神鏡封魔録


華燭

  1.

絵美奈が着いたのはいつか黒翅蝙蝠を封印した場所に似た鄙びた山間部で、小さな大地の裂け目から蜘蛛のような生き物が後から後から這い出してきていた。
手足が以上に長く、背には幾何学的な模様がついている。
「巫女姫様、あれは土蜘蛛の子供たちだ。親はまだ裂け目を破れずにいる・・・」
「あの蜘蛛を封印してしまえばいいの?」
伊織が頷くのを見て絵美奈は鏡を向けて封印の呪文を唱えた。

蜘蛛たちは拍子抜けするくらいあっけなく鏡に吸い込まれる。
だが、まだ大きな塊が地中に潜んでいる―――絵美奈にはそう感じられたが、それを引きずり出して封印する事はできなかった。
「とりあえず今はこれ以上は無理だと思う。ここは後でともりんに結界を張ってもらうことにして次の場所へ行くよ!」
伊織にそう言われ絵美奈は有無を言わせず別の場所に連れて行かれた。

次に着いたのは閑静な住宅街の中で、いつか見た光景そのままに空中に無数の金粉が街灯の灯に煌きながら静止していた。
絵美奈はデジャヴを見るような奇妙な感覚に捕らわれる。
「伊織、巫女姫!」
二人を認めて朋之が駆け寄ってきた。
「覚えてるか、いつかの毒蛾だ。とりあえず時を止めたが長くは持たせられない。急いで封印してくれ」

「月読様、先程封印してきた場所ですが、あのままではいずれまた・・・」
伊織の言葉に
「分かっている。あと一箇所のメドをつけてからそちらへ向う。お前たちはここの封印を急げ」
と朋之は言い、顕現させた鳥に乗って飛び去った。

よく見ると遊歩道の真ん中から黒い霧とともに数匹の蛾が噴き出している。
「ここはもともとは川だったところを道路にしたものらしいね。まったくこちらの世界の人間はおかしなことをする・・・」
すぐに風が流れ始め、制止していた金粉が風に乗って散らばり始めた。
さいわい鱗粉を撒き散らしている蛾は少ないようだ。
絵美奈は急ぎ封印を済ませ、伊織とともに朋之の後を追った。

「一体何箇所封印が破れたの?」
と情けない声を出す絵美奈に伊織は
「僕が感じたのは三箇所だ。あと一箇所だから頑張って」
と答える。
最後の場所は小さな港町で、サイレンが間断なく鳴り響いていた。
海も陸も普段と変わらぬ姿でそこにあるといった感じだが、人間だけが喚いたり地面を転がりまわったりしている。
その姿に絵美奈は嫌な予感を覚え、
「もしかしてこれ・・・」
と呟いた。

朋之はと辺りを見回すと、沖合いの海上にぼうっと光るものが宙を漂っているのが見えた。
「巫女姫様、どうやら妄蛾がまた現れたらしい」
伊織が叫ぶ。
すぐに朋之が宙を飛んで来て傍に着地した。
「朋之、妄蛾が・・・」
絵美奈が声を掛ける。

「ああ、なんとか気を引いて海上へおびき出した。アイツは繋留ブイの上に乗っている。」
朋之が指差す海上のブイにどうやら巨大な蛾が張り付いているらしい。
「この間のよりは小さいので被害も少ないが、こちらへ飛んできたら厄介だ。その前に早く封印してしまえ」
「時封じの術を使わなかったの?」
錯乱し当たり構わず狂乱の限りを尽くしている人々の姿を見て絵美奈が言う。

「あまり人間の多い場所であの術は使えない。歪みが大きくなりすぎると収拾がつかなくなるからな・・・」
「そんな・・・」
「巫女姫様、とにかく封印してしまって下さいよ」
と伊織が絵美奈を急かせる。
「ここからで届くかな」
絵美奈は桟橋の突端まで伊織に運んでもらい三度封印の儀を行った。

無事封印を終えて港へ戻った伊織と絵美奈を朋之は表情を表さない顔で迎える。
朋之は伊織に、自分は封印の破れに結界を張ってから戻るから、一足先に絵美奈をつれて家へ戻るよう命じた。
「月読様、しかし・・・」
珍しく伊織が躊躇うのに朋之は
「いいから、早く連れて帰れ。何かあったらお前を呼ぶから」
と言って軽く手を振った。

伊織は不承不承絵美奈を家に連れ帰ると、
「巫女姫様は休んでいて」
と言ってまたすぐに姿を消してしまった。
多分朋之のところへ行ったのだろう。
嫌いだといっていたくせに、やはり心配なのだろうか、それとも、それが役目だから仕方なく・・・?

