神鏡封魔録


休息

  1.

身体の奥底から湧き上がってくる微かな脈動を感じながら朋之は波の上を漂っているようなゆらゆらとした感触を愉しんでいた。
眩しいばかりの太陽ときつい潮の匂い、そして寄せては返す波の音―――
波頭に煌く光の粒がキラキラと美しく目を射る。

遠くで名前を呼ぶのは父だ。
「朋之、そろそろ上がろう。あまり帰りが遅くなるとお母さんが心配する」
「もうちょっとだけ、だめ?」
「だめ、さあ、早く・・・」
僕はもう少し泳いでいたいのに・・・

あれはいつのことだったろう
子供の頃はよく海で泳いだ。
遠い日の真夏の海、眩しいばかりの日光を浴びて
もう少し、もう少しだけ・・・

小さい頃は頻繁に引っ越した。
随分いろんなトコに移り住んだものだ。
やっと慣れた頃にはまた引越しで・・・

それでもあの海辺の白い家にはかなり長いこと住んでいたように記憶している。
昼間はほとんど一日中日が当たる明るくて綺麗な家
花好きの母は毎日のようにきれいな花を家中に飾っていた。
玄関の外にたって出迎えてくれる母の腕には小さな赤ん坊

僕によく似ていると皆言うが、僕はこんな猿みたいな顔じゃないと思う。
それでも初めは泣いてばかりいたが最近では声を上げて笑うようになった。
笑った顔は少しは可愛いかもしれない・・・

父は母から赤ん坊を抱き取り名前を呼ぶ。
名前・・・なんという名前だったっけ・・・
生まれたばかりの妹の名前は・・・

ぼんやりとした視界に女の子の顔が浮かぶ。
ああ、そうだ、俺は結婚したんだった・・・
どうしたんだろう、随分と不安そうにこちらを見ているが
そんな顔をするなよ
お前には笑顔のほうが似合う・・・

「よかった、気が付いたんだね・・・」
「・・・」
「朋之はずっと眠ったままだったんだよ、丸一日も・・・」
様々な記憶が一気に表層に駆け上ってきて、朋之はあっという間に現実に引き戻された。

「丸一日・・・?ってことは今は夕方か・・・」
気だるさの残る半身をどうにか起き上がらせたが、頭がくらくらして、手で支えないと倒れこんでしまいそうだ。
「起き上がったりして大丈夫?」

軋みをあげそうな身体をどうにか宥めながら朋之は呟くように答える。
「ああ、少し頭が痛いが・・・。丸一日も寝ていたんなら寝すぎだな」
「またそんなこと・・・随分酷い怪我だったから・・・」
「確かに・・・少しばかり油断したな。自分の力を過信しすぎたと言うべきか・・・」

「一体何があったの?」
とまだ心配そうに覗き込む絵美奈に朋之は
「伊織から何も聞いていないのか・・・」
と逆に尋ねてくる。

「うん、詳しいことは何も・・・。私にはあまり言いたくないみたいで・・・。それでも封印はちゃんとやったよ、二人で」
「・・・そうか、で、アイツは今どこに?この家にはいないようだが・・・」
「いろいろ調べたいことがあるからって、今朝早く出て行ったけど」
「仕方ないな、お前の傍を離れないようにと言ってあるのに・・・」

「私がずっと朋之の傍にいるって約束したから。それに今度のことは私にも関わりのあることなんでしょ。伊織君にはキーホルダーを無くさなかったかって訊かれたけど」
朋之の沈黙を肯定と受取り、絵美奈は
「伊織君は私のことを心配してくれてるみたいだったし・・・」
と続けた。

朋之は少し俯いたままじっと何事か考え込んでいたが、しばらくして大きく溜め息をつくと、立ち上がろうとして眩暈を起こしたようにベッドに座り込んだ。
「大丈夫?まだあまり動きまわらない方が・・・」
絵美奈は隣に腰掛けてその身体を支えてやった。

「ああ、そのようだな・・・」
朋之は頭を手で支えながら
「この服は・・・お前が着替えさせてくれたのか・・・?」
と尋ねた。

「うん・・・、着ていた服はビリビリで酷かったから・・・。傷もすっかり塞がったようだから引き出しにあったのに着替えさせたんだけど、いけなかった?」
「いや、なんかみっともないトコを見せてしまったな、と思ってさ・・・」
「そんなこと・・・。私でも朋之の役に立てることがあって嬉しいよ」

朋之は珍しく絵美奈の肩に頭を凭せかけて
「そうか・・・」
と小さく呟いた。
「今日は学校を休ませてしまったんだな・・・」
「私、しばらく学校に行かなくてもいいよ。それより朋之の傍にいたいもの」
「馬鹿を言うなよ、せっかく入った高校だろ」
「でも・・・」

「明日の朝までには俺も元に戻るからお前もちゃんと学校へ行け」
「・・・朋之は私と一緒にいたいと思ってくれないの・・・?」
「あのな・・・」
少し不満げな絵美奈に朋之は溜め息混じりに呟く。

「そういうことじゃないだろ。もし、お前が封印の巫女でなかったら俺たちは出会うことも無かったわけで、お前はそれこそごく普通の高校生として毎日学校に通って友達とおしゃべりしたり買い物したりして過ごしていたわけだろ。
こんなことに巻き込んでいろいろと不自由な思いをさせてしまってるけど、お前にはできるだけいつも通りの生活を送って欲しいんだ。
それに教育は受けれる時に受けておいた方がいい。身につけた知識をどう生かすかは自分次第だけどな」

「なんだか、学校の先生みたいなことを言うのね」
「まあ、今のは受け売りだ。俺も昔同じことを言われたからな・・・」
「朋之・・・」
「でも、今は俺もホントにそう思うよ。そのときは無駄に思えてもいつかきっと役に立つ時がくるさ。だから学校は行った方がいい」
「うん・・・」

その言葉を朋之に言ったのは堀内先生だろうか・・・
絵美奈は何となくそう思った。
朋之と堀内先生はどうやら昔の知り合いらしい。
今にして思えばあの廃屋で聞いた声は確かに講義の時の声に似ていたような気がする。
そして今回の朋之の怪我にはどうやらその先生が関わっているようだ。
どんな知り合いなのか朋之も伊織も話してくれそうにないが・・・

