暁の大地


第十六章




フィルデンラント
ドライシス公爵帝

明け方の一閃が夜の闇の最後の名残を無惨にも打ち砕きながら天地を輝かせる寸前に、フィリップ卿はどうにかドライシス公爵邸へと舞い戻った。
フィルデンラント中部の風光明媚な田舎に立てられたこの邸は当該国へ進出の足がかりとしてフィリップが自ら定めた場所だった。

王都からもまた南部の軍港アディエールからもほぼ等距離にあたるこの地は古来より滋味豊かな土地と四季を通じて温暖な気候、一年中降り注ぐ陽光に恵まれ、多くの農産物を産みだすことによりフィルデンラントを富ませてきたのだった。

高齢のドライシス公爵を邸の奥深くに幽閉したフィリップはかねて仕えていた者達を放逐し、妖魔族達の活動の拠点とした。
フィリップ自身はここから各地に散った部下たちの報告を受け、場合に応じて王都やアディエール、グリスデルガルドにまで遠出したり、またユージン卿への報告の為、総本部へと戻ったりしていた。

今回のマティアス卿との顛末をどう報告したものか、フィリップは少しばかり頭を悩ませていた。
ユージン卿の忠実な部下としては、ありのままを報告すべきなのだろうが、マティアス卿の後ろには皇帝陛下がついている。それにあのルガニスが少々やりすぎたのも事実だ。
そのルガニスに命を与えたのが自分となれば、皇帝陛下はどういう判断を下されるか・・・

問題なのはユージン卿に対する陛下の信頼が低いということだった。
武人としてはユージン卿の右に出るものはいないが、陛下と卿の間には埋めがたい溝ができてしまっていた。
それもこれも全てはレティシア姫、マティアス卿の姉のせいなのだが・・・

公爵領に辿り着き公邸の自室の窓から滑るように部屋へと飛び込んだフィリップはまだ完全に治りきらずに黒い霧となって漂っている手足の傷を苦笑気味に眺めた。
マティアス卿というのもおかしな御仁だ。自分に疑いの目を向けているこの私が瀕死の状態に会ったのだから、あの場で一思いに口を封じてしまうこともできたのに、なぜそうしなかったか―――

この私がいずれ自分に不利な証言をするだろうことは明白なのに。
そのあたりが一族きっての変わり者と呼ばれる所以なのかもしれないが。
ともあれ、フィリップとしては思いがけず手に入れたマティアス卿の弱みを最大限活用できる場面が来るまでは胸に収めておこうと決めたのだった。

ベッドに横たわり静かに目を閉じると極微かに誰かの意識があたりを窺っているような気配が感じられてきた。
―――何だろう、一族のものとは思えないが、確かに誰かの気配を感じる。気配の元はどうやらこの邸内に居るようだが・・・

二重に下ろした厚手のカーテンを通しても日の光が燦々と降り注いでいるのが感じられる。
この強い日差しの下では我等は形を保つことすら難しい。
だがかつてこの大地は我らのものだった。夜も昼もなく我等が自由に闊歩できたものだったはずだ。
われらはその大地を取り戻す。この地は我等にこそ約束された土地、我等が自由を謳歌するに何を憚ることがあろう・・・
この地が我らのものに戻るのもそう遠い未来ではないはずだ・・・

フィリップの脳裏には昼でもなお薄闇に閉ざされたかつての大地の姿が浮かぶ。
彼自身はその姿を見た事はないが、ランディ卿が特殊な機械を使って映し出した映像にはかつてのこの地の様子が克明に描かれていた。
真夏でも地平線を掠めるようにしか上らぬ太陽。闇に育つ様々な種類の大木が地面を覆い、たくさんの果実を実らせていた。
そして闇に生きる数え切れないほどの種族の動物たち―――

この地は我等に神が与えられたもの、と昔伝えに聞いた。
人間どもがいつ頃からこの地に住み着くようになったのか我等は知らない。
或いは流星となって幾多も降り注いだ隕石に付着していた微々たる生き物がいつの間にかこの大地に根を下ろし、次第に個体数を増やし、姿を変えていったそのなれの果てかもしれない。
その変化はあまりにも緩慢で、ある日突然群れをなして他の獣を襲うようになるまで我等はその存在すら気付かなかった。

我等は大地や植物、動物の精を吸い命を永らえる。
かつては身体を一定の形に保つ必要もなく、ただ宙を彷徨い時に地に横たわり、大地の恩恵を享受して生きていた。
人間の精もまた我らの糧・・・

人間は我等が宙を飛び、獣の精を吸うのを見て悪魔の所業と恐怖した。
その恐怖と猜疑の感情は我等にとってなんとも甘美なエキスとなる事を我等は知ってしまった。
そして我等は勤めて人間の形態を取るようになったのだ。
人間に近付きその精を吸い取る為に―――

再び他者の気配をすぐ身近に感じてフィリップは身体を横たえたまま思念を四方に飛ばしてみた。
今度ははっきり感じた。確かに誰かが自分の意識を読み取ろうとしていた。
―――さて、今この邸に居るのは・・・
モーリスは南部の動きを見晴らせている。ヘルムートは未だグリスデルガルドに留まっている筈だし、ニコラスは王都に戻したはず、となると―――

