神鏡封魔録


衝撃

  1.

絵美奈が再び目覚めた時には日はかなり高くなってしまっていた。
なかなか寝付かれず、やっと眠れたのが明け方近くだったので寝過ごしてしまったのだ。
サイドボードに置かれた夕べの花はまだ瑞々しさを保っている。
何とも不思議なものだ、と感心して、後で押し花にでもしようと思いながら、絵美奈はとりあえず伊織を探して朋之に言われた事を伝えなくては、とドアを開けて廊下に出た。

伊織の部屋のドアをノックしてみたが返事はない。
仕方なく階下に下りてみたが、家の中はしんとして人気が感じられなかった。
昨日と変わらず芳香を漂わせている綺麗な花を横目に見ながら、絵美奈は玄関から庭へ出てみた。

ポーチを辿って裏庭へ進むと、あの池の近くに伊織の姿があった。
「やあ、目が覚めた?」
「うん。いつの間にかぐっすり眠っちゃったみたいで・・・」
「それはよかった。やっぱり巫女姫様は肝が据わってるな」
「なにそれ・・・」
「大物だって誉めてるんだよ」

「そうは聞こえないけど・・・」
絵美奈はそう言ってから
「あのね、朋之・・・さんが・・・」
と伊織に朋之に言われた事を伝えようとしたが、伊織は
「分かってる、巫女姫様がここで暮らせるよう準備しろ、ってことでしょ。ま、僕もこの件に関してはそのほうがいいとは思うよ。あんなおかしな奴も出てきたことだし・・・」
と先回りしてそう言ってきた。

「朋之さんはどこかへ出かけるって言ってたけど」
「ああ、今朝早く里へ戻った。姫神様にいろいろ訊きたいことがあるらしい。僕が送っていったから」
「里、って・・・?」
「あれ、ともりんから聞いてない?僕たちの一族が住んでるトコ。言わば故郷ってとこかな」

「ふうん。訊きたいことって昨日の人の事かな・・・」
「多分ね。はっきりしたことは言わなかったけど、本当は心当たりはあったんだろうね。向こうは月読様のことよく知ってるような口ぶりだったし・・・」
「そうだよね・・・」

―――月読様・・・、僕のことなどお忘れですか・・・
確かに、そんな言い方をするのは、以前はかなり親しい間柄にあった証拠のように思われる。
そういえばあの時はかなり混乱していて気付かなかったが、今思うとあの男の声は前にどこかで聞いたことがあるような気がした。
だが、それがどこでだったのか絵美奈にはどうしても思い出せなかった。

「そんなに寂しそうにしなくても、すぐ戻ると思うよ」
「別に寂しくなんかないけど・・・」
伊織の軽口は何時もの事だと思いながらも、自分の気持ちの変化を見透かされたようで、絵美奈は少し顔を赤らめて言った。

「伊織君たちの里って遠いの?」
「まあ、かなりの長距離だね、ここからは。月読様にとっては辛い旅、ってとこかな。 場所はいえないけどまさに深山幽谷ってとこに何重もの結界を張った中に入り口があるから普通の人間ではまず近寄る事もできないだろうね」
伊織は両手を頭の後ろで組みながら言う。

「伊織君たちの里の人は皆不思議な力を持っているの?」
「人によって多少の差はあるけどね。どんな力を持つかは大体家系で決まってくるし。ただ、どうしても代を重ねるごとに力は弱まるから、余り力を失った家系は里を出てこの世界で暮らすことになる。その人たちが協力者って呼ばれていて、僕たちがこちらの世界に来た時いろいろと面倒を見てくれているんだ」

朋之の祖父と言う事になっている北条と言う人も、では先祖はその里にすんでいた人なのか、と絵美奈は思う。
「朋之さんにはお姉さんがいて、その人が伊織君の本当のご主人様・・・なんだっていってたよね」
今代の天照だと朋之は言っていた。

「うん。僕たちの一族の総帥で里長。普段は姫神様と呼ばれている方。一族で最も強い力を持つ巫女様さ」
「巫女・・・」
「ともりんの家系は里の宗主家、巫女の一族だ。だからアイツも水鏡を使ったりできるのさ」
「ふうん・・・」

「宗主家の者は、宮と呼ばれる一族のお住まいからほとんど出ることなく一生を過ごすんだ。
里のものでもその姿を見れるものはゴク限られた者達だけ。
特に女の子はいまだに親兄弟と夫になる男にしかその姿を見せないのが決まりだ。
僕だって姫神様には御簾越しにしかお会いした事が無いし」

「そうなの、でも、じゃ、朋之は・・・?」
何時の間にか呼び捨てになっているのに絵美奈は気付いていない。
伊織はクスッと忍び笑いを漏らしながら言う。
「ああ、そうだ。本来なら朋之様だってこんなところに居るはずが無い。
月読様は本来姫神様のお傍去らずで里の為にその力の全てを尽くすのが仕事なんだ。けど・・・
今代の月読様に関しては異例ずくめだ。朋之様は子供の頃からずっとこちらの世界で暮らしていて滅多に里には戻らない。
まあ里に戻った時は確かに宮から出ることはまずないんだけど」

「なぜ・・・?」
「さあね、宗主家の詳しい内情は僕には教えてもらえないからね。
僕らの一族は上下関係がかなり厳しいから、ホントは僕なんか月読様の傍仕え出来るような家柄じゃないし。月読様はそれが気に入らないんだろうね」
幾分投げやりな感じで言う伊織に絵美奈はただ
「そんな・・・」
とだけ答えた。

―――下僕根性の抜けない奴は嫌いだ
確かに朋之はそう言っていたが・・・
「月読様がこちらの世界に居るのは、学業を終えるまでってことになってるみたいだけど、僕らにとってはこちらの世界でいくら学問を積んだってほとんど役には立たない。
そんな無駄なことやってないで、少しは里の事も考えてもらいたいよ。
ただ、そのお蔭で僕もこうやって外の世界で暮らせて、それはそれで楽しいけど」

