5. 「あ、待って、私も一緒に・・・」 といった時にはもう絵美奈は式神の少女とともに取り残されている。 「はっきり言って貴女は、足手纏いにしかなりません」 水色の少女にそう言われ絵美奈は、言われなくても分かってるけど・・・と思わず頬を膨らませた。 「朋之様は貴女のことをとても大切に思っている。だから貴女は危ないことをしてはいけません。」 「それは、そうなんだろうけど・・・」 絵美奈は少女の腕にそっと触れてみた。 ひんやりと気持ちのいい冷たさを感じる。 「貴女はたしか蛟って言ってたよね」 「はい、普段は朋之様が水鏡を見られる時に使ってくださいます」 「水鏡・・・私にも見られるかな」 「どうでしょう。でも貴女も巫女ですものね。やってみますか」 「うん、やってみたい。どうすればいい?」 「何でもいいですから器に水を張ってください。できれば大き目の清潔な器がいいですけど」 絵美奈は台所から大き目のボールをさっと濯いで持ってきた。 「これですか・・・、あまり気に入りませんがまあいいでしょう」 少女はそう言ってすっと蛟の姿に変わり水の中に飛び込んだ。 「さあ、何を見たいですか?心の中で念じてみてください」 「朋之と伊織君はどうしてるのかな・・・」 絵美奈は朋之がやっていたように掌を水面にかざして、朋之のことを強く思い浮かべた。 薄ぼんやりとだが二人の少年の姿が映る。 二人は塾の近くの公園で何事か話し合っているようだった。 声までは聞こえてこないので何を話しているのか分からないのがもどかしいが・・・ 「いいかげん教えてくれてもいいでしょう。あの天つ神は一体誰なんです。それに堀内京介というのは・・・」 人気の無い公園に朋之とともに降り立った伊織は、何も語ろうとしない相手に少し苛立ちながらそう尋ねた。 「お前も知っている男だがな・・・」 朋之は軽く口元を押さえながら、建物の一部だけが見えている絵美奈の塾を眺め、そう答えた。 「僕が?では、やはり里の者なのですか?」 伊織はかなり驚いて尋ねた。 「前に、お前と里で会った時の事覚えてるか?」 「里でって、宮の内殿で?」 「いや、村の道端でだ。お前は野良仕事の帰りだったのかな、俺のことが分らなくてあんまり阿呆面を晒してるものだから、もしかしてあの後仕置きを受けて記憶を消されたのかと思った」 「阿呆面って、あんなトコに宗主家の人が居るなんて、と吃驚しただけですよ」 伊織の言葉に朋之はクスッと笑いを漏らして 「あの時はやっとあの鬱陶しい長い髪とおさらばできて、俺もかなりハイになってたからな、外へ出てはいけないときつく言われてはいたんだが、そう言われると余計宮の中に閉じこもっているのが耐えられなくなってしまったんだ」 と言ってそのときの事を思い出しているように遠い眼をした。 その瞳がいつになく穏やかなのに伊織は少なからず驚いた。 これから敵地に乗り込もうというのに・・・ 「それはともかく、そのとき傍にもう一人いただろう。若いくせに妙に口うるさい奴が」 ああ、と伊織は合点する。 顔や姿は朧気にしか思い出せないが、朋之に早く宮へ戻るよう嗜めていた男がいたっけ・・・ そういえばあの男を見たのは後にも先にもあの時限りだな、と伊織は思う。 「あれが、次の思兼神を継ぐ事になっていた男だ」 「では、祖父の変わりに貴方の護衛の任に当たったという・・・」 自分が朋之の傍に上がるようになってその人は任を解かれたのだが、その後は一体何をしているのだろうと、伊織はふっと思った。 今代の思兼神はかなりの高齢とはいえ、まだ健在だし・・・ 「アイツは傍系だが宗主家の端くれだからな、本来なら姉上の傍仕えとなるはずだったのだが」 「僕はあの方をあの後見たことがありません。宮の奥深くに住んでいらっしゃるので?」 「いや・・・、アイツはもう里にはいない、というか、アイツがいなくなったからお前に俺のお守りが回ってきたって訳なんだ」 「えっ・・・!、ではあの人は里を出て行ったのですか?どうして・・・」 目を見張る伊織を面白そうに眺めながら朋之は言う。 「お前と一緒で俺にヘイコラしてるのがいやになったんだろう?」 言葉に詰まる伊織を横目で眺めながら朋之は続けた。 「ま、冗談はさておき、本当の理由は俺も知らない。