朋之は港を見下ろす丘の上に立ち結界を張っている。
伊織はそのすぐ傍らに降り立った。
「俺なら大丈夫だと言ったのに」
朋之は振り向きもせずに言う。
「・・・貴方を一人にするわけにはいかない。僕の本当の役目は巫女姫の付き人ではありませんから」

「そんなに心配か・・・俺が何かしでかして責任を問われるのが?」
朋之は皮肉な笑みを浮かべた顔を心持ち振り向かせてそう言った。
「月読様!」
「伊織、お前は何故いつまでも俺の傍にいるんだ。俺の警護など不本意なのだろう?」
朋之の瞳が真正面から伊織を捕らえる。

「・・・月読様・・・何故そんなに僕を追い払いたがるんですか?僕が傍にいてはまずいことでも・・・?」
「別に・・・、四六時中監視され続けるのが鬱陶しいだけだ」
「僕のいないところであの男に会いたい、というわけですか?」
朋之は軽く眉を顰めただけで何も言わず顔を背けた。

「朋之様!何を考えておいでなのです。まさかとは思いますが、姫神様を裏切って里を見捨てるおつもりなのでは・・・」
その言葉に朋之の瞳が再び伊織に向けられる。
伊織はその瞳をまっすぐに見返しながら訊ねた。
「そうなのですか?」
自分ではかなりドスをきかせたつもりだが、朋之は平然と
「そうだと言ったらどうする?お前は俺を殺すか?」
と、逆に訊き返してくる。

「僕に貴方は殺せない。それは百も承知でしょう」
伊織はそう答えながら拳を握り締めた。
「どうかな、俺がただの男だったら、お前なら簡単に命を奪えるだろう。」
「それは・・・だが貴方はただの男ではない」
「・・・そうだったな・・・」

朋之はふと視線をそらせ、すっと右手を差し出した。
「あと二箇所、急いで結界を張ってしまわねばな」
その手を取り伊織は空間を移動する。
朋之の横顔をそっと伺うが、その顔には何の感情も浮かんでいなかった。

絵美奈は洋館の応接間でただ一人、朋之と伊織の帰りを待ち続ける。
理由は分からないが自分の預かり知らぬところで何かが大きく動き出しているような気がする。
床に飛び散ったままの鏡の欠片を拾い集めながら、絵美奈は二人が少しでも早く帰ってくるよう願っていた。

今夜は三箇所で封印が破れた。
この鏡が何かの弾みで粉々に壊れてしまったら・・・こんなことをしていてはとても封印しきれるものではないと思う。
そんな事は朋之も伊織も充分分かっていると思うのだが・・・

ソファに掛けて二人の帰りを待つうちに絵美奈は強い眠気に襲われた。
この頃頻繁に眠くなるのは一体何故だろう・・・、そう思っているうちにすでに夢うつつの世界に引きずり込まれている。
いつか夢で見た髪の長い少年―――
あの時よりはずっと成長し、若者と呼んだ方が相応しい年齢となったその男性が遠くから走り寄ってくる。

髪型と服装は少年のときと変わっていないが、胸には勾玉を連ねた首飾りが揺れている。
「巫女姫!」
青年は若々しい声で話しかける。
「あの時の約束、覚えているか?私はそなたよりも背が高くなった。だから約束どおり私とこの長き現し世の時を生きてくれるか・・・?」

この人は一体誰なのだろう。
よく分からないがこうして傍に居るととても落ち着いて満ち足りた気分になる・・・

帰宅して絵美奈がうたた寝しているのを見た朋之は、伊織に部屋へ運んでやるように言った。
それがなぜか妙に癇に障り、口元を押さえ僅かに眉を顰めている朋之に対し伊織は
「それはご自分でなさったらいかがですか?」
と皮肉めいた口調で答えた。

