暁の大地


第十六章




ゾーネンニーデルン
ロディウム近郊某所

水面にルドルフがよろめきながら壁伝いに歩いているのが映る。
その傍らには魔法で小さな光りを出して前方を照らしているラインハルト、そしてすぐ後ろにルドルフの雑嚢を抱えたロナウドが付き従っていた。

ルガニスはあちこち痛みが残っている身体でゴツゴツした地面に座り込みながら憎しみのこもった目でただひたすら水面を見つめ続けた。
床近くの岩肌から自然に立ち上る蒼白い光が、光源のない洞窟の内部をかすかに照らし出していて、そのほのかな明かりに足元に流れる泉から溢れ出た細い水流が煌いていた。
このあたりは温泉地でそのためこの泉の水も温水なのだが、あたりに強い硫黄臭が漂っているところをみると相当に硫黄分が多いらしい。

「ふん、あまり頭のよくない連中だな、オーブの力でどこにでも行けるというのに。まあ、やみくもに飛び出すのも危険と踏んだのかもしれんが・・・」
やや高めのテノールが傍らで響く。
そう言って皮肉そうな笑顔を見せた相手を、ルガニスは首の角度を少しだけ変えてただ黙って見つめた。

―――逃げ足だけは速い小心者がよく言うわ
ルガニスの心中の声が聞こえたのかフィリップが小さく舌打ちすると、ルガニスの身体は目に見えない力で床に押しつぶされた。

「機を見るに敏、ということだ。お前の様に感情に支配されて見境をなくすようなみっともないマネはしないだけさ」
ルガニスの口元が皮肉そうに歪むのを見逃さず、フィリップは手を軽く振るった。
するとルガニスは今度は身体中をギリギリと締め付けられ呻き声を漏らした。
その様子をフィリップは楽しそうに見下ろしている。

「安心しろ、そう死に急ぐことはない。何もお前を助けたわけではない、まだお前に聞き足りない事があるだけだ、それが済めばすぐにもあの世に送ってやる。それとももう一度シェリー卿の顔を拝みたいかな?」
ルガニスはくだらん、とばかり顔を背けた。

「お前はなぜルドルフが大陸に、それもこの南国にいると分かったのか?」
男の目が細く狭められ、ルガニスの身体は燃えるように熱くなった。

「ふん、ヤツを見掛けたのは偶然だ。グリスデルガルドにもはや用はない、そう思って大陸に渡った。あちこちをぶらぶらしていた時、昔一時ともに暮らした者どもを見かけた。今は帝国の犬になっている連中だ。そいつらの後をつけたのはほんの気紛れからだった。連中が俺に気付くかどうか試してみたいという遊び心もあったがな。それで・・・」

相手はさらに目を細めることで先を促した。
「それでそいつ等が接触した相手のなかにある高位の女に仕えている連中がいて、その女がいつも傍においていたのが驚いたことにあのルドルフだったのさ」

「なるほどな」
「さあもういいだろう、さっさと俺を殺せ!」
ルガニスはこの相手がどうにも虫が好かなかった。

純血の妖魔族はみな自分の力を認めながらもどこかで見下していた。
それは目の前の男も同じなのだが、この男は他の連中以上にルガニスの癪に触るところがある。
だからルドルフが女であることを教える気にはならなかった。

フィリップは思わせぶりな笑みを浮かべながらルガニスの顔を見遣ると、
「まあそう急ぐな。すぐにもそうしてもらいたいところだろうが、お前ごときのために私が手を煩わすまでもないからな。それに・・・」
と言って今度はじっと泉に映るルドルフの姿を見つめた。

「もう少しだけ確めたいことがある。まあ聞く相手はお前ではないがな。どうかな?そこにおられるのでしょう、マティアス卿?」
フィリップは端正な顔にこの上なく綺麗な笑顔を浮かべて不意に顔の向きを変えた。

「!」
ルガニスが驚いて顔を上げると、いつの間にか反対の岩壁の前に男が立ってこちらを見ていた。
「マティアス卿!」

色の定まらない不思議な瞳がじっとこちらを見詰めている。
この瞳を持つのは太古の昔、守護神である龍の血を受け継いだと言い伝えられている一族のみ。
そしてその一族は最後の一人を残して死に絶えたのだと、ルガニスはカタリナや他の仲間からそう聞いていた。

「やっと姿を見せていただけたようで、光栄に存じますよ、マティアス卿。早速ですが聞かせていただきたい。ルドルフは女、しかもあの顔は以前閣下が連れていた女と瓜二つだ。違いますかな、マティアス卿」

「どうだったかな?女など毎日腐るほど見ているからいちいち覚えきれん」
フィリップの頬がヒクヒクと痙攣するように動いたが、それはほんの一瞬ですぐに勝ち誇った笑顔に戻る。

「なるほど、閣下らしいお答えですな。では別の事をお聞きしよう。先ほど聖地であの白い石を砕いたのは閣下でしょう。あの場であんな力を使えるのは閣下しかいないはず」

「ふっ、私だけとは言い切れないと思うが、確かにあの石を砕いたのは私だ。ああでもしなければあの場の均衡を変える事はできなかったのでね」
そう言ってゆっくり近付いてくる姿はまだ少年と呼んでも通りそうに若く精悍に見える。

だが実際は自分などよりずっと長い年月を生きているのだろうが―――
くいいるように自分を見詰めるルガニスには一顧もくれずにマティアスは快活そうな微笑を浮かべて言った。
「貴殿とてあの時奴等の手にこの男が落ちる事は避けたかったのだろう、フィリップ卿」

「それはそうです。今我らの事をあれこれ探られるのは得策ではない。だがマティアス卿、閣下があの石を砕いた本当の理由は何なのです。閣下もまたこの男を助けたかったわけではありますまい」

「私が貴殿と同じ事を思ったからと言ってそう不思議ではなかろう。軍事に口出しするつもりはないがラインハルトは聖石二つを手に入れているのだ。そしてあの聖地でさらにまた一つ・・・。この上我らの情報が漏れるのはさすがにまずかろうに」

ラインハルトが聖石を、というくだりにフィリップのポーカーフェイスはわずかに崩れたが、それでも疑念に満ちた瞳を向けて訊ねた。
「・・・本当にそれだけですかな」

「どういうことだ?」
いまや二人は間近に立って向き合っている。
どちらの顔にも穏やかな微笑が浮かんでいるが、その間に漂う空気はビリビリと張り詰めているように感じられた。

