ゾーネンニーデルン ロディウムの隠れ里 石畳の細い道が村の中心へと向かって続いている。 粗末な農家風の家がほぼ等間隔で並んでいる中を、ルドルフとラインハルトは周囲に充分すぎるほど気を配りながら進んで行った。 森林特有の清々しい空気のにおいがする。 時折木立を揺るがして飛び去る鳥たちの鳴き声が長く尾を引いて響き渡るほかはほとんど静寂そのものだ。 この集落には人の気配は全く感じられなかった。 「ここは廃村なんだろうか」 ルドルフが小声で尋ねる。 普通の声を出すと今の状況では村中に響き渡ってしまいそうだ。 「いや、家の周辺は掃除や手入れが行き届いているようだ。普段は人が生活しているのだろう。多分今はどこかに・・・」 ふいに一陣の風が巻き起こり、二人の目の前に黒い影が現れた。 「さても困った御仁たちだ。我らが用心に用心を重ね、この場所への他者の侵入を防ぐべく骨折っているとのいうのに、あなた方はいとも簡単に結界に穴を開けてしまわれた。これ以上他者の侵入は許すわけにはいかぬ、それが里長の強い意志で御座いますれば・・・」 影はすぐに黒いローブにマントを羽織った年配の男の姿に変わる。 二人ともフードを目深に被っているため顔立ちは全く分からなかった。 男は大きく両手を上げるとすぐに胸の前で組み合わせ口の中で何事か唱え始めた。 ルドルフとラインハルトはその様子を無言でじっと見守った。 「結界を張りなおしたのか?だがその程度のものでは・・・」 「心配はご無用、二重三重の結界を張りますれば」 振り向くといつの間にかさらに数人の男がすぐ後ろに立っていた。 全く気配を感じなかったことに驚きを覚え、ルドルフとラインハルトは思わず身構えた。 「お二方はフィルデンラントのラインハルト様とグリスデルガルドのルドルフ様とお見受けいたしますが」 首領格と思われる男が一歩進み出て言った。 「いかにも私はフィルデンラントのラインハルト、こちらはグリスデルガルドのルドルフ殿だが、そなたたちは何者であるか?」 ラインハルトはわざと尊大な雰囲気を醸し出しながらそう名乗った。 いまさら身分を偽ってもこの連中には無駄というものだろう、ならばこのパンゲアの地に君臨する八聖国の王族であることをはっきり認識させたほうが得策、そう思ったのだった。 相手はそれに怯む事無く答える。 「我等はこの里の守り人にございます。いにしえより、さるお方の命によりこの里を護って参った者達にございます」 「さるお方とは・・・?」 「人の世でだれよりも尊ばれている方、ただ一人の神エリオル様でございます」 「!!」 男の言葉にラインハルトは言葉を失った。 傍にいたルドルフも同様である。 と男はほんの一瞬だがなんともなつかしそうな視線をルドルフに向けたのだった。 「詳しいことは我等が里長よりじきじきにお話申し上げる事でしょう。どうぞ私についていらしてください」 先ほどの男より少し後方に控えていたもう一人の人物がそう声をかけた。 顔の半分を覆った黒いフードのせいで気付かなかったが、その声は女性のものだ。 ラインハルトとルドルフはしばし顔を見合わせたが、その女性が促すように頷くのを見てともに一歩を踏み出した。 「あの、あなた方は本当にエリオルの・・・」 ラインハルトが躊躇いがちに女性に声をかけたが、相手はただ軽く頷いただけで返事はなかった。 「待ってくれ、我々は連れの行方を追ってここまでやってきたのだ、ロナウドと言う少年僧がこの地へ来た筈だ。恐らくは己の意志ではなく、何者かによって有無を言わせず・・・」 「その方のこともすべて里長よりお話があることでございましょう」 女性はそういうとくるりと背を向けて歩き出した。 何を聞いても里長が答えるという返事しか返ってこないだろう、そう諦めた二人は導かれるままに細い石畳の道を辿って女性の後についていくことにした。 どうやら里長なる人物に会わないことには先に進めないようだ。 道は所々で他の似たような道と交差したり、枝分かれしたりを繰り返しながら集落の奥へと続いて行った。 進むにつれて民家の数は増え、密集度も増してくるようだ。 一軒一軒の建物も石造りの豪壮なものが増えてきた。 やがて道は次第に幅を増し、唐突に開けた場所が現れた。 どうやら村の広場になっているようだ。 中央部には小規模だが円形の噴水が有った。 「噴水、水路・・・」 ルドルフはふと、クラウディアの伯母の住む小村の郊外で見た遺跡の事を思い出した。 「どこかから水を引いて来ているらしいな。だが一体どこから・・・」 ラインハルトはあたりを見回したが水路らしきものは見当たらない。 「里のずっと奥に岩の間から清水が湧き出ています。その清水の水を地下水路を使ってここまで引いているのですよ」 女性が振り向いて静かに説明してくれた。 「地下水路・・・」 「不思議だな、この風景、なんだか懐かしいような気がする」 ルドルフはそう言って噴水を囲んでいる石組みにそっと手を触れた。 「お二人とも、どうぞこちらへ・・・」 女性は噴水のさらに奥へと向かう道に二人を導いた。 広場から再び通路へと向かおうとした時、バラバラと数人の男達が近くの家の陰から姿を現しルドルフ達を取り囲んだ。 「君達は・・・」 男達の顔には見覚えがある。 サンドラと行動をともにしていた間、幾度かダルシアと連絡を取り合っている様子を目にしたことがあった。 