「巫女姫様は多分、僕が連れて行ったって喜ばないと思いますよ」
朋之は伊織の顔をじっと見ながら
「どういう意味だ。」
と怒気を含んだ口調で言うが伊織はひるまない。
「意味も何も・・・。こちらは貴方に夢中じゃないですか。貴方だって満更でもないんでしょう。だったら・・・」

「随分な口を利くものだな、建御雷」
「お気に召さなければお好きなようにされたらいいでしょう。どうせ僕は下僕ですから。」
朋之はしばらく伊織を睨みつけていたが、やがて
「分かった。では俺が連れて行こう」
と言って絵美奈を抱き上げた。

「おい、両手が塞がっているご主人様の為にドアくらい開けてやろうという気にならないか?」
朋之は苦笑気味にそういったが、伊織はそっぽを向いたまま
「貴方にそんな必要などないでしょうに」
と嘯いた。
「そうか」
そう言って朋之が無言でドアに向かうとドアは独りでに開き、朋之が通り過ぎるとまた独りでに閉まる。
それを見送って伊織は「馬鹿野郎・・・」と口の中で呟いた。



  2.

絵美奈は身体が持ち上げられるのを感じて、幸せな夢から醒めた。
「朋之・・・?」
ぼんやりとその瞳に映った名を呼ぶと、その名を呼ばれた相手は
「そっと運ぶつもりだったが起こしてしまったな」
と言って絵美奈を抱えたまま階段を登って行った。

客間のドアが手も触れぬのに音もなく開き、朋之はそのまま絵美奈をベッドまで運んでいった。
絵美奈をそっとベッドに横たえると、朋之は出て行こうとする。
絵美奈はその腕に手を置いてそれを留めた。
「待って、まだ行かないで。私・・・」
「どうした?」
「お願い、もう少しだけ傍にいて・・・」
絵美奈は半身を起こし、朋之の両腕を掴みながらそう言った。

「・・・家族と離れて心細いか?」
「うん、少し。でも朋之が一緒にいてくれたら恐くない・・・」
そう言って身体をもたせかけてくる絵美奈の背を朋之はそっと抱きしめた。
なぜこの人といるとこんなに暖かい気持ちになれるのだろう。
よく分からない、けど・・・ずっとこうして抱き合っていられたら・・・

相手の胸に顔を埋めたまま絵美奈は囁くように言った。
「こんな事言われても朋之には迷惑でしかないかもしれないけど、私、やっぱり言わずにはいられない。私は・・・私は貴方が・・・朋之の事が・・・」
朋之は抱きしめた腕の力を強めて
「それ以上言っちゃダメだ・・・」
と耳元で囁いた。

「どうして・・・?」
「俺は・・・」
朋之はそう言いかけてついと身体を離すとじっと絵美奈の顔を見つめていたが、 「いや・・・」
と軽く首を振って、
「俺が先に言うから・・・」
と言って見上げる絵美奈の顔にそっと自分の顔を近づけた。

「あ・・・」
朋之の唇が自分のそれに触れるのを感じ、絵美奈は静かに目を閉じる。
角度を変えて繰り返される甘い口付けに絵美奈はうっとりと酔いしれた。
「絵美奈・・・俺はお前が好きだ・・・」
蕩けるような囁きとともにもう一度口付けが降ってくる。
今度は唇を押し開くようにして舌が差し入れられ、絵美奈は驚いて身を引こうとしたが、朋之はそれを許さず逆にグイと引き寄せた。

舌を絡め取られ強く抱きしめられて、絵美奈は小さく震える。
名残惜しげに唇を離しながら朋之は
「できる限り傍にいて守るようにするから・・・だからお前はいつも笑っていてくれ。初めて一緒に妄蛾を封印したあの時みたいに・・・」
と優しく言ってくれた。

「朋之・・・」
と呼んで見上げる絵美奈の目に映るのはこの上なく綺麗な笑顔―――
「あ・・・ホントに・・・?」
「ああ、俺もお前が好きだ。ずっと一緒にいたい、そう思った相手はお前が初めてだ・・・」
二人はどちらからとも無く唇を寄せ合い、固く抱きしめあった。

何だか信じられない、自分はまだ夢を見ているのではないだろうか
それともこれも式神・・・なんてことはないよね・・・
「どうしたんだ?変な顔して・・・」
「ううん、嬉しくて夢みたいで・・・」 その言葉にふっと微笑んで朋之は軽いキスをくれる。 女の子の扱いには随分と慣れているようだ、と微かに思うがそんな考えは続けて与えられた深い口付けに吹き飛ばされてしまった。