「何か食べる?お粥くらいなら私でも作れるよ」
絵美奈は朋之の顔を覗き込むようにして尋ねたが、朋之は首を振って、
「いや、いい・・・」
とだけ答えた。

「じゃ、もう少し横になる?まだ身体だるそうだし・・・」
「そうだな・・・一緒にいてくれるなら」
そう言って朋之は絵美奈を抱きしめた。

「いつもと逆だね」
身体を預けるようにして凭れかかってくる朋之を受け止めるようにして絵美奈はベッドに身を横たえた。
朋之の心臓の鼓動が直接伝わってくる感触に絵美奈は、何ともいえない安堵感を覚えた。

伊織に抱きかかえられるようにして戻って来たときには、もしかして命も危ないのではと思ったが・・・
この人はやはり普通の人間ではないんだ、改めてそう思い知らされながらもこうして無事でいてくれてよかった、と絵美奈は思った。

じっとそうやって抱き合ったまま静かな時間が過ぎ去る。
朋之はまた眠ってしまったようだ。
いくら神様とは言えあれだけの怪我をしたのだから、回復のために相当力を使ったのだろう。
絵美奈は朋之が少しでも楽になるよう少しだけ身体をずらした。
その瞬間、絵美奈はふいに鼓動とはまた別の脈動を朋之の身体に感じた。

これが力の波動なのだろうか・・・
蛍光ブルーのオーラを放ちながら伸縮を繰り返す球体のイメージが絵美奈の頭に浮かぶ。
その波動の波が繰り返す強弱のリズムを感じているうちに、絵美奈の体内でも何かが脈打っているのが少しずつ感じられるようになってきた。

初めは微かだった脈動が確実なものへと着実に変っていくのを実感しながら、
これは私の力だ・・・
と絵美奈は直感した。

自分の中に眠っている確かな力の波動―――
この力を思い通りに操ることが出来れば・・・
私ももっと朋之や伊織君の役に立つことができる
もっと強くなって朋之の抱えている重荷を少しでも分け合ってあげたい・・・

互いの波動の共鳴が齎す心地よい感覚に絵美奈は我知らず恍惚の境地に浸り目を閉じる。
そうしてしばらくその波動の波に身を任せていた絵美奈は、次第にその波長とは少し外れたもう一つの波動をごく微かに感じるようになった。
これは一体何・・・?



  2.

一方伊織は高台の見晴らしのいい公園で京介と対峙していた。
「君もなかなかいい度胸をしているね。この僕を呼び出すとは」
「僕も少し考えてみたんだ、何であんたがあんな回りくどい手を使ったのか。
同級生を使って巫女姫の持ち物を手に入れる、なんてね。
あの時も、いや、これまでだってその気になればいくらでも攻撃できたはずなのに、あんたは仕掛けてこなかった。
あんたは僕が邪魔だったんだろうに・・・
ということはつまりあんたには僕を攻撃できる力はない、そうなんだろ」

「ふうん、君は思ったよりも利口なんだな、ま、そうでなかったら彼がいつまでも傍に置いとくわけないか」
「あんたはある目的のために朋之様の力が必要だと言っていたようだが、その目的っていうのは一体何なんだ」

「君に答えなくてはいけない理由は無いと思うが・・・」
その言葉に伊織はきっと京介を睨み付けた。
「まあ、結果的に彼に怪我をさせてしまったことは僕も申し訳ないと思っているよ。まさか、彼が身をもって君を庇うとは思わなかったのでね」
「・・・」

「でも・・・、君を見ていると彼の気持ちも分からないでもないね。
君は何故彼が君を置いて一人で僕に会いに来たのか分からないんだろうけどね・・・」
京介はふいに顔を上げて伊織を真正面から見つめた。
夕闇に両の瞳が緑色に光るのを、伊織は、この目はどこか朋之と似ていると思って見つめ返す。

「君はさっさと里へ帰りたまえ、そして可愛いお嫁さんでも貰って幸せな人生を送るといい。何も知らないで済むならそのほうがどれだけいいか」
「何のことだ?」
「君と我々とでは背負っているものが違いすぎるということさ」
「?」

「君は健康で頭もいい。強い力も持っている。里という限られた世界でしか生きられないにしても、思い通りの人生を歩めるだろう。我らには許されない自由な人生を、ね」
「え・・・?」
そのとき京介が見せた悲しいような寂しいような表情は伊織をかなり戸惑わせた。

「それは・・・確かに宗主家の人は宮から出ないのが決まりだけど・・・、それは下々のものと一線を画すためで・・・」
「そう、里のものは皆そう思って疑いもしないんだろうね。実際は・・・宮は牢獄であり僕らの墓場なんだけどね」
「そんな・・・」

「君にこんな話をしたら彼は僕を許さないんだろうけどね。どうする、まだ続きを聞きたいかい?」
「僕は・・・」
京介はふっと笑うと、
「全く君を見ているとホントに羨ましくなるよ。何も知らず自分がいかに幸福か自覚することもなく生きていける人生が・・・」
と踵を返す。

「待てよ、一体どういうことなんだ」
振り返った京介の幾分嘲りを含んだような微笑に伊織は思わず呼び止めた事を後悔したが、
「そこまで言っておいて、言い逃げはないだろう、あんたは一体何を言いたいんだ」
と言った。

「ここからは君が聞きたいと言ったから話すんだ、いいね」
と京介は薄笑いを浮かべながら念を押す。
「ああ、いいよ、そういうことにしといてやる。宮は牢獄で墓場だって、どういう意味だ?」

「だから、文字通りの意味さ。宗主家の者は里人には決して姿を見せない。
見せたにしても御簾越しで、言葉も傍付きの巫女が伝える。それはなぜだと思う?
いくら旧態依然とはいえ、先の大戦前まではこちらの世界ともかなり密接な繋がりを持っていて時代の流れは十分把握しているはずなんだ。そこまで勿体つけることもないだろうに・・・」

「それは、僕もそう思うけど、昔からそういうしきたりで・・・」
「そう、ずっと昔から宗主家だけはそんなしきたりを頑固に守りつづけてきた。
その理由を君はどう思うかな?」
「理由・・・?しきたりに理由なんてあるのか?」
怪訝そうな面持ちの伊織の答えに今京介は声を立てて笑った。

