神鏡封魔録


封印

  1.

翌日は絵美奈は伊織と共に学校に行った。
朋之は乙彦のためにもう一日休んで家にいることにしたようだ。
「朋之様がこんなに面倒見がいいとは、意外だったよ」
と呟く伊織に絵美奈も
「そうね。日頃の姿からは想像できないものね」
と答える。

「まあ、Boy meets boyで気があってるのかもしれないけどね」
揃って女好きだし―――と伊織はそっと心の中で付け足した。
「Boy meet・・・、って何?」
伊織は呆れ顔で絵美奈を見返すと
「有名な格言でしょ、英語の。類は友を呼ぶ、だっけ。こないだ授業で先生が言ってたじゃない。聞いてなかったの?」
と両手を広げてみせる。

そういわれれば聞いた事あるような気もするが、聞いた瞬間忘れていたな・・・
伊織君、碌に授業なんて聞いてないように見えるのに、もしかしてコイツも学年トップだなんてことないよね・・・
焦り気味の絵美奈を尻目に伊織は、
「全くなんだって人間はこんなに長い間学校なんてものに通わなくちゃならないんだろうな」
とブツブツ呟きながら先に立って歩いていく。

待ってよ、と急ぎ足で後を追いながら絵美奈は、兄弟か・・・と思った。
絵美奈もしばらく会っていない家族がそろそろ恋しくなってきている。
そんなに長く離れているわけでもないのにな・・・
伊織に頼んでちょっとだけ家に寄ってもらおうかとも思うが、京介が何も知らない両親や妹に何かしたら、と考えると恐くなった。
帰ったら朋之にブレスレットを貸してもらって水鏡で様子を見てみよう、絵美奈はそう思った。

帰宅すると朋之の姿は無く、乙彦が一人でテレビゲームをやっていた。
「よう、これ面白いな」
と言って二人を出迎えた乙彦はかなりご機嫌だ。
「こんなのまでつけたんですか?全く・・・。まあお坊ちゃんの玩具にはちょうど、といったことろですね」

チャカす伊織に食って掛かろうとする乙彦に絵美奈は
「朋之は?出かけてるの?」
と尋ねる。
「みたいだな、さっきまではそこで本を読んでたけど」

乙彦が顎をしゃくって指し示した椅子はひんやりとしていて、朋之が出かけたのがかなり前であることを窺わせた。
「そう・・・」
「そんなにがっかりしなくたってすぐに戻ってくるだろ」
「別にがっかりなんてしてないわよ。ただブレスレットを貸してもらおうと思っただけだし」

「ブレスレット?どうしてそんなものを?」
と伊織に尋ねられ絵美奈は、家族の事が気になっているので水鏡を使いたいのだ、と素直に答えた。
「水鏡?そんなら俺が見せてやるよ」
乙彦はゲームを止めて話に加わってきた。
そうか、コイツも水鏡を使えるんだ・・・

「お前の家族を見せればいいのか」
乙彦はそう言って部屋の隅に置かれていた姿見の前に立つとふっと息を吹きかけた。
見る間に鏡の表面に見慣れた家の玄関が映る。
玄関が開いて母と妹が顔を見せた。妹はどこかへ出かけるところらしい。
父はまだ帰宅していないのだろうが、二人の表情から平穏な生活が続いている事は充分窺えた。

「よかった、みんな元気そうで・・・」
絵美奈の言葉に鏡に映った映像はすっと薄れ消えていく。
「他にも何か見たいものがあれば・・・」
との答えに伊織は
「あの京介という天つ神が今どうしているか見れるかな」
と尋ねる。

あのときの目を思い出し絵美奈は背筋に悪寒が走る。
「どうかな、多分結界を張っていると思うから・・・」
案の定鏡には白い靄のようなものしか映らなかった。
「やっぱり駄目か。アイツ、随分酷い怪我をしてると思うから・・・」

「だが、アイツも天つ神だ。もうほとんど回復しているだろうぜ」
乙彦の言葉に絵美奈は
「そうよね」
と言いつつぼんやりと見下ろした傷だらけの京介の姿を思い出す。

その顔色を見て伊織が
「大丈夫、巫女姫様?顔色が悪いけど」
「うん、あの時の先生、なんだか何時もと別人のようで・・・」
絵美奈はそう言って軽く身震いした。

「そうだね・・・」
僕は彼を運命から救ってやりたいと思った―――
京介は確かにそう言った。
そしてそのとき伊織にはその言葉には嘘は無いように感じられたものだが・・・

「確かに僕もそんな気はしたよ。ただそれは・・・」
「それは何?」
「え、あ、いや、何でも・・・」
「伊織君、なにか知ってるの?」
「いや、僕は何も・・・」
「嘘、何か知ってるんでしょう?どうして私には何も教えてくれないの?私にだって関係あることなのに・・・」
「馬鹿が・・・」
乙彦は頭を抱えて溜め息を吐いている。

伊織は仕方なく、朋之から聞いた靖之のことを途中をかなりはしょりながら話してやった。
意外にも絵美奈は結構冷静に話を聞いている。
やがて伊織が話し終わると
「朋之の伯父さんは堀内先生に、ううん、京介さんに何をさせたいのかな・・・」
と絵美奈はポツリと言った。
「さあ、僕にもさっぱり・・・」
そう言って伊織は乙彦を見る。

「俺だって何も知らないぜ。そんな目で見るなよ、何も隠してないって・・・」
「朋之様の話では京介は先代の須佐様を尋ねているのだろう?その時何か聞かなかったのか?」
「だからあの野郎は俺が幻術を見せて追い返したんだ、親父が面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ、と言ったから・・・」

「幻術で?」
「そ、蛇だの蜘蛛だの百足だのを山と降らせてやったらあの岩にたどり着く前に諦めて帰って行ったんだ。最後には誰かさんみたいに泣きそうになってたぜ」
「やめてよ、もう思い出したくないんだから」

「そうだ、そういえば・・・」
「何?」
「いや、今度のこととは全然関係ないかもしれないんだけど、俺京介ってヤツを撃退するために心を読んだんだ。あの時は力はそう強くなかったからな、その時ほんの一瞬だけど女の子の顔が見えた。いままでずっと忘れてたけど、あの顔は・・・」

「女の子?巫女姫様か?」
「いや、全然違うよ。それならすぐに気付くさ。でも・・・。そうだ、アイツを見た時どこかで前に見たような気がしたのはそのせいか・・・」
「何だよ、はっきり言えよ」
「だから、その女の子の顔はアイツそっくりだったんだ」
「え・・・?」
「アイツって・・・」
「だから月読・・・つまり朋之に・・・」

「それ・・・、その子の顔、この鏡に映し出せるか?」
「あ、ああ、やってみるよ」
乙彦はもう一度鏡に息を吹きつけその上に手を翳した。
おぼろげな映像が浮かび上がり次第にはっきりしてくる。
髪の長い中学生くらいの女の子だ。
艶やかな黒髪のストレートヘアを長く伸ばし、綺麗な二重瞼の下の瞳は鮮やかな緑色に輝いている。
紺のセーラー服が色白の肌によく似合っていた。

この娘は・・・、絵美奈は息を呑む。
そっくりだ、初めて会った時の朋之様に―――、伊織もまた目を見張りじっとその映像を見詰め続けた。
どれほどその映像に見入っていたのか、背後で突然ガチャリという音がして三人ははっと我に返った。

