暁の大地


第十五章




ゾーネンニーデルン
ロディウム郊外の某所

視界を黒い影が遮り、すぐに人の形をとった。
「ルガニス・・・」
「全く、今となってはこの装置を作ることのできるものはもういないというのに・・・」
ルガニスはやれやれといった表情で静かに壊れた円筒を拾いあげた。

「なぜお前がここに・・・!」
ルガニスはニヤリと笑って見せると珍しく快活に答えた。

「なぜ・・・、ね。ここは我等が聖地の一つ。エリオルの手先どもの手に落ちて久しいが、今はもう顧みられることもなくなった。聖ロドニウス教会の蛆虫どもにはこの聖地の重要さなど何百年かかっても分かるまい」

「お前たちの聖地?」
「ああ、そうだ。人間にはこの部屋全体が何でできているかさえ分からないだろう。古代には我等はもっと様々な知識や技術を持っていた。今では忘れられ廃れて行く一方だがな」

ルドルフは周囲を見渡した。
壁も床も一見大理石の様に見える、硬質で光沢のある石材でできているようだ。
大き目の石材を組み合わせて作られているが石と石の間には髪の毛一本通る隙もないように見える。
何だろう、ここはとてもいやな感じがする・・・

それに微かだが独特の臭いが感じられた。
硫黄だ、ということはここはまだ温泉地の近くなのか?
とにかくルガニスはすぐに自分の命を奪うつもりはないらしい、ルドルフは少しでも時間を稼いで逃げ出すチャンスを掴まねばと考えた。

「だが、お前は妖魔族ではないだろう、すくなくとも純血の妖魔族なら・・・」
この光の中平然としていられるとは思えない―――
「ああ、そうだ。俺の父親は人間だったらしい。顔も知らないがな」
ルガニスは静かにそう言うと自嘲気味に笑った。

「お前も我らのことを少しは学んだというわけか。ただ逃げ回っていただけかと思っていたが少しは見直したぞ」
「妖魔族と人間の混血は数多いと聞いた。ついさっきまで一緒に旅をしていた者達の中にも・・・」

「らしいな。いずれにしろ人間の血が濃い連中だ。たいした力は持っていない。だからこそ群れを成すのだろうが・・・。まあ、あの胡散臭い旅の騎士は例外中の例外だな」
「お前だって妖魔族の手先になるかわりその庇護を受けているのだろう、だったら・・・」

「俺は有象無象と群れを成して生きたいとは思わぬ。今回妖魔族の誘いに乗ったのは、この腐った世の中をそろそろぶっ壊してみるのも面白いと思ったからさ」
「世の中をぶっ壊す?」
「そうだ、人間が大陸の覇者だった時代は終わりを告げ、この世は妖魔族のものとなる。俺個人としてはどっちだって大差ないが、我が物顔にこの世にのさばっている人間どもを見ると無性に腹が立ってくる。お前たちこそ簒奪者であり、本来なら地を這い逃げ回っているだけの憐れな存在であるはずが!」

ルガニスの端正な顔が心持引き攣った。
あまり激昂させるとまずいかもしれない、ルドルフは自分が入って来た入り口をさりげなく探していたが壁のどこにもそれらしき境目は見つけられなかった。

「ふん、俺の事はいい、お前はどうやって兄貴に会ったんだ?お前が隠し持っている白い石、それが関係しているのか?」
「!」

「力のある石はそれ自体パワーを発しているからな、眼には見えなくてもすぐに分かる。それよりあのオーブはどうした。アルベルトという僧侶が持っていってしまったのか?」
ルドルフは肩から提げた雑嚢の紐をぎゅっと握り締めた。

あの白い石が自分の所在をダルシアやルガニスに知らしめる手がかりを与えてしまったのか。
あの時リヒャルトの言をいれてあれは置いてくるべきだったのか。
でももしそうしていたら自分は死ぬほど後悔したろう―――