「君ね、物事の始めには必ずそれなりの理由があるものだよ、たとえ今はどんなに馬鹿馬鹿しく見えるような事柄にもね。
なぜ人前に姿を見せないか・・・?理由は簡単さ、見せないんじゃなくて見せられないんだよ」
「!」

「君は、姫神様が立ち上がって歩くところを御簾越しにでも見たことがあるかい?」
そう言われれば伊織が姫神様に目通りする時は、謁見の間に招じ入れられた時には姫神様はいつももう御座所に座っていて伊織が退出するまで立ち上がる事はなかった・・・

「あの人は大した力を持っているからね、別に不自由はないが・・・
あの強大な力を以ってしても唯一できないこと・・・それは自分の脚を思い通りに操ることなのさ」
「そんな馬鹿な・・・」

「靖之様も似たようなものだ、あの方はもっと酷かったが、おっとこの件は禁句だな。
末っ子の浩之様だけは身体的には不自由は無かったが、ただ内臓が弱かった。
要するに血が濃すぎるんだ。
わが一族の中でも宗主家だけは何千年にも渡って頑なに親族同士の婚姻を繰り返してきたからね。つい最近まで同母の兄妹姉弟でなければ結婚が認められていたから、どうしても障害を負った子供が生まれる確率が高いんだ。
で、一応、外面上は健康体の浩之様には特別な使命が与えられた」

「特別な使命?」
「そう、宗主家の一族に新しい血を入れること」
「新しい・・・血・・・」

「これまでも何代かに一度は外部の血を入れてきたんだ。宗主家の娘は親兄弟と夫以外の男性には姿を見せない。これもまたさっきの理由と同様、外部のものには姿を見せられないんだ。言ってる事が分かるかな?」
「それは・・・宗主家の本当の娘でない事が分かってしまうから・・・ということですか」

「ふん、やっぱり君は利口だね、そうでなくちゃ面白くない。
今の我らの力では人間の遺伝子レベルまでの操作はできない。この人間の身体では血が濃くなりすぎれば弊害がでてくる。そのバランスを取るためには一族とは全く血縁の無い者の血を数代に一度取り入れなければならないんだ。
宗主家の娘の中には子供を産めないものが多い。だから外の世界から連れてきて記憶を消した娘をすり替えて・・・」

「そんなこと!」
驚きのあまり目を見張る伊織に京介は淡々と語り続ける。

「昔は娘が一人くらいいなくなっても神隠し、で簡単に説明がついたからね。今だってその気になれば人間一人くらい消してしまうことは簡単だ。特に我等にとっては・・・
だが、この方法はリスクも大きい。何せ生まれてくる子供は半分はただの人間。全く力を持たないものも中にはいる。
わが一族と認められる最低限の力を持たずに生まれてきた子供は闇から闇へと葬られる事となる」

そんなことが、許されるだろうか・・・
伊織は呆然として言葉もない。

「浩之様はそうして連れてこられた人間の娘を、一緒に暮らすうちに本当に愛してしまったんだね。
その娘に子供が出来た時、浩之様は里を逃げ出したんだ。
生まれてくる子があまり力を持たない子なら、その子は生まれると同時に命を失うことになる。
浩之様といえども身重の女連れはかなりの決死行だったようだがね。
姫神様はちょうど数年に一度の特別なお篭りの最中だったから何とか逃げ切れたんだ。

皮肉にも最初の子はかなり強い力を持って生まれてきた。新鮮な血を受けてすこぶる健康な、浩之様によく似た男の子だ。
だが、人間の世界で隠れるように生きていくにはその力は返って邪魔になる。
姫神様にも簡単に見付けられてしまうだろうしね。
浩之様はその子の力を封じていたが、長じるに従い、封じきれるものではなくなっていく。
そうこうするうちに、次の子供が生まれた。
特別な力はほとんど授かっていない女の子が。

そのころ靖之様に異変があって姫神様は浩之様の行方を本格的に捜し始めた。
浩之様は結局、妻と生まれたばかりの娘の為に長男を自分の身代わりとして差し出さざるを得なかったんだ」
「それが・・・朋之様・・・」

「君には想像もつかないだろうね。来る日も来る日も碌に日も差さないような暗い部屋に閉じ込められて一生を過ごさねばならない運命がどれほど惨めなものか。
水鏡でこの世のあらゆることを知る事が出来、その気になればこの世の流れを操る事だって出来るだろう。
でも、自分の本当に欲しい物は何一つ手に入れることが出来ない。
姫神様の決めた相手と結婚して跡継ぎを作るためだけに生きて、天に召されるまでの長い日々を無為に過ごす―――そんな人生を送れと言われたなら君なら黙って従えるのかな」

「僕は・・・」
自分が朋之に望んだ事はそんなことだったのか・・・

「普通ならそうしてただの人間の娘から生まれた子は重鎮の座に付く事はできず、次の世代を生み出すためだけに宮の奥深くに閉じ込められて過ごすのが当たり前なのだが、朋之様は姫神様の強い意向で月読の位を継承する事が出来た。その点では朋之様という存在は異例中の異例と言ってもいいだろうね。

この件に関しては本当は宗主家内でも反対は多かったんだ。
あんなちっぽけな親族内でも結構揉め事は多いんだよ。
だが、姫神様に逆らいきれるものはいなかったからね。皆不承不承ではあるが従ったんだ。
朋之様がかなり強い力を持っている事は誰もが認めざるを得なかったし・・・」

京介は一息つくと眼下の町並みを見下ろした。
「まあ、彼はあれでなかなか可愛いところがあるからね、結構素直だし。
君のお爺さんが甘やかすだけ甘やかして育ててしまったから少し我儘だけど・・・」

月読命を継ぐのに相応しい方はあの方を措いてはいない―――祖父は朋之の宗主家内でのそうした微妙な立場を知っていたのだな・・・
祖父はきっと朋之が不憫でならなかったのだろう、だからあの時あんなに強く伊織を嗜めたのだ―――





  3.

