神鏡封魔録


聖域

  1.

「きゃ〜、見て見て、リスよ、可愛い〜、あ〜いなくなっちゃった・・・」
「そりゃ、そんなに騒げばクマだって逃げ出すだろう」
「いや、クマは逆に襲ってくると思いますけど」
「あっ、あっちにも、ほら!」

何やらピクニック気分で敵地に乗り込む緊張感など微塵も持ち合わせていないように見える絵美奈の様子に溜め息を吐きながら
「何であの人まで連れてきたんです。とても面倒見切れないですよ」
と伊織は小声で朋之に言った。

「お前の警護では心許無いと俺が判断したんだ、つべこべ言うな」
前日の雨にまだ湿り気の残る下生えを踏み分けながら朋之が囁き返す。
「どうせ、今度は私も一緒に行きたいわ、ねえ、いいでしょう朋之〜、とか言われて断りきれなかったんでしょう。
全く、今から尻に敷かれていてどうするんですか」

そのとたん一杯に茂った葉に雨粒を載せた木の枝が伊織の頭に当たった。
「てっ・・・、酷いじゃないですか、図星だからって・・・」
雨粒でびしょ濡れになった頭や肩をハンカチで拭いながら伊織がぼやくと朋之は一言、
「煩いのはお前も同じだろう。少し黙ってろ」
と言って歩調を速めた。

朋之が伊織に飛ぶようにと指示したのは鬱蒼と茂る森の中だった。
こんなことならもっと重装備で来るんだった、と一応ジーンズを穿いては来たが軽装であることは間違いない絵美奈はブツブツ呟いたが、朋之はそれには取り合わず樹木の合間を縫ってくねくねと続く獣道のように細い道無き道を歩き出した。
結局絵美奈の面倒を見るのは伊織の役目となる。

初めはブツブツと何やら呟いていた絵美奈だったが、すぐに野生の小動物や花を見つけてはワーキャー騒ぎはじめ、ご機嫌もすっかり上々となった。
先に立って歩く朋之が絵美奈が歩きやすい様下草を踏みしめてやっていることにまるで気が付いていないのを伊織は溜め息交じりに見遣りながら
「巫女姫様、もっと早く歩かないと置いていかれますよ」
とその背を押すようにして先を急がせた。

絵美奈に歩調を合わせながら小一時間歩いたところで森の中を流れる細い渓流にぶつかった。
その流れを遡るようにしてなだらかな傾斜を上ってしばらく行くと渓流はだんだんとその太さと勢いを増していき、やがてほとんど絶壁となった崖の上から滝となって流れ落ちている場所へと出た。

「もしかしてこの崖を登るの?」
絵美奈が崖を見上げて恐る恐る訊ねると
「そうしたきゃ、ご自由にどうぞ。俺はここで待ってるから」
という返事が返って来た。
「やれやれ、月読様も人が悪い」
伊織はそう言って滝壷を回り込むようにして崖の岩肌に手を触れる。
その瞬間激しい火花が飛び散りバチバチと大きな音がした。

「結界・・・?」
「のようだな。目指す場所に大分近づいたということだ」
そう言って朋之が手を翳すように上げると滝は自然と二つに割れてその間に洞窟がぽっかりと口を開けているのが見える。
軽く一飛びで朋之がその洞窟に入ると、伊織も絵美奈の手を取って素早く移動した。

後ろを振り向くと滝はすでに元通り勢いよく落下し、外の様子は全く見えなくなっていた。
洞窟の内部はかなり湿っていて岩肌も水気を帯びて濡れている。
足元にはあちこちに水溜りが出来、行く筋もの細い水流となって外へ向かって流れ出していた。
光源はないはずなのに洞窟内がほんのりと明るいのはあちこちに自生しているひかりごけのようなもののお蔭らしい。

「初めからここに飛べば楽だったのに・・・」
と絵美奈が言ったとたん、足元がぐらぐらと揺れ始め、天井の岩が崩れかかってきた。
悲鳴をあげる間もなくへたり込んだ絵美奈を朋之はいそいで抱きかかえ跳躍した。

落ちかかる岩を避けつつ幾度か跳躍を繰り返し奥へと進んでから、朋之は絵美奈を下ろして後方を振り返った。
「お前はホントに恐いもの知らずだな。ここはもう相手の手の内だ、不用意に大きな声をだすな」
朋之が絵美奈の耳元でそう囁いた直後、耳を劈くような大音響とともに天井が落下し、退路は完全に塞がれた。

「ごめん・・・。そうだ、伊織君は?」
「アイツの心配は無用だ、ほら」
前方の暗闇にぼんやりとシルエットが浮かび、こちらへ向けて手を振っている。
「そうだったわね」
伊織は瞬時に移動していたのだろう、滑りやすいからと手を引いてくれる朋之に遅れまいと急ぎ足になりながら絵美奈はやっぱり足手纏いになってしまったかな、とそっと朋之の横顔を見上げた。

その目に天井から落ちて来るものが映る。
茶色くて細長く、ぬるぬるしているように見える、あれは・・・
次々と落ちてきては足元で蠢いている気味の悪い生き物、その一つが絵美奈の手を引く朋之の腕に落ちたのを見て絵美奈は高い悲鳴をあげてその手を離した。

不安定な足元に脚を掬われ後ろ向きに倒れそうになる絵美奈を朋之は反対の腕で支える。
「悲鳴をあげる程のものじゃないぜ、ただの蛭だ」
「ひ、蛭!」

朋之は腕の上で蠢いている蛭を振り落としながら言う。
「どうした、蛇だの百足だのがうじゃうじゃいる所だと言っておいただろうに」
「蛭のことは言わなかったじゃない・・・」
その答えに朋之は軽く溜め息をつくとやおら絵美奈を抱き上げて大きく跳躍し、落ちてくる蛭をものともせずに一気に伊織のすぐ傍へと移動した。

今度はバサバサという強い羽音とともに一瞬で視界が真っ暗になる。
何かが顔や身体に当たり、絵美奈はキャーキャー喚きながら手を振り回した。
「今度は何?」
「どうやら蝙蝠のようだが・・・誰かに操られているようだな」

朋之に促され伊織が軽く放電すると、強い光が苦手な蝙蝠はいっせいに奥へと飛び去って行った。
「この分だと次はナメクジですかね」
との伊織の言葉に絵美奈は泣きそうになる。

「巫女姫様が大丈夫だという蛇か百足にしてもらいたいものだが」
と朋之が言うと、
「じゃ、お望みどおりにしてやるよ」
という声がして岩の裂け目から蛇と百足が無数に這い出してきた。
絵美奈が泣き声まじりの悲鳴をあげて朋之に抱きついたのは言うまでもない。

朋之は小さく舌打ちすると伊織に目配せした。
その意を受けて伊織は今度は強い電光を洞窟の奥へと放つ。
朋之は数回の跳躍でその洞窟の奥へと辿り付いた。
バチバチと火花を放ちながら明滅する光の中に小学校高学年くらいの男の子が仁王立ちになってこちらを睨みつけていた。

「よう、随分子供っぽいことを、と思ったらやっぱりお子様か」
絵美奈を腕から下ろしながら朋之が揶揄するように言う。
「僕等はいろいろと楽しませてもらったけど、多分この趣味じゃ女の子にはモテないね」
その言葉とともに伊織も朋之の傍らに姿を現した。