だがアイツはある日突然里を出て戻ってこなかった。俺が夏休みで里に戻っていた時のことだ。俺もアイツのことはそれっきり忘れていたんだが・・・そしてアイツが俺と一緒にこちらの世界で暮らしていたとき使っていた名が」 「堀内京介・・・なんですか?」 朋之は頷きながら 「まあ、同姓同名の別人と言う可能性もあるが・・・」 と呟く。 伊織はあの時の情景を思い浮かべる。 朋之のことは強く印象に残っているせいか、服装や髪型まで逐一思い出せるがその京介という男の事はどうしてもぼんやりとしか思い出せなかった。 「何でかな、ソイツの顔がはっきりと思い出せないんですが。確かにあの時は日暮れ時で薄暗かったし、逆光だったけど」 「だろうな・・・」 「え?」 「俺もこの間会った時どうにもはっきりと思い出せなくてもどかしい思いをした。 おかしな話だろ、三年足らずとは言え一緒に暮らしていたのに」 「ということは・・・」 「アイツが出て行ったとき姉上が里の者に暗示を掛けてアイツに関する記憶を消したんだ。ただ、いくら姉上でも我々全員の記憶を完全に消し去ることはできなかったんだろうな。だから朧気げはあっても覚えているんだ」 「姫神様が?」 「里を捨てていく者が居るということを知られたくないんだ。とくに宗主家の者が里を見限って出て行くなど、里人には伏せておきたいのだろうな。・・・お前は俺の父の事を知っているな」 「はい、祖父から聞きましたから・・・」 「だが他のものは皆知らぬだろう、姫神様の実の弟までもが里を後にしたなどとは」 「朋之様・・・」 「だから姉上に会ってアイツに関する記憶の封印を解いてもらったんだ」 伊織の脳裏に一人の男のイメージが映像となって映し出される。 ―――コイツが京介だ。俺よりは五つばかり年上だったから今は二十三くらいか。この顔よりは少し老けてるとは思うがそんなに変わってはいないだろうから・・・ 横で分けた前髪を少し下ろし加減に後ろに流している、細面の若い男・・・ 細い銀縁眼鏡の奥のその瞳は一見黒く見えるが、よく見ると濃い深緑色であることがわかる。 少し神経質そうな感じがしなくもないが、かなりの男前である事は間違いない。 パッと見にはさわやかな好青年といったイメージに、そうだ、あの時見たのはこんな顔だった、と伊織は昔の記憶がまざまざと蘇ってくるのを感じていた。 「訊いていいですか。・・・貴方とあの男とは特別な関係だったのですか?」 躊躇いながらの伊織の問いに、朋之はそれこそ目を見開いてまじまじと見つめ返してきた。 「てめえ、言うに事欠いてなんて事を・・・」 まともに蹴りを食らわしてきそうな雰囲気の朋之に伊織は汗をかきながら 「だって、貴方は以前は女みたいな格好をしていたじゃないですか。髪も長くて・・・ 貴方はその、とてもお綺麗だ、相手がおかしな気分になったって・・・」 と慌てて言う。 「これはまた・・・、お褒めいただいて光栄だとでも言えばいいのか? 生憎だが俺は女の格好なんかした事は一度も無いぜ、学校も男子校なんだし」 「でも里で、内殿で僕と合った時は・・・」 「女のような格好って・・・、水干はもともと男子の装束じゃないか。 まあ、そういえば姉上付きの巫女達も水干姿だが」 言われてみると朋之が着ていた衣装は他の巫女達とは少し形が違っていた気もするが、あの時の伊織にはそんなことにまで気付く余裕は無かった。 内殿はかなり薄暗かったし、第一伊織の目は相手の顔にばかり向いていたのだから・・・ 当時を思い出して少し朦朧している伊織に、朋之は一瞬怪訝そうな目を向けたがすぐに続けて言った。 「確かに髪の毛だけは姉上から切ってはいけないと言われてたから仕方なく伸ばしてたけどな。残念ながらお前が期待してるような事は何も無かったね。アイツは女好きでしょっちゅう相手を変えていたし」 「貴方もご同類と言うわけで・・・」 その途端、朋之は平手で伊織の横っ面を張り飛ばした。 「これからアイツと渡り合わないとならないから、手加減してやったんだ。ゲンコでないだけありがたく思え」 「全く、本気で殴らなくても・・・」 情けない声を出す伊織に 「お前こそヘタな芝居もいい加減にしろよ。