「もう休んだ方がいい。俺も部屋に戻るから・・・」
「お願い、ずっと傍にいて。一人にしないで・・・」
絵美奈の口から本音が零れだす。
その言葉に朋之は一瞬目を見張ったが
「分かった、なけなしの理性をかき集めて頑張ってみるか」
と言って絵美奈の頬に手を当てると、その身体を膝の上に抱き上げた。

「寝付くまでこうして抱いていてやるから安心して眠れよ」
という朋之の肩に頭を凭せて絵美奈は甘えて言う。
「・・・朝まで一緒に居てくれる・・・?」
朋之は溜め息を付きながら
「・・・俺にとっては辛い夜になりそうだがな・・・」
と苦笑した。
「私・・・」
「分かってるって、我儘なお姫様。何事も貴女のお望みのままに・・・」

朋之の腕に身体を預けながら絵美奈は尋ねる。
「私の事好きって、本当?」
「なぜそんなことを訊く?嘘だと思うのか?」
「だって、信じられないもん。朋之が私を好きになってくれるなんて・・・」
「どうしてさ?お前は魅力的だと思うぜ。もっと自信を持てよ・・・」
「うん・・・」

「それにスタイルもいいし、やっぱり発育不全じゃなさそうだしな」
朋之はそう言って絵美奈の胸に視線を向けた。
薄手のニットの服が体型をはっきり映し出していることに今更ながら絵美奈は顔が赤くなる。
朋之に顔を見られるのがなぜかとても恥ずかしくて、絵美奈は相手の背に腕を回して強く抱きつくとその胸に顔を埋めたまま小さく訊ねた。

「あの時、黒翅蝙蝠を封印した時、キス・・・したの・・・?」
その問に朋之は躊躇いがちに答える。
「・・・ああ・・・、お前が自分で自分を傷つけるのを見てられなかったから・・・迷ったけど女の子だからな、横っ面張るのもどうかと思ったし・・・」
「そう・・・」

「やっぱり怒ってるのか・・・?」
「どうして怒るの?私の為にしてくれたのに・・・」
「いや、だってその・・・あれ、初めてだったんだろ、だから・・・さ」
「・・・!」
その言葉に絵美奈の身体はカッと熱くなる。それに気付いたのかどうか分からないが、
「それに、お前は俺のこと嫌いだと思っていたし・・・」
と朋之は呟くように続けた。

「そりゃ、初めて会ったときは随分偉そうで意地悪そうな人だと思ったけど」
「まあ、俺はそういう奴だからな」
「ホントは違うくせに・・・どうして・・・」
わざとそう見えるようにしてるの?
多分伊織君に対しても・・・

「もう寝よう。俺も少し疲れた。伊織と一緒に移動すると気分が悪くてな・・・」
朋之はそう言って話を打ち切ろうとする。
それ以上聞くのもためらわれて絵美奈も口を噤んだ。
「お休み」
そう言って軽く唇を合わせると朋之は絵美奈をその腕に抱いたまま身体を横たえる。

その首筋に唇が触れてしまいそうなほど強く抱きしめられ絵美奈は鼓動が高鳴るのを抑えられない。
とても眠れそうになどないが、離れてしまうのも辛くて耐えられないだろう。
朋之もしばらく寝苦しそうにはしていたがやがて静かな寝息が聞こえてきた。
「朋之・・・」
そっとその名を呼ぶが返事は無い。
それを少し物足りなく思う自分に呆れながら、絵美奈は朋之の端正な寝顔を夢見心地で見つめ続けた。

絵美奈を客間に連れて行くのを気配で感じ取ると、伊織もまた自室に戻った。
朋之は何も知らない絵美奈を封印騒ぎに巻き込まざるを得なかった事を悔やんでいる。
それこそ絵美奈にはかすり傷一つ負わせまいと思っているらしい。
なら、自分がいつも傍にいて守ってやればいいのに、それをしないのは多分絵美奈の自分への気持ちに気付いているからだろう。

文字通り住む世界が違うのだから、いずれは別れなければならない相手―――
だったらこれ以上深入りさせない方が・・・
いや、違うな・・・
深入りするのを恐れているのは朋之自身の方だ。