そういえば、朋之は俺は変り種だから、って言っていたっけ。
「今回の騒動にしてもちょうど僕らがこちらの世界にいたから関わることになったけど、そうでなければ月読様が直々にでてくるなんて有り得ないことなんだ」
「伊織君は・・・朋之さんの監視係なの・・・?」
絵美奈は朋之の言葉を思い出して遠慮がちに言ってみた。

「アイツがそう言ったの?・・・確かにそうとも言えるかもね。アイツ、結構無鉄砲なところがあるでしょ」
朋之の話しとは少しニュアンスが違うような気がする。

「後は・・・虫除け、かな。何ていってもモテるからね、アイツ。
姫神様としては心配でしょうがないんだろうね。
自分の容姿のこと自分でよく分かってるだけに始末が悪い。
巫女姫様もここに住むなら気をつけたほうがいいよ、見てのとおりのタラシだからさ、って、もう遅かったかな?」
そう言って片目を瞑ってみせる伊織に絵美奈は返す言葉もなく赤くなる。

伊織は夕べの事を気付いてわざと言っているのだろうか。
朋之のことを本気で好きにならないようにと・・・
「朋之さんのお姉さん、随分齢が離れてるって聞いたけど、いくつくらいの人なのかな。朋之さんが十八だから二十代後半くらいなの?」
「さあ、僕も直接顔を見たことはないから」

「そっか、御簾ごしにしか会った事無いってさっき言ってたよね。でも、何だかすごいね。まるで源氏物語みたい」
「源氏・・・?ああ、あの貴族の恋愛小説ね。僕は読んだ事無いけど。ただいくら里でもそんなことやってるのは宮の中だけだよ。昔から宗主家の人たちは他の里人とは一線を画しているから」
「ふうん・・・」

「徹底した秘密主義だからね、宗主家の内部のことはほとんどの者が詳しくは知らされない。
そうだね・・・年に一度の神事の時には時折重鎮の方々が本殿の回廊に姿を見せたりするけど、里人は近寄ることは許されないから遠くから見物できるだけだし、僕だってこのお役目がなければ月読様がどんな人かなんて、多分一生知らずに終わったと思うよ。姫神様は御簾越しにでも里人と対面することもあるけど、他の重鎮の方々はそれすらしないからね」
「ホントに変わってるのね・・・」

宮というのがどんなところなのか絵美奈には分からないが多分神社の社殿のような感じなのだろうと想像する。
余り日も射さない薄暗い社殿の中でほとんど外に出ることも無く一生を過ごす―――そんな人生があの朋之に似つかわしいとは絵美奈にはとても思えなかった。

伊織は言葉も無く俯いてしまった絵美奈の気を取り直すように
「巫女姫様の都合がよければ僕らもそろそろ出かけようか?何度か往復しないとならないだろうし」
と努めて明るく言った。
「そうだね・・・」

「巫女姫様には嫌な思いをさせてばかりで、申し訳ない。ともりんもそのことは気にしていて、なるべく早く巫女姫様をこんなことから解放してあげようと考えてるんだと思う。今日里へ戻ったのもそのためもあると思うよ」
伊織は素直な気持ちでそう言った。

「うん・・・」
なるべく早く―――朋之は少しでも早くこの騒動を終わらせたがっている。
そうしてもう絵美奈と会う必要がなくなったら朋之は・・・
本当に自分の記憶を消さずに居てくれるだろうか・・・
絵美奈はそんな考えを振り払うように首を振った。

今は取り合えず当面必要な物を運んでしまわなくてはならない。
朋之の里に戻ってからのことを思うと気の毒にさえ感じてしまう絵美奈だが、とにかく伊織と自宅へと向かうことにした。




  2.

伊織は絵美奈を自宅の近くの人気のない路地に連れて行った。
そこから二人で自宅へ向う途中、擦れ違った女の子が視線を送ってくるのを見て絵美奈は
「そういえば朋之さんだけじゃなくて、伊織君も結構モテるんでしょ?さっきの子じっと見てたよ」
とからかい半分に訊いてみた。
日頃からかわれてばかりなのでたまには逆襲してみようと、軽い悪戯心が急に湧き上がってきたのだ。

「どうなのかな、僕は日頃女の子と接する機会はあまり無いから・・・」
「そうなの?でも学校の同級生とかから騒がれたりしないの?」
「学校?・・・ああ、言ってなかったっけ、桜英学園は男子校だから」
「そうなんだ・・・!」
「ま、ともりんに変な虫がついたら大変だってことで姫神様がそう決めたらしいよ。 ご本人としては、また別の苦労があったらしいけどね」

「はあ・・・」
変な虫・・・ね。
なんて箱入りお坊ちゃんなんでしょ。
にしてもそんなに大切な弟なら何でこちらの世界に住まわせてるんだろう。
いずれは戻らなくてはならないなら、外の自由な世界を知らせることは残酷なだけではないのだろうか・・・

絵美奈はふと話が本題からずれたことに気付き、
「でも学校は男子校でも、他に女の子と知り合う機会はいろいろあるんじゃないの?」
と話題を元に戻すべくそう言ってみた。
「そりゃ、その気になればあるんだろうけど・・・」

「その気にならない・・・?」
「僕は大切なお役目の最中なんだよ。この世界に遊びに来てるわけじゃないんだから・・・」
「じゃ、その里では?時々は里に戻る事もあるんでしょ?朋之さんは里ではお家から一歩も出ないんじゃ、伊織君だってすることないでしょうし」
「ま、そうだけどね。僕は、今はそんな気になれないんだ」
コイツ、何でこんなにしつこいんだ、と思いながら伊織はこの話題はもう打ち切ろうとそう言った。

「伊織君・・・もしかして好きな人いるの?」
絵美奈はふと思ったことを口にしてみただけだが、伊織の虚を突かれたような表情に、あら、図星だったかな・・・と思った。
「僕は・・・」
絵美奈は日頃のお返しとばかり、ここぞと攻め立てる。
「いるんだ、好きな人!」

伊織は恨みがましい目で絵美奈を睨みつけたが、やがて
「ああ、そうだよ。僕にだって惚れた相手の一人くらいいたっていいでしょー!」
と半ば開き直ってそう言った。
「・・・やっぱりそうなんだ・・・」
普段おちゃらけてばかりの伊織にも本当に好きな人がいたのか・・・と絵美奈は妙なところに感心する。
いや、いても少しも不思議ではないのだか・・・

