![]() パンゲア大陸 ロディウムの隠れ里 真夜中の本殿にはすでにリヒャルトとジネヴラ、そして驚いたことにモレナも姿を見せていた。 「ラインハルト様のご助力をするなら力は強い方がよいでしょう、私も孫娘とともにお力添えいたします。どうぞこちらへ」 ジネヴラが奥の壁に掛かっていた垂れ幕を掲げると荘厳な木製の扉があり、モレナが手を触れたとたん、ゆっくりと音もなく開いていった。 扉の向こうは薄明かりに照らされた空間になっている。 床には不思議な幾何学模様の線が光を放っていた。 「ここは我らの神殿、この場の持つ力が我らを後押ししてくれるでしょう」 ラインハルトは赤のオーブを手に部屋の中央に立ち、向かいあいに正三角形を描く位置にモレナが青、ジネヴラが緑のオーブを手に立った。 リヒャルトは場の空気を壊さないように部屋の隅で控えている。 「全能なる神よ、我らに力を貸し給え。この者が望みの地へと降り立つように」 モレナの声が響き渡る。 同時にラインハルトは移動の魔法を唱え始める。 呪文が唱え終わるのを待たず、オーブが強烈な光を発し始めた。 床に描かれた幾何学模様からも薄明かりが発せられている。 ラインハルトは兄のことを一心に思った。 ―――兄上、僕を導いて下さい。僕は貴方にお会いしなければなりません そう一心に念じているとどこからか懐かしい兄の声が聞こえてくるような気がした。 ―――ラインハルト、私もお前に会いたかった、お前がここに来ることは危険だし、お前に伝えねばならないことを思うと心が重いが、やはり会わずにはいられないようだ。愛しい弟よ、私は・・・ 「兄上!」 そう叫ぶとラインハルトはいつのまにか今までいたのとよく似た神殿の内に立っていた。 中央にこのような場所には不釣り合いな天蓋付きのベッドが置かれている。 まちがいない、ヴィンフリートだ! 急いで駆け寄るとありし日の姿そのままの兄国王がベッドに横たわっていた。 「ああ兄上、お会いしとうございました。僕は・・・」 ラインハルトはベッドの脇に跪き、その手を取って顔に当てた。 「ラインハルト、よく来てくれた。お前に口伝しなければ私はあの世へ旅立つことはできないからな」 「何を仰るのです、兄上。以前地下牢でお会いしたときとは打って変わって顔色もよく、お元気そうではありませんか」 「そう見えるのはこの場所が外界とは時の流れ方が違うからだ。ここは我ら王位を継ぐ者だけが知っている特別な場所。フィルデンラントの創始者フィルドクリフトが特別な結界を張った場所だ。 お前が今見ている私の姿はお前がグリスデルガルドへと旅立つ時のもの、そう私が望んだからだ。 ラインハルト、私はお前に聞くに堪えないようなことを伝えねばならない。辛いことだがいずれ果たさねばならない私の役目だった。父からこの口伝を受けたとき私は・・・」 言葉にせぬ思いがつないだ手を通してなだれ込んでくる。 「兄上、何も仰らなくても私には分かります。兄上がどんなにつらい思いをなさったかも・・・」 「いや、きちんと聞いてくれ、父は私に言った、お前は身体が弱い、万一の場合は弟にこの口伝を伝えるようにと」 そう言って兄は思いがけない力でラインハルトを引きよせその耳元で囁くように口伝を伝えた。 最後にほっと溜息をつくとラインハルトの顔を両手で挟み優しい眼差しでじっと見つめる。 「これで私の役目は済んだ。父上の元へ旅立てる」 「兄上!」 「ラインハルト、急いでここを立ち去らねば。ヴィクトールに気付かれる前に。足手まといで申し訳ないが、どうか私も一緒に連れて行ってくれ」 ヴィクトールはゆっくりと目を閉じる。その命の灯が急速に消えようとしているのをラインハルトは実感した。 「ですが、兄上、ここを離れたら貴方は・・・」 「すぐにも息絶えてしまうかもしれませんな」 不意に気配が動き、ラインハルトは自分の他に来訪者が現れたことを悟った。 