絵美奈は涙を零しながら朋之の後ろに隠れるようにしてそっとその子供の様子を伺った。
裾の短い着物を着て袖なしの綿入れを羽織ったその出で立ちは、時代劇に出てくる子供の様である。
「へん、泣き虫!」
少年は朋之と伊織を無視して絵美奈にそう言うと、岩の中へ溶け込むように姿を消してしまった。

「な、何あいつ!」
絵美奈は慌てて涙を拭いながらムッとして言った。
「あれが須佐之男命ですか、随分とお若いようですけど」
「さあな、多分違うと思うが・・・」

「で、どうしますか。一応行き止まりになってますが」
「わざわざこんなところまでリスを見に来たわけじゃないんだ、ここで引き返すわけにもいかないだろう」
朋之は靜かに行く手を塞いでいる大きな一枚岩に手を当てた。

手の触れた場所から強い光が迸り、
「この先は現し世に生きるものには縁無きところ。疾く立ち去るがよい」
というくぐもったような低い声が響いてくる。

「月読が同母弟イロセ須佐に会いに参ったのだ。速やかに道を開けよ」
「・・・確かに天つ神のようだが・・・」
「開けぬというなら押し通るまでだが、どうするかな?」
朋之がそう言うと岩肌に不思議な文様が浮き上がった。

「貴様が月読だというならその証を示すがよい」
「承知」
すると朋之の身体が青白く光り、迸る一筋の光線が岩に浮き出た文様の中央部へと当たる。
文様全体が青白い光を帯びて一瞬明滅したかと思うと、すぐに巨大な岩が横滑りに動き出し、その先に今通ってきたのと同じような洞窟が続いているのが見えた。

「さて、今度は何が降ってくるかな・・・」
そう言って朋之は絵美奈の手を引き先へと歩を運ぶ。
「やめてよ・・・」
ほとんど灯りのない洞窟内を絵美奈は朋之の腕にぶら下がるようにして歩いた。
その後ろを伊織があたりを見回しながらついていく。

天井からは虫の代わりに水滴がポタポタと落ちてきて、そのため足元は水浸しだ。
道はすぐに急な下りとなり絵美奈にとってはかなりの悪路となった。
何度目か足を滑らせて転びそうになった時、やっと前方に仄かな明かりが見えてきた。

朋之は絵美奈を再び抱き上げてその明りを目指して跳躍する。
突然ぽっかりとかなり広い空間が開け、その奥まったところに、ぼうっと光る球体がいくつか空中を浮遊しているのが見えた。

「月読か・・・、随分と久しいの。代替わりしたと聞いてかなりになると思うが、まだ小僧っ子ではないか。幾つになったのだ?」
どこからともなく聞こえてくる低い声が何もない空間に響き渡りこだまする。
「この人間の器のことを訊いているのなら十八だ」
朋之は静かな笑顔を浮かべて答えた。
その身体はまた青白く輝いて見える。

「なるほどな、お前のような若造が継ぐとは天つ神の一族もよほど人材不足と見える」
「違いないな」
そう言って朋之が笑うと声の主もまた豪快に笑い出した。
その共鳴に思わず耳を塞ぎながら絵美奈は伊織に
「朋之は一体誰と話してるの?」
と訊ねる。

「だから建速須佐之男命・・・。わからない?この空間を作っている岩と一体化している」
そう言われて絵美奈は改めてあたりを見回した。
「ふふ、お前の連れには儂の姿は見えぬようだな、どれ」
そんな声がしたかと思うと飛び交う球体の真中あたりが朦朧と明るくなり人の形を取り始めた。
それこそ古代の神話の絵本から抜け出てきたような服装と髪型の威風堂々とした壮年の男性が目の前に立っている。

「ヒトガタを取るのは久しぶりだからな、うまく化けられてるかな」
「ああ、上等だ」
「驚かせてしまったようで悪かったな、現世と関わりをたって以来、わが一族は無理して人間の形態に近づくことをやめてしまったのでな」
厳つい外見とは似合わぬもの柔らかな声音と口調に絵美奈の緊張も少し和らいだ。

「いいえ・・・」
男性はどっかと腰を下ろすと朋之や絵美奈、伊織にも座るように身振りで示した。
地面は岩だらけでさぞ固くて冷たいことだろうと思ったが、意外にも腰を落としてみるとフカフカの毛皮の絨毯の上に座っているように暖かくて気持ちがよかったので絵美奈はかなり驚いた。

「これは我が同母弟須佐之男命、そしてこっちは封印の巫女姫、我が妻だ」
朋之はそう言って絵美奈をその男性に引き合わせた。
「建御雷は知ってるな」
「おう、そなたとも久しぶりだ。それにしてもどうした取り合わせだ?月のお供が雷とは」
「まあ、こちらもいろいろあってな・・・、で本題だが」
「お前がわざわざこんなところまで来るのだ、よほどの用事なのだろうな」

須佐之男が軽く手を振ると周りを飛び交っていた球体が姿を変え、薄ぼんやりと光りを放つ女性の姿になった。
奈良時代の女性が着ていたようなヒラヒラとした服装で、髪も変った形に結っている。
女性は絵美奈たちに杯を渡すと飲み物を注いでくれた。



  2.

須佐が飲むように仕草で勧めるのを受けて朋之も伊織も杯に口をつけたので、絵美奈もそっと一口だけ舐めてみた。
えっ・・・、これお酒
絵美奈は驚いて隣に座る朋之を見遣ったが朋之は平然と
「ああ、東の地で封印が破れ地脈からヒルコ神どもが溢れ出し始めた。この件で訊ねたいことがある」
と須佐に問い掛けている。
その隣に座る伊織も特に変った様子も無く須佐の答えを待ち受けるようにじっと相手を見詰めていた。

「東の地?生憎だが儂はもう何十年も地上とは交わりを絶っているのでな、よく知らぬが・・・。ではまたヒルコどもが騒ぎ出したのか」
「そうだ、だがこの騒ぎの裏で国つ神が動いていることが判明した。俺は国つ神の王須佐之男にその真相を糾しに来たのだ」
朋之の声が遠くなったり近くなったりしているような気がして、絵美奈はぼんやりと隣を見る。

「・・・今言ったとおり儂は地上のことは預かり知らぬ。そう言われても答え様がないわ」
夢うつつにその声を聞く絵美奈のすぐ近くで飛び交う球体の一つが揺れた。
球体の中心には蛍のような虫がいてそれがほんのりとした光を放っている。

「おかしなものだな、これもヒルコ神の生み出したものであろうに、ここではやけに大人しいのだな」
朋之はその球体を見遣りながら呟くように言う。
ヒルコ神の・・・?ではこれも異類異形のひとつ?でも、何て綺麗な生き物なんだろう。それにとても清浄な感じがする・・・

そんな絵美奈の気持ちを汲み取ったかのように須佐は答える。
「もともと我等は同族ではないか。それを地の果ての片隅に追いやったのはお前たち。我等はそのヒルコ神と共存してきたのだ、長き年月に渡ってな・・・」

「須佐よ、お前は我等のやり方を潔しとせず、一族を離れこの地に根付いて国つ神の王となったのではなかったのか。
それなのに、この有様は一体どうしたというのだ・・・
先程の子供以外の者の気配はないようだが」