「まあね、僕はこれでも結構一途なんだぜ。初めて出合った時から僕の心に住む人はただ一人ってね、まあずっと片思いなんだけどね。でも思い切ることなんか出来そうにないんだ、だから・・・」
「へえ、伊織君て意外と真面目でロマンチストなのね・・・」
「意外は余計。僕はいつも真面目じゃない」

「本当にそうだったら朋之さんももうちょっと優しくしてくれるんじゃないの?」
「何それ、巫女姫様までそんなこと言うの?傷つくな〜」
「だって・・・、でも伊織君の好きな人ってどんな人?その里に住んでいる人なの?」
「うん、そうなんだけどね、まあすごく綺麗な人だよね。髪が腰くらいまで長くて・・・」

「ふうん、じゃ、こうして離れていたら寂しいわね。今日だってせっかく戻ったのに・・・」
そう言って絵美奈は、きっと自分のためにすぐにこちらに戻る様朋之に言われたんだ、と気が付いた。
「・・・あのさ、伊織君は朋之さんの護衛の仕事、余り好きではないんでしょう、だったら・・・」
「どうして、とんずらこかないかって訊きたいんだろう。
理由は簡単、あの月読にいびられて逃げ帰ったなんて思われたくない、それだけさ」

「はあ・・・」
「僕が里に戻る時は無事お役目完了の時か、姫神様から伊織にはもっと重要な役目を任せたいからってお達しがあった時か、そのどちらかだと思ってる。
我儘者の月読様のお守りも出来ない役ただずだなんて思われたくないからね。
だって僕は最強の戦士を継承したんだぜ。そりゃ、朋之様だって一応は宗主家の貴種筋の方だからこうしてお傍近く仕えられるのは名誉ではあるんだけどさ。
だから我慢して一緒にいてやってるっていうのに、あの野郎、護衛役が僕では役不足だから他の者に代えてくれなんて姫神様に直訴しやがって。
冗談じゃないさ。だから僕はアイツが僕の実力を否応無く認めざるを得なくなるまでアイツの傍から離れないんだ」

「なんだか複雑なのね、あんたたちの関係って・・・」
「そうかな・・・」
「伊織君は朋之さんのことがやっぱり嫌い・・・?」
「そりゃ、どちらかと訊かれれば嫌いだよね。いつも外の世界にばかりいて里の事なんか考えようともしない、あんな奴がなんで・・・。あ、ごめん、僕ついムキになっちゃったね・・・」
「ううん」

「ま、月読様は女の子には優しいからね」
そう言っているうちに家に着き、伊織は
「とりあえず君の家族に暗示をかけさせてもらうよ。君の事を心配して騒がれても困るから。巫女姫様は引越しの仕度して」
と言う。

着替えや身の回りのものを旅行用のボストンバッグに詰めながら、絵美奈は朋之と伊織の微妙な感情のすれ違いは何によるものなのだろうと思う。
家に戻り家族の顔を見るとやはりほっとする。
朋之の傍にいられるのは嬉しいが、やはり家族とは違う。
そう言えば朋之も伊織も家族と離れて暮らしているのだ、その二人が互いに離反し合っているなんてなんだか寂しい。

伊織に手伝ってもらって何とか荷物を運び終え、一段落ついたのは午後になってからだった。
絵美奈は空腹を覚えたが伊織は別になんともないようなので、
「もしかして神様って食事しなくて平気なの?」
とつい訊いてみた。

「まあ、この人間としての身体を保つには食事しないわけにはいかないけどね、僕らは少しなら必要な栄養分を体内で作り出せるから。でも、巫女姫様はお腹すいたよね、ごめんね、気が利かなくて」
ファミレスで伊織と遅い昼食をとりながら絵美奈は伊織の事を色々と訊いてみた。
家族の事とか、里では一体どんな風に過しているのかとか、そして一番気になる伊織の好きな人のことを・・・

伊織たちの里ではいまだに近代文明とは無縁の自給自足の生活が営まれており、ほとんどの者は半農半猟で暮らしを立てている。
服装も和服で、昔の百姓や猟師のような格好をしているのだそうだ。
ただし、こちらの世界と全く交流がないわけではなく、この世界の事も情報としては入ってくるが、常人では持ち得ない力を持っている里人にとっては便利な機械など必要ないので、そのようなものがなくとも充分生活は成り立っているのだということだった。

伊織は両親と祖母と姉二人の五人家族で、祖父は二年前亡くなっていてその人が先代の建御雷神だったらしい。
伊織は十三歳でその地位を継いだのだが、それから間もなく朋之の傍仕えとしてこちらの世界に来る事になったのだという。
まだ幼すぎるということでその任を他の者にと言う意見がなかったわけではないが、姫神様が決めたことに異を唱えられるものなど里にはいないということだった。

絵美奈は先程の、朋之が姫神様に直訴したという話を思い出し、どうして朋之はそんなことを言ったのだろうと思った。
結局聞き入れられる事などないと朋之も分かっていたろうに・・・

「伊織君と朋之さんは幼馴染なの?」
絵美奈はふと聞いてみた。二つ違いなのだから子供の頃は一緒に遊んだりしたのだろうに。
「いや。さっきも言ったけど、朋之様は宗主家のなかでも貴種筋の方だから里人には姿を見せない。
僕も、このお役目につくまでは一度しか会ったことがないんだ。
そのときはこの世界の服を着ていたし、すごく変わった人だなと思ったけど」

「そのわりには仲良さそうじゃない?」
「そうかな・・・、まあ、こちらの世界では、僕は結構自由に振舞わせてもらってるとは思うよね。でも少しくらいは息抜きできなくちゃ、やってられないしさ。
僕は姫神様のためにこそ自分の力を存分に発揮したいんだし」
伊織はそう言って少し遠くを見るような目つきをした。

絵美奈は
「ねえ、伊織君の好きな人ってどんな人なの?」
とさりげない風を装って聞いてみる。
「うん、まあ、すごく綺麗な人だよ」
「それはさっき聞いたよ。他には・・・?」
「他にって・・・」