「ヴィクトール!」 憎い裏切り者、宰相のヴィクトールともう一人魔道士の道服をきた小男が離れた場所からこちらを見ている。 「この場所にいる限りヴィンフリート様は生き続けることができる、望みのままにいつまでも。そう思ってお連れしたのだが、実の弟に引導を渡されるとは」 「何!」 涙で霞む目でラインハルトはきっとヴィクトールを睨みつけた。 「貴方の来訪がヴィンフリート様の死を早めてしまった、ということですよ」 「そんな・・・」 ヴィクトールの言葉に呆然とするラインハルトだが、瀕死の兄の口からとぎれとぎれに言葉が漏れた。 「やめろ、ヴィクトール。私が自ら望んだことだ。私は元の世界に戻って息絶えたい。初めはお前の言葉を入れてここに来ることを承知したが、ここで一人で過ごすうちに悟ったのだ。こうしてただ無為に生き続けることは苦痛でしかないと。そしてようやくお前の言動を冷静に見つめ疑問を持てるようになった」 ベッドから起き上がろうとする兄の背をラインハルトはそっと支えた。 「ヴィンフリート様・・・」 ヴィクトールの顔が大きく歪む。 「ラインハルト、ヴィクトールは私の死期が迫っているのを知って、私をここへ連れてきた。ここでならいつまでも命を長らえることができるから、と。父が教えてくれたこの場所を私はヴィクトールに教えてしまった。それだけではない、他のことも。王位を受け継ぐ者にしか話してはならないと父上から固く言われていたのに」 「言いたいことはそれだけですかな」 ヴィクトールの影に隠れるように立っていた道服姿の男が声を発する。 先ほどからラインハルトはこの男の存在を意識していた。 その殺気から攻撃を仕掛けるタイミングを見計らっているのは明白だ。 この男も混血族、恐らくはダルシアの言っていた同胞だろう。 だが、ヴィクトールの「待て」という一言でその殺気は急速に凋んでいった。 ヴィクトールは静かな、だが決然とした表情で語る。 「あのままでいたら貴方の命はそう長くは持たなかった。この男の力を借りてここへお連れしたのは少しでも貴方に生き長らえていただきたかったからです。 貴方はラインハルト様に国王の座を譲ろうとされた。でも私は・・・貴方が国王でなくなるなら、王家など無くなってしまったらいいと思いました。貴方を苦しめ続けた呪われた家系、フィルドクリフト王家は貴方の代を以て滅亡してしまえばいいと。そのため妖魔族を利用することにしたのです」 「ヴィクトール、馬鹿なことを・・・」 ヴィンフリートの身体が大きく揺れ、ラインハルトは慌ててそれを支えた。 「ヴィクトール、妖魔族を利用するつもりが、逆に利用されているのが分からないのか!」 ラインハルトの言葉にヴィクトールはふっと苦い笑いを洩らす。 「それでも構わないのですよ。貴方が王宮に出没したのを知ってわざと国王陛下を地下牢に移し、確認させました。その後すぐに一芝居打って妖魔族の眼をくらましここまでお連れしたのです。 貴方はここへ誘き寄せて今度こそ本当に息の根を止める、そのつもりでした。どのみち表向きはグリスデルガルドで客死したことになっているのだし、フィルドクリフト王家は断絶だ。傍系の国王云々というのは妖魔族の姑息な姦計。だが私にとってはもうどうでもいいことだ。だから好きなようにやるがいいと言ってあるだけです」 「私はラインハルトに全てを譲り渡したいと常々そうお前に言っていたではないか・・・」 ヴィンフリートの声は弱いながらも怒りに震えている。 「その点では陛下の意向に背いたこと、お詫びいたします。ですが、貴方がつなぎの国王だなど、私にはどうしても容認できなかったのです」 「つなぎの国王?」 ラインハルトの声にヴィクトールは大きく頷いた。 「ヴィンフリート様は病弱で恐らくそう長くは生きられない、だから本当の世継ぎはラインハルト王子―――貴方だと、前国王マクシミリアン陛下はヴィンフリート様と私に申されたのです。 