ただ彼らの行動は隠密裏に行われることが多いようで、その機会はあまり多くはなかったが。 「ルドルフ様、なぜ突然姿を隠そうとされたのです。おかげで我等は散々な目に合いましたぞ」 男達の一人が一歩前に踏み出す。 ラインハルトはルドルフを庇うように二人の間に割って入った。 「何者か知らぬが我が友人に無礼な真似は許さんぞ」 男はラインハルトの顔をちらりと見るとすぐに目を伏せ、静かに呟いた。 「・・・何も知らぬくせに・・・」 それを遮るようにして別の男が前に進み出てラインハルトに対し臣下の礼をとった。 「恐れながらフィルデンラントのラインハルト様とお見受けいたします。我が同胞の無礼は何卒ご容赦くださいませ、と言いますのも我等にもまた幾多の事情が御座いまして、それがついルドルフ様への苦言となってしまったものでございます」 「そなたたちにどのような事情があるのかは知らないが・・・」 ラインハルトに皆まで言わせず、案内役の女性が男を一喝する。 「貴方たちは許可なく我が里の結界を開き、外部の面倒をこの里に持ち込んだ。それでも長様は貴方たちを咎める事無く迎え入れたというのに、貴方たちはこの里の中でまで揉め事を起こそうというのですか!」 「いや、我等は・・・」 「これ以上面倒を引き起こすようなら長様の判断を仰ぐまでも無く私の権限で貴方たちに即刻退去を命じますよ。貴方たちの連れてこられた厄介なお客人も連れ帰っていただきます」 「申し訳御座いません、ジネヴラ様」 その取り付く島のない厳格な物言いに男達は一様に俯きあとずさる。 「思わぬ邪魔が入りましたが、どうぞこちらへ」 ジネヴラに促され再び歩き出そうとしたルドルフに最初の男が声をかけた。 「ルドルフ様!一言だけお聞き下さい。ダルシアは命を落とすやもしれません」 「えっ・・・」 ルドルフは驚いて振り向いた。 「貴女の探索から戻ったときダルシアはかなりの深手を負っていた、その状態でサンドラ様が襲われたのです。火山の噴火騒ぎの最中で、警備が手薄になったところを襲われて・・・」 他の連中に押さえつけられながら男はそこまで言って地面に押さえつけられた。 思いがけず大きな声が漏れたところを見ると男も怪我を負っているようだ。 かすかに血の臭いが漂っていた。 おそらくは他の連中も同様だろう。 火山の噴火の影響はソラリス男爵邸のあたりまであったのだろうか。 ルドルフたちが騒ぎを起こして姿を消し、その探探索にダルシアが向かった間にサンドラが襲われた――― ルドルフが行動を共にするようになってからは表立って騒ぎも起きていなかったので油断していたが、サンドラを狙っている連中はじっと息を潜めてこちらの隙を窺い続けていたのだろう。 にしてもこうもタイミングよく襲って来られるのは、味方の中にスパイがいるのでは・・・ルドルフはそう思いつつラインハルトとともにジネヴラの後について段々道幅が広くなっていく石畳の上を歩いて行った。 すでに人家が絶えた向こうに、他の建物とは明らかにつくりの違う大きな建物がその姿を現している。 「ここは神殿ですか?」 ルドルフが静かに問いかけると、ジネヴラはゆっくりと頷いた。 「神殿であり、我等が里長の住居です。里長は神に仕える巫女ですから」 石造りの階段を数段上ったところに重厚な扉が見えている。 「巫女・・・」 女性が扉に手を触れると、扉はギイという軋み音を発しながら内側へと開いた。 |
ゾーネンニーデルン ロディウムの隠れ里 内部はひろいホールになっていて、両脇に細い階段が上階へと伸びている。 女性はホールを真っ直ぐに横切って』奥に通じる通路へと二人を案内して行った。 廊下をしばらく渡ったところでまた広々とした部屋に出た。 中央奥の一段高くなった場所に玉座が置かれ、その周りには数人の男女が控えていて皆一様にこちらをみつめている。 いや、みつめているのはルドルフの顔だ・・・そう気付いたラインハルトはそっとルドルフを振り返る。 友人はどこかぼんやりとした面持ちで部屋の様子を見回していた。 「僕はこの部屋を知っている・・・そんな気がする。なぜだろう、僕はゾーネンニーデルンに、いやパンゲア大陸にすら来た事はないはずなのに」 「ジネヴラ様、そのお方が・・・」 中の一人に声をかけられジネヴラは徐に頷くと静かにフードを外し羽織っていたマントを脱いで相手に渡した。 長い黒髪の巻き毛がこぼれるように肩から背中へと流れ落ちる。 その髪が縁取っているのは藍色の瞳の若く美しいが意志の強そうな顔、その面立ちがラインハルトはどこかルドルフに似ているように感じられた。 「もしかして貴女がこの里の長なのですか?」 その全身から発せられる気品と風格にラインハルトはそう問いかけたままじっと相手をみつめた。 貴女は、いや、貴女方は大変に強い力をお持ちのようだが、もしかして・・・妖魔族、あるいは妖魔族とかかわりのある方なのですか――― 若く美しい女性を前に気後れを感じたラインハルトは、そのあまりに直截すぎる言葉を口にする事はできなかった。 いくらなんでも不躾すぎる。 そんなラインハルトの心を読み取ったようにジネヴラは、 「私は長ではありませんが、長に最も近い者とお考え頂いて結構です。長は私の祖母にあたりますので」と優しい口調で言った。 