突然にフィリップはニコラスの言葉を思い出した。
聖ロドニウス教会の学僧を捉え、この邸に足止めしてあると。
妖術や自白剤を使ってみたが聖ロドニウス教会の情報の肝心の部分はどうしても話そうとしない。
かなり強いマインドコントロールを受けていると思われるので、時間をかけてそれを解いていこうと思っていると。

ヴィクトールの動きに今ひとつ信頼を置けないフィリップはここしばらくずっと王城に詰めていたので、そう報告を受けた後その僧侶のことはすっかり念頭から消えていた。
これはその僧侶の思念だろうか・・・
下士官クラスの者が幾多も見張りに付いているので逃亡の危険はない。
確認するのは日が翳ってからでいいだろう・・・、フィリップは身体が充分回復するまで仮眠を取るべく目を閉じた。






ゾーネンニーデルン
ロディウム近郊某所

ラインハルトはなかなか目を覚まさない。
さすがに空腹を覚えたロナウドは充分注意するからと言って、食糧になりそうなものを探しに行った。
あのあと妖魔族が襲ってくる事はなく、ルドルフもあまり遠くへ離れなければ大丈夫かもしれないと思ったのだった。

森の中はただ静かで鳥のさえずりだけが静寂を破って辺りの空気を振るわせていく。
厚く空を覆った木の葉の間から漏れる細い光は今日が快晴であることを物語っていた。
ふいにラインハルトが寝返りをうち、ルドルフは友が目覚めたのかと色めき立ったが、ラインハルトは身体の向きを心持斜めに傾け、丸まるようにして眠っていた。

―――よほど、体力を使ったのだな・・・
そう思いつつ、不自然に折れ曲がった袖を直そうとして、ルドルフは袂から書物の一端が覗いているのに気がついた。
―――これが、ロナウドの言っていた、ルドルフ一世の日記だろうか・・・
ルドルフは誘惑に勝てず、そっと袂から書物を引き出した。

ラインハルトは袖の重荷がなくなって自由になったためか大きく腕を振るったがその目は閉じたままだった。
かなりの年月を経たと思われるその書物は思ったとおり、流麗な書体でつづられた日記だった。
ルドルフはいそいでページを繰ってみた。

日記が書き込まれているのはほぼ三分の二くらいまでで、のこり三分の一ほどは白紙のまま残されていた。
日記にはフィルデンラントを出航してまもなくから始まった妖魔族の妨害に苦戦しながらも一歩一歩グリスデルガルドでの地歩を固めていく様子が克明に描かれていた。

夜の闇に紛れて流れてくる黒い霧。その霧に巻かれたものは呼吸困難を起こし次々と倒れていく。
そうかとおもうと、正気を失って同士討ちを始めるもの、海に飛び込んで自ら命を絶つものも大勢いたようだ。
ただ、彼等は強い光のあるところには近寄ろうとしない。
遠征軍に随行した魔導士たちは自軍を照らす強い光を夜中絶やさぬように交代で魔法を使い続けねばならなかった。

しかも恐ろしいことに、昨日まで友として戦い、倒れた兵士たちが敵の軍の中に混じっている。
彼等は人間としての心を無くしたかのように、昨日までの友軍に情け容赦なく襲い掛かってくるのだ。
いくら倒しても翌日には幽鬼のように甦り、再び襲ってくる。
彼等を葬り去るにはその身体を火で焼き、浄化するしかなかった。

昼の間攻め取った領土を夜には取り返される、しかも倒す相手はかつての同志だ。
そんな戦いが長く続き、戦線は膠着状態に陥り、士気は著しく低下していく。
どちらにも相手を叩き伏せる決定打がないままに時間だけが虚しく過ぎていく。
兵はフィルデンラントのみならず、帝国や他国からも援軍として補充されるが、いくら補充しても次から次へと倒され敵となって襲いかかってくる。
変わり映えのしない記述が繰り返される日記をルドルフは斜め読みしながら次々とページを繰った。

他に目新しい記述はないものか、そう思っていたとき次の二文が目に飛び込んできた。
戦いに疲弊しきったルドルフ一世が弱音を吐きそうになった時の記述だ。
―――それでも戦いをやめるわけにはいかない。
この戦いの真の目的を果たすまでは―――

この戦いの真の目的、それは兄フランツ王子を王位に就けることか・・・
だが、ルドルフが戦いを終える前に父王が崩御し、フランツは王位に着いたはずだ。
とすればこの記述はそれ以前に書かれたものとなるが・・・

日記はその後数ページで唐突に終わり、あとは白紙のページが続いている。
これはルドルフの勝利がその後まもなくであったことを表しているのか。
だがどうみても劣勢だったフィルデンラント軍が形勢を逆転させ妖魔族を撃退できたのはなぜだろうか。
残る数ページにも似たような記述が続き、目新しい事は何も書かれていないようだが・・・

そう思って最終のページを読んだルドルフはおや、と思った。
はかばかしくない戦況を慮り、ついに帝国より密使が遣わされた―――
戦の最中でありながら帝国の使者は丁重に迎えられた様子が描かれ日記は終わっている。

ルドルフは溜め息をつくと静かに天空を仰いだ。
結局肝心な事は何も分からない、いや―――
昨日まで友として戦い倒れた兵士が今日は敵として襲ってくる―――これはつまり、妖魔族には死んだ人間を生き返らせ、思うように操る力があると言う事だろう。
フィルデンラント軍全体に大規模な幻覚を見せた可能性もあるだろうが・・・