俺に殴られたくらいじゃ痛くも痒くも無いんだろ」 と朋之は冷たく言い放つ。 「それでも多少は堪えますよ、僕だって生身の身体なんだから・・・」 「最強の戦士が情けないことを言うな。それより・・・」 朋之はそう言うと伊織のほうへ掌を向けて腕を上げた。 「なっ!」 「ここから先は俺一人で行く。お前はここで待っていろ」 そう言うと朋之はくるりと踵を返して足早に公園を出て行った。 「待て!」 コートの裾を翻し颯爽と立ち去る朋之の後姿を伊織は慌てて後を追おうとするが、どうしても前へ進む事が出来ない。 くそっ、結界に閉じ込めやがって、あの野郎やっぱり里を・・・一族を裏切るつもりかっ! 朋之の気配が遠ざかるのを感じながら手も足も出ない悔しさに伊織は地団駄を踏んだ。 朋之は自分抜きで京介に会いたがっていた。 自分には聞かせられない話があるのだろう。 朋之はやはり一族を裏切るつもりなのだ。 なんとか諌めて思いとどまらせなくては・・・ もし、それが適わぬときには、少しでも早く姫神様にお知らせし、今後の指示を仰がなくてはならない。 さらに、朋之が本当にあの男とは単なる主従の関係だったのか、伊織にはかなり疑わしく感じられてきた。 焦燥感で胸を掻き毟りたくなるような衝動に、だが成す術も無く伊織は立ち尽くす。 畜生、何か方法を考えろ・・・ そうだ・・・ 水面に朋之一人が立ち去り、伊織が後に残った、そんな場景が映ったのを最後に映像は消えていき、後はもう何も映らなくなった。 あの二人がなぜ別行動をとったのか、そしてこれからどうするのかその先をこそ見たいのに・・・ と絵美奈は思ったが 「貴女はまだ自分の力を完全にコントロールできないのです。もっと力が付けば思い通りのものが見られるようになると思いますが、今はこのくらいが限界でしょうね。」 と言う声が水中から聞こえた。 「私も朋之や伊織君の力になれたらいいんだけど・・・」 「貴女は封印の事だけを考えていればいいのです。それが月読様の願い。」 「足手まといにならないように、余計な事はするなって意味?」 「まあそうですね。」 その答えに絵美奈は苦笑交じりの溜め息を付く。 「ほかに見たいものはありますか?」 と訊かれて絵美奈は 「じゃ、家族の様子を・・・」 と答えた。 すぐに水鏡はぼんやりと濁り、絵美奈の家の様子を映し出す。 両親も妹もどうやら皆それぞれの平和な休日を過ごしているようだ。 妹は相変わらずギターと格闘している。 そういえば裕美奈は朋之が又来てくれるかな、と言っていたことを思い出す。 あれから随分経ってしまったような気がするが、まだ数週間しか経っていないのだ・・・ そう思って眺めて居ると、突然 ―――巫女姫様! と言う声が頭に響いた。 |
6. ―――伊織君?どうしたの? ―――理由を話してる暇は無い、大至急頼みがあるんだ ―――伊織君・・・ ―――いいから、僕の部屋へ行って!鍵は開いてるはずだ。部屋の真ん中へんの右手の壁際に書き物机があるから、そこまで行ってくれ ―――分かった 伊織の声のかなり切迫した様子に絵美奈は急いで二階の伊織の部屋へと向った。 ―――机の前に来たわよ、どうすればいいの? ―――袖机の一番上の引き出しの奥に白いハンカチが入っているはずだ ―――ハンカチ? ―――ああ、無地でTHのイニシャルが入っているやつが。そこにはハンカチはその一枚しか入れていないから ―――うん、見つかった。随分奥にしまいこんであるからパッと見には分からなかったけど・・・ ―――そのハンカチを窓から外に放ってくれ ―――窓から? ―――そう、僕のところに届くように念じながら ―――分かった、やってみるね ―――有難う・・・ 朋之は正面入り口から堂々と塾に入り、受付で堀内京介に会いたいと告げた。 受付の女性が只今講義中ですから、と答えると、それでは待たせてもらおう、とずかずかと応接へと入り込む。 間もなく、狭い部屋のドアが開く気配に振り向くと、そこに目当ての相手が立っていた。 「やあ、ようこそおいで下さいました。こんなに早くいらしてくださるとは思っていなかったのでこちらも少々準備不足でしてね、失礼してしまいましたね・・・」 長身で物腰の柔らかそうな好青年が爽やかな笑顔を浮かべて立っている。 