「そうだったのですか」 「祖母は自室で休んでおります。最近はめっきり身体が弱ってしまって滅多に人前に姿を見せる事はありませんが、貴方方は特別ですから」 そう言ってジネヴラは二人についてくるように合図すると、部屋の横手にある通路へと歩を進めた。 「ジネヴラ様」 周囲に控えていた中で一番高位にありそうな女性が付き従おうとするのを目で止めるとジネヴラはりんとした声で言った。 「大丈夫、お客様方をお祖母様のお部屋にご案内するだけです。大分お待ちかねでしたからヤキモキしていらっしゃるでしょう。私一人で充分事足りますからお前たちは自分の仕事にお戻りなさい」 「はい、ジネヴラ様」 女性が答え、他の者達は一様に頭を下げジネヴラを見送る。 ルドルフとラインハルトは戸惑いながらもジネヴラの後に従い、狭く簡素な作りながらも静謐な空気の漂う通路を導かれるままに進んで行った。 「あの、失礼ですが、我等は少年を探していまして・・・」 ラインハルトが躊躇いがちに声をかける。 「ええ、存じておりますよ。その方はご無事でいらっしゃいます。ただとてもお疲れの御様子だったので今は眠っていただいております。もうお一人の方も」 「もう一人?」 ラインハルトにはピンと来ないようだが、そのもう一人と言うのがさきほどジネヴラの言っていた厄介なお客人、つまりサンドラのことだろうとルドルフは見当をつけた。 ジネヴラは通路の突き当たりの壁にそっと手を当てた。 壁の一部が音もなく横滑りに動く。 その向こうに先ほどの広間よりは手狭ながら居心地の良さそうな居間が広がり、高齢と思われる女性が大きめのソファにゆったりと腰掛けているのが見えた。 上半身は背凭れにぐったりともたせて居る所を見ると、ひどく疲れているようだが、客人の到着を知ってゆっくりと顔を上げた。 「お客様方は無事ご到着のようだね、ジネヴラ」 女性が半身を起こそうとするのを見てジネヴラが駆け寄り手を添えた。 「はい、お祖母様。お言葉どおりの時間と場所でした」 「座ったままでお話することをお許しくださいませ、神の末裔たる君」 年配の女性はそう言って手をラインハルトに差し出す。 ラインハルトが片膝をつきその手にそっと口付けた後静かに立ち上がると、 「そうしてもうお一人の高貴なる方・・・」 と女性は今度はルドルフに親しげな微笑を向けてきた。 顔には深い皺が刻まれ、髪は半分以上が白髪に変わっているが元は美しい黒髪だったのだろうと思われる、そしてその瞳は綺麗な藍色だった。 「貴女がこの里の長なのですか。私達は連れの者を追ってここまで辿り着いただけで、できれば彼を連れてすぐにもお暇したいと思っているのですが・・・」 ラインハルトが立ったまま話し始めると老女はソファに腰を下ろすように促し、徐に語り始めた。 「私はモレナと申します。もう随分と前になりますが、この里の長の地位を母より継承しいたしました。私の母はまた祖母からそして祖母もまたその母親からというように、里長の地位は母系の女性のみに受け継がれるのです。私の娘は早くに亡くなりましたのでこの孫に地位を譲ることになりそうです」 モレナはそう言ってジネヴラを見て静かに笑った。 「貴方がたのお探しの方は思いがけずこの里に連れてこられてしまったようですね。大丈夫、怪我もなくお元気でいらっしゃいますが、随分お疲れのようだったので疲れをとるよう眠っていただいております。目が覚めるにはもう少し間があるでしょうから、その間この年寄りに外の世界の事を少しばかり聞かせて下さいませぬか。貴方がたのほうでもお聞きになりたいことがおありでしょう?」 モレナの顔には穏やかな微笑が浮かんでいたがその口調はどこか逆らいがたいものがあり、ラインハルトとルドルフは戸惑いながらも向かいのソファに腰を下ろすとこれまでの経緯を掻い摘んで語って聞かせることになった。 話の間所々で大きく頷いたり相槌を入れたりする様子からモレナが大方の出来事は分かっているようであったが、それでもラインハルトがオーブに導かれた不思議な空間を通って妖魔族と遭遇した話は初耳だったようで、そのときばかりはポーカーフェイスが一瞬だが崩れたことが、その驚きを物語っていた。 またルドルフが旅の騎士リヒャルトとサンドラ王女の従者であるダルシアとが戦いを交えることになったくだりを語った時には、わずかだが眉を顰めため息を漏らした。 「そう、妖魔族の動きがこのところ慌しくなっているのは感じていましたが・・・。色々なことがおありだったのですね」 ジネヴラは部屋の奥へ入って飲み物の用意をしていたが、話が一段落したのを見て、グラスに入れた薄桃色の飲み物を盆に載せて運んできてくれた。 「お口に合うか分かりませんが」 と言ってそれぞれに飲み物を勧めると、最後の一つを自身で取って祖母の傍らに腰掛けた。 長モレナはグラスに注がれた飲み物をほんの少し口に含んで飲み込み、静かに言葉を続ける。 「お二方とももうお気づきでしょうが、この世には人と妖魔族と両方の血を引きながらそのどちらにも受け入れられない者達がわずかながらおります。そもそもこの里はそう言った者達が肩寄せ合って生きていく為に開いた隠れ里でございました。そしてこの里の存在を知ったエリオル様が妖魔族からの保護と引き換えに私どもの先祖にある宝物を人知れず護り続けていくことを託したのです。 