ルドルフは真っ直ぐに相手の目を睨みつけながら、ゆっくりと後退り壁に近付こうとした。
目には見えなくても手で触れば壁の切れ目で入り口が分かるかもしれない。

「あれはもともとアルベルト殿が持っていたもの、聖ロドニウス教会の宝だ」
互いの距離が少しずつ離れていくのに気付きながらルガニスは余裕の笑みを浮かべていた。

「聖ロドニウス教会の宝だと?ふざけたことを。あれこそエリオルが唾棄すべき薄汚い裏切り者である証拠でなないか」
「何を言う!エリオルを穢すことは許されぬ!」

「くだらんな。何もかもくだらない。エリオルも、あんなヤツをありがたく崇め奉っているお前たちもこの世の何もかも・・・」
「では、妖魔族はどうだ。この世の何もかもと言うならお前たちだって」

ルガニスは広がった互いの距離を一気に縮めるように大きくルドルフに向かって大きく踏み出した。
「ああ、そうだ。妖魔族どももくだらない。奴等も結局は人間と同じだった。だから今の俺は誰の為にも働かん。俺は自分だけの為に生きることにしたのさ」
ルガニスはゆっくりと手を上げルドルフの首へと手を伸ばした。

「妖魔族も一致団結、というわけにはいかないらしいな。俺にとっては好都合。浅ましい権力争いには少しも興味はないが、利用できるだけ利用させてもらうさ」
何ていう力だろう、ルガニスは腕一本でルドルフの首を絞めたまま体ごと持ち上げた。

「ぐっ・・・」
首を強く締め付けられルドルフは意識が遠くなった。
ふいに喉の締め付けが緩み、ルドルフの身体は床の上に投げ落とされた。
「どうした、勇猛なルドルフ王子にしては手ごたえが無さ過ぎるじゃないか」

喉を押さえ激しく咳き込んでいる様子を見下ろしながらルガニスはゆっくりと片手を上げた。
「もう少し楽しませてもらわないと、こんな所で何日も待った甲斐がないというもの」
ルガニスが軽く腕を振るって辺りを薙ぎ払うとルドルフの手足に細い切り傷ができた。
じわじわと血が滲んでくる。

「英雄の剣がなければなす術もないというわけか、情けない話だな」
気がついた時には喉元をつかまれ引き起こされていた。
そのまま強い力で投げ飛ばされ、激しく壁に叩きつけられた。

「あう!」
ずるずると床に崩れ落ちたルドルフの前にルガニスが悠然と歩を運ぶ。
ルドルフは何か凹凸の様なものがないか、後ろ手に壁面を探ってみた。

それに気付いてかルガニスはかっと目を見開き、
「人間など無力で無様なだけの生き物だ。エリオルはなぜあんな種族を助けたいなどと思ったものか。お前だって」
と言って、ルドルフの額に手を触れた。

瞬間ルドルフの脳裏に浮かんだのは蒼白い顔をしたフランツ―――
「よせっ!」
ルドルフは残っていた力でその手を振り払い腰に差していた細身の剣を引き抜いた。

サンドラの警護につくようになって渡された装飾の多いもので、あまり実用的ではなかったが、実際ルドルフが剣を抜くような機会は全く無く、今まで使った事は無かった。
細いが鋭い剣先に掌を傷つけられ、ルガニス大きく舌打ちした。
その形相は悪鬼の如く険悪なものに変わる。

ルドルフはふらつきながらもどうにか立ち上がり剣を構えた。
が・・・
目の前に立っていたはずのルガニスの姿はない。
その代わりに簡素なベッドに半身を起き上がらせた懐かしい兄の姿が、ルドルフの霞んだ瞳に映った。

いつの間にか周囲もあの粗末な小屋へと変貌している。
以前と同様青白い顔色のフランツはやはりどこか弱々しい声音でルドルフ、と呼びかけた。

「前にも行ったが私はもう王位になど就きたくない、そもそも王族に生まれたことも自ら望んだことではなかった。私はもっと自由に好きな学問の道を究めたいと思っていた。だが、それを口にすることが許されなかっただけだ」

