1. 絵美奈は伊織と応接間で封印の異状に備え夜半近くまで待機した。 朋之がいないと思うとやはり少し心もとない。 今夜も何も起こらなければいいけど、と思う。 沈黙が続く雰囲気を破ろうと絵美奈は伊織に 「今回は何の用事で里へ戻ったの?」 と聞いてみた。 伊織が自分から戻るなんて珍しい、と思ったのだ。 「うん、ちょっと祖母に話しておきたいことがあって・・・」 伊織は絵美奈の左の薬指に光る指輪にちらと目をやりながら答える。 穴牟遅の元へ向った朋之も揃いの指輪を嵌めていた。 結婚の証の指輪だが、普段は二人ともほとんど嵌めた事がないのに・・・ 夜こんなに長く離れるのは成婚以来初めてだからだろうかと考えながら伊織はぼんやりと祖母とのやり取りを思い出した。 伊織は祖母に、このお役目は自ら望んだものであることを伝えたのだった。 だから、あとしばらくはなかなか里に戻れないが心配しないでくれと・・・ 祖母は伊織の言葉に大きな溜め息を吐いたが、何も言わなかった。 伊織はそんな祖母に、前に宮へ行ったことがあるのかと訊いてみた。 「・・・月読様にお聞きしたのかい?」 祖母は呟くように逆に訊き返す。 「月読様は何も仰らないよ、でも、もしかしてそうじゃないかと思ってさ・・・」 伊織の言葉に祖母は躊躇いながらも話し出した。 「ああ、前にね。宮へいったよ。そして目の覚めるような男前の若衆に話を聞いてもらったのさ・・・」 祖母はそこで何とも切なそうな顔をする。 「あの方・・・、月読様の傍付きだと言っていたけど、本当はあの方が月読様ご本人だったんだろうね。 初めは月読様が里のものにお顔を見せるなんて事あるわけないと思ったけど、話してるうちに何となく分かったんだよ。爺様が話していたとおりの方だったから・・・」 「祖母ちゃん・・・」 「私も宗主家の方が話を聞いてくれるなんて本当は思っていなかったからね、つい甘えてしまったんだよ。それに、少しばかり悔しかったしね」 「?」 「ふふ、爺様は月読様月読様って、それこそ若い恋人でも出来たように入れあげていたからね。 まあ、あんな眉目秀麗なお方を毎日見ていたら私のような梅干婆さんはさぞ貧相に見えたんだろうけど」 それは伊織も知っている。 代替わりしてプレートを受け継いだ時、あの無骨者の祖父が新しく仕えることになった幼い主の笑顔を見るために、どれほど心を砕き労を惜しまなかったかを伊織は如実に知ることとなったのだから・・・ 「だから、爺様だけでなくお前まで取られてしまいそうで嫌だったのさ」 祖母の寂しげな笑顔に伊織は言葉を失う。 「でも、仕方ないね、お前はお前のやりたいようにやったらいい。私の事など気にするでないよ。 月読様はお優しい方だと爺様は言っていた。宗主家で爺様の身体のことを気遣ってくださるのはあの方だけだと。きっと本当にそうなんだろうね」 「うん、そうだね・・・」 祖父の記憶に残る幼い朋之はいつも屈託のない笑顔を浮かべていた。 自分にはこんな笑顔を見せてくれることはないのだろうと思うと、悔しいような寂しいような気持ちになったものだが・・・ 黙り込んでしまった伊織の心中をどう察したものか、祖母は 「その若さで月読様の傍付きに選ばれて外の世界を見られるなんて、お前は本当に恵まれているのかも知れないね。 だからお前は自分が信じた道を行くがいいよ。私のことは心配要らない、お前が笑顔でいてくれることが今の私の一番の願いなのだから」 と微笑みながら言った。 そんな祖母に、これからはなるべく機会を見つけて頻繁に戻るようにするからと約して伊織はこちらの世界へ帰ってきたのだった。 伊織は逆に絵美奈に乙彦が朋之の供をする事になった顛末を尋ねる。 「あの子が僕達の後をつけてきている事は気付いていたけどね。ホントに朋之様は何を考えているのか。 あんなヤツ状況によっては平気でこっちを見限るだろうに、どうしてあんなに信用されるんだろう・・・」 聞きようによってはヤキモチを焼いているようにも取れるその台詞に、絵美奈は伊織に悟られないようそっと笑みを漏らした。 