「晄琉・・・」
呆然とした面持ちで朋之が立っている。
「ヒカル?」
と呟いた絵美奈の横をすり抜け朋之は乙彦の襟首を掴んで怒鳴りつけた。
「どういうことだ、言えよ、どうしてお前がアイツのこと知ってるんだ!」

その途端鏡の中の少女の姿は消え失せる。
苦しそうにもがく乙彦に代わり、伊織が
「朋之様、落ち着いて下さい。あの京介の心に浮かんだという映像を鏡に映してもらっていただけです・・・」
と取り成す様に言う。
朋之はその言葉に乙彦から手を離した。

乙彦は喉を押さえてゴホゴホとむせている。
「悪かったな、つい・・・」
朋之はそういっただけで踵を返し二階へと上がっていってしまった。
あの子は朋之の妹だ・・・
絵美奈は直感的に悟る。

伊織もまた朋之の心を垣間見てしまった時のことを思い出す。
朋之は父浩之が死んだと思っていた。そして母と妹も恐らくは父親と運命を共にしたものと思っていたようだっだ。
だが、あの少女は・・・
朋之の妹は生きていて、京介はそれを知っている、とすればあの子も危険じゃないか・・・!
「朋之様!」
急いで朋之の後を追う伊織を絵美奈と乙彦は無言で見送った。



  2.

「朋之様!」
そう叫んで伊織は朋之の部屋のドアを乱暴に押し開けた。
朋之は明かりもつけずに暗い部屋の奥手の窓辺に立ってこちらに背を向けたまま
「何の用だ」
と抑揚を抑えた声で言った。

「朋之様、貴方には妹がいますよね、あの娘は昔の貴方にそっくりだ。まるであの頃の貴方が鏡に映っていたように・・・。あの娘は・・・」
「ああ・・・」
朋之はそれだけ言ってしばらく無言で俯いていたがやがて
「アイツ・・・、生きていたんだな・・・」
と一言だけ呟いた。

「朋之様・・・、泣いているんですか!?」
「うるさい、俺の顔を見るな・・・」
朋之は乱暴に袖で目を拭うと
「ずっと水鏡に映らなかったからな、もう生きていないのだろうと思っていた。けど・・・父が守っていたんだな、アイツのこともずっと・・・。誰にも見付からないように」
と言った。

「朋之様、でも・・・」
「ああ、どうにかして京介は、いや靖之はアイツの存在を知ったんだ。何時から知っていたのかは分からないが・・・」
恐らく乙彦に聞いても分からないだろうが・・・

「朋之様、京介の本当の目的が巫女姫様だったとは僕には思えないんです。巫女姫様が目的ならもっと前にいくらでも手を打てたはずだ。何も知らずに塾に通っていた時、命を奪う事だって・・・」
朋之は険しい目付きで伊織を見る。

「アイツは前にも貴方と接触したがった、貴方の力を借りたいとか言って・・・。今でもアイツの目的はあくまでも貴方だと僕は思います」
「ああ、そうだろうな・・・」
「巫女姫様の事は貴方に揺さぶりをかけるために過ぎないとすれば・・・。今度のことで巫女姫様には迂闊に手出しできないことが分かったはずだ。あの方の力もこのところ格段に強くなってますからね。だったら」

「分かってる、妹も・・・晄琉も危険だというのだろう」
「分かっているなら悠長に構えてる暇は・・・」
詰め寄る伊織に朋之は珍しく躊躇うような表情を見せる。
「朋之様、どうなさったのです、もし手遅れになったら・・・」
「ああ・・・、そうだが・・・」

伊織は軽く眉を顰めながら怪訝そうに朋之を見詰める。
「でも、あの娘は何も知らないんだ、多分俺の存在すら。だったら、今のところ無事でいるなら不用意に近寄らない方が・・・」
「朋之様・・・」
朋之は自分の問題に巻き込みたくないのだ、何も知らない妹を―――

「でも、靖之様はそんなに甘い方ではないでしょう。姫神様の弟で同等の力を持ちながら亡くなったものとして月読の座を貴方に取って代わられた、その理由を僕などは知る由もありませんが」
朋之は暗い目で伊織を睨み付けた。

「俺だってそんな理由は知らないさ、あの伯父がずっと月読でいれば姉上は俺になど用は無かったはずなんだ・・・」
そのときドアがノックされ、部屋の電気がついたので朋之も伊織も思わず目を細めた。
そういえばドアは開けっぱなしになっていたんだっけ・・・

「ごめん、驚かせて。でも飯塚さんが食事の支度が出来たからって・・・」
入り口に絵美奈が立っておずおずと声をかけた。
「ああ、今行くから先に行っててくれ」
朋之に言われ絵美奈は躊躇いながらも早く来てね、と言って姿を消す。

「朋之様、このまま放っておいていいとは思えない。僕に様子を見に行かせて下さい。 貴方の妹はあまり強い力を持っていないと京介は言っていた、だから、僕の存在を気取られないようにしますから」
「伊織・・・」
「貴方のことも決して知られないように充分気をつけるし、だから・・・」

「お前の言う方が正しいことは分かってるんだが・・・、でも、妹は・・・晄琉は自分が普通の人間だと思っているんだと思う、だからずっとそう思ったままでいさせてやりたい」
「分かってます!」
そう言うなり伊織の姿は消える。

俄かに階下が騒がしくなり再び静かになった。
乙彦からもっと詳しい情報を聞き出して伊織は出かけてしまったのだろう。
危険な事は確かなのだろうが・・・。伊織がこんなにせっかちだとは思わなかったな―――
軽い溜め息をついた後、朋之も静かに階下へと向った。

乙彦にもう一度晄琉を水鏡で見せてもらい、今居る大体の場所を割り出してもらってから伊織はその周辺へと飛んだ。
学校はとうに引けた時間だが目指す相手はまだ通っている中学校の校内にいた。
図書室で本を読んでいるようだ。

気配を消しながらすぐ側の木の上から覗き込むと、朋之によく似た少女は窓のすぐ近くで書棚に背を持たせて何かの本をパラパラと捲っていた。
兄同様かなり背が高い。
巫女姫様と同じ位か、もしかしてこの娘のほうが高いかもしれない・・・
その姿を垣間見ていると伊織は奇妙な感覚に捕らわれる。
何時の間にか時が逆戻りして、あの日あの時に引き戻されたような・・・

自分に気付いた少女は徐に振り向いて言う、お前は誰だ―――
だが実際には相手は伊織には少しも気付いた気配は無く、しばらくそうしていた後本を書棚に戻してふらふらと別な書棚へと移動してしまった。
馬鹿だな、僕は・・・。そんなことがあるはずが無いのに・・・
自分は未だにあのときの思い出に囚われているのか、と思うと苦笑が湧いてきた。

やがて図書室が閉まる時間になり晄琉はけだるそうに鞄を抱え校舎を後にする。
そのまま帰宅するのかと思ったがその足は住宅街ではなく繁華街へと向った。
小一時間ゲームセンターをウロウロしておざなりにいくつかゲームをした後、晄琉はなおもしばらく商店街を歩き回り、九時近くになってやっと家へと向った。
その様子を伊織は少し訝しく思う。
この娘は家に帰りたくないのだろうか・・・・