ルドルフは思わずその枕元へ駆け寄った。
「やめてよ、フランツ!そんな言葉を聞くために僕はここまで来たんじゃないんだ!」
「ルドルフ、もう帰ってくれ、私は私の望みどおりの人生を生きる。お前があくまで私に王位を継ぐよう迫るというなら・・・」
「フランツ?」

「お前も敵だ・・・」
「な・・・っ!」
フランツはふっと笑うと両手を合わせた。

ルドルフが驚いて見つめるなか、フランツが手を離した時には両の手の間に空気の渦ができていた。
フランツは笑顔を浮かべてルドルフを見つめながら両手を前に差し出した。
風の刃が全身を貫く。
ルドルフは吹き飛ばされ床にもんどり打って倒れ込んだ。

「そこまで兄貴大事とは愚かな娘だな、あまりにも愚かで哀れみさえ催すが・・・」
ルガニスの手が喉に触れるのを感じ、ルドルフは今度こそ終わりだと思った。
「この傷の借りは返させてもらう」

うっすらと目を開けたルドルフの瞳にルガニスの半面が大きく引き攣り歪んでいるのが映し出された。
その目に僅かに憐憫の色が浮かぶのを忌々しく思いながらルガニスは手に力を込めた。

ルドルフは思わず身体を捩って逃れようとしたが喉に食い込む指に力が籠もるにつれ、意識が遠退いて行くのをどうすることもできなかった。
結局自分はルガニスに命を奪われる運命だったのか・・・
ルドルフがぼんやりとそう思ったとき、聞き覚えのある声が響いてきた。

「困るな、勝手なことをされては」
―――この声、確かに前に聞いた。グリスデルガルドで一度、それからあの不思議な場所で・・・。マティアスは確かフィリップ卿と呼んでいた―――

「お前は確か、シェリー卿の配下だった者だろう?グリスデルガルドでの失態であの女狐に切られたか?」
よく響くテノールには皮肉な口調が混じっている。
ルガニスはきっと相手を睨み付けたが言葉は返さなかった。

「それでルドルフを怨んで後を追っていたというわけか。それにしてもよく突き止めたものだな。まさかこいつがゾーネンニーデルンにいたとは私も夢にも思わなかったが」
「妖魔族のやり方は手ぬるいこと甚だしい。相手を甘く見すぎると痛い目を見るぜ」

「言うな、雑兵風情が。にしてもここは大陸、我らの管轄だ。コイツの身柄は私が預からせてもらう」
そう言ってルドルフの身体を足で軽く蹴ったフィリップは、改めてその顔を見て、おや、と思った。
―――この顔、誰かに似ているような気がするが、はて・・・

「ふん、獲物の横取りとはセコイ事をするものだな、アンタだって貴族の端くれなんだろうに」
「愚かなことを口にするな。我等にはお前たちの考えなど及びもつかない深謀遠慮があるのだ」
フィリップがそういいながらルドルフの襟を掴んで身体を引き起こそうとするのをルガニスは苦々しい表情を浮かべながらも黙って見つめていた。

―――まずいな、この相手に自分が女だと知られたら・・・
マティアスはまずい立場に立たされるのでは、とルドルフは何とか力を振り絞ってフィリップの手に爪を立てた。
「こいつっ!」
フィリップが思わず手を離し、ルドルフの身体は床に叩きつけられた。

意識が朦朧としているおかげで痛みもあまり感じない。
このまま眠るように死ねたらそれもいいかもしれない、そんな風に思ったとき、腕に負った傷から滲み出た血が袖口を伝って床に滴り落ちた。
その瞬間床から強く青い光が立ち昇り、瞬く間にルドルフの身体を包み込んだ。






