神鏡封魔録


接触

   1.

学校を一日休んだ絵美奈は翌日からはまた伊織と一緒に登校した。
その絵美奈を見るなり千夏が駆け寄ってきて、
「絵美奈、昨日はどうしたの?急に休んだから心配したよ。それも伊織君まで一緒に・・・」
と言うと、チラリと伊織を見てから
「一昨日の人、伊織君の先輩って言ってたよね。どういうことなの?」
とこっそり訊いてきた。
朋之に興味津々なのは明らかだ。

「だから、えっと、伊織君の中学の時の先輩で・・・私が本当に付き合ってるのはあの人なんだ・・・」
絵美奈が言葉を選びながら言うと、千夏は
「へえ・・・」
と一瞬複雑な表情を見せ、すぐに
「いいな、絵美奈は、両手に花で」
と羨ましそうに言う。

「そうじゃないよ、私、伊織君とは本当に何でもないんだし・・・」
「そうは見えないけどな・・・」
そう言って千夏はもう一度伊織をチラリと見たので、伊織の方も気になったらしくこちらを振り向いた。
伊織と目が合ってしまった千夏は慌てて目をそらすと、じゃ、と言って自分の席へと戻っていった。

ほんの一瞬千夏の目に浮かんだ微妙な光に強い羨望と嫉妬を感じ取り、絵美奈は気分が重くなった。
千夏は絵美奈が朋之と伊織の二人を上手に二股かけているように思ったらしい。
自分とあの二人の関係を説明しても分かってもらえるとは思えないし、絵美奈は小さく溜め息を吐いた。

その日一日千夏の態度はどこかよそよそしく、絵美奈は千夏にしばらく塾を休むことを言いそびれてしまった。
その夜も絵美奈たちは封印に忙殺され忙しい夜を送らざるを得なかった。
それでも他に目立った動きは無く、絵美奈にはそれがかえって不気味に感じられてならなかった。

その翌日の塾の日、絵美奈は絵美奈の顔をまともに見ようとしない千夏に、何とか塾をしばらく休むことを告げたのだが、千夏はそう、と言っただけでそれ以上取り合おうとはしてくれなかった。
中学の頃からの親友の突然の変化に絵美奈は戸惑いを隠せなかったが、千夏はやはり絵美奈の事を勘違いしているのだろう、と思った。

昼休み絵美奈が席を外している間に伊織はいなくなっていた。
ふと見ると千夏も席にいない。
嫌な予感がしたが、伊織はまた朋之の用で出かけたのかもしれない、と思っているとしばらくして千夏が戻って来、それから少しして伊織も戻って来た。
「どこへ行っていたの?」
と訊いても伊織はちょっと、としか答えない。
不審そうな絵美奈に伊織は、後で話してあげるよ、とだけ囁いた。

帰宅し、朋之の帰りを待つ間に伊織は、昼休み千夏に呼び出されて屋上で話したことを告げた。
千夏は伊織の先輩が絵美奈と一緒にいるところを見たのだが・・・、と言って、朋之のことをいろいろと訊いてきたのだと言う。
そして最後に絵美奈が朋之と伊織を両天秤にかけているのだと匂わせたというのだ。

「それで・・・、伊織君は何て答えたの?」
「まあ、仕方ないからさ、あの人は確かに僕の先輩で君の彼氏で、僕はあの人に頼まれて君の虫除けをやってるんだ、と答えたら随分拍子抜けした顔してたけど・・・」
やっぱり千夏は誤解してるんだ・・・

「あの娘、ともりんのことが好きなんだね。かなり根掘り葉掘り訊かれたもの。本当のことなんて言えないから適当に誤魔化したけど・・・。あの目はカラーコンタクトなのか、と聞かれたから、多分そうだろうって答えるしかなかったけどね」
「・・・」
全く、だから不用意に誘ったりするなと言ったのに・・・

「ただ、あの娘少し思いつめているような感じだったから、巫女姫様も気をつけたほうがいいかもね。もし気になることがあったらすぐに言ってね、彼女の記憶を少しだけ変えるから」
「うん・・・」
「巫女姫様は嫌かもしれないけど、例の術者が次はどんな手でくるか分からないんだから不安材料は少しでも取り除いておかないと・・・」
「うん、分かってる・・・」

朋之に誘われた時のあの目を見れば一目瞭然、千夏は朋之に一目惚れしたのだ。
あ〜あ、と思うが仕方ない。
それにしても、今後もこんなことは幾度もありそうだな、と思うと気が重くなる。
朋之にはもっとしっかり言っておかなくては、こっちの身が持たないわ・・・
絵美奈は千夏の自分を見た時の複雑な感情の入り混じった瞳を思い出し、小さく溜め息を吐いた。

その頃千夏は塾の講義を受けていた。
やっぱり絵美奈は来ない。
あんなに熱心だった絵美奈が急に塾を休むと言い出した、その理由は聞くまでも無い、と千夏は思う。

あの人―――とても素敵な人だった。カッコよくてお洒落で、それに優しそうで・・・
クラスの男子や街でナンパしてくる男達なんか問題にならない。
あの人、どうして絵美奈なんかを選んだんだろう。
あんなルックスも中身も十人並みな子・・・

そりゃ、パッと見はちょっと可愛いし、素直で憎めないところはあるけれど、それでも・・・
今までずっと口には出さなかったけど、正直言って絵美奈より自分のほうが数段イケてると思う。
絵美奈なんか成績もイマイチだし、なによりトロくて要領悪いし・・・
あんな子、あの人に相応しくない。絵美奈なんかだったら私のほうがずっと・・・

千夏はここ数日ずっとそのことばかり考えている。
絵美奈にはいちいち言っていないが千夏はこれまでかなり沢山の男の子と付き合ってきた。
奥手の絵美奈よりは自分の方があらゆる事で上を行っている、そう思って密かに優越感を持っていたのに・・・
何事においても自分が絵美奈に遅れをとるとは夢にも思っていなかった。
それだけに絵美奈があの人と腕を組んで歩いているのを見た時、千夏は強いショックを受けたのだった。