「夜の主月読命様は昼の世界のことには疎いと見える。
国つ神の王は儂ではない、穴牟遅ナムヂという奴だ。
結局儂は天つ神でも国つ神でもなくなったということさ」

「穴牟遅・・・か、名前だけは聞いたことがある。お前の方がよく知っているんだろうな」
朋之はそう言って伊織を振り向いた。
「まあ面識があるといった程度ですが」
との答えに
「そう謙遜することもあるまいに。代を重ねて随分と大人しくなったものだな」
須佐はまた大きな声で豪快に笑い飛ばした。

朦朧としていた絵美奈がその大声にはっと我に帰るのを見て須佐はますます大声で笑いながら
「これは失礼、いやしかし可愛らしい奥方様だな、なるほどお前は昔から天つ神の女は好みではなかったものな」
と言った。

「強すぎる女は苦手だ」
と一言いうと朋之は絵美奈に
「どうした、大丈夫か?」
と尋ねた。
「どうやら先ほどの酒に酔ったようだな・・・」
朋之はそういうと絵美奈の頬をそっと撫でる。

「少し奥で休むか?奥方には儂等の話は退屈だろうし」
と須佐が言うと朋之も
「そうだな、そうさせてもらうか?」
と訊いてきた。
「うん、でも・・・」
朋之が立ち上がろうとするのを押さえて、須佐は
「式神に案内させよう」
と言う。
その言葉が終わらぬうちに先程の女性が不意に現れ、絵美奈を助け起こしてくれた。

「朋之・・・」
少しでも離れているのは心細い。それにまた蛭や百足が出てきたら・・・
絵美奈が不安そうに見詰めると、頭の中に朋之の声が響いた。
―――お前には護身の術をいくつも教えたろう。悪い気配もないし、あまり遠くへ行かなければ大丈夫だ。だがそんなに心配なら・・・
朋之は耳につけていた片ピアスを器用に外して絵美奈に渡す。

―――これに息を吹きかければ護身用になる。何かあれば俺を呼べばいいし
「大丈夫だ、安心してゆっくり休ませて貰うといい」
絵美奈は式神の手を借りて立ち上がったが、一歩踏み出した途端バランスを崩して倒れそうになる。

式神に助けられて歩を運びながら、ほんの一口飲んだだけなのに随分強いお酒なんだわ、と絵美奈は思う。
振り向くと朋之と伊織は須佐と向き合って何事か話し合っていた。
ふたりとも全然平気そうだけど、大丈夫なのかな・・・

「奥様には少し強すぎましたか?」
式神が優しい微笑を浮かべて問いかけてくる。
「うん、ちょっと。お酒だと思わなかったし・・・」
式神はまた少し笑うと絵美奈をその場所からは細い通路で繋がった少し小さめの空間に 連れて行った。

大き目の平らな岩の前に絵美奈を連れて行くと式神の女性は
「ここで少し横になって御休みください。私がついていますからご心配いりませんよ」
と言う。
岩の上では痛そうだと思ったが、実際横になってみると、先程同様感触は柔らかな羽根布団の上に寝ているように感じられるから不思議だ。
横になった途端、絵美奈は耐え難い眠気に襲われて目を閉じるとすぐに眠り込んでしまった。

どのくらい眠っていたのか不意に風が顔に吹き付けるのを感じて絵美奈はゆっくりと目を覚ました。
ゆっくりと起き上がると傍にいてくれるといっていた式神の姿は辺りにはなかった。
何だか頭が痛い。
額に手を当てながら絵美奈は横になっていた岩から起き上がった。
朋之のところに戻らなくちゃ・・・
絵美奈は壁に手を当てながらゆっくりと通路へと出る。
先程の球体が少し先でフラフラと空中を漂っていた。

絵美奈が近寄ると球体は道案内するようにフラフラと向こうへと移動して行く。
「そっちなの・・・?」
その問いに返事はなかったが絵美奈は引き寄せられるようにその後を追って歩いて行った。

しばらく歩いたが、なかなかもとの場所にはたどり着かない。
変だわ、さっきはこんなに歩かなかったように思うけど・・・
どうしたものか迷った時、ずっと前方にほんのり明かりが見えてきた。
球体はその明かりのほうへとゆっくりと進んでいく。
あそこがもといた場所かしら、と迷いながらも絵美奈はゆっくりと歩を進めた。

球体について歩いていくうち、洞窟のひんやりとした空気に次第に頭がはっきりしてきて、絵美奈はようやく朋之から渡されたピアスの事を思い出した。
ポケットから取り出し、掌に載せてみる。
小さな赤い石をはめ込んだお洒落で華奢なピアスだ。
ほのかな明かりにもキラキラと輝きを放っている。
これはどんな式神に変わるのだろう、そう思っていると突然目の前が開けかなり広い空間に出た。

さっきの場所に戻ったのかと思ったが辺りを見回しても朋之も伊織もいなかった。
もちろん須佐之男の姿も無い。
おそるおそる中ほどまで進むと、奥にかなり大きな地底湖が見えてきた。

澄んだ水を湛えた静かな湖の上を、身体から青白い光りを放つ無数の鳥が飛び交い、あたりを神秘的に照らし出している。
先程の球体も数知れず宙を舞っていた。
「わあ、綺麗・・・」
周りを見回すと薄明かりに慣れた目にあちこちの岩陰に憩っている様々な種類の生き物の姿が見えてきた。
あれは、まさか・・・

今まで絵美奈が封印してきた数々の異類異形と呼ばれる生き物達・・・
だがここにいるこの者達からは憎悪や敵意は感じられない。
全体の空気も心が洗われるように穏やかで清々しい。
なぜなんだろう、それらの生き物に触れるくらい近づいても相手は攻撃してこなかった。
この感じはいつかの廃屋を朋之が浄化した時と同じだ・・・
そう思いながら絵美奈は地底湖の岸辺に近寄った。

澄み切った水に絵美奈の姿が揺らぎながら映る。
広い湖の中央付近から水が湧き出ているようだ。
綺麗な水・・・
掬ってみようと前かがみになった時、突然湖の水面が漣立ったかと思うと、つむじ風が巻き起こった。

絵美奈は小さく悲鳴をあげて後ずさったが、風は絵美奈の身体に触れた瞬間弾かれて波立つ水面を激しく叩いた。
「ふん、倍返しの術か」
どこからともなくそんな声が聞こえてきた。
「へっ、泣き虫が、自分の力だけでは勝負できないってか」

ふらふらする身体のバランスをどうにか保ちながら絵美奈は強気に言う。
「この声、さっきの子供ね、失礼な事言わないでよっ!」
その声に今まで静かに憩っていた数々の生き物がピクリと震えた。
「子供子供って、うるせえんだよっ!」
目に見えない何かに胸をわしづかみされ絵美奈は
「きゃあっ」
と悲鳴を上げて胸元を隠すように身をよじった。

「へん、ちょろいもんだぜ」
見ると朋之から貰ったピンブローチが空中を飛んでいく。
「あっ」
急いで手を伸ばすがブローチには届かず、バランスを崩した絵美奈は突然巻き起こった突風に吹き飛ばされそうになった。
軽く尻餅をついた絵美奈は手に握ったままだった朋之のピアスに慌てて息を吹きかける。
ピアスは瞬く間に朋之そっくりの少年へと姿を変えた。
「あら!」