「そうね・・・例えば・・・伊織君と同い年?それこそ幼馴染なの?里では何をやっている人なの?」
「そうだね・・・」
伊織はなかなか口が重かったがしつこいくらい聞き続けてやっと分かったのは、相手が伊織よりは少し年上で、身分もずっと高いのでどの道伊織とは滅多に会えないということだった。

話し振りからしてどうやら姫神様に仕える巫女をしているらしい。
とすれば、朋之ならいつでもその女性と会えるのだろうが・・・
もしかして伊織と朋之の軋轢の原因はその辺にあるのかもしれない、と絵美奈は漠然と感じた。
朋之はどんな人が好みなのだろう。
前には妹の裕美奈と随分楽しそうに話していたから、年下の活発な女の子が好きなのかな、と思ったが。

伊織は絵美奈の問に答えながら朋之の瞳を思い浮かべる。
宗主家の一員の徴である深緑色の瞳は、里では純血と力の象徴とされている。
日の光の下ではただの黒い瞳に見えるが、薄闇の中では鮮やかな緑色に輝く不思議な瞳―――
それはまた自分には手の届かない相手であることの証でもあった。

あれから何年経つのだろう・・・
幼き日、里人は決して立ち入りを許されない宮と呼ばれる宗主家の内殿の、更に内奥の不思議な神殿で出会った美しい少女―――
伊織の気配に、腰まである長い髪を翻して振り向いた時の優雅な姿は、今でも鮮やかに脳裏に焼き付いて離れない。

背が高いので大人だとばかり思ったが、伊織とまっすぐに向き合ったその顔は、思ったよりずっと幼かった。
日差しのほとんど差し込まない神殿の内は昼なのに夕暮れのように薄暗い。
その薄闇のなかで少女の瞳は鮮やかな緑色に煌いていた。
お前は誰だ・・・

「伊織君、どうかしたの?」
その声にはっと我に返る。
「ああ、僕、ぼんやりしてた。ええと、何の話だっけ・・・」
そう言いながら伊織はふと窓の外に視線を転じた。
つられて絵美奈もそのほうを見る。
一瞬で伊織の目付きが厳しくなった。

「伊織君、どうしたの・・・?」
と問う絵美奈に伊織は
「ちょっと気になる事があるんだ、すぐに戻るから待ってて」
と言って、人目を気にしたのかすっと入り口から出て行った。




  3.

しばらく待っていたが伊織は一向に戻ってくる気配がなく、絵美奈はいつまでも席に座っているのが気まずくなってきた。
心の中で呼びかけてみても返事はなく、その後さらにしばらく待ったが伊織が戻ってこないので、絵美奈はとうとう居たたまれなくなってファミレスを出た。
一応店を出てすぐ辺りを見回してみたが伊織の姿はやはり見あたらない。
しかたなく絵美奈は一人で洋館へと向かった。

合鍵を渡されているので家の出入りには問題ない。
そう思って歩いて帰る途中で、絵美奈は朋之が道路の反対側に立っているのに気付いた。
急いで道路を渡り駆け寄る絵美奈に朋之はにっこりと笑ってみせる。
「朋之、戻ったんだ。伊織君は?」
伊織が戻ってこなかったのは朋之を迎えに行ったからなのか、と思い絵美奈は朋之に訊いてみた。

「さあ、アイツとは別行動だから・・・」
「そうなの?じゃ、まさか、鳥に乗って戻って来たの?」
朋之と伊織の里はかなり遠くにあると伊織は言っていたのに・・・
「どうしたんだと思う?」
「朋之・・・?」

「少し歩かないか?向こうに公園がある」
朋之はそう言って先に立って歩き出す。
「あ、待って」
絵美奈も慌てて後を追った。
朋之の言葉通り少し先に広々とした公園があって、子供たちが遊びまわる傍ら、カップルがベンチや芝生に腰掛け楽しそうに話し合っていた。

「へえ、こんなところが近くにあるなんて」
「たまには気分も変わっていいだろ?ここんとこ気が滅入ることが続いたし・・・」
「うん・・・」
気を使ってくれているんだなと思うと無性に嬉しくなって舞い上がる気持ちを自分でも押えきれない。
そんな絵美奈の気持ちを知ってか知らずか朋之は優しい笑顔を浮かべる。

「あの、私・・・、私ね・・・」
絵美奈は朋之の腕にそっと触れながら呟くように言う。
「どうした?」
甘い囁きとともに朋之の手が絵美奈の頬に触れる。
絵美奈は朋之の胸にその身を預けた―――その瞬間

強い光が瞬き、激しい火花が辺り一面に飛び散った。
絵美奈は強く弾かれ尻餅をつく。
―――くそっ、月読の奴、姑息なことを
頭を刺し貫くようにそんな声が響き渡る。
すぐ近くで遊んでいた子供が驚いて火がついたように泣き出した。

一体何が起こったのか・・・
呆然と座り込む絵美奈に子供の母親らしい女性が、
「あなた、大丈夫?」
と声を掛けてくれた。

絵美奈の周りに公園にいた人たちが集まってくる。
「どうしたの?」
「何かか爆発したみたいだ」
「確か男の子がいたはずなのに・・・」
そうだ、朋之は・・・
朋之が立っていた辺りに何かが落ちている。
焼け焦げた小さな白い紙―――

「何だ、これ・・・」
野次馬の一人がそれを拾い上げようとするのを絵美奈は咄嗟に奪い取った。
「だめっ!」
これを普通の人間に見られたらまずい・・・
恐怖でパニックになりながらも絵美奈は直感的にそう思ったのだ。

誰かが通報したらしくサイレンの音がしてパトカーが公園に乗り入れてきた。
―――どうしよう、朋之・・・、どうしたらいい?
近付いてくる警官の姿に絵美奈は頭の中が真白になってしまった。

そのとき肩に暖かいものが触れ、絵美奈は急に心が軽くなった。
「お騒がせしてすみません、僕たちちょっと手品の練習をしていたんです。使う薬品の量を間違えてしまって・・・」
驚いて見上げた絵美奈の眼に朋之の姿が映る。
―――大丈夫だ。俺が何とかするからお前は何も喋るな