この里には今も行き場の無い者達が流れ着いてまいります。また里から出ていずこともなく姿を消してしまうものも大勢います。去るものは追わず、来るものは拒まず、そうやってこの里はひっそりと使命を果たし続けてきたのです」 「では、やはりダルシアは妖魔族の血を引く者だったのですね。あの超人的な力はもしかして、と思っていました。彼は随分ひどい怪我を負ってしまったようですが」 「ええ、あれは数代前からこの里に住み付いた者でしてね。ゾーネンニーデルンの国王から王女の護衛を手配して欲しいとの依頼を受けた時、自ら志願して血気にはやって里を出て行った者達の一人です。結局このような結果になるのではと危惧しておりましたが・・・。今回は相手が悪かったようですね、ハルレンディアの騎士リヒャルトと分かっていて立ち向かうとは向こう見ずなことを」 「すみません、僕のせいですね・・・」 グラスを手にしたまま俯いたルドルフの頬を優しい手がそっと撫でた。 「貴女様がお気になさる事は全くないのですよ、もう大分回復していることですし、あの者は己の勝手な野心と思い込みで貴女様を利用しようとした、リヒャルト様はそれを見過ごしにはできなかったのでしょう。あの方はとても律儀な方ですから」 「モレナ様はリヒャルト殿をご存知なのですね?」 ラインハルトはさほど驚きもせずにそう訊ねた。 リヒャルトは常人とは違う時間の流れを生き、大陸中を旅して歩いたのだと言っていた。 彼なら当然この里のことも知っていただろう。 「ええ、前に一度ここを訪れたことがございます。あの方は竜を守護神とする光の一族の最後の一人、まあ、あの方にも人間の血がかなり混じっていますけど、あとはそう・・・」 モレナは今度はじっとラインハルトの目を見つめながら続けた。 「貴方様もまた光の一族の末裔でしたね」 その言葉にラインハルトは困ったような微笑を浮かべたまま返事ができずにいた。 自分の髪と目、それは遠い先祖フィルドクリフトが神と呼ばれたエリオルの血を確かに引いていた証拠―――そしてまたそれはフィルドクリフトが紛れもなく父親殺しの重罪人である証でもある。 あつてあれほど誇らしく感じられたことが、今は重い呪縛となってラインハルトの心を締め付け苦しめていた。 そんなラインハルトの様子にどことなくいつもと違う感じを抱いたルドルフだが今はリヒャルトのことも気にかかっていた。 「あの、リヒャルト殿はご無事なのでしょうか。ダルシアがそんな怪我をしているのならば・・・」 「大丈夫、あの方はたいそうお元気ですよ、そして今もこの里を目指して森の中を進んでおられます」 「リヒャルト殿がこの里へ向かっているのですか!?」 「ええ、よほど貴女のことを気に掛けていらっしゃるのでしょうね。あの方に里の結界は役に立たないでしょう。ご到着を待ってオドネルたちに新しい結界を張りなおしてもらわねばなりませんね」 モレナの言葉にジネヴラは静かにグラスを置くとすっと部屋を出て行った。 「モレナ様は先ほど国王から依頼を受け、と仰いましたが、ではゾーネンニーデルンの国王はこの里の存在を知っているのですか?」 「はい、一応。皇帝とゾーネンニーデルンの国王、そして聖ロドニウス教会の総院長は代々この里の事を伝え聞いて知っております。少なくともゾーネンニーデルンの国王とは年に一度連絡を取るようにしております。この国に戦が起これば我等も全く無傷と言うわけにも行かなくなりましょうから」 「では妖魔族は・・・やはりこの里の存在を?」 「恐らくこの里や我らの存在に気付いてはいたでしょうね。でもあの秘密の神殿のことは絶対に知られないはずでした。この地はエリオル様の祝福を受けた地、今でもエリオル様の残した結界は生きているのです。このすぐ近くにある彼らの聖地、その地下にもう一つ神殿があるなどと言う事は夢にも思わなかったと思います。ただ、今はそれを知られてしまいましたから・・・」 モレナはそこまで言うと居住まいを正し、改まった口調で再び話し始めた。 「私の祖先がエリオル様から託された大切な宝物が何だったかもうお分かりでしょう。秘密の神殿とそこに収められた聖石―――その聖石はすでに貴女がお持ちになっておられますね」 ルドルフは背嚢を背から下ろして胸に抱え、青いオーブを取り出した。 「モレナ様、ではこの石は貴女にお返しすべきものなのでしょうね」 「いえ、貴女様の手に入ったのはこの石の運命というものでしょう。どうかそのままお持ち下さい」 「でも・・・」 「今ここで返していただいても石はいずれ再び貴女の元へ戻るでしょう。どのような経路を辿ったとしても。ですから貴女がご自分でお持ちになるのが一番よろしいのです」 モレナは静かにだが力強くルドルフの手を握りながらそう言った。 自分はお祖母様を知らないが、もしかしたらこんな感じの方だったのだろうかと思いつつその笑顔を見つめるうちになぜかルドルフは視界が霞み意識が朦朧としてくるのを感じた。 あっと思ったときにはルドルフの身体はがっくりと崩れ落ちていた。 「ルドルフ!どうしたんだ!!」 驚き立ち上がったラインハルトにモレナは相変わらず穏やかな微笑を浮かべて言う。 「この方をしばらく眠らせてあげましょう。たいそうお疲れのご様子です。その間に・・・」 不意に先ほどの壁が開きローブ姿の男が現れると、ルドルフの身体を抱き上げ奥の部屋へ連れて行った。 後を追おうとするラインハルトを片手を上げて制したモレナは、今度はラインハルトの目をじっと見つめて言葉を続けた。 「貴方様に聞いていただきたいことがあります。このお話はあの方はお聞きにならないほうがいいでしょうから・・・」 |