式神は座り込んだ絵美奈を助け起こすと、励ますように言う。
「しっかりしてください、巫女姫様。あなたは月読様からいくつも秘術を授かったはず・・・」
「そう・・・だったわね」
その優しい眼差しに絵美奈は本物の朋之が傍にいてくれるようで心強くなる。
式神に支えてもらい、絵美奈は強い風あたりの中自身の周りに結界を張った。
風圧が唐突に和らぐ。
「へえ、泣くばっかりかと思ったら、少しはやるんだな」
そんな声と共に先程の少年が湖の上に姿を現した。

空中に浮遊しているのだろうがパッと見には水面上に立っているように見える。
何が悪い気配はない、よ。朋之の嘘つき〜
ピンブローチは吸い寄せられるように少年の方へと漂っていき、やがてその手にしっかりと握られた。

「それ、大事なものなのよ、返してよ!」
喚く絵美奈を尻目に、少年はそのピンブローチをわざと見せびらかすようにしながら手の中で握りつぶした。
綺麗な羽根の意匠も埋め込まれた赤い石も粉々になって辺りへ四散する。
「いや、やめて・・・、なんてことを・・・」

このブローチを渡してくれた時の朋之の顔が頭を過ぎる。
まだ出会ったばかりで胡散臭いヘンな人だと思っていたころの朋之―――
女の子だから、こんなのがいいだろう・・・
そう言って掌にのせてくれた時の笑顔を思い出して絵美奈の目には涙が滲んだ。

少年に向っていこうとする絵美奈を抑えながら
「これは・・・国つ神と人間の間に出来た子供のようですね」
と式神が囁く。
「え?」
「やかましい!」
その途端強烈な突風に襲われ絵美奈の結界は揺らいだ。

結界の弱まったところから相手の手が侵入し、朋之の姿をした式神の首を掴んで結界から引きずり出した。
「いや、やめてよ!」
式神の身体から発せられる強い光に一瞬たじろいだ相手だが、すぐに体勢を立て直すと何事か呟いた。

少年の周りに風の波が出来、式神の身体は千々に引き裂かれ見る間にもとのピアスに戻る。
少年はそのピアスを思い切り地面に投げつけた。
慌ててそのピアスを拾い上げようと屈みこんだ絵美奈の腕は何時の間にかすぐ傍に近付いた少年の手にしっかりと捉えられていた。



  3.

「いやっ、何するの・・・」
と言う間もなく絵美奈は少年に抱きすくめられていた。
バランスを崩して尻餅をついた絵美奈を少年は力いっぱい抱きしめてくる。
「やめて、離して!」
「なあ、あんたは普通の人間だろ?何だってあんな連中とつるんでるのさ」
その腕から逃れようと身悶える絵美奈をますますきつく抱きしめながら少年は尋ねた。

「何でって・・・」
答を待たず少年はいきなり絵美奈の胸に顔を埋めてきた。
子供とはいえ男の子に抱きすくめられて絵美奈は心臓が高鳴ってくる。
柔らかい感触を楽しむように少年が顔を胸に押し付けてくるのから逃れようと絵美奈は軽く身体を揺すったが、そうすると少年はますます強く絵美奈を抱きしめてきた。

「気持ちいい」
「ねえ、あの・・・」
とりあえず危害を加えるつもりはないらしい、そう判断して絵美奈が身体の力を少し抜くと相手は
「お前、ずっとここに居ろよ、俺と一緒に」
と言って甘えるように凭れかかってきた。

「俺、ずっと一人で寂しかったんだ。ここにはいろんな奴がいるけど、俺の仲間は誰もいない・・・。でもお前が居てくれたらもう寂しくない」
朋之から教わった護身の術で逃れようとしていた絵美奈はその言葉に術をかけるのを中断した。
「あんた、一体・・・」
「コイツ等もお前のこと気に入ったみたいだし。そんな人間初めてだ」

「コイツ等ってこの異類異形たちのこと?」
「そんな言い方やめろよ、この連中は皆俺等の同族、いがみ合う理由なんてないんだ」
少年に抱きすくめられながら絵美奈はあたりを見回した。
「同族・・・。そう・・・なんだよね・・・」
絵美奈の様子が落ち着いたのを感じたのか締め付ける力が少しだけ弱まった。

「なあ、ずっとここにいるよな・・・」
先程までの挑戦的な態度とは打って変わって甘えるような口調で訊ねる相手に絵美奈は
「ごめんね、私、ずっとここにいるわけにはいかないんだ、これでもやらなくちゃいけないことが色々あるし、それに私・・・」
と躊躇いがちに言葉を紡ぐ。

「それに、何?」
じっと自分を見上げてくる瞳は結構可愛い。
この子を傷つけたくはないんだけど、と思いながら絵美奈は言った。
「そんな風に言ってもらえてとても嬉しいんだけど、私、もう他の人に一生を共にすると誓ってしまったから・・・」
「他の人って、お前にベタベタしてたあの男か?」
少年が拗ねたような口調で訊く。

「ベタベタって・・・」
「・・・アイツは人間のフリをしているけど、天つ神じゃないか・・・!」
「それは・・・」
「あんなヤツやめちまえよ!」
と言って相手はまた強く絵美奈を抱きしめた。

「俺、早く大きくなってアイツよりずっといい男になるよ、だからずっとここに居ろよ、俺と一緒に」
そう言って身体を押し付けてくる相手を
「馬鹿なこと言わないでよ。第一あんたまだ子供じゃない!」
と言って絵美奈は渾身の力で突き放した。

「自分だって子供だろう」
「失礼ね、私は・・・」
「もう子供じゃないって言いたいの?」
相手はそう言って絵美奈の身体をもう一度引き寄せるとからかうような笑みを見せた。

そうよ、と言って真っ赤になる絵美奈の顔をニヤニヤと見つめながら
「安心しろよ、俺はそんなこと気にしないぜ」
と言う。
コイツ一体幾つよ・・・と思いながら絵美奈はその腕から逃れようともがくが、相手は子供とは思えない力で絵美奈を抱きしめていて、どうしても振り払えなかった。

「俺はお前が気に入った、だから、もうお前は何処にもやらない、アイツのところへなんか帰らせない」
「だめよ、私はあの人と結婚したんだから・・・!」
その言葉に少年は軽く目を見張りながら言った。

「天つ神は美しいが傲慢で残酷。利用できる者は徹底的に利用し従わぬ者は容赦なく叩きのめす―――俺はそう聞いたぜ。
アイツがあんたと結婚するなんて信じられない。
あんたはアイツに遊ばれてるんだ。利用できるうちはさんざんいいように利用されて、いらなくなったら捨てられるのがオチさ」

「ちがう、朋之はそんなことしない!」
「違うもんか、どうせアイツお前だけを愛してるとか、うまいこと言ってお前をモノにしたんだろうけど、そんな台詞一体何人の相手に言ってると思うんだよ。
そんな言葉を真に受けてその気になってたらとんでもないしっぺ返し食らうぜ」

「そんな、そんなこと、朋之はそんなこと・・・」
「それにもしホントに結婚できたとして、お前は一生浮気の心配してなきゃなんないぜ」
「朋之は浮気なんて!」
「しないって言い切れるのか。あれだけ上玉なら女の方がほっときゃしないさ。だからあんなヤツやめて俺に乗り換えろよ。ここでずっと二人だけで暮らすんだ」