「手品の練習って、こんなところでかい?」
二人組みの警官が不振そうに尋ねるが、朋之は少しも動じずにあくまで練習中の事故と言い続けている。
しばらく押し問答を繰り返した挙句、朋之と絵美奈は近くの交番で事情を聞かれることになった。

周りを取り巻いていた野次馬もブツブツ言いながら三々五々散っていく。
「まったくはた迷惑な話よね」
「何考えてるのかしら・・・」
「小さな子もいるのに、怪我でもしたらどうするのよ・・・」
と言う声が聞こえてくるが、朋之は素知らぬ顔をしている。

結局交番でさんざん絞られた挙句、保護者に連絡すると言われ、絵美奈はどうしようかと冷や冷やしたが朋之は平然としたもので、ふっと笑って差し出された用紙に住所氏名、保護者名などを書き込んでいる。
警官は絵美奈にも書くように言ったが朋之は
「これは妹ですから」
と言って絵美奈には書かせなかった。

そんな嘘が通るのだろうか、と絵美奈は思ったがいざ保護者に電話する段になって警官は急に気を変えたらしく、
「今日はもういいから、早く家へ帰りなさい」
と言い出した。

えっ、と驚く絵美奈の手を強く握りながら朋之は
「じゃ、そういうことで・・・」
と言いって立ち上がる。
受話器を持ったままぼんやりとしているもう一人の警官の手から先程書かされた紙をすばやく回収し、朋之は絵美奈を引っ張るようにして交番を出た。

しばらく何事も無かったかのように歩き続け、交番からだいぶ離れてから朋之は
「危なかったな、大丈夫か?」
と尋ねた。
「私、何がどうなっているのか・・・」
「全く、伊織の馬鹿は何をやっているんだか。お前から離れるなと言っておいたのに・・・」

その言葉に絵美奈は朋之の顔をまじまじと見つめて、
「今度は本物、よね・・・」
と尋ねた。
「ああ、この俺に化けるとは随分となめたマネを・・・」
朋之はそう言って軽く顔を顰めてみせる。
「伊織君と一緒じゃなかったらどうやって戻ったの?」
「ちょうどこちらの世界に戻る者がいたので乗せてきてもらったんだ」

「こちらに戻る人?」
「そう、俺たち天つ神の一族でもこちらの世界で暮らしている者もいるんだ。本当はお前にも紹介したかったんだけど、さっきの騒ぎで逃げ出してしまった。
あいつは人間が苦手なんだ」
「ふうん・・・」

「そうだ、家に戻る前に人騒がせな式神を始末してしまおう」
朋之はそう言って人気の無い路地に入ると、ずっと握ったままだった絵美奈の手を離した。
「式神?」
「まだ持ってるだろう?俺に化けてたヤツ・・・」
「あ・・・」

絵美奈はさっき咄嗟に野次馬から奪い取ったものを慌ててポケットにねじ込んだ事を思い出し、取り出して朋之に見せた。
絵美奈自身もよく見ていなかったが、それは人の形に切られた小さな紙に長い髪の毛が数本巻きつけてあるものだった。
紙にはあちこち茶色い焼け焦げが出来ている。

朋之はじっとそれを見詰めていたがやがて手に取りグッと握りつぶす。
ジュウジュウといやな音がし握り締めた拳の中から煙が立ち昇り始めたのを見て、絵美奈はキャッと小さく悲鳴を上げたが、当の朋之は平然としたままじっと握り締めたこぶしを見下ろしていた。
煙が薄くなり完全に消えてから朋之は手を開いたが、その手の中にはもう何も残っていなかった。

「朋之・・・」
恐る恐る見上げる絵美奈に朋之は
「そんな顔するなよ。コイツ、ちゃんとお前のことを守っただろ」
と言ってその胸のブローチを指し示した。

「じゃ、さっきのはこれが・・・?」
「まあな、少し派手すぎちまったようだけどな。それより、あの阿呆を捕まえてとっちめてやらないと・・・」
「伊織君のこと?」
「ああ、アイツはエネルギーが余りすぎだ。だから・・・」
そういいかけて朋之は絵美奈の表情を見て言葉を止めた。

「どうかしたのか?」
「あの・・・、私は大丈夫だったんだし、伊織君のこと余り責めないで上げて・・・」
絵美奈はどう言ったらいいか良く分からなかったが、とにかく朋之と伊織が諍うのは見たくないと思った。
朋之はしばらくぽかんと絵美奈を見つめていたが、やがてクスクスと笑い出した。

「ちょっと、そんなに笑わなくたって・・・。私そんなおかしなこと言ってないでしょ!」
「分かったよ、他ならぬ姫巫女様のご要望だ。お言葉に従いましょう」
朋之はまだ笑い続けていたが、絵美奈が、
「もう、何がそんなにおかしいのよっ!」
と怒り出したので、
「はいはい」
と言って真面目な顔をして歩き出した。

だが数歩歩いてまた噴き出している。
何なのよ、全くコイツらの関係ってわかんない・・・
絵美奈と朋之が家に戻ると玄関脇のポーチに一人の女の子が佇んでいた。



  4.

「おう、もうとっくに帰ってしまったのかと思っていたぞ」
少女の姿を見るなり朋之は歩みを速めながらそう言った。
「月読命様・・・」
白拍子を思わせる白の水干姿の小柄な少女は朋之を見上げてとても嬉しそうに笑う。
清楚なイメージの可憐な美少女だ。
この一族は美形揃いなんだな、と絵美奈は改めて思った。

闇御津羽クラミツハ、こちらが先程話した巫女姫だ」
朋之はそう言ってその少女に絵美奈のことを指し示した。
少女はチラリと見遣っただけですぐに視線を朋之に戻す。
「月読様、私はこれで失礼いたします。また何か御用が御座いましたら・・・」
「闇御津羽よ、ご苦労だった。そなたのおかげで助かった」
「勿体無いお言葉で御座います」