ホーファーベルゲン
アストラル宮殿天空の間

階段は光源がないわりにほんのり明るい。
この感じはあの小堂に似ている、ラインハルトはそう思いながらロナウドについて階段を駆け下りた。
思ったとおりだ。
地下室のつくりはあの小堂と瓜二つ、床に引かれた直線や曲線もまず間違いなく一致するだろう。

「ロナウド、ここは・・・」
「本来あの小堂とこことは対になっていたのだろう、とオルランド様は言われました。この場所の存在を知らぬことこそエドマンドさまが真の後継者ではない何よりの証」

ラインハルトは呆然の面持ちでロナウドをそして小堂全体を見回した。
「でも、オルランド様はどうして・・・」

「オルランド様も初めはご存じなかったようです。でもヘルマン大聖が不思議な夢を見た翌朝はいつもアストラル宮殿を訪れていたのを思い出したのだそうです」
「ヘルマン大聖が?」
「はい、ヘルマン大聖はいつも天空の間へ行くのだと仰っていたそうです」

「そうか、アストラル宮殿、天空の間、つまりこの地下室のことか・・・!」
ラインハルトは一時でもオルランドの事を怨みに思った自分を恥じた。
難しい立場になりながらオルランドは彼に出来る精一杯の事を自分の為にしてくれた―――

「でも、ロナウド、僕はオーブを持っていない。オルランド殿も持っていなかったと言っていたし、オーブ無しではどうにも・・・」
ラインハルトはロナウドをじっと見詰めた。
「もしかして君が持っているのか?」
ロナウドは心から残念そうに首を振った。

「いいえ、僕も持っていません。僕なんかではとてもナタニエル様の目は誤魔化せない、オルランド様はそう思っていたはずです」
「だったら・・・!」
そう言ってラインハルトは唇を噛んだ。

階上で足音の動きが忙しくなったのが感じられる。
もうすぐ教会から僧侶がエドマンドの死を確めにやってくるだろう。
その中にはナタニエルもいるかもしれない。

「くそっ!」
ラインハルトは焦燥感から思わず床を蹴った。
と微かだが床板が動いたように感じられる。
見間違いとは思えなかった。
そういえば床に引かれた直線が僅かながらずれているような気がする。

「もしかして!」
ラインハルトは床に座り込んであちこち撫で回し始めた。
「ラインハルト様!」
ロナウドも状況を悟ったのか一緒に床にかがみこみ手触りの違う場所がないか探し始めた。

「ラインハルト様、お願いがあります。僕はここに残ってももう裏切り者としか扱ってもらえないでしょう。ですから・・・」
カチッと音がして床板の一画が横滑りに動いた。
現れた小さな空間には緑と赤の光りが鮮やかに輝いていた。

「僕も貴方のお供をさせて下さい」
両の手にオーブを捧げ持ちロナウドはラインハルトを真っ直ぐに見つめる。
「ロナウド、そうしたいのは山々だけど、僕は・・・」
僕は今まで僕を助け、頼りにしてくれた者達を助けることが出来なかった―――
腕に嵌めたクリストフの腕輪が熱を持ったように感じられる。

「お願いです、僕を貴方の臣下にして下さい、僕は騎士になっていつかきっとオルランド様を助け出します!」
ロナウドの瞳は必死だった。
「分かった、一緒に行こう!」

床を元通りに戻し部屋の中央に立ったラインハルトはロナウドに自分の腕をしっかり掴んでいるように言い、移動の呪文を唱えた。
腰の剣がまた微かに震えているように感じる。
何かに反応しているのだろうか・・・?