絵美奈は記憶を消してしまえば朋之のことなど忘れて何事も無かったように生きていける。
だが朋之は・・・自分の記憶を消すことはできないだろう。
この先ずっと絵美奈の事を引き摺って生きていかねばならない。
だから深入りするのが恐いのだ。

朋之もまた絵美奈に惹かれている。
それもかなり本気で・・・
伊織にはそれが妙に腹立たしく感じられてならない。
それにあの男の事も・・・

姫神様は何を考えて朋之をこちらの世界で暮らさせているのか。
こうして何年もこちらにいれば思わぬ係累も出来、里に戻り難くなるのは必定。
このままいって朋之が本当に里に戻るのを拒否したとしたら、姫神様はどうでるか・・・

伊織は祖父、先代の建御雷のことを思い出していた。
若い頃はかなり豪放磊落だったという祖父だが、伊織は老いて好々爺となってからの姿しか知らない。
伊織が幼い頃からずっと祖父は大事なお役目で外の世界に行っていて、滅多に戻っては来なかった。
今思えばそれは月読様、いや同時はまだ月読を継承する予定の宗主家のお坊ちゃんの護衛のためだったのだ。

今代の月読様はずっと里の外で暮らしている、伊織がそれを知ったのは先代の建御雷である祖父が病気で寝付くようになってからだった。
高齢によりその任に堪えられなくなったため、次の思兼神を継ぐことになっている者がかわりに月読様の傍付きになり、祖父はお役御免になって戻って来たのだと、周りに誰もいない時を見計らって祖父は伊織にそう話した。
なぜ月読様が外の世界に居るのか祖父はその理由は知らなかったが、姫神様が決められたことに口出しは出来ないのだと言っていた。

今代の月読様はたしか姫神様の実の弟に当たる靖之様と言う方だと、伊織は思っていた。
伊織のほかにも里のものはほとんどのものが皆そう思っていたはずだ。
だが祖父は月読様は姫神様のもう一人の弟、浩之様の子供である朋之という方だと言った。
そして、これは誰にも言ってはならぬことだが、朋之様の母に当たる方は里のものではない、つまりただ人であると。

ただ人を母に持つ月読命など前代未聞だ。
だが、先代の靖之様が不慮の事故で亡くなり、姫神様の水占で次の月読様として白羽の矢が立ったのは、当時、ただ人と婚姻関係を結んだため里を出ていた浩之様の息子であったのだと。
驚きのあまり、ただ人の血を引く月読様など認められない、と言う伊織を祖父はきつく嗜めた。
あの方を措いて月読命を継ぐに相応しいお方はいない、と。

祖父は長い事一緒に居て情が移ったのだろう、と伊織は思った。
そんな伊織に祖父は、お前にこのことを話したのは、いずれ建御雷の地位を告いだ暁にはお前が月読様の警護を任されることになるはずだからだ、と言った。
一族の中でも最強の戦士である建御雷神であるからこそ任された栄えあるお役目であると。
祖父は本当は死ぬまで月読様のお傍に仕えていたかったに違いない。
それを他のものに取って代わられたことを祖父はたいそう悔しがっていた。

伊織はその話を聞いたとき大層驚いたが、同時に、では、あのときの少女はその朋之と言う人の姉妹なのだろうか、と考えていた。
宗主家に子供は居ないと誰もが思っているが、祖父の話し振りからして朋之様は伊織といくつも歳が違わないらしい。
とすれば宗主家に子供は居たのである。
浩之様にもう一人女の子が居ても少しも不思議ではない。
或いは靖之様にも子供がいたとか・・・

もし祖父の言うとおり自分が朋之様の傍付になれたら、朋之様に頼んであの娘と会わせて貰えるかも知れない。
もう一度あのに会いたい―――
子供の伊織には会ってどうするという考えも無かったが、とにかく一目だけでもあの笑顔をもう一度見たいと思った。

向こうはもう自分の事など忘れているだろう。
覚えていたとしても、自分がこんな気持ちでいることを知ったら、思い切り馬鹿にするか、或いは狼藉者の癖に無礼な、と怒り出してしまうかもしれない。
それでも会いたいのだ、今はあのときよりももっと美しく成長しているだろう、あの権高く冷たいお姫様に。

祖父の話を聞きながら伊織はあの娘のことばかり考えていた。
伊織がどこか上の空なのに少しも気付く事無く祖父は月読様の自慢話を繰り返す。
朋之様がこの上なく利発で闊達で、そして男にしておくには勿体無いと誰もが認める美貌の持主である事などを祖父は滔々と述べ立てるのだった。

朋之が里を捨て外の世界で暮らしたがっている、そう知ったらあの祖父はどんな顔をするのだろうか。
それでもあの方を措いて月読命を継ぐに相応しいお方はいない、と言うのだろうか。
あの人の目は常に外を向いているというのに・・・



  3.