「この男を助けるのは口実で閣下の本当の目的はあの石を壊すことだった、そうではないのですかな」
「あの石を?なぜ?」
「私もまたあの場所にいることに閣下が気付かれたからですよ」
「?何が言いたいのかわからないが・・・」

「あの石はそれ自体力を持っている。前にグリスデルガルドでルドルフと対峙した時にはあの石の波動は感じなかった。もちろんルドルフがその後自力で手に入れたのだと考えられなくもないが」
フィリップはそう言ってかすかに笑い声を漏らした。

「あの石をルドルフに渡した者がいる、そう考えたほうが自然な気がする。あの石の力を理解し制御できるのはまず人間ではないでしょう。よほど力の強い魔導士ならできるかもしれないが、ゲラルド亡き今、それほどの魔導士がいるとは思えない。とすれば妖魔族かそれに準ずる者・・・」

「なるほど、そうかもしれないな」
「随分簡単に仰るが、ということは我らのうちに裏切り者がいるかもしれないということですぞ!」

フィリップがやや激昂気味なのに対し、マティアスのほうは余裕の笑みを浮かべている。
「それくらい初めから予想できたことだろう。それでその石と私と何の関係があると言うのだ」
相手の余裕にフィリップはぐっと詰まって真赤になった。

「まさか、あの石をルドルフに渡したのはこの私で、だからコイツを助けるフリをしてあの石を壊し、証拠隠滅を図ったとでも言いたいのかな」
「私は・・・」
図星を突かれてフィリップはあわあわと口ごもった。

「私は、なぜ閣下がああもタイミングよくこの場に居合わせたのか不思議に思っただけですよ。閣下はずっとルドルフの行方を掴んでいた、そうでなければ・・・」
その言葉にマティアスが堪えかねたように大笑いを始めるのをルガニスはただ黙ってみていた。

「全くすばらしい推理力だな、フィリップ卿。だがあの場に居合わせることになったのは全くの偶然だ。なぜなら私が追っていたのはラインハルトの方だからな」
「!閣下が、ラインハルトを?」

「まあ、ラインハルトをというよりはあの聖石をと言った方が妥当だろうが」
「それはまた、一体なぜ・・・」
「皇帝陛下のご命令だ、理由は貴殿の知るところではない」
言葉遣いは丁寧だがその声には有無を言わせぬ圧倒的な力があった。

勝負は決まったな、ルガニスは心中思ったが顔には出さないように気をつけた。
フィリップ卿の看破したとおり、マティアス卿があの石を壊したのは自分を助けるためなどではないだろう。
いずれどのような名目をつけようが彼がルドルフの命を救おうとしたことは間違いない。

それに以前確かにルドルフはマティアスという名を口にしていた。
この皇帝の側近とグリスデルガルドの王女の間には何か関係がある。
これは面白くなりそうだ―――

ルガニスのことなどすっかり忘れたように二人の妖魔族の貴族は話し続けている。
「それに・・・タイミングの事を言うなら、貴殿こそなぜあの時ここに居合わせたのだ?貴殿の管轄はフィルデンラントだろう。ルドルフの行方を掴んでいたのでないのなら、どうしてここがわかったのだ?」

「私は聖地の結界にただならぬ異常を感知したので駆けつけたまで。閣下もご存知の通り、私の本来の職務は・・・」
マティスの逆襲にフィリップは完全に度を失い相手のペースに嵌っている。

「ああ、そうだったな。で、これからどうするのだ?」
「は、どうするとは?」
マティアスは呆れたように顎をしゃくって泉にうつる映像を指し示した。
「あの連中さ。できればラインハルトはこのまま泳がせたいが・・・」

「ふむ、そうですな・・・」
フィリップが振り向くとふいに身体を縛り付けていた戒めが解け、ルガニスはがっくりと前のめりになった。

「このまま奴等を逃してはお前も口惜しいだろう。もう一度お前にチャンスをやろう。見事ルドルフを捕らえて手柄をあげよ。怪我はさせてもいいが殺してはならぬ。必ず生きたまま捉えるのだ、いいな」

「ふん、言うのは容易いがルドルフの剣にラインハルトの魔法が揃っては厄介だ」
ルガニスは、お前の命令に従う言われはないと思いながらも唇を歪めて呟いた。

「お前は我等よりは光に強いと思うのだがな。まあ血が薄い分力が弱いのも道理か、では奴等を分断しよう。ラインハルトは私が引き付けておくからお前はルドルフの身柄を確保せよ。いいか、あのオーブも無傷で手に入れるのだぞ」
ルガニスは無言で頷くと瞬時に姿を消し、フィリップの顔には酷薄そうな微笑が浮かんだ。






ラインハルトが魔法で出した光が宙を飛び交って足元や辺りの様子を浮かび上がらせてくれている。
ルドルフはその小さな光を頼りに一歩一歩足を踏み出していた。

回復の魔法を受けたとはいえ、身体の芯にはまだ微かな痛みが残っている。
ルガニスに記憶をまさぐられた不快感も色濃く残っていた。
それに・・・

ルドルフは肩に背負った雑嚢に意識を向けた。
あの時、あの白い石の割れる音に意識をはっきり取り戻したとき手にしていた青いオーブはその雑嚢の中にしまってあった。

なぜあんなものを自分が持っていたのかルドルフにはさっぱり分からない。
ただオーブに触れたときの冷んやりとした感触は遠い昔どこかで感じたことがある様な気がしていた。

不思議なオーブ―――グリスデルガルドにあった黒いオーブ、ラインハルトが持ってきた赤と緑のオーブ、赤いのはもともとアルベルトが持っていたものだろう、とすれば緑のはアルベルトが師と呼んでいた老僧のものだろうか。

そして今また自分の手に入った青いオーブ―――大きさは赤いものと同じか僅かに小振りのこの石もまた不可思議な力を秘めたものと思われた。

前にリヒャルトは言っていた、遠い昔、この大地には球体をした美しい輝きを放つ聖なる石が幾つか存在していて、それらの石はある特別な場所で特別な並べ方をすると途方も無い力を有する事ができるのだと。
そして聖石それぞれの力を制御してその強大な力を操る事ができるのが聖少女と呼ばれる巫女なのだと―――