「闇御津羽、棲み処に戻ってしまう前に今ひとつこの月読の頼みを聞いてもらえるかな」
朋之が蕩けるような甘い声でそういうと相手はぽっと頬を染め、
「頼みなどと、月読様、この私でお役に立つことでしたら何なりとお命じ下さいませ・・・」
とうっとりと見つめながら答えた。
なるほど、確かにタラシだ・・・
それに女の子には優しいわ・・・

不機嫌そうに見守る絵美奈の気持ちを他所に朋之は
「では、闇御津羽、建御雷を探して至急こちらに戻るよう伝えてくれ」
と言った。
闇御津羽と呼ばれた少女は「御意。」と一言呟くと一筋の光となって、天空へと真っ直ぐに上っていってしまった。
唖然として見守る絵美奈に朋之は笑いながら
「驚いたか?あれはわが同族、静謐な渓流に住む水の神、闇御津羽神だ」
と言った。

「随分と仲がいいみたいね・・・」
軽く無視されていた絵美奈は少し膨れながらそう呟いた。
「まあね。なかなか美人だろ。普段は人間の前には絶対に姿を見せないんだが、どうやらお前の事は気に入ったみたいだな」
「え〜、そうは見えなかったけどな・・・」
あの人、朋之のことしか見てなかったじゃないの・・・
そう思い絵美奈は憮然とした表情で朋之を見上げた。

「人間が苦手なんだよ。すごい人見知りだし。でも戦士としては超一級だけどな」
朋之がそう言って笑ったときふっと伊織が姿を現した。
「やあ、月読様、お早いお帰りで。お呼びくださればお迎えに上がりましたのに・・・」
と相変わらず呑気なことを言っている。

「闇御津羽から何も聞かなかったか・・・?」
その冷たい声音にも少しも同ぜず
「はあ?何をですか・・・」
と答えるのを見て朋之は
「もういい、それより一体どこまで行ってたんだ?また振り回されたのか?」
と尋ねた。

「振り回したのはこっちですけどね。相手も思ったよりしぶとくて、最後はあの闇御津羽に美味しいところを持っていかれました」
「俺は巫女姫から離れるな、と言ったはずだが・・・」
「でも、こうしてご無事でいらっしゃるんだからいいじゃないですか。どの道こちらに手出しなどできないでしょう」
伊織はそう言って揶揄するように笑ったので朋之は少しばかりむっとしたようだが、くるりと背を向けると黙って家の中に入ってしまった。

「へえ、珍しい。月読様がこんなに大人しいなんて。巫女姫様の前だからカッコつけてんのかな・・・」
と呟きながら伊織は絵美奈を促してともに家に入る。
絵美奈はさっき自分が言ったことを聞いてくれたんだろうか、と思いながら朋之の後を追って何時もの応接間に入った。

朋之は伊織に追って言った気配のことを詳しく聞き、じっと考え込みながら言う。
「そいつらは国つ神だったのだろう。もともとお前と対等に渡り合えるはずが無い。
目的は時間稼ぎだ、お前を巫女姫から引き離しておくための・・・
そんな手にむざむざと乗るヤツがあるか」
「そうは言っても、こちらとしても少しでも手がかりが欲しいところですからね」

「と言う事は何か収穫があったのか・・・?」
「まあ、国つ神総動員といったところですか・・・。ただ、そんな号令をかけれるものといえば限られてきますけどね。で、そちらは?」
「ぼちぼちと言ったところだな。例のものも完成を急ぐよう尻をたたいてきたが、アイツはアイツで頑固だし、全く疲れることだ・・・」

絵美奈の前だからか二人とも話らしい話はそれくらいで、朋之は伊織を絵美奈のために、コンビニへ食料の買い出しに行かせた。
平日は家政婦が来て食事を作ってくれているらしいが、土日はいつも自分たちで調達しているらしい。
おそらくまともな食事はしていないだろうと絵美奈には思われたが・・・
朋之と二人になって絵美奈は先程のヒトガタのことを尋ねた。

「あれは一体何だったの?」
「だから術者が式神を俺の姿に変えてお前に近付けようとしたんだ。お前がいなければ封印は出来ない事を分かっていやがる」
「あの、紙に巻きついていた髪の毛は、じゃあ」
「あれは、俺の髪の毛だ」
「えっ、だって随分長かったように思うけど・・・」

朋之は男としては髪が長い方だとは思うが、あれはぱっと見にもかなり長い髪の毛だったように思えたけど・・・
「前に髪の毛を伸ばしていた事があるんだ。成人した時にすっぱりと切ったんだけどな」
「成人?だって朋之はまだ・・・」

「俺たちの里では十五歳で成人だ。誕生日に成人の儀を行い、一人前として認められる。
俺も十五の誕生日に成人の儀式を受けたが、そのとき同時に月読の位を正式に継承することが決まっていたから、その儀式のために髪を伸ばすよう、姉上に言われていたんだ」
「へえ」

何故儀式に長い髪が必要なのか絵美奈にはよく分からないが、最近あまりにも驚く事ばかり耳にしたせいか、そんなことはどうでもいいように思え、ただ感心して頷いていた。

「髪の毛があればその人間そっくりの式神を作れるの?」
「ああ、髪の毛でなくてもその人間の身に付けているものがあれば、な。
そのものの密着度が高ければ高いほど精度のいいニセモノが作れる。
そう長い事持続させる事はできないが」
絵美奈は前に朋之がピンを絵美奈そっくりの女の子に変えたことを思い出した。

「でも、あの時朋之が来てくれてよかった。私一人だったらどうしていいかわかんなかったよ」
「姉上の水占にお前が危険だと出たので、急ぎ戻ったんだ。
伊織を呼ぼうか迷ったけど、あいつはお前と一緒だとばかり思っていたからな。
ちょうどこちらへ着いた時、お前があの式神と公園へ入っていくのを見かけて慌てて後を追ったんだが・・・」

「そうだ、このブローチ、一体どんな術をかけていたの?コレがいつも守っていてくれることは何となくは感じていたけど」
「倍返しの術―――お前に術をかけたものにはそれが倍になってその術者に返るという術さ。
詰まらん術ならさっき見たとおりだ。逆にそれなりの能力を持つ術者ならコレに仕掛けられた術を読み取ってお前に滅多な事は仕掛けてこないはずだ」