暖かい温もりに包まれて絵美奈は幸せな夢を見ていた。
色とりどりの花の咲き乱れるどこか綺麗な草原で絵美奈は朋之と二人何かを話していた。
朋之が傍にいて笑顔を見せてくれる、それだけで絵美奈は天国にいるような気分になってくる。
やがて身体が少しだけ動かされるのを夢うつつに感じて絵美奈は急に現実に呼び戻された。

「あ・・・」
小さく呟いてうっすらと目を開けると、朋之がそっと身体を起こしていた。
「いや・・・離れないで・・・」
その腕を掴んで小さく呟く。
「でももうすぐ夜が明ける・・・。俺は部屋に戻るよ」

「・・・離れていたくない・・・ほんの少しでも・・・」
「しかたないお姫様だな」
「私・・・いいよ、朋之とだったら・・・だから・・・」
「よせ、無理するなよ」
「無理なんかじゃない。私は・・・」

「俺はそんなつもりでお前をここに来させたんじゃないぜ」
「それは分かってるけど・・・、私、朋之が・・・
お願い、行ってしまわないで・・・」
朋之は絵美奈を抱き返しながらしばらくじっと考え込んでいたが、
「俺と・・・同じ運命を生きてくれるか・・・?」
と訊ねた。

「え・・・?」
抱きしめる手を緩めて顔を上げた絵美奈をじっと見詰め返して朋之は呟くように言う。
「俺はずっと自分の人生を諦めて生きてきた。どれほどの力を持っていても唯一自分の本当に欲しいものは決して手に入らないのだと・・・。
でも、お前と会って、俺はお前とずっと一緒にいたいと思った。
一緒にこの世界で生きていきたいと―――」

「朋之・・・?」
「俺の傍にいたら多分今以上に嫌なことに巻き込まれたり、辛い思いをしたりしなくはならなくなるかもしれない。それでも俺と一緒にいたいと思ってくれるのか・・・?」
絵美奈は朋之の少し翳のある深緑の瞳をじっと見つめた。

サイドテーブルの仄かな常夜灯の光に星のように瞬いている綺麗な瞳―――
魅入られたようにその瞳から目を逸らすことができない。
「朋之の言ってること、よく分からないよ・・・。でも・・・私は朋之とずっと一緒にいたい。ほんの少しでも離れていたくない。
私・・・私・・・朋之が欲しい・・・」

熱に浮かされたようにそう呟く絵美奈に朋之は
「ああ、俺もだ・・・」
と言って深い口付けを与えた。
「愛してる・・・絵美奈。だから・・・許してくれ・・・」
夜明けまでのほんの一時、絵美奈は朋之とすべてを分かち合った。

生まれて初めて味わう熱く激しい感覚の連続に、絵美奈はただひたすら朋之の名を呼びつづける。
肌が触れ合う甘酸っぱいような感触と初めて他者を受け入れた痛みと、そのすべてを飲み込み押し流してしまうような狂おしいほどの快感―――
自分が自分でなくなってしまう、そんな想いに軽い惧れを抱きながら、絵美奈は甘く切ない喘ぎを漏らして朋之を固く抱きしめた。

朋之の激しい動きに翻弄されながら、絵美奈の身体は愛しい相手と一つになる悦びに打ち震える。
やがて熱い奔流が絵美奈の体内を満たし、朋之は軽く息を上げたままその身を絵美奈の上にそっと横たえた。
「ごめん、重いな・・・」
「ううん、大丈夫・・・だから、このままでいて・・・」
覆い被さる相手の重みが不思議な悦びを齎す。
朝日が差し込み始めた部屋の中で絵美奈はこのままずっと一つに繋がっていたい、と朋之に甘えた。