今のところオーブは妖魔族の手に一つ、そしてラインハルトと自分の元に三つ・・・
これらのオーブがリヒャルトの言う聖石なのだとして、聖石はこれで全てなのだろうか、それともまだどこかに他のオーブが存在しているのか。

ルドルフはただひたすら前を目指しながら思いを巡らしていた。
なぜかは分からないが少しでもあの不思議な部屋から遠ざかりたかった。

ラインハルトはルドルフに少し遅れながらロナウドと共に周囲を見回しながら進んでいた。
あの部屋からは大分離れたと思うが、前方には光は見えなかった。
このまま歩き続けていいものか、ラインハルトの不安は次第に増していった。

それを打ち消す為でもないがルドルフに軽く声を掛けてみたが、相手は何かに気を取られてでもいるように、ラインハルトの呼びかけに全く反応を見せない。
さっきあの部屋の中でもルドルフは少し様子がおかしかった。
一体どうしてしまったのだろう―――自分としてはやっと見付けたルドルフ一世の日記の事を早くルドルフに伝えたくてたまらないのだが・・・

ふいに風の流れが感じられ、ラインハルトは出口が近いことを感じた。
「ルドルフ、どうやら出口が・・・」
そう声をかけたとき突然に洞窟は終わり、いきなり開けた場所に出た。

「これは・・・」
周囲を山に囲まれた狭い盆地状になっていて、草一本はえていない荒地にはところどころ丸い穴が開いているのが夜目にも見て取れる。
荒地を隔てた対面は他の三方の山よりは幾分か低くなっていて、その奥に海が広がっているのが感じられた。

おそらく海岸沿いには漁村なども点在してることだろう。
ルドルフはサンドラの言葉を思い出した。
ロディウムの温泉の奥には間欠泉があって岩の割れ目とかからお湯が沸いてくるのだと。
そしてさらにその奥には聖ロドニウス教会の者しか立ち入れない場所があり、そこには想像もつかない宝物がしまわれているのだと―――

聖ロドニウス教会の者しか立ち入れない場所に秘密の宝物・・・
ルドルフはそれが今背中の雑嚢に入ったあの青いオーブだと直感した。
とすれば、今自分たちはロディウムの温泉へと向かっていることになる、間欠泉の湧き出る岩場を通って―――

「何でしょう、ここは・・・」
「分からない。ただ、硫黄の臭いが強まったように感じられるな」
「地面に開いているこの穴は何のためのものでしょうか」
「さあ・・・」

「ラインハルト、僕はつい先ほどまで行動をともにしていた相手から聞いた、ロディウムの温泉の奥には間欠泉の涌き出る岩場があり、さらにその奥には聖ロドニウス教会の者しか立ち入れぬ秘密の場所があると。前方が海だとしてロディウムの温泉は海に面していると聞いたから・・・」

「では、僕等は今ロディウムへの道を辿っていることになるわけか。とすれば東は・・・」
ラインハルトは左手を振り返ったが高い山並みが黒々と聳えているのが見えるだけだった。

「この穴から間欠泉が噴出してくるというわけですね」
「らしいな、今は活動を休止しているらしい。今のうちにこの荒野を突っ切ってしまおう」
三人は穴を避けながら対面の森を目指して進む。
ほぼ半ば近くに達した時左手の方角がうっすら明るくなってきたのが見えた。

「どうやら夜が明けそうだけど」
「ああ、妖魔族どもはひとまず諦めたようだな」
そう声をかけあった時、突然地面が小刻みに揺れ始めた。

「これは・・・!」
「地震か!?」
揺れは次第に大きくなり、無数に開いた穴からゴロゴロという音が響いてきた。

「いけない、間欠泉だ!」
そうラインハルトが叫んだ時、すぐ脇の穴から突然水柱が勢いよく立ち上った。
「熱い!ラインハルト様、これは熱湯です!」

あちこちに開いた穴から物凄い勢いの熱湯の柱が吹き出してくる。
お湯はすぐに勢いを失って吹き出すのを止め、無数に開いた穴から地下へと流れ込み、また湯柱となって吹き上げる。
それがなんの規則性もなく、あちこちから吹き上げるため、ルドルフたちは熱湯を避けるために濡れた岩場を右往左往させられる羽目になった。

突然に立ち上った湯柱がルドルフをラインハルトとロナウドから遠ざける。
それを待っていたように、ルドルフの周囲でいっせいにお湯が噴出し、ルドルフは周囲を湯柱に取り囲まれた格好になった。

「ルドルフ、大丈夫か!?」
ラインハルトの呼び声が湯の柱を通して歪んで聞こえる。
飛び散る熱い飛沫から身を守ろうと背をかがめた途端、湯の吹き出る穴はあっと言う間に広がりルドルフの足元の僅かな部分を残して、地面は崩れ落ちていった。

「ルドルフ!」
ルドルフのいる場所に魔法で移動しようとしたラインハルトの前に黒い影が浮かび出る。
「これはこれはフィルデンラントの王子様、お目にかかるのは三度目ですな」
「お前は・・・!」

「ラインハルト様、これが妖魔族ですか・・・」
ラインハルトはロナウドを庇いつつフィリップに対峙する。
「またお前か、残念だが今はお前に関わっている暇は・・・」

そう言いつつロナウド諸共にルドルフの下へと飛ぶため身構えたラインハルトにフィリップは
「王子様はお急ぎのご様子だが、では兄王様の行方には興味はお有りになりませんかな」
と勿体をつけた物言いでゆったりと微笑んだ。

「貴様、国王陛下をどうしたというのだ!?」
ルドルフの身を案じながらもラインハルトは兄の情報を無視することはできずにフィリップにそう問い掛けた。

「王子様としては今もなお兄国王の行方が知りたいと?」
「勿論だ、早く答えよ!」
「国王陛下はお亡くなりになられた、静養中のところを貴方を騙る刺客に襲われて、と私はそう聞き及びましたが?」

「ふざけるな、貴様・・・」
ラインハルトは手を突き出して光の魔法を放ったが、魔法はフィリップとの間に突然吹き上げた湯柱に遮られてフィリップには届かなかった。

「くそっ!」
ラインハルトはロナウドを抱きかかえるようにして対面の山の麓を取り巻いている森の入り口まで一気に飛ぶと、ロナウドを座らせてその周りに結界を張った。
「ルドルフを助けたらすぐ戻る、しばらくここで待っていてくれ!」