晄琉が辿る道はだんだん狭く薄暗くなる。
伊織は気配を消しているので誰にも気取られること無くその後を付いて歩いた。
毎日こんな道を歩いているなら、それだけで危険だな、そう思ったとき後方から走ってきた車が伊織を追い越し晄琉のすぐ脇で止まる。
窓から顔を覗かせた男が晄琉の腕を掴んで何事か話しかけた。

晄琉が嫌がる様子を見せ、車から数人の男が降りる。
男達が晄琉を無理矢理車に乗せようとするのを見て、伊織はこれはまずいと思った。
京介や靖之とは関係ないようだが放っておくわけにもいかなそうだ。
伊織は晄琉の身体に手を掛けている男の肩を後ろから叩くと振り向いた相手に見事な一本背負いを食らわせた。
この程度の相手に力を使うまでもない、伊織はもう一人の男もあっという間に投げ倒した。

「何だ、てめえ・・・」
薄暗い街灯が運転席から降りてきた男の手の中にキラリと金属の光りを反射させる。
晄琉はそれを見て鋭い悲鳴を上げて伊織の背にしがみついた。
結界で晄琉を庇いながら伊織は相手を充分ひきつけてからヒョイと身をかわし相手の腕を握ると逆手に締め上げた。

男の腕からナイフが零れ落ちる。
倒れていた男の一人が起き上がろうとするところへ、腕を締め上げられて苦悶の声を上げる男を投げつけた。
もう一人が背後から掴みかかろうとするのを、これまた身をかわし様軽く足払いを食らわせると路上に落ちたナイフを拾い上げた。

わざと街頭の光りで刃先を光らせてみせる。
ついでに少しだけ恐怖感を植えつけた。
―――逆恨みしてこの娘に仕返しでも、なんて考えられたら困るからね・・・
男達は恐怖の念をあからさまに浮かべて捨て台詞を残すと慌てて車に乗り込み逃げ去ってしまった。

「大丈夫?」
伊織が尋ねると晄琉は
「全く、余計なお世話よ。助けてくれなくても平気だったのに」
と嘯いてみせる。

さっきは震えていたくせに素直じゃないな、と思いながらも伊織は
「こんな時間に一人歩きなんて危ないな、家まで送っていくよ」
と言った。
晄琉は伊織をじっと見てから
「貴方こそ送り狼じゃないでしょうね」
と胡散臭そうに言う。

「随分背負ってるんだな、子供の癖に」
伊織がそう言って笑うと晄琉は少しむっとしたように
「子供扱いしないで!もう中学生なんだから」
と答えた。

「君は中学の一年生?」
腕からぶら下がる鞄を持ってやりながら伊織は尋ねる。
「二年生よ!私、早生まれなの!」
「そうなの?」
「そ、三月生まれ。たいていクラスで一番最後に誕生日を迎えるわ」
「ふうん・・・」

やっぱりよく似ているな、と思う。容姿だけではなくこの澄んだ声も少し権高い話し方も・・・
伊織が黙っていると晄琉は
「ねえ、貴方は高校生?その制服、どこの高校?この辺で詰襟だと本郷高校あたり?」
と訊いてきた。

そういえば慌てて出てきたから制服のままだったな、と思いながら
「僕は部活の大会でこっちに来ただけだから・・・」
と適当に答えた。
「え、じゃあホテルか旅館に泊まってるの?」
「まあね」

晄琉はじっと伊織を見詰めて
「私をそこへ連れて行ってくれない?」
と少し躊躇いながら言った。
あまりにも意外なその言葉に伊織は絶句する。
「何言ってんの君・・・、僕は」

「迷惑・・・かな、やっぱり・・・」
そう言って照れたように笑う相手がどこか寂しそうなのに気付いて伊織は
「そんな事は無いけど、こんなに遅くなってお家の人が心配してるだろう」
と言った。
さっきからおかしいと思ってたけど、この娘、どうやら家に帰りたくないようだ―――

「うん、そうなんだけどね」
「君の家、まだ遠いの?」
そう尋ねる伊織に晄琉は
「怒らないでね、もう通り過ぎちゃった」
と言って舌を出して笑った。

「・・・家に帰りたくないの・・・?」
伊織は思い切ってその疑問を口にしてみる。
「そうじゃないんだけど・・・」
「お母さん、すごく心配してるんじゃない?僕の家なんか・・・」
あれこれ口うるさくてかなわない―――そう言おうとして伊織は相手の表情にはっとした。

「私、お母さんいないから・・・」
伊織が何と言っていいか分からず黙っていると晄琉は続けて
「ついでに言うとお父さんもいないの。今は伯父さん、お母さんのお兄さんの家に置いてもらってるんだ」
と言って寂しそうに笑った。

「ごめん、会ったばかりの人に変なことばかり言っちゃって・・・。でも貴方とてもいい人みたいだし、なんだか初めて会ったような気がしなくて・・・」
さっきから同じところをぐるぐる回りながら話をしていることに伊織も気付き、
「どこかでゆっくり話そうか」
と言って繁華街へと戻った。



  3.

地方のことで店は大体が閉まりかけている。
少しいかがわしい感じの喫茶店で伊織は晄琉の話を聞いてやることにした。
相手の様子に何となく放っておけないものを感じたからだった。

「父は私がまだ幼い頃に亡くなって、でもとてもよく覚えている。すごく優しい人だった。いつも笑っていて・・・。
母は私を連れて伯父さんの家に厄介になったんだけど、その後数年でやはり病気で逝ってしまって私は伯父さんの養女になったの。伯父さんには子供がいないから・・・」

「あまり、よくしてもらってないの?」
伊織は躊躇いがちに聞いてみる。
「そんなことないよ!ホントの子供みたいに可愛がってもらってるよ、でも・・・」
伊織は風味の飛んだコーヒーを口に運びながら相手を見詰めた。

「伯父さんと伯母さんの話を聞いちゃったんだ。伯父さんが私を引き取ったのは子供が出来ない伯母さんへのあてつけだろうって、伯母さん泣いてた。二人とも私がそんなこと聞いてたなんて夢にも思ってないと思うけど、私・・・」
俯いた少女の目から一粒涙が零れた。
「ここにいちゃいけないのかな、と思った・・・」

伊織には何と言っていいか分からない。この話を聞いたら、この涙を見たら朋之はどう思うだろう・・・
既にこうしてこの娘と接触していること自体、朋之に言った言葉を違えてしまっているのだが・・・

「伯父さんも伯母さんも私の前ではそんなこと絶対言わない。いろいろ気を使ってくれるし、心配もしてくれるし・・・、でも本当のお父さんとお母さんじゃないもの・・・」
この娘は寂しいんだ、と思う。本当の家族はもうこの世にいないと思って、自分の居場所がないことを悲しんでいる。
この娘にお兄さんがいることを教えてあげたらどれほど喜ぶだろう、けど・・・

悪いと思ったが伊織は晄琉の記憶を読んでみた。
いまのところ自分以外の天つ神が接触した形跡はないことに取り敢えずほっとしたが、それだけに安易に朋之のことを教える事は返ってこの娘にとってはよくないかもしれない。
兄の存在を知ればこの娘はきっと朋之に会いたがるだろう。
今朋之と接触すればこの娘も京介や靖之の標的になってしまう。
何も知らない無防備な少女をそんな立場に追い込む事はできない・・・

