さく首を振った。
そんなものがあればルドルフはとっくに自分に話してくれているだろう。
やはり意図的に隠されているのだ。

ラインハルトは書籍を棚に戻すと燭台を手に書庫の中を歩き回ってみた。
壁を所々叩いてみたり書庫の影を覗いてみたりしたが、隠し部屋の様なものがある気配は感じられない。
ラインハルトは小さく溜め息を吐くと、廊下への扉を開けた。

いきなり開いたドアの気配にビクッとしたようにすぐ傍らにしゃがみ込んでいたロナウドが顔を上げる。 どうやらうとうとしていたらしい。

「ラインハルト様、今日はもうよろしいので?」
「ああ、僕も少し疲れたからね、今日はオルランド殿も留守だし、ちょっと息抜きをさせてもらおうかな、と思ってね」
「さようでございますか」
ロナウドはそういうとばつが悪そうな笑みを浮かべた。

「朝はやくからお勤めがあって大変だね」
ラインハルトはそう言いながら部屋へと戻るべく足を踏み出した。
「はい、あ、いえ、そんなことは・・・」

「大丈夫、僕も朝は苦手だからね。今日は部屋に帰って休むだけだから君ももう下がっていいよ。オルランド殿が戻るまでゆっくりしているといい」
「そういうわけにはいきません。僕はラインハルト様を・・・」

「しっかり見張っていなければならない?」
「そんな、見張るだなんて」
「いいよ、分かってるから」
ラインハルトはそう言って苦笑するとふと廊下に穿たれた窓から外を眺めた。

オルランドが毎日ラインハルトとともに書籍を調べてくれているのは、妖魔族に関する資料を探すため、それはよく分かっていた。
だが、他の業務もあり忙しい筈の彼がこうも毎日自分と付き合ってくれている理由はそれだけではない。

ラインハルトは魔導士だ。
オルランドはじめ聖ロドニウス教会の高僧といえども予期せぬことが起こるかもしれない。
だから手伝うのを口実に絶えず自分を見張っているのだろう。
ラインハルトはそう思っていた。

どうやらこの教会にはラインハルトには知られたくないことがあるらしい。
だが今のラインハルトに教会の秘密を詮索する余裕はない。
そんな暇があったら少しでも役に立ちそうな情報を集めるのが先決―――ラインハルトはそう思っていたのだが・・・

窓の外には北方の連山が遠く見えている。
北の国々から帝国を護る要衝の役割をになった雪を頂いた高い山々。
あの連山もまたエリオルの伝説の地の一つだ。

「エリオルか・・・」
そう呟いて転じたラインハルトの視線があの小堂の屋根を捕らえた。






「不思議な堂宇だったな」
ラインハルトの呟きにロナウドが怪訝そうな顔を向ける。
「いや、あの奥にある小堂さ、君は行ってみたことがあるかい?」
ラインハルトはそう問い掛けながら部屋に向けて歩き出した。

「いいえ、あそこに続く回廊は立ち入り禁止になっています。禁を破って近寄る者などいないですよ」
「そうなの?」
ロナウドはラインハルトの半歩後ろからついて歩きながら頷いた。

「あそこはそもそもどういった建物なんだろうな。君は何か知ってるの?」
「さあ、オルランド様は前にあの小堂は異界への接点、だとか仰っておられましたが、僕にはよくわかりません。ラインハルト様、異界への接点って、何のことだと思われますか?」

幼い瞳が真っ直ぐに見上げている。
ラインハルトは小さく笑って
「さあ、何のことだろうな」
と呟いた。

異界、この世ならぬ場所―――それはあの妖魔族のいた世界のことだろうか。
オーブは不思議な力で互いに引き合う。
あの部屋でオーブを使うことで他のオーブのある場所への道が開くということか?

「そういえばロナウド、オルランド殿は今日はどちらにいらしたんだろうな。君は聞いてる?」
部屋のドアの前まで戻ってきた時ラインハルトは何の気なしにそう尋ねてみた。

「ラインハルト様は聞いていらっしゃらなかったですか?オルランド様は今日は総院長様とご一緒に皇宮へお越しです」
「えっ!?」
ロナウドの答えにラインハルトは思わず目を見張った。

「月に一度総院長様は皇帝陛下に拝謁されます。三月に一度はオルランド様もご同行なさいます。今日はちょうどその拝謁日に当たっているのです」
「そうだったの?僕は何も聞いていなかったよ。オルランド殿が出かけることも今朝初めて聞いたし・・・」

「オルランド様は必要最低限のことしか僕らには話して下さいませんから・・・。定例の報告のための参内だし、ラインハルト様にお知らせすることもないとお考えになったのでしょう。
では、僕はこれで失礼します。御用の際にはお声をおかけ下さい」

ロナウドは丁寧にお辞儀をすると踵を返し、自分に与えられた小降りの部屋へと向って行った。
定例の報告―――ナタニエル総院長とオルランド師は自分の事を皇帝に報告するだろうか。

現皇帝はサムエル四世、四十代半ばだが政治にはあまり感心がないかわり演劇や音楽に造詣が深く、若い頃には自ら俳優として舞台にたったこともあるという異色の皇帝だ。

その末の姫は幼い頃より兄ヴィンフリートの婚約者と定められ、姫が十五歳になったらフィルデンラントに嫁いでくることになっていた。
音楽好きという点では皇帝陛下は兄と気が合うかもしれないな―――

