暁の大地


第十四章




フィルデンラント
某貴族の館

見渡す限りの草原を風に乗った火が覆いつくしていく。
草原の向こうに立ち並ぶ町並みも火に包まれているのが見えた。
これはいったいどうしたことだろう―――そう思ううちにも視点がぐっと変わりいつのまにか上空から町を見下ろしていた。

猛火の中を逃げ惑う人々の姿があちこちに見える。
両手に子供の手を引いた女性がよろよろと家から逃げ出してきた。
片方の子供が転ぶ。
女性が慌てて助け起こそうとしたところに焼け落ちた家の木材が崩れ落ちてきて母子もろとも押しつぶした。

あっと言う間もなくあたりは火の海になる。
崩れゆく町の只中で呆然と立ち尽くしている男に気付きその男に声を掛けた。
「何をしている、早く逃げろ!」
肩を叩かれ振り向いたその男の顔を見て息を呑む。
振り向いたその顔は自分自身のものだった―――

はっとしてアルベルトは我に返る。
見開いたその目に飛び込んできたのは気持ちよく整えられた小降りの部屋。
開け放たれたドアの向こうにはバルコニー越しに遠く山並みが見えていた。

―――ああ、そうか私は・・・
ニコラスはアルベルトを王都に連れて行くと言ったが、結局昼夜を継いだ馬車旅行のはて連れてこられたのはどうやら王城ではなくどこやらの貴族の居城のようだった。

ニコラスの尋問を受けて以来、アルベルトは常に頭に鈍痛を感じ、落ち着いて物事を考えられなくなっていた。
さっき見た光景は何だったのだろう。
ただの夢とは思えないほどリアルに感じられたが・・・

アルベルトは頭を手で支えながらゆっくりと立ち上がると隣の部屋へと歩を運んだ。
大きく開かれた窓辺から突き出したバルコニーに立つと美しい山並みが一望に見渡せる。

下を見下ろすと遥か下方に狭い裏庭が見えていた。
囚人を閉じ込めておくにしては無用心だ。

その気になればここから逃げ出す事も充分可能だろうに―――
そう考えてアルベルトは軽く苦笑を漏らしつつ自分に与えられた部屋を一渡り見回した。

一目で上質と分かる重厚な木材で設えられた調度の数々や繊細な装飾の施された品のいい天蓋付きのベッドなどを見ると、相当高位の貴族の持ち物なのだろう。
すぐ傍に森が迫り、小鳥たちの鳴き声が一日中聞こえていた。

部屋が南向きのおかげでほぼ一日中日が射しこむ。
アルベルトは暖かな日差しを浴びながらしばらくぶりでゆっくり身体を伸ばすことが出来た。
ここに来て数日になるが、ニコラスはアルベルトを置いてすぐにまた出て行ったきり、姿を見せてはいなかった。

屋敷には気配からしてかなり多くの召使たちが働いているようだが、アルベルトの前に姿を現すのはリサという女中だけで、他の者の姿はまだ見ていない。
そのリサも三度の食事を運んでくるだけで、食事を置くとそそくさと立ち去ってしまうので、アルベルトはいまだ彼女の声を聞けないでいた。

それでも姿は見せないが常に自分の周囲には監視の目が光っていることにアルベルトは気付いていた。
夜眠っている時、微かに醒めている感覚が誰かの視線を感じ取り、身体中が強張ってはっと目を覚ます、ということが幾度もあった。

また、昼でも無聊の慰めに部屋に置かれていた数冊の書物の一つを手にとって読むともなく眺めている時や、外の景色を眺めやり、遠く故郷や教会に思いを馳せている時などふいに他者の気配が感じられ、全身の毛が逆立つような悪寒を感じたりもした。

部屋の隅や調度の影など日の当たらない部分に誰かが潜んでいる―――振り向いてみても視覚は何も捉えないにも拘らず、アルベルトはそう確信できた。
あのニコラスがまったく無防備に自分を放っておくことなど有り得る筈もないのだ・・・

その日もまた何をすることもなく無駄に過ごしたアルベルトは、それでも来るべき“時”に備えベッドに身体を横たえ、目を瞑った。
妖魔族が今も自分を見張っている―――そう思うのはなんとも嫌な気分だった。

妖魔族は光が苦手、だがニコラスは昼日中でも自由に出歩いていた。
とするとあの男は純血の妖魔族では無いのだろう、恐らくは人間の血が混じっている。
そうとしか考えられなかった。
今こうして姿を潜め自分を見張っているのも、そしてまた今思えばあのルガニスも・・・

アルベルトはルガニスの顔を思い出した。
黒髪の端正な顔立ちの男だった。
だが深い緑色の瞳に浮かんでいたのは冷酷と残虐―――それとも深い憎悪だろうか。
彼は憎んでいるのだろう、光の中で生きる我等人間すべてを。
あれはそんな瞳だった。

