暁の大地


第十五章




ゾーネンニーデルン
ソラリス男爵邸

ほぼ一日をかけて海沿いに進み、目指す目的の地までもう一歩となったところでサンドラの一行はその夜の宿泊地を決めた。
コノリー夫人の従妹が嫁いでいるというソラリス男爵家の別邸に宿を取らせてもらったのだ。

事前に連絡が通っていたとみえて、一行を出迎えた執事のアルブレヒトは、
「主は留守ですが、心から歓迎させていただきます」
と言った。

それが本心からのものであるかはなはだ怪しいが、我儘な王女サンドラが地方を巡遊するのはもう珍しくもないようで、居並んだ召使たちも手馴れた様子で一行の歓待に当たっていた。

確かに温泉地が近いらしく、街中そこはかとなく、硫黄の独特のにおいが漂っていた。
流石に男爵邸はハーブの芳香剤が大量に使われているためか、どの部屋へいってもいい匂いがしている。
今日の宿もまた極上と、鼻をくんくんさせてご機嫌のテオドールを尻目に、ルドルフはいつ行動を起こすのかと気がつけばリヒャルトのほうを盗み見ていた。

あまり頻繁に様子を伺っては怪しまれる、そうは思っても、ルドルフとしてもそうと決まれば少しでも早くこの一行から離れたい思いでいっぱいだった。
贅を尽くした海の珍味がずらりと並べられた夕食も、給仕してくれる侍女たちの笑顔もルドルフの気を引き立てるのにあまり役には立たなかった。

サンドラに、気分が優れないので、と言い訳して、ルドルフはあてがわれた部屋へと早々に引き下がった。
持っていくべき荷物としてはマティアスから貰った服とあの白い石だけで充分だ、とルドルフは前にテオドールが用意してくれた雑嚢にその品々を丁寧に詰めた。

作業を終えベッドの下に隠そうとしたところを様子を見に来たサンドラに危うく見つけられそうになったが、どうにか誤魔化したルドルフは
「本当に気分が悪いので、誰にも邪魔されずに休みたい」
とサンドラに告げるとベッドに入り、リヒャルトからの合図をじっと待ち続けた。
ダルシアに邪魔をされたくないので、ベランダに通じる窓にはしっかり鍵をかけカーテンを引いておいた。

リヒャルトの話を聞いてからというもの、ルドルフにはダルシアの存在がなんだか不気味なものに思えてしかたなかった。
彼が自分に肩入れする本当の理由は何なのか。
何か自分の知らないことがあるのだ、と直感的に感じた。

もしかしてマティアスが自分に興味を持ったのもそのせいかもしれない。
聖少女―――その言葉を聞くたびに背中がゾクリとするのはなぜなのか。
夜遅くベランダに人の気配を感じたが、ルドルフがじっと寝たフリをしていると、諦めたのか静かに去って行った。

部屋のドアが静かにノックされたのは夜半少し過ぎた頃だった。
音もなく扉をあけたリヒャルトは、静かにルドルフに近付くと小声で出立を告げた。
「ルドルフ様、幸運なことにダルシアたちの一行がロディウムに向かって出立しました。明日の道中や街中の滞在の障害になりそうなものを取り除く為先行したのでしょう」

「リヒャルト殿」
用意はできているとばかり意気込んで立ち上がろうとするルドルフを軽く押しとどめて、
「罠かもしれないという心配はありますが、今を逃しては脱出のチャンスは掴めないかもしれません。思いのほかガードが固い」
リヒャルトはそう言って苦笑して見せた。

「それで・・・」
リヒャルトは少し言いよどんだが、
「貴女は石をお持ちですよね、白い」と続けた。
「え、うん・・・」
「できればそれはここに置いていっていただけたら有難いのですが・・・」
「!どうして?」

フランツの姿を映す石、しかもあれはマティアスに貰ったものだ、ルドルフには手放すなど考えられない。
驚き戸惑う相手の様子を見てリヒャルトはふっと溜め息をつき、
「やっぱり、駄目だろうとは思っていました。仕方ありませんね」
というと今まで以上に真摯な表情になった。