この剣は英雄ルドルフの剣だった。
この剣を手にルドルフは妖魔族を打ち倒したのだ―――
不意にセドリックの暗い瞳が思い出された。
深い悲しみに閉ざされた瞳が自分を見つめた時だけ帯びた異様な光が頭にこびりついて離れない。

―――お前はフィルデンラントの王子ルドルフか・・・

ルドルフ―――そうだ、僕はこの剣を本当の持ち主に返さなければならない
ラインハルトは行方の知れない友の事を思った。






ゾーネンニーデルン
ロディウム近郊某所

床から立ち上る光はルドルフの身体を中心に円を基調とした幾何学模様を描くように発せられていた。
その光は瞬く間に床中にひろがり、一面に様々な直線や曲線からなる複雑な幾何学模様を描き出した。

強い光の波長を感じてルドルフが目をうっすら開けると、確かに何も描かれていなかったはずの壁や天井にまで、不思議な幾何学模様が光を放って浮き出ているのが見えた。
なんだか図書館にあった天球図を見ているみたいだ―――ルドルフはぼんやりと思った。
そのせいなのだろうか、こんな模様を確かにどこかで見たような気がするのは・・・

一方ルガニスの身体はこの突然立ち上った光に弾かれたように吹き飛ばされていた。
何だ、一体何事が起こったというのだ―――

ルガニスの身体は金縛りを起こしたように硬直したまま勢いをつけて落下している。
僅かに動かせる首をめぐらして周囲を見回すと、ルドルフの身体は光に包まれたまま宙に浮いていて、確かに今までその自分たちが立っていたはずの床は綺麗に消えていた。

そしてまたフィリップ卿の姿も消えている。
―――逃げ足の速いヤツだ、異変を察していち早く逃げたか。まあ、ヤツらはこの光に捉えられたら一溜まりもないだろうからな・・・

自分だって、これほどの光を長く浴び続けたらどうなってしまうか・・・
光がますます強まるのを感じながらルガニスは身体中に激しい衝撃を感じて、気が遠くなりそうになった。

どうやら今までいた部屋の下にもう一つ部屋があって、自分はその部屋の床に思い切り叩きつけられたようだ、ルガニスは口から血を吐き出しながらそう思った。
今や部屋中が明滅する光であふれている中、ルドルフの身体は空中を浮遊しているようにゆっくりと下へと落ちてくる。

新たに現れた床には一面に複雑な幾何学模様が描かれ、その中央部は径の異なるいくつもの円が組み合わされた形となっていた。
その図形の中心部分に何かが浮かんでいて、強い光はそのものから発せられているようだ。

床が近付くにつれルドルフの身体はゆっくりと起き上がった態勢になり、円形の模様の前に静かに着地した。
その目はどこか虚ろで焦点が合っていない。
ルドルフはそっと強い光を発している物体に向けて手を差し出した。
それはルドルフの意志ではなく、何かに操られているようにルガニスには感じられた。

「何なんだ、お前は・・・」
ルドルフが手を触れた瞬間、それが小さな青い球体である事をルガニスは見て取った。
青いオーブを手にしたままルドルフの目がルガニスを捉える。
それは何の感情も浮かべない、冷徹な瞳だった。

ルドルフは身体中の傷から血を滲ませているが、その痛みすら全く感じていないようだ。
その口から紡ぎだされた言葉もまた一切の感情を廃除した事務的な冷たいものだった。
「この聖なる地に不浄の者が立ち入る事は許されぬ。消滅せよ」

ルガニスはただ呆然と相手を見上げている。
ルドルフの手にしたオーブが一際の輝きを放った時、
「ルドルフ!」
元気のいい少年の声が光に包まれた部屋に響いた。

赤と緑の光に包まれるようにして二つの人影が姿を現した。
その気配にルドルフは相変わらず表情のない顔でゆっくりと背後を振り返った。
「ルドルフ、やっと会えた・・・」

聖ロドニウス教会の僧服に身を包んだ金髪の少年の水色の瞳がルドルフを見、さらに床に蹲っているルガニスを捉えた。
「お前はルガニス!なぜここに・・・」
相手が腰に差した剣の柄に手をかけたのを見てルガニスはククッと皮肉な忍び笑いを漏らした。