「ラインハルト様、オーブを・・・!」
ロナウドの差し出した二つのオーブのうち赤いほうを掴んで、ラインハルトは
「緑のほうは君が持っていてくれ、オーブには互いに引き合う力が働くらしい、何かあったときに君の居場所を探すよすがになる」
と言って笑顔を作って見せた。

「その子供は聖ロドニウス教会の僧侶の服を着ているようですが、どういったお連れですかな、王子様」
フィリップの声にラインハルトは眼差しを決して振り向いた。
「貴様に答える必要はない、それより兄上は今どこにおられるのだ!?」

「ヴィンフリート国王陛下には我等が領土にお移り頂きました。我等が再び力を取り戻す為にはあの方の血がまだまだ必要ですからな。何と言っても我等は貴方を取り逃がしてしまったわけですから」
「!」
ラインハルトが唇を噛むのをみてフィリップは酷薄そうに笑った。

「人間の世であのエリオルの血を色濃く引いているのは、もはや貴方がたご兄弟しかおられませんのでね」
「エリオルの血?それなら他の八聖国の王族にも・・・」
少しでもロナウドのいる場所から離れるため、フィリップと対峙しつつ足場をずらせながらも、ラインハルトは怪訝な気持ちを抑えきれずそう訊ねた。

「ふっ、やはり王子様は何もご存じないとみえる。他の七国の王族にエリオルの血は流れてなどおらぬ」
「何だと!?」

「エリオルは本来は我等が同族。長命種であるエリオルは歳をとるスピードが極めて遅かった。自分たちが年老いてもなお、若かりし頃のままの姿を保つエリオルにつねづね危惧と羨望を抱いていた弟子たちがある日とんでもない暴挙を企てたとしたら・・・」

ラインハルトは魔法発動の構えを取りながら引き込まれるようにフィリップの話に耳を傾けた。

「弟子たちは焦りを感じていた。自分たちが死んだ後もエリオルは若く美しいままで強大な権力を振るい続けるだろう。そしてさらに優秀な弟子が集まれば自分たちの子孫など簡単に駆逐されてしまうに違いない。今のうちになんとかしなければ、とね。だが神の力は絶対だ。その力を失うこともまた弟子たちには耐え難く恐ろしいことに感じられていた。

そんなときある情報が確かな筋からとして齎された。神を殺してその血を飲めば自分たちも神と同じ力を得ることができる―――と。かねてエリオルの血が人間の怪我や病気の治癒に力を発揮するのをその目で見てきた弟子たちは、すぐにその情報に飛びついた。そして神の力を我がものとするため共謀してエリオルを弑したのだ」

「ばかな、そんなこと・・・」
愕然とするラインハルトになおもフィリップは平然と語り続ける。
「その情報が全くのデタラメであったことはすぐに分かった。いくらエリオルの流した血を含んでも神の力は全く得られない。弟子たちは人間のままだった」

「それは・・・」
そうだろう、とラインハルトは思う。でも、それでは―――
「なぜお前たちには神の血が流れているのか、不思議かな。それこそがお前たちフィルドクリフトの末裔がこの世の誰よりも忌まわしき血を引く一族である理由でもあるのだが」

フィリップの顔にはなんとも残酷そうな微笑が浮かんでいた。
「聡明な王子様には簡単に想像がつくと思ったが」
ラインハルトの顔から急速に血の気が引いていった。

「そう、いとも簡単なことさ、フィルドクリフトは弟子たちのなかでただ一人、エリオルの血を真に引く者だったのだ」
「・・・」
ラインハルトは無言のまま、かたく唇を噛んだ。

「フィルドクリフトがエリオルが本当の父だと知っていたのかどうかは定かでない。だが神殺しの上に父殺しであることは否めない。そのためかどうかは分からないが、フィルドクリフトはエリオルの死後まもなく自ら命を絶った。自分の血を引く者達を全て殺してから」

「嘘だ、そんな事は僕は聞いていない!」
ラインハルトは堪らず光の魔法を放った。
制御の利かない強烈な光が四方へ迸る。
フィリップはひらりと身をかわしたが幾筋かの光を腕と脚に受け、苦笑を浮かべた。

「フィルドクリフトは子供たち全てを殺したと思って自らも死に赴いたが、実は瀕死の状態で生き残った王子が一人だけいた。それがフィルドクリフトの後をついでフィルデンラント第二代の国王となったのだ。勿論、こんな話は外に漏らすわけにはいかない。あらかたの事情を知っているものはすぐに口を封じられた。

真実を知るのは白の皇帝となったホーファーベルクトと、二代国王の宰相となったゴルドランという老人のみ。そのゴルドランも帝国の策略で反逆者として処刑されているから・・・」

「だまれ!そんなたわごとを僕が信じるとでも思っているのか・・・!」
「ふん、お前が信じようが信じまいが事実は厳然として事実だ。お前が知らないのならば王族でもごく限られたものしか伝えられていないのだろう。おそらくは帝国とフィルデンラントの王位継承者のみに口伝でな!」

再び魔法の発動のために身構えたラインハルトの脳裏に兄の声が不意に蘇った。
―――私がいけなかったのだ、ヴィクトールを信頼しすぎて常人の知るべきでないことまで彼に話してしまった・・・

まさか、兄が言っていたのはこのことだったのか?我らの先祖が犯した罪、神である父を殺してしまったあまりに重い罪を、兄一人では背負いきれず親友であるヴィクトールに話したと言う事か―――

では、この話を聞いたヴィクトールは何を思ったのだろうか・・・
そんな思いが一瞬の隙を作ったのか、あっと言う間に黒い霧と化したフィリップの腕がラインハルトの首と右腕に巻きついた。
「うっ、くそっ・・・!」

「ホーファーベルクトも食わせ者だ。フィルドクリフトにのみ神の血が流れていることを知ってそれを上手く利用することを考えた。妖魔族は大陸を追われ西の島グリスデルガルドに封じ込められたが、なおも侮れない勢力を保っている。だからこそ西の要衝の守りには神の血を引くフィルドクリフトの息子を据えたのさ。あの秘密をエサに自由に動かせる駒としてな!」