ツイードのスーツをシックに着こなした青年は片手に数冊の教材を持ち、空いているほうの手で眼鏡を軽く持ち上げた。 「お久しぶりですね、朋之様。また背が伸びましたか?にしても、高校三年のこの時期にこんなことをしているとは大した余裕だ。普通の学生は皆必死になって勉強しているというのに・・・」 「京介・・・」 「まさか、こんな時間に堂々と乗り込んでこられるとは、少々意外でしたね。貴方はもっと慎重派かと思っていましたが。」 「俺はもともと行動派だ。」 「つまり僕の前では猫を被っていたということですか。」 「どうとでも。それで・・・?お前の真意は何なんだ?なぜ封印の邪魔をする?俺にはその理由を聞く権利があると思うがな。」 京介は薄笑いを浮かべたままじっと朋之を見詰めていたが、やがてゆっくりと 「いきなり核心を突かれるんですね。まあ、理由はいくつかありますが・・・そのうちの一つは貴方のためでもある、と言ったら信じてもらえますかね・・・」 と呟くように言った。 朋之は真意を測りかね、軽く瞳を細める。 「ふざけるな、国つ神どもとつるんでこの世の平穏を乱すのが、何で俺のためになる?」 京介は眼鏡の縁に手をやりながら軽く顔を伏せた。 「何だかんだ言って貴方は結構真面目なんですね。それに責任感が強い。それでも、この世の安寧よりは、あの可愛らしいお姫様を守ってあげることの方が貴方にとっては重大事のようですけど」 「それがどうした?」 「おやおや、大層な入れ込みようだ。封印の力以外には大した取柄もなさそうなあんな女の子のどこがそんなにお気に召したのか。それとも生き別れになった妹の代わりとでも思っておられるので?」 「お前まさか・・・」 「ご安心を、貴方の家族には手を出してませんよ、今のところはね」 朋之は無言で相手を睨みつける。 「どうなさったんです、朋之様?貴方はご自分の運命を呪っていらしたではないですか。それとも気が変わって、一生を一族の為に犠牲にする気になったとでも言われるのですか? あの閉鎖的な里と里人を食い物にしている醜悪な女―――あなたに無理矢理姉上などと呼ばせている物の怪さながらのあんな女のためにその身を捧げるなどと、本気で考えているわけじゃないでしょう?」 「俺が何を考えようとお前には関係ないはずだ。お前は里を棄てた男だ。四の五の言う資格はないだろうが」 朋之の口調は物静かだがその声音に怒りを含んでいる事は容易に察せられた。 「では単刀直入に言いましょう。僕はある目的の為に貴方の力が欲しい。ほんの少しだけ我々に協力してくださるだけで結構です。その見返りとして僕は貴方をその泥沼のような運命から解放してあげましょう。いかがですか?貴方にとってはこれ以上ない話だと思いますが」 「呆れたな、馬鹿馬鹿しい。俺がそんな話に乗ると本気で思っているのか? 第一、お前にそんな力などないだろう。里を出るとき姉上に全ての力を封じられたはずだ」 京介はクスクスと笑いながらそれに答える。 「やっぱり貴方は根本は変っておられないようで安心しましたよ。貴方は何もわかっていない・・・。僕は力を封じられてなどいない。貴方がたの目を晦ますために今まで力の気配を消していただけだ」 声音も口調も今までとは打って変わって高圧的に感じられる。 斜に構えたその身体からは強い力の波動が迸っていた。 「どうです、朋之様、今すぐ返事をとは言わない。だが一考の価値はあるはずだ」 「確かに俺にとっては渡りに船のオイシイ話かも知れないが・・・」 「朋之様!一族を裏切るつもりなのですか・・・」 そう言って突然伊織が部屋の中に現れたので、朋之も京介もともに一瞬虚を突かれた。 「伊織・・・、お前どうやって・・・」 目を見張り呟く朋之に伊織は手に持ったハンカチを示すように手を少しだけ持ち上げた。 「さあ、答えて下さい、貴方は本気で我らを裏切ってこんな奴と・・・」 眦を決して睨みつける伊織を、しかし朋之は無視して京介に向き直った。 「だが一つだけ気に食わんのは・・・お前がお膳立てしたということだ」 「おやおや、随分とお疑いで。悲しいですね、以前の貴方はもっと真っ直ぐだったはずなのに」 「朋之様!僕の質問に答えて下さい!」 