沈黙を続ける伊織を横目で見遣りながら京介は更に話し続けた。
「浩之様もただ黙って姫神様の言いなりになったわけじゃない。
朋之様にはこの世界の教育を受けさせること、それが浩之様が出した条件だ。
だから、彼はこちらの世界で教育を受けるためほとんど里の外で過ごすことになった。
物事の判断を自分でつけられるようになるまで外の世界で過ごさせる、それが浩之様の姫神様への最大限のしっぺ返しだったのさ」

「でも、浩之様は姫神様がその条件を守り通すと本気で思ったので?だって・・・」
「浩之様もなかなかに食えないお人だからね、姫神様に血の盟約を結ばせたんだ。
知ってのとおり同族の血の盟約は双方の合意がなければ無効にする事はできない。姫神様といえども血の盟約を故意に破ればその報いは受けねばならないからね。
でも、すでに靖之様を失ってもう直系の親族は朋之様しか残っていなかった姫神様はその条件を飲まざるを得なかった」
「・・・」

「朋之様はあのお姫様とママゴトのような夫婦ごっこをしているようだが、姫神様はそう甘い方じゃないからね。そこまでして手に入れた朋之様を簡単に解放するとは思えない。
あるいは、あの健康そうなお姫様はいずれ朋之様の子供を産むだろうから、姫神様は今度はその子を狙うかもしれないね。
何と言ってもその子の誕生ははるか昔分派したわが血族を再び一つに結びつけることになるわけだから」

「そんな・・・、それではその子は朋之様と同じ運命を辿る事になってしまう・・・」
「まあ、彼もそんなことを黙ってさせはしないだろうがね・・・
僕は彼をそんな運命から解放してやりたいと思った。もちろん、僕の人生も彼と似たり寄ったりなんだから、僕自身のためでもあるけどね」

「・・・貴方の話は多分本当なんだろうな。言ってることも分からなくも無い、でもそれとこの封印騒ぎとは何の関係があるんです?
ヒルコ神が地上に現れるようになったのは封印の力が弱まったからだ。
僕達はその封印をやり直そうとしているだけなのに、なぜそれを邪魔しようとするのです」

「ヒルコ神も我らが同族だからだよ。
くさいものには蓋をする、昔からのわが一族の得意技だ。反吐が出そうだよね。
僕は彼らも救ってやりたいんだ。
今小手先で封印したとしても、その封印が弱まれば彼らはまたこの世に這い出てこようとするだろう。だからこの世から根こそぎ浄化してやるのさ。
そのためには君達に中途半端にウロチョロされると迷惑なんだ」

「でも、それでは・・・
貴方の言う事はもっともなように聞こえるけど、でも、どこか歪んでいる気がする。
どこがどう歪んでいるのか僕には良く分からないけど・・・」
「君は本当にいい子なんだね。彼が気に入ったのも分かる気がするよ」
「朋之様は僕のことなど・・・」

「君とこんな話をするのもこれが最初で最後だ。朋之様にはよしなに伝えてくれたまえ。あの方を傷つけるつもりは毛頭無かった、これは本心からの言葉だからね」
これ以上京介から話を聞く事は出来ないだろう、伊織はそう感じて黙ってその後姿を見送った。

京介から聞いた話を朋之に伝えるべきなのか。
冷静になって考えてみれば、宗主家や姫神様の意外な真実に目を晦まされ、結局肝心な事は何も聞き出せていないような気がする。
ヒルコ神たちを根こそぎ浄化するとはどういうことなのか・・・
吹き付ける風に夕暮れが迫るのを感じた伊織は、とにかく家へ戻ることにした。

帰宅した伊織は絵美奈から朋之は一度目覚めたが今はまた眠ってしまった事を聞き、やっぱりかなりダメージを受けているんだな、と呟くように言った。
事情はどうあれ朋之に重症を負わせたことは否定し様の無い事実だ。
この件を以って自分はこのお役目を解任されるかもしれない、それでも朋之がほぼ全快したことを確認して伊織はほっと胸をなでおろした。

それにしても・・・京介から聞かされた話はまさに驚きの連続で、今後どんな風に朋之に接したらいいか正直言って伊織にはよく分からなかった。
これまで伊織にとって朋之は“苦労知らずの我儘なお坊ちゃん”だったのに・・・
それに祖母のことも・・・
伊織が朋之の心を覗き見てしまったことを朋之は気付いているだろうか。

その夜も絵美奈と二人で夜の街をあちこちと駆け回りながら伊織は、中途半端にウロチョロされると迷惑だ、と言った京介の言葉を思い出した。
京介には何か考えがあるらしいが、だからと言って溢れ出す異類異形を放っておくわけにもいくまい。
この国はかつて何度も大きく乱れたが、その影には異類異形とそれを利用する者達の存在が必ずと言っていいほどあったのだから。

とりあえず封印を済ませ絵美奈を連れ家に戻った伊織は朋之の不在を即座に感じ取った。
全く、まだ自由に動き回れるような身体ではないだろうに・・・
不安がる絵美奈に家から一歩も出ないよう厳重に言い置いてから伊織は朋之の気配を追った。

もしかして朋之はまた京介に会いに行ったのかと思ったが意外にも目指す相手は一人で海辺の崖の上に佇んでいた。
ここはいつか、朋之に絵美奈を引き合わせた場所だ・・・
あの時は満月が夜空に掛かっていたが今はちょうど新月、星明りと遠くの灯台の光の明滅が暗い夜空を心もとなく照らしている。
朋之は何をするでもなくただじっと海を見つめていた。

「朋之様、こんなところで何を・・・」
自分の気配にはとっくに気付いているはずなのに振り向こうともしない相手に伊織は躊躇いがちに声をかける。
「何も・・・ただ海が見たくなっただけだ。夢を見たから・・・」
「夢?」

「いや、夢ではなく遠い昔の記憶・・・かな」
朋之はそう言いながらやっとこちらを振り向いた。
その顔には何とも穏やかな微笑が浮かんでいて、伊織はこの人のこんな顔は本当に初めて見るなと思う。

「お前にも面倒をかけてしまったな」
「いえ・・・、それに貴方の怪我は僕のせいですから・・・」
「そうじゃないだろ。そんなこと考えるな」
「でも、姫神様は・・・」
朋之は再び海へと顔を向けながら
「・・・本当はお前は俺の傍にいないほうがいい。俺が何を考えてるか分かったのだろう?」と言った。
「僕は・・・」

「小学校へ上がることになって、俺はお前の祖父、じいとこちらの世界へ戻って来た。それからずっと中学へ入るくらいまで俺が家族と呼べるのはじいだけだった。
けど、じいにも帰りを待ちわびる本当の家族がいたのだな。
俺はそんなことも気付かなかったんだ、お前の祖母に会うまで・・・」
「朋之様・・・」