いや憎んでいるのは人間だけではないかもしれない・・・
アルベルトはルガニスが砂になって崩れて行くカタリナを見遣った時の、嗜虐的な光を帯びた眼差しをふと思い出し身震いした。

今頃あの男はどこで何をしていることだろう。
湖で対峙した時、オーブの強い光を浴びて顔から血を流していたが、あの様子では命に別状はあるまいと思われる。

ルガニスは怪我の怨みも加わって、更に憎しみを燃やしてルドルフをつけ狙っているのかもしれない。
あの男は今頃どこに―――そう思っているとアルベルトは意識が急に遠退いて行くのを感じた。






パンゲア大陸某所

―――
天上から落ちてきた水滴が静かだった水面に小さな波紋を作る。
小さな泉の水面いっぱいに波紋が広がる様子を男は静かに眺めていた。
程なく水面は元の静かさを取り戻す。
鏡の様に平らなその面は覗き込む男の顔をありのままに映し出した。

顔の半分は長い髪に覆い隠されて見えないが、映し出された半面から男が面長の整った顔立ちをしていることがわかる。
その切れ長の瞳は見るものに精悍さと同時にどこか酷薄さを感じさせるものがあった。

男は水面を覗き込んだままそっと顔半分を覆った漆黒の髪を掻き揚げた。
もう半分からは想像もつかないほどに醜く焼け爛れ引き攣った傷跡が額から固く瞑られた目元を過ぎり頬にまで達している。

男はふっと口元に冷たい笑いを浮かべると手を下ろし、元の通り顔半分が隠れるよう髪を垂らした。
「この俺がなんとも不覚を取ったものだ・・・」
独り言が思わず口をついて出た。

「このルガニスともあろう者があんな連中に二度も出し抜かれるとは・・・」
そう呟きつつ男が手を水面の上に差し出すと、水面は揺れ男の姿は消えて代わりに別の顔が浮かび上がった。

ルガニスと同じ黒髪だが後ろで一つに束ねたまだ少年の顔だった。
「ふん、王女様はまだ男装のままとみえる」
ルガニスが手を軽く動かすと、顔は見る見る小さくなり少年の全体像が映し出された。

「・・・やはりあの剣は持っていないか・・・」
ルガニスはしばらくじっと少年の様子を眺めていたが、
「どうやらオーブも持っていないようだな」
と呟いた。

あの時アルベルトという僧侶が掲げた赤いオーブが発した光はルガニスの顔を酷く傷付けた。
純血の妖魔族であればオーブの光に焼かれもしかしたら致命的な打撃を受けていたかもしれない。
とすれば今度ばかりはこの身体に流れる人間の血に感謝すべきなのだろうな―――
ルガニスは苦笑を漏らした。

ルガニスの脳裏には黒く長い髪を風になびかせ優雅に宙を舞う一人の女の姿が浮かぶ。
女は薄闇のベールに身を包んですり抜けて行く風の感触を楽しみながらフワフワと漂うように空中に浮かんでいた。

「私の可愛い坊や。かわいそうだけど、お前を一緒に連れて行く事はできないわ。お前の父親は人間と呼ばれる種族。その種族は私達の事を神の敵と呼び忌み嫌う。だから私の一族も人間の血を受けたお前を同胞とは認めないでしょう。お前は人間として生きるのです。私の事は忘れて・・・」

そう言って女の姿は薄れ、夜の闇へと溶け込むように消えていく。
「待って、まだ行かないで!僕を置いていかないで・・・」
そう言って慌てて女の身に纏ったうす布をつかんだはずのその手には何も残ってはいなかった。

人間として生きる―――そんなことが可能だとあの女は本当に思ったのだろうか。
身体の中に流れるもう半分の血、妖魔族と人が呼ぶ一族の血はルガニスが普通の人間の子供として生きることを許してはくれなかった。
だがまたこれまでどうにか生き延びてこられたのではその力のおかげでもあるのだが・・・

長命種である妖魔族の血はルガニスに普通の人間には及びもつかない長い命を与えてくれた。
そして長い年月あちこちを流れ歩くうち自分と同じような者達が数多くいることも知ったのだった。
他者と群れることを潔しとしないルガニスは彼らと行動を共にすることは決してなかったが。

水面にはまだルドルフの姿が映っている。
ルガニスは傷は疼くのを感じ、髪の上からそっと顔を押さえた。

妖魔族の力を持ってすればこんな傷跡を消すのは簡単なことだった。
だがルガニスは敢えて傷を残しておくことを選んだ。
傷が疼くたび英雄の血を引く王子への憎しみは強まる。
その憎しみこそが自分を突き動かす原動力だ―――ルガニスはそう信じていた。