伊織はそう叫んで朋之の腕を硬く掴んだが朋之はそれには構わず 「戯言はいい。この世を乱すお前の真意は何だ?俺のため、などと言うのは答えになってないぞ」 と京介に問う。 「この世の乱れは僕の所為ではない。しいて言うならばわが一族の運命、滅び行く一族の破綻の予兆とでも言うのでしょうかね・・・」 「何を言うか、我らは亡びなぞせぬ!」 その声とともに伊織は電光を迸らせたが、その雷は京介の身体の周り数箇所で激しい火花となって弾け、京介本人にはかすり傷一つ与えられなかった。 「結界か・・・。お前のその力はまさか・・・」 朋之が呟く。 「いきなり攻撃を仕掛けてくるとは、貴方の今度の従者は全くの礼儀知らずと見える。」 京介は口元に軽い笑みを浮かべながら蔑むように伊織を見遣った。 「お前と違ってイキがいいからな。だから気に入ってるんだ」 あまりにも意外なその言葉に伊織は一瞬戸惑ったように朋之を見つめた。 「全く、野放図なご主人様だ。ならば僕が代わりに少々お仕置きをしてあげようか」 京介が何やら呟きながら片手をあげたのを見て、伊織は今度は体中から放電を始めた。 ―――どういうことだ、京介は俺同様直接相手を攻撃する力は持っていないはず・・・ とっさに朋之はそう思ったが、京介は振り上げた腕を勢い良く振り下ろした。 同時に伊織の腕から放たれた電光が京介の身体を直撃する。 先ほどとは比にならぬほどの強い火花が飛び散り、京介の結界は破れたように見えた。 その衝撃にほんの少し後ろに仰け反った京介はしかし、口元に不敵な笑みを浮かべ、もう片方の掌を広げて見せた。 「何!?」 その手に握られていたのは小さなウサギのマスコットのついたキーホルダー――― 大きく見開かれた朋之の瞳に京介の人を食ったような笑顔が映る。 「貴様!」 伊織の放った電光はそのマスコットを瞬時に焼き尽くした後、四散したように見えた。 意外な成り行きに伊織は瞬時呆然と京介の手元を見詰める。 次の瞬間・・・ 「伊織!」 という声が響き、辺りは強烈な光に晒されて何も見えなくなった。 一方伊織に言われたとおりハンカチを窓から放った絵美奈は、そのハンカチが一陣の風となって瞬時に消えて行ったのを見て、あれは前に朋之が伊織を助けるために使ったハンカチであることを思い出した。 ずいぶん大切そうにしまいこんであったけど・・・ 絵美奈は伊織の心の奥底を覗いてしまった様で何となく重い気分で応接間へと戻った。 一体何があったのか分からないが、伊織の声はかなり焦っているように聞こえた。 ダメもとでもう一度水鏡で二人の様子を見てみようか・・・ そんなことを考えていた時、いきなり胸にさしたピンブローチがバチバチと帯電したような音を立てた。 軽く弾かれるような衝撃に思わず後退った絵美奈が 「何、今の?」 と言って水鏡を覗き込んだが、返事は無い。 水面にはもはや何も映らず、ただボールの底に金のブレスレットが落ちているだけだった。 強い光の残像から解き放たれ我に返った時には、伊織の身体は朋之に抱きすくめられていた。 「朋之様・・・!」 わけがわからず戸惑いながらも朋之の背に触れた伊織は、その手に粘り気のある液体が触れるのを感じて驚いて手を離した。 そのとたん朋之の膝がガクリと落ち、体全体が伊織にしなだれかかって来る。 ―――朋之様・・・一体何が・・・ ―――・・・あの野郎・・・変わり身の術を使いやがった・・・ ―――! ―――お前は無事か・・・? ―――僕は何とも・・・けど・・・ ―――そうか・・・急いで結界を張ったが間に合わなかったな・・・でも、お前に怪我がなくてよかった・・・ 両の手についたのは赤い血の混じった体液・・・ 伊織の全身から一気に血の気が引いていく。 ―――朋之様!なぜ僕を庇ったりしたのです、どうして・・・ ―――お前が怪我をしたら悲しむ者がいるのだろう、だから・・・。それに、これは俺のかけた術だ。全くザマはないな・・・、自分のかけた術に自分で嵌るとは・・・ 朋之の身体が崩折れそうになるのを、伊織は背中の傷に触れぬよう両脇で支えた。 柔らかな髪の毛が伊織の頬から首筋へと流れ落ちる。 ―――朋之様、しっかりしてください。