「だからお前は里にいてやれ。お前のことを本当に思ってくれる者の傍に」
その声はあくまで穏やかで日頃の高圧的な響きは微塵も感じさせなかったが、それだけに伊織は朋之から突き放されてしまったように感じた。
この人から最後通告を受けるときがとうとう来てしまった、と。

「僕は・・・こちらの世界にいてはいけませんか・・・」
なんとも惨めな声だ、と自分でも思うが、形ばかりのプライドなど今の伊織にはもうどうでもよかった。

家族は確かに大事だし伊織のことを大切に思ってくれるのもありがたいが、今の自分の本当の願いは・・・、そう言おうと思ったとき、朋之はもう一度伊織を真正面から見据えて
「俺はお前が望むような者にはなれない。俺とともにこちらの世界にいればお前も巻き込んでしまうことになる。だから」
と言った。

いずれこの人は父親と、浩之様と同じ選択を迫られることになる。
自分が里へ戻るか、或いは自分の子を身代わりに差し出すか・・・
そのときこの人なら多分どちらも選ばない道を探すのだろう。
それなら僕は・・・

「それでもいい、僕は、もう少しだけこの世界にいたいです・・・」
伊織は朋之の目をじっと見つめながらそう答えた。
朋之はふいに視線を逸らせて波の上を飛び交う夜鳥を眺めながら
「初めに言ったろう、俺は下僕はいらない、と。お前がこの世界にいたいならそうすればいい」
と言った。



  4.

その晩朋之と伊織はなかなか帰宅せず、例によって猛烈な眠気を感じた絵美奈は待ちきれず先に寝ることにした。
朋之はまだ本調子ではないだろうに一体どこへ行ってしまったものやら。
途中で追いついた伊織が一緒ならまず無事だとは思うけど
それにしてもなぜこんなに眠いんだろう、前はこんなこと無かったのに・・・

翌朝絵美奈が目覚めた時には朋之はもう起き上がっていて身支度を整えている最中だった。
その姿を見て思わず笑いを漏らした絵美奈に朋之は不機嫌そうな顔を向ける。
「やっぱり変か?」
制服の上着は袖丈が短く、シャツの袖がかなり出てしまっているし、ズボンのほうもかなり寸足らずでまさに借りてきた衣装といったところだ。

「一昨年まで着てた奴なんだけど・・・。こんなことなら替えを一着作っておくんだったな」
「そうか、制服破れちゃったものね。ズボンも随分汚れてたし・・・」
「仕方ない、今日は休む。一日あれば新しいのを手配できるから・・・」

「私にはちゃんと学校へ行けって言ったくせに」
「・・・俺にこんな格好で外へ出ろって言うのか」
「だって、そんなに変じゃないと思うよ・・・」
と言いつつクスクスと笑いつづけている絵美奈を朋之は軽く睨みつけた。

「もういい。どの道今日はいろいろとやることがあるからな」
朋之は上着を脱ぎながら
「お前は学校へ行けよ!」
ときつい口調で言った。

登校の道すがら、昨夜は一体どこへ行っていたのか尋ねる絵美奈に伊織は
「いつか、月読様に会ってもらうために巫女姫様を連れて行った海の傍の場所、覚えてる?
そこに行ってたんだ。」

「うん、覚えてるけど、でもあれって一体どこなのかな・・・?」
忘れるわけが無い、朋之と初めて会った場所だもの・・・
「全く、巫女姫様は呑気だな」
「だって部屋にいたはずがいきなりあんなトコに立ってたんだから、私にどこなのかわかるわけないじゃない」
絵美奈は少しムッとして言い返す。

「はいはい、そうですよね」
そう軽くいなされて絵美奈は小声でなにやらブツブツと呟きながら手に持った紙袋を伊織に押し付けた。
「はい、これ」

「何これ?」
驚いて眼を瞠る相手に
「何だかんだで渡しそびれちゃったけど、プレゼント。この間お誕生日だったんでしょ」
と言って絵美奈は先に立って小走りに学校へと向かった。

「そうだけど・・・、でも、どうして君が知ってるのさ・・・」
伊織はそう言いかけて初めて朋之がなぜあの日自分を里へ帰らせたのか気が付いた。
朋之が自分の誕生日など知るはずもないから、あれは単なる偶然だと思っていたのに・・・

「待ってよ、巫女姫様。一人で行動すると危ない」
かなり先に行ってしまった絵美奈に慌てて追いつくと、伊織は
「アリガト」
と小さな声で言った。

その日千夏は珍しく欠席で担任によると夜中に急に高い熱が出たらしい。
「入れ替わりでお休みなんて、あんたたち一体どうなってんの?」
とクラスメイトに言われ絵美奈は戸惑った。

「にしても、一体どうしたのかしらね。千夏、昨日は随分上機嫌だったのに」
「そうなの?」
「うん、絵美奈がお休みだと聞いたくらいからかな、かなりハイになっちゃって、あれはもう狂躁状態に近かったね」
「・・・」

絵美奈はぽっかりと空いた千夏の席を見遣り、それからふと机の脇のフックにかけた自分のリュックを見下ろした。
その視線を今度は反対側に座った伊織にと向ける。
伊織は絵美奈の視線に気付いて心持顔を向けて
「何、どうしたの?」
と訊いてきた。

「うん、ちょっと、もしかしてと思って・・・」
あの無くしたキーホルダーはまさか千夏が・・・
でも、それが堀内先生と結びつくとは思えないが・・・

「伊織君、千夏に何かしたの・・・?」
前に伊織は千夏に朋之のことをいろいろ訊かれ、場合によっては記憶を操作するようなことを言っていた。
「僕は別に何もしてないけど」

「そう・・・だよね」
と絵美奈は取りあえずそう言ったが、伊織の言葉の“僕は”と言うところが妙に引っかかり、休み時間を利用して伊織に問いただしてみた。

「だから僕は何もしてないって」
「本当に・・・?」
「何でそう疑うかな」
「だって、昨夜帰りが遅かったし・・・」

「そんなに遅くなかったでしょ。巫女姫様がグウグウ寝てしまっていただけで」
「失礼なこと言わないでよ。それに・・・」
「何?」

「何か引っかかるのよね・・・、伊織君は何もしてなくても朋之は・・・?昨夜はずっと一緒だったんでしょ?」
「意味深な言い方やめてくれる。確かに一緒だったけど」
「朋之が千夏に何かしたのね」