一方朋之は須佐之男を継承した乙彦に穴牟遅の元へと案内するよう命じた。 「お前なら瞬時にどこへでも移動できるだろう?」 「まあそうだけど・・・。アイツのところへ行くの、あまり気が進まないな」 「お前は会ったことがあるのか?」 「前に一度親父を訪ねて来たことがある。親父は取り合わなかったが・・・」 「ふうん、何の用があったんだろうな・・・?」 「さあね。お前たち天つ神の内輪もめの件じゃねえの?」 「内輪もめ?」 「違うのか?」 「・・・お前、何を知っている?」 「俺は何も・・・」 「嘘をつくなよ、お前はこの世のことは何でも分かる、そうだろう?」 「何でも、ってわけじゃないさ、俺そんなに力強くないし・・・。ただあの近辺のことなら俺の耳に入らないことはないけどな」 「答えろよ、他にも須佐を訪ねて来た者がいるんだろう?」 「いたけど・・・、親父が会いたくないと言ったから俺が幻術で目を晦ましたらそのまま引き返して行っちゃったから・・・」 「どんな奴か覚えてるか?」 「背が高くて眼鏡をかけてて気障な感じの天つ神だ。力はそう強くなかったな」 「それはいつのことだ?」 「さあ、現界で言うとどれくらい前になるのかな」 京介が須佐を訪ねた・・・いつのことかは分からんが・・・そして穴牟遅もまた・・・ どういうことだ? 一陣の旋風とともに二人は人里はなれた山間の村落を見下ろす丘の上に立つ。 夜景の中随所に灯された篝火に、昔風の立派な門構えの家が彼方此方に点在し、その間には広い水田や畑が横たわっている鄙びた山村の風景が照らし出されていて、一見して現代から数百年前の時代へとタイムスリップしてしまったような錯覚を覚える。 ここもまた異界――― 里の風景に少し似ているかな、と朋之は思う。 水鏡ではなく実際にこの目で見たのはただ一度きり、伊織と会ったあの時限りだが――― 村の奥には壮麗な神社が見えていて、その前に一際大きな屋敷が建っていた。 「ここが穴牟遅の国だ。あのでっかい屋敷が多分アイツの家だろうぜ」 家の窓からは暖かな明かりが漏れている。 村人はほとんどの者が各自の家で憩っているのだろう。 「この村の連中はみな、国つ神のようだな」 「そりゃそうさ、ここは穴牟遅の国だ。昔はこの辺り一体がヤツのものだったけど、今ではこの村から出る事は無いらしいぜ。 なんたってこの国はもう神の国ではなくなったんだからさ」 「その点では我等と同様、と言うわけか。今回の顛末に絡んできたのはコレを期に勢力巻き返しを図ろうとでもいうのかな?」 「どうだかな、穴牟遅も結構食えない野郎らしいから」 「お前な、一応須佐の血族らしいが、お前は国つ神の血のほうが勝っているだろう。だったら・・・」 「よしてくれよ、今更。俺は天つ神でも国つ神でもない、須佐之男だ。それでいいだろう」 「そりゃ、お前がそれでいいなら・・・」 「じゃ、これからよろしく面倒みてくれよな、月読の兄上」 「須佐はそんな呼び方しないぜ。俺たちは・・・」 「一生に一度くらいそう呼んでみてもいいだろうがっ!」 てれたように頬を膨らませ乙彦はそっぽを向く。 その様子を愉快そうに眺めながら朋之は 「まあいいけど。では須佐よ、あの屋敷の側まで移動してみるとしよう」 と例の広大な屋敷を指差す。 「お前、結構無鉄砲なんだな。いきなり敵の中心を直撃するとは」 「国つ神相手に作略も必要あるまい」 「へいへい」 その途端朋之と乙彦の身体は巻き起こった風の流れに取り囲まれ、一瞬の後には今まで見下ろしていた広大な屋敷のまん前に立っていた。 天つ神の気配を感じたのか周囲の家から住人たちが顔を覗かせる。 いきなり現れた都会風の身なりの少年二人に村人たちは一様に興味丸出しの不躾な視線を投げてきた。 朋之が手を伸ばすと重厚な木材で造られた壮大な門が一人でに内側へと開いていく。 村人たちはその様子を唖然として見守っていた。 朋之が門を潜って敷石伝いに屋敷の庭を玄関に向かって進んで行くと、その気配を察してか屋敷の中からも数人の男達がバラバラと駆け出してきた。 