伊織に胸のうちを吐き出して少しすっきりしたのか、晄琉は涙を拭うとエヘッと笑って家へ帰ると言い出した。
「いつまでも帰らないわけはいかないものね」
伊織はもう一度晄琉を家まで送る事にする。

「私の予感、凄くよく当たるんだ。今日は素敵なことに出会える、朝からずっとそんな気がしてたの。なのにあんなことがあってがっかりしてたんだけど、でもやっぱり予感は当たったな」
晄琉はそう言って伊織に笑顔を見せた。
大人ぶってはいてもまだまだ子供なんだな、と伊織は思う。

晄琉の家は先ほどの車での事件があった場所から十分ほどのところだった。
不穏な気配も感じられないので伊織は一旦戻る事に決めたが、晄琉が別れがたそうにしているのを見て、
「そうだ、ちょっと待ってて」
と言って首から提げていたペンダントを外して相手の手に握らせた。

「これ、なあに?」
そう言って複雑な突起の付いた円形のペンダントトップを晄琉は不思議そうに見詰める。
「そう、またいいことあるように、僕からのプレゼント」
「でも・・・」

「気にしなくていいよ、僕には何もできないけど、君がいつも笑顔でいられるように僕も願ってるから。だからこんなに遅くまで一人でふらふらしてちゃ駄目だ。さっきみたいなことがまたあるといけないからね」
晄琉は躊躇いながらも有難う、と言って頷く。
「伯父さんも伯母さんもきっととても心配している、早く安心させてやりなよ」
伊織にそう言われ晄琉は家に入ろうとして慌てて引き返してきた。

「私、貴方の名前も知らないわ」
「僕は・・・たまたま知り合っただけの高校生、それで充分さ」
伊織はそう言って立ち去るフリをする。
晄琉は伊織の姿が見えなくなるまで見送ってからやっと家に入った。
晄琉が伯父と伯母から帰りが遅い事を注意されている様子を少しだけ伺ってから、家の周りに結界を張ると伊織は朋之に報告するため家へ戻った。

伊織は朋之に晄琉と接触した事は伏せて、彼女の現状と今のところ靖之の手が及んでいないことを話した。
両親が亡くなっていたことは朋之はやはりショックだったようだが、妹が伯父夫婦の下であまり幸せでは無さそうな様子を聞いたときはただ一言、そうか、と言っただけだった。

伊織はその反応に物足りないものを感じたが、朋之もまたそう恵まれた家庭環境にあるわけではないことに思い至り、何も言う事は出来なかった。
金銭的に不自由はなくともここに引き取ったところでどれほどのことをしてやれるか、かえって危険に巻き込むくらいなら今のまま平穏に暮らさせてやったほうがいいと朋之は思ったに違いなかった。
それでも・・・

部屋に戻り鏡に映る自分の姿をぼんやりと眺めながら伊織は晄琉のことを思う。
あの娘には笑顔でいて欲しい。
伊織は晄琉の笑顔と泣き顔の両方を思い浮かべる。
華やかで強気な笑顔の方が彼女には絶対に似合っている。
何年経っても色褪せる事無く思い起こせる、薄暗い部屋の中でも光り輝いているように見えた朋之の笑顔、その兄の様子をそのままに写したような鮮やかな笑顔が―――

あの娘が側にいてずっと笑っていてくれたら、
この僕にだけとびきりの笑顔を見せてくれるのなら・・・
鏡に映った自分の顔に手をあて伊織は溜め息をつく。
こんなことを考えてはいけない。
あの娘はあのときの少女じゃない、だからこんな風に思ってはいけないんだ・・・
もしあの娘が朋之様の妹じゃなかったら、朋之様と少しも似たところの無い女の子だったら、こんな気持ちにはならないのだろうから

僕は彼を泥沼のような運命から解放してやりたいんだ―――
京介の声がふと脳裏に甦る。
運命か・・・
今更になって時を戻したようにあのときの少女そのままの相手と出会うなんて
運命とはなんと皮肉なものなのだろうと伊織は思った。

封印の破れ方は益々ひどくなってきて絵美奈は毎晩文字通り鏡を持って駆け回らざるを得なくなっていた。
それでも伊織と乙彦がいてくれるので封印は以前よりもずっと楽になっている。
その夜はあの洞窟で見た光る鳥が一面の上空を覆った。
青白い輝きが現実を忘れさせ夢幻の境地へと人間を誘う、これもまた人間の精神を狂わせ破滅に向わせる生き物だった。

ヒルコ神とその子供達と言うのは人間の神経を冒すものらしい。
憎悪や恐怖をエネルギーとして力を増すというのはいつかの廃屋で見た悪霊と相通ずるところがあるかもしれない。
絵美奈はそんなことを思いながら鏡を構える。
絵美奈が封印するところを見ても乙彦は何も言わない。
それが絵美奈には少し不思議で少し物足りなく感じられた。

翌日、朋之は乙彦を小学校に連れていった。
桜英学園の初等部なので、朋之の通う高等部とは同じ敷地の反対側に位置している学校らしい。
乙彦はへっ、ばかばかしい、と初めは乗り気でなかったが、学校から戻った時はなかなかの上機嫌だった。
担任の先生が若くて美人だったらしいですよ、と伊織に耳打ちされて絵美奈は溜め息を吐く。

「あの子明日から一人で学校へ行かせるの?」
との絵美奈の問いに朋之は
「まあしばらくは俺が連れて行くつもりだ。一人で置いておいて下手に暴走されても困るからな」
と笑って答える。

「いいな、朋之と一緒に学校へ通えるなんて・・・」
少し拗ねてみせる絵美奈に朋之は呆れたように
「仕方ないだろう、あそこは男子校だからな。お前を連れてはいけないさ」
と言う。

「朋之が私の学校に通ってくれるといいのにな・・・」
朋之なら詰襟も似合いそうだ。
「無茶言うなよ、そんなことしたら北条の爺からすぐに姉上にご注進が行ってしまう。俺だってできれば伊織に任せたりせずに自分の手でお前を守ってやりたいと思っているんだぜ」
「それは分かってるけど・・・」

朋之は優しい口付けをくれると
「もう少しだけ待っていてくれ、地脈の封印が一段落ついたらお前を姉上と引き合わせる。そうしたら俺たちは本当の夫婦になれる。お前の両親にも話してきちんと式を挙げよう」
と甘く囁いた。
「朋之・・・」
うっとりと夢見心地の絵美奈をかき擁きながら朋之は運命になど負けない、と強く自分に言い聞かせていた。

学校とはなんと退屈そうな場所だろう、と初めて校舎の前に立った乙彦は思った。
子供として生きる事を自ら選んだとはいえ、後何年もこんな退屈なところに通うなんて気が狂いそうになる。
いっそ月読に頼んで自分の時を少しだけ進めてもらおうか―――などと考えた乙彦だが、目の前に現れた若く美しい女性がにっこりと微笑みかけてくれた瞬間、そんな思いはどこかに吹き飛んでいた。