「では出発しましょう、荷物はそれだけですか」
ルドルフがベッドの下から引き出した雑嚢を手に取ると、リヒャルト扉を僅かに開け、外の様子を伺った。
やがてルドルフについてくるよう合図を送ると、音も無く廊下へと踏み出す。
ルドルフも音を立てないように気をつけながらリヒャルトについて廊下に出た。

所々の壁に灯された細い松明の灯だけが心細い光を投げかけるなか、リヒャルトはルドルフを従えて奥へと進んで行く。
極力音を立てないよう注意しながら階段を下り厨房へと向かう。
厨房ではテオドールが侍女たちと大声で楽しげに話しこんでいた。

かなりきわどい話題らしいが、侍女たちはキャッキャと笑い転げ、テオドールの話に夢中になっている。
リヒャルト達が厨房脇の廊下を通り抜けて裏口に回ったのに気がつくものはいなかった。

表玄関に比べて裏口はたいそう粗末な木製の扉だった。
「ルドルフ様、少しお待ち下さい」
リヒャルトはルドルフの耳に口を近付けてそう囁いた。
それは普通の声とは違って空気の振動を通してではなく、直接脳に響いてくるような声だった。
驚くルドルフにリヒャルトは
「私は特別な発声法で貴女の聴覚に直接働きかけているのです」
と今度は普通の声で呟いた。

物陰に潜んでじっと息を殺していたのはほんの短い間だったろう。
だがその短い時間がルドルフには永遠に続くかのように感じられた。
唐突に階上で何かが爆発するような音がした。
厨房からも侍女たちが飛び出してくる。

「何事だ!」
「どうしたというんだ!?」
女性の悲鳴に混じって男達の緊迫した声が飛び交っている。
しばらくして、
「屋上だ、玄関の真上辺りが燃えているぞ!」
と言う声が響き、たくさんの足音が階段を駆け上って行くのが聞こえてきた。

リヒャルトはじっと耳を済ませていたようだったが、やがて一言、
「よろしい、行きましょう」
と言った。
すぐにデオドールも厨房から顔を出し、にやっと笑って見せた。

三人は人気のなくなった裏口から外に出、厩に向かう。
先程の音と浮き足立った人々の様子を感じてか、馬たちも気が立っている様子で落ちつかなげに足を踏み鳴らしていた。

「おい、お前たち、アルブレヒト様が及びだぞ、なんでも少しでも人出が欲しいそうだ、表玄関へ向かえとさ。急げ!」
テオドールが慌てて執事の命令を伝えに来た振りをして数人いた厩番を追い払うと、三人はこっそり馬を拝借してそのまま邸を取り巻くように密生していた林の中に駆け込んだ。

馬は火の気を感じて敏感になっていたのか、飛ぶように走った。
「一体何をしたの?」
暫く全力で走って邸からかなり遠ざかったと思った頃ルドルフは馬を駆りながらリヒャルトに尋ねた。

「いえね、ちょっと爆竹の小さいヤツを幾つか、ね。導火線の長さで爆発する時間を調整できるんですよ。かなり煙の出るヤツだから、邸の連中、すっかり火事と勘違いしてくれました」
主人と相乗りのテオドールが陽気に答える。

「ご主人様から、あのダルシアってヤツ等は目指す温泉に怪しいヤツがいないか、探索に出かけちまったと聞いていましたのでね、こっちも遠慮なく動きまわることができたってわけですよ」

「この騒ぎを聞きつけて何名かは戻ってくるだろう。それまでに少しでも距離を稼いでおきたい。奴等は夜の方が動きが俊敏だからな」
ルドルフは黙って頷いた。

月明かりがあるとはいえ暗闇の林のなかを走るのはかなり骨が折れたが林はすぐに疎らになりやがて広い草原に出た。
遠くに民家が密集しているのが見えている。
「リヒャルト殿、どこへ向かうの?」

「そうですね、とりあえず・・・、白の帝国へ向かいましょう。フィルデンラントは危険だ。他のどの国に行くにも帝国経由の方が道もいい。それに・・・」
「それに、何?」

「帝国はエリオルの特別の恩寵を受けた地、妖魔族もそう自由には動き回れないはずです」
月明かりを受けて輝く金髪を靡かせて馬を駆るリヒャルトの姿は、どこか絵本で見たエリオルの姿をルドルフに思い起こさせた。
「とにかくあの村まで走りましょう」
リヒャルトは民家が密集している辺りを指差した。