ヴィンフリート様は貴方が成人するまでのつなぎ、婚約者である白の帝国の王女も本当は貴方の婚約者である、と」 「そんな馬鹿な!」 ラインハルトは天地が逆転してしまったような感覚に囚われる。 「貴方が十六歳になるのを待って王位を譲位し、帝国の王女と婚姻させる―――それが前国王のお考えでした」 「僕はそんなこと、全く聞いていなかった!」 ラインハルトを押しとどめながらヴィンフリートが声を絞り出すように叫ぶ。 「ヴィクトール、私はそれでいいと思っていた。お前にもそう言ったはずだ」 「ヴィンフリート様、私にとって国王は貴方一人、貴方の死とともに貴方を苦しめ続けた呪われたフィルデンラント王家は滅びるべきだ。いや私がこの手で滅ぼしてやる、あのとき私はそう決心したのです」 ヴィンフリートはラインハルトの手を借りながらよろよろとベッドから起き上がった。 「お前は自分の持てる全てを捧げて私のために尽くす、即位のときお前は私にそう誓ったな、ヴィクトール」 「御意。今でもその気持ちに変わりはございません。全て貴方のためを考えた結果の行動です」 「では、私は今ラインハルトとともに元の世界に戻り、死を迎えることを望む。その願いを叶えさせてもらいたい。ラインハルトが来ればお前に命を狙われるだろうことは私もうすうす感じていた。その危険を冒しても私は王位をラインハルトに譲りたいと思った。こうして口伝を伝えた以上思い残すことはない。今は私達を見逃してくれ」 「それが貴方の真の願いですか。ラインハルト王子、ここを離れれば本当に兄上の命は保証できませんぞ」 その言葉に躊躇を見せるラインハルトを抑えるようにしてヴィンフリートが絞り出すような声で答える。 「そうだ、私の恐らくは最後の願いだ」 「・・・分かりました、この場は手出しを控えましょう。オレグ、控えておれ」 そう声をかけると傍らの小男は部屋の隅まで一気に飛び退った。 「ですが、私はなおもフィルデンラント王家滅亡のため力を尽くします。これは私の始めた闘い、貴方を苦しめ続けた呪われた呪縛を打ち壊しこの世界を変える、私はそう誓いを立てましたから」 「ヴィクトール、それがお前のなすべきことなのか。お前は兄上のために尽くしてくれた、ならば・・・」 「ラインハルト様、貴方は我が国王最愛の弟、ですが私の国王はあくまでヴィンフリート様ただ一人。次にお会いしたときは敵同士、お互いに容赦は無用といたしましょう」 ラインハルトの眼をまっすぐに見据えたヴィクトールの声はただただ静かだった。 「・・・そうか、分かった」 「では、すぐに国王陛下をお望みの世界へお連れしてください。私の目の届かないところへ、早く!」 ヴィクトールのゆがんだ顔は泣いているようにも見える。 ラインハルトは片手にヴィンフリートを抱え、もう片方の手で胸にしまったオーブに手を当てて移動の呪文を唱える。 モレナとジネヴラの捧げ持つオーブの光が目印となって道はすぐに開け、あっという間に元の神殿に戻っていた。 モレナやジネヴラも力を貸してくれたのだろう。 そう思う間もなく支えていたヴィンフリートの身体ががっくりと崩れた。 「兄上!」 「ラインハルト、戻ってこられたのだね。微かだが風の流れを感じる。ああ、なんて清浄な空気だろう」 「兄上、お話にならないで、すぐにベッドを用意してもらいますから」 ラインハルトが戻ると同時にリヒャルトが駆けより反対側からヴィンフリートの身体を助け起こす。 モレナとジネヴラも「まあ大変」と言って慌ただしく侍女たちを呼び集め指図を与えた。 |