まったく、このお姫様は肝心なトコは鈍いくせにどうしてこういう時だけカンがいいんだろう、と溜め息をつきながら伊織は答えた。
「まあね、これからも同じような事されちゃ迷惑だからね。ただ、向こうも同じ手は使わないとは思うけど。」

「朋之は一体何をしたの?」
「・・・記憶を消す前に少しばかり恐い夢を見てもらうって言ってた」
「!」

「ともりんがそんなことしたのは・・・あの、千夏さんが巫女姫様の持ち物を盗んだ本当の理由に気付いたからだよ」
「それって・・・」

「君を傷つけようとしたこと、許せなかったんだと思う。まあ、あの娘としても思いつめてたところをうまくつけこまれて騙されただけだし、そもそもの原因はご本人にあるらしいからあまり酷いことはしてないと思うよ」
千夏が私を・・・

「ともりんからは固く口止めされてたんだけどね」
「どういうことよ、一体。千夏は私に何をしようとしたの!?」
「あまり話したくないんだけど」
「でも、またこんなことがあったら困るでしょ」

「まあ、そうだね・・・。あの娘はともりんを好きになったけど、ともりんは君に夢中だ。だから君さえいなくなれば・・・と、上手に乗せられたのさ。
君の持ち物を何でもいいから持ってくればうまく処理してやると言われたらしい」
「処理する・・・って、そんなこと一体誰が・・・?」
絵美奈は軽く身震いしながら尋ねる。

「彼女の記憶では街の一角にいつの間にか占いハウスができていてそこの占い師にそう言われたらしいんだけど、僕が言ってみたらその場所は空家になっていた。
もう随分前かららしいから、彼女は幻覚を見せられたんだよ」

「それが・・・その占い師が堀内先生と繋がりがあるの?」
「多分ね。どんな繋がりかまでは今のところわからない」
「そんな・・・」
絵美奈は千夏の笑顔を思い浮かべる。
中学の時からいつも一緒で何でも相談しあって、本当に一番の親友だと思っていたのに・・・

「私、千夏に会いに行ってみる」
「どうして!」
「だって、そんなこと信じられないもの!」
「多分あの子はもうみんな忘れてるよ、占い師のことも、君のキーホルダーを盗んだことも」
「でも・・・」

「あの子だって魔がさしただけだと思うよ。だからもう・・・」
「でも、朋之が酷いことをしたなら・・・」
「朋之様の怪我、見ただろう。下手したらあの怪我は君が負っていたかもしれないんだよ」
「!・・・」

自分を傷つけようとした千夏を朋之は許せなかった・・・
でも、千夏は朋之を好きになったからそんなことを・・・
そうでなかったら・・・

「余計なことかも知れないけど」
幾分放心状態の絵美奈に伊織はポツリと言いかけたが
「なあに?」
と怪訝そうに見つめられてその先の言葉を飲み込んだ。

―――あまり人を信用しすぎない方がいい。お人好しも程々にしないと・・・
その代わりに伊織の口から出たのは自分でもかなり意外な言葉だった。
「まあ、そんなに心配なら帰りちょっとだけ彼女の家に寄ってみてもいいけど・・・」

ベッドに半身を起こした千夏はパジャマの上にカーディガンを羽織って絵美奈を迎えた。
伊織は、僕は彼女に用はないからと言って外で待っている。
あんまりゆっくりできないんだけど、という言葉に以前と変わらない笑顔を見せてくれる千夏にすこしホッとしながら、絵美奈は
「一体どうしたのよ、急に熱が出たんだって?」
と何気ない風を装って聞いてみる。

「うん、昨夜、いや、明け方になるのかな、スゴク嫌な夢を見てね、それから酷い寒気がしてきて高い熱が出ちゃったんだ。
でも昼過ぎに熱が引いたらとてもすっきりした気分になっちゃった。どうしたんだろうね、私?」

「・・・こっちが訊いてるんだけど・・・。ね、恐い夢ってどんな夢?」
「ん〜、あまり思い出したくないんだよね、何たって鏡を見ていたら急に顔がドロドロに溶け始めて・・・」
「・・・」

「それが体中に広がっていって、私もう死ぬんだなって、本気で思った・・・」
絵美奈が何ともいえない表情を浮かべて見つめていると千夏は
「それに地の底から響いてくるような恐い声が聞こえてね」
と急に口調を変えて俯きながら続けた。

「それが・・・変なことをいってたんだ、なんでも・・・そう、人を呪わば穴二つ・・・とか。
身体が解けることよりもその声のほうが気持ち悪くて、私凄い悲鳴を上げたらしいんだ。」
「千夏・・・」

「一体何のことだろ?」
「さあ、私にも何のことだか。でも思ったより元気そうでよかった。安心したよ。」
「ありがとう、明日は学校へいけると思うから。」
そう言ってもう一度笑顔を見せた千夏の様子に絵美奈は心から安堵しながら、じゃ、と言って立ち上がる。

「待って、絵美奈。私、絵美奈に言わなくちゃいけないことがあったような気がする・・・」
「何?」
千夏はしばらくじっと絵美奈の顔を見つめていたが、
「ごめん、思い出せないや」
と頭を掻きながら笑った。

「まあ、思い出したら言ってくれ」
と茶化して言うと
「絵美奈この頃スゴク綺麗になったよね。なんだか生き生きと輝いてるみたいで羨ましいな」
と千夏は急に真面目な顔になって言った。

「何、いきなり。それが言わなくちゃいけないってこと?おだてたって何も出ないよ」
「ううん、おだてなんかじゃないよ。ホントにそう思うよ・・・」
「うん、ありがとう」
この様子なら本当に大丈夫そうだ、そう思って絵美奈は千夏の家を後にした。

絵美奈が玄関から出てくるのを見つけて歩み寄ってきた伊織は
「大丈夫そうだったでしょ」
と声をかける。
「うん、思ったより元気だったし」
そう答えながら絵美奈は、朋之はきっと千夏に取り付いた邪気を浄化したんだ、と思った。

千夏のことは朋之には絶対に話さない、と伊織に約束させられ、絵美奈は洋館に戻った。
朋之はまた一人で何処かへ出かけたと見え、玄関のすぐ脇には洋品店から届いたばかりの新しい制服の箱が置いてあった。
「ふうん、もう届いたんだ、新しいの」
と絵美奈が感心して言う。
「あと数ヶ月で卒業なのにね」
と言いつつ伊織は絵美奈が運ぼうとしたその箱を持ってくれた。

「そういえば伊織君、朋之にひっついてなくていいの?いつもなら朋之が留守だと大騒ぎするくせに」
「そんなに騒いでないと思うけどな・・・、まあ当面はね、僕も様子見さ」
その笑顔はどことなく嬉しそうだ。
朋之と伊織の間で何があったのか窺い知ることはできないが、それでも一緒に暮らすなら楽しい方がいい、絵美奈はそう思った。



  5.