俺たちは敵同士だ―――
ふいにまたマティアスの言葉が頭を過ぎった。
分かっている、マティアスは敵、信じてはいけない相手だったのに、どうして自分はあんなにうかうかと信用しきってしまったのか。

ラインハルトの指輪を取り返してくれ、フィリップ卿から守ってくれた。
そしてルガニスからも・・・
マティアスと戦いたくはない、だが、王族として敵の手に落ち苦しむ民を見捨てる事はできない、いや、したくなかった。

フランツだって本心は自分と同じ気持ちのはずだ。
自分ひとり生き残って安穏な生活を送れるような兄ではないはずだ。
あの時は身体が弱ってかなり気弱になっていたのか、あるいは・・・あのフランツはマティアスが見せた幻だったのかもしれない。
そうであって欲しいという思いと、打ち消したい気持ちが心の中で綯い交ぜになってルドルフは苦しかった。

思いがけず零れ落ちた涙が一粒開いたままの日記の上に落ちる。
「あっ、いけない」
思わず声をあげ、袖で拭き取ろうとしたとき、涙で濡れた部分にうっすら字が浮き出てきた。
これは・・・

いわゆるあぶり出しの一種なのか、どうやら水で濡れると字が浮き出てくるらしい。
もっと水を、と思ったが手近にあるわけもなく、涙で濡れた部分もあっと言う間に乾いてもとの白紙に戻ってしまった。
なんとも手の込んだ・・・

そう思ったとき、ルドルフ一世の剣をラインハルトとともに掴んだときの声が思い起こされた。
「お前たちは二人して血塗られた道を行くがよい・・・」
血塗られた道―――そう、ここに書かれている事はまさに血塗られた道、そのものなのだろう。
戦を始めたのはお前たちだ、マティアスはそうも言った。

これからの道は血塗られた・・・
ルドルフは思わず身震いする。
ふいにじっと自分を見詰めている気配に気がつき目を上げるといつの間に目覚めたのかラインハルトの水色の瞳と目が合った。

高く澄んだ秋空の様な美しい色の瞳がじっと自分を見ている。
いやだな、泣いてるとこ見られただろうか・・・
ルドルフは慌てて目を擦るとラインハルトに駆け寄った。

「ラインハルト、大丈夫か!」
「ああ、何とか・・・」
ラインハルトは呟くように言うとルドルフの手中にある日記に目を落とした。

「あ、ごめん、これ気になって・・・」
「最後まで読んだのか?僕は追ってから逃げる合間にざっと拾い読みしただけだけど」
ラインハルトはゆっくり体勢を立て直しながら起き上がろうとする。

それを助けながらルドルフは答えた。
「僕も斜め読みした程度だけどね」
「途中で終わってるだろ」
「ああ、これ、あぶり出しみたいになってる。水に濡れると字が浮き出るんだ」

「本当か!?」
ラインハルトはルドルフのほうに身を乗り出そうとして顔を歪めた。
「てっ、何だか身体中がだるいな」
「無理しないほうがいい、あんな壁をつくったんだ、魔法のせいで体力を大分奪われたんだろうから・・・」

「情けない、こんな事じゃ賢者ゲラルドの直弟子の名が廃るな」
ちらりと壁を見上げながらラインハルトは苦笑して見せたが、その顔は笑っているというより泣いているように見えてルドルフは言葉を失った。

「そういえば、ロナウドは?」
あたりを見回してラインハルトが尋ねる。
「うん、食糧を探してくると言って・・・。あまり遠くへ行かないように言ったんだけど」

「大丈夫かな、あまりいやな気配はしないようだけど・・・」
ルドルフとラインハルトはそう言って顔を見合わせる。
一瞥以来ゆっくり話すのは久しぶりだ。
話したい事はいろいろあったはずなのに、いざとなると何を話していいか分からないルドルフだった。

「少し探してみるか。どこかに泉でもあれば日記の続きを読めるかもしれないし」
そう言って立ち上がるラインハルトに少し遅れて立ったルドルフはラインハルトの目線がいつの間にか自分よりほんのわずか高くなっていることに気がついた。

体付きも初めてあったときよりずっとしっかりしてきたようだ。
ラインハルトは男の子なのだ、ルドルフは改めて自分が男にはなりきれないのだという事を思い知らされた。

一方ラインハルトもまたルドルフの目からそっと視線をはずした。
久しぶりに会った友は変わらぬ友情を示してくれ、それはとても嬉しかったが、やはりルドルフははじめて会った頃とは明らかに変わった、と思う。
それはあの聖地で何かに取り付かれたような姿を見たから、というだけではなく、彼女の立ち居振る舞いの端々に明らかに以前とは違うものが仄見えていた。

男の服を着て男の様に振舞ってももはやルドルフは少年には見えなかった。
身体的な成長だけではなく、内側から滲み出る何かが、いくら外見を変えてみても彼女が女であることを如実に物語っているような、そんな感じがする。
「とりあえず、ロナウドの気配を追ってみよう」
そう言って一歩踏み出したラインハルトは傍らの友にさりげなく目をやった。

自分に何となく苦手意識を抱かせるものが今のルドルフには感じられるのだが、不思議なことにそれがさほど嫌なものではなく、むしろどこか胸が騒いで落ち着かない感じがまた楽しくもあるような不思議な感情を抱かせた。
それがなぜなのかラインハルトにはよく分からなかったが・・・