あの人がもし絵美奈より先に私と出会っていたら、私を選んでくれたかもしれない・・・
しかも絵美奈は伊織とあの人と二股かけている・・・
あの絵美奈が・・・
そう思うとどうしても絵美奈が許せなかった。

伊織にハッパをかけて絵美奈をしっかり捕まえさせておこうと言う目論見は完全に外れた。
あろうことか伊織はあの人に頼まれて絵美奈の虫除けになってやっている、と言ったのだ。
全く、なんて使えない男だろう。
しかも伊織から聞きだせたのは北条朋之という名前と年齢と通っている学校名くらいで、詳しい事はほとんど分からなかった。

僕は男に興味ないから、というのがその理由だが、曲がりなりにも彼女の虫除けをやってやっている先輩のことを禄に知らないなんて話があるだろうか・・・
講義なんてほとんど頭に残らなかった。
どうすればもう一度あの人に、朋之に会えるだろう・・・千夏の頭はそのことで一杯だ。
そのせいか、帰り道猛スピードで角を曲がってきた自転車とぶつかりそうになってしまった。

全くついてない。こんな狭い道でスピード出すなよ、と悪態をつきながらふと横を見ると不思議な店が目の前に立っていた。
中世ヨーロッパの城門を思わせる重厚な木製のドアに、神秘の館―――よろず占い承ります、と書かれた看板が打ち付けてある。
こんなところにいつの間に占いハウスなど出来たんだろう、そう思いながら千夏はその怪しげな雰囲気に吸い寄せられるようにそのドアを開けて薄暗い館の中へと入って行った。

翌日千夏は昨日とは打って変わって前のように親しく話しかけてきてくれたので絵美奈はほっとした。
何と言っても千夏は一番仲のよい友人なのだから、気まずい雰囲気でいるのはやはり嫌だった。
千夏にこのまま塾やめちゃうの、と聞かれて絵美奈は
「多分・・・」
とだけ答えた。
取り敢えず封印が終わるまでは塾どころではないし、終わってからどうなるか今の絵美奈には正直見当がつかなかったのだ。

その夜もまた封印に駆けずり回り、どうにか金曜を乗り切って土曜になってやっと一息つけた絵美奈は、頼んでいた指輪が出来上がったという連絡を受けて、朋之とデートがてら宝石店へ指輪を引き取りに行く事にした。
一方伊織も朋之の命で里へと戻った。
色々と里で済ませねばならない用事ができたらしい。

「今日は少しゆっくりできるね」
「ああ、そうだな」
指輪を受け取った後、足を伸ばして海辺のデートコースを二人で辿る。
受け取ったばかりの揃いの指輪を嵌めた手を相手の手に滑り込ませると、それに答えるように強く握り返してくる。
会話は相変わらず途切れがちだが、ただ黙って寄り添って歩くだけでも絵美奈は楽しくて仕方なかった。

途中で偶然、教会で結婚式が行われているのに行き会い、絵美奈たちもしばらくそれを遠目に眺めた。
華やかな鐘の音とともに新郎新婦が姿を現し皆の祝福を受ける。
「うわ〜、花嫁さん綺麗・・・」
思わず見蕩れる絵美奈を見て
「あんなの着てみたいか?」
と朋之が問い掛ける。

「そりゃあ、結婚式は女の子の夢だもの」
と答えながら絵美奈は、そういえば私たち結婚式はしないのかな、と思った。
荘厳なチャペルで純白のウェディングドレスに身を包みヴァージンロードを歩く。
その先に待っているのは生涯の伴侶となる最愛の人―――
そんな図に憧れない女の子がいるだろうか。

「本当はお前の両親に挨拶に行って、きちんと式を挙げるべきなんだろうけどな・・・」
「う〜ん、でもきっとお父さん卒倒しちゃうよ。だって私まだ高一だし」
「法律的には結婚できる年齢だろ。俺もお前も・・・」
「そりゃあそうだけど、普通は高校卒業するまで待つよね。朋之だって生活力ないし・・・」

「俺に働けってこと?」
「こっちの世界に住むならね・・・」
「成る程な。では正式に結婚するのは四年後か」
「そんなに先になるの?」
「生活力がないとダメなんだろ?取り敢えず俺大学を出ないと・・・」
「ダメ、そんなに待ちきれない」
「全く我儘なお姫様だ」

「そういえば朋之は何月生まれなの?」
「俺は七月だよ。お前は五月だったな」
「うん、伊織君は?」
「アイツは今日が誕生日さ、だから里に返した。まあ、他に用もあったけど」
「そうだったんだ。知らなかったな」
「せっかく戻ったんだから一晩泊まってゆっくりしてくればいいんだが、アイツのことだからきっとすぐ帰ってきちまうんだろうな」

それは少しでも貴方の傍にいたいから・・・、でもそんな事とは夢にも思わない朋之は伊織がいつもすぐに戻ってくるのが不思議でならないんだろう。
きっと自分の監視を少しでも怠らないため、と思っているのだ。
そう思うとなんだか伊織が気の毒だが・・・



   2.

「そういえば伊織君が言っていたけど、私は巫女姫で私の遠い先祖は伊織君の同族の端くれ、とか、それって何の事?」
「ああ、俺もよくは知らないが、一族に伝わる昔話がある。
我らがこの地に降り立ったそもそもの初めの時、仲のよい双子の姉弟だった天照と月読は、それぞれ太陽と月の運行を司り、昼と夜を交代で支配した。
やがて天照は母の違う弟と結婚し、何人かの子供も儲けた。
一方月月読は自分に仕えていた強い力を持つ人間の巫女と恋におち、その娘を妻にしたいと考えた。
二人の父はその結婚を認めたが、天照は同母の弟が人間と結婚する事に強く反対し、弟を幽閉しその娘を下界へと追放してしまったんだ。
すでに子を宿していたその娘はやがて月読の子を産んだ。その子が封印の巫女、つまりお前の一族の遠い先祖、と言うことになる」