ラインハルトは軽く目を閉じて兄ヴィンフリートが優雅に竪琴を奏でる姿を思い浮かべた。
何年か前、新年の祈願に訪れた神殿で兄は神を讃える歌を弾き語りしたのだった。

瞳と同色の長いゆったりとしたローブを身に纏ったその姿は国王と言うより神殿に使える神官のようで、その神々しさにラインハルトは思わず目を細めたものだった。

謳い終わった後兄はその竪琴を祭壇に献上した。
白く輝く美しい石づくりの祭壇にはエリオル神を讃える言葉が神格文字で刻まれていて・・・

神格文字!
ラインハルトはあっと声を上げそうになり慌てて堪えた。
身体中を電流が走りぬけたように痺れている。

あの神殿に刻まれていたのは第二期の神格文字、そして第一期の神格文字が刻まれた先史時代の遺跡は聖ロドニウス教会領として一般人民の立ち入りは禁止されている―――

「ロナウド!」
ラインハルトは慌ててもう自分の部屋へ入りかけていたロナウドを大声で呼び止めた。

「どうなさいました、ラインハルト様?」
ロナウドが驚いて駆け戻ってくる。

「あのさ、ロナウド、帝国や大陸の地図ってあるかな?」
ラインハルトは少し興奮気味にそう尋ね、自分を怪訝そうに見上げている少年の瞳に気付いて慌てて付け足した。

「いや、ちょっと、この際だから大陸のことちゃんと知っておこうかなと思ってさ。僕はフィルデンラントの事は勉強させられたからよく知ってるけど、他の国の事は全然知らないから・・・」

いけない、あまり慌てるとロナウドに不信感をもたれてしまう。
この少年だって自分になにか異変があればすぐ報告するように言われているのだろうから・・・

「はい、ありますよ。簡単なものなら僕も持ってますけど、詳しいのをご覧になりたいなら、第二書庫にあったはずです。前にアルベルト様が僕に見せるために借り出してくださったことがありましたから」

ロナウドはそういうとちょっと小首をかしげ、
「僕はまだ書庫には入らせてもらえません、ちょっとお待ち下さい」
と言うなり駆け出していってしまった。

ちょっと、というには長すぎる時間が経ってロナウドはやっと戻って来た。
手にはクルクルと巻いた大きな地図を二つ持っている。
「ラインハルト様、お待たせしてすみません。地図を出してもらうのに少し手間取ってしまって」
ロナウドは軽く息を切らせていた。

「いや、いいんだ。面倒なことを頼んでしまって悪かったね・・・」
「いいえ、とんでもない!僕、ラインハルト様のお役に立てて嬉しいです」
ロナウドはそう言ってほんのり頬を赤く染めた。

「地図を戻す時はまたお呼びください」
ロナウドはお辞儀をすると今度こそ部屋へと戻って行く。
その姿を見送ってからラインハルトは急いで部屋に入り床に地図を広げてみた。

一枚は帝国の、もう一枚は大陸全体の地図で、各国の国境や主だった都市や街道、山川などが記されている。
どちらも聖ロドニウス教会領と思われる部分は赤く塗りつぶされていて、その詳細は分からなかったが、大体の位置は読み取れた。

確かに大陸全土にわたって数多くの教会領が点在している。
エリオルの出身といわれる大陸東北部はもちろんだが、帝国内や南部の国々にも多いようだった。
ことに南国ゾーネンニーデルンの東南部にはひときわ大きな領域が赤く区切られていた。
よほど大きな遺跡があるのだろうか。

これほど多くの領地を人目に触れさせることなく管理するのは教会の力を以ってしても大変なことだろう。
恐らく帝国と各国の協力がなくては立ち行くまい。

かつてこの大地に人間以外の種族の興した文明があった―――それは絶対の秘密として皇帝と国王だけに代々口伝で伝えられてきたのだ。
事実フィルデンラントにも数は少ないが幾つか教会領があり、しかもその存在をラインハルトは全く知らなかった。

祖父の領地メルバントへ行くため幾度も通った街道のすぐ傍にも小さいながら教会領があった。
そしてまた、ケンペスの駐在していたアディエールからすぐ近くの内陸部にも。

何てことだ、こんなに近くにあると分かっていたら行ってみたのに・・・
立ち入り禁止ということは恐らく結界が張られているとは思うが、自分ならどうにか入り込めたかもしれない―――
ラインハルトはふっと溜め息を吐いた。

グリスデルガルドにはもっと多くの教会領が散在しているが、ルドルフが言っていた遺跡があると思われるあたりには赤く塗りつぶされたところはなかった。
その遺跡の情報は聖ロドニウス教会もつかんでいないということなのだろうか。

この部屋で魔法が使われたことをなるべく気取られたく無い―――ラインハルトは周囲に結界を張ると、テーブルに置かれたメモ用の紙片を手にとり小声で呪文を唱えた。

紙片はラインハルトの手を離れ空中を泳いで行く。
間もなく紙片からうす黄色い光が発せられ始めた。
光は大きく広がり、地図全体を包みこむとその情報を丸ごと写し取った。

光は紙片に吸い込まれるようにして消え、紙片は地図の上にひらひらと舞い落ちる。
見たところは何も描かれていないただの紙片のままだ。
ラインハルトはそっとその紙片を拾い上げ小さく畳んで懐に仕舞うと、地図を元通りクルクルと丸め時間を見計らってロナウドの部屋に向った。

「僕が地図を見たこと、オルランド殿には内緒にしてくれるかな。王族のくせに不勉強だと思われたくないんだ・・・」
地図を渡しながらラインハルトは努めてさりげないふうを装ってそう言った。
オルランドならすぐに自分の意図を見破ってしまうだろう、そう思えたからだった。

「はい、大丈夫です。僕が自分の勉強の為に借りたことにしておきますから、安心してください」
ロナウドはそういうとまた軽く頬を染めにっこりと笑った。