「やめてよ!そんなことできるわけ無いでしょ、私は朋之を愛してるのよ、他の人なんか考えられないよ」
「お前はそうでもアイツはそうじゃないさ。お前が居なくなればすぐ別の女を見つけて・・・」
「違う!朋之はそんな人じゃない、私、信じてるもの!」
次々畳み掛けてくる少年の言葉に、絵美奈はすでにパニックに近い状態になっている。

泣き声交じりのその言葉に少年は得たりとばかり
「信じてるんだったら何で泣くのさ」
と言って笑った。
「やめて、あんたなんか嫌いよ!」
絵美奈の瞳からは堪えきれなくなった大粒の涙が零れ落ちる。

「・・・そんなにアイツが好きなのかよ」
相手を本当に泣かせてしまったことで少しやりすぎたと思ったのか、少年の抱きしめる力が弱まったのを感じ絵美奈は急いでその手を振り切った。
「そうよ、いやっ、触らないで!」

そう言って落ちていたピアスを拾い上げた絵美奈の腕に少年が触れた瞬間、激しい火花が飛び散り少年は弾かれたように吹き飛ぶ。
絵美奈には相手がどうなったか確かめる余裕などなく、
「朋之、朋之、助けて!今すぐ私の傍に来て」
そう叫びながら辿ってきた通路に向かって無我夢中で駆け出していた。

―――絵美奈?どうかしたのか?
―――朋之!お願い、助けて!!
「絵美奈!」
その瞬間絵美奈は目の前に現れた朋之の胸に飛び込んでいた。
その傍らには伊織も立っている。

「どうしたんだ、一体・・・」
朋之は顔を上げ絵美奈を追ってきた少年を見据えた。
「お前、コイツに何をした・・・」
その身体全体から強い殺気が漲っている。
それに反応するように、今まで静かに身体を休めていた様々な生き物が強い波動を感じさせながら蠢き始めた。

「俺は・・・コイツが気の毒になっただけさ、お前みたいなのに騙されて有頂天になってるから」
「やめてよ、もう!」
朋之の腕の中で振り向き様に絵美奈が叫ぶ。
「何のことだ?」

「お前達天つ神は信用できないと教えてやったんだ。どうせ、この女だって利用価値がなくなればごみのように捨てるんだろ!
お前達にとっては人間や国つ神はくず同然、利用できるだけ利用し、そうじゃないものは容赦なく叩き潰す、それがお前達のやり方じゃないか!」
「違うって言ってるでしょ!」
絵美奈はそう言って泣きながら朋之に抱きついた。

その腕をそっと取って背に庇うように後ろに退がらせると朋之は少年と向き合って
「確かにお前の言うとおりだな」
と静かに答えた。
「俺たち天つ神は容赦などしない、敵と見なした相手に対してはな」
その声音はあくまで穏やかで物静かなだけに返って不気味さを感じさせた。

「さてどうするか・・・、お前の頭をグシャグシャに潰してやろうか、それともその精神こころをズタズタに切り裂いてしまおうか」
その身体中から溢れ出すあまりの殺気の強さに、絵美奈は身体中の毛が逆立ち鳥肌だつのを感じた。
さすがの少年もたじろいで僅かに後ずさっている。
朋之の殺気が高まるに連れ、異類異形の者達のドクドクいう脈動も激しくなっていった。

「やめて、朋之。この子は、本気じゃなかったのよ、私だって・・・」
朋之がこれほど怒りを露わにするとは思っていなかった絵美奈は慌てて取り成すように言う。
「本気だろうが何だろうが、お前を傷つけるものを俺は許さない」
その瞳に浮かぶ冷酷な光に絵美奈は思わず朋之に取りすがる。

「だめよ、私の為に朋之が誰かを傷つけるなんて!」
そんな絵美奈を見下ろしながら朋之は
「お前のためならこの手を血で汚す事も俺は厭わぬが」
と言った。

「お願い、私の為にそんなことしないで!
私のせいで朋之の手が血で汚れるなんて耐えられないよ・・・」
ほんの一瞬朋之の口元に苦い微笑が浮かんだがそれはすぐに消えた。
「ふん、コイツが途方も無いお人好しのおかげで命拾いしたな、小僧」

朋之の殺気が和らぐのを感じて気を取り直したのか少年は
「黙れ、俺はお前なんかに・・・」
と尚も強気に言い募った。
「ほう、あくまでやるつもりか」
ざわつく空気に絵美奈は朋之に抱きついて止める。
「やめて!朋之」
その時須佐の低い声があたりに響き渡った。

「月読よ、そのくらいにしておいてやってくれ、この者はこれでも儂の最後の血族なのだ。
乙彦、お前ももうやめておけ、この方は我が兄上、夜の食国オスクニを知ろしめす月読命だ。お前の敵う相手ではないさ」
乙彦と呼ばれたその少年は口惜しそうに唇を噛んだが、すぐにキッと顔を上げると、
「馬鹿やろう!後で泣くのはお前なのに・・・」
と絵美奈に言い放って先程と同様に姿を消してしまった。

「あの子は・・・」
呆然と呟く絵美奈を朋之はそっと抱きしめた。
「どこかへ隠れてしまったようだが・・・。それより大丈夫か?怪我でも・・・」
「ううん、何ともない。ちょっとビックリしただけだから・・・」
絵美奈はそう言って笑って見せたが、その瞳には涙がまだ溜まったままだ。
朋之は軽く溜め息をつくと、伊織の方を向いた。
瞬時に絵美奈は朋之、伊織と共に先程の場所に戻る。

―――ごめん、やっぱり足手纏いにしかならなくて
―――そんなことはないさ、俺もお前を一人にして悪かったな。そう嫌な気配はないと思ったんだが・・・
―――うん、そうなんだけど・・・。ブローチ、壊れちゃった・・・
―――いいって、今度はもっといいのを買ってやるから・・・。それよりお前が無事で本当によかった

しっかりと繋いだ手から暖かいものが流れ込んでくる様で絵美奈は嬉しくかったが、それでもあのブローチにはいろいろと思い出があったのに、ととても残念だった。
どんなに新しくていいものを貰っても、それはあのブローチではないのだから・・・



  4.

「もう帰るのか、月読」
姿の見えない主の声が空洞に反響する。
「ああ、確かにお前は何も知らないようだし、仕方ない、穴牟遅に会ってみるか。本当はお前に顔繋ぎしてもらえると助かるんだが」
「悪いが儂はここから出るつもりはない。ここは儂の安住の地であり墓場だ。儂はそれでいいと思っている、ただ・・・」
「何だ?」

「さっきの子供・・・。お前の奥方に無礼を働いた様で済まなかったが、アイツのことが気がかりで儂は永眠することができぬのだ。
虫のいい話だがこうしてお前と会えたのも何かの縁なのだろう、アイツの面倒を引き受けてはもらえぬか」
「あの子供?お前はあれが最後の血縁とか言っていたがあれは・・・」
「あれは国つ神の子供ですよね、人間の血も混じっているようでしたが」
と伊織が朋之の言葉を引き取って言った。

「儂の一族の最後の一人だ。他の者はみなこの地を離れ現界で暮らしている。
もう随分前になるがそのうちの一人の女が突然舞い戻ってきた。その女はここであの子を産むと現界には戻らず食を断ってこの地に眠ることを選んだ。
だからあれには身寄りがない。儂はアイツが独り立ちできるようになるまで見守っていてやるつもりだったが・・・」
絵美奈はふと自分が須佐に見つめられているのを感じた。