「おい、囲まれたぜ」 「そのようだな」 「やけに落ち着いてるんだな」 「この程度の連中が何人集まろうと、慌てる事もあるまいが」 この程度とは何だ、というような声があちこちで上がったが朋之は平然と無視した。 「貴様、天つ神のようだが、何用あってこの屋敷に参った?」 一番最後にゆっくりと姿を現した恰幅のいい中年の男性が険しい表情で朋之を見詰めながら尋ねる。 それには答えず朋之は幾分見下したような態度で逆に尋ねた。 「そなたが穴牟遅か?」 その問いに中年の男はムッとした様に顔を強張らせる。 「違うよ、月読、コイツは穴牟遅じゃないぜ・・・」 乙彦の言葉に男はほんの少し目を見開いた。 「お前は国つ神の子供か?今月読と言ったようだが・・・」 そういいながら男は朋之が左手に持った剣に目を留める。 「その剣は・・・、まさか貴様は・・・」 「三下に名乗る気は無い。穴牟遅は?居らぬのか?」 朋之は口元に薄笑いを浮かべながら揶揄するような目付きで男を眺めた。 「貴様、さっきから、穴牟遅、穴牟遅と我等が長に対して・・・!」 周りを取り囲んだ男達がざわつくが朋之は意にも介さず、逆にその様子を楽しんでいるように見える。 「穴牟遅は穴牟遅だろう?違うのか?」 「月読、もうよせって・・・」 乙彦は朋之の袖を掴んで嗜める。 「わざと喧嘩売ってんのか・・・?」 「月読・・・月読命か・・・?しかしまさか・・・」 「この私を何時までこんな所で待たせるつもりだ、早く穴牟遅を呼んで来い」 じっと見詰める男に朋之はきつい口調で命令する。 顔には薄笑いを浮かべているが目は笑ってはいなかった。 その身体からは凄まじいばかりの冷気が噴出している。 中年の男はたじろいだが 「主は今留守である。用向きは私が代わって伺おう・・・」 と低い静かな声で言った。 「留守だ・・・?ふざけた事を。この私を謀ると許さぬぞ」 そう言って朋之が一歩踏み出すと男は弾かれたように吹っ飛んで尻餅をついた。 周りのざわめきが大きくなる。 朋之は取り囲んだ男達を尻目にずんずんと進んで行った。 「待て」 若い男が引き戻そうと手を伸ばしたが、朋之に触れることなく倒れこむ。 乙彦は戸惑いながらも朋之に従って小走りに歩を運んだ。 「待てと言うに!」 と野太い声を発して尻餅をついた男が立ち上がりざま手を伸ばす。 突然周囲から風の流れが消え同時にすべての音が消え去った。 「月読・・・!」 そう言ったはずの乙彦の声は音声にはならずただ、口の動きだけでそれと察せられるのみだった。 その無音の空間に無数の黒い影が舞う。 両脇に植えられた植栽の木の葉が細く裂けて舞い散った。 黒い影は朋之と乙彦を襲うがその身体に触れるどころか側に近寄る事も出来なかった。 ―――身の程知らずが、この私と本気で張り合うつもりか・・・ 朋之の手がゆっくりと動き手にした刀の柄へと向う。 ほんの一閃刀から迸った冷たい光りが辺りを昼のように照らし、強烈な空気の波動が一帯を揺るがした。 すべての風景がひどく歪んで見える。 家も庭も周りを取り囲んだ男達の顔も、半月を頂いた夜空さえも――― ワーーーン・・・という耳障りな鈍い音と共に巨大な硝子が粉々に砕け散るような映像と共に周囲は虚無の空間となる。 「あっけないものだな・・・」 その言葉と共にあたりは一瞬のうちに元の田舎びた風景に戻った。 ただ先ほどと違うのは、回りの男達はみな地面に倒れており、激しい雷鳴の中、辺り一面激しい驟雨が降り注いでいる事だった。 朋之と乙彦だけが篠つく雨に濡れる事もなく平然と立っている。 「まあ、俺が使ったのではこんなものか・・・」 朋之はそう言って刀を鞘に納めた。 その途端あれほど激しく降っていた雨は急速に小降りとなり、間も無く上がってしまった。 「月読、てめえ、いきなり攻撃するなよ、こっちにだって準備ってものがあるだろうがっ!」 乙彦に噛み付かれ、朋之は 「ちゃんと結界で守ってやったろうが」 とすまし顔で言うと、うう、と苦しそうな声をあげうずくまる先ほどの男に向って 「どうだ、もう一度この刀の威力を試してみたいか?今度は手加減などせぬぞ」 と口元に笑みを見せながらからかうように訊ねた。 |