こんな状態でアイツに攻撃されたら・・・ そう思って京介を見遣るが、京介も呆然と朋之と伊織を見ているだけで、なにか仕掛けてくる意思は感じられない。 ―――大丈夫だ、この程度のことで俺がどうにかなるわけないだろう・・・、それより早く俺を家に連れて帰れ。そしてアイツを・・・絵美奈を守ってやってくれ その言葉とともに朋之の意識が途切れる。 その瞬間朋之のガードが外れその思考や記憶の波が伊織の頭に一気に雪崩れ込んできた。 泣きたくなるような感情の昂ぶりを抑えながら伊織は瞬時に空間を移動し、洋館のホールへと朋之を連れ帰った。 ドサリという音に不安そうな絵美奈が応接間から駆け出してきた。 朋之を見るなり真っ青になって小さく悲鳴をあげる。 「どうしたの、一体・・・」 「とりあえず、部屋へ運ぶ。君は悪いけどしばらくもとの客間で休んでてくれ」 「でも、あの・・・」 絵美奈が朋之に触れようとするのを、 「君が傍にいても何もできないだろう!」 そう言って伊織は撥ね付けた。 その剣幕にたじろく絵美奈を見て伊織は 「ごめん、大きな声を出したりして、かなり気が立ってしまってて・・・」 とポツリと言う。 「ううん、伊織君の言うとおりだよ、私には何もできない・・・」 絵美奈は涙を滲ませた瞳で伊織にそう言うと、朋之のブレスレットを差し出した。 「これ・・・、さっき急に元に戻ってしまったの・・・」 伊織はそれを手に取ると、 「僕は朋之様を部屋に運ぶから・・・大丈夫だよ、時間がたてば元に戻る。何たって僕等は神様だからね」 と努めて明るい声でそう言った。 |
7. 朋之の部屋へと移動した伊織はうつ伏せにベッドへ寝かせるとそっとその脇に膝をついた。 衝撃の激しさを物語るように服はビリビリに裂けて剥き出しになった背中には一面火傷の水泡が破れ、あちこちから血の混じった体液が滲み出している。 右肩の辺りの皮膚が茶色く焼け焦げているのが感電の衝撃の激しさを物語っていた。 普通の人間なら完全に心臓が止まってしまっているはずだ。 伊織は先ほど絵美奈から渡されたブレスレットを手のひらに載せ、 「君のご主人様が怪我をしたんだ。助けてやってくれ・・・」 と呟いて息をかけた。 ブレスレットは蛟に姿を変え、朋之の背に乗るとそのままゼリー状に解けて広がり背中全体を覆った。 ひんやりと冷やされて気持ちがいいのか、朋之の息使いが少しだけ楽になったように思われる。 伊織は朋之の手を取ると自分の力を相手に注ぎ込んだ。 朋之様・・・ 完全に無防備となった朋之の心が伊織にさらけ出される。 幼き日に別れた父親に赤ん坊を抱いた母親、姫神様と思われる凛々しく美しい女性、そして懐かしい祖父の顔や、あの京介の今よりも幾分若い顔が浮かんでは消えていく。 その中には初めて出会った日の幼い伊織の顔もあった。 見まいと思いつつも繋いだ手を通して容赦なく流れ込んでくるその思念の波の中にあまりにも思いがけない顔を見出し、伊織は思わずその心の中を覗き込んでしまった。 茫洋とした薄暗い空間の中に一人の老いた女の姿が浮かぶ。 これは・・・ ―――あの老婆、昨日も一昨日も来ていたな。この時期姫神様は特別なお篭りの最中、里人には会うまいに ―――いえ、あの者は月読様にお会いしたいと申しておるのでございますよ ―――俺に?何の用があると言うのだ? ―――それは、他の方には言えぬ、の一点張りで ―――ふうん、では訊いてみるとするか ―――そんな、月読様が自ら里人とお言葉を交わされるなど ―――月読だと名乗らねばよいのだろう?こう毎日来られては気になってならぬ 老婆の顔が靄の中に大きく浮かび上がる。 ―――お婆さん、何度お出でになっても月読様はお会いすることはありませんよ ―――貴方様はどなた様で ―――私は月読様の傍付きの者。あの方は内殿からお出にはなりません ―――ですが、普段は外の世界にいらしている・・・ ―――・・・そなた、なぜそれを知っている? ―――私は建御雷の連れ合いでございますれば ―――・・・で、月読様に話とは?(この者は、ではじいの妻か) ―――・・・月読様に直にお話し申し上げたいのですが ―――それは無理だな。