こんな美人が世話を焼いたり頭を撫でてくれたりするのなら、子供でいるのも悪くは無い、乙彦はすっかりご機嫌になった。
登校時朋之に何かにつけて子ども扱いされるのは少々癪に障るが、美人の笑顔は何物にも勝る滋養強壮剤だ。
周りの生徒が男ばかりなのがイマイチ気に入らないがそれには目をつぶる事にした。
クラスの連中を一時間で完全制覇してしまった乙彦はすっかり大将気取りで小学校生活を満喫し始めたのだった。

朋之からはしばらくの間慣れるまでは自分の授業が引けるまで校内で待っていて一緒に帰宅するように言われたが、初日は我慢したが毎日こんな退屈なところで野郎なんか待ってられるかよ、と言い返すと相手は、では好きにしろ、と一言言い置いて去ってしまった。
言われるるまでも無く好きにさせてもらうさ、と乙彦は爽やかな風の吹きぬける午後の町を闊歩する。
その目の縁に一瞬、見覚えのある姿が過ぎった。

あれは確か・・・
乙彦は急いでその後を追った。
相手は乙彦を誘うように次第に人気の無い路地へと入っていく。
人通りのほとんど無い住宅街を通り抜け、やがて袋小路の突き当たりに出てその人物は徐に振り向いた。

「やっとお会いできたようですね、須佐殿」
銀縁眼鏡の奥の緑の瞳が薄闇にキラリと光りを放つ。
「ふん、自分から誘い込んでおいてその言い草はないだろうが。また蛇を山と降らせてやろうか?」

「この街中でですか?」
「どこだろうと俺には関係ないさ。それより本題は?俺に何の用だ」
乙彦はきっと相手を見据える。
「話には聞いていましたが須佐殿は随分と直情径行な方だ」

「はっきり言えよ、単純だと言いたいんだろう。かまわんぜ、俺は白黒はっきりしないものは大嫌いだ。回りくどいハカリゴトもな」
京介はふっと微笑を浮かべて乙彦と真っ直ぐに向き合った。

「貴方は本当ならこの国の王となられるべきお方、なのにあの月読のもとで居候暮らしとはお気の毒な事だ」
「だからどうした、俺を馬鹿にしてるのか?」
ランドセルを背負った小学生が大人相手にふんぞり返っている図はハタから見ればかなり異様だろう。
だが今はその光景を目にする者はいない。
乙彦は半身を引いて身構え、相手を威嚇した。



  4.

「やれやれ、貴方はどうしてそう喧嘩腰なんでしょうね。僕は残念に思っているだけですよ、あなたの素晴らしい力を無駄に埋もれさせてしまうのがね」
「・・・」
「どうです、僕と手を組みませんか。そうすればこの世を貴方のものとすることなど簡単だ」
京介はそう言って手を差し出した。

その手を軽く叩きながら須佐は睨み上げる。
「くだらんな。お前の信奉している靖之はそれこそこの世を自分のものにしたいと思ってるんじゃないのか?」
京介は声を立てて笑うと、
「僕等の本当の目的は別にある。正直言ってこんなちっぽけな星などどうでもいい、貴方のお好きなようにしたらよろしいでしょう」
と両手を広げて見せた。

乙彦はしばらく無言でいたが
「穴牟遅にもそう言ってたきつけたわけか」
とポツリと言った。
「穴牟遅?ああ、あの世捨て人ですか。この世の事には興味なさそうな顔をして山っ気は充分でしたね。まあ思ったほど使えなかったが、朋之様を撹乱するには役に立ったといえるでしょうな。
おかげでこちらの準備が整うまで靖之様の存在を嗅ぎ付けられずに済んだのですからね」

「靖之という奴を俺は知らないがその目論見は概ね分かった。だが、お前の真意はどこにある?靖之につくお前の真の目的は?アイツと同じではないだろう?」
「・・・貴方には関係ないことだ・・・」
乙彦は値踏みするような目付きで京介を見上げながら呟いた。
「お前の望みは叶う事は無い、アイツはお前のものにはならないぜ・・・」

その言葉に京介は悲しそうな笑みを見せた。
「そんな事は分かっていますよ、今更貴方に言われなくてもね。それでも・・・」
京介は軽く左胸を抑える。
「僕は僕の信じたままに進むだけだ」

乙彦は哀れむような視線を向けると
「初めから答えは分かっているのだろう。俺はお前たちにはつかない。親父は今の月読を真の月読と認めた。力だけなら朋之に勝ち目はないだろう、けどアイツはそれだけじゃない何かを持っている、親父はそう思ったんだ。そして俺もな」
とはっきりと告げた。

「まあ、確かに聞くまでもないことでしたね。お時間をとらせて申し訳ありませんでしたね、須佐殿」
そう言って踵を返す京介に乙彦は急いで呼びかける。
「待てよ!お前は上手く利用されてるだけなんだぜ・・・」

京介は少しだけ振り向くと
「後戻りはできないんですよ。僕にはこんなやり方しかできないんです。あの方を運命の呪縛から解き放つためにはね・・・」
と言い置いて立ち去った。
心臓に随分ダメージを受けているな、と乙彦はその後姿を見送りながら思う。
今の自分ならこの場でアイツを倒す事もできる。だが・・・

乙彦には京介の真意が今ひとつ掴みきれないでいる。
恐らく京介は朋之を解放するために靖之の力を利用するつもりだ。
だが靖之と言うのは一筋縄で行く相手ではなさそうだ。
逆に京介の方が危ないかもしれない。
京介もそれは薄々感じているようだが、それでもアイツに付こうとするのは何故なのだろう・・・
自分の知らない何かがまだありそうだ、と乙彦は思った。

乙彦は遅れて帰宅した朋之に京介と会ったことを伝える。
「アイツ、利用するつもりがされてるぜ」
伊織と絵美奈はまだ帰宅していない。そのため遠慮なく話ができた。

「・・・だろうな・・・」
「アイツはお前を運命の呪縛から解くためにやっていると言ったぜ・・・?」
「俺のため?まさか。そんなのお為ごかしに決まってるだろうが。そんな言葉を信じるなんてお前もどうかしているな。
一緒に暮らしていたときは俺のことなどほとんど関心を示さなかったというのに、今更になってそんなことを考えてくれるなんてお笑いだぜ」

乙彦は呆れ顔で朋之を見詰める。
コイツ、どこまで鈍いんだ。あの京介は伊織と同じ・・・、だから自ら里を去ったんじゃないか。決して遂げられる事の無い想いを胸に抱いて―――
「どうしたんだ、変な顔して?」
心から不思議がっている朋之に乙彦は返す言葉が見付からず、深い溜め息を付いた。

封印を繰り返しながら迎えた満月の日―――日曜にあたるその前日の土曜日の夜、朋之は一同を応接間に集め明晩の段取りを打ち合わせた。
「この地の地脈を一息に封じる。そのために地脈の結界を一時的に破る」
朋之の言葉に絵美奈は息を呑む。
「でも、そんなことをしたら・・・」

「封じられた異類異形は一気に噴出してくるな。ついでにお前が前に使っていた鏡、あれも叩き割って封じた者達を一旦解放する」
「そんな、それじゃこの世界はどうなるの・・・?」
妄蛾一匹で都会は大混乱だった。それが大群で吹き出したらとても収拾がつかなくなる。
それこそこの地は地獄絵巻さながらの図を展開することになってしまうだろう。