2. 「お待ちくださいませ」 不意に背の高い男が姿を現し声をかける。 「物事をわきまえぬ愚か者どもが大変なご無礼を働きましたようで、誠に申し訳御座いません。 ようこそお出でくださりました。主がお待ちかねです、どうぞこちらへ」 男はそう言って先に立って横庭へと向う。 その言葉に静かに頷くと、まだ倒れたまま悔しげなうめき声を上げる周りの連中に一瞥もくれる事無く朋之は案内にしたがって庭へと向った。 乙彦も小走りにその後に従う。 竹垣に囲まれた小径を行くとすぐに開けた庭に出る。 上弦の月光を浴びて満開の花を咲かせた桜の巨木が庭の真ん中に立っていた。 周囲に置かれた篝火が幻想的な雰囲気を醸し出している。 はらはらと舞い落ちる薄紅の花弁の雨の下で、男が一人敷き詰めた毛氈の上に胡坐していた。 和服の着流しがよく似合う頑健そうな感じの美丈夫で、着物の上からでも引き締まった精悍な体躯をしていることが伺える。 年のころは二十代半ばといったところだろうか。 両脇には見目麗しい女性が傅いていて、右側の女性は男の手にした杯に酒を注いでいる。 「ようこそこのようなむさくるしいところへ。天つ神のご降臨に預かるとは恐悦至極に存じます。いかがです、この趣向はお気に召していただけましたか?」 男はどこか不敵な笑みを浮かべて座ったまま此方を見上げながら言った。 「なるほどな、我等がここに来る事はとっくに分かっていたというわけか」 朋之は離れて立ったまま相手を見下ろしながらそう言った。 「いえ、そういうわけでは・・・」 男はそう言って杯を口に運んだ。 「そのようなところにお出でにならずに、いかがです?酒など一献」 「結構だ。私は酒を飲みに来たのではない。国つ神の長、穴牟遅に尋ねたきことがあって参った。そなたが穴牟遅か?」 「御意」 男はそう言うと朋之の顔をじっと見て口元に笑みを浮かべた。 「何だ?」 相手があまり見つめるので朋之は訝しむような目で訊ねる。 「いや、少しばかり驚いたものですから。天つ神の長が、貴方がた風に言えば姫神様と仰るのでしょうが、弟君を直々に遣わされるとは・・・とね」 「無礼な事を申すな。私は姉に遣わされたのではない、自分の意志でここへ来たのだ」 朋之の身体から発散する冷気がますます強まったのを乙彦は肌で感じる。 後ろから遠巻きについてきていた国つ神たちも同様だろう。 弟君、との言葉に男たちは改めて息を呑み朋之の後姿を見つめた。 「これは失言でしたね、平にご容赦を・・・」 そう言って穴牟遅は上目遣いに朋之を見詰め 「月読命様・・・」 と口調を変えて呟くように続けた。 「・・・私の質問に答えよ、我が妻に無礼なマネをしようとした巫女はそなたの手のものであろう。そなたの命によるものか?」 「そうだと言ったらどうなさるのですかな?」 朋之は手にした刀を軽く持ち上げて 「コイツを再び振るうことになるな」 と冷たい微笑を浮かべて言った。 「その刀は天叢雲剣・・・ですか。この私をその剣の錆になさろうというおつもりで?」 穴牟遅は動じる様子も無く酒を口に運びながら言う。 「望みとあらば一族もろともに葬ってくれようか・・・」 朋之の言葉に周囲のざわめきが大きくなったが、穴牟遅は先程案内にたった男に目配せして野次馬どもを退散させると 「なんとも恐ろしい台詞をあっさりと言ってくださる・・・。 たしかにその巫女は我が家に代々仕えている者と思いますが、そのような命令は私は出してはおりません」 と言って穏やかな視線を向けてきた。 「月読・・・」 乙彦が朋之の袖を引張って声を掛ける。 その乙彦に目を留めて穴牟遅は 「その子供は・・・」 と呟いた。 「これは我が弟、須佐だ。この度代替わりしたのでな」 「しかし、この子は・・・。確かに天つ神の血が少しは流れている様ですが・・・」 「質問しているのは私だ。その巫女がそなたの僕であるなら即刻この私に差し出せ。 我等にはむかった報いを受けてもらおうぞ」 あくまで居丈高な朋之に対し、穴牟遅もまた慇懃な態度を崩さないまでも不遜な笑みはその顔から消える事は無かった。 