ゾーネンニーデルン ロディウムの隠れ里 穏やかな中にも決然としたその口調に気圧されラインハルトはもう一度腰を下ろすとモレナに問いかけた。 「お話とは一体どんなことでしょう」 ルドルフを奥の寝室に寝かせたのだろう、先ほどの男が戻って来てモレナに一礼すると 再び音もなく開いた壁の向こうに姿を消してしまった。 「はい、先ほどお話したように私もまた貴方方が妖魔族と呼んでいる一族の血が流れています。妖魔族―――プレヴィア・ロム・アデリアはそもそも闇の中で生きる一族。強い光の中では命を保つ事はできません。その妖魔族は守護神とする神によって幾つかの部族に分かれていましたが、そのうちのいくつかの部族から光の中でも生きていける者達が少しずつですが現れるようになりました。それが光の一族です。 そもそもこの地に差し込む太陽の光はさほど強いものではなかったこともあり、それに順応できる者達が少数ながら出てきたと言う事なのでしょう。 妖魔族は空を翔ける竜や大地を這う大いなる蛇、そして宝玉を頂く亀、夜空に輝く月や星などをそれぞれの守護神として部族に別れて暮らしていました。 ですが光の一族は初めから個体数も非常に少なかったため、結局は部族をこえて結束するしかなかったのです。 それでも守護する神は各人の信仰として尊重され続けましたが。 リヒャルト様は竜の一族の末裔、そしてエリオル様もまた竜を守護神といただく一族の出身でした。 光の一族は闇の一族とはその活動に時間を昼と夜とに分かち合っていたため、しばらくは平穏な時代が過ぎていきました。 でも闇の一族が蛇の一族の長である征服王アルゴンのもと統一されると彼等は光の一族の迫害を始めたのです。 光の一族は異端、許すべからざる存在―――と。 長い闘争の末一族の滅亡が近いことを悟ったエリオルは、誰もが思ってもみなかった行動に出ました。 闇の一族に隷属して細々と生きていくよりは、弱小の生き物とされていた人間とともに生きることに決めたのです。 妖魔族は圧倒的な力を以って人間たちに襲いかかってくるだろう、その彼らの力をそぐ為にはこの大地に降り注ぐ光はあまりにも少なかった。 だからエリオルは禁じられた大いなる力を使うことにしたのです」 「禁じられた大いなる力?」 モレナの言葉を激しい驚きをもって聞いていたラインハルトは息を呑んで呟いた。 「我等の一族には力を持った巫女が数代に一人現れるのです。その巫女は聖少女と呼ばれ、五つの聖石の力を引き出し、大いなる力を振るうことができると言われていました」 「聖少女・・・?」 その言葉は確かに聞き覚えがある。 あれは、そうルドルフが言っていたのだ、アルトシュレーゼン近くの山中の峠で出くわした黒い霧の塊の様なものがルドルフの事をそう呼んだと――― 「モレナ様、ルドルフはこの場所がなぜかなつかしいような気持ちがすると言っていました。もしかしてルドルフはここに来たことがあるのでは?」 勢い込むラインハルトにモレナは変わらぬ静かな微笑を浮かべながらゆっくりと首を横に振った。 「いいえ、あの方はここに来た事はありません。ただ・・・」 「ただ・・・?」 「貴方には聞いておいていただいたほうがいいでしょう。我が祖先がエリオルより託されたものは先ほど申し上げた聖地と聖石だけではなかったのです。その二つを合わせたよりももっと大切なもの、エリオルが真に託したもっとも大切なものを私たちは護りきることができませんでした」 「モレナ様・・・」 相手の言葉がルドルフとどう繋がるのかかすかに悪い予感を抱きながらラインハルトは先を促した。 「竜を守護神とする一族は妖魔族の中でも最も古い血を引く一族と言われています。現在の皇帝のセドリックはアルゴンの子孫、蛇の一族に当たりますが、その蛇の一族よりも高貴な血族として特別に扱われているのです」 「セドリックと言うのは皇帝なのですか!?」 ラインハルトの驚きの声には取り合わずモレナは淡々と語り続ける。 「一族の長の家系の者は竜の血を引いていると言われていて、その証拠に長の一族の方々はみな竜眼と呼ばれる七色に色の変わる不思議な瞳を持って生まれてくるからなのです」 「竜眼!あのマティアスという奴の目がそうだった・・・」 モレナは静かに頷く。 「そう、先ほど申し上げた大いなる力、それを操ることができる聖少女は高貴な家系である竜の一族にのみ現れる。エリオルはその力を使うために、竜の一族から聖少女とオーブを奪ったのです」 「!!!」 「私たちの住むこの大地が球体をしていることを王子様はご存知でいらっしゃいますか?」 「いえ・・・、でもそうですね、考えてみれば・・・そう考えるほうが自然かもしれません。私は昔、祖父の元で修行中に難破船の船乗りに会ったことがありますが、その者が言っていました。確かにゲルトマイシュタルフの港を出発し、ずっと東に向かって航海し続けていたはずなのに、嵐にあって漂流した後救助された場所はなぜかフィルデンラントの沖合いだったと。