「あいつ、私に何をしようとしたんだろ」
絵美奈はゾクっと大きく震えながらそう呟いた。
朋之は安心させるように絵美奈の頭をそっと撫でてくれた。
「おそらくお前を気絶させるため軽い電撃技でもかけてきたんだろうな」

「こんなことがまた起きるの・・・?」
絵美奈は朋之の腕に頭を預けながら呟くように尋ねる。
「起きないとは言い切れないが・・・」
その言葉に絵美奈は朋之に強く抱きついた。

「私、恐いよ・・・。もっと強くならなきゃ、って思うけど、でもやっぱり・・・」
「ああ、そうだな・・・」
朋之の温もりを感じながら絵美奈はずっとこうしていたいと思う。
この人が傍に居てくれたら少しも恐くないのに・・・

伊織の戻った気配に絵美奈はパッと身体を離したが、伊織は二人の様子に何か感づいた様子だ。
ほんの一瞬過ぎった微妙な表情とそのすぐ後に浮かんだ揶揄するような微笑にそれが現れている。
簡単な食事を済ませると、朋之は絵美奈に部屋で休むように言った。
恐らく伊織と自分には聞かせたくない話をするのだろう。
それは少しでも自分に心労をかけまいとする配慮なのだろうが、いつまでたっても仲間だと思ってもらえていないようで、少し寂しかった。



  5.

「それで、あの男は一体誰なんです?」
絵美奈の姿が消えるなり伊織はそう口火を切った。
「あれは・・・」
伊織の問いに口を開きかけた朋之だが、そこまで言って
「いや、きちんと確証が取れてから言おう。
それより、お前の方はどうなんだ。敵の目星はついたようだが・・・」
と逆に相手に聞き返した。

「そりゃ、国つ神の代表といえば、貴方もよくご存知でしょうに」
「・・・須佐のことを言っているのか?」
「ご本人でないとしてもその系統のかなり上位の者でしょうね」
「分からんな、この世が乱れて困るのはむしろアイツ等ではないのか・・・?」

「あの連中もうまく踊らされているだけかも。
なにせこの件にはわれらの同族が絡んでいる、そうでしょう。それも貴方と顔見知りの飛び切り上貴種の天つ神が」
「・・・ああ、そうだな・・・」
そう言ったきり俯く朋之をしばらくじっと見詰めていた伊織は
「その野郎のこと、僕には教えては貰えないんですね」
と焦れたような口調で言った。

「ホントにそいつかどうか・・・姉上の話と食い違いがあるんだ。
だから、今夜また封印が破れた時あの男が現れたら確かめてみようと思う」
「朋之様・・・」
「何か起こるにしてもまだ間があるはずだ。俺たちも部屋で休もう。昼はお互いいろいろあったからな」
朋之はそう言って立ち上がるとドアへと向かう。

「そういえば、昼間何があったんですか?闇御津羽がどうとか言ってましたけど」
伊織も後を追うように立ち上がりながらそう訊ねた。
「巫女姫が式神に襲われたんだ。まあ大事には至らなかったが」
朋之にそう言われ伊織は
「まさか、白昼堂々と?」
と驚きを隠さずに訊ねる。

「ああ、随分と舐めた真似をしてくれるものだ。
だが、これからも度々こんなことが起きるかもしれないから、お前はできるだけアイツの傍を離れるな。
今回のことでかなり神経質になってるからな」
「それなら僕じゃなくて貴方が・・・」
と言いかけたが、朋之は取り合わず部屋を出て行った。

仕方なく伊織も部屋へと戻る。
自分が誘い出された間に巫女姫が襲われた―――
普段の朋之ならもっと怒るところだろうに、一体姫神様からどんな話を聞いてきたのか・・・
伊織は黙ったまま俯いていた朋之の姿を思い浮かべる。
昨夜の男のことを考えているのか、その瞳はいつになくどこか精彩を欠いていた。
純血の証である深い緑色に輝く瞳―――
ソファに深く腰を落としながら伊織は軽く目を瞑った。

あの時自分は幾つだったろうか。
幼い日、祖父である先代の建御雷に連れられて訪れた宮の本殿。
かなり長い時間待たされて退屈していた伊織は祖父の許しを得て宮の前庭で遊んでいたが、ふといつもは強固に張られている宮の結界が、なぜか緩んでいる事に気がついた。
ほんの僅かな間だが、伊織が入り込むには充分な時間だ。
気がついたときには伊織は宮のかなり奥まで入り込んでいた。

決して入ることの許されない内殿と呼ばれる宮の奥が一体どうなっているのか伊織は興味津々だった。
伊織がついたのは長い長い廊下の真ん中で、伊織は更に奥を目指してその廊下を駆け出して行った。
やがて道なりにたどり着いた不思議な部屋の入り口。
その部屋は薄暗いが品よく飾りたてられた神殿で、部屋の中央に後ろ向きに立ってる人がいた。

まずい、見つかったら叱られる―――
とっさに身を隠そうとした伊織だが、こちらの気配にゆっくりと振り向いた相手の姿になぜか体が金縛りに合ったように動かなくなった。
天女?羽衣を纏って天から舞い降りた・・・
なぜか伊織の頭に祖母から聞いた昔話が浮かぶ。
それくらい相手の動きは優雅で煌びやかに見えた。

その人は姫神様に仕える巫女たちと同じような服装をしていたが、他の巫女たちの衣装が純白であるのに対し、その人物の衣装の色は皆とは違って鮮やかな浅黄色だった。
腰まである癖のないさらさらの長い髪が両肩から零れるように流れ落ちている。

「お前は誰だ?見たところ子供のようだが、ここは男子禁制のはずであろう?」
抜けるように白い肌に映える艶やかな黒髪、そして何より長い睫に縁取られた綺麗な二重瞼の切れ長の目。
その深緑色の瞳は相手が宗主家の者であることを表していた。
幾分居丈高な口調は常に周りから傅かれていることを物語っている。