「これは異なことを。あの者に命じたのは貴方様の意を受けた者でしょうに・・・」 「何だと・・・」 穴牟遅はゆっくりと立ち上がると徐に歩を運び朋之のすぐ目の前に立った。 ほんの少しばかり背の高い相手を朋之は今度はやや見上げる感じになる。 「天つ神は傲慢で冷酷、だがこの上なく美しい・・・、貴方はまさにそのとおりのお方ですな。 数ヶ月前になる、貴方の部下だと名乗る天つ神が訪れて、我等に協力を求めてきた。 我等は貴方がた天つ神の僕、否やのあろう筈が無い。私は数人の部下をその天つ神に差し出した。 先程の巫女もその一人。その天つ神が私の部下たちにどのような命を下したか私は知りません」 その言葉が終わると同時に桜の木も毛氈も美しい女達も消え、庭は普通の和風の庭園に変わった。篝火の明かりだけが相変わらず幻想的な雰囲気を醸し出している。 「そなたはその者の言葉を信じたのか」 「疑う理由もありませんでしたから」 月明かりに輝く朋之の瞳を相手は静かに眺める。 「その男も貴方と同じ緑色の目をしていた。貴方の目の方が数倍も綺麗だが・・・」 「月明かりのせいでそう見えるだけだろう。 それよりそなたは何故須佐を、我が弟を訪ねたのだ。こいつではなく先代のほうだが・・・」 穴牟遅は軽く溜め息を吐くと 「念のためその男のいう事が本当か確めたかったので。私が知っている天つ神はあの方しかおりませんからね。 でも無駄足でした、あの方は自分はもう天つ神ではないのだからそのような事は預かり知らぬとけんもほろろに追い返されました」 と言って笑った。 「そうか、分かった。そなたの言う事を一応は信じ、巫女のことは不問にいたそう。 だが、その男は私とは何の関係も無い者。そうと分かったのだから今後はそなたにはこの件から手を引いてもらおう。部下達も即刻引き上げさせろ、よいな」 朋之はそういうと乙彦の肩をポンと叩いた。 「お待ちを。私がその者に従ったのにはもう一つ訳が御座います」 怪訝そうに見詰める朋之に穴牟遅は 「その訳をお聞きになりたいですか?」 と尋ねた。 「そなたの事情に興味はない。用は済んだ、そなたに聞く事はもう何もない」 「そんな風に言われてしまうとぜひとも聞いていただきたくなりますな」 その手が上がると辺りの景色は家も庭も全て忽然と消えうせ、薄闇に閉ざされた。 どこからともなく漏れてくる篝火の明かりの中に、朋之と乙彦、そして穴牟遅の姿だけが浮かび上がる。 「・・・こんなことで我等を閉じ込めたつもりか」 朋之はその瞳に侮蔑の色を露骨に浮かべて穴牟遅を見遣った。 「せっかくこんな田舎においでいただいたのだ、いま少しゆっくりしていっていただきたいと思いましてね」 乙彦はどうしたものかと朋之を見上げる。 この程度の結界を破るのは今の乙彦にとっては造作もないことだが・・・ 「わかった、話を聞いてやろう。手短に言え」 恐らく朋之にとってもこんな結界は問題にならないはずだ、一体何の酔狂だ、と思いながらも乙彦も穴牟遅の話に少しだけ興味を引かれた。 この国つ神の長の真意はどこにあるのか・・・ 何のメリットもなく天つ神においそれと従うわけはない、朋之も同じ事を感じたのだろうと乙彦は思った。 「貴方がたの遠い先祖ははるかな旅を続けてこの地へやって来た。 その時携えてきた三つの宝―――そのうちの二つは既に失われたが唯一残っている最後の宝―――その恩恵に・・・そのおこぼれに我々も是非預かりたいものですからね」 穴牟遅の言葉に朋之はしばし無言でいたが 「その男はその宝のことを持ち出してそなたに協力を仰いだ、というわけか?」 と静かに尋ねた。 「御意」 「それは残念だったな、そんなものはとうに失われている。そなたはガゼネタで踊らされたのだ」 「本当にそうでしょうか・・・?」 「私の言葉を疑うのか?」 「滅相もない、ただ・・・」 「ただ?」 「あの男が天つ神である事は間違いない。そして月読命の従僕であることも」 「何故そう思うのだ?