ラインハルトはあたりを伺った後、ゆっくりと足を踏み出した。
「そっちにロナウドの気配がするのか?」
「うん、かすかだけど、風の流れで・・・」
「なかなか食糧が見付からなくて遠くまで行ってしまったのかもしれないね」
「けっこう無鉄砲なところのある子だからね」

ロナウドの気配を追って進みながらルドルフはラインハルトから聖ロドニウス教会での出来事や、エドマンド前総院長の予言について大方のところを聞くことができた。
『闇に閉ざされた空に赤い月が昇る。あれはこの世に生まれ出るべきではなかった。だが運命の輪には逆らえない。変革の時は近い。大地は燃え、人間が覇者であった時代は終わる』

「何だか不吉な予言だね。人間が覇者であった時代は終わる―――つまり妖魔族はこの大地全てを支配するということか」
「グリスデルガルドの出来事を思えば、そう取るのが自然だろうな。だが妖魔族は昼間は思うように動けないし、この世を支配するといってもな・・・」

「そうだけど、エリオルが現れる前はこの世は厚い雲に覆われ長い間薄闇に閉ざされていた、と古文書には書いてあったんだろう。エリオルがどうやって雲を払い太陽の光を地上に届かせられたのかよく分からないけど、その方法が分かればその逆も可能なんじゃないのか」

「!」
ルドルフの言葉にラインハルトは強い衝撃を受けその場に棒立ちになった。
「君の言う通りだ。どうしてそのことに気付かなかったんだろう。長い間日の光が射さず昼なお薄ぐらい日々が続けば疫病が蔓延し、人心は乱れるだろう。混乱と無秩序の状態が長く続けば人間の世界は自ずと崩壊の道を辿るしかない・・・!」

「ラインハルト、海の上から見たグリスデルガルドの様子を覚えてる?島の半分は黒い雲に覆われていたのを・・・」
「ああ、よく覚えてるよ。あの陰鬱な光景は決して忘れられないだろうと思う。あの黒雲は今ではもっと広がっているんだろう」

「・・・クラウディアや叔母さんは無事でいるんだろうか。彼女たちだけではなく、グリスデルガルドの国民たちは今どんな暮らしをしているのか・・・」
「うん・・・」
ラインハルトはそう言ったきり口を噤んでしまった。
あれから随分時間が経ってしまった―――無事でいてくれるといいが、楽観できる状況ではないだろう・・・

「とにかくロナウドを探そう、それからなんとかフィルデンラントに戻ってケンペスを探し出して・・・」
「そうだね、ごめん、あの子を一人で行かせるのではなかったよ。つい油断してしまって」
「いや、元はといえば僕が不甲斐なかったから」

不意に腰に差した剣が僅かに震えたのを感じ、ルドルフははっとなった。
微かだが血の匂いがする―――
ラインハルトも気付いたようだ。
ロナウドのものかどうかは分からないが・・・

「急ごう!」
ラインハルトは先程まで意識を失っていたとは思えないくらい勢いよく駆け出している。
ルドルフもまた急いで後を追った。






フィルデンラント
ドライシス公爵帝

アルベルトは夢を見ていた。
今では一日中うつらうつらとして、昼なのか夜なのかよく分からない。
ただひどく頭がいたい。
その痛みから気を逸らしたいと目を閉じると決まっていやな夢を見る。
炎に包まれた大地だ。

たわわに実った麦の畑を一面の炎があっと言う間に舐めていき、後には不毛の焦土だけが残される。
焼け焦げた大地の匂いまでもが感じられるような妙に現実感の強い夢―――
いやな夢だと思う。あの風景は故郷の北国の農村を思い出させる。

アルベルトはゆっくりと起き上がり、頭を抑えた。
寝ても醒めても頭がズキズキと痛んでやりきれない。
何か楽しいことを考えねば。

僧院での学究三昧のかたわら兵僧たちに混じって鍛錬に勤しんだ日々。
グリスデルガルドへの旅は短い間だったが、故郷を離れて以来教会領の外へ出る事を許されなかった自分にとって本当に久々の自由に過ごせる日々だった。
そして出会った若き二人、魔導士の王子と剣に生きることを自ら選んだ王女―――

あの二人はどうしているだろう。
ラインハルトは無事兄国王を救い出せただろうか。
ルドルフの行方は掴めたのだろうか。
妖魔族の事を調べると約束したのに自分はこんなところに足止めされたまま、少しもその約束を果たせていない。
そう思うと己の無力さに歯軋りしたくなるほどの焦燥感を感じざるを得ない。
いや、何か今の自分にもできることがあるはずだ、何か・・・、それを考え、見出さなければ・・・

アルベルトは精神を集中して辺りの様子を伺ってみた。
部屋の片隅に相変わらずひとり、妖魔族の気配がする。
そして他にも邸の中に何人か・・・
その中に取り分け強い気配を感じさせるものがいる。
意図的に気配を消しているようだ。
どうもニコラスではないようだが―――

その瞬間いつにも増して激しい頭痛を感じアルベルトは頭を抱え込んだ。
眼前にフラッシュの様に抜けるような青空と眩い陽光が浮かんで消えた。 どうやら自分は瞬間的に誰か別の者の意識の中にもぐりこんでしまったようだ。
今の意識は多分あの・・・