![]() パンゲア大陸 ロディウムの隠れ里 里の空気が身体に合っていたのか、モレナ達の看病が適切だったのか、ヴィンフリートはいまだ危篤状態ではあったか、やや体調を持ち直していた。 ラインハルトに教えておきたいことがまだまだあって、それを全て伝えてしまわなくては安心して旅立てない、という感じだ。 ラインハルトはこのまま兄が快方に向かってくれればと念じていたが、その淡い期待が現実となるのは難しそうだということも分かっていた。 炎が燃え尽きる前に一瞬光芒を放つように、ヴィンフリートの命の火も最期の輝きを放っているのだと。 魔法の力ではどうにもならない人の定めにラインハルトは無力感を感じざるを得なかった。 ヴィンフリートを連れて戻ってから数日経つが、未だにルドルフとは顔を合わせることがない。 モレナやジネヴラに訊ねても大分元気になってきた、という答えが返ってくるだけだった。 そのことに多少の不安を覚えないではなかったが、ラインハルトはモレナが自分と兄国王のため特別の配慮をしてくれているのだろうと思うことにした。 「ラインハルト、しばらく顔を見ないうちに、お前はずいぶんと大人らしくなったな。十六で戴冠するのは少々年若すぎるのではと心配していたが、これなら大丈夫だろう」 「兄上、そのことは・・・。僕はいつまでも兄上に国王でいて頂きたいのですから」 「そう言うな。今日は気分がいい。フィルデンラントを出立してからグリスデルガルドでどんなことがあったのか、語って聞かせてくれぬか・・・」 「はい、兄上。いろいろなことがありましたが、そうですね、まずグリスデルガルドの王城に入る直前、僕は従者の一人であったハラルドという若者と入れ替わりました。服や持ち物を全部取り換えて」 「ほう、それは」 「はい、今は亡きセルダンの提案で・・・」 その名を口にすると今も胸が痛む。セルダンは幼少の頃から自分の指南役として仕えてくれた。祖父の元で修業中の間も・・・ 「セルダンは命を落としたのか・・・」 ヴィンフリートは誰かの死を知った時には痛ましそうな表情を見せたが、 後は時折驚きや感嘆の声を洩らしながら概ね楽しそうに弟の話に聞き入っていた。 自分には許されなかった冒険の数々にどこか心躍らせている感じだった。 「そうか、お前は今度のことでたくさんの得がたい経験をし、大切な友人が何人もできたのだな」 「はい、そのおかげで、こうして兄上とも再会できました。クリストフのことは今でも心残りですが」 ヴィンフリートはラインハルトの腕にはめたブレスレットを眺めながら溜息を吐く。 「そうだな、この遺品だけでもご遺族の元に届けてあげられたらよいのだがな」 「はい」 「呪われた王家と言われようとも父から受け継いだ国と民を私達は守っていかなければならない。頼んだぞ、ラインハルト」 ヴィンフリートはそう言ってラインハルトの手をしっかりと握りしめる。 手の平に固いものが押し付けられたのを感じてラインハルトははっとして兄の顔を見詰めた。 「他の物は持ち出す余裕がなかった、だがこれだけは」 代々国王だけに受け継がれてきた王位継承者の証の指輪だ。その面にはフィルドクリフトの瞳を思わせる薄水色の宝玉がはめ込まれている。 「いけません兄上、これは・・・」 「今まで我が王家にはラインハルトという王はいなかった。文字通りお前が新しい王として新しい国を創っていくのだ、よいな」 「兄上!」 「私のために泣いてくれるな、私は今とても満ち足りているのだから。新国王ラインハルト一世陛下、万歳」 その言葉とともにヴィンフリートは静かに息を引き取ったのだった。 |