彼はなにか魔法の力でも働いたのではないかと言っていましたが」 「そう、この大地は球体をしていて、ある軌道を永遠に回り続けている。そのため太陽は毎日東から昇り西へ沈む、地上から見ればそのように見えるのです。でも実際は・・・」 「この大地の方が回っている、のですね」 「そうです。この大地は太陽の周りを一年かけて回っているちっぽけな球体でしかありません。そして降り注ぐ光の強さはその距離によって強くなったり弱まったりするのだとすれば・・・」 「太陽からの距離が縮まれば光は強くなる」 「そう、聖石にはその力があるのです。その力を引き出せる聖少女がいれば」 ラインハルトは驚きを隠せないままモレナの顔を見つめる。 「エリオルは聖少女を奪い、その力を使わせたのですね」 「ええ、聖少女が聖石の力でこの球体の軌道を変える―――エリオルはそれに合わせて自らが光を招いたように振舞っただけです。ちょうど曇り空が晴れて光が差し込むタイミングに合わせて、ね」 ラインハルトは呆然と口を開けたまま言葉を失っていた。 このところ立て続けに意外な話ばかり聞いてきたため、少々のことでは驚かないと自分でも思っていたが、あまりにも予想外の話の展開に頭が混乱して冷静な判断などできそうもない。 「ちょっと待ってください、モレナ様!それではエリオルは・・・!」 神などではないどころかただのペテン師ではないか・・・! 「エリオル様は人間を助けるためにそうしたのです。彼等はあまりにも虐げられ悲惨な生活を送っていたから。無知な人々を騙すような結果になったかもしれませんが、当時文化的に未発達だった人間達に聖少女の存在の意義を悟られる事は避けたほうがよいと考えられたのです。それにエリオル様自身は自分の得たほとんどのものは皆人間たちに返すようにしていた筈です。ごく一部の生きていく為に必要な分以外は」 「それでは・・・でも妖魔族は聖少女を奪い返そうと猛攻をかけてきたでしょうに・・・」 ラインハルトは何と言っていいか分からず、そう呟いた。 「ええ、でも彼等は光に弱いですから・・・。光の溢れる世界でエリオルの光の魔法に彼等は対抗できませんでしたね。特に彼の持つ剣は―――これもまた竜の吐く炎で鍛えあげたといわれる竜の一族の秘宝・・・」 「エリオルはそれも盗み出したのですか?」 「いえ、それはエリオルの先祖が長から拝領したものだそうです。最も勇猛な戦士の証として。その剣があれば竜の一族はアルゴンの前に屈する事はなかったろうと言われていました」 「その剣は今ルドルフが持っているあの剣ですね」 「ええ、そうだと思います。あの剣に何事もなく触れられるのは竜の一族の血を引くもののみ。ただ聖少女と聖石を奪取するには、おそらく竜の一族の密かな協力があったものと思われます。最も誇り高い一族でありながら他部族に隷属するのを潔しとしない者達も大勢いたはずです。エリオルとの戦いに敗れた後、妖魔族では激しい粛正が行われ竜の一族はほぼ殲滅状態になったようですから」 ラインハルトは乾ききった喉を潤そうと手にしたグラスを軽く持ち上げると、軽く一口含んだ。 不思議な飲み物だ。 先ほどからかなり飲んだと思うのにグラスに注がれた量は少しも減っていない。 それに飲むたびに少しずつ疲れが癒えて空腹が満たされていくような気がする。 「まあ、王子様にはお疲れのところ長い話にお付き合いさせてしまって申し訳ありませんがあと少しだけ・・・」 モレナはそういうとゆっくりとラインハルトの方に少しだけ身体を乗り出した。 「あの方、ルドルフ様のことで聞いておいて頂かねばならないことがございます。でもこの話をご本人にすべきかどうか、私には判断がつきかねます、ですから先に王子様だけに聞いていただきたかったのです」 「なぜ僕に?だって僕は彼女とは・・・」 「やはりあの方は女性だったのですね。男性の格好をしていたのでもしや、とも思いましたが」 あっ、とラインハルトは口を押さえたがモレナは力なく笑って言葉を続けた。 「王子様の言葉がなくとも何となく分かりますよ。年齢的にも性別を偽るのは難しい時期になっていることですし。ただ先ほどのお話ではグリスデルガルドの王族はテレシウス卿を除いて息絶えたか消息不明のようす、ですから宗主国の王族である貴方が一番の近親者ということになると思いますが」 「はあ、それはそうですが・・・」 これからの話はかなり重いものになりそうだ、だがこの場を逃れる事はできそうもない。 これだけ驚愕の事実を知ってしまった今、その事実がもう一つ増えたところでそれを受け止めていくしかないのだろう。 この場でモレナと出会い、こういう話を聞くことになったのも自分に定められた運命なのかもしれない、そう腹を括ってラインハルトはモレナの言葉に耳を傾けた。 |