驚く絵美奈に朋之は
「だからその間は時封じの術を使う。この地全体の時を止めその間に封印してしまうんだ」
「でも・・・」
「ああ、この術は長くは使えない、止めるのはほんの一瞬だ。それでもコレだけ広大な範囲に術をかけるとなると相当な力が必要だ。多分俺は力を使い果たしてしばらくは身動きも出来ないだろう、そんな時ちょっかいを出す奴がいたら最悪だ」

「分かってる、そのために俺たちがいるんだろ、なあ」
そう言って乙彦は伊織に同意を求める。
「そうですね、ただ月読様が無防備になった瞬間は相手も狙い目、どんな手で来るか分からないだけに心配はありますが・・・」

「そう思って闇御津羽にも声をかけた。いざと言うときは助力を頼むと」
「それなら最初から一緒にいてくれるとありがたいのに・・・」
「仕方ない、アイツもわが一族であってそうでないような者、断られたところで文句は言えないからな・・・」

朋之はそう言うと不安そうな絵美奈に向って
「要するにこの計画の出来不出来はヒトエに巫女姫様の封印の手際に掛かってる、と言うことだな」
とからかうような笑顔を見せる。
「え〜、責任が重大過ぎて自信ないな・・・」
「お前なら大丈夫だ、絶対うまくいくさ」

朋之はそう言って綺麗な笑顔を見せるが、この人は相手のためには上手に嘘をつく人だと知ってしまった絵美奈はやはり不安を拭いきれない。
それでも絵美奈も朋之に心配をかけたくなくてそれに乗った振りをした。
務めて明るい顔をして大きく頷く。
どれほど上手に演技できたか、あまり自信はなかったが・・・

朋之の計画を聞いて伊織もまたかなり不安を感じた。
朋之が絵美奈に付き添っているせいか、ここの所ずっと封印の場に京介が現れる事はなかった。
乙彦が京介と会った事は絵美奈は勿論伊織にも知らされていない。
伊織としては、京介の動きが無い事が返って不気味に思えてならなかった。

あの時の怪我がよほど酷いのかとも思うが、京介には靖之がついているのだ、動きが無いのが怪我の所為とは思えなかった。
迦具土には須佐が対応するとして、力を使い果たした朋之がどの程度の速さで回復できるか、朋之といえど未だかつてそんな事は経験が無いはず、自分は朋之と絵美奈、二人を同時に守りきれるだろうか?
本当なら姫神様に話して応援を頼むべきだろうに、朋之はなぜそうしないのか・・・

伊織は腕に巻いたチェーンに服の上から触れてみた。
晄琉に渡したペンダント、あのペンダントトップは雷輪環という警報器だった。
持主に危機が迫った時一時的に結界を張ると同時にこのチェーンに反応が現れる。
今の所なんの変化も見られないことから、彼女の身辺にも怪しい気配は無い様だったが、それもまた伊織には不穏に感じられた。

朋之の妹、それはある意味絵美奈以上に朋之に影響を与えられる人物かもしれない。
その所在を掴んでいながら京介や靖之が何の手も打たずにいるとは思えない。
もしかして自分達が気付かぬところで何らかの動きがあるのかも・・・

晄琉に会いたい、物陰からそっと無事な姿を確認するだけでいい、と思う反面、同時にもう会ってはいけない、できることならこのまま二度と会う事無く時が過ぎて欲しいとも感じている。
あの娘の涙と笑顔をもう一度見たらきっと、あの娘の為ならどんな事でもしてやりたくなってしまいそうだ。
例えそれが朋之の意に反することでも・・・

応接間から今は朋之と絵美奈の部屋に移されている封印の鏡は、千々にひび割れかなり悲惨な状態だ。
それに呼応するかのように地脈が波打ち大地が悲鳴を上げているのが絵美奈には感じられるようになっていた。
地上での生を夢見る多種多様の生き物がこの厚い大地の殻を破ってあふれ出そうと蠢き犇きあっている。

この同じ感覚を朋之も伊織もそして乙彦も感じているに違いない。
絵美奈は時折意見を求めるように乙彦を見遣るが、乙彦は少しも気付いてくれる様子が無い。
いがみ合う必要なんてないんだ、とあの時は確かにそう言っていたのに・・・

それでも、この一月ばかりの狂想曲がとりあえず今日で一段落だ、そう思うと絵美奈は感慨深いものがありそっと溜め息を付いた。
朋之と初めてであったのがこの前の満月の夜。
たった一月で自分の運命はなんと変わってしまったことか。

この封印が無事終われば朋之は自分と正式に結婚できる、そう言ってくれた。
朋之は目算のないことを不用意に口にするような性格ではない。
いつか朋之は特別な方法で伯母さんと、姫神様と連絡を取れるのだと言っていた。
自分が知らないところで朋之は伯母と話をつけたのかもしれない。

その結果どういう事になったのか、朋之が語ってくれない限り絵美奈には知る由も無い。
ただ今は朋之の言葉を信じたかった。
朋之の言葉だけを信じていたいと絵美奈は思った。

それに、封印が無事終わったとしても京介と朋之の伯父、靖之のことがきちんと決着を見るまでは安心は出来ない。
靖之の真の狙いが何なのか、未だに分からないから朋之としても手の打ちようもないのだろう。
強い力を持つ朋之の伯父、彼の望みは一体何―――?

「心配なのか?」
と聞かれ
「そりゃあね・・・」
と軽く答える。
二人きりになるとやはり本音が零れた。

背後からそっと抱き締める朋之の腕に身体を沈めながら絵美奈は尋ねる。
「朋之の伯父さんは本当は何が目的なんだろう・・・。朋之は本当は分かっているんじゃないの?」
「伯父の事・・・知ってたのか?」

少し怒気を含んだその口調に絵美奈は慌てて向き直り
「朋之の様子が変だったから、私が無理に聞きだしたんだ、だから・・・」
と言った。
伊織も乙彦も靖之のことに関しては朋之から固く口止めされていたことを思い出したのだ。

「仕方ないな、お前にもいつかは話さなくてはと思ってはいたんだが・・・」
「朋之・・・」
「何だかんだ言って伯父の狙いはこの俺だ。この間お前を襲ったのは警告だろう。まあ上手くお前の身柄を手に入れられれば、それを餌に俺を言いなりにできるとでも踏んだんだろうが・・・」
朋之は絵美奈の身体を強く抱き締める。
「巫女姫様は思った以上に手強かった、ということだな」
「私は何も・・・」

「お前は自分の力で京介と靖之を撥ねつけたんだ。気をしっかり持って力をコントロールすることに集中すれば、きっと上手くいく。お前にはその力がある、自分を信じろよ」
「あの時、京介さんの手から逃れられたのは本当に自分の力なのかな、誰かが手助けしてくれたような気がするけど」
絵美奈の言葉に朋之も少し驚いた顔をした。

「あの場にいたのは伊織と闇御津羽だろう?あの二人のどちらかが、ということか?」
「ううん、多分違うと思う。闇御津羽は離れていたし、伊織君は私を支えてくれたけど・・・」
「確かに、あの二人に他者の力を引き出すことはできないだろうが・・・」

あのときの感覚は初めて封印した時朋之が自分の力を引き出してくれた時とよく似ていたように思えた。
「まあ、急に力を制御できたので、そんな風に感じたんじゃないのか?」
「そうかな?」

「お前はギリギリまで追い込まれないと本当の力を出せないタイプなのかもしれないな」
「え〜、そんな・・・」
「ホントに厄介なお姫様だ」
その言葉と共に落ちてくる口付けを受け止めて
「でも伯父さんの目的は?朋之をどうしたいの?」
と絵美奈はなおも朋之に問うた。

「多分、俺が持っていて伯父にはない力が欲しいのだろうな、だから・・・」
「だから?」
「俺にもよく分からないよ。けど、お前だけはどんな事があっても守るから」
そう言って硬く抱き締められながらも絵美奈は心の隅で思う。
いつも私には本当の事は教えてもらえない、それは私を心配させたくないからだと分かってはいても少し寂しい。私は貴方とどんな事でも分かち合いたいのに―――
朋之の腕に抱かれながら絵美奈は明日など来なければいいのに、と思う自分を止められなかった。



  5.