![]() パンゲア大陸 ロディウムの隠れ里 「タニア、何やら騒がしいようだけれど」 ベッドから半身を起し、差しだされた鏡を見やりながらルドルフは傍らに控えた侍女に訊ねる。 「はい、どうしても姫様には気付かれてしまいますね。先ごろこの里に身を寄せられたフィルデンラントの国王陛下が今朝方崩御されたのです。弟君は兄上のご遺体を先祖代々の墓地に埋葬したいという意向が強く、ご遺体を保存する特別な手配が行われています」 「フィルデンラントの?」 どこかで聞きおぼえるのある名だ、と思う。だが、どこで聞いたのか、自分とどのような係わりがあるのか思いだそうとしても思い出せなかった。 「でも、国王陛下がなぜこの里にお出でになったのだろうね」 「詳しいことは申せませんが、国で内乱が起きたのではないでしょうか。姫様にはあまりお気になさいませんよう。世俗のことに我らが関わることはありませんので」 「そう、そうだったね」 国で内乱―――どこか引っかかる言葉だった。なぜだろう。自分は生れた時からずっとこの里で育ち、ここから出たことはないはず。なのに・・・ 「僕も様子を見に行っていいだろうか。弟君にもお悔やみを申し上げた方が良いのでは」 「何をおっしゃいます、姫様が里の外の者に姿をお見せになるなど、とんでもないことでございますよ。何度も申し上げているでしょうに」 「うん、そうなんだけど」 どこかで誰かが泣いている、と思った。譬えようもなく深い悲しみだ。声を忍ばせている分余計に心に染みいるようだ。 先ほど話に出たフィルデンラントの国王の弟君という人だろうか。 ルドルフの心はいつの間にかその悲しみに同調し、その頬にも涙が伝った。 「まあ、姫様・・・」 「誰かが泣いているのを感じて・・・よく分からないけど、僕もなんだかとても悲しくなってしまって」 ヴィンフリートの死に里全体がざわついている。どんなに隠してもこの姫様には伝わってしまう、モレナ様に報告してこの部屋のガードをもっと固くしてもらわなくては、とルドルフの頬を手布で優しく拭いながらタニアは思った。 |
![]() パンゲア大陸 某所 ランディ卿居城 ランディ卿の書斎でレティシアのホログラムを見て以来、アルベルトはこれまで以上に研究研究に没頭することとなった。 検査装置の研究開発に本腰を入れて取り組むためだ。 いざ始めてみると、調べるべきことや調達すべきものは山ほどあって、一筋縄でいく研究でないことを改めて思い知った。 そのためフランツ王子の見舞に行く時間は大幅に減ってしまった。 フランツの病状は気がかりだったが、ヴェロニカが献身的に看病しているし、当面心配はないだろう。 ランディ卿もフランツがどういう身分の者か聞いてはいるのだろう、他の虜囚たちとは待遇が違うようだった。 ここに現れたというルドルフが本物である可能性が出てきたことをアルベルトはフランツには告げずにいた。 心の重荷が病状の回復を遅らせていたことは間違いないし、不確実な情報でフランツを再び苦しめることはないだろうと判断したからだった。 ランディ卿ともさらに打ち解け、妖魔族内についていろいろ話を聞くことができた。 妖魔族はもともと守護神とする神によっていくつかの種族に分かれていたこと、今でもその名残で多少の齟齬があること。 今回の戦は皇帝の出身種族である蛇の一族の主要貴族であるユージン卿という武人が提唱したのが発端だが、積年の憤懣を晴らすという大義に大多数の妖魔族は賛同し皇帝も承認したものであること。 アルベルトが想像した以上に妖魔族の下準備は進んでいて、グリスデルガルドのみならず、大陸全土を巻き込んだ大掛かりな戦役になる可能性が高いこと。 そしてまた妖魔族側に加担する人間も少なからずいるらしい、ということも。 あのマティアスという人物は今では皇帝陛下の第一の側近であり、たいていの貴族は領地で過ごすことが多いが、彼だけはほとんど皇宮で皇帝の側去らずで仕えている。 そのため皇宮に特別な部屋が与えられているくらいだそうだ。 旧来の貴族たちからはやっかみもあり疎まれているが、皇帝に遠慮してか表立って排斥行為を行う者はまずいない、とのことだった。 巫女であったレティシアが戦役で命を落とした理由については、ランディ卿も言葉を濁して教えてはくれなかった。 ただ、彼女のホログラムが皇帝のところにもある、という話から、レティシアは皇帝と何らかのつながりがあったのだろうとは類推できた。 マティアスが重用されているのも恐らくはそのあたりが関係しているのだろうことも。 |