「うん」
そう言ってルドルフは馬の腹を強めに蹴ったが、馬は前に進むどころか大きく嘶いて棒立ちになったのでルドルフは危うく振り落とされそうになった。
「何!?」
漸く体勢を立て直したルドルフは目の前に進路に黒い影が立っているのを見て愕然とした。






ホーファーベルゲン
アストラル宮殿

「オルランド様から、自分に何かあったらここでラインハルト様をお待ちするよう言い付かっておりました」
ラインハルトの前にすっと立ったロナウドは親しげに笑みを浮かべている。
その様子にラインハルトは戸惑いを隠せなかった。

「でも君は・・・」
ナタニエルに命じられて僕を見張っていたのではないか―――
言葉にならないその言葉を推し量ってかロナウドは微笑するのを止め、

「僕はナタニエル様からラインハルト様の動きを見張っているように言われていただけです。僕の師はオルランド様一人です。貴方の剣にメモを入れたのも僕です。オルランド様と貴方が書庫で調べ物をしている間にこっそり部屋に入らせていただきました」
と真摯な声で言った。

「君が・・・。でも鍵が掛かっていたろう、僕はいつも部屋を開けるときは必ず鍵をかけるようにしていたから」
「あの部屋は前にオルランド様が書斎として使っておられました。あるときその鍵がなくなってしまって、新しい鍵を作ってもらったのですが、そのあとで僕の荷物の間に紛れているのが見付かったのです。僕は怒られたくなくて誰にも言わなかったのですが、オルランド様は僕の様子から大体の事を察したようで・・・」
ロナウドはそう言ってポケットから小さな鍵を取り出して見せた。

「そんな・・・」
あの部屋を僕にあてがったのはオルランドだった。
彼は初めからこの展開を予測していたのだろうか。

「ラインハルト様、時間があまりありません、ラインハルト様に会っていただきたい方がいます」
ルナウドはそう言ってラインハルトの袖をひいて宮殿の裏手の建物へと向かった。
「でも、君は見張り番の仕事をしているのだろう?」
戸惑うラインハルトにロナウドは今度はにっこり笑って見せる。

「僕はあそこで貴方を待っていただけです。兵僧の格好をしていれば夜半に出歩いていてもそう怪しまれることもないですからね。この宮殿には裏の出入り口はありません」
「そうなのか!」
「宮殿に出入りするもの全てを把握できるようにわざと正面以外の出入り口は設けられていないのです」

ラインハルトはロナウドについて裏手の小さな建物に向った。
石造りだが全体に簡素な造りだ。
先ほどは気がつかなかったがエントランスの柱の影にフードを目深に被った兵僧が一人佇んでいた。

ラインハルトは思わず身構えたが、僧はロナウドと目を見交わして軽く頷くとラインハルトには全く関心を払おうとしなかった。
その兵僧の脇をすり抜けるようにして、建物の造りの割には頑丈そうな扉をロナウドはゆっくりと開いた。
ギイイといやな音がしたが、見張りの兵僧は何事も無かったかのように真っ直ぐ前を向いて立ち続けていた。

中はせまいエントランスホールから、すぐに幾つか扉の並んだ廊下に続いていた。
ロナウドは奥の突き当たりの少し大き目の扉に迷う事無く進んで行く。
その扉の向こうは寝室になっていて、天蓋付きの簡素なベッドに誰かが横たわっていた。

「ほぼ時間通りね、ロナウド。その方がオルランド様の仰っていた方なのね」
ベッドの傍に控えていた尼僧が静かに立ち上り声を掛けてきた。
まだ若い、二十代になったばかりと思われる、美しい女性だった。

「はい、ライサ様」
聖ロドニウス教会で女性に会うとは思いもよらずラインハルトは口を開けたまましばしポカンとしてしまった。
ライサと呼ばれた尼僧は優しく笑うと、

「驚かれるのも無理ありません。私どもは聖チェチーリエ修道院から派遣されてエドモンド様のお世話に当たっております。教会の者でも一般の僧侶は私たちの存在を知らぬでしょう。本当はこのようなことは異例なのですが、エドマンド様の眠りは長く、男の僧ではいろいろお世話の行き届かないことも多いので、皇帝陛下の特別のお計らいなのです。外に立っていた者達も実は女性なのですよ。特別に訓練を受けた女丈夫ですから、どんな男性にも引けはとりません」
と言った。