首に巻きついた霧が力を持ちぐいぐいと締め付けてくる。
「そんな話、信じるものか・・・」
ラインハルトは力のこもらない声でそう呟いた。

「愚かな王子よ。信じる信じないは勝手だが事実は事実だ。フィルドクリフトの末裔は父殺しの呪縛により永遠に白の皇帝の奴隷となったのだ!」
「違う!我等は・・・」

フィルデンラントは西の護り、帝国の盾だ。かつてグリスデルガルド征西の折も出陣の命を受けたのはフィルデンラントのみ。
それは兄王子を王位に就ける代償として王子ルドルフが自ら申し出たものだったはずだ。

かつてこの勇猛果敢な王子の話を聞くたびにラインハルトはその勇姿に思いを馳せたものだった。
たしかにヴィンフリートがそんな立場に立たされたなら自分だって、どんな代償をはらっても兄を王位に就けたいと思うだろう。たとえこの命と引き換えと言われても・・・

「お前たちに流れている神の血は力の象徴でもあり、同時に忌まわしい呪縛の証でもあるということだ。さあ、これだけ聞かせてやったんだ、こちらの言う事も聞いてもらおうか」
フィリップの顔が怪しく歪む。

「私と一緒に来てもらおう。兄に会えるのだ、こんなに嬉しい事はなかろう?」
「兄上に・・・?」
「そうだ、兄弟揃って我らの役に立ってもらわねば。そもそも我らのものだった大地を奪ったのはお前たちなのだからな!」

兄に最後に会ったのは王城の地下牢の中。
衰弱しきって今にも事切れてしまいそうだった。
早く助け出して回復して差し上げなければ・・・

ラインハルトはこのままこの妖魔族の手に落ちたように見せかけて兄のもとへ行くほうがよいのではないかと、ふと思った。
兄と合流できればともに逃げ出す算段もつくかもしれない。

不意に胸の辺りに焼け付くような激しい痛みが走った。
内ポケットにしまっていたオーブが強い熱を持ってラインハルトを苛んでいた。
その痛みが薄れかけていたラインハルトの意識を現実に引き戻す。

同時に左の袖の袂に重みを感じた。
そうだ、ルドルフ一世の日記だ、これをルドルフにまだ見せていない!

ラインハルトは残っていた力を振り絞って光の魔法を発動させた。
オーブがその光を受けて増幅させる。
強い光がラインハルトの身体から迸り出てあたりを昼の様に照らし出した。

ラインハルトの動揺振りに油断していたフィリップはとっさに避けきれず、ギャッと言う悲鳴を上げて飛びのいた。
相手の束縛から逃れたのを感じたラインハルトはそのまま移動の魔法を口の中で唱え、友の事を思った。






湯の幕はいつの間にか消え、地の底を覗き込んだ瞳に映った真っ赤に煮え滾るマグマの流れに目眩を感じながら、わずかに残った小さな地面とともにルドルフは悲鳴を上げて落下して行った。

灼熱のマグマがぐんぐん近付いて来るのが熱気で感じられる。
あの中に落ちたら自分は確実に死ぬだろう―――
急速な落下に遠退く意識の中でルドルフはぼんやりとそう思った。

馬鹿なことを考えるな、お前の運命はこんなところで終わることを許さない―――
背中が一際熱くなったように感じられた時、そんな声が耳元で聞こえたような気がした。

背中に負った雑嚢が落下を止め、それに引っ張られるようにしてルドルフの身体もふわりと浮き上がった。
今までルドルフが乗っていた僅かな地面が見る見るうちに崩れ、幾つかの岩塊と化してマグマの奔流に落ち込んでいくのが見える。

「思ったとおり、お前にはオーブの力を引き出す能力があるようだな。おかしなことだ、なぜお前にそんな力がある?」
目の前に浮き出た影がそう問い掛けてきた。
「お前、ルガニス!」

「お前は何者なのだ。俺はマリウス王とフランツ王太子を殺すよう命じられた、そして第二王子ルドルフについては事件の首謀者として捉えるようにと、生死は問わないとも言われていた。生きて連れ帰ったとしてもいずれ公開の場で反逆者として処刑され、ルドルフの直系は絶える。妖魔族にとっては存在を容認することのできない血統が、な。だが・・・」

ルドルフは相手がすぐに自分の命を奪うつもりが無い事を感じ、相手の注意を引かぬようそっと左手を腰の剣に這わせた。
「お前は本当は何者なのだ」
「何者って、僕は・・・」

「お前は本当にグリスデルガルドの王族なのか?その髪や目は確かにあのルドルフに似ているようだが・・・」
「僕が王家の者ではないというのか・・・!」
「本当に王家の者であれば性別を偽る必要もなかろう」
「・・・!」

自分がなぜ王子として育てられたのか、自分でも本当の理由は分からないことに改めてルドルフは強い当惑を覚えた。
そんなルドルフの様子を楽しむようにルガニスはニヤリと笑う。
「ふん、もう少しお前の力を試させてもらおうか・・・」

突然ゴロゴロという音が地の底から響いてきて辺りが激しく揺れだした。
はるか眼下からマグマの奔流が競りあがってくるのが感じられる。
「お前何を・・・」
灼熱のマグマにお湯はあっと言う間に蒸発し、焦げ臭い匂いが伝わってきた。

このままではマグマに飲み込まれてしまう。
うろたえるルドルフの両腕をルガニスは固く掴んだ。
「お前を無傷で連れて来いというのが俺の受けた命令だが、俺も少し試してみたくなったぜ。さあ、お前の力でこの窮地を脱してみるがいい」

吹き上げる熱風とともに煮え滾るマグマが出口を求めて噴出してくる。
その熱気でルドルフの服や髪は焦げ臭い匂いを放ち始めた。
身体中がひりひりと痛むのは火傷のせいだろう。
このままではマグマに飲み込まれる前に熱で焼け死んでしまいそうだ。

大地はさらに脈動を強めている。
ルガニスに押し付けられるようにしてルドルフはもろともに落下していくのを感じていた。
雑嚢を通してオーブの光が漏れてくるがその光はさほど強くはならず、落下を止める事はできなかった。

このままでは本当に死が待つのみ、ルドルフは熱気で朦朧としながらも左手に渾身の力をこめて剣を抜き振り払った。
「くそっ・・・」

ルガニスの手が離れたのを感じたルドルフは不意に落下が止まり、徐々に身体が上昇を始めるのを感じた。
ほっとするまもなくルドルフの前に黒い影が浮かび上がった。
ルガニスが右腕からどす黒い血を滴らせながら宙に浮かんでいる。