「はあ、と言う事は・・・」
「お前には本物の月読命の血が流れているという事だな」
「でも、じゃ、貴方は・・・?」
「わが一族は天照の直系。月読は生涯独身を通して亡くなったそうだから、その直系は絶えている。この昔話の言わんとするところは、要するにわが一族には早くからこちらの世界に住む傍系の一族が居るということだ」

―――巫女姫、私はそなたより背が高くなった、だから約束どおり私とともにこの長き現し世の時を生きてくれ
そんな言葉が突然絵美奈の脳裏に閃いた。
長い髪、優しいまなざしのあの人は、では・・・

「ただ、それは伝説だ。本当の事かどうかは分からない。でも確かにお前は強い力を持っている。自分でも感じるだろう?」
「うん、時々は。でもそれは朋之が私に力を貸してくれているのでしょう?」
「俺はお前の力を引き出して増幅しているだけだよ。お前にはまだまだ未知の力がある。それを全て自分でコントロールできるようになれば、どんな術者だって恐れる事は無いさ」

「でも、どうすればその力を自分でコントロールできるようになるのかな」
「そうだな、俺に聞かれても困るが・・・何かきっかけがあって一度出来るようになれば・・・」
朋之は芝生を選んで腰を下ろし絵美奈にも隣に座るように言った。
「地面に手を当てて地脈を感じ取ってみろ」
「え・・・?」
朋之は絵美奈の手を地面の上に置き、その上に自分の手を重ねた。

ドクドクと言う波動が地面から手を通して絵美奈の体中に伝わってくる。
「目を瞑って手に神経を集中しろ。この下で蠢いているものがいるだろう?」
土や砂、岩石や鉱石、地下水、そして更にその奥には煮え滾ったマグマ―――
そんなものとは別に何かが脈打っているのが確かに感じられる。
ドクドクと生き物の鼓動が伝わってきて絵美奈の鼓動と共鳴する。
深く暗い地の底に縦横に走る脈動を絵美奈は確かに感じることが出来た。

「この脈動が封印されたヒルコ神の鼓動だ。彼等は自分たちを封じた我ら一族に強い憎しみを抱いている。そして我らの庇護を受けこの世に栄えた人間たちに復讐しようとしているんだ。」
絵美奈にはこの脈動には怒りと同時に悲しみを感じた。
この光ある世で生きる事を拒絶された者たちのやり場のない悲しさ、遣る瀬無さのようなものを―――

「どうしても封印しなくちゃならないのかな、ともに生きていく事は出来ないの?」
絵美奈は目を閉じたまま問う。
「今のこの世では彼らは長くは生きられない。地の底に眠っていた方が幸せなんだ」
「そんな・・・」

「前にお前は聞いたよな。そんな強い力があるならなぜ自分で封印しないのかと。
俺たちはこのヒルコ神と同族なんだ。身体を変え混血を繰り返しながら、この強い光の中でも生きていけるように少しずつ適応した種族だ。
一方彼等は身体を変えるのではなく、闇の中でのみ生きる事を選んだ。
初めは夜の間だけ活動していた彼等は、昼も自由に動けるようにやがて光を封じ込めこの世を闇で閉ざそうとし始めた。
だがそれはこの星の生命体全ての生命を奪う事になる。
だから我等は同族であるヒルコ神と戦うことにしたのだ。
我等とヒルコ神は同族―――力も拮抗している。 しかも我等は盟約に縛られている。 互いの領域は不可侵と定めた同族の血の盟約に・・・」

「血の盟約?」
「我等とヒルコ神との間で交わされた約束事だ。我々の間でも共存できる時期はあって、そのときの盟約はまだ生きている。それに俺たちは縛られてしまうんだ。
ヒルコ神を封じ込めたときも俺たちに封印は出来なかった。
故意に盟約を破れば我らはその制裁を受けねばならない。だから強い力を持つ人間や国つ神の力を借りざるを得なかったんだ」

「でも、私も貴方たちの一族の傍系なんでしょ、だったらやはり同じ同族なんだからやっぱりその盟約に縛られるんじゃないの?」
「お前たちの一族は早くから枝分かれしたから、ヒルコ神との血の盟約に縛られない。」
「何だか、よく分からない。大体貴方たちは一体どういう人達なの?それにさっきは聞きそびれたけど、朋之はあの昔話を話してくれた時、この地に降り立った初めの時、とか言ったよね。それってどういうことなの?」

「俺もはっきりと知っているわけではないが・・・我らの祖先は恐らく他所の天体からの移住者だ」
「・・・!」
「我らの先祖がこの星に来たときには人間は文明的にはまだ幼稚だったので、我らの事を神だと思ったのだ。
我等は他者の考えを読み取ったり、重力を調整して空を駆けたり、手を使わずに物を動かしたり、自然現象を思い通りに操ったりできるから。
ただ人間の中にも突然変異的にそういった力を持つ者がたまに現れる。お前のご先祖の巫女はそんな人間の一人だったのだろうな・・・」

「じゃ、よく話しに出る国つ神というのは・・・?」
「彼らもまた他所の天体から移り住んだ者たちだろうな。我等よりはずっと前にこの星の生命体と同化して生きてきた。
彼等から見れば俺たち天つ神は侵略者ということになる」
「・・・」

「どうした、大丈夫か?」
「いや、何か話が壮大すぎて・・・」
「お前にこんな事話したのはお前もわが一族の一員だからだ。他のものには決して言うなよ」
「そりゃ言わないけど・・・」
こんなこと言っても変人扱いされるだけだし・・・

「でも、私はすぐに心を読み取られてしまうから・・・」
「まだそんなこと言ってるのか?お前も最近はガードが固いから簡単には読み取れないぜ」
「本当?」
「嘘を言ったって仕方ないだろう。自分で気付いてないのか?
この頃では突然誰かの思考が飛び込んでくるなんて事も少なくなったろう?」

「そういえば・・・」
「全く、お前は天然過ぎて付き合えないな・・・」
朋之はそう言うと絵美奈の手を取って言う。
「試しに俺に心を読んでみろ。どれくらい読み取れるか」
「でも、いいの?」
「お前に隠すような事は何も無いさ」
そう言って朋之は軽く笑った。