「やはりここで儂と二人で暮らすのは幼い子供にとっては酷なことだったようだな・・・」
あの子は寂しいんだと言っていた。だから絵美奈に一緒にいて欲しいと・・・
「こちらは構わんがアイツが承知せぬだろう。我等は随分嫌われているようだからな」
朋之は断るとばかり思っていた絵美奈は驚いてすぐ隣に立つその横顔を見上げた。
伊織も同様に見つめているところをみるとやはりかなり驚いたものらしい。

「お前が引き受けてくれるなら、儂はアイツに代を譲ってこの地で永遠の眠りにつくつもりだ。ここはもうなんびとも入れぬ様に閉める。アイツに選択の余地はないさ」
朋之はしばらく無言でいたが、
「須佐・・・、お前は本当にそれでいいのか・・・?」
と言った。

「ああ、儂は少しばかり長く生き過ぎたからな」
その声と共に先程人の姿をした須佐之男が現れたあたりの岩肌にまた文様が浮き上がった。
この空間への入口となっていた巨大な岩に浮き出た文様とは少しだけ違っている。

「頼まれついでに月読よ、儂のプレートを取り出してくれ。お前なら出来るだろう?」
「ああ、だがそれでは・・・」
珍しく逡巡する朋之を絵美奈は不思議な面持ちで眺める。
「代替わりするのだと言ったろう?儂はあの子供、乙彦に須佐之男の座をゆずるのだ。そうでなければゆっくり眠ることが出来ぬ・・・」

「朋之、どういうこと?プレートを取り出すって・・・」
絵美奈がそっと問い掛けると朋之に代わって伊織が
「巫女姫様、我等重鎮の座に付くものは先代から力の源であるプレートを受け継ぐ。
そのプレートには遥か昔の我等一族の記憶が刻み込まれているだけでなく、歴代の継承者の記憶も掘り込まれていくんだ」
と、教えてくれた。

「頼む、月読。お前の手でアイツに渡してやってくれ・・・」
須佐に重ねて頼まれて朋之は意を決したように岩肌に近寄ると文様の中心に手を伸ばした。
その手は岩を突き抜けて中へと入っていく。
文様からは青白い光が放たれ朋之の身体を包み込んだ。

やがて朋之がゆっくりと手を引き出す。
岩の中から出てきたその手には青銅色の小さくて丸いものが握られていた。
「手間をかけたな、月読」
「いや、・・・本当にこれでよかったのか」
「もちろんさ」

「あの子供はこの辺りには居ないようだが・・・」
「拗ねているんだろう。アイツにあったらそのプレートを渡してやってくれ」
「承知した」
朋之はそう言って手にしたプレートを上着のポケットに滑り込ませた。

「ではもう行くがよい。お前達が去ったら儂はこの場を閉じる。やっと静かな眠りにつく時が訪れるのだ・・・」
「須佐、騒がせて悪かったがお前に会えて嬉しかったぞ」
「ああ、久しぶりに会えて儂も嬉しかったよ。我等が姉上によろしくな」
「ああ」
朋之は絵美奈の手を握ったまま伊織に合図する。

「ちょっと待て月読」
「おう、何だ?」
「これを持っていけ。儂にはもう必要ないものだ、お前が持っていてくれ」
その声とともに飛んできた細長いものを朋之は右手を上げて掴んだ。
「ほう、これは・・・」
「何とまあ・・・」

朋之が手にしているのは刀のようだ。
「そっちのヤツはともかく、穴牟遅のところに乗り込むならお前は丸腰では分が悪かろうからな・・・」
「ふっ、なめるてくれるな。だが、ありがたく借りていくぞ」
朋之はそう言うとその刀を伊織に手渡し、軽く頷く。
その途端、絵美奈はふっと体が軽くなるのを感じ、気がつくと先程の滝の傍に立っていた。

辺りがすっかり薄暗くなっているのに驚いていると洞窟の奥のほうでズズンという鈍い音が聞こえ、地面が強く揺れ崖が崩れだした。
危ない、と飛びのきしばらく身を低くして地震が治まるのを待って顔を上げると、崖は当初の半分以下の高さになっていた。
滝は細々とながらもまだ流れ落ちていたが、洞窟の入り口は完全に塞がれてしまったらしい。

朋之の腕に縋り付きながら絵美奈は恐る恐る尋ねる。
「洞窟、崩れちゃったの?」
「そうみたいだな・・・」
「そう・・・」
絵美奈は須佐の最後の言葉を思い出す。
あの人は平穏な眠りを得て幸せなのだろうか・・・

「もう、あの不思議な場所には行けないんだね・・・。とても綺麗な湖だったのに・・・」
「仕方あるまい、それがあの地の主、須佐の意思なのだから・・・」
朋之はそう言ってプレートを滑り込ませたポケットを軽く叩いて見せた。

「あの子供の気配はしないようですね・・・」
伊織が辺りを見回しながら朋之に話しかける。
「ああ。須佐が眠りについたのを知ってどこかへ隠れてしまったのだろう。まあ・・・」
朋之は絵美奈を見遣りながら
「いずれ向こうから姿を見せるとは思うが・・・」
と続ける。

「それにしても、もうこんなに暗くなっちゃって・・・。この洞窟に入ったのは午前中だったのに・・・」
辺りを見回しながら絵美奈が言う。
私、そんなに眠っていたのかな・・・
「時の流れ方が違うんだ。あそこは根の堅洲国、この世から見ると異界だからな」
「ふうん・・・」

朋之は絵美奈を見遣りながら考える。
穴牟遅のところへ行くとなると絵美奈を連れて行くのは危険だ。
ここはひとまず帰宅して、改めて出直す方が賢明だな―――

まだ不思議そうに辺りを眺めている絵美奈に朋之は笑顔を見せて言った。
「取り合えず帰るか。何が起こるかわからんし」
「うん」
さっきの子はどこかこの近くにいるのだろうかとちらりと思ったが、絵美奈は伊織、朋之とともに洋館へと戻った。

「ねえ、最後に何を渡されたの?刀?」
朋之と部屋で寛ぎながら絵美奈は尋ねる。
「ああ」
朋之はずっしりと重そうな刀の柄を持って古びた鞘から抜いてみせる。
その刀身は氷のように冷たい輝きを放っていた。

その途端窓の外で雷鳴が轟く。
「きゃっ!」
絵美奈は驚いて朋之にしがみついた。
「ああ、悪い」
そう言って朋之は刀をしまう。

「一体何?さっきまで雲ひとつ無かったのに」
そういいながら絵美奈は恐る恐る窓辺に近寄った。
ほんの一瞬だが誰かに見られているような気がして、慌ててカーテンを閉め朋之の傍に戻る。

「この刀のせいさ」
「え?」
「これは雲を呼び雨を降らす特別な力を持つ霊剣だからな」
そう言って朋之は刀をサイドテーブルに置いた。

「どういうこと?」
「英雄須佐之男の剣、天叢雲剣アメノムラクモノツルギだ」
「あめの・・・むらくも?」
「別名、草薙の剣」

「えっ、でもそれって・・・、確か三種の神器としてどこかの神社に祭られてるんじゃ」
「まあ、もともと須佐の奉ったのはレプリカだからな。今でも宮の宝物殿にしまってあるぜ。それでも使うものが使えば雨くらいは降らせられると思うが。
こちらの世界に伝わっているのはそのまたレプリカだろうけど。」
「そうなの・・・?」
絵美奈は半信半疑である。