あの方は里人にはお会いにならない ―――ですが・・・ ―――私でよければ話くらいはお伝えするが ―――では、お願いしてもよろしゅうございましょうか・・・ ―――そなたの話とは何なのだ? ―――孫のことでございます ―――孫? ―――はい、わが連れ合いは昨年天寿を全ういたしましてございます ―――ああ、聞き及んでいる。月読様も大層残念がっておられたが ―――勿体無いお言葉、痛み入ります・・・。建御雷の地位は孫の伊織と言う者が継承いたしました ―――らしいな ―――孫は月読様の傍付きとして外の世界に行く様にと姫神様よりのお達しを受けました。外へ行ってしまえば、あの子も連れ合いと同様滅多に里に戻れなくなることでございましょう。あの子はこの秋が来てやっと十四、そのようなお役目は酷にございます。 それに・・・私も連れ合いのことはもう諦めておりましたが、この身も老い先短く後数年の人生、できれば孫は手元に置いておきたいのでございます。 ですから・・・、月読様の方から伊織ではまだ幼すぎて心許無いと・・・、もっと別な方を傍付きにしてもらいたいと姫神様に仰っていただければ ―――姫神様が一度決められたことは何人も覆せぬだろう、たとえ月読様であっても ―――では、あと数年、せめてあの子がもう少し大人になるまでそのお役目は他の方にお願いできないものかと ―――・・・そなたの話はよく分かった、私から月読様にお話してみよう。そなたの願いどおりに事が運ぶ目算は少ないがな これは一体何なんだ――― 伊織の心の叫びをよそに老婆の顔は急速に消えていき、続いて四十がらみの美しいが気の強そうな女性の顔が見えてきた。 ―――月読殿、いや、朋之殿、そなたの言いたいことはよくわかる。いくら最強の者と言ってもそなたより年若では心許無く感じるのも無理は無かろうが・・・ 知ってのとおり、我等には他者を攻撃する力は備わっておらぬ。元来我らにそのようなもの、必要ないからの。我等にできることは他者から仕掛けられた術を返したり別な者に転じたりして身を守ること・・・ それでも、そなたに手出しできる者があちらの世界にいるとは思えぬが・・・。 だが、そなたの身に万一のことがあれば、わらわはそなたの父に、浩之殿になんと言って詫びればよいかの? ―――姉上・・・ ―――思兼神ではやはり戦士としては心許無い。いずれこの役目は建御雷神に戻そうと思っていたのが少しばかり早まっただけだ。 案ずる事はない、今は幼くともあと三年もすれば屈強な若者になり、充分そなたを守ってくれようぞ ―――(あの老婆は俺のことを恨むのだろうな・・・だが、仕方ない、俺にできることは高々この程度・・・。どんなに力があっても何一つ思い通りにはならない、ならばこんな力、ないほうがマシだな) 次に垣間見えたのは自分の顔だ。今よりずっと幼く感じる。 よく覚えている、朋之様と二人こちらの世界で暮らすようになってすぐの頃――― ―――貴方は僕が傍付きではご不満のようですが、僕だって姫神様のご意向でこうしてお仕えしているだけですから ―――(成る程確かにまだ子供だ。俺が半分はただ人なのが気に入らぬらしい。里にその身を案じる者が、帰りを待つ者がいるのなら、俺の傍になどいないほうがいいのだが、逆にムキにならせてしまったようだな。 あの老婆の為には俺に愛想をつかして逃げ帰ってくれれば一番だが・・・) ―――(俺は多分にコイツが羨ましいのだろう、俺には本当に俺のことを思ってくれる家族はもういないから・・・。 何となく分かってしまったのだ、姉上が俺のことを案じるのはもう俺しか直系親族の男子はいないからなのだと。それはつまり父が死んだということ、そして恐らく母と妹も・・・) 更に様々な記憶が渦巻いて流れ込むのを伊織はどうにか留めた。 これ以上この人の心に土足で踏み込んではいけない・・・ それにしても、どうして、どうしてこんなことが・・・ 僕は・・・僕は何も知らなくて・・・ 婆ちゃんがあんなことを言いに宮へ行ったなんて あんなことを朋之様に・・・ 僕は一体この人の何を見ていたのだろう 僕は・・・貴方を見返したくて・・・、貴方に僕のことを認めてもらいたくて・・・、そればかり思っていたから見えなかったんだ 僕は・・・本当に子供だったのだ まともに相手にしてもらえなくて当たり前だ――― 最後に伊織と絵美奈の笑顔が映り、朋之の記憶は薄闇の中に掠れていく。 