絵美奈は目を閉じて朋之の心を読み取ろうと相手に意識を集中する。霧がかかったようにぼやけた視界にうっすらと人の顔が浮かび上がってきた。
―――朋之・・・朋之様・・・
遠くから響いてくるような声が聞こえ、それとともに顔が少しだけはっきりと見えてきた。
優しそうな男の人・・・朋之に面差しがよく似ている・・・
―――こちらがそのお子様ですな。小さい頃の浩之様によく似ておられる
他にも誰か傍にいるようだが朧気な姿しか見て取れない。

―――お父さん、あの人たちは誰?
幼い子供の声だ。それが大きくなったり小さくなったりして響いてくる。
―――朋之様、あのものたちは貴方を迎えにきたのです。貴方は現人神となるべく選ばれた、だからもう私たちは貴方と一緒に暮らす事はできないのです

―――お父さん、どうしてそんなこと言うの?
―――初めからうすうす分かっていたのです。貴方の力はこの世でただ人として生きていくには強すぎる。だから私は貴方の力を封じてきた。でも姉の目は誤魔化せなかったようですね・・・
―――何のことだか分からないよ

―――朋之様、私にはもう時間が無い。私たちは貴方のことを忘れなければならないから。次にお会いしても私たちには貴方の事が分からない。だから、私は私に残された最後の時間を使って貴方に術をかけましょう
―――術?
―――私の全ての力を以て貴方に術をかける。貴方のこれからの人生が少しでも幸多く実り豊かなものとなるように
―――お父さん・・・
―――さようなら、朋之様、どうかお幸せに・・・

男の人の顔はだんだん薄れていき、再びはっきり見えたときにはそれは三十がらみの女の人に変っていた。
少しきつい感じだが大層な美人だ。
―――そなたが浩之殿の子か。名は何という
少し低めの落ち着いた張りのある声で女性は尋ねる。

―――朋之
―――どういう字を書くのだ?
―――?
―――浩之様は二つの月が並び立つ朋だと仰っていましたが・・・
―――ふん、浩之の愚か者が。月は一つだからこそ美しいものを。だが・・・新しい月読殿には相応しい名かもしれぬな
そう言って笑うその顔はさっきの男の人のときのように次第に薄れていき、やがて薄靄がかかったように茫洋として何も見えなくなった。

「どうだ、少しは読み取れたか?」
朋之の声に絵美奈はいきなり現実に引き戻される。
「うん、少しだけ・・・」
そう言ってぼんやりと自分を見上げている絵美奈に
「で、何が見えた?」
と朋之は口元に微笑を浮かべながら尋ねる。

「朋之のお父さんと伯母さん、いえ、姫神様・・・というべきかしら・・・」
「ふうん・・・」
朋之はほんの少しだけ目を見開いてそう言った。
千夏にカラーコンタクトと間違われた瞳が、一瞬さした雲の影に緑色に瞬いて大層美しい。

「それがお前の今一番の関心事なんだな」
「そう・・・なのかな・・・」
「ま、俺も少しだけガードを甘くしたしな。けどそうやって神経を集中するように日頃から気をつけていれば力を使うのにも慣れてきて、だんだん思い通りになっていくはずだ。」
と朋之は笑いながら言った。

「朋之で練習していいの?」
絵美奈は少しからかい気味に尋ねる。
「まあな。けど次はそう簡単に読み取らせないぜ」
「それじゃ練習にならないじゃない」
「それをどうにかしようと頑張るうちに力がついてくるんじゃないか」
「もう、意地悪」

朋之はその手に掴んだままの絵美奈の手をグイと引き寄せ、
「風が冷たくなってきたからもう戻るか?このところずっとお預けだったし・・・」
と耳元でそっと囁いたので絵美奈の頬は真っ赤に染まった。
固く手を繋いだまま、浮かれ気分に舞い上がりそうになりながら二人で家路を辿る。
じっと見上げる瞳に見つめ返してくる相手の優しい笑顔が映り、絵美奈はずっと醒めない夢を見つづけているような不思議な感覚を覚えた。

細いろうそくの炎の他は照明の無いくらい部屋で、丸テーブルの上に置かれた手のひらほどの大きさの乳白色の球体に、ぼんやりと手を繋ぎあう男女の姿が映る。
薄靄がかかったようではっきりしないが、時折交し合う微笑に二人が心を通わせあっていることははっきりと感じ取れる。
互いに互いしか目に入らないような、なんとも仲睦まじい二人連れである。
「なんとまあ、仲のよろしいこと。まるでお雛様のように可愛らしいカップルだわね。
で・・・あなたの望みはなんだったかしら・・・?」

低いくぐもったような女の声が球体の後ろから響いてきて、そう問い掛けられた相手は、球体に映し出される男の方の横顔をじっと見つめた。
「そうだったわね、あなたの望みは彼の心を自分に向ける事・・・でもそれは少々難しいようね。何と言ってもあなたの王子様はこのお姫様に夢中のようだからね・・・」
やがて二人の唇がそっと重ね合わされ、次第に深いものに変る。
その途端に球体の映像は白い霧の中にかき消されて行った。

「ここから先は目の毒でしょうからね・・・。さて、どうする?私の言ったものは手に入ったのかしら?」
相手はこっくりと頷く。
「そう、ではそれをこちらに・・・」
「本当に願いを叶えてくれるの・・・?」
微かに震える小鳥のような高く細い声が発せられた。

「ふふふ、数日中にあなたの願いは叶うはずよ。安心してゆっくりとその時が来るのを待っていらっしゃいな。」
「きっとよ、きっと・・・。あの女さえいなくなればあの人は・・・」
そう言って細い声の主は何ものかを球体の向こうに佇む人物に手渡した。



   3.