ゾーネンニーデルン ロディウムの隠れ里 「聖石の力で光の世界を招いたエリオル様ですが、こんどは逆に聖少女と聖石の存在が心配の種になりました。というのも再び妖魔族に聖少女と聖石を奪い返されたらこの世は再び昼でも薄闇の世界に逆戻りしてしまうでしょう。よって彼は聖石を別々の場所に保管することを決めました。そして聖少女については・・・」 「聖少女については?」 「神の力を借りて聖石の力を引き出せるのは穢れなき巫女、つまり処女でなければならないのです。ですから、聖少女の力を封じる為、エリオル様は彼女と契りを結びました」 「・・・!」 モレナの言葉に不覚にも頬が赤らんでしまうのを感じてラインハルトは慌てて目を伏せた。 「力を失った彼女をエリオル様はこの里で匿うように我等に託しました。彼女はやがてエリオル様の子供を産みました。光と闇、両方の一族の血を引くその子は黒い髪に濃紫の瞳の女の子でした。その子は里の若者と結ばれまた子供をなします。そうして聖少女の血脈はこの里で誰にも知られることなくひっそりと受け継がれていくことになったのです」 「モレナ様、僕は今とんでもないことを考えてしまいました。でもそれは・・・」 「さきほど申し上げた、我等が守りきれなかったもの、それはエリオル様と聖少女、両方の血を引く大切な姫君―――」 ラインハルトの脳裏をルドルフの顔が過ぎる。 そしてまた、リヒャルトの言っていた言葉―――かつてリヒャルトはルドルフの父ステファン王子とともに旅にでていたこと、ルドルフの母親は黒髪のたいそう美しい女性だったこと――― 「この神殿のさらに奥にある中庭に作られた別棟にひっそりと暮らしておられた姫君は十八歳になるのを待って里の若者を選び婚礼を挙げることになっていました。 その相手を選ぶ儀式を前に、里では思いがけないお客様を迎えることになってしまいました。そして姫君はそのお客人の一人と出会ってしまったのです」 モレナの顔には何とも言えない悲しげな表情が浮かぶ。 「私には時々極近い未来の像が夢に浮かぶことがございます。その日の夢は姫君とそのお客人の並び立つ姿でした。姫君のお相手が決まってしまったことを私は悟りました。それでも私は、姫君にはその方のことをお忘れいただいてこのまま里で暮らしていただくことを願ったのですが」 「そのお客人は姫君を故郷に連れ帰ることを望んだ、そうですね」 「姫君は生まれて初めてとても幸せそうに微笑んでおられた、だから私は・・・。力ずくで止めようと思えば止められたかもしれない、でも、そのお客人と姫様の願いは固くて」 モレナの瞳からは一筋涙が零れ落ちた。 「全ては運命だったのかもしれません、そのお客人がこの里を訪れたのも、姫君と出会い恋に落ちてしまったのも。少なくとも貴女のせいではないのですから・・・」 「ええ、でも、私はもっと強い意思を持って使命を全うしなければならなかったのでしょう。姫君が外の世界に出ると言う事は、聖少女の血統が世に出ること、だから姫君には固くお約束していただいたのでございます。この先生まれた子がもし女の子だったならば必ずこの里に返してくださるようにと。 初めの子は男の子と聞きました。そして三年後、姫様は二度目のお産で命を落としてしまわれました、そして今度もまた生まれた子は男の子だったとの報せを私は疑いもしなかったのです。でも・・・」 「モレナ様、そのお客人というのはグリスデルガルドのステファン王子だったと思ってよいのですね。でもステファン王子の妃はたしか・・・」 「表向きは貴族の令嬢と言う事になっているようですが・・・ ステファン様はフィルデンラントの王宮でリヒャルト殿に出会い、共に旅に出たのだとお聞きしました。 そしてロディウムの温泉に立ち寄った際、隠れ里の噂を聞き興味を引かれたのだそうです。 何重にも張り巡らされた結界もお二人には役に立たず、この里は王子様に発見されてしまいました」 「リヒャルト殿とステファン王子の二人に?」 「はい、リヒャルト殿は光の一族の末裔、そして王子様はわずかですが英雄ルドルフを通じて竜の一族の血が流れているのです」 「待ってくださいモレナ様、それは一体どう言う事ですか!?」 ラインハルトは思わず眦を決して立ち上がっていた。 「英雄ルドルフは妖魔族との戦で命に関わる大怪我をした、そして風前の灯だった彼の命を救ったのは妖魔族の娘だったと聞いています」 「・・・!そんなこと僕は聞いていません!!!」 ラインハルトの剣幕にモレナは一瞬怯んだようだが、一息置いてまた静かに話し出した。 「ええ、これもまた人の世に伝わってはいけないことでしょうから・・・」 すこし落ち着きを取り戻したラインハルトは長い袖に隠したルドルフ一世の日記を思い出した。 そうだ、あの日記の空白のページにはもしかしてそのことが記されているのか・・・ 公にはできないから何らかの方法で字を消した――― ラインハルトが憮然とした表情ながらもドサリと腰を下ろすのを見てモレナは話を続けた。 「ラインハルト様、もう少し長話をご辛抱下さい。今私が聞いていただきたいのは・・・」 「分かっています、ステファン王子の事でしょう」 「はい、王子様はこの里をみて大変驚かれ、また興味を惹かれたご様子でした。それでも私の言を入れて翌朝早々にはこの里を立ち去る事をお約束下さいましたが・・・ その夜どうして王子様が中庭に出られたのかわかりません、そして姫様に会ってしまわれたのかも。 姫君の住居には厳重な結界が張ってあり、本来ならお二人が出会うことなどなかったはずなのです」 「リヒャルト殿が結界を破ったのだとお思いですか?」 「いえ、リヒャルト殿はこの里に着いたときから里の本当の秘密にうすうす気付いていらしたようですから。それに中庭の結界はリヒャルト様でさえも破れなかったと思います。姫様が自ら結界の内に相手を迎え入れようと思わない限りは・・・ 思いがけず出会ったお二人の間でどのようなことが起こったのか私にも分かりません。