「あの、アストラル宮殿と言うのは・・・」
ラインハルトに近くの椅子に腰掛けるよう身振りで示すと尼僧は
「ここはもともとエリオルの神殿の本殿が建っていた場所、そして現在では皇帝陛下が教会領の視察に見えられるときお泊りになる場所となっています。 宮殿の建物自体は小さいですが内装は大変凝った造りになっていて、お見せできないのが残念です」
という言葉を残して静かに部屋を出て行った。

「はあ・・・」
ラインハルトには訳が分からない。
「ロナウド、君があってほしいというのはこの・・・」
ラインハルトは首をめぐらしてベッドに横たわる人物を示した。

真っ白な頭髪に包まれ謹厳そうな顔をした老人だ。
その瞳はきっちりと閉じられていたが微かに開いた唇から弱々しい呼吸の音が漏れていた。
頭髪同様真っ白な夜着の左胸には聖ロドニウス教会の紋章が縫い取り去れている。

「はい、前総院長エドマンド様です。エドマンド様はある日突然倒れられ、そのまま眠りにつかれました。そのとき副院長だったのがナタニエル様です。ナタニエル様はエドマンド様がお元気な折に引継ぎを受けていたと仰いましたが、それが本当のことかどうかは疑問の点も多かったのです。

その話を聞いた時、僕は本当はオルランド様こそエドマンド様が次の後継者にと思い定めていた方ではなかったかと思いました。ヘルマン大聖はオルランド様にいくつか予言を残されたそうです。その一つに、満ちた月が欠ける初めの夜、眠れる巨人が真の王に秘蹟を授ける、というのがあったそうです。

それがいつのことかははっきりとは語られなかった。でも貴方が教会に現れてから、オルランド様は真の王と言うのが貴方のことなのではないかと思うようになったようです」

「ロナウド・・・」
「その予言の事はナタニエル様も知りません。もちろん、まったく違う人の事を言っているのかもしれませんが、とにかく今夜貴方をエドマンド様にお会わせしてみたい、そうお考えになったのです。
本当は、老師はご自分で貴方をここにお連れするつもりだったのですが・・・」

「教えてくれロナウド、オルランド様は一体どうなされたのだ?」
「正確な事は僕にも分かりません。多分身柄を拘束され帝国に送られたのだと思います。ナタニエル様はオルランド様の断りきれない用事を作って誘い出し、捕らえたのでしょう。
あの余裕から見て、もうオルランド様は帝国領に移されていると思って間違いないと思います。万一オルランド様自身が来られないときは僕が貴方をここにお連れすることになっていました」

「オルランド殿は大丈夫だろうか、まさかもう・・・」
「オルランド様はヘルマン大聖の直弟子に当たる御方、その叡智は教会の財産と言われています。ナタニエル様なら命を奪うよりもその知識をうまく利用することを考えるでしょうから、当面命の心配はないと思います。おそらく帝国領のナタニエル様の息の掛かった場所に監禁されることになるでしょう」

ラインハルトは少年の聡明さに舌を巻いた。
「君は・・・、やっぱりすごいな。僕が君だったらとてもそんなこと考え付かないよ」
ラインハルトは何と言っていいか分からずそう言って口ごもった。
「僕は子供でも聖ロドニウス教会の学僧です。立派に貴方のお役に立ってみせます。だから・・・」

その時突然ベッドの上で何かが動いた。
眠っていたはずのエドマンドの腕が微かだが僅かに動いたのだ。
「ラインハルト様!」

驚き眼を見張る二人の前でエドマンドは引き攣ったように全身を硬直させ、かっと眼を見開いた。
「闇に閉ざされた空に赤い月が昇る。あれはこの世に生まれ出るべきではなかった。だが運命の輪には逆らえない。変革の時は近い。大地は燃え、人間が覇者であった時代は終わる」

擦れがちの低い声でしかも途切れ途切れの非常に不明瞭な言葉だったが、ラインハルトにはそう聞こえた。
「それは・・・、それは我らが、人間が妖魔族に敗れるということですか!?」
「この地は清められねばならぬ・・・」
「エドマンド様、人の世は滅びる運命にあるのですか!?」