朋之の腕の中で絵美奈は甘い喘ぎを上げ幸せに酔い痴れた。
結婚の証の指輪をはめた指をそっと相手の背に這わせると、相手もまた揃いの指輪をはめた指で絵美奈の髪を梳いてくれる。
幾度繰り返しても飽きることの無い愛の営みに絵美奈は身も心も溺れてしまう。
今の絵美奈には朋之が世界の全て。
他のことは何も考えられなかった。

好き・・・貴方が・・・世界中の誰よりも・・・
夜を迎えるまでの一時、広い屋敷で二人きり、数日ぶりに朋之と熱い時をともにした絵美奈は浅めの浴槽に身を横たえながらそっと鏡を見やった。
首筋から胸元にかけての白い肌にくっきりと残った朱色の痕が先ほどまでの情事を思い起こさせて絵美奈は一人赤くなる。
愛しいあの人が触れた、それだけで自分の身体が慕わしいものに思えてくる。

もっと自信を持てよ。お前は俺がただ一人妻にと選んだ女性なんだから・・・
朋之・・・、私ホントにもっと自信持っていいのかな・・・
浴槽から上がり外していた指輪をもう一度左の薬指に嵌めてみる。
結婚指輪はいつもしてるものだというけど、学校では嵌めれないな・・・
本当は大声で叫びたいくらいなんだけど。
私は最愛の人と結婚したのよ・・・と。

その夜は伊織はとうとう戻ってこず、朋之は珍しい事も有るものだ、と言って笑った。
絵美奈は伊織が気を利かせてくれたのだろうと思う。
あるいは口には出さないがやはり居たたまれなくなったのか・・・

夜半すぎ、今夜もまた数箇所で封印を終え二人で鳥に乗り宙を舞いながら絵美奈は
「こんな風に破れるたび封印を繰り返しているだけじゃ、そのうち対処しきれなくなったらどうするの?」
と日頃の思いを朋之にぶつけてみた。
こうして朋之と封印を続けていくのもそれはそれで楽しいものもあるのだが・・・

朋之はいつもよりずっと高く、かなりの範囲を俯瞰できる高さにまで鳥を舞い上がらせた。
「俺が支えていてやるから、下を見下ろしてみろ」
と言われ、風圧に吹く飛ばされそうになりながらそっと下界に視線を向ける。
その距離のあまりの遠さに軽い眩暈がした。

「今のお前なら地脈を読み取ることが出来るだろう?」
朋之に支えられながらそういわれてじっと神経を集中すると、たしかに樹木の根のように縦横に張り巡らされた大地の裂け目が赤く浮かび上がって見えてくる。
そのあちこちに黒い点が飛びとびに存在し、地脈に切れ目を作っていた。

「黒く見えるところが、お前が封印した所だ」
「!・・・」
「こうしてみると、随分とあちこち駆け回ったものだよな」
「うん・・・」
地面に吸い寄せられそうな不思議な感覚に逆らって、朋之の腕をしっかりと掴みながら絵美奈は小さく呟く。
地脈ってこんなに凄いものなんだ・・・
この封印が一気に破れたら・・・

「考えている事があるんだ。お前の言うとおり、ちんたらやっていても埒が明かない。この地脈を一気に封じてしまおう」
「でも、私にそんな力は・・・」
驚いて振り向く絵美奈に朋之は口元を軽くほころばせて強気な笑みを見せる。
「確かにお前一人では無理だ。だから俺も伊織も力を貸す。きっと上手くいくさ。
そうしてこのゴタゴタにケリをつけたら・・・」
「朋之・・・?」

「そろそろ戻るか。まごまごしてると夜が明けてしまう。この頃は大分夜が長くなったがな」
朋之がそう言った途端、鳥は急旋回して一気に下降した。
その動きについていけず絵美奈は朋之にしがみつく。
強い風が二人の髪や服をバタバタとはためかせた。

朋之は一体どうやってこれほどの地脈を一気に封じるつもりなのか。
それにあの暗躍する術者の存在は・・・
不安げに見上げる絵美奈に朋之は自信に満ちた笑顔を返す。
「心配いらない、絶対大丈夫だ」
そう言って朋之は絵美奈を強く抱きしめた。

翌日、伊織は昼過ぎになって戻ってきた。
「できれば夕べのうちに戻りたかったんですが、向こうでもいろいろあって・・・」
と伊織は少し照れくさそうに言う。
「気にするな、もっとゆっくりしてきてもよかったくらいだ」
と朋之に言われ複雑な表情を見せる伊織だが、その表情の本当の理由には少しも気づいていない様子の朋之である。

二人の様子を見比べて絵美奈としてもまた複雑な表情を浮かべたが、それはすぐにかき消されることとなった。
伊織は携えてきた小さな包みを朋之に渡す。
朋之はそれを手に取り、
「やっとできたのか」
と感慨深げに言った。

「かなり念入りに仕上げたそうで、一世一代の大傑作だそうですが」
「全く、大げさな奴だな」
そう言いながら、朋之はすぐさまテーブルの上で包みを解いた。
中身は歴史の教科書に載っているような古鏡である。
ほぼ円形だが外周は八つの花弁のような形になっていて、美しい花と唐草の意匠が施されている。
裏側は丹精に磨きこまれつるつるになっているが、普通の鏡のようにはっきりと物が映るようにはなっていなかった。

「どうだ、新しい鏡だ。伊斯許理度売命イシコリドメノミコトに命じて新しく打ち出させたものだ。姉上にもたっぷり念をこめてもらったから・・・」
「全く、どうして月読様がご自身で取りに来ないのかと姫神様はかなりのご立腹で。おかげで僕は半日板の間に座らされましたよ」
と伊織はやれやれと言った様子で呟く。

「そうぼやくなよ。久しぶりに家でくつろげたろう?この間はすぐに戻らせてしまったし」
朋之にそう言われ、伊織は
「今更家族が恋しい年齢でもありませんよ。僕はもう大人です」
とそっぽを向く。

その様子に軽く溜め息をつく様子を見て、絵美奈は少しだけ不思議に感じた。
朋之は折に触れて伊織を里に帰そうとしている。
それは監視が鬱陶しいから少しでも厄介払いしたい、それだけの理由なのだろうか・・・と。
朋之の心はガードが固すぎて絵美奈には読み取れない。
あの時はよほどガードを緩めてくれたのだろう、優しそうだった朋之の父と美しいがどこか冷たそうな伯母の顔を思い出しながら絵美奈は思った。