「貴様、やはり油断のならない・・・」
ルドルフが右手に剣を持ち替えようとした時、相手は意外な言葉を吐いた。
「マティアス卿、なぜ俺の邪魔をする?」
同時にルドルフの手から滑るように剣が離れていた。

あっと思うまもなく視界を黒い影が過ぎりルガニスの姿を覆い隠した。
再び視界が開けた時には、ぐわっという呻き声とともに大きく目を見開いたルガニスの顔が眼前に大写しになった。
傍らには先ほどまでルドルフが手にしていた剣を持った黒い人影―――

「マティアス!どうしてここに!」
ルドルフの驚きをよそにマティアスは優雅に剣を翻した。
刀身を伝わる血はその一振りで飛び散り、剣はまるで人を斬ったことなどないように冴え冴えと研ぎ澄まされている。

「なぜだと?それはお前が余りにも愚かだからさ」
ルガニスは右胸からの激しい出血にも怯まずマティアスを睨みつけている。
「マティアス卿、やはりお前はルドルフと通じていたのだな。皇帝陛下の側近でありながら妖魔族を裏切るとは・・・」

「聖石が失われるのを見過ごす訳にはいかない。これはお前如きが関わる問題ではない。どこへでも行って好きなように生きるがいい。二度と我等には関わるな」
「ふざけるな、俺は・・・」
そこまで言いかけてルガニスの口からは大量の血液が噴出した。

「愚か者には付き合いきれん、行くぞ」
マティアスはそう言ってルドルフに剣を渡すと、その腕を掴んだ。
二人の身体は見る間に上昇していく。

「マティアス!君はこの剣が恐くないのか」
ルドルフは剣を鞘に収めながら尋ねる。
「ああ、俺はその剣に触れる。だから皇帝陛下は以前この剣を奪ってくるように俺に命令をだしたんだ」

上昇のスピードが上がりルドルフはここちよい風のベールに包まれたように感じた。
服はあちこち焼け焦げだらけで、肌にも火傷の火ぶくれができ始めていたが、風に包まれているうちに痛みは薄らいでいった。

気がつくとルドルフの身体は天空高く舞い上がっていた。
「ありがとう、助けてくれて・・・」
マティアスは決まり悪げな微苦笑を見せただけで黙っていたが、なつかしい息遣いがすぐ間近に感じられ、ルドルフは嬉しさと切なさで胸が締め付けられそうになった。

あちこちにできた火傷の跡が急速に消えていくのを見ながらルドルフは張り詰めた気持ちが一気に緩んでいくのを感じていた。
「僕はもう一度君に会ったら言おうと思っていたことが・・・」
そういいかけた時足が地面を感じ、すぐ傍に感じられていた気配が遠退いた。

「待って、マ・・・」
慌てて相手の名を呼ぼうとしたルドルフだが、その名を口にする前に思いがけない人物が同じ名を叫んでいた。
「お前はいつかの妖魔族―――名前は確か・・・マティアスと言ったな!」

立ち上る湯柱の向こうにラインハルトの青ざめた顔が見える。
「ラインハルト、君どうして・・・」
ルドルフはどうしてラインハルトがマティアスのことを知っているのかとたいそう驚いたが、マティアスは平然と
「久しぶり、と言うべきなのだろうな、いつぞやの刺客どの、あるいは―――フィルデンラントの王子ラインハルト様」
と揶揄の籠もった口調で皮肉まじりの微笑を見せた。

「貴様、すぐにルドルフから離れろ!さもないと」
ラインハルトは決死の形相で呪文を唱え始める。
「ふん、やっと手に入れた獲物なのだが、フィリップ卿の二の舞はごめんだ」
そんな言葉とともにマティアスの姿は掻き消えた。

「ルドルフ!無事か?怪我はないか?」
駆け寄るラインハルトにルドルフは多少の火傷はあるがそれほど深い傷では無い事を告げた後、
「君、あの妖魔族のこと知ってるの?」
と訊ねた。

「ああ、君に話さなくてはならないことの一つなんだけど、オーブの力に導かれて不思議な空間を飛んだことがあって、そのときあの黒いオーブに惹かれるようにしてある部屋に移動してしまったんだ。その部屋にいたのがさっきのマティアスと言う奴と、もう一人、セドリックという奴だった」

ラインハルトはルドルフの服があちこち焼け焦げているのに気付いて、自分の纏っていたマントをとって渡しながらそう話した。
「セドリック・・・」
「ああ、暗い瞳をしたいかにも陰気そうな男だったけど、僕の事を英雄ルドルフと勘違いしたみたいだった。なんだか分けがわからないことを言っていて」

「分けが分からないこと?」
「うん、誰とかは死んだのになぜお前は生きているのか、とか」
「ふうん・・・」
ルドルフは軽く礼を言うと不思議そうに押し黙った。

「君こそ、あのマティアスという妖魔族の事、何か知ってるの?」
「え、僕が?」
ルドルフはラインハルトにマティアスとの経緯を話したものかどうか一瞬考えた。

「いや、なんだか敵と対しているような様子には見えなかったから」
「え、ああ、マグマの中から助け出してくれたから、敵だとは思わなくて・・・」
ラインハルトの口調にいつもとはどこか違う印象を受けながら、ルドルフは彼との事はあとでゆっくり順序だてて話そう、と思った。
今短い時間でうまく説明できる自信がなかった。自分だって彼の事は本当にはよく分からないのだから―――

「多分アイツは君を生きたまま連れ帰るように言われていたんだろうね。そうでなければ危ないところだったね」
「うん・・・」

ラインハルトはルドルフが一瞬みせたマティアスへの親しげな様子にどことなく不信感を感じたが、その注意はすぐに別のものに向けられることとなり、不思議な妖魔族の事は心の隅に追いやられてしまった。
突然の地震と不気味な地鳴りの後、海に面した山の山頂付近から火柱が上がり噴煙が湧き出したからだった。

「あれは・・・」
「火山の噴火だ。多分、アイツらの魔法のせいで活発化したマグマが行き場を求めて一番地盤の弱いところから吹き出したんだ」
「そんな!」
ルドルフはあまりのことに呆然とその光景を見詰めた。