パンゲア大陸
某所

身体中から血が流れ続け、形を保つのが難しくなっている。
黒い襤褸切れの塊の様な姿でルガニスは草原の只中に横たわっていた。
朝の心地よい風が頬をなぶって吹きすぎていく。
すでに日は中空へ差し掛かっている。
このまま陽光を浴び続けたら夕暮れまでに自分の命運は尽きるだろう。

かすみがちな意識のうちでもこの場所がどこなのかを認識し、ルガニスは自嘲の笑いを上げた。
途端に込み上げてきた血の塊がルガニスを激しく咳き込ませる。
なんてことだ、自分が終焉の地として選んだのは、二度と戻りたくないと思っていたあの場所ではないか―――幼い自分を残し母が去っていくのをただ見送るしかなかったあの場所・・・

咳き込みが納まると今度は独りでに涙が零れてきた。
自分は人間にも妖魔族にも属せない―――分かっていたはずのことを本当には分かっていなかった自分が痛かった。
『お前が余りに愚かだからだ』
自分に止めを刺さなかったマティアス卿が憎かった。

アイツは裏切り者だ。
あの時この自分に剣を向けたのがルドルフを救う為である事は明白だ、たとえどんな理由を付けようとも。
現皇帝の一族と勝るとも劣らぬ高貴な血筋の一族の出自であり、陛下の寵臣として権勢並ぶ者のないほどの権力者でありながら、なぜ・・・
自分を一思いに殺さなかったのは哀れみでもかけたつもりか・・・!

アイツには何か秘密がある。必ず尻尾を掴んで権力の座から引き摺り下ろしてやる。
そう思うと僅かに力が湧いてきた。
そう、なんとしても生き延びて俺を殺さなかったことを後悔させてやる、とりあえずこの日差しを避けなければ・・・
次の瞬間ルガニスの姿は草原から消えていた。



10


ゾーネンニーデルン
ロディウム近郊某所

ラインハルトは鬱蒼と茂る木の枝を振り払いながら駆け出して行く。
そういえばいつの間にか鳥の声が消えていた。
走るほどに血の臭いも濃くなっていくように思われる。
あの子にもしものことがあったら―――ルドルフはラインハルトの後を追いかけながらロナウドを一人で行動させたことを強く悔いていた。

しばらく走った後、ふいに突然目の前が開け、ラインハルトの脚が止まった。
何本かの木がなぎ倒され、下草が踏み荒らされている。
血痕と思われる赤黒い染みがあちこちに散っていた。
「どうやらここでひと悶着あったらしいな」
ラインハルトは血痕の一つにかが見込んで様子を伺った。

「どう、ロナウドはここにいたみたい?」
「うん、多分ロナウドはここでなにかの騒動に巻き込まれたんだと思う」
ラインハルトはそう言って踏みしだかれた草の間から何かを拾い上げた。
途中で折れた細身の剣先で、わずかながら血の跡がついていた。

「あれ、この剣・・・」
ラインハルトが手にとって示した剣先を見てルドルフはおやと思った。
「これはもしかして・・・」
「見覚えがあるのか?」

「うん、まだ話してなかったかもしれないけど、僕はひょんなことからゾーネンニーデルンの王女を助けたことがあるんだけど」
「ゾーネンニーデルンの王女?」

「ああ、側室腹の王女がおしのびでリエナシュタットの祭りに来ていたんだけど、暴漢に襲われたところを助けてやったんだ。そのとき、その暴漢が使っていたのがこんな細身の剣だったと思う・・・」

「驚いたな、そんなことがあったとは。その王女の事は知らないけど、ゾーネンニーデルンのヘンドリック王子とは一度会ったことがあるよ。穏やかで聡明な王子と言う感じで。そうだ、君の兄上のフランツ王子と雰囲気が似ているかな」

「へえ、そうなんだ」
王女様のほうは君のお妃候補の一人だったんだろう、そう聞いてみようかと思ったルドルフだが、ロナウドの事を考え思いとどまった。

「それより、もしこれがゾーネンニーデルンの王女を狙った暴漢の剣だとすると、それがどうしてこんなところに落ちているんだろう。王女がこのあたりに出没したのか?」
「サンドラが?それは考え難いけど・・・」

「サンドラ?それが王女の名前なのか?」
「ああ、正式にはアレクサンドラ。腹違いの姉君たちや兄王子ともあまり仲はよくないようだったけど」
「そうなのか?」

なぜそんなことまで知っているのか、と言いたげなラインハルトの視線に答えてルドルフは自分がこれまで彼女の旅の随員としてリヒャルト達とともに行動していたことを掻い摘んで話した。

ラインハルトはかなり驚いたがゾーネンニーデルンの王女の登場には強い興味を引かれた。
フィルデンラントの情勢が不透明な今、ゾーネンニーデルンに援軍を頼めたら、そんな思いが頭を掠める。
だが今はロナウドの探索が先だ。

ラインハルトは先程よりはかなり明瞭に感じられるロナウドの気配を追って、さらに森の奥に足を向けた。
ロナウドの気配、というよりはオーブの気配だろう。
懐にしまった赤いオーブがもう一つのオーブと引き合って進むべき方向をラインハルトに教えてくれているような気がする。