その目に滲んだ涙をそっと拭ってやりながら、朋之は
「今日は学校へ行く日だろ。早く支度をしないと・・・」
と宥めるように言う。
「でも・・・」
朋之はそっと身体を離すと
「学校が引けたらどこかで落ち合って、一緒に買い物に行って食事をしよう」
と額に口付けしながら囁いた。

「この世界では婚姻の相手に指輪を贈るのがしきたりなのだろう?」
「え・・・っ」
朋之は絵美奈の手を取って
「俺はお前を妻に迎える。そうでなければこんなことはしない。お前は・・・?俺が夫では不服か・・・?」
と言う。

婚姻の相手・・・
そんな大事なことをこんなに簡単に決めてしまっていいんだろうか。
それも二人だけで・・・
絵美奈は戸惑ったが、これ以上好きになれる人などいるはずがない、と思いつつ我知らず首を横に振っていた。
朋之はふっと笑うと
「では、決まりだな」
と言って簡単に服を身につけ、軽くキスする。

「そういえば、伊織君・・・私たちのこと・・・」
絵美奈はすっかり忘れていた伊織の存在を急に思い出して頬を染めた。
「一応、あの間は結界を張っといたが、何をやってるかは分かってしまったろうな。アイツだってそう初心じゃないし・・・」
との言葉に絵美奈は声も無く俯いてしまった。

「大丈夫だ、アイツには俺からきちんと話すから」
朋之はそう言うともう一度短いキスをくれて、部屋を出て行った。
それを見送って鈍痛の残る気だるい身体を引き摺るようにシャワーを浴びる。
鏡に映る裸の首筋に朋之の残した口付けの後がうっすら朱く残っていて、その時の事を思い出し絵美奈の身体は熱く疼いた。

絵美奈の部屋を出た朋之は、伊織が自分の部屋の前で立っているのをすぐに認めた。
「まさか、寝ずの番でもしていたのか・・・?」
悪びれる風も無く軽口を投げつけてくる朋之に伊織は苛ついたような視線を投げ返した。

「朋之様、一体どういうおつもりで・・・」
朋之は一旦軽く瞼を伏せてから
「伊織、俺は妻を娶った。姉上には俺からお話しする。お前は俺の妻を守ってやってくれ。他の男には指一本触れさせるなよ」
と言い切った。

「朋之様!妻・・・って、そんな勝手なこと姫神様がお許しになるはずか・・・」
「これは俺と姉上の問題だ。お前には何の責任も無いことは俺がはっきり言ってやるから、余計な心配は無用だ」
朋之はそう言うと話は終わりと言わんばかりに部屋のドアを開ける。

それに追いすがるように伊織は言い募った。
「僕が言ってるのはそんなことじゃ・・・」
「おかしな奴だな、たきつけたのはお前だろうに」
「僕は・・・」
「お前も早く仕度しないと遅刻するぞ」
朋之はそう言って珍しく伊織の頬を撫でながら軽く微笑んで、そのまま部屋へと入ってしまった。

「朋之様・・・」
朋之が撫でた頬にそっと自らの手を押し当て、伊織はその場に立ち尽くす。
僕はそんなつもりでは・・・
あの時は、自分に絵美奈を連れて行くように言った朋之がどうにも腹立たしくて・・・
だが・・・実際朋之が本当に絵美奈とそうなってしまうと、伊織は居ても立ってもいられないような焦燥感に襲われた。

結局朋之は絵美奈には手を出さないだろう、伊織はそう踏んでいたのだが、朋之は夜が明けるまでとうとう自室には戻らなかった。
それがどういうことか分からぬ伊織ではない。
あんなことを言うのではなかった、と自分の短慮を悔やんだがもう遅い・・・

絵美奈が身支度を整え、登校用のリュックに荷物を詰めて階下に降りていくと、通いの使用人という人が来ていて、朝食の支度が出来ていた。
飯塚さんと呼ばれている気のいいおばさんと言った感じの女性は、絵美奈を見ても驚きもせず、お嬢様と呼んで色々と世話を焼いてくれる。
朋之か伊織が暗示を掛けたものか、飯塚さんは絵美奈を朋之の妹だと思っているようだった。

朋之も伊織も飯塚さんの前ではごく普通の高校生を装っている。
絵美奈はどうにも恥ずかしくて朋之や伊織の顔をまともに見れなかったが、つい先ほどまでその腕に絵美奈を抱いて甘い囁きをくれていた朋之は、素知らぬ顔で食事を終えると一足先に学校へ向い、絵美奈はそれより少し遅れて伊織とともに家を出た。