「これはまた、王子様がオーブと剣と共にご登場とは、役者が揃いすぎだな。だが俺にとっては丁度いいか。さあ、どちらでもいい、その剣で俺に止めを刺すがいい」
「言われなくても・・・」

ラインハルトが剣を抜こうとした時、ルドルフが抑揚のない声で呟いた。
「その必要はない、この場所を血で汚す事は許されぬ」
ラインハルトは驚いてルドルフを見詰める。
その視線を全く感じていないかのようにルドルフはゆっくりと右手を上げた。

その口がゆっくりと動き、言葉が紡ぎだされようとする瞬間、部屋の隅に落ちていたルドルフの雑嚢からあの白い石が転がり出て、大きな音を立てて粉々に砕け散った。
「うわっ!」
ラインハルトとロナウドは思わず顔をかばうようにして石礫から身を守った。

目を瞑っていたのはほんの一瞬だったが、その一瞬のうちにオーブの強い光は消え、部屋は先ほどの様に、宙に浮かぶ球体が発する僅かな明かりだけが光源の薄暗さに戻っていた。

部屋中に飛び散った石の欠片が散乱している。
ルドルフはその有様を呆然と見下ろしていた。
一体今まで自分は何をしていたのだろう?
フィリップ卿に首元を掴まれてからの記憶が全くない。
さっきまで床にはこんな模様はなかったし、天井もこんなに高くなかったはずだ―――

「よかった、君には石礫は当たらなかったみたいで。でも・・・あんまり無事でもないみたいだね」
その声に目を上げると、懐かしい友が心配そうに自分を見つめているのが見えた。
そしてその傍らにもう一人見覚えのない幼い少年―――

「ラインハルト、君、どうしてここに?」
そう言った瞬間、ルドルフは身体中から力が抜けたような感じがして、我知らず、床にへたりこんだ。






なんとか起き上がろうとしたが思うように身体が動かない。
「酷い怪我です、無理をなさらないで」
幼い声がそう言ってルドルフの背を支え、ゆっくりと半身を起き上がらせてくれた。

「本当に、全身傷だらけだ、すぐに回復の魔法を」
「それよりラインハルト、妖魔族が・・・」
飛んで行きそうになる意識をどうにか繋ぎとめながらルドルフはようやくそれだけ言った。

「そうだ、ルガニス!」
そう言われてあたりを見回したが、ルガニスの姿は消え失せていた。
「くそっ、さっきまでは確かにそこにいたのに・・・」
「うん・・・」

ルドルフはついさっき、のことがよく思い出せなかった。
ただ床一面に散らばった石の欠片から、あの白い石が失われたのを知った。
どうしてあの石が急に割れたのだろう。英雄の剣でも刃が立たないくらい固い石だったのに―――

「しかたない、それより君の手当ての方が先だ」
ラインハルトはルドルフに回復の魔法をかけながら言う。
「それにしても、ここは一体どこだろうな。聖ロドニウス教会でないことは間違いないんだろうが」

壁も床もそしてドーム型の天上もすべて光輝く幾何学模様で飾られている。
この模様は、聖ロドニウス教会の小堂やアストラル宮殿の天空の間の床に描かれていた模様とよく似ていた。

「ここは妖魔族の聖地、ルガニスはそう言っていた。アイツはここで僕を殺すつもりだった。だけどフィリップ卿という別の妖魔族が現れて・・・」
「フィリップ卿?」
「ああ、フィルデンラント担当の貴族だそうだ。クラウディアの村で僕等を襲った奴だ」
「・・・!」

回復魔法のおかげで大分体力を取り戻したルドルフは怪訝そうにロナウドを見詰める。
その視線に気付いたラインハルトは二人を簡単に引き合わせた。
「そうだルドルフ、この少年はロナウドと言って聖ロドニウス教会の学僧、アルベルトの弟弟子にあたる、それからロナウド、こちらはルドルフ、グリスデルガルドの王子だ」