「おい、ちゃんと聞いてるのか?」
朋之の声に我に返ると、朋之と伊織、二人して呆れたように絵美奈を見つめている。
「え、あ・・・、ごめん、何か言った?」
その声に再び溜め息をつきながら朋之は言う。
「これからは、封印にはこの鏡を使えと言ったのだ。今のでは酷すぎるからな・・・」

「この鏡を?」
ずっしりと重い古鏡を手に取り絵美奈は呟いた。
強い力の波動が即座に感じられる。
「そうだ。この鏡自体に呪力が有るから、封印は数段楽になるはずだ。で、この鏡を使ってこの地の地脈を一気に封印する」
「あ・・・」
「決行は次の満月の夜だ」

「では、まだ大分先になりますね」
「ああ、なるべく早いとこカタをつけてしまいたいが、万一の事を考えて、少しでも光の強い日を選びたい。当日が雨天や曇天なら少しずらしてもいいが、今の季節、天候はまず大丈夫だろう」
「じゃ、決行は再来週末くらいということで・・・」
伊織が壁にかかったカレンダーを見ながらそう言った。

「そうだな。で、出来ればそれまでに厄介者のほうも手を打っておこう」
「あの術者の目星がついたので?」
伊織が驚いたように朋之を見つめる。
「目星はとっくについてる。ただあれ以来向こうが何の動きも見せないのが不気味だが、おそらくそろそろまた何か仕掛けてくるだろう。それを逆手にとって押さえ込んでしまえれば・・・」

「そう、こちらの思惑通りに行きますかね・・・」
朋之の言葉に伊織はかなり懐疑的だ。
「まあ、地脈を封じてしまうまでの間大人しくさせておければ上首尾―――それくらいのとこだろうがな」
「こちらにとってもかなりの大博打ですからね。もししくじったら・・・」
「そうならないよう当日までに出来るだけの準備をしておくよう心がけよう」

絵美奈には二人の会話を黙って聞いているしかない。
かなりの大博打―――そんな言葉を聞いてしまうと、やはり不安は募る。
絵美奈の不安を察したのか朋之は心配するな、といわんばかりの笑顔を投げてくれたのだが・・・

絵美奈へと向けられる優しい眼差しと穏やかな微笑―――
それを横目に見て伊織の胸中には複雑な感覚が過ぎる。
「月読様はいつになったらお前をこのお役目から解放してくださるのかのう・・・」
昨夜のうちに戻ろうとする伊織を引き止めつつ祖母がポツリと言った言葉・・・

「僕のお役目は姫神様が決められたことだよ」
という伊織に、
「全くいつまでも外にばかりいないで早くこちらへ戻ってくださればよいのに・・・」
と祖母は少し愚痴めいた口調で言う。
不思議なものでいつも自分が口にしているセリフが他の者の口から出るとなぜか伊織は良い気持ちがしなかった。

「しっ、そのことは他の人には内緒だから・・・」
「分かっておるよ、誰にも言いやせん。だが、お前もそろそろ身を固めてもいい年齢だし、もし嫁を娶れば月読様ももっと頻繁にお前を帰らせてくれるようになろうか」
「そんなこと、月読様は僕の個人的なことなんか・・・。それに僕はこのお役目が完了するまでは結婚なんてする気ないし」

冗談じゃない、そんなことになったら朋之はそれを口実に他の者にお役目を、と言い出すに決まっている。
朋之がどうしても伊織では嫌なのだと言い張れば今度は姫神様も折れるかもしれない。
どの道こうしてお傍にいられるのは後四年あまりだと分かってはいても、いま朋之の傍を離れるのは・・・

やけに引き止めたがる祖母を宥めるため、結局伊織は一晩里で過ごすことにしたのだった。
新婚の月読様に自分は邪魔者でしかないこともよく分かっていたし・・・
実際ここ数日の朋之は以前よりもずっと明るく生き生きとしているように感じられた。
以前は全てに対してどこか投げやりで物憂げな雰囲気が色濃く漂っていたのに・・・
それはやはりこの可愛らしい奥方様のお蔭なのだろう、認めたくはないが。

その夜は珍しく封印の破れが感じられなかったので、朋之は絵美奈に、新しい鏡の威力を試すため、以前完全に封印し切れなかった土蜘蛛を封じてみよう、と言い出した。
三人で以前土蜘蛛の幼虫を封印した場所に飛ぶ。
相変わらず手で口元を押さえている朋之を見て絵美奈は思う。
そういえば朋之は前に、伊織君と一緒に移動すると気分が悪いと言っていたっけ。
私は何とも無いんだけど、もしかして・・・鈍いから!?

朋之が自ら張った結界を解くと、地面から細かい黒い霧が吹き上がり始めた。
地の底に巨大な生き物が蠢いているのを感じ、絵美奈は軽く鳥肌立つ。
その霧に新しい鏡の鏡面を向けて立つと、鏡の呪力が自分の力の脈動と共鳴し始め、その途端鏡から発せられた強い光に小さな地の裂け目が大きく広がった。
えっ、と思う間もなく巨大な黒い影が地の底から引きずり出され鏡の中へと吸い込まれる。
その衝撃はいつもの比ではなく、思わず後方に弾き飛ばされそうになる絵美奈の身体を朋之が自らの身体で受け止め、支えた。

地の裂け目にはちらちらと小さな光が瞬いていたがやがてその光が消えうせるとともに裂け目も元のように塞がっていく。
その地に再び結界を張った朋之が
「どうだ、凄い威力だろ?」
と笑ってみせるのに絵美奈はただ黙って頷くしかない。

でも、この鏡なら朋之の言うようにあの巨大な地脈を封じきってしまうことも可能かもしれない、絵美奈もやっとそんな風に思えてきた。
ずっしりと重い金属製の鏡だがなぜか手にしっくりと馴染む。
まるでずっと昔から使っていたような感触だ。
鏡背の文様を指でなぞっていると、ほんの一瞬、いつか夢で見た男性の面影が目の前を過ぎったような気がした。

ふと吹く抜ける風がこの間の時よりもずっと冷たく感じられるようになってきた。
少しずつ冬が近付いているのだ。
だんだんにこうして夜出歩くのも苦痛になってくるだろう。
朋之の言うとおり早くカタをつけてしまいたい。
そんな思いを胸に絵美奈は朋之、伊織とともに洋館へと戻った。



  4.