![]() フィルデンラント 聖ロドニウス分教会内墓地 朝まだき、顔を出したばかりの太陽が投げかける力強い光を木の間越しに受け止めながらラインハルトは聖ロドニウス教会の聖堂の裏手に設けられた先祖代々の墓所の前に立っている。 代々の国王の墓はそれぞれに意匠をこらした壮麗な造りの者が多く、勇壮な戦士や獣の彫像や、美しく繊細な浮彫等で様々に飾られている。 その中で一番新しい墓石を目指してラインハルトはまっすぐに進んで行った。 第63代国王ヴィンフリート・アンドレアス・フォン・フィルデクリフト 刻まれて間もない墓標の文字を指でなぞりながらラインハルトは胸に大切にしまってきた紙包みを取り出した。 墓の中身が空っぽなのは分かっていた。 ヴィクトールは兄を心から敬愛していた。今は敵となったとはいえ、そのことに嘘はない。その兄の墓に影武者を葬ることはするはずがなかった。 念のため透視術を使ってみたが、壮麗な棺の中は予想どおり兄の愛用していた横笛が収められているだけだった。 ラインハルトが呪文を唱えると紙包みは光を放ちながらゆっくりと降下していき、やがて地面に吸い込まれていく。 紙包みが棺の中に収まったのを感じて、ラインハルトはまた別の呪文を唱えた。 紙包みは光をはまったまま大きく膨れ上がり、やがて人の形となっていく。 今は亡きヴィンフリートの身体が再現されるとともに、光は急速に消えて行った。 「兄上、安らかにお眠り下さい」 ラインハルトはわざと声を大きくしてそう呟いた。 木陰でこちらの様子を伺っている者たちに聞かせるためだった。 ラインハルトの気配を察して飛んで来たのだろう、ヴィクトールの従者、おそらくは混血族のオレグという男とその配下――― 彼らに敵意がないこともラインハルトは感じ取っていた。 兄の墓前で騒動は起こすな、という命令がヴィクトールから出ているのだろう。 今はともに兄の死を弔ってもらいたい、そういうラインハルトの気持ちをヴィクトールも受け取っているようだ。 次に出会った時は敵同士、それも仕方ない、お互いに自らの信じる道を突き進むのみ―――ラインハルトは新たな決意を胸にオーブの力を借りてその場を去った。 「あのまま行かせてしまってよろしかったのですか、オレグ様」 配下の者がオレグの顔色を窺うように尋ねる。 「仕方がない、ヴィンフリート様の墓前で、あの方の悲しまれるようなことはするなというお達しだ。いずれラインハルトとは決着をつけえねばなるまいが、その時はそう遠くはないだろうしな」 ―――宰相閣下も随分と甘いことだ。こんなことで本当に妖魔族を出し抜けるだろうか、とオレグは心中毒づいていた。 |
![]() パンゲア大陸 ロディウムの隠れ里 里に戻ったラインハルトはしばらく何も手につかず、ぼんやりと数日を過ごした。 兄を看取り、その遺体を密かに埋葬し終えて、ほっとしたのか体中の力が抜けてしまったようだった。 ルドルフは兄の逝去に際しても顔も見せるここはなく、ラインハルトは少なからず落胆したが、今はそれももうどうでもいいような気がしてくる。 兄が亡くなって心の中にぽっかりと穴が空いてしまったようだ。 自分はこれからどうしたらよいのか・・・ 溜息をついて手元に残った赤いオーブを眺めていると、リヒャルトが部屋を訪ねてきた。 「ラインハルト様、少しは落ち着かれましたか」 「ありがとう、何だかまだ兄が亡くなったのが信じられなくて。この世のどこかで生きていてくれるのではないかと、そんな気がしてしまうのです。兄の遺体は確かに僕が先祖代々の墓地に葬って来たのですが」 向かいあいに腰掛け、侍女が用意してくれた水差しの水を飲みながら二人は語り合った。 