「で、それを持って穴牟遅と言う人に会いに行くの?」
「ああ、そのつもりだ。今度は本当の敵地だからな、お前は連れて行けない」
「朋之・・・でも・・・」
朋之は優しく絵美奈を抱きしめる。
「お前を危険な目に合わせるわけにはいかないだろう」

「それは、今日は足手纏いになってしまったけど・・・」
「足手纏いだとは思っていない。お前は不思議な力があるからな、今日は一緒に行ってよかったと思ってるよ」
「え、でも、不思議な力なら朋之だって・・・」

「その力じゃないよ、不思議な魅力と言った方がいいのかな。お前といると心が暖かくなって、楽しい気分になれる。
あの子供もあそこに居た異類異形どももお前には敵意を示さなかったろう?」
「でも、あの子は・・・」

「お前が好きだと言ったんだろう?けど思ったような反応が返らないから・・・」
「私にあそこで一緒に暮らして欲しいって・・・あ・・・」
朋之は甘く優しい口付けをくれる。
「まあ、二度とお前には触れさせないけどな。お前は俺のものだ」

「あの子は寂しいんだと言っていたけど・・・」
「ずっとほとんど一人で過ごしてきたんだろうな、あの洞窟と人気の無い山で。須佐はいつでもあんな調子なんだろうし」
「まだ小さいのに」
「お前、アイツがいくつだと思ってるんだ?」
「え?」

「異界では時の流れがこの世とは違うと言ったろう?アイツは百年は生きてるぜ」
「そんな!!」
でもそういえばあの洞窟の中に居たのはほんの数時間くらいだと思ったのに、外へ戻ると半日近くの時間が経っていた。
「やけにませた事言う子供だと思ったら・・・」
子供だと思うからこちらも少しは気を使ったのに・・・

「まあ精神年齢は見かけどおりの子供だろうがな」
「もう、そうと分かってたら・・・」
そう分かった途端、あの子供にされたことを思い出しだんだん腹が立ってきた。
寂しがり屋の子供だと思って我慢していたのに、百歳過ぎのおっさん、いや、お爺さんだったとは!!!

「まあ、許してやれよ。本気じゃなかったんだって言ったのはお前だろう?」
「だって・・・」
あの時は朋之がホントにあの子を殺すつもりかと思えたから・・・
絵美奈は朋之の手を取り
「この手を汚して欲しくなかったから」
と言った。

朋之はもう一度口付けを落とすと
「穴牟遅には俺一人で会いに行くから、明日は壊れたブローチの代わりを買いに行こう」
と囁いた。
「やっぱり今度は連れて行ってもらえない?」
「まあな、今度は本当の敵地だ。何が起こるか分からないからな。連れてはいけないさ。お前が俺と離れて伊織だけでは心許ないのなら・・・」

「私は大丈夫だよ、もっと気をつけるようにするから。
それより朋之が一人で行く方が危ないよ。私、朋之がまたあんな怪我をしたり、もっと酷いことになったら・・・」
朋之は絵美奈の髪を優しく撫でながら
「俺も充分気をつける。俺にはもうお前が居るんだものな。だから心配するな」
と言って固く抱きしめた。



  5.

その夜は封印が破れる事は無く朋之は少し拍子抜けした様子だが、絵美奈は久しぶりにゆっくりと過ごせて嬉しかった。
あの洞窟での出来事はかなり刺激的だったし・・・

地上にあふれ出て人間に害を及ぼす異類異形たちがあの湖の畔では心長閑に安らいでいた。
辺りを包む空気も清浄そのもので・・・
聖域サンクチュアリとはああいう場所を言うのだろうか・・・

「ねえ、私が何を考えてるか分かる?」
朋之の腕の中で絵美奈は尋ねた。
「ああ、この地の異類異形どももあんな風に生きられないかと思ってるんだろう?」
朋之は幾分けだるそうに答える。

「無理かな・・・」
「さあ、どうだろうな・・・」
「真面目に考えてよ、朋之なら・・・」
「俺にそんな力は無いぜ、買いかぶるなよ」
「もう・・・」

「そうだな、俺には無理だが・・・」
「朋之?」
「いや、何でもない。もう休もう、今日は疲れたろ」
そう言って朋之は絵美奈の髪を優しく梳いた。

「私、なんだかさっきから誰かに見られてるように感じるんだけど・・・」
「何だ、気付いてたのか?」
「知ってたの?」
「まあな。大丈夫さ、この家には結界を張ってあるから何も見えてはいないはずだ」

「堀内・・・先生かな・・・?」
「まさか、アイツはそこまで直接的な行動は取らないと思うぜ」
「じゃ、誰?」
「さて、誰だろうな」
「知ってるなら教えてよ、意地悪しないで・・・」
朋之はただ黙って笑うと絵美奈をグイと引き寄せた。

翌日、絵美奈は朋之とともに街へ出かけた。
伊織は珍しく自分から里に戻っている。
絵美奈は朋之にねだって壊れたのと同じブローチを買ってもらうことにした。

「あれは安物なんだけどな・・・」
と言いながら、朋之はお洒落な宝飾店に絵美奈を連れて行く。
伊織ではないが、この店で朋之がどんな顔をしてあのブローチを買ったのかと思うと我知らず笑みが零れた。
「・・・だから連れてきたくなかったんだ・・・」

「でも、綺麗なアクセサリーばっかりで、全部欲しくなっちゃうな。よくこんなお店知ってるわね・・・」
と言いかけて、そうだ、こんなお店朋之が元々知ってるわけない・・・と思い、ふいにあの子供、実際は爺さんだが、の言葉が思い出された。
―――そんな言葉を真に受けてその気になってるととんでもないしっぺ返しを食らうぜ・・・

絵美奈の微妙な表情に朋之は少し気まずそうな顔をする。
「もういいよ、随分いろいろな娘と付き合ってきたんでしょ。よく分かってるから・・・」
「そう言うなよ、本気で惚れたのはお前だけなんだからさ」
それが否定の答えになっていないことに絵美奈は頬を膨らませ、
「もういいって・・・」
と言ってついと傍を離れた。

備え付けの鏡に映る朋之の姿を盗み見ながら絵美奈は溜め息を吐く。
朋之は自分が鏡に映っている自覚がなく、困ったように遠目に絵美奈のほうを見ていた。
仕方ないな、あの子の言うとおり、女の子がほっとかないよね。
そのまま一人にしておくと誰かに声を掛けられてしまいそうで絵美奈は朋之の傍に戻る。

「今までの事はもういいよ。でもこれからは浮気なんて許さないからね」
冗談めかしてそう言うと
「全く、凄い台詞だな。俺はちゃんとお前に生涯の貞節を誓ったのに・・・」
と苦笑しながら朋之は答え、同じブローチを買って絵美奈の胸に挿してくれた。

「また術をかけたの?」
「いや、お前はもう自分で自分の身を守れるだろうし、また利用されてもいやだからな、これはホントに単なるお守り」
「うん・・・」

爽やかな秋風の吹く石畳の道を手を繋いで歩きながら絵美奈は
「ねえ、穴牟遅と言う人には何時会いに行くの?」
と尋ねた。
「ああ、伊織が戻ったら入れ替わりで出かける。明日の朝には戻るよ」