ルドルフの傍らにはアルベルトでもラインハルトでもなく、着飾った美しい少女が寄り添っている。
ゾーネンニーデルンの庶出の王女サンドラだ。
ルドルフはサンドラにつき従い刻々とこの地への道を歩んでいる。

運命はまだこの自分を見捨てていないらしい。
水面は再びルガニスの冷たい微笑を浮かべた顔を映していた。






フィルデンラント
某貴族の館

―――
不意に意識が戻りアルベルトは慌てて辺りを見回した。
どうやら自分はまだベッドで横になったままらしい。

枕もとのサイドテーブルに置かれた燭台の灯りだけがぼんやりと温かい光を周囲に投げかけている。
少しだけ開けられた窓から梟の声が微かに飛び込んでくる以外は何の物音も聞こえてこなかった。

アルベルトは額に手を当てほっと溜め息をついた。
この頃よく意識が遠くなると、不思議な光景が見えてくることが多い。
そう、ニコラスに心の中を覗かれたあの時から・・・

今までアルベルトの目に映っていたのはあれは確かにルガニスだった。
どこか暗い洞窟のようなところで小さな泉の水面を見下ろしている後姿が見えただけだったが、まず間違いないだろう。
圧倒的な威圧感はグリスデルガルドの王城や遺跡の近くの湖で対峙した時のままだった。

夢を見たのだろうかとも思ったが、夢にしては洞窟のじめじめと湿った感じや冷たい空気はやけに生々しかった。
妖魔族というのはあのような暗くて湿気の多い場所を好むものなのだろうか。

少しずつ落ち着きを取り戻して行く意識に部屋の隅に蟠る微かな気配が引っ掛かる。
頭が酷く痛んだ。
心からの安息が欲しい―――それが今の状況ではとても望め無い事を分かってはいてもアルベルトは少しでも安らかな眠りにつきたいと再び目を閉じた。






ホーファーベルゲン
聖ロドニウス教会

皇宮から戻ったオルランドからラインハルトは帝国や大陸の情報を幾つか聞き出すことが出来たが、やはり一番ラインハルトの関心を引いたのは故国フィルデンラントのことだった。

フィルデンラントからの早馬は、国王ヴィンフリート三世は不慮の病で急死、弟ラインハルト王子も先ごろ亡くなっているため、直系の男子による継承は不可能と思われたが、実は先々王ゲオルギウスには異母の弟がいたことが判明したため、その弟の孫に当たる人物を次代の国王として迎えたい旨の宰相ヴィクトールからの親書を携えていた。

その傍系の王子が次期国王として帝国の承認を得ないうちは、国王の逝去の公式発表は差し控えることも併記されていたそうだ。

「わが王家に傍系の一族だと?でっち上げだ、そんなもの!」
思わず大声を上げたラインハルトにオルランドはきわめて冷静に答える。

「そう、わしもそう思いますな。ただ、その傍系の王族には確かにフィルデンラント王家の血を引くという証拠の品が伝わっているともその親書には認めてございました」
「証拠の品?そんなの信用できるか!」

「どうでしょうな、このところ王家に代々伝わる品で無くなったものはないですかな・・・」
「さあ、僕は宝物庫の管理まではしてないからな」
やや落ち着きを取り戻したラインハルトは幾分ぶっきらぼうにそう言って、オルランドと向き合う形で腰を下ろした。

「まあ、本当に王家所蔵のものでなくともそれらしきものであれば、強引に証拠として主張する事はできましょうな。こういうことは本当の事は余人には分からぬもの。その傍系の王子を産んだという女性ももう生きてはおられぬのでしょうから・・・」

オルランドのあくまで穏やかな物言いにラインハルトはふーっと長い溜め息を漏らした。
「それで・・・?帝国としては、はいそうですか、とその王子の即位を認めると言う事か・・・?」

「いや、皇帝陛下には若くして無くなられた兄君がおられます。その奥方様は確かフィルデンラントの王女であったはず。兄君は女の子お一人しか遺されませんでしたが、その姫君は東国ゲルトマイシュタルフに嫁がれて王子を幾人かお産みになっておられます。

フィルデンラントの直系が絶えたなら、その王子様方にも継承の権利はある。皇帝陛下には、その旨を伝える返書をお出しくださるようナタニエルとわしとで進言いたしました。

同時に証拠とやらの提出も求めます。その品を吟味するのにもそれ相応の時間は必要となりましょう。

その品が王位継承の資格を証するに足るとの結論が出た上で、誰が王位を継ぐのが相応しいか帝国とフィルデンラントで合議がもたれると思います」

「確かに大叔母は帝国の第一王子に嫁いだが、皇妃にはなれなかった。だが・・・フィルデンラントの王位継承にゲルトマイシュタルフが絡んでくるというのは・・・」

オルランドはぐっと半身を乗り出すようにしてラインハルトに顔を近づけ、いつにもまして厳かな口調で言った。

「ラインハルト様、これはあくまでも時間稼ぎの苦肉の策です。ヴィクトールの裏に妖魔族が居るなら、思い通りに事を運ばせるわけにはいきませぬ。

この先どう転ぶかわしにも見当がつかぬというのが本当のところですが、少なくともラインハルト様、貴方はこうして生きている。いよいよとなれば本当のことを発表して逆にヴィクトールを国賊として討伐するまで。いかに妖魔族といえども全大陸が相手となればそう簡単には手出しできないでしょう。ですから・・・」