朋之との事を伊織は当然知っているだろう、そう思うと顔の熱りが止まらない。
何時に無く無口な伊織は怒ってでもいるように黙ったまま、絵美奈を伴い学校近くの人気の無い路地に移動した。
「あの・・・伊織君・・・夕べはいつ戻ったのか全然分からなかったね」
とにかく何か話さなければ、と絵美奈がそう言うと、伊織は
「巫女姫様はよく寝てたからね」
と幾分そっけなく答える。

「何だかこのごろスゴク眠いんだ。私どうしちゃったんだろう・・・」
「さあ・・・」
「昨日は三箇所で封印が破れて大変だったけど、今日もそんな感じになるのかな・・・」
「・・・僕には分からないよ」
「何かいっぺんにいろんなトコで封印が破れてしまったら、大丈夫なのかな。私、心配になっちゃった・・・」
「そうだね・・・」

絵美奈はなぜ伊織がこんなに怒っているのかよく飲み込めないまま、
「どうしたの、伊織君、なんか変だよ・・・」
と言ってみた。
「まあ、僕はいつも変だからさ、あまり気にしないで」
「そんな・・・」
「僕だって色々あるんだよ。誰にも言わないだけで・・・」

「昨日追いかけていった変な気配―――のせい?」
と絵美奈が尋ねると伊織は
「まあ、それもあるけどね・・・。そういえば今日は塾の日だっけ・・・」
と言ってきた。

「うん、学校から直接寄るよ。その準備もしてきたし」
「じゃ、今日は僕も付き合うかな」
「え、でも・・・」
「大丈夫、塾に行くわけじゃないよ。その近くで終わるまで待ってるって意味さ。 学校だけで充分だと思うのに何であんなトコにまで行きたがるのか、僕にはさっぱり分からないけどね」

朋之からは絵美奈の傍から離れるなと厳命されていたが、塾の講義まで一緒に受けることもあるまいと伊織は思った。
俺の妻を守ってやってくれ・・・
他の男には指一本触れさせるな・・・
その言葉を思い出し伊織は拳を握り締めた。
ふざけるな、それなら自分が守ってやればいいだろう・・・

ふと通り過ぎるショーウィンドウに映る自分の顔が酷く険しいことに気付き、伊織は少しばかり愕然とする。
絵美奈は途方にくれたような困った顔で、いつの間にか早足になっていた自分に小走りになって付いてきていた。
この娘に八つ当たりしても仕方ない、そう思い直して歩調を緩めると
「そういえば、昨日何があったの?詳しく聞いてなかったけど」
と、あまり気のない様子で伊織は絵美奈に尋ねた。

朋之からは絵美奈が式神に襲われたとしか聞いていないが、敵がどんな手を使ってきたのかやはり気にはなっていたのだ。
絵美奈はあまり思い出したくないんだけど・・・と言いながら昨日の公園での顛末を伊織に語って聞かせた。
伊織は相手が朋之の姿を借りた式神を使って絵美奈に近づいたことに大いに驚いて、特にヒトガタに付いて強い関心を示したので絵美奈のほうが逆に面食らった。

「朋之様はその髪の毛が自分のものだと確かに言ったの?」
「え、うん・・・。随分長い髪の毛だったけど、昔髪を伸ばしていた時期があったって。そうなの?」
「・・・僕は知らない!、僕が会ったときは今よりも髪の毛は短かかったし」
その口調の激しさに一瞬たじろいで、絵美奈はただ
「ふうん」
とだけ答えた。

じっと考え込む伊織に絵美奈がおずおずと
「伊織君、どうかしたの・・・?」
と訊ねると伊織は
「いや、ともりんに化けて巫女姫様を誘惑するなんて、敵もよく見てるな、と思ってさ」
といつもの軽口で返してきたので、絵美奈も少しホッとした。

「誘惑だなんて、私は・・・」
「本物よりずっと優しかったんでしょ?」
「そんなこと・・・」
「ふ〜ん、やっぱり本物の方がいいか。ご馳走様!」
そう言って笑うのを見て絵美奈は、伊織が無理に明るく振舞っているのを感じてしまった。