ラインハルトはエドマンドの宙に突き上げられた手を握り締めたが、その手が動く事はもうなかった。
エドマンドは大きく目を見開き口を開けたまま、恐ろしいものでも見るような表情を浮かべて文字通り固まっていた。

「ライサ様、すぐ来てください、エドマンド様が・・・」
ロナウドが慌てて駆け出していくのが聞こえたが、ラインハルトはまだエドマンドの口から何らかの言葉が紡がれるのではないかと、その口元に耳を近づけていた。

ライサがそっと部屋に入ってきて反対側の腕を取り脈を調べた。
「ご臨終です。長い眠りの後エドマンド様はやっと永久の平安を得られたのです」
もう一人別の尼僧が静かにラインハルトの肩に触れ、立つように促した。

「エドマンド様は貴方のおいでを三年間待ち続けていらしたのですね。その使命を果たされて今神の御許に旅立たれました。お顔を見てあげて下さいな」
そう言われてラインハルトが顔を上げると、ライサによって目を閉じられたエドマンドはさきほどまでの恐怖の表情から一変、穏やかな微笑をその口元に湛えていた。

「さあ、お客人、あなたは一刻も早くこの地を立ち去らなくてはなりません。私どもはエドマンド様の死をナタニエル様に伝えなくてはならないのです。今宵お客人が来た事は決して他言はいたしませんが、ここは大勢の僧侶が立ち入ることになるでしょう。ナタニエル様にお会いしたくはないのでしょう?」

「ライサ様、僕は」
「何も仰らないで下さい、貴方は私どもにとっては名も知らぬお客人、何も詮索するつもりはありません。オルランド様が信頼した方、それで充分です。廊下に出てすぐ左の部屋にお入りなさい。その隅に地下へ通じる隠し階段があります。そこを通って地下室にお行きなさい。そのあとの事は・・・」

ライサはラインハルトをせかすように戸口へ誘いながら早口で言った。
「貴方の方がよくご存知のはず、万一ご自身がご一緒に来られなかった時は、そう告げるようオルランド様に頼まれました。」

ロナウドとともに廊下に押し出されたラインハルトは言われたとおりすぐ左の部屋に入った。
入ってすぐ右手の壁に点された小さな灯りだけが光源のため視界は悪い。
簡素な部屋で質素なベッドが二つ並んでいるほか家具らしいものはほとんどなかった。

「ここは尼僧たちの部屋か・・・」
ほんのり香る優しい匂いにラインハルトは少し気まずさを感じたが、ロナウドはそれどころではないようで、部屋の奥の床に隠し階段の取っ手を見つけ
「ラインハルト様、早く!」
と叫んだ。






ゾーネンニーデルン
ロディウム北東の郊外

「ルドルフ様!」
少し先に行っていたリヒャルトも異変に気付き引き返してくる。
「ルドルフ様、僕等をお見捨てになるとはあまりじゃないですか」
フードを目深に被っているので顔は見えないが、その声は間違いなくダルシアだった。

「何を、僕は・・・」
「私は貴女に我らの長になっていただきたかったのに・・・」
その口調はどこか拗ねた子供のようだ。

「君たちの長?何で僕が」
「勝手の事を言うな、この方をお前らごときの安っぽい野望に利用させるわけにはいかないんだ」
そう言うなりリヒャルトがダルシアに馬上から斬りかかる。

「安っぽいとは心外だな」
ダルシアは身軽に交わすと大きく手を振り払った。
空気が唸る音がしてリヒャルトが顔の前に翳した剣が大きく音を立てて鳴った。

無数の細い糸がリヒャルトの剣に絡み付いている。
リヒャルトは素早くテオドールに何事か囁くと、ひらりと馬から飛び降り軽く剣を横に振り払った。
月明かりに煌く刀身が夜空に鮮やかな楕円の軌跡を描き、絡みついた糸は切り落とされ地面に落ちた。

「ふん、思ったとおりだ。やっぱりお前も・・・」
そう言ったダルシアの身体はゆらゆらと揺れて次の瞬間にはリヒャルトのすぐ前に現れ腕を横に払った。

あっと声を上げたルドルフだが、リヒャルトの身体もまた瞬時に後方へ移動していて逆に手にした剣を振り下ろす。
空気の振動が大きな波となってダルシアにぶつかり、ダルシアの身体は大きく傾いて尻餅をついた。