「そうですね、親しい人の死は受け入れがたいものですが、元気を出して下さいね」 「はい・・・」 「今日伺ったのは、私もそろそろ旅立とうかと思ったものですから。思いがけず長逗留してしまいました。テオドールの奴が待ちくたびれて面倒をおこしたりしてないか、少々心配ですし」 「リヒャルト殿は旅立たれるのですか。今度はどちらへ?」 「私の旅は行方を定めない当てのない旅、ですが、少し気になることがあるので、しばらくはロディウムの街に滞在するつもりです」 「気になること、とは?」 「この里へ来る途中、ロディウムの裏山を通った時、聞こえてきました。突然の噴火騒ぎで騒然とする街中で、これは滅びの時代の始まりである、と説く言葉が」 「え?」 「新しい時代には新しい神が降臨する、とか。どうやら宗教家のようでしたが。あの時はこの里へ来るのを急いでいたので黙殺しましたが、ここでのんびりしているうちにだんだん気になってきました」 「滅びの時代の始まり・・・」 「南方で土俗信仰のようなものが広まっている、という噂は前から聞いていますが、あくまで辺境の新興国でのこと、八聖国内でそんな言葉を聞くとは思いもよりませんでしたので」 「新しい神、か。それはまた恐れ多いことを」 「ロディウムの街で詳細を確かめてみた上でなければ軽々な判断はできないのですが」 「そう、ですね」 「ラインハルト様はこれからどうなさいますか。ずっとこの里に留まるつもりはないのでしょう」 「僕ですか・・・」 ラインハルトはやや自嘲気味な笑みを浮かべる。 「僕は兄を王位に戻すことだけを考えていたので、これからどうするかと言われても、何をしていいか分からないのです、恥ずかしいことですが」 リヒャルトは痛々しそうにラインハルトを見つめてから徐に口を開く。 「兄国王は貴方の即位を望まれて亡くなったのでしょう」 「はい。ですが、僕は・・・。僕の先祖がして来たことを知ってしまった今、自分が王位に就きたいとは思えないのです。それに今の僕には何の力もない、即位しようにもね。ヴィクトールが偽物だと決めつけてしまえば、それで終わりだし、帝国も聖ロドニウス教会も認めてはくれないでしょう」 「私は、サンドラ王女の伝手を頼ってゾーネンニーデルンに行かれるのが一番と思いますよ。メリマン王を後ろ盾に名乗りを上げ即位の式を敢行すれば、今は野に伏している王室子飼の武将たちもこぞって馳せ参じるでしょう。 フィルデンラントの軍勢にゾーネンニーデルンの正規軍を手中に収めれば、貴方は帝国にとっても聖ロドニウス教会にとっても無視できない存在になる」 ラインハルトはあっけに取られたようにリヒャルトを見つめていたがすぐに大笑いし始めた。 「貴方のような方から、そんな言葉を聞くとは思いませんでした、リヒャルト殿。貴方は世俗の政争などとは無縁の方かと思っていましたので」 「確かに私がこんなことを言うとおかしいでしょうが・・・」 「失礼しました、お言葉はごもっともだと思います。ただ、そんなに絵にかいたようにうまく行くでしょうか。ゾーネンニーデルンにしても、今や流浪の身である僕にそこまで加担する理由もないでしょうし」 「難しいでしょうか」 「メリマン二世は狡猾でならした国王、恐らく帝国や教会に対する政争の具にされるのがオチだと思います。それより・・・」 ラインハルトは意を決してリヒャルトを見つめた。 「僕もしばらく貴方と同行してもよろしいでしょうか。先ほどの振興宗教の話、どうも気になります。僕も自分で調べてみたい」 「それは・・・」 「御迷惑でなければ、ですが。僕は王子としてではなく、一人の人間として今の世を見つめ直してみたいと思っているのです。八聖国のことも聖ロドニウス教会のことも、いままで当たり前と思っていたことが本当に当たり前なのか」 「ラインハルト様」 「フィルデンラントで、いや今この世界で何が起ころうとしているのか知らなければならないと思うのです。王族としての責務から逃れようというつもりはありませんが」 ラインハルトの真っ直ぐな瞳が眩しく感じられる。 この方は真実この世の王となる人かもしれない―――リヒャルトはそんな予感に動かされ、しっかりと頷いていた。 |