魔法で壁を作ったときそれぞれのオーブから迸り出た強い光が一つになって強い光となり、その光が自分に大きな力をくれた。
自分一人の力ではあんな壁は作れなかったと思う。
今自分たち三人が持っているオーブ、そしてもう一つ、グリスデルガルドの王城に秘蔵されていて今は妖魔族の手にある黒いオーブ―――
これらが皆揃ったらさらに大きなことが可能なのだろう。

ラインハルトはオーブに引っ張られるようにして奥へと向かって踏み出した。
遅れをとるまいとラインハルトに続こうとしたルドルフはふと目の端に何か光るものを感じて注意を引かれた。
鬱葱と覆い茂った下草の間に何か光るものが見えた。

「ラインハルト、ちょっと待って・・・!」
ルドルフはそう声を掛けるとそれが何なのか確めるために静かに近寄って行った。
細かい細工の装飾品、多分マントの留め金だろう、の欠片が草の茂みに引っ掛かっている。

「これは・・・」
ルドルフはもしかして、と思った。
サンドラを襲った暴漢がここで戦ったとしたら、その相手とはサンドラの護衛である、ダルシアたち家臣団しか有り得ない。
とすればやはりこの近辺にサンドラがいるのかもしれない。

今自分たちが追っているのは、まさか・・・
ダルシアはあの後どうなったのだろうか。
その後自分を追いかけてこなかったと言う事はリヒャルトに倒されたのだろうか。
ではそのリヒャルトは今どこに・・・。

他にも何か落ちていないかと一歩踏み出したルドルフは急に足場を失った。
「うわあっ!」
草の茂みに隠されてよく見えなかったが、その先は深い窪みになっていて急激に落ち込んでいた。

咄嗟に辺りの草を掴んで転落を食い止めようとしたルドルフだが、身体の重みを支えきれず、ズルズルと滑り落ちて行く。
「大丈夫か!」
急いで引き返したラインハルトが見下ろす顔がはるか頭上に見えた。

「ああ、僕は大丈夫だけど・・・」
黒ずくめの服装の男達が何人か折り重なるように倒れている。
まだ身体は温かかったが息は無かった。
この連中は確かにリエナシュタットでサンドラに襲い掛かってきた連中だ。

地滑りを立ててラインハルトが滑り降りてくる。
「目立たないようにと仕留めた相手をこの窪地に投げ込んだんだな。生い茂った下草で覆い隠されてパッと見には分かり辛い場所だ」
「ラインハルト、見て、この男の服」
ルドルフは男の一人の服をそっと裏返してラインハルトに示した。

「盾持つ乙女と王冠を抱く天馬―――ゾーネンニーデルンの紋章か!」
「それって・・・」
「この連中はゾーネンニーデルンの国軍の兵士、いや、多分正規の軍人ではないだろうから、それに準じる者達だという事だろう。この服が誰か別の者から奪ったのでないとするならの話だが」

「でもそうするとサンドラを襲わせたのは・・・」
「まさか父王ではないだろうから、執政のヘンドリック王子か王子に近い者ということになるんだろうな」
「!」

「こいつ等はみな丸腰だ。身分を証明するようなものは皆持ち去られたんだろう、ただあまり時間がなかったので服まで脱がせる時間はなかったんだろうな。さっきの剣先も見落としていったようだし」
「時間が?それは―――」

「推測だが、ロナウドがこの場面に出くわした、そしてさらに僕等が近付いてくる気配を感じたんだろう。連中はいそいでロナウドを拉致し、この場を立ち去った」
「でも、ロナウドは子供だし、口封じなら拉致するより・・・」
いやな言葉だと思いつつ口にしたルドルフの言葉をラインハルトは激しく遮った。
「あの子は無事だ、多分。何故なら・・・」

そうか、とルドルフも合点する。
ロナウドはオーブを持っている。
こんな場所に聖ロドニウス教会の少年僧がいるのも奇妙だが、その僧が聖石を持っているとなれば・・・

聖石の価値を少しでも見聞きしている者ならその聖石がなぜこの子供の手に入ったのかその経緯を知りたいと思うはずだ。
殺してしまっては何も聞き出せない―――

「そうだね、ロナウドは無事だ、いそいで助け出そう!」
ルドルフは勤めて明るくそう声をかけた。
ラインハルトの顔に浮かんだ苦渋に満ちた表情が、彼があの子をどれだけ大切に思っているかを物語っている。
無言で頷いたラインハルトはルドルフの手をとり、崖上へと移動した。

オーブに導かれるままにしばらく進んだが、森はまだまだ深く先が見えずにいた。
ゾーネンニーデルンにこんな深い森があったろうか・・・、ラインハルトはロナウドに借りてもらった地図を思い起こしていた。
かなり大きな部分が塗りつぶされていたから分からなかっただけかもしれないが・・・。

「ラインハルト、気付いてる?さっきから鳥の声がしないし、風も全く吹いていない」
ルドルフにそう声をかけられラインハルトはハっとした。
「僕があの聖地に引き込まれたときもこんな感じだった」
そうか、結界だ!
我等はすでに結界のうち、ならば―――

ラインハルトは目を軽く瞑ると、鬱蒼と茂った森を通してほとんど見えなくなっている青空を見上るように顔を上げた。
すると自然に木の枝が左右に分かれ辺りが明るくなる。
ルドルフの驚きの声に静かに目を開けたラインハルトの前に鄙びた村里の風景が広がって見えた。