煌々と冴え渡る満月の元、小高い丘陵の上に絵美奈は朋之、伊織そして乙彦と共に立つ。
乙彦の手には古い封印の鏡が握られている。
朋之が軽く頷くと乙彦は手にした鏡を地面に叩きつけた。
既に千々にひび割れていた鏡だが鏡面が粉々に砕け散ると同時に広大な台地のあちこちに切れ目ができ黒い霧が勢いよく噴出してきた。

解放された地脈から負のエネルギーがあふれ出し大地が身をよじるようにのたうっているのが感じられる。
大地の波動に体中がビリビリと震えるような気がした。
その裂け目に伊織が絵美奈から預かったコンパクトを投げ込む。
コンパクトは大地の裂け目に触れた瞬間完全に砕け散り、一瞬の光彩を放った後霧に飲み込まれた。

脈動する大地の上で営まれる人間の生活にも容赦なく破綻の波が押し寄せる。
それを見て絵美奈は「朋之!」と鋭く叫んだ。
「ああ、分かってる」
朋之は小声で呟きながら手を複雑に組み合わせる。
あたり一面の全てが動きを止め、静寂のうちに包まれた。

絵美奈には月の光がより一層冴え冴えと輝いているように見えた。
朋之は組んだ手を解くとそっと絵美奈の腕に触れる。
―――朋之・・・?
―――俺の力では足りないからな、月の力を解放した
―――月の・・・力・・・?

―――そうだ、凄い力を感じるだろう?
―――うん、強すぎてからだが吹き飛びそう
―――今のお前なら大丈夫だ、それより封印の呪文を、早く!
―――分かった

絵美奈は穢れを封じる呪文を唱え始めた。
大地全体を覆った黒い霧が見る間に絵美奈の手にした宝鏡に吸い込まれて行く。
身体ごと吹き飛ばされそうな衝撃が絵美奈を襲う。
それを身体ごと朋之が支えた。

体中に流れ込む朋之の力を感じながら絵美奈は繰り返し呪文を唱え続ける。
今は疑問を持ってはいけない。封印を無事終わらせることだけを考えなければ・・・
最後の霧が筋になって吸い込まれるのを見て朋之は絵美奈から離れもう一度手を組んだ。

同時に空気の流れと人の世の喧騒が戻ってくる。
絵美奈はずっしりと重みを増した鏡を抱えたまま朋之に駆け寄った。
鏡の鏡面は真黒く輝きを失っていたが絵美奈にはそれに気付く余裕はなかった。
「朋之!」
朋之はがっくりと膝を突くと前のめりに倒れこむ。
その身体を支えるように絵美奈は手を伸ばした。

「俺は大丈夫だ。それより地脈は開いたままだ。これを浄化してしまわなければ・・・」
朋之の言葉に乙彦が答える。
「ああ、そっちは俺に任せておけ」
絵美奈が驚いて振り向くと乙彦は軽く目を瞑って両手を前に突き出し、そのまま頭の上に上げるとゆっくりと両脇に下ろした。

地面から青白い光りが一瞬高く迸りすぐに消えて行く。
絵美奈はその様子を言葉もなく見詰めていた。
「朋之様」
伊織が朋之の腕を取り立ち上がらせようとする。
「何とか邪魔が入らずに終わったようだな・・・」
朋之がそう言ったとき伊織の左腕が痙攣したように小刻みに震えた。

「まずい、雷輪環が反応している!」
伊織の言葉に朋之は目を見張る。
「どうした?まさか・・・」
「すみません、朋之様、僕は貴方の妹に雷輪環を渡しました。万一の時の護身用にと。いままで反応する事はなかったのですが・・・」

「くそっ、連中やはり晄琉に・・・」
朋之は伊織の腕を掴んで立ち上がったがすぐにふらりとバランスを崩し、支えようとした絵美奈もろともに尻餅をついた。
「朋之様!」

「俺のことよりアイツを・・・、妹を伯父の手に渡すわけにはいかないんだ、早く行け!」
いつになく切迫した様子の朋之に押され伊織は一瞬にして空間を移動し、激しく反応する雷輪環のすぐ側へと姿を現した。
そこが閉じられた異空間である事を瞬時に伊織は悟る。
その只中に見覚えのある後姿が見えた。

「迦具土、その娘を放せ!」
迦具土に首を絞められた晄琉は小さく助けて、と呟きを漏らした。
「ふん、遅かったな建御雷。この女は俺のものだ。月読は女は自分のものにする代わりに妹は俺にくれてやると言ったんだからな」
「ふざけるな、それは月読様じゃない!あの人がそんなこと言うはずない!」
伊織はそう言うと振り向いた迦具土に電撃を食らわせた。

ちっ、と舌打ちして迦具土は晄琉を放し飛びのいた。
「嘘じゃないさ、あれは確かに月読だ。時を遡りこの俺の封じられた力を取り戻してくれた、そんなことができるのは月読しかいないさ」
「ちがう!本当の月読様は朋之様だ!お前が信じているのは偽者だ」
そう言って伊織は晄琉に駆け寄る。
晄琉は膝を着いたまま激しく咳き込んだが、伊織を見上げて力なく呟いた。

「貴方、この間の・・・」
伊織は晄琉を立たせると背に庇いながら迦具土と向き合った。
「偽者だ?お前から見れば確かにそうかもしれん。
だがどっちだって一緒だろう、あいつらはいずれ同じになるんだからな!」
迦具土はそう叫ぶと腕から火炎を迸らせた。

「何?それはどういうことだ」
「どうだって、お前にはもう関係ないだろう。お前はここで死ぬんだ。安心しろ、お前のプレートは俺が貰ってやるよ」
迦具土の身体は炎に包まれる。
「面倒だ、女もろとも葬り去ってくれるわ!そんな女これからいくらでも自由にできるんだからな」

「ふざけるな!」
迦具土は自分に彼に対抗する力がないと多寡を括っている。ならば―――
伊織は胸に手を当てて小声で何事か呟いた。
その手から白銀の光りが迸る。
「遅いわ!」
伊織の身体は迦具土の放った炎に包まれ火達磨になった。
「いやああああ―――っ!」
その姿を見て晄琉は大きく悲鳴を上げるとその場にへたり込んだ。