帰宅してしばらくしても朋之はまだ少し気分が悪いようだ。
なんとも神様らしくないその姿に小さく笑みを浮かべながら
「朋之は空間移動が苦手なの?」
と尋ねる。
「まあな、昔からあまり好きじゃない。だから伊織と一緒に行動するのは嫌なんだ・・・」
「ふうん・・・」

「ただ、あまり悠長なこともしてられないからな、いい加減に慣れなくては、と思うんだが」
そう言って朋之はベッドに身体を投げだす。
幾分長めの髪が顔の周りを縁取るように広がった。
その髪を指に絡めながら楽しそうに笑う絵美奈に
「何が可笑しいんだ」
と朋之は軽く眉を顰めながら尋ねた。

「だって、朋之にも苦手なものがあるんだな、と思って・・・」
そう言ったとたん手首をつかまれグイと引き寄せられた。
「あ・・・」
有無を言わさぬ口付けに絵美奈の鼓動は跳ね上がる。
「そんなこと言うなら、うんと気分よくさせてくれ」
「・・・もう・・・」

自分に撥ね付ける力など無い、そう読まれているのだ。
それが少しだけ癪に障るが、そう思って軽く睨みつけても全く効果は無く、朋之は強引に絵美奈を抱きしめる。
「酷い・・・」
「何が酷いんだ。俺は自分の奥さんに夢中なだけだぜ」
「そうやって、からかってばっかり・・・」

形ばかり怒ってみせる絵美奈に朋之は
「からかってなんかいないだろ。お前は魅力的だ。この頃特に綺麗になったしな」
と真顔で言った。
「・・・!」
じっと見つめられてそんなことを言われ、絵美奈はポッと赤くなった。

「衣通姫って言葉、知ってるか?」
「そとおりひめ?」
「ああ、その美しさが着ているものを通り越して光り輝く、それほどに綺麗なお姫さま。 今のお前はそんな感じだ」

「まさか・・・私はそんな美人じゃないよ」
「そんなことないさ」
「もう、やっぱり気障!やめてよ。本気にしちゃうじゃない」
「ああ、構わないぜ」
深い口付けを交わしながら絵美奈は朋之のなすがままに身を任せる。

全くどこまで本気で言っているのか・・・
でも、私がホントに綺麗になったんだとしたらそれは貴方の所為。
貴方が私を好きだと言ってくれたから・・・
もっともっと綺麗になりたい、貴方に相応しいと誰にでも思ってもらえるように・・・
そんな思いに絵美奈は愛しい相手を固く抱き返した。

翌日、伊織とともに登校しながら、絵美奈はそういえば一昨日は伊織の誕生日だと朋之が言っていた事を思い出した。
結構お世話になってるし、やはりなにかプレゼントしたい・・・
伊織に頼んで学校帰りにちょっとだけ買い物に寄ってもらおうと思う。
いつもどおり連れ立って教室に入ってくる絵美奈と伊織の姿を見て、千夏は複雑な思いを隠したまま笑顔で挨拶を交わした。

あの占い師、数日中にと言っていたくせに、まだ効果は現れないらしい。
それにしても・・・
絵美奈は最近急に綺麗になった。
肌は瑞々しく頬はバラ色で、軽いウェーブのかかった長い髪がやけに艶やかに感じられる。
そしてその瞳には隠し切れない喜びと、強い自信が仄見えていた。

理由など聞かずとも知れている。
絵美奈はあの人、朋之と・・・
左手薬指にうっすらと残っている指輪の跡―――
激しい嫉妬の感情をどうにも抑えきる事が出来ず、千夏は思わず絵美奈から目を逸らした。

放課後絵美奈は伊織にショッピングセンターへ寄ってもらった。
少し買い物があるからと伊織には建物の入り口で待っているように頼むと、初めは朋之から決して傍を離れるなと言われているから、と難色を示した伊織も、絵美奈が男の子には見られたくないものを買うから、と言うとしぶしぶ待っている事を承知したのだった。
それはまた本当の理由でもあったのだが、別に伊織へのプレゼントを買いたかったし、ほんの少しの間なら自分一人でも大丈夫だろうと思ったのだった。

とりあえず必要なものを選び終えレジに並んだ時絵美奈は、財布を出そうとしてリュックにつけていたキーホルダーが一つ無くなっているのに気がついた。
ジャラジャラといっぱいつけていたのでなかなか気付かなかったのだ。
どこかで落としたのだろうかと、歩いたところを探してみたが見当たらず、あまり伊織を待たせるわけにも行かないので、絵美奈は諦めて伊織へのプレゼントを選ぶべく男性用品売り場へと向った。

何がいいのかよく分からずかなり迷ったが、結局伊織の趣味に会いそうなトレーナーを選んでプレゼント用に包装してもらうことにした。
思ったより時間が掛かってしまい慌てて出口に向おうとした絵美奈はフイに横から出てきた人とぶつかってしまった。
ごめんなさい、と目を上げると、ぶつかった相手はなんとあの塾の講師、堀内京介だった。

「あれ、君は確か塾の生徒さんだよね」
京介は爽やかな笑みを浮かべて絵美奈に話し掛けてくる。
つい最近まで熱烈に憧れていた男性の思いがけない出現に、絵美奈は頭の中がパニック状態になり、あわあわと意味不明の言葉を連発してしまう。

京介は「大丈夫・・・?」とクスッと笑うと、
「そういえば君最近塾に来ないけど、どうかしたの?せっかく実力もついてきて成績も上向いてきたんだから、その調子を持続するよう頑張らないと」
と絵美奈が思わず取り落とした荷物を拾い上げながら言った。