「ああ、そうだね、僕は・・・その時に備えて妖魔族のことをもっと知らなくてはならない。だが・・・」
オルランドはラインハルトの視線を受けてふと目を逸らした。

「どうやら書庫には我等が目指すものはなさそうだ・・・、そう仰りたいのですね」
ラインハルトは幾分目を細めてオルランドを見詰め、静かに頷いた。

「確かに、わしにもそう思われます。われらは大いなる時間の無駄をしているのではないかと、ね」
「オルランド殿」
「だが、聖ロドニウス教会にも保存されていないとなると・・・」

オルランドはしばらく考え込んでいたがやがてゆっくりと言った。
「王子様、少しばかり時間を頂けませんかな。わしも調べてみたいことがあるのです。もしかしたら・・・」

「心あたりがおありなのですね、オルランド殿」
勢い込むラインハルトにオルランドは軽く苦笑する。

「いや、心当たりと言えるほどはっきりしたものではないのです。ただわしの師であるヘルマン大聖人がかつて一言漏らした言葉―――それがなぜか突然思い出されたもので」
「ヘルマン大聖人の言葉、それは?」

「表は裏であり裏は表に通じる―――それだけですが、その言葉を師が口にしたのは・・・」
「オルランド殿?」

怪訝そうに見詰めるラインハルトにオルランドは
「いや。はっきりした事はよくわかりません。ですからわしなりに少し調べてみたいと思うとります。総院長にも二、三質したいことがございますし」

総院長に質問するなら僕も一緒に、ラインハルトはそう言おうと思ったが、オルランドの穏やかな笑顔にぶつかってなぜかその言葉を口にする事はできなかった。

オルランドの部屋を辞し、与えられた部屋のベッドに寝転んでからもラインハルトはヘルマン大聖人の言葉なるものを何度も心の中で復唱してみた。
表は裏であり裏は表に通じる―――なんのことやらラインハルトにはさっぱりわからない。

だがオルランドはその言葉に何らかの意味を見出す端緒を見つけたのかもしれない。
今の段階ではオルランドはこれ以上の事をラインハルトに教えてはくれないだろう、だがただ待っているのは自分の性に合わない。

ここに来て何日経つのか、ラインハルトは調査の成果もなくただ日にちだけが過ぎていくことに激しい苛立ちを感じざるを得なかった。
妖魔族についてなんら得るところは無く、さらにルドルフやアルベルトの消息も一向に聞こえてこない。
歯噛みしたくなるような焦燥感をどこにぶつける当ても無く、ラインハルトは強く拳を握った腕を閉じた瞼の上に当てた。







ホーファーベルゲン
聖ロドニウス教会周辺の森

夜の闇を吹き抜ける柔らかな風が木立をさやさやとそよがせて過ぎる。
その風に乗って一際濃度を増した漆黒の闇が風に乗って飛んでいく薄布の様に夜空を過ぎって行った。
中空に掛かる満月が、うす雲に半身を覆われながらも大地に冴え冴えと冷たい光を投げかけていた。

深い深い森の真ん中に大きく開けた平地に幾棟かの荘厳な建物が並んでいるのが俯瞰できる。
その森の外れ近くに立つ一際背の高い木の枝に闇のベールが掛かったと思ったら、それは忽ち小さく纏まりやがて一羽の鳥の姿となった。
夜目にも怪しく光る金色の瞳を持つ梟だった。

「ふうむ、我が求める物はどうやら究極の結界の中とみえる。いくら探しても気配すら感じられぬのも道理と言うわけか。さても、どうしたものかな。それで皇帝陛下は納得してくださるか・・・」

梟の目がきらりと光る。
その瞬間梟の目は様々な色が移り変わって行った。

少し仕掛けてみるか・・・。いや、今単独で動くのは上手くないか。
それに今夜は満月。我等にはあまり分がいいとは言えないし―――

梟の姿は闇に溶けるように消えていき一陣の風が木立を騒がせながら吹きぬける。
後には月明かりに照らされた静かな森の姿だけが残った。






ゾーネンニーデルン
コノリー伯爵家別荘

月明かりはあくまでも静かに夜の大地を照らし続ける。
その月の光を満身に浴びながらルドルフは南国の潮の香りを多分に含んだ生暖かな風が頬をなぶるのを楽しんでいた。

つい先程まで薄っすらと月を覆っていたうす雲も今はきれいに吹き払われ、柔らかな光で大地とそこに生きるありとある生き物たちを祝福してくれているように見える。
コノリー伯爵家は海辺の高台に小さな別荘を持っていて、今ルドルフはサンドラとともにその別荘を訪れていた。