その夜絵美奈は朋之になぜ自分の事を好きになってくれたのか訊いてみた。
「私よりもっと綺麗な子、いっぱいいるでしょ・・・」
絵美奈は千夏のことを思い浮かべる。
「そりゃあそうかもしれないが・・・、誰かを好きになるのに理由なんて必要なのか?」
「だって・・・」

「多分、お前が本当の俺を見てくれたからなんだろうけど・・・。
初めて一緒に封印した時お前は笑ったろう?
あの時思った、俺にはこんなに無防備には・・・無邪気には笑えないだろうな、と。
きっとお前は心から誰かを嫌ったり憎んだりはしないんだろうな、そう思ったから本気でその笑顔を守ってやりたいと思ったんだ」
「朋之・・・」

「それに」
朋之は絵美奈を膝の上に抱くと
「なぜだろうな、初めて会ったときとても懐かしい気がした。ずっと前から知っていたような・・・
お前にはじろじろ見るなと怒られたがな」
と笑いながら言った。

「あの時は、男の人にあんな風に見られたの初めてで、とても恥ずかしかったから・・・」
「まあ、お前を見て、妹も今はコレくらい大きくなったんだろうな、と思ったのは確かだけど。
変だよな、妹はお前よりももっと年下のはずなのに」

「そう言えば、朋之には妹さんがいるって言ってたよね」
「俺より五つ下だから今は中学に入ったばかりかな」
絵美奈は朋之が裕美奈にはとても優しかった事を思い出した。
妹っていうのは結構可愛いものなんだな―――
あの時絵美奈は妹なんてちっとも可愛くないのに、と思ったものだが・・・

「だから京介はあんなことを言ったのかな」
朋之がふと漏らした言葉に絵美奈は
「京介って、堀内先生のこと・・・?」
と尋ねる。

「ああ、アイツにお前のことを妹の代わりだとでも思っているのか、と言われてしまった。
お前のことを妹だなんて思ったこと、ないのにな。」
「・・・堀内先生は朋之とどういう知り合いなの?」
絵美奈はずっと胸に閉まっていた疑問を朋之にぶつける。
京介、などと呼ぶのだからやはりよほど親しい間柄なのだろうが・・・

「アイツは以前俺の護衛兼監視役として俺と一緒にこの世界で暮らしていたんだ。
住んでいたのはこの家じゃないけど。
三年足らずだけどこちらで暮らして、アイツも思うところがあったんだろうな、不意に里を出て行ってとうとう戻らなかった。」

「それで朋之には伊織君が付く事になったのね。」
「ああ、そうだ」
「朋之は伊織君が護衛役ではいやだと姫神様に言ったそうだけど、それはなぜ?」

絵美奈の問いに朋之は少しばかり顔を俯けたがすぐに
「それは・・・、アイツ本当に間抜けそうだったから・・・。
それに京介の二の舞になっても困るだろ。まだ本当の子供だったし、変に感化されてもう里に戻りたくないとか言い出されても、と思ってさ」

「そうなんだ・・・」
「まあ、アイツは俺が思っていたよりはずっとしっかりしていたんだけどな」
朋之はそう言って軽く笑った。

「実は伊織には内緒だがさっきもう一度あの塾に行ってみた」
「!一人で?」
「ああ、京介は俺に危害を加えるつもりはなかった、それははっきり分かっていたからな。
それにまだ確めたい事があったし」
「朋之・・・」

不安そうな顔を見せる絵美奈に朋之は
「そしたら、もう京介はいなくなっていた。
それどころか塾の事務員は堀内京介なんて講師は初めからいない、と言うんだ」
「えっ!」
「多分塾の生徒に聞いても同じ答えが返ってくるんだろうな」
「そう・・・」

では、先生の講義はもう受けられないのか・・・
そう思うと急に寂しくなってくる。
「何だか残念そうだな」
朋之の値踏みするような視線に思わず赤くなった絵美奈は
「そりゃ、塾の先生としてはスゴクいい先生だったし・・・」
と慌てて言ったが、朋之はふ〜ん、とどうにも懐疑的である。

「そ、そんなことより、先生に確めたい事って何だったの?」
「うん、それなんだが・・・。
姉上は京介が里を出て行ったことを知ってアイツの記憶と力を完全に封じた、と言っていたんだが」

「記憶の操作って離れていても出来るんだ」
「そりゃそうさ。でも京介は自分は力を封じられてなどいない、と言い切ったんだ。
ということは、姉上が勘違いしてるのでなければ、その封印を解いたものがいるという事だ」

「お姉さんが嘘を付いていることはないの?」
「無いとは言い切れないが、こんなことで俺に嘘を教えてもあの人にメリットはないと思うしな・・・」
「じゃ、その封印を解いた人って、誰?」
「一番考えたくない相手だ。最悪だな」

「姫神様と同じくらいの力を持つ人って、・・・もしかして朋之のお父さん?」
朋之の言葉に絵美奈は考えうる最悪の可能性を躊躇いながらも口にしてみたが、朋之はただ目を見開いて絵美奈を見つめ返してきた。

「・・・やっぱり違うよね、いくら何でも」
「ああ、そりゃあ確かに最悪だけど。でもあの人は多分・・・」
そう言いよどんで少しだけ寂しそうな顔を見せた朋之はすぐに気を取り直したように
「いや、要するに最悪から二番目ってことだな、お前風に言うと」
と言ってまた笑った。