ロナウドは深々と頭を下げ一礼すると、
「グリスデルガルドのルドルフ様、よろしくお見知りおき下さいませ、私はもう聖ロドニウス教会の一員とはいいがたい身分ですが」
と言った。

「ロナウド、そのことは・・・、全てのカタがついたら僕が必ず君を教会に戻れるようにするから。君も、オルランド殿も、だから」
ラインハルトの困ったような顔を怪訝そうに見遣りながらルドルフはゆっくり立ち上がって言った。

「君は今まで聖ロドニウス教会にいたのか。ずっと心配していたんだよ。グリスデルガルドに進駐したフィルデンラントの軍が全滅したと聞いて、でもその後は何の情報も掴めなくて。君のお兄さんのことも・・・」

「ああ、僕もずっと君の事を案じていたよ、何処へ行ってしまったのか全然分からなくて、でもこうしてまた会えてよかったよ」
その様子から、ラインハルトがまだ兄王との再会を果たしていないことを察してルドルフは言葉を失った。

「それよりやっとこの剣を君に返せる。剣もオーブもなくてさぞかし困っているだろうと心配してたんだ」
そういって鞘に収めた英雄の剣を手渡してくれる友人の顔は以前よりも少しだけ大人びて見えた。

「いろいろ話したいことや聞きたい事はたくさんあるけど、とりあえずどこか安全な場所をさがそう。それにしてもここはどこなんだ?僕達オーブの力で飛んで来てしまったから、皆目検討がつかないよ。どうにも不思議な部屋のようだけど」

「ここはゾーネンニーデルン。ロディウムの温泉の近くだ、多分」
「ゾーネンニーデルン?何でそんなところに」
君はいたのか―――そう聞こうとしてラインハルトはふと聖ロドニウス教会で見た地図の事を思い出した。
あの赤く塗りつぶされていた部分がここなのか?

「それにしてもラインハルト様、この床の模様は・・・」
ロナウドに言われラインハルトも頷く。
「ああ、この模様は教会の小堂やアストラル宮殿の天空の間と同じ、いや微妙に違っているかな」
「ラインハルト、この模様が何か?」
この模様を見ているとなんだか気分が悪い、そう思いながらルドルフはラインハルトとロナウドを見詰めた。

「実は僕達がいままでいた聖ロドニウス教会にもこれと同じ様な模様を床面にもつ部屋があったんだ。僕達はその一つからオーブの力でここまで来たんだけど」
その言葉にロナウドは二つのオーブを高く掲げてルドルフに見せた。

「オーブが二つ、そして僕の手に一つ」
ルドルフは突然激しい目眩を感じ、頭を手で押さた。
平衡感覚が狂ったのか、オーブが宙を飛んでいるような錯覚に陥る。

「ルドルフ?どうしたんだ?」
慌てて身体を支えてくれたラインハルトにルドルフは無理に笑顔を見せて平気を装いながらも、
「なんだかこの模様を見ていると気分が悪くなるんだ。早く出口を探そう」
と言って、壁に向かって歩き出した。

「確かにこの模様をずっと見ていると感覚がおかしくなるようだ、でも見たところ出口らしきものは無いようだね」
部屋の壁面にはまだうっすらと光の紋様が浮き出ていて出口と思しき切れ目は見当たらない。

「そうだね、もしかしたらこの部屋はオーブの力で出入りするしかないのかも」
ラインハルトの言葉にルドルフは頷きながらも、
「そうかもしれないが、一回り手探りで探ってみよう。どこかに切れ目が見付かるかもしれない」
と言った。

「わかった」
ルドルフとラインハルトは壁に手を当てながら部屋を反対向きに回りだした。
ロナウドもまたオーブをポケットにしまおうとラインハルトの傍へと向かう。
しばらく手探りで壁を調べていたルドルフにかすかな手ごたえが感じられたとき、壁の一部が切り取られたように横滑りに動き真暗な洞窟が口を開けた。