与えられた瀟洒な居心地の良い部屋のバルコニーに立つと、眼下に長い砂浜が深い湾に沿って弓なりに広がり、港を中心に町並みが広がっているのが一望できた。

寄せては返す潮騒の音を聞いていると心が落ち着く。
目を閉じてじっと耳を澄ませていると波の音に混じって人々の生業の音も聞こえてくるような気がした。

穏やかな港町の人々は妖魔族の脅威を微塵も感じる事無く平穏な日々を送っているのだろう。
ルドルフはその平和な日々がこれからもずっと続いてくれるよう心から願った。

目を西に転じれば大陸と故国を隔てる大海が月明かりの中ゆっくりとうねっているのが見える。
今、故国グリスデルガルドの状況はどうなっているのだろう。

妖魔族の勢力があのまま広がり続けたら、狭い島国はあっと言う間に人の住めない地に変わってしまうだろう。
いや、もうもしかしてそうなってしまっているのかもしれない。
ルドルフはクラウディアや酒場のおかみさんのことを思い出し、そっと目を伏せた。

そして・・・
フランツは今頃どうしているのだろう、と思う。
まだあのあばら家で暮らしているのだろうか。
妖魔族がフランツをあんな場所に置いておくのはなぜなのか。
まさかフランツがグリスデルガルドの王子だと知らないわけでもあるまいに・・・

それにしても、完全に息が止まっていたフランツが体調は完全では無いにしても無事生きていてくれた。
ルドルフにはそれが嬉しいと同時に、とても不可思議なことに思われた。
妖魔族には死んだ人間を甦らせる力でもあるのだと思わないではいられなかった。

ルドルフは風に靡く髪をそっと指に絡める。
自分と同じ黒髪の英雄ルドルフ一世は本来は金髪碧眼だった。
それがあのように変わってしまったのは、酷い怪我をして神の血がほとんど流れ出てしまったから・・・

マティアスはそんなことを言っていたが、普通身体中の血が流れ出てしまったら人は生きてはいられないのではないかと思う。
それが無事一命を取り留めた、しかも髪や目の色が変わって―――
これは何を意味するのだろう。

ふっと月明かりが翳り、ルドルフは空を見上げた。
海の上を覆いつくしている夜の闇が少しだけ濃くなったように感じられる。
だがそう思われたのはほんの一瞬で次の瞬間には元通り美しい満月があたりを煌々と照らし出していた。

急に心がきゅっと切なくなるような感傷に襲われ、ルドルフはただただ静かな光を投げかけている月から目を逸らした。
上着の内ポケットに忍ばせた白い石がほんのり熱を帯びたような気がしてルドルフはそっと服の上から手を当ててみた。

石の硬い感触を確めるようにそのまま手を置いてじっと夜空を見上げるルドルフの耳に、
「まだお休みになられないので」
と言う声が不意に声が聞こえてくる。

振り向くとダルシアがすっと姿を現し、幾分距離をおいて膝をつき畏まっていた。
「ああ、君か。なんだか眠る気になれなくてね。この頃はずっと運動不足気味のせいかな」
ルドルフはそういうと軽い微苦笑を浮かべた。
「それに今夜は月があまりにも綺麗だし」

「そうですね、この辺りは海からの南風のため天気も曇りがちのことが多いですからね。これほど見事な満月を見れるのは珍しいことかもしれません。ルドルフ様のご来訪を月も喜んでいるのでしょうか」
ダルシアは臣下の礼を崩さぬまま真顔でそう答える。

「よしてくれよ、ダルシア。もし月が来訪を喜んでいるというのなら、それは僕ではなくサンドラの方だろうに」

ダルシアはサンドラの従者だ。
内心の思いは別のところにあるにしても、こうあからさまに追従されてもルドルフとしてはどう答えたものか思案にくれてしまうのだった。
ダルシアはルドルフの言葉に軽く鼻を鳴らしただけで、返事はしなかった。

「ダルシア、君はぼくのこと随分買ってくれているみたいだけど、僕には、少なくとも今の僕には何も・・・」
できることはない、そう言おうとしてルドルフは唇を噛んだ。

今の僕はただの逃亡者、兄を助け国を奪い返したいという気持ちはあっても、どうすることもできない。
せめてあの英雄の剣―――ルドルフ一世の剣が手元にあれば・・・

ルドルフは不意にラインハルトの事を思い出し、ダルシアに聞いてみた。
「ダルシア、サンドラと一緒に行動するようになって僕には情報がさっぱり入ってこなくなってしまったんだけど、今フィルデンラントはどうなっているのかな。グリスデルガルドに送られてた軍になにやら異変があったらしいんだけど」