「とにかく京介が行方をくらませてしまった以上、残る手がかりはアイツとつながりがあったらしい女の占い師だけなんだが、そいつの事で会ってみたい奴がいるんだ。
次の満月までに少しでもカタを付けられるものはすっきりしておきたいし」

「女の占い師・・・」
例の千夏を騙したという・・・
「ああ、そいつがいたという占いハウスとやらに行ってみたが蛻けの殻だ。
だが、俺の目はそう簡単に欺けない、その女は国つ神の巫女だ。
だから国つ神の長といわれる奴と直談判してくることにした」

「ええっ!・・・、そんな、大丈夫なの?また怪我したら」
「多分大丈夫だ。国つ神の長と言ってももとは我らの同族だ。ただ向こうも代替わりを繰り返してるから、もう相当な遠縁だがな」

「って、一人で行くつもり?」
「まあ、少し時間がかかってしまうかもしれないし、伊織がいないとお前一人では移動に困るだろう。結界の張り方は教えてやるから。
お前の力も随分強くなったから俺がいなくても大丈夫だ」

「だめだよ、そんなの。伊織君は多分承知しないと思うし、それに・・・今度は私も一緒に行きたい。足手まといにならないようにするから」
「馬鹿言うな、敵地に女連れで乗り込めるわけないだろうが」
「だって・・・」

「それに、聞くところによると蛇だの百足だのがうじゃうじゃ居るところらしいし・・・」
聞いただけでそれこそ虫唾が走りそうだが、絵美奈はもう一人で待っているのはいやだと思った。
「大丈夫、私頑張るから。それに朋之が一緒にいてくれるんでしょ・・・」

「まあ、伊織がいれば瞬時に戻ってこれるから、どうにかならないこともないか」
朋之はしばらく考え込んだ末、そう言った。
すぐに目を輝かせた絵美奈に朋之は釘を刺すように
「そのかわり護身の術を教えるからしっかり身に付けておいてくれよ。少しは自分の身を守れるようになってもらわないと、何が起きるかわからないんだからな・・・」
と幾分冷たい口調で言う。

「うん、うん、ちゃんと分かってる」
ホントに分かってるんだろうか・・・、朋之はどこか浮かれ気分のその様子に小さく溜め息を吐きながら身体を預けてくる相手をそっと抱きしめた。
絵美奈は不安で仕方がないのだろう、と思う。
封印のことも、暗躍する術者のことも、そして自分とのことも・・・

あの伯母が、一族の長である姫神様があまりにもあっさりとこの結婚を認めたことに朋之も一抹の不安を感じている。
確かに絵美奈は自分の母と違って強い力を持つ巫女ではあるが、何か裏があるように思えてならない。
絵美奈もそれを漠然と感じ取っているのだろう。
記憶を消され朋之と引き離されてしまうのではないかと恐れている。

本当は自分は絵美奈に触れてはいけなかったのかもしれない。
どうあがいても自分は普通の男ではありえない。
ならばどれほど求められたにしても、たとえ絵美奈の記憶を書き換えてでも突っぱねるべきだったのだろうが・・・
だが、あの時の朋之にはそれは出来なかった。
朋之もまた絵美奈に惹かれていたから―――

家族と別れ伯母の元に引取られてからずっと朋之は他者と深く関わることなく過ごしてきた。
この世界も一族の里も自分にとっては一時を過ごす仮の宿でしかない。
自分が真に望むものは自分の死によってしか得られないのだ。
だから何も望んではいけない、何も期待してはいけない。

他人との関係もそう、簡単に記憶を操作できるほどの薄く浅い付き合い、自分の人生でありながらどこか他人事のような毎日・・・
自分にはそんな人生しか許されないのだから―――そう自分に言い聞かせて・・・
だが本当は、誰かを愛し、そして愛されたいと願っていたのだ。
本当に自分を必要としてくれる人と出会い、そして共に生きたいと・・・

絵美奈に求められた時、朋之は自分の心の奥底にずっと押さえ込んできたそんな渇望を押えきることが出来なかった。
じっと見つめる無垢な瞳を前に嘘はつけなかった。
目の前の相手にもそして自分の心にも・・・

嬉しそうに自分を見上げ子供のような笑顔を見せる相手の唇に優しく口付けを落としながら朋之は思う。
伯母の真意はわからないが、こうして結ばれたからにはどんなことがあってもこの笑顔だけは守り抜いてやらねば、と。

決して傷つけたくないと思っている相手を結果として一番傷つけてしまうのが自分だなんてやりきれない。
そんなことには絶対にさせない、たとえどれほどの代償を払っても―――
絵美奈を不安がらせないように努めて穏やかな笑顔を浮かべながら朋之はそう決心したのだった。

国つ神の長に会いに行くのは土曜の朝と決め、それまでに絵美奈は朋之からいくつかの術を徹底的に教え込まれた。
その表情から、これほど覚えの悪い奴も珍しいとでも思われているようで絵美奈は何とも気まずかったが、まあどうにか及第点を貰えてとりあえずホッとした。

夜駆けずり回るのは相変わらずだが、やはり京介も、その裏に居るという術者も姿は見せず、その他の邪魔も入らなかったので困るような事はなかった。
それにしても異類異形というのは一体どれだけいるのだろう・・・
とても覚えきれるものではないな、と絵美奈は思う。

一方すっかり元気になった千夏に絵美奈は堀内先生の事を訊いてみたが、朋之が言ったように千夏は、塾の先生は全然違う名前のおっさんじゃないの、と言った。
「私も急に塾に行く気が萎えてきちゃったのよね。何でかなあ、今まではもっと燃えるような意欲があったと思うんだけど・・・
絵美奈がやめちゃうんなら私もやめようかな」
との言葉に返事のしようもない絵美奈だった。

出立前にもう随分ボロボロになってしまった封印の鏡に三度めの時封じの術を施した朋之は
「これで、明日一杯くらいは大丈夫だろう、もしそれまでに何かあったらその時は俺の考えが当たっていたという証拠にもなるし」
と言った。

「どういうこと?」
と尋ねる絵美奈に朋之は
「ま、いずれ分かるさ」
とだけ言うと伊織に軽く頷いて見せた。

「そういえば聞きそびれてたけど、これから会いに行く人って・・・」
怪訝そうに見上げる絵美奈に朋之はふっと笑って
「建速須佐之男命、名前くらい聞いたことあるだろう?」
と言った。