朋之の力が回復してきたのだ。 息遣いも大分穏やかになり、背中の火傷も急速に治りつつある。 こんなことで俺がどうにかなるわけないだろう――― と言った朋之の言葉が思い出される。 顔色もほんの少しだが赤みがさして来たのを見て取り、伊織はほっと溜め息をついた。 成る程大した生命力だ・・・ それにしても・・・あの男、京介は変わり身の術を使った、朋之は確かにそう言った。 京介が持っていたキーホルダー、あれは恐らく絵美奈のものだろう。 京介は自分にかけられた伊織の攻撃をあれを使って絵美奈に摩り替えた。 絵美奈が朋之の術をかけたブローチを身につけていることは京介は百も承知だ。 絵美奈へと転じられた攻撃は倍返しとなってかけた伊織へと跳ね返った。 それをとっさに読んだ朋之は結界を張って伊織を守ろうとしたが間に合わず・・・ くそっ、伊織は心中舌打ちする。 あの野郎、どうやって巫女姫の持ち物を手に入れたのか。 ブローチに触れた時、掏り取ったのだろうか・・・ 全く、あれだけ気をつけるよう言ったのに、あの巫女姫様はどうも危機感が足りなくて困る。 まあ、そんなところが朋之は可愛いくて仕方ないらしいが・・・ 伊織は意識を飛ばして絵美奈の様子を伺ってみる。 絵美奈はまだ応接間でソファに腰掛けたまま俯いている。 どうやらまたうたた寝しているようだ。 そういえば、このごろよく眠くなると言っていたっけ 朋之の背中の火傷はうっすら跡が残るくらいまでに回復し、連れ戻った時にはあれほど苦しそうだった息遣いはほぼ平静に戻っている。 伊織はずっと掴んでいた手を枕もとに置くと、顔に落ちかかる髪の毛をそっとかきあげてやった。 背に乗った蛟に手を触れると、蛟は元のブレスレットに戻る。 伊織はそれを朋之の腕に戻してやると、静かに部屋を出た。 ゆっくりと階段を降りて応接間に行くと、気配を感じたのか絵美奈はうたた寝から醒めて伊織を見上げた。 「伊織君・・・朋之は・・・?」 まだ完全には目が醒めきらないのか、絵美奈は幾分ぼんやりした様子で尋ねる。 「さっきはごめんね、もう大丈夫だよ、怪我もほとんど回復したし。でもまだ意識が戻らないし、しばらくは自由に動けないだろうから、今夜封印が破れたら僕たち二人で何とかするしかないけど」 その言葉に絵美奈はよかった、と言って笑顔を見せたが、すぐに大粒の涙を零し始めた。 「どうしたの、巫女姫様・・・?」 慌てる伊織に絵美奈は 「ごめん、安心したら急に・・・。だってスゴク心配したんだよ、私・・・」 と言ってぽろぽろと涙を流しながら笑おうとする。 確かに可愛いか・・・ そう思いながら伊織はポケットから自分のハンカチを取り出し絵美奈に差し出した。 「落ち着いたら少し訊きたい事があるんだけど・・・」 「なあに?」 絵美奈は伊織の飾り気のない白いハンカチで涙を拭いながら訊き返した。 「君、最近何か無くさなかった?キーホルダーとか・・・」 「え、うん。今日ショッピングセンターで気付いたんだけど、リュックにつけてたキーホルダーが一個なくなってて。でも、どうして知ってるの?」 「それ、アイツに、堀内って塾の先生に掏り取られたんじゃないかと思ってさ」 「先生が?う〜ん、それはないと思うよ。だってキーホルダーがなくなってるのに気付いたのは先生と会う前だし、先生は確かに私が落とした荷物を拾ってくれたけど、リュックには触らなかったもの・・・」 「そうか。それ、いつなくなったのか正確には分からないんだね」 「うん、たくさんつけてたから一つ足りなくなってるのに気付かなかったみたいで・・・」 伊織は分かった、と頷いてから 「もう大丈夫だと思うから巫女姫様はともりんのそばについててあげて」 と言った。 「え、でも・・・」 「目が覚めた時奥様が傍にいたほうが喜ぶでしょ、あの人は」 そう言って微笑む伊織に絵美奈は一瞬戸惑いを見せたが、すぐに素直に頷いて階段を登って行った。 それを見送ってから伊織は庭に出て左袖をめくると腕に巻きつけていたチェーンを外した。 軽く唇を触れるとチェーンは艶やかな羽の烏にと変わる。 伊織は小声で頼んだよ、と言うと星一つ出ていない曇天の夜空へと烏を放った。 |