「ホントに一人で大丈夫なの?」
「まあ、俺に手出しできるヤツはいないだろう、得物も借りたし」
「どうしても私は連れて行ってもらえないの?」
「今度ばかりはね。それに、また変なヤツに横恋慕されたらかなわないし」
「そんなこと・・・」
「まあ、それほど心配なら・・・コイツを連れて行くかな」
そう言って朋之はひょいと木の上に飛び上がる。

「と、朋之・・・」
周囲の目を気にして慌てる絵美奈にお構いなしに再び地上に降り立った時には、その手には見覚えのある子供の襟首を掴んでいた。
「あんた・・・」
須佐之男が乙彦と呼んでいた少年だが、こんな遠くまで追ってきたのか・・・、と絵美奈は驚き呆れた。

「ここまでご執心とは、お前も女冥利に尽きるだろう」
「やだ、夕べ覗いていたの、あんたなの!?」
その声に道行く人が驚いて振り返る。
「覗いたなんて人聞きの悪いこと言うなよ!結界のせいで何も見えなかったよ!
見えたところでどうせコイツとイチャついてただけだろ!」
その言葉に襟首を締め付ける朋之の手に力がこもる。

「グェ、放せよ。ホントに死んじまうだろうが・・・!」
「別に俺は構わんぞ」
「もう、やめてよ朋之。本気じゃないくせに」
「こんな奴、本気出すまでもないからな」
そう言って朋之が手を放すと少年は地面に落ちて尻餅をついた。
相変わらず時代劇の子供のような格好をしている。

「ちくしょう、なんて乱暴なヤツだ」
「お前が先に俺の妻に手出ししようとしたんだろうが」
「なにが妻だ、ガキの癖に!」
「お前の方がよっぽどガキだ、見かけも中身もな!」
「二人ともやめてよ、こんなトコで・・・」
全く、どっちも子供だ、と絵美奈は頭を抱えた。

朋之と乙彦は絵美奈そっちのけで言い合いながらさっさと歩いて行ってしまう。
せっかく今日は二人きりで過ごせると思ったのに・・・
不機嫌な顔を隠しもせずに絵美奈は二人の後を所在なげについて歩く。
とにかくこんな格好ではみっともなくて連れ歩けない、と朋之は乙彦に服を買ってやった。
何だかんだ言いながら世話を焼いている朋之の様子を見ていると、子供好きと言うのは嘘ではないらしい。

「どうだ、似合ってるか」
と嬉しそうに絵美奈の前で新しい服を見せる乙彦はあどけない幼さを感じさせて、やっぱり憎めないなと思う。
「今度はアイツ抜きでデートしようぜ」
朋之が会計を済ませる間に乙彦は絵美奈にこっそり耳打ちする。
「馬鹿言わないでよ、人のデートぶち壊しておいて・・・」

「おい、俺の妻にちょっかい出すなよ」
朋之が遠くから声を掛けると乙彦は見事に尻餅をつく。
「ちぇっ、嫌な奴!」
絵美奈に纏わりつく乙彦を引き剥がしながら朋之は心なしか楽しそうに歩を運んだ。

すったもんだ揉めながらどうにか夕食を済ませて家に帰ると、里から戻ってきた伊織が乙彦がいるのを見てなぜコイツがここに、と驚いたが、朋之が穴牟遅に会うのに乙彦を連れて行くと言ったのでさらに仰天した。

「どういうことですか、朋之様!こんな奴をお供に選ばれるなんて」
血相を変えて詰め寄る伊織に朋之はあっさりと
「こんな奴を妻と二人きりにさせるわけにいかないだろう」
と答える。

「でも、貴方の護衛は僕の役目です!僕を差し置いてこんなのを連れて行かれるなんて、あんまりです!」
といきまく伊織に乙彦は
「俺だって、いきたくてコイツに引っ付いてく訳じゃないぜ。野郎のお供なんかゴメン・・・」
と言う途中でぎゃっと悲鳴を上げて顔から床に倒れこんだ。

「畜生、何しやがるんだ!」
「ついでにコイツを穴牟遅のトコに置いてくる。こんなのに付き纏われたら迷惑だからな」
朋之はそう言って乙彦の服の襟首を掴んで引張りあげた。

「へっ、冗談じゃねえ」
バタバタとあばれて朋之の手を逃れた乙彦は
「あんな奴のトコに行くのはごめんだ。お前も親父から俺の面倒見るよう頼まれたんだろ、いったん引き受けた以上、ちゃんと面倒見ろよ!」
と向き直って叫ぶ。

「だが、お前は俺の世話になどなりたくないのだろう?須佐から預かったプレートを渡してやるから・・・」
「へん、お前の厄介になるのは業腹だが、それが親父の意思なら仕方ない、我慢してやるぜ」

「・・・俺の妻に手を出さないと誓うならな」
その言葉に乙彦は指をくいと曲げて
「チョイ、耳貸せよ」
と言う。
朋之が屈みこむと乙彦はその耳元で何事か囁いた。

朋之は乙彦をきつく睨みつけたがやがて軽く溜め息を吐くと、例のプレートを取り出して何事か唱えながら乙彦の胸に押し付ける。
絵美奈が一体何を、と驚いてみていると、プレートは次第に乙彦の体の中に入り込むようにして消えてしまった。
服も破れていないし、乙彦も怪我一つしていないようだ。

「お前の時を調整する事も出来るが・・・、どうする?」
朋之の言葉に乙彦はちらりと絵美奈を見たが、
「とりあえず今のままでいいさ。この世界の暮らしをゆっくり時間をかけて楽しんでみたい。いい女もいっぱい居るみたいだしな」
と言った。

乙彦の力が格段に強くなっている事を絵美奈はその周りの空気の流れで感じた。
おそらく伊織も同様だろう。
「でも・・・、コイツを連れて行く事は背後にも敵を作る事になりかねません。危険です、朋之様。どうかお考え直しを・・・」

言葉を選びながらも乙彦への不信感を表す伊織に乙彦は
「へっ!くだらねえ、そりゃ、俺はコイツが好きじゃねえけどよ・・・」
と言って朋之を見遣りながら言葉を続けた。
「そんな卑怯なマネはしないぜ」

それに対し伊織は腕組みしたまま憤然と乙彦を見下ろして
「分かるもんか、お前は巫女姫様にご執心なんだろ、だったら・・・」
と言う。
乙彦は伊織を手招きして部屋の隅に連れて行くと
「これ以上余計な虫がつかないようしっかり見張っといてやるから安心しなよ」
と小声で囁いた。

「な、何を言って・・・」
「本当はアイツと一緒に行きたいんだろう。すぐ分かるぜ、あんたアイツといる時が一番嬉しそうだもんな」
「おかしなことを言うな、僕は・・・」

乙彦はやれやれと言うように手を振って
「大丈夫だよ、アイツ意外と鈍いから全然気付いてないし」
と意味深な目付きで伊織を見上げた。
「確かにアイツ、美人だもんな。アイツが女なら俺だって一目惚れしてたと思うぜ」

朋之は絵美奈とともに呆れ気味に此方を見ている。
こんな話を聞かれたら、と思うと伊織は気が気ではなかった。
「じゃ、決まりだな。俺の女の護衛、しっかり頼むぜ」
そう言って乙彦は交渉成立とばかり朋之に親指を立てて見せた。