急いでそれを受け取って
「は、はい、それはよくわかっているんですけど・・・」
とやっとのことで絵美奈が答えると、京介はさらに
「今からしっかり準備しておけばきっと目指す進路に進めるはずだからね」
と優しく言ってくれた。
穏やかで優しそうな物腰と包容力溢れる大人の雰囲気に絵美奈は思わずポーッとなる。

京介はじゃ、と言って立ち去ろうとしてふと絵美奈の胸元に目を留めた。
「へえ、随分と凝った細工のブローチだね。羽根の部分に埋め込まれているのはルビーかな・・・?」
京介がもっとよく見ようとするように顔を近づけてきた。
一瞬だが眼鏡の奥のその瞳が緑色に光ったように見える。
えっ、と思っていると京介はすっと手を伸ばして蝶の細工の部分に触れたので絵美奈は吃驚して身を引いた。

「ああ、ゴメンね。あんまり綺麗な細工だったから。これ、どこで買ったのか教えてもらえないかな?」
京介はすぐに手を引っ込めると、照れたように頭をかきながらそう言った。
その目はただの黒い目にしか見えない。
さっきのは気のせいだったのかな・・・
そう思いつつ、
「ええと、あの、これは人から貰ったものだからどこで買ったのか知らないんです・・・」
と、絵美奈はなぜか赤くなりながら答える。

「そうか、もしかして彼氏からのプレゼント?」
「え・・・はい、まあ・・・」
「そうか、羨ましいね、リッチな彼氏で。今度どこで売ってるのか聞いといてもらえる?」
「はい、いいですけど・・・」
「じゃ、きっとだよ」
そう言って京介はにっこりと笑うと店の奥のほうへと立ち去った。

しばらく呆然とその後姿を見送ってから絵美奈はようやく我に返り、胸に挿したピンブローチを改めて見つめなおした。
羽根に埋め込まれているのはルビー・・・?
確かに周りの金細工もかなり繊細で手の込んだものだが・・・
そんなに高価なものだったんだ・・・
指輪を買った時の朋之の姿を思い出し、やっぱり自分と彼とでは住む世界が根本的に違うのだと寂しく思う絵美奈だった。

入り口では伊織が待ちかねたというように絵美奈の姿を認め、駆け寄ってきた。
「全く、随分遅かったじゃない・・・」
伊織はそう言って笑顔を見せたが、絵美奈に近寄るに連れてその表情は硬くなっていった。
「巫女姫様・・・、一体何を付けてきたの・・・?」
伊織にそう言われても絵美奈には何の事か分からない。

「何って、あの・・・」
伊織はしばらく俯いたまま無言でいたが、やがてきっと顔を上げ、
「とにかく家へ戻ろう・・・」
と言ってあたりに人気のない場所まで出て空間を移動した。

二人が着いたのはいつもの応接間。飯塚さんは夕食の支度を終えてもう帰った後だった。
伊織は一言も口をきかず、絵美奈の腕をとり朋之の前に連れて行く。
ソファに掛けていた朋之は絵美奈の姿を見るなりつと立ち上がり、ピンブローチに手を伸ばした。
「これに誰か触ったのか・・・?」
その口調に軽い怒気を感じ、絵美奈はたじろいで思わず一歩下がった。

「あの・・・塾の先生が・・・すごく綺麗だ・・・って・・・」
どこで売っているのか聞いておいてと言われたが、とても訊ける雰囲気ではなさそうだ。
「お前、本当に何も気付いてないのか?」
朋之は怒っているというよりは呆れているといったような語調でそう言った。

「え・・・」
ブローチから離した指を朋之が軽く擦り合わせると、パラパラと細かい粉が落ちる。
その粉がふれた途端、床に敷き詰められていた絨毯がジュウジュウと音を立てて溶け始めた。
「きゃっ、これ・・・!」
「あの毒蛾の鱗粉だぜ」
絵美奈は言葉もなく朋之と伊織の顔を交互に見比べた。

「これに触った塾の先生って誰?」
伊織に聞かれ絵美奈は京介の顔を思い出し、
「数学の先生だけど、あの先生はそんな人じゃ・・・」
と答える。
「どんな人かは俺が判断する。そいつの名前を言ってみろ」
有無を言わせぬ強い口調に絵美奈は呟くように
「堀内・・・京介・・・」
と答えた。

「・・・なるほどな・・・」
大して驚きもしない朋之に伊織が
「月読様、そいつをご存知なので・・・・」
と尋ねる。
「ああ、多分・・・」
「朋之様・・・」

眉を寄せ不審気に見守る伊織に
「大層な自信だな。この俺に挑戦状を叩き付けてくれるとは・・・」
と朋之は笑いながら言う。
「月読様、まさか挑発に乗るのでは?」
伊織が慌てて言うのに
「売られた喧嘩を買わない手はないだろう。これまでさんざん振り回してくれたお礼をしてやろう」
朋之は不敵に笑いながらそう答えた。

「危険です、今度こそ周到な罠を張ってあるからこそ、相手はこんなことを・・・」
「分かってるさ、だからどんな罠を張ったのか見てやろうというのだ」
「全く、どうしてそう好戦的なんですか、貴方は・・・」
「どうしてかな・・・日頃退屈すぎるせいかもしれないな。ま、そんなに心配なら様子を探るだけにするから、お前は巫女姫を守っていてやれ」

「月読様!お一人で行かれるつもりなのですか・・・!!」
伊織の剣幕に珍しく多少押されながら朋之は答える。
「この俺に手出しできるものなどいるはずないだろうが」
「それでも、貴方お一人で行かせるわけにはいきません」

決然とした伊織の表情を見て朋之は
「分かった、ではお前に共を命じる」
と言って右腕からブレスレットを外し掌に載せた。
そっと息を吹きかけられブレスレットは水色に輝く少女の姿に変わる。
「何もないとは思うが、お前はここで巫女姫様を護ってやってくれ。」
朋之はそう言うと、絵美奈にすぐ戻る、と言い置いて伊織とともに姿を消してしまった。