「自分だって・・・」(子供のくせに・・・)
多少の反発を感じながらそう言った伊織に
「僕は特別だ」
と少女は冷たく言い放つ。

「変なの、自分の事を僕、だなんて」(女の子なのに・・・)
「自分の事を僕と言って何が変なんだ。お前、頭のほうは大丈夫か?」
自分よりは少し年上だろうその少女に平然と決め付けられて、伊織は咄嗟に反す言葉を見つけられず、ただ黙って唇を尖らせた。

女でも強い力を持つものは戦士として扱われ、言葉遣いも態度も男並みの者が沢山いる。
事実目の前の少女もかなり強い力を持っていることは伊織はすでに感じ取っていた。
それでも何だか生意気だ。いくら宗主家の娘だからってあんな言い方しなくても・・・

「早く僕の質問に答えろ。何用あってこんなところまで入り込んだのだ。ここは決められた者以外は立ち入る事の出来ぬ場所だぞ」
「あちこち歩いているうちに迷い込んでしまったんだ・・・」
伊織は呟くようにそう言ったが少女は間髪を居れず
「嘘だな。普通のものはここまで入る事は出来ぬ。お前が今ここに居ると言う事はお前には特別な力があるということだ。
そのお前が迷ったりするはずがない。お前は自分の意志でここに来たんだ、そうだろう?」
と高く澄んだ声で、伊織に刑罰を宣告するような口調で言った。

「僕は・・・」
「どうやら何かの事情で結界が緩んだと見える。結界が元に戻る前に早く立ち去れ。ここまで入り込んだことが知れたら子供といえどもきつい仕置きを受けねばならぬだろう」
「でも・・・」
「何か用があるのか?」
伊織はなぜかこの少女ともっと話していたかった。
「僕は伊織というんだ・・・」
少女は怪訝そうな顔で
「それで・・・?」と訊ねる。

その瞳がきらきらと瞬きながら自分を見つめていることに不思議な昂揚感を覚えながら伊織は
「それで、って、だから・・・君は何ていうの?」
と呟くように言った。
少女はほんの少し目を見開いたが、やがてふっと口元を綻ばせ、
「生憎だが狼藉者に名乗る名など持ち合わせぬ」
と言い放った。

なんて綺麗ななんだろう・・・
その冷たい口調も相手の笑顔に見惚れる伊織には少しも気にならない。
伊織は思わず少女に一歩近付こうとしたが、その瞬間何か目に見えないものに弾かれて思い切り後ろに飛ばされていた。

遠くから駆けてくる足音が近付いてくるのが聞こえ、姫神様に仕える巫女が姿を現した。
巫女は伊織に気付く事はなく、扉の前で中の少女に声を掛ける。
「大変です、何者かが内殿に侵入した模様です。こちらに不審な者が参りませんでしたか?」
「さあ、僕は知らないが・・・こんな奥まで入り込まれるほど宮の警備はお粗末なのか?」

先程の少女が少し意地悪そうに答えるのを聞きながら伊織は
―――僕がお前の気配を消したから誰にも見咎められぬはずだ。今のうち早く外へ出ろ!結界が元に戻れば出られなくなるぞ
と言う声が頭に響くのを感じ、その瞬間その場から弾き飛ばされていた。

伊織は宮の前庭に戻っていた。
あの少女の言ったとおり、結界はすでに元通り蟻一匹入り込む隙もないほどに強固なものに戻っている。
伊織が宮の奥深くまで潜り込んだ事はとうとう誰にも知られることなく、伊織は何のお咎めも受けずに済んだ。

結局あの娘は僕を助けてくれたのか・・・
そう思うと伊織はどうしてもあの少女の事が忘れられなくて、折に触れては宮の周りをうろうろしてみたが、宮の結界が緩む事は二度となく、伊織が目当ての相手に会えることもとうとう無かった。

宗主家の人々は滅多に宮から出る事無く一生を過す決まりだ。
特に女性は兄弟と夫になる男にしかその姿を見せないのがしきたりだった。
事実姫神様も人と会う時はいつも御簾越しでお言葉は傍仕えの巫女が伝え、決して里人にその姿を見せる事はない。
では、自分に姿を見られてしまったあの少女は・・・大人になったらこの自分を夫に選んでくれるだろうか・・・
まさか・・・伊織の家は宗主家の娘を嫁に娶れるような家柄ではない。
それでも、もしかして・・・

いつまで経ってもあの娘の面影が頭から消えず、伊織は思い切って両親や姉に宗主家の少女の事を尋ねてみたが、誰に訊いても宗主家に伊織と同じくらいの子供がいるなどと言う話は聞いたことがないと言われてしまうのだった。
でもあの娘が宗主家の者である事は間違いない。
もしかしたら次の姫神様になる人なのだろうか。
そうでなくても結婚の相手はもう決まっているのかもしれない。
どの道あの娘と会える事はもうないのだ・・・

あの少女の事を思うとなぜ胸が締め付けられるような気分になるのか伊織には分からない。
ただ、このまま二度と会えないとしても、忘れる事も出来ないだろうということだけは分かっていた。
あれから何年も経ち、伊織はもう子供ではなくなった。
そしてあの少女も・・・
幻のような相手にいつまでも未練たらしくて男らしくない、とは思うのだが、それでも・・・

里にいる時もこちらの世界に来てからも、絵美奈に言われたとおり伊織にはいろんな女の子が近寄ってきた。
自分は結構魅力的に見えるらしい。
だが、どんな女の子と一緒に居てもどこか寂しかった。
あの冷たく美しい少女の面影がいつもちらついて、目の前の相手に夢中になることはできなかった。
いくら想っても叶うはずのない相手だということは充分すぎるくらい分かっているはずなのに・・・

封印の鏡が割れる音が空を切り裂く。
応接間のテーブルに置かれた鏡の鏡面に無数のヒビが走り、欠片が飛び散った。
いつの間にかうたた寝していたらしい。
伊織は弾かれたように立ち上がり、廊下へ飛び出した。

朋之と絵美奈も各自の部屋から顔を覗かせる。
どちらも冴えない表情をしているところを見るとよく眠れなかったらしい。
「月読様、鏡が・・・」
「ああ、破れは一箇所ではないようだ。手分けするか・・・」
朋之はそう言って伊織に何事か囁く。
伊織はすぐに絵美奈の手をとって移動を開始した。