ただ、姫君の相手が決まってしまったことだけは確かでした。そして王子様は当然姫君を故郷のグリスデルガルドへ連れて帰られることを強く望まれたのです」 モレナはふうっと長い溜め息を吐くと頭に手を当てたまま背凭れに身体を凭せ掛けた。 かなり長い時間話し続けたので疲れが出たのだろう。 「モレナ様、大丈夫ですか?」 心配そうに覗き込んだラインハルトにモレナは静かな微笑を見せる。 「王子様、このようなことをお話したのはお願いがあったからなのです。あの方、ルドルフ様は本当は姫君だった、ということは―――」 「・・・」 「あの方にも聖少女の資格がある、ということです。もちろん資格のあるもの全員が聖少女に選ばれるわけではない、それでも・・・」 「モレナ様、貴女はルドルフを・・・」 「妖魔族はまだあの方の真の価値に気付いていない、ですから、ルドルフ様にはこの里に留まっていただきたいと思います。この私が、そして私の後継者が命に代えてもお守りいたしますから」 モレナはそう言ってラインハルトをじっと見つめた。 疲れの滲む顔の中でその視線は強い意志をもってラインハルトの目を捉える。 「お言葉はよく分かりますが、ただルドルフはどう言うか。彼女は自分の手で兄と祖父の仇を討ちたいと願っていたはずです」 モレナの言うとおり、ルドルフはこの里に留まった方がいいのかもしれない、ラインハルトはそう思った、でも――― 彼女の屈託のない笑顔や力強い眼差し、そんなものを思うと、せっかく再会できたのにまた離れてしまうのは酷く寂しい気がした。 ルドルフがこの里に留まることになれば、当分、いやもしかしたらもう二度と会う事はできないかもしれない。 「ラインハルト様、聖少女の血脈を受け継ぐものが世に出るということは、大変な騒乱の元となりかねないのですよ」 「ええ、そうなんですけど、でもそれならルドルフの兄フランツ王子は・・・」 王子がルガニスの剣に倒れたのは目の前で見たが、ルドルフは兄が生きていると言う話を妖魔族の一人から聞いたと言っていた。 「聖少女は神に仕える巫女、その力は女子にしか受け継がれない。男系の子孫に受け継がれる事はないのです」 モレナはラインハルトの手を強く握りじっと目を見つめた。 その目はラインハルトについ先ごろ見たある人物の瞳を思い出させた。 聖ロドニウス教会の奥深くアストラル宮殿で三年間眠り続けたという老僧――― その言葉は今も強烈に脳裏に焼きついている。 『闇に閉ざされた空に赤い月が昇る。あれはこの世に生まれ出るべきではなかった。だが運命の輪には逆らえない。変革の時は近い。大地は燃え、人間が覇者であった時代は終わる』 あれ、とはまさか聖少女たるルドルフのことだったのか・・・だが・・・ 「モレナ様、僕は聖ロドニウス教会で予言を受けました。人間が覇者であった時代は終わる、と。もしその予言が正しいとすれば・・・」 「貴方にその予言を授けたのがどなたかは分かりませんが、おそらくそれはその方の心に浮かんだ像―――未来の可能性の一つであって確実な未来ではない、私はそう思います。すくなくともルドルフ様がここに留まることで騒乱の種の一つは無くなることとなる。未来は変わるかもしれません。その可能性が少しでもあるなら私は試してみるべきだと思います。あの方はこの里から出るべきではありません」 ラインハルトは戸惑いながらモレナの顔を見つめ返した。 やっとルドルフと再会し、これから妖魔族に対抗する手段をともに探そうという時に、ルドルフはこの里に留まり自分は一人で先へ進むことになるのか・・・ ラインハルトの心に言いようの無い寂しさや不安、焦りがない交ぜになって込み上げる。 でも・・・自分はこれからもずっとルドルフと一緒にいたいと思う。 妖魔族と言う強大な敵とともに立ち向かっていくための大切な仲間として――― 「ラインハルト様はあの方がお好きなのですね」 モレナは優しく微笑んでラインハルトの手をそっと離した。 「え、いや、僕は友達として・・・」 分かっているというようにゆっくりと頷くモレナを前にラインハルトは、ルドルフと一緒にいたいと思うのは友達だから―――本当にそれだけだろうか、と考えていた。 友達なら相手の事を一番に考えてあげなくては。モレナの言うようにルドルフにとってはこの里に留まったほうがいいのかもしれない、でもそれは自分にとってはとても寂しいことだ。 自分がこんな風に思うのはただの我儘でしかないのだろうか・・・ 「急にいろいろなことを申し上げたのでラインハルト様も混乱しておいででしょう、少しお休みになって私の話をゆっくり考えてみて下さい。そのうちにお連れのお子さんも目を覚ますでしょうから」 不意に風邪の流れを感じ振り向くとジネヴラが壁のところに立っているのが見えた。 「ジネヴラ、ラインハルト様を空いているお部屋にご案内してさしあげなさい。随分お疲れのご様子だから」 「はい、お祖母様」 ラインハルトはルドルフが寝ている筈の奥の部屋をチラリと見遣って何か言いかけたが、思いなおしたようにくるりと向きを変えるとジネヴラに促されるまま部屋を出た。 どこか後ろ髪を引かれるような気がするのはこのままルドルフと会えなくなるような一抹の不安感を感じるからだろうか・・・ |