ヴェルシェストの港でその話を聞いて以来、リヒャルトからもその後の情報は聞けずじまいだった。
遠目遠耳のきく彼のことだからなにか掴んでいるかもしれないが、必要なことなら自分にも話してくれるだろう。
ならば彼も目ぼしい情報は掴んでいないのだろう、ルドルフはそう思っていた。

「さあ、他国の事は詳しい事は分かりませんが、出来るだけ情報を集めてみましょう。グリスデルガルドのこともさぞお気がかりでしょうに、気がつきませんで申し訳ございません」

「あ、いや、君が気に病むことではないよ。でもこうして僕一人だけが安穏としているのはどうもね・・・」
ルドルフはそう言うともう一度海のほうを眺めた。

「では、私はさっそく情報収集にかかります、ではこれにて」
その言葉とともにダルシアの姿はバルコニーから消えている。
ルドルフはほっと溜め息をついて室内へ戻り、バルコニーへと続く窓の鍵を掛けた。


「あいつめ、肝心な事は何も教えないつもりだな」
ルドルフがベッドに横たわる衣擦れの音を耳にしながらリヒャルトはそっと呟いた。
すでに隣のベッドではテオドールが高鼾をかいている。

隣国フィルデンラントの騒然とした様子はこのゾーネンニーデルンにも漏れ聞こえていた。
それにこの間の正体不明の男との会話―――

ラインハルト王子は白の帝国の中心、聖ロドニウス教会に滞在している。
おそらく本人にその自覚は無いだろうが、事実上は軟禁状態だろう。
リヒャルトはほっと溜め息をついた。

王子が教会に、帝国の中枢にいる、しかもおそらくは英雄の剣を手中にして―――
これは一体何を意味しているのか、リヒャルトはじっと竜眼石を見詰めたがそこには何の変化もなかった。

彼の人は自分の問いには答えてはくれぬだろうな、そう思いつつリヒャルトは窓越しに煌々と冴え渡る月を見遣った。
先程ほんの一瞬だが空中を薄闇が過ぎり、ほんの少しだけ月光を翳らせていった。
王女様は気付いただろうか、あれが思い人の気配だったことに・・・


「ルドルフ様、伯母様はどうも身体の具合があまりすぐれないご様子なの。だから、すこしだけ遠回りしてロディウムの温泉に寄ってみようと思うのだけど」
翌朝、いきなり部屋に駆け込んで来たサンドラにいきなりそう切り出されてルドルフは戸惑った。

「ロディウムの温泉?」

困惑するルドルフを楽しそうに眺めながら人払いをしたサンドラは
「そうなの、ここからすこし行った所なんだけど、海底火山の影響で海水が温水になる場所があるのよ。民衆には開放されていないからあまり有名ではないんだけどね」
と言って人を食ったような笑顔を見せた。

「そうなの」
「お父様はじめ王族や上級の貴族たちは時々保養に来るんだけど、私は子供の頃一度来ただけでもう何年も来てないので、この機会に入ってみたいと思って」
「ふうん・・・」

なるほど、コノリー夫人の腰痛は口実で実際は久しぶりに温泉にゆっくりつかってみたくなったと言う事か、ルドルフは顔には出さないよう気をつけながら、内心ため息をついた。

「温泉の奥には間欠泉の湧き出る場所もあるの。この前来たときは危ないからってお父様に止められてそこまで行かせてもらえなかったけど、今度は絶対に行ってみたいと思ってるのよ」
「間欠泉?」

「うん、ロディウムの一体は地下の火山活動が活発らしくて定期的に熱湯が岩盤の隙間から噴出してくるんですって。私には原理的な事はよく分からないのだけれど」
「このあたりは火山が多いんだ」
「そうみたいね」

サンドラの話を聞きながらルドルフは、温泉と言うものに興味を引かれた。
グリスデルガルドには火山などなく、当然温泉などと言うものもなかった。
前にフォアマンがどこか他国には山頂から火を吹く山や、熱湯が自然に湧き出てくる場所があると言っていたのを聞いて、世の中には珍しいものがあるのだと思ってはいたのだが。

「本当にお湯が湧き出てくるの?その、泉の様に・・・」
「そうよ、岩の間とか、地面の裂け目とかからね」
サンドラはルドルフが珍しく興味を示したのが嬉しいらしく、キャッキャとはしゃぎながらルドルフを誘いベッドの縁に隣り合って腰掛けながら言った。