この私がそんな男とは関係ないとはっきり言っているのに」 「初めてここを訪れた時あの男は桜の小枝を携えてきた。その小枝の花は次に男がもう一度訪れるまで丸一週間というもの花弁一枚も散る事はなかった。これを貴方はどう解釈されますか」 「先程お前が我等に見せたのと同じ幻覚ではないのか?」 「幾ら私でも幻覚と現実の区別くらいはつきますよ」 「ならば・・・認めたくはないが、その桜は時を止められていたのだろうな」 「そう、ですから私はその男の言う事を信じたのですよ。その男の後ろにいるのが月読命様であることも、その宝のことも・・・」 朋之はほんの一瞬翳りのある表情を見せたがすぐに無表情に戻った。 「宝など本当にもうないのだ、少なくとも私は知らぬ・・・」 「貴方がそういわれるならそうなのでしょうね」 「どの道そのようなものがあったとしても、そなたたち国つ神に扱える代物ではない。 その男が何と言ったか知らないが、迂闊に関わらぬほうがよいだろう」 「お言葉ですが、私にも庇護しなければならぬ大勢の係累がいる。そう簡単に諦めるわけにはいきませんね・・・」 「あれはそなたが思っているような代物では・・・」 その言葉に穴牟遅はクスクスと笑うと 「あなたは天つ神にしておくには惜しい方だな。やはり最後のお宝はあなた方ががっちりと握っていらっしゃるようだ。 そうとわかれば私も手を引くわけにはいきませんな」 と言った。 「我が意に従わぬというのなら・・・」 憮然とする朋之に穴牟遅は楽しそうな表情を浮かべたまま 「刀の錆にされますかな?」 と尋ねた。 朋之は視線を少しだけ伏せる。 「私がその気になれば得物に頼らずともこの村の一つくらい消し去る事は容易なのだがな」 「だが貴方はそんな事はなさらないでしょう」 「何故そう思うのだ?私は傲慢で冷酷な天つ神だ、そう言ったのはそなたであろうに」 「・・・貴方がそう見えるように振舞われていたので。 だが貴方が本当にそういう方ならそもそもこの子供は須佐之男の位を継承していない。 それに貴方の奥方―――あの方を正式な妻にはなさらないでしょうからね」 朋之はふと苦い微笑を漏らす。 「・・・何でもよく知っているのだな・・・」 「これでもいろいろ情報は仕入れているのですよ、我等としてもこの世界で生き抜いていかねばなりませんからね・・・」 「・・・」 朋之はただ黙って相手を見つめる。 その視線に少し面映さを感じたように穴牟遅は語調を変えると、 「いいでしょう、貴方の言われるとおり部下は引き上げさせましょう。 貴方がた天つ神のお家騒動に関しては私は中立の立場をとらせていただこう。 だが宝については私も権利を主張させていただく。私が中立を保つことで貴方も得るところがあるはずですからね」 と言った。 「その男が何と言ってそなたを丸め込んだかは知らぬが、あれはそなたたちには害にこそなれ益にはならぬと思うがな。 だが、まあ好きにするがいい。ただし今後国つ神が我等の近辺をうろつくようなことがあれば問答無用で斬り捨てる、それをよく覚えておくことだ」 朋之は乙彦に軽く頷いてみせる。 それを合図に乙彦はつむじ風を巻き起こし朋之と共に結界を抜けた。 |
3. 突然巻き起こった強い風に穴牟遅は顔を袖で庇った。 風が止んだときには二人の姿は既にない。 「やれやれ、何とも慌しい珍客でございましたな、 いつの間にか傍らに控えた男が声をかけた。 朋之と乙彦を案内したあの背の高い男だ。 「残してきた奥方のことが気がかりだったのだろう、何と言っても新婚だし」 「あれほどの方にただ一人と一途に想われるとは、なんて幸せな奥方様でしょう」 これまたいつの間にか姿を現した美しい女性が穴牟遅に寄り添いその腕を取った。 「おやおや、これはまた、随分あの天つ神が気に入ったようだな」 穴牟遅はその女性の手に自らの手を重ねる。 「それは貴方様もご同様でしょう?大己貴様が思わず誰かに見蕩れるところなんて初めて拝見しましたわ」 「まさか、天つ神の貴神とはあれほどに気位高いものかと呆れただけだ」 「嘘ばっかり。