11


ゾーネンニーデルン
ロディウム近郊某所

そのころ二人の後ろをかなり遅れていかにもちぐはぐな二人連れが同じ道を進んでいた。
「まだ進むんですか、旦那。こんな森の奥にいったい何があるっていうんで・・・?」
「テオドール、黙っていろと言ったろう!」
「へい、旦那様」
テオドールは慌てて口を押さえると音を立てないように注意しながら、遠くを見晴るかすような眼差しで道なき道を踏み分けながら進んでいく主人の後に従った。

昨晩、ダルシアという胡散臭い若造と渡り合う主人を残し、テオドールはルドルフとともに北東の村を目指して馬を馳せていた、はずだった。
ところがいつの間にかすぐ傍を併走していたはずのルドルフの姿は闇に飲み込まれたように掻き消えてしまっていた。
目を離したのはものの数秒でもなかった筈なのに。

いくら大声で呼んでみても返事はなく、ルドルフの駆る馬の蹄の音さえも聞こえなかった。
夜が明けるまで懸命にあたりを探し回っていたテオドールだが成果はなく、リヒャルトと分かれた地点まで戻ろうにも夜の闇は益々濃く、これでは迂闊に動き回らぬほうが懸命と、とりあえず木立の影に身を潜めて仮眠をとることにした。

それでも身体をなぶるように吹きすぎていく風は妙に肌寒く、得体に知れぬ不気味さを感じさせ、テオドールはろくにまどろむ事はできなかった。
やっと明け方と思われる頃、激しい地響きが起こり、不気味な地鳴りとともにしばらく続いたかと思うと、南方から大きな火柱が立ち上がった。
天まで届くかと思われた火柱が収まった後は黒々とした煙が暁の空を覆わんばかりに広がっていく。

「これはもしかして昔話に聞いた火山の噴火ってやつか・・・」
地面はまだ小刻みに揺れているが、その揺れはだんだんに収まってきているようだ。
一方で黒い噴煙はさらに勢いを増して噴出しているようだった。
その様子にグリスデルガルドの上空を覆っていた黒雲を思い出したテオドールはなんともいえない嫌な気分に陥った。
不気味な凶鳥の声が今にも聞こえてきそうではないか・・・

何が起こっているのかよく分からないながらも立ち上る噴煙から目を逸らせないでいると、その少し後、ふたたび天を突くような光の柱が立ち上るのが目に映った。
眩いばかりの清浄さを感じさせる白く輝く美しい光が一筋真っ直ぐ天空へと上っていく。
「あれは・・・」

「聖石の光だ。とうとう動き出してしまったか・・・」
テオドールの呟きに別の声が背後から答えた。
「リヒャルト様!ご無事で・・・」
南の空に心を奪われて気付かなかったものか、いつの間にか主のリヒャルトがすぐ後ろに立っていた。

服はあちこち破れているが見た所怪我などはしていないようだ、だが、その顔色は普段よりずっと青ざめ、陰鬱な感じに見えた。
「まあ、まったくの無傷と言うわけにも行かなかったが、私にとってはどうということはない」

「はあ、で、あのいけ好かないダルシアって野郎のほうは・・・」
「止めはさせなかったが手ごたえはあった。あと一息というところで仲間の連中に連れ去られたので、死んだかどうかは分からないが」
「へえ・・・」

いつになく顔色が悪いのは人を手にかけた悔恨なのか。
テオドールはリヒャルトがこれまで身を守るためにしか剣を抜かなかったことを思い出していた。
そんな場合でも相手が向かってこれないように手や脚を少々傷付けるだけで、酷い怪我を負わせることもなかったことを。

「リヒャルト様、あのダルシアってのは何者なんです・・・?」
リヒャルトはダルシアの命を絶つつもりだったのだと知ってテオドールは思わず訊ねていた。
あの男を葬り去らねばならないほどのどんな理由がこの主人にあったのだろうか、と思えたからだった。
ルドルフを逃がす為だけなら、何も命まで奪うこともないだろうに―――

「あれは、妖魔族と人間との間に生まれた一族の裔だ。仲間の連中もな。だが他の奴等と違ってあの男の野心は大きすぎる。ルドルフ様がひっそりと生きていくにはやがて大きな障害となるだろう。早いうちに除いたほうが賢明だと思ったのだが・・・」
リヒャルトはそういうと軽く馬を駆らせた。

テオドールも慌てて後に従う。
「旦那、どちらへ?」
「あの光のところだ。あれは聖石の光、そして魔法の光だ。きっとあの場所にルドルフ様がいるはず、そして多分ラインハルト王子も」
「ラインハルト王子が?そりゃあまた神出鬼没なことで・・・」

「王子がオーブの力で我らの目の前から消えたこと、忘れたわけではないだろうが」
「あっ、そうでしたね!あの時、ラインハルト様はルドルフ様と一瞬にして姿を消され、そしてルドルフ様だけがあの妖魔族の何とか卿と一緒にまた姿を現したんでした」
「急げば昼過ぎには追いつけるかもしれない・・・」

二人はそのまましばらく馬を走らせたが、急にリヒャルトが方向を変えたので、テオドールはバランスを崩しもう少しで落馬しそうになってしまった。
「どうなさったんです、旦那。急に・・・」

やっとのことで追いついたテオドールにリヒャルトは
「あのまま行っても先には進めないことが分かったのだ。遠回りだが一旦海岸に出てそれからロディウムの背後の森に回りこもう。街中も変な連中がウロウロしているようだ、厄介ごとに巻き込まれたくない」
と早口で告げた。