![]() パンゲア大陸 ロディウムの隠れ里 出立の挨拶の際、ラインハルトはジネヴラにルドルフに会わせてくれるよう頼んでみた。 「ルドルフに会わせてもらうわけにはいかないでしょうか。旅立ってしまうとしばらく会えなくなると思うので」 「それは・・・」 「ここへ来て以来一度も彼女と顔を合わせることはありませんでした。貴女方が意図的にそうしていることは分かっていますが」 「・・・ラインハルト様、怒らないでくださいね。私どもの勝手な判断ではありましたが、ルドルフ様にはこの里に留まっていただきたい、そのため、強い暗示をかけさせていただきました」 「暗示?」 「そうです。あの方は生まれた時からずっとこの里から出たことはなく、記憶と思っているものは夢で見たことだと。その夢は忘れてしまわなければならないと」 「そんな!!」 「あの方を危険な目に遭わせたくない、そういう思いからでございます」 「それとこれとは話が違う!いくら彼女の安全のためと言っても・・・」 そう言いつつラインハルトは思う。 この里に留まれと言われて大人しく引っ込んでいるようなルドルフではないことを。 「・・・その暗示は解けることはないのですか」 「何か強いきっかけがあれば解けるかもしれません。少なくともこの騒乱にある程度目星がつくまでは我々は解くつもりはありませんが」 「そうですか・・・」 ジネヴラはラインハルトに小さな巾着袋を差し出す。 「これをお持ち下さい、ラインハルト様。サンドラ王女の従者が貴方のお連れの方から奪った緑色の聖石、そして、我らが神殿にしまわれていた青い聖石です」 「でも、これは貴方方の宝でしょう、少なくとも青いオーブは」 ラインハルトは驚いて訊ねる。 「聖石、オーブには互いに引き合い、力を増幅しあう性質があります。少なくともルドルフ様の傍に置いておくのは今は危険だと思うのです。それより貴方が持っていて、有効に使っていただきたいというのが私どもの考えです。貴方にはこれから力が必要になるでしょうから」 「僕は・・・」 「それからこの剣も」 ジネヴラが傍らを向くと、後ろに控えていた侍女が英雄の剣を差し出した。 「これはルドルフの剣です。グリスデルガルド王家に伝わる・・・」 「ええ、ですがもともとはグリスデルガルド制覇のため聖ロドニウス教会がルドルフ一世に賦与したもの。闘いに赴く戦士の剣です。今は貴方が持つ方が相応しいでしょう」 「そんな・・・」 ―――お前達はともに血塗られた道を行け――― そんな声を聞いたのはいつのことだったか。 「旅立ちの贐に旅装束を用意させていただきました。僧侶の服装ではこれから御不自由でしょう」 「ジネヴラ様・・・」 ロナウドとともにもらった衣装に着替えると、ラインハルトは今まで身に着けていた僧侶の衣服を丁寧に畳んだ。 華麗さはないが、実用的で動きやすい。 腰に剣を刺すと一応旅の騎士の姿に見えた。 兄から受け継いだ指輪をオーブの袋にともにしまい、胸の奥深くにしまい込む。 三つ揃ったオーブは熱を持ってずっしりと重い。 こんな大切な物を僕が持っていていいのだろうか―――ラインハルトはほっと溜息をついた。 支度が終ると、ラインハルトはメモ帳にとジネヴラにもらった紙で花を折った。 数枚の紙で幾重もの花弁を持つ蓮の花を創る。 そっと息を吹きかけると、花はひらひらと舞いあがって不意に消えた。 ―――挨拶もできなかったけど、ルドルフ、元気でいてくれ――― ラインハルトはリヒャルト、ロナウドとともに里を出る。 黒ずくめの男たちに見送られて里の門を出、振り向くとそこにはもう鬱蒼と茂った森しかなかった。 |