伊織が瞬時にして姿を消した途端、朋之はがっくりと脱力してその場に座り込んでしまった。
慌ててその背を支える絵美奈の腕にぐったりと上体を預ける。
体中の力が抜けてしまったようだ。
「朋之、しっかりして!」
心配そうに覗き込む絵美奈に朋之は軽く目を閉じて
「大丈夫だ、少し休めば・・・すぐに元に戻る・・・」
と呟いた。

浄化を終え結界を張りなおした乙彦がすぐ側に戻ってきた。
「乙彦君」
「心配するな、お前の望みは分かってるさ」
乙彦はそう言って不敵な笑みを見せる。
「それより、コイツを早く連れて帰るか。こんなトコを襲われたら・・・」
「どうだというのかな?」
乙彦の言葉を遮って低い美声が響き渡った。

この声は・・・
聞き覚えのある声に絵美奈は体中に緊張を漲らせた。
「やっぱり現れやがったか・・・」
乙彦は剣を手に忽然と目の前に現れた相手に向かい合った。
「先生・・・」
絵美奈の呟きに朋之が薄っすらと目を開いた。

「ふっ、須佐か・・・、この俺への協力は断ったくせに」
京介は軽く首をかしげて笑って見せた。
「貴様が靖之か。とうとうそいつの身体を乗っ取ったというわけか」
乙彦はいつもとは違う野太い声でそう答えた。

「力も記憶も奪われ野良犬のような日々を送っているところを拾ってやったというのに、肝心なところで思い通りに動かぬ。だから少しばかり眠ってもらったのさ、この俺が自由に動き回るためにな」
京介はそういうとカッと目を見開いた。
瞬間強い光がフラッシュの様に光り乙彦は刀ごと吹き飛んでいた。

すぐに、くそっ、と呟きながら身を起こした乙彦を見て絵美奈はほっとする。
それにしても・・・
京介の口から紡がれる言葉を耳に、絵美奈は考えていた。
この声は先生の声ではない、でもどこかで聞いた声だ。
低音のよくとおる澄んだ声・・・

京介はゆらゆらと身体を揺らすようにして少しずつ近付いて来る。
そのどこかぎこちない妙にギクシャクした動きに絵美奈は言葉では表せない恐怖感を感じ、朋之を腕に抱いたまま後ろへ身体をずらせた。

「久しぶりだな、朋之。いや、お前のほうは俺に会うのは初めてか・・・」
朋之はいまだ絵美奈の腕に凭れたまま相手をきつく睨みつけた。
すぐに駆け戻った乙彦が刀を抜きながら絵美奈と朋之の傍らに立った。

雲ひとつなかった空に急速に厚い雲が広がり、煌々と冴え渡っていた月の姿が隠された。
その様子を少し顔をあお向けて眺めると、京介の姿を借りた靖之はゆっくりと視線を戻す。
今や絵美奈と朋之のすぐ目の前に立った靖之はこの上なく愉しそうな笑みを浮かべて二人を見下ろしていた。

「ふん、須佐よ、今の貴様の力などこの俺には問題ではないのが分からぬのか?いくらプレートを受け継いでもそれを入れる器に天つ神の血がほとんど流れていないのではな」
「だからなんだ、俺たちはこの地に根を下ろしてこの地の生き物と共に生きる事を選んだ、力と恐怖で押さえつけようとしたお前たちとは違う道を選んだのだ。
俺はそのことを誇りに思っている。 天つ神の血がほとんど流れていない、とは俺にとっては褒め言葉だぜ!」

「減らず口をたたくヤツだ。まあいいさ、この俺に付かなかったことを死ぬほど後悔するがいい」
そう言って靖之はゆっくりと腕を上げた。
その動きを絵美奈の目は呆然と追う。
そうだ、この声は・・・朋之の思い出に残るお父さんと同じ声―――
絵美奈は目を見張って靖之を見上げた。

その視線に気付いたのか、靖之は朋之から絵美奈へと視線を移した。
「封印の鏡の巫女―――か、なるほどな」
その瞳にちらつく男の欲望の色に絵美奈は激しく身震いした。
それを感じたのか絵美奈の腕を掴む朋之の手に少しだけ力が篭った。

「ふん、封印も無事終わったようだし、結局は俺の計画通りに終わったな」
靖之の鋭い視線に射抜かれ絵美奈は体中が竦んでしまう。
「貴方の計画って・・・?」
「知りたいか?それはな・・・」
靖之がほんの少し目を細めた瞬間、
「やめろ!そいつには手出しするな!」
と叫んで須佐が抜刀した天叢雲剣で靖之に斬りかかった。

激しい雷鳴と風雨が一気に靖之の周囲を取り囲む。
雲間から一筋漏れた月の光が刀の線を暗闇に鮮やかに浮き上がらせる。
美しい流線型を描く銀色の残像に視線が釘付けになり、瞬間時が止まったように感じられた。

激しい雨の中、靖之は、いや京介の身体は左肩から右腹にかけてざっくりと斬りつけられ鮮血を滴らせている。
だがその顔には相変わらず皮肉な笑みが浮かんだままだ。
「くそっ、攻撃してもダメージを受けるのは京介と言う奴の身体だけ、というわけか・・・」

「ふん、こいつはもう用済みだからな、殺してくれてもかまわんぜ。どの道生きた身体は扱いにくくて仕方ないからな」
「何てこと・・・!」
絵美奈が激しい嫌悪感を含んで小さく呟いた。

「この男だって自分の目的のために俺の力を利用しようとしたんだ。文句を言える筋合いではない。少しばかり俺の力を見くびっていたのが命取りだっただけだ」
絵美奈には京介の背に張り付いている黒い影が見えるような気がした。
そしてその影から逃れようとしている京介の魂が―――
「先生の目的・・・?」

氷の様に冷たい靖之の視線に絵美奈は言い知れぬ恐怖感に襲われ、力いっぱい朋之を抱き締めた。
少しずつだが朋之の力が戻ってきつつあるのが感じられる。
―――朋之、しっかりして
―――ああ、大分回復してきた。悪いがもうすこしだけ時間を稼いでくれ・・・
―――うん、でも・・・

「どうした須佐、それで終わりか?そちらから仕掛けてこないのならこちらから行くぞ」
靖之の周りを取り巻いていた激しい風と雨が渦を巻きながら一気に移動して乙彦を襲った。
あっと言う間に巨大な竜巻が立ち上り乙彦の身体を巻き込んで宙へと昇っていく。

「乙彦君!」
悲鳴に近い絵美奈の呼びかけは 強力な風の壁に阻まれて乙彦には届かなかったろう。
かなりの上空まで吹き上げられた乙彦の身体は一気に地面へと叩きつけられた。

体中に無数の切り傷をつけた乙彦は口から血を流して倒れている。
そのすぐ傍らに共に投げ出された抜き身の剣が突き刺さっていた。
空を覆っていた雲は瞬時に晴れ、美しい満月が再びその姿を夜空に現した。

「貴様、よくも・・・」
絵美奈の腕の中で朋之がおもむろに上体を起こしかけた。
靖之はその様子を横目で眺めながら軽く手を振る。
次の瞬間、絵美奈と朋之は大きく弾き飛ばされ、バラバラに地面に叩きつけられていた。

朋之と離れたくない・・・!
そう思い急いで身を起こした絵美奈の前に黒い影が躍る。
「いや・・・」
と言う間も無く絵美奈は未だ血を流し続ける京介の姿を借りた靖之の腕に捉えられていた。