「ちっ」と舌打ちの声を漏らしたダルシアは宙を飛んでルドルフのすぐ目の前に姿を現した。
「よせっ!」
瞬時に駆けつけたリヒャルトの剣がダルシアの腕に突き刺さる。
傷口からどす黒い血が流れ出し、ダルシアの顔が大きく歪んだ。
「貴様、よくも・・・」
大きく見開かれた目は血走り、滾る怒りに我を忘れているのが見て取れた。

剣をダルシアの腕に残したままリヒャルトはひらりとルドルフの後ろに飛び乗ると、先ほどの様に直接脳に響く声でルドルフに語りかけた。
「ルドルフ様、私がコイツの注意をひきつけている間に逃げて下さい。このまま北東に向かえば帝国に通じる街道にでるはず、急いで!」
「でも・・・」

「白の帝国で会いましょう、どうかご無事で」
リヒャルトはそういうと馬から飛び降り様ダルシアの首根っこを掴んでそのまま地面に引き倒した。

その様子から主の意を察したテオドールがルドルフに声をかける。
「行きましょう、ルドルフ様。旦那様が時間を稼いでくれている間に。アイツは王女様の警護と言う任務がある。それを放り出してまで我らの跡を追う事はできないはずです!」

「うん」
ルドルフはダルシアの注意を自分に向けるべく奮戦しているリヒャルトに素早く視線を送ると、
「きっとまた会おう!」
と心の中で呟き、馬首をめぐらせた。

ルドルフとテオドールは民家を目指して馬を駆り続けた。
上空には北を示す星座が瞬いている。
あの星座を左手に見て進めば北東に進めるはずだった。

「おかしいですね、もうそろそろ村に着いてもいい頃なのに」
テオドールの呼びかけにルドルフも大きく頷いた。
「そうだね、いやに遠いな・・・」
随分早駆けに駆けたつもりだが民家には少しも近付いていないように感じられる。
暗いせいで距離感が鈍っているのか。

それにしても心なしか周囲の闇が濃くなった気がした。
ふと気がつくといつの間にか月は厚い雲の後ろに隠れ、星の瞬きも微かにしか目に映らなくなっている。
だが目標にしていた星座は変わらず夜空に煌いている―――

変だ、と思ったときにはすぐ傍で馬を走らせていたはずのテオドールの姿も視界から消えていた。
「テオ!テオドール!!」
あらん限りの声で叫ぶと、
「おおい、ルドルフ様―――」
という声と大地を蹴る蹄の音がぼわんぼわんと、くぐもったように大きくなったり小さくなったりして聞こえてきた。
おかしい、テオドールはどこへ行った?それに、あの星座は・・・いくらなんでも明る過ぎる―――

ルドルフは手綱を思い切り引き絞って疾駆する馬を止めようとしたが、馬は何かに取り付かれたようにルドルフのいう事を聞かずますますスピードを上げて走り続けた。
いけない、こんなに走らせては馬がつぶれてしまう・・・
すでに馬の口からは泡が溢れ出し始めていた。

前方の星座はもう星の連なりではなく、明らかに何かの灯りと分かるようになっていた。
ルドルフを乗せた馬はその灯りめがけて一目散に駆けていく、いや、引き寄せられて行くと言った方があっているかもしれない。
ルドルフは危険を承知で馬から飛び降りた。

上手く身体を庇ったつもりだが、やはり落下の衝撃は激しく、暫くは立ち上がれなかった。
馬はそのまま駆けていってしまう。
その後姿を見送ってルドルフはよろよろと立ち上がると反対の方角へ歩き始めた。

内ポケットにしまったあの白い石がほんのり熱を帯びている。
「テオドール、どこにいるんだ・・・」
前方は漆黒の闇に閉ざされている。
ルドルフは一歩踏み出そうとして目に見えない何かに弾かれたように仰のけに倒れた。

「くっ」
立ち上がろうとすと首に何かが絡み付いてきた。
「何・・・」
手で振り払うと霧のように消えてしまうが、起き上がって前に進もうとすると今度は身体中に巻きついてきた。

「なんだこれは」
ルドルフは腰に差した剣を抜いて振り払ったが、すぐにまた薄布の様な柔らかく手ごたえのないものが腕や足に巻きついてきた。
妖魔族か―――!