「温泉か・・・」
「それにね」
サンドラはもっと相手の興味を引こうとしてか、ルドルフの顔をじっと覗き込んでわざと声をひそめて囁いた。

「間欠泉のさらに奥にはもっと珍しいものがあるらしいの」
「もっと珍しいもの?」
怪訝そうなルドルフの瞳を思わせぶりに見詰めながらサンドラはさらに顔を近づけた。

「そう、聖ロドニウス教会の者しか立ち入ってはいけない場所があるの。お父様が腹心の家来にそう話していたわ。
二人とも私がお父様の膝の上で眠って居るとばかり思っていたのね、内緒話が聞こえてしまったのよ」

「聖ロドニウス教会の者しか立ち入ってはならない場所・・・?」
「そう、そしてそこには想像もつかないたいそうな宝物がしまわれているらしいわ」

ルドルフが驚いて言葉を失っているとサンドラはさらに続けて言った。
「私たち二人でこっそりその宝物を探してみない?」
「・・・え・・・」

ルドルフが言葉を返そうとした瞬間、サンドラの唇が軽くルドルフのそれに触れた。
「サンドラ、君・・・!」
驚いて身を引いたルドルフにサンドラはにっこり笑って

「いい、今の事は二人だけの秘密よ。今のはその約束のしるし。じゃ、はやく出立の支度をしてね」 と言い残し、風の様に身を翻して部屋を出ていった。






呆然とサンドラの後姿を見送っていたルドルフの耳に軽い咳払いの声が聞こえ、おもむろに開かれたドアの影からリヒャルトが遠慮がちに顔を覗かせた。
「やあ、リヒャルト殿」

この相手には何でもお見通しだったなと思うと、気まずさを隠しきれない。
そんなルドルフの気持ちを察してかリヒャルトはもう一度小さく咳払いをするとゆっくりと歩み寄ってきた。

「まいったな、彼女にはもう本当の事を話したほうがいいのかもしれないな・・・」
髪に手をあてながら照れたような苦笑いを浮かべるルドルフにリヒャルトは真剣な表情で切り出した。

「ルドルフ様、お話しておかねばならないことがあります」
「リヒャルト殿・・・?」

立ち上がろうとするルドルフを手を上げて止めながらリヒャルトはその足元に跪く。
「私はあの王女様の庇護を受けることで当面ルドルフ様の身柄の安全を保てると考えていました。ですが・・・」
「そうではない、と?」

「あのダルシアという男、思っていた以上に危険かもしれません。あの男は・・・」
怪訝な表情を浮かべて次の言葉を待つルドルフにリヒャルトは一瞬の躊躇いの後続けて言った。
「あの男は妖魔族の匂いがします。あの男からもその仲間からも」

「彼が妖魔族だと?」
「純粋の妖魔族ではありません、恐らく人間の血の方が濃いでしょうが」
「!」

妖魔族と人間との混血は結構いるんだぜ―――マティアスの声が頭の奥で響いた。
「でも、リヒャルト殿、どうしてそんなことが分かるの?貴方は妖魔族のことに詳しいようだけど、どうして・・・」

ルドルフははっとしてリヒャルトを見詰める。
「リヒャルト殿、もしかして貴方も妖魔族の・・・」

リヒャルトは軽い笑みを浮かべながら言う。
「そう、ですね、人間から見て妖魔族と一括りにしてしまうのならば、確かに私も妖魔族の一員となるのかもしれません」

「?どういうこと?」
「人間と言う種族が生まれ出でるずっと以前からこの大陸を住処として高い文明を築いていた者達がいました。彼らは人間たちをプレヴィア・ロム・ノヴァリア、つまり後から来た者達と呼んでいました」

「後から来た者達?。ということは、人間は・・・」
「人間を進化の頂点とする種族とはまったく別の生態系に属する彼らは人間に対して自らのことをプレヴィア・ロム・アデリア、つまり元々いる者達と呼びました。
彼らは幾つかの部族に分かれ分裂と統合を繰り返してきた。そして今は一番力の強かった一族のもと一応の統一を保っていてその長は神聖皇帝と呼ばれている―――それが貴女の戦おうとしている相手です」
「!」

「そして私もプレヴィア・ロム・アデリアの一種族の末裔、といってももう人間の血のほうが濃くなって、たいした事はできなくなってしまいましたが・・・」
「リヒャルト殿」
ルドルフは何と言っていいか分からず、ただじっと相手の顔を見詰めた。

「そんなお顔をなさらないで下さい。私が不思議な力を持ち普通の人間とは違った時の流れを生きている事はお気づきでいらしたのしょう?」
ルドルフはマティアスやルガニスの事を思い出しながらリヒャルトの輝く金髪と綺麗な空色の瞳をじっと見詰めた。