「どうしよう、ここを進んでみるか?もう一度オーブで飛んでみてもいいが・・・」
行く先はどこにすべきだろうか、とラインハルトは思い迷った。

フィルデンラントに戻るのは危険な気がする。
自分が立ち回りそうなところはすべて手が回っているだろう。
帝国はどうだろう、皇帝の周辺にはもうナタニエルの手がまわっているだろうか。
と言って、他の国へ飛んでみても情勢がどうなっているか分からないし―――

「・・・」
オーブについても分からないことがたくさんある。
自分にその力を扱いきれるだろうか。
以前の様に妖魔族の懐に飛び込んでしまう可能性もある。
今の時点であまり危険は冒したくなかった。

「とりあえず、この洞窟を進んでみよう、どこに出るかはわからないが」
ダルシアと再び遭遇するかもしれないが、と思いながらもルドルフはラインハルトの逡巡を見てそう切り出した。
どちらにしろ、テオドールのことも気にかかる。
リヒャルトの様な力をもたない彼は一人きりできっと難渋しているだろう。

ルドルフは床に散らばっている石の欠片に一瞥をくれた。
マティアスがくれた石―――その欠片だけでもかき集めて持って行きたいが、強い石はそれ自体力を持ち敵を引き寄せる目安となってしまう。
自分一人ならともかく、仲間を危険に近づける事は避けたい。
それに・・・
ルドルフは決然と顔を上げると、雑嚢を手に洞窟に足を踏み出した。

「これは硫黄の臭いですね」
洞窟から流れ込んでくる強い臭いにロナウドが呟く。
「さっき温泉が近いと言ってたよね」
ラインハルトは魔法で出した光で足元を照らしながらルドルフに尋ねた。

「うん、馬で大分離れたと思っていたんだけど、いつの間にか方向感覚が狂って戻ってしまったようだ」
ルドルフは先ほどから気分が悪く、さらに硫黄の臭いを嗅いで吐き気を催してきた。

「ルドルフ、何から話していいか分からないんだけど、僕凄いものを見つけたんだ」
先ほどロナウドを紹介するとき自分が今まで聖ロドニウス教会にいたことを簡単に説明していたが、ルドルフ一世の日記を見つけたことはまだ話していなかった。

少しでも早く落ち着いたところに出てルドルフと一緒に日記の解読をしたい、オルランドやエドマンド様のことも話さなければ、とラインハルトははやる心を抑えかねていた。
久しぶりにルドルフと会え、無事を確認できた喜びも大きかった。

一方ルドルフは募る吐き気を堪えつつ一歩一歩足を運んだ。
ラインハルトに回復の魔法をかけてもらったとはいえ、あまりにも体力を奪われたせいか足元がどうにも覚束無かった。

「そうなんだ、それにしても君が聖ロドニウス教会にいたとは、意外だったよ」
「ああ、僕も自分でも思いもよらなかったんだけどね」
そう、あの二人の妖魔族、セドリックとマティアスのことも話さなくては・・・
ラインハルトがともす小さな光を頼りに、とにかく外へでようと三人は前へ前へと進んで行った。

硫黄の臭いがますますきつくなり、周り中に水蒸気の霧がかかり始めた。
「蒸し暑くなってきましたね」
「ああ、なんだかいやな感じだ」

ラインハルトとロナウドは時々言葉を交し合っていたがルドルフは無言で歩き続けた。
口を開けば吐いてしまいそうだった事もあるが、体力が戻ってくるにつれ先ほどから一つのことが気になりだしていた。
―――妖魔族は人間の神経に働きかけ、感覚を狂わせ幻覚を見せる・・・

ルガニスは自分の声をマリウスのものと錯覚させ、さらにフランツの幻覚を見せた。
とすれば―――
マティアスが自分に見せたフランツが幻覚でなかったと誰が言えるだろう・・・

そんなことは考えたくない、少なくとも今は・・・
ルドルフは手で壁を伝いながら、縺れる足でひたすら前を目指した。