あの方のすげない対応に本当は少し拗ねていらしたくせに・・・」 「馬鹿を言うな、人を人とも思わぬ物言いに少しばかり閉口しただけさ」 「まあ確かにいくら天つ神とはいえ、まだまだ若輩。しかも半分はただの人間でしょう。少し横柄が過ぎるというものですな。 大己貴様、本当にあの方の言を入れて皆を引き上げさせるおつもりで?」 先程の男が口を添える。 「久延彦よ、お前ならあの方につくのは得策ではないと言うのだろうな」 穴牟遅はそう言って男に立ち上がるよう身振りで示した。 「さあ、それは・・・。あの方には天つ神の長が後ろ盾となっているのでしょうし・・・。 まあ天つ神の内紛は我等にとっては好都合。どう転んでも損にはならないといったところですが」 久延彦は軽く目を伏せながら答えた。 「そうだな・・・」 「大己貴様・・・?」 徐に空を見上げる主を久延彦は怪訝そうに見詰める。 月の光を思わせる冴え冴えと美しく冷たい若い天つ神。 だがあの方が本当に冷たいばかりの人だったなら今頃自分の首は胴と繋がっていないかもしれない 今代の月読様は半分はただ人―――それだけでもかなり分が悪いのだろうが・・・ 空に掛かる上弦の月を見上げ穴牟遅は心の中で呟いた。 それでもあの方に肩入れしたくなるとは私もどうかしているな、と。 封印の破れる音に弾かれたように絵美奈は飛び起きた。 寝ずに待機するつもりが何時の間にかまたうたた寝してしまったらしい。 慌てて上着を羽織り部屋から廊下に飛び出すと伊織も同時に自室から姿を現した。 「巫女姫様、封印が・・・」 「うん、分かってる」 絵美奈は宝鏡を手に伊織と共に七色の空間を潜り抜け封印が破れた場所へと向った。 郊外の住宅地がかなり広範囲にわたり黒い靄に覆われているのを伊織と共に空中から眺めた絵美奈は 「今度はかなり大きく封印が破れたみたいね」 と呟いた。 「ああ、鏡の呪力がかなり弱まっているからね、次の満月まで後一週間、なんとかもってくれるといいんだが・・・」 「今度のは何?」 「いわゆる百鬼夜行というやつさ。実体は無いんだ、見る者の恐怖心に訴えかけて幻影を見せる。 妄蛾と似ているが奴らは人間の生気を吸い取って養分とするからね。この連中に精神を撹乱されたら助かっても生ける屍となってしまう」 「全く、碌なのを生み出さないわね、ヒルコ神って・・・」 「我等への憎しみが凝り固まって形になったものだからね・・・」 須佐之男のところで見たあの清浄な生き物と何故こうも違ってしまったのだろう、と思いながら絵美奈は封印の呪文を唱える。 この異類異形の姿を乙彦はどう見るのだろうか・・・ 黒い影が鏡に吸い込まれていくいつもどおりの展開に絵美奈がホッとした瞬間、強烈な光りが暗闇の中で明滅し絵美奈の持つ宝鏡に反射した。 吸い込まれるはずの黒い影はその光りに弾かれて四散して辺り一体に再び広がっていく。 「何!?どうなってるの・・・?」 絵美奈は伊織に尋ねるが伊織も何が起こったのか分からず呆然としていた。 光の残像の中に黒い人影が浮き出ている。 「あれは、堀内先生?」 絵美奈は伊織に尋ねる。 「のようだな。やはり姿を現したか。そう何時までも隠れているはずが無いと思ったんだ」 「やあ、お姫様と従僕君。今日はご主人様はいらっしゃらないようで残念だね」 「月読様が不在の時を狙っていたんだろうが・・・」 「さあ、どうだろうね。でもいい線かもしれないね。君は中々頭がいいから」 「貴様、何のつもりだ」 「言ったろう、中途半端に手出しされたら迷惑なのだと」 ―――巫女姫様、コイツの相手は僕がする。君はもう一度封印を・・・ ―――うん、分かった 絵美奈が鏡を構えた瞬間足元から火柱が大きく吹き上げる。 その衝撃で絵美奈は危うく鏡を手から滑り落としそうになった。 「巫女姫様、怪我はない?」 「うん、大丈夫、火傷はしなかったみたい・・・」 だが周囲のあちらこちらから上がる火柱に絵美奈と伊織はすっかり取り囲まれた形になった。 「 「まあ、あの方も一族を追われた身だからね、ヒルコ神と大差ないというわけで・・・」 「嫌な野郎だ。