「とにかくロナウドを助けなくては。あの子をあの山の麓に置いてきたんだ」
「うん、分かった」
ラインハルトはルドルフとともにロナウドの元へと移動の魔法で飛んだ。

幸いロナウドは先ほどラインハルトと別れたままの場所でじっと二人を待っていた。
マグマの流れは山の向こう側へと噴出していたが、こちら側でも降り注いできた火の粉で森のあちこちが燃え出していた。

「ラインハルト様、ルドルフ様の仰るようにこの山の向こうにロディウムの町があるのなら・・・」
「そうだ、火口から流れ出した溶岩が町のほうへと流れ出したら住民が危険だ!」
「どうしよう、ラインハルト、魔法でこの山を越えられる?」

「そうだね、この向こうがどうなっているのか僕にも見当がつかないけど、とりあえず適当と思われる距離を移動してみよう」
ラインハルトは右手でロナウドの、左手でルドルフの手を取ると、移動の呪文を唱え始めた。






フィリップ卿の気配を感じてマティアスは洞窟の泉まで戻った。
ルガニスが起こしたマグマの異常な活動の影響か、泉の水ぶくぶくと煮え滾っている。
フィリップは身体のあちこちが黒い霧と化して形態を保つのが大変そうで、地面に座り込んだまますぐ間近に現れた相手を見上げた。

「やはり閣下は食わせ物ですな」
「何のことだ」
「うまく誤魔化したつもりでしょうが、ルドルフが無事に窮地を脱するには閣下もそれに一枚噛んでいたのでしょう」

「私は聖石が永遠に失われるのを見過ごせなかっただけだ。あの愚か者はやりすぎた」
フィリップの顔には微苦笑が浮かぶ。
「仰るとおり、あれほどに使えない者だとは誤算でした、だがルドルフの事は・・・。特にあれが女だとなると」

「フィリップ卿、そこから先は口にしないほうがいい」
マティアスの声は今までとは打って変わって厳粛な響を帯びていた。
「先ほども言ったとおり私は皇帝陛下より直々のご命令を賜り動いている。その命令に従うためならば他の事を顧みる必要はないということだ。その意味がわからぬほど貴殿は不明ではないだろう」

フィリップ卿は何か言おうとしたが思いとどまり、ただ軽く唇を噛んだ。
「私としてはルドルフとラインハルトをもう少し泳がせて見たいと思っている。貴殿はじめ諸卿にユージン卿からルドルフ追討の命令が出ているのは分かっているが」

フィリップの表情には若干の逡巡が見られた。
「確かに、ルドルフ、ラインハルトともども身柄を捕獲するのが我等に下された厳命、ですが皇帝陛下の思し召しは別のところにあるというのなら・・・。ただ今回の顛末については私は上官に報告しないわけにはいきませんが」

「軍人としては当然の職務だな、まあ貴殿の尽力については私からも皇帝陛下によしなに伝えておく。どのみちユージン卿とも話しあわねばならぬし」
「・・・それは有難いお言葉で・・・」
フィリップはそういうと軽く唇を噛んだ。

マティアス卿はそれに気付いたのかどうか、決然とした表情でマントを翻し瞬時に姿を消した。
それを見送ったフィリップの口からは大きな溜め息が漏れる。
皇帝陛下はいまだに過去の亡霊に取り付かれている。
数百年が経ったというのに心は遠い昔を彷徨ったまま・・・

今回の開戦は軍を一手に任されたユージン卿の勇み足的なところもあるが、そもそもは屈辱的な現状に甘んじ、それを打開しようと言う意識すら薄らぎつつある一族の風潮に一石を投じるためもあったはず。
だが、肝心の皇帝陛下が後ろ向きなのでは―――

フィリップの脳裏に遠い昔仰ぎ見た美しい少女の姿が浮かぶ。
長い黒髪に七色の瞳、月光草の花を手に舞うように歩を運ぶ優美な姿―――
今もその亡骸は地下深くの聖地に安置されている。
ただ一人少女の復活を信じ続ける者のため、生前の姿を留めたままに―――






ゾーネンニーデルン
ロディウム近郊某所

ラインハルトたちが姿を現したのは少し開けた草原だった。
眼窩に海岸線沿いに長く伸びた町並みが見下ろせる少し小高い場所だった。
背後の山からは真っ黒い噴煙が黙々と上がり、真っ赤な溶岩流が山頂近くのあちこちから溢れ出すようにして流れ始めている。
三人の周囲でもあちこちで小さな煙が燻っていた。

海に近い為湿気が高く草地に落ちた火の粉はまだ大きな火災にはなっていないようだが、風に乗って遠く街中まで飛んで行ったものは、幾つかの家で屋根に燃え移り始めていた。
早くも噴火に気付いた人々で町は騒然としている。
東の海の水平線には日の出前の朝焼けがうっすらと現れ始めていた。

「ラインハルト、朝だ」
「ああ、やっと夜が明けたんだな、これで妖魔族も大手を振って襲ってはこれなくなるだろう、それより・・・」
ラインハルトは背後に聳える山から流れ出ている溶岩を見上げて言った。
「山の形状と火口の位置からすると、このままでは溶岩流が町を直撃してしまいそうだ」

「!」
「そんな・・・」
ルドルフは背後を見上げ、瞬く間に阿鼻叫喚の渦となりつつある街路の様子を見下ろした。
大勢の人々が家から飛び出し、山頂を見上げて大声で叫んだり、慌てて海のほうへと逃げようとしていた。

「海へ逃げ込めば大丈夫だろうか」
「いや、溶岩流の量が多そうだ。これがそのまま海に流れ込んだらかなりの海水が蒸発するだろうから・・・」
「荷物を運び出してないで早く逃げてくれるといいのですが・・・」
ロナウドがポツリと呟いた。

「なにか街の人に早く非難するよう伝えられる方法がないかな」
「ラインハルト、流れは思ったよりも早いようだ、ここもすぐに危なくなる。なんとか君の魔法で噴火を止めらないか?」
すでに溶岩流の熱気で地面が熱くなってきていた。

ルドルフの言葉にラインハルトは少しの間じっと噴煙を巻き上げる山を見上げていたが、
「僕にそんな力はない、ただ溶岩の流れを変えることはできるかもしれない・・・」
とおもむろに言った。