妖魔族はみな黒髪で眼も濃い緑や紫なのかと思っていたけど、この髪や目の色はむしろ・・・ラインハルトを思い起こさせる、神の血を引く八聖国の王子を―――

「あなたも妖魔族の・・・一員なのですね・・・」
「はい、そうなりますね」

ルドルフはリヒャルトの話をどう受け止めたらいいのか咄嗟につかめず、ただ心に浮かんだ疑問を素直に口にしてみた。
「でも、貴方の髪や眼は他の妖魔族とは随分・・・」

リヒャルトはふっと溜め息を吐いた。
「そう、プレヴィア・ロム・アデリアには大きく分けて二つの系統がありました。私は貴女が知っている妖魔族の者達とは別系統の一族なのです」

「別系統・・・。でも貴方はあの・・・マティアスと・・・」
この名を口にするのはなんと辛いのだろう、そう思いながらルドルフは言葉を続ける。
「マティアス卿と知り合いのようだけど・・・」

リヒャルトは軽く目を閉じゆっくりと首を振る。
「我が一族は他の妖魔族とは一線を画して生きてきましたが、マティアス卿の一族とは接触を保ち続けて来たのです」

「それはなぜ?」
「それは我等がともに竜を守護神とする一族だったから・・・」
リヒャルトがそこまで言った時廊下を近付いてくる慌しい足音が聞こえてきた。

「まずいな、そろそろ出立の支度をしなければ・・・。ルドルフ様、私がこんなお話をしたのは、このままサンドラ王女について、いやあのダルシアについて旅を続けるのが本当によい事かどうか分からなくなってきたからです」
「・・・」

「確かに初めから少し胡散臭い男だった。だが、妖魔族とつながりがあるようにも見えなかったし、ゾーネンニーデルンの王女の従者であればまずは安全かと思ったのが甘かったかもしれません。
妖魔族と人間の混血は貴女が思っているよりも多い。彼らはいろんな形で人間社会に溶け込んで暮らしています。まあ、中には外界との接触を一切断って自分たちだけで集落を作っている者達もいますがね」

ルドルフには何と答えたものか言葉が見付からない。
確かにダルシアの持つ不思議な力や暗い光を帯びた瞳にはどこかきな臭さを感じずにはいられなかったルドルフだが・・・

「それに、先ほど王女が話されていた場所―――」
「え?」
「聖ロドニウス教会の聖地、そこには立ち入ってはいけません」

「聖ロドニウス教会・・・」
「そう、一般の人間には立ち入ることの許されない場所です。大抵の人間なら近付くこともできないでしょう、でも貴女なら・・・」
「僕なら・・・どうだと言うのですか?」

リヒャルトはそっと手を伸ばしルドルフの頬に手を当てた。
「嫌な予感がする。その場所に近付くのは避けたほうがいい、そう強く感じるのです」

「リヒャルト殿は先のことが分かるのですか?」
「私にはっきりとした未来を予知する力はないのですが、いやなことが起こる前にはこれが・・・」
リヒャルトはルドルフの顔から離した手を腰に差している剣の柄に移した。

「この剣に埋め込まれたこの石が微かに震えて教えてくれるのです」
剣の柄は横を向いた竜が象られている、その竜の目は見る角度によって様々な色に輝く不思議な石だ。

「ふうん、本当に不思議な石なんだね」
竜眼石といったっけ、本当にマティアスの瞳によく似ている・・・
ルドルフは腰を浮かせてその不思議な石に手を伸ばした。

微かに指先が触れたと思った瞬間、周りの世界が一変する。
様々な色が鮮やかに明滅を繰り返す中を、見た事もないような様々な風景、たくさんの人の顔が目の前を過ぎっては飛び去るように消えていく。
その中にはかつてルドルフも目にしたものも確かに混じっていた。
そのあまりに鮮烈な刺激にルドルフは思わず小さな悲鳴とともに手を離した。

「何、今見えたの・・・?」
ルドルフの声は微かに震えている。

その様子をじっと見ながらリヒャルトは
「何か見えましたか」
と驚くほど低く静かな声で訊ねた。

「え、うん、いろんな景色や人の顔が・・・」
この剣には前にも一度触れたことがあるが、その時は何も見えたりしなかった。
もっともあの時は石には触れなかったけど・・・

「ここは特別な場所の近くだからでしょう。貴女が見たように感じたのは、この石が長い年月その表面に映してきた光景なのだと思います。ならば余計に」
リヒャルトはゆっくり立ち上がると強い口調で言った。
「貴方は聖地に立ち入ってはならない」
「リヒャルト殿」

「今夜のうちに発ちましょう。夜陰に乗じてこの一行から離れるのです。サンドラ王女は言い出したら聞かない、貴女をどうしても聖地に連れて行こうとするでしょう。そうでなくてもあのダルシアは信用できない」
リヒャルトのいつにもまして真剣な表情にルドルフは釣り込まれるように頷いていた。