迦具土をどうやって手なずけたのだ」 「ふふ、君には教えられないね」 二人を取り囲む火柱はだんだんとその間隔を狭めてくるようだ。 「伊織君・・・」 「野郎、火の神を味方に付けやがった。あいつ自身には目ぼしい攻撃力がないもんだから・・・」 激しく噴き上げる炎に囲まれて、絵美奈は自分はこのまま焼け死ぬのかもしれないと本気で思った。 いやよ、死ぬ時は朋之と一緒でないと――― 絵美奈は朋之を呼ぼうかと思ったが、朋之も敵と渡り合っている事を思い出し、思いとどまった。 伊織は絵美奈を抱き締めて空間を移動したが、すぐまたその移動先で火柱に襲われた。 くそっ、逃げ回っているだけでは手が打てない。 少し離れた高台に移動した伊織は絵美奈に結界を張るように言うと炎を体中から吹き出し続けている迦具土目がけて飛び掛った。 一人になった絵美奈を一際大きな炎が襲った。 その熱気で外気に晒された顔や手の皮膚が熱るが結界のため絵美奈には火は届かない。 だが地上はあちこちで家や樹木が燃え始め、逃げ惑う人々の叫び声が聞こえてくるようになった。 先程封印を逃れた異類異形もどんどん空中に広がっていっているし、絵美奈はパニックに陥りそうな自分を何とか宥めながらどうしたらいいのか咄嗟に判断がつかないでいた。 今この場に朋之がいたら何と言うだろう――― 伊織は迦具土の両腕を掴むと激しい電撃を加えた。 だが相手は軽く怯んだだけで逆に至近距離から火炎攻撃を掛けてきた。 クソッ、と一声飛び退いた伊織は上着のポケットに隠し持った剣の形をしたブローチに手を伸ばす。 「そっ首叩き落してくれる!」 そう叫んだ伊織に迦具土は 「貴様には無理だな」 と言って大きく跳躍して距離を取ると激しい火炎を巻き上げた。 あの野郎、やたらに力が上がってやがる・・・あの力、まさか・・・ そうするうちにも地脈の裂け目から吹き出す異類異形は空一杯に広がり始めた。 伊織君!――― 絵美奈の声が伊織の頭に響く。 「伊織君、私を空高く飛ばせてくれる?火柱が届かないくらいに」 「ああ、分かった」 伊織は一端迦具土の追撃を中止し絵美奈の側に移動すると、その腰に手をあて抱き上げるようにして宙に舞い上がった。 それを追うように火の手が上がるが伊織はそれを避けるように高みを目指して上昇していく。 「これくらいまで上がれば大丈夫だと思うけど、どう?」 「うん、有難う。ちょっと不安定だけどここから封印してみるから私を支えていて」 絵美奈はそういうと手にした鏡を地上へと向けた。 イワマクモアヤニカシコキハラエドオオカミノ、オオミズヲコイノミマツリ、スベテノマガゴトツミケガレヲハライノゾカムト、アマツノリトノフトノリゴトノル・・・ 「この世にあってはならぬ数々の汚れよ、速やかに己が相応しき場所へと退くがよい。 汚れなき神の治めるべき地にお前たちの居場所はない。退かぬというのなら鏡の巫女の命に従い光り輝く至上の神に頭を垂れよ」 鏡から迸る強い光に広がりつつあった黒い影は激しい抵抗を示しながらも吸い込まれていく。 「よせ!」 その声とともに先程と同様に強い光りが放たれたが絵美奈は術返しの技でその光りを弾き返した。 「くそ!」 鏡に吸い込まれていく巨大な影を見遣りながら絵美奈は思う。 この世にあってはならぬ数々の汚れ、と言った自分の言葉――― この世にあってはならぬと決めたのは誰なのだろう・・・ いがみ合う必要などないんだ、元々は同族なのだから、と言った乙彦――― 私たちがやっている事は間違ってはいないよね、朋之・・・ 「取り敢えず封印は完了したけど・・・」 「ああ、あの迦具土を何とかしなくっちゃ。アイツの力は格段に上がっている。あれは恐らく・・・」 見下ろす地上は至る所火に包まれている。 異類異形は封じたが、火災は容赦なく広がっていく。 このまま宙を飛んでいても埒が明かない。 この火を止めるにはどうすればいいか・・・ 火を止めるには水・・・ 絵美奈の脳裏には一人の少女の顔が浮かぶ。 少し気の強そうな清楚な美少女、静謐な渓流に住む水の神、闇御津羽神 お願い、私の声が聞こえたら助けて――― |