すでに噴火を察知した人々で街は地獄絵図と化しつつあった。
逃げ惑う人々が互いに折り重なって怪我人も出ているようだ。
たくさんの荷を積んだ荷車が道の放り出されたまま、多くの人の退路を塞いでしまっている場所もあった。

「なんとかやってみるから君たちは少しでも遠くに逃げてくれ!」
ラインハルトはそう叫ぶと呪文を唱えると両手を地面についた。
その前方の土が盛り上がり次第に高くなっていく。
「ラインハルト、僕にも何かできる事は!?」
ルドルフは声をかけたがラインハルトは魔法に集中していて振り返る余裕はないようだ。

「ルドルフ様、ラインハルト様の仰るとおり、少しでも安全な場所に避難しましょう」
ロナウドはそう言ってルドルフの袖を引いたがルドルフはラインハルト一人を残して逃げる気にはなれなかった。
この地震と噴火は元はといえば妖魔族が自分を追い詰める為に起こしたもの、それが大勢の人の命を奪うことになるのは耐えられない、と思った。

「ラインハルト!」
ルドルフは地面に手を付いたまま呪文を繰り返し唱え続けているラインハルトの傍に駆け戻った。
友の口から零れる言葉はルドルフにはほとんど理解できないものだったが、ラインハルトが土の精に呼びかけているらしい事はなんとなく分かった。

ラインハルトは魔法で溶岩流をせき止める土の壁を作ろうとしている。
完全にせき止める事はできなくても、それにより流れを変えた溶岩流が町を迂回して海へと流れ出てくれれば・・・

ルドルフは友の傍らに立ち尽くしながら自分にも魔法が使えたら、と心から思った。
すぐにロナウドも二人の傍に駆け寄ってくる。
三人がちょうど三角形の頂点の位置に立ったとき、それぞれの身体から、いや、それぞれの隠し持ったオーブから強い光が放たれた。

「これは・・・」
魔法の発動に集中しているラインハルトは気付いていないようだが、ルドルフとロナウドは驚いて互いの顔を見つめあった。
三つの光は互いに交差し、さらに強い光となってあたりを白昼の様に光り輝かせた。

ラインハルトが魔法で作り上げた土の壁が一気に高く厚く盛り上がり、押し寄せる溶岩を押しとどめる。
土の壁に行く手を阻まれた溶岩の流れはロディウムの町を逸れて周辺の低地へと流れ込みそのまま海へとなだれ込んだ。
凄まじい水蒸気があがり、溶岩流からはシューシューと大きな音が発せられている。

どれほどの時間が経ったのか、強い光が消え大地の鳴動が収まってもラインハルトは両手を地に付いたまま動かない。
「ラインハルト、もう大丈夫だと思うけど」
心配になったルドルフが肩にそっと触れると、ラインハルトはそのまま倒れこんでしまった。

ラインハルトは気を失っていて、いくら声をかけても反応がない。
ルドルフはロナウドと二人、どうにか近くの木陰までラインハルトを運んだ。
「どうしよう、ラインハルトは大丈夫だろうか」
「多分、強い魔法を長時間使い続けたせいで体力を使い果たしてしまったのだと思います。少し休めば意識を取り戻すと思うのですが・・・」

ラインハルトの顔色は蒼白だった。
噴火はどうやら収まりつつあるようで、もう揺れはほとんど感じないし、地鳴りの音も聞こえなくなっている。
そのことにはほっとしつつも、ルドルフはまだ近くに妖魔族が潜んでいるのではないかと不安になった。

ルガニスはかなりの重傷を負ったようにみえたが、純粋の妖魔族ではない彼なら、回復次第昼日中でも襲ってくるかもしれないと思われた。
ラインハルトがこんな状態の時襲ってこられたら・・・

だがそんな不安と同時に、ルドルフは思いがけずマティアスに会えた喜びに胸が打ち震えるのを止めることができなかった。
触れ合えたのはほんの一瞬だったけど、もしかしてマティアスはずっと自分の事を見守っていてくれたのでは―――
彼が現れたのはあくまでも偶然かもしれないが、ルドルフにはそんな風に思えてならなかった。

「僕はこのあたりに薬になる草がないか少し探してきます。ルドルフ様はここで休んでいてください」
陽がかなり高くなった頃ロナウドがそう言い出した。
「いや、一人で行動するのは危険だ。皆で一緒にいたほうがいい」
「はい、でも妖魔族は光が苦手のようですから・・・」

「それはそうだけど、妖魔族の中には多少の光なら問題にしない者もいるから」
「!そうなんですか!でも僕がお二人のお役に立てるとしたら薬草の知識くらいですから」

「そうか、君は聖ロドニウス教会の学僧だものね、いろいろな知識をもっているのだろうね。でも今は、特にラインハルトが目を覚ますまでは一緒にいてくれないか。もしものときに僕一人ではラインハルトを護りきれないかもしれない」
ルドルフの言葉にロナウドは真摯な顔で頷いた。

「はい、分かりました、ラインハルト様は疲れが出たのでしょうね、ずっと魔法を使い続けでしたから」
「そうだね」
ルドルフは自分が友にかなりの無理をさせてしまったことを悔いた。

「大丈夫ですよ、ラインハルト様はお元気な方ですから、すぐに目を覚まされますよ」
「ああ、そう願いたい」
こんな子供にまで気を使わせてしまった、と忸怩たる思いを隠してルドルフはつとめて明るく答えた。

「そういえば君はアルベルトの弟弟子だと言ったよね、聞きそびれてたけどアルベルトは無事に聖ロドニウス教会に戻っているのかな」
「いえ、アルベルト様はまだお戻りではありません。ラインハルト様とはフィルデンラントでお別れになったそうですが、その後消息不明です」
「そうなのか!?」

ロナウドはラインハルトが聖ロドニウス教会に現れて以降の事をかいつまんでルドルフに語って聞かせた。
「ルドルフ一世の日記!?それをラインハルトは見つけたのか・・・?」
「はい、そう仰ってました。ラインハルト様もじっくり読む暇はなかったと思いますが」

ルドルフ一世の日記や聖者エドマンドの予言、そしてオルランドの行方―――ルドルフは詳しい話をラインハルトから聞きたくてたまらなくなったが、ラインハルトの顔色はずっとよくなってきたとはいうもののまだ目を覚ます気配はない。
本当に自分にも魔法が使えたなら、ルドルフは再びそう痛感した。