「変な連中・・・ですか?」
あのダルシアとその仲間以上に変な連中などいるのだろうか、と思いながらテオドールも後は無言で主の後に従って馬を駆け続けた。
リヒャルトの言葉に従い海岸沿いからロディウムの街を回りこむようにして背後の森林地帯に入った。
馬は森の手前で離し、それからは鬱蒼と茂った森の中をひたすら獣道を辿りながら歩き続けているのだった。

街は朝の噴火騒ぎの余波でまだ騒然としているようだった。
確かにこの騒ぎに乗じて物盗りなどが横行しても不思議ではないだろう。
テオドールがリヒャルトにそう話しかけると、リヒャルトは静かに頷いた。

この遥か前方を駆けているのはルドルフとラインハルト。
二人とも多少怪我をしているようだが命に別状はなさそうでひとまずほっとする。
だが彼等が追っている者達、そしてその連中が目指している場所を思うとリヒャルトは暗澹たる気分にならざるを得ない。

結界を張った上にさらに眼晦ましのため、連中は進む方向を幾度も変え足取りを隠そうとしているようだ。
普通の人間ならここまでするには及ばない、彼等が警戒しているのはルドルフ、ラインハルトの両名だけではあるまい。
かつて辿った道を今一度辿るのも自分に与えられた運命なのだろうか、リヒャルトは腰の剣に軽く手を触れた。





11


フィルデンラント
ドライシス公爵帝

雷雨を予感させる雲が急速に空を覆った為か、日差しが翳ったのが厚手のカーテンを通しても感じられアルベルトは静かに窓のほうを見遣った。
立ち上がって窓を閉めに行くべきか、いや、雨が本格的になってからでも・・・
そう思ったとき天空を貫いて電光が走った。
続いて起きる激しい轟きの声―――

「雷か、この時期雷鳴を伴う驟雨の振る地方といえば・・・」
そんな呟きを漏らしたとき、アルベルトはカーテンの襞の陰が濃くなっているような気がした。

目の錯覚か、と思ったがそうではない。
影は次第に濃さを増し、だんだんと人の形を取り始めた。
「お前は、妖魔族か!?」
思わず気色ばって大声を上げたとたん頭が激しく痛んでアルベルトはベッドの上に倒れ込んだ。

「私の気配を窺っていたのはお前か、聖ロドニウス教会の僧侶よ」
薄闇の中で紫色の目だけが怪しく輝いている。
「私は気配を窺ってなどいない。お前こそ・・・!」

相手の目が雷電の様に一線下と思った瞬間、アルベルトは何かに激しく顔を殴られたような衝撃を受け、思わず呻き声を上げた。
「下賤の者にお前呼ばわりされるいわれはない。今後無礼なことを申すと容赦せぬぞ」
額に当てた手を伝って暖かいものが滴り落ちる。

黙って睨み返すアルベルトに相手は少し目を細め、様子を伺うように眺めていたが、
「聖ロドニウス教会か・・・。そなたは若いがかなり高位の僧のようだな」
「・・・」

「そなたの師はヘルマンの弟子オルランド。出身はノルドファフスブルク。故郷には両親と弟妹がいて弟は教員、妹は・・・」
「よせ!私の心を読むな!!」
「あまり喚くな、出血が増えるだけだぞ」
相手は薄笑いを浮かべて見下ろしている。

「なぜ、私をこんなところに留め置くのだ、殺したければ早く殺すがいい!教会の秘密など私は知らない。知らぬ事は答えようがない!!」
ゆっくりと近付いてきた男は思いがけない力で額に当てたアルベルトの手を押しのけるとかわりに自らの手を傷に押し当てた。

「おい、何を・・・!」
あっと言う間に痛みは引き出血は止まっていた。
「僧アルベルト、そなたは知らぬだけ、いや、覚えていないだけだ。そなたの頭脳に刻まれた数々の秘蹟を」
「え?」

「なるほど、ニコラスに読み取るのは難しかろう。この私でも全てを短時間で読みきるのは難しい。さて・・・」
アルベルトの額からゆっくりと手を離した男は優雅に身体を翻す。
窓の外からは激しい驟雨の音に混じって幾分遠ざかった雷鳴が響いてきた。

「この雨はすぐに止むな。私に与えられた僥倖は短い。ならば」
怪訝そうにみつめるアルベルトに流し目をくれながら男は嫣然と微笑んだ。
「そなたはあの御仁に預けるのが一番だろうな」

男の言っていることが全く理解できず、アルベルトは呆然と相手を見上げている。
「あの御仁?」
「そなたは何も考える必要はない。その頭脳を最大限に役立たせられるところに連れて行ってやろうと言っているのだからな」
「!」

相手の差し出す手を強く叩いてアルベルトは叫んだ。
「私はどこにも行かない、私は・・・!」
相手の目が再び怪しく光り、アルベルトの意識は混濁していく。
「そなたの意向など斟酌無用。再び目覚めたとき、そなたは自分がどこの誰か覚えていないだろうからな・・・」

見えない手に頭を鷲掴みされているような痛みに必死で耐えながらアルベルトは記憶を手放すまいと懸命に戦っていた。
忘れてはいけない、自分の帰りを待つ人々を、そして故郷の家族を・・・