首を絞めてこないところを見ると、一息に殺すつもりはないようだ。
黒い霧はなぶるようにいくつもの触手を次々と伸ばしてくる。
それを避けるうち、ルドルフは次第に後退して行った。

気がつくとあれほど明るく煌いて見えた灯りはもはやどこにも見えず、周囲は真の闇と化していた。
ルドルフは勘を頼りに元来た道を引き返そうとしてみたが、霧の触手に阻まれ思うように進むことができない。
逆に攻撃を避けるうち、相手の望む方向へ誘導されているような気がしてきた。

途方に暮れるルドルフの胸に、なつかしい祖父の声が聞こえてきた。
「ルドルフよ、臆する事はない、お前の思うままに進め。我等は神の戦士として戦った英雄の子孫ではないか・・・」
「お爺様!まさか、お爺様も生きていらしたのですか・・・!?」

「真っ直ぐに進むのだ、自分の信念だけを信じて・・・」
ルドルフは祖父の声が聞こえてきた方角に足を向けた。
辺りに人の気配はない、だがどこかこの近くで祖父が自分を待っていてくれるような気がした。

「お爺様、どこにいらっしゃるのです、僕をお導き下さい!」
少しでも早く祖父に会いたいという気持ちがルドルフの足を我知らず速めた。
本当なら祖父が生きているはずはない、だがフランツもああして生きていたのだ、祖父だってなんとか一命をとりとめたのかもしれない・・・

「お爺様!」
前面に微かに光が見えてきた。
民家の窓から零れるような淡く温かい光だ。
もしかしてお爺様はあそこに?

ルドルフは夢中で駆けた。
一刻も早く祖父に会ってフランツのことを話さなければ―――
灯りが一気に近付きやがてあたり一面光で溢れた空間に出た。
光が強すぎて目を開けていられない。
ルドルフは目を閉じて手さぐりするように両手を前に出した。

「お爺様、どこにおいでなのですか?」
おかしい、こんなに強い光が何から発しているのだろうか。
ルドルフは全身がゾクリとした。
まさか自分はとんでもないところへ来てしまったのでは?

「お前の望みは兄が王となることだったな」
祖父の声の様に聞こえたが、どこか違っているようにも聞こえる。
「そうです、でもフランツは、もう王になどなりたくないと僕に言うのです。フランツは怪我のせいで気弱になっているのだと思います。僕は・・・」

「ふん、仕方ない、それもまた運命。いずれにしろグリスデルガルドに王は必要ない。彼の地は人間のものではなくなるのだからな」
「そんな・・・」
あまりの言葉にルドルフの心は一気に醒めていく。

「それにしても、お前は兄に会ったのか。どうやって会えたのだ?フランツ王子は死んだはず、少なくとも世の大半のものはそう思っているはずだが」
「え・・・?」
身体中の血が一気に冷え込んだ気がした。
祖父ならこんなことを言う筈がない、これは・・・

ルドルフは祖父への思いが理性を鈍らせ判断を誤らせたことに気がついた。
強い光はなおも薄く開いた両目を射てくる。
とにかくこの光りを何とかしなくては。
どこかに光源があるはずだ。
ルドルフはマントを止めていたバックルを引きちぎると、一際強く光を感じた場所めがけ思い切り投げつけた。

ガシャーン・・・!
ガラスが割れるような音がし、辺りは一転して薄暗くなった。
円形の空間の所々にぼんやりと浮かんだ球体が仄かな光を投げかけている。
足元に丸い円筒の様なものが転がり、その中で小さな円形の金属片が細い光りを放っているのが割れた部分から覗けて見えた。

ルドルフは急いで周囲を見回す。
円形の部屋の壁面はどんな素材で作られているのか、継ぎ目も凹凸もなく滑らかに部屋中を包み込んでいる。
この円筒状のものから発せられた光が周囲の壁に反射し、それが無数に繰り返されることで増幅されていたものらしい。

「なんとまあ、あいかわらず乱暴な王女様だ」
頭上から響いてくる声は間違えようもない、憎い敵のものだった。