![]() どこまでも冴え渡る冷たい月光がまるで別次元の異世界にでも迷い込んでしまったような錯覚を与える中、絵美奈は体中を真っ赤に染めた京介の身体に憑依した靖之の腕に固く捕らえられていた。 「こうしてみるとなかなか美しいな。お前はたった今からこの俺のものだ。その封印の鏡ごとな・・・」 「いや、離して!」 逃れようともがく絵美奈だが、相手の瞳をまともに見た途端、金縛りにあったように身体の自由を失ってしまった。 ―――朋之、助けて、身体が動かない・・・! 「よせ、ソイツに触るな!」 よろよろと立ち上がった朋之が眦を決して睨みつける。 靖之は絵美奈を地面に横たえると、 「ここでお前の愛しい男がどうなるか、ゆっくりと見ているがいい」 と耳を舐めるようにして囁いた。 顔を背けたいが身体が硬直してしまっていてどうにも動かせない。 目を瞑ることさえできなかった。 「その状態で立ち上がれるとは大した精神力だと褒めてやるぜ、朋之」 靖之は少し斜にかまえてニヤニヤと笑いながら言う。 その身体はぐらぐらと揺れ動いているが、不思議と倒れることなくバランスを保っていた。 「だが、残念ながら今のお前は自由に動き回る事は出来まい。分不相応な力を使うからその反動がきたのさ。自分でも分かっていたろうに、そんなにこの娘が大事か」 揶揄するようなその言葉に朋之は口惜しげに唇を噛んだ。 「封印に失敗すればはね返りも大きい。恐らくこの娘一人の力では持たない。何がなんでも封印を成し遂げさせるためにお前は自分に使える最大の術を使わずにはいられなかった・・・か。小娘の力を承知の上で大博打に出るとは無茶な奴だが・・・、やっぱりお前は俺が思ったとおりの奴だったな」 そう言って靖之はさも愉しそうに高笑いした。 「まあ、だが俺が唯一コピーすることのできなかった力を目の前で見れて嬉しかったぞ」 朋之は言葉も無くただ伯父を睨み付ける。 「ふふ、その力が間も無く俺のものになるのだからな・・・」 「させるか!」 と言う声と共に銀色の光が一閃する。 傷だらけの乙彦が渾身の力を振り絞って手にした刀を振り下ろしたのだった。 避けもせずにその攻撃を受けた靖之は 「いくら攻撃しても無駄だという事がまだ分からんのか、愚かなヤツだ。」 と言うと乙彦の肩を軽く突いた。 乙彦は数メートルにわたり吹き飛ばされ今度こそ意識を失った。 「京介が死んだところで俺にとっては何の問題もないんだ。 今や体中を真赤に染めた京介がぎこちない動きを繰り返しながらゆっくりと近付いてくる。 くそっ、もう少し回復の時間が欲しかったが・・・ 朋之は心中舌打ちしながら努めて平静な様子を装った。 「ふっ、随分と成長したもんだ、前に見たときは本当のガキだったのにな。本当に俺の思った通りの男になってくれて嬉しいぜ」 京介の口を借りてつむがれる揶揄を含んだ言葉、その声が父とそっくりなものであることに朋之は言い知れぬ遣り切れなさを感じる。 ―――朋之、朋之様、どうかお幸せに・・・ 信じたくは無いが、これが血を分けた実の伯父、父の兄なのだ。 そして今、コイツの狙いはこの自分・・・ 「ふふふ、娶ったばかりの妻の事が心配でならないか?安心しろ、お前を最愛の妻から引き離したりはしないさ、俺は姉ほど野暮じゃないからな・・・」 朋之は睨みつけながらゆっくりと口を開く。 「どういう意味だ」 とにかく少しでも時間を稼ぎたかった。 「あの姉貴がお前たちの結婚など認めると本気で思ってた訳じゃないよな。いくらお前だってそこまでおめでたくはないだろう。 だがまあ、あんな女でもたった一人の姉だからな、俺の口からはこれ以上は喋らないでおいてやるよ」 「あんたは・・・、姉上、いや、姫神様に月読の座を追われたのか?それほどの力を持っていながらなぜ・・・?」 ギクシャクと手足を動かしながら京介の身体に宿った靖之がゆっくりと近付いてくる。 「追われる?この俺が?まさか!」 顔には皮肉な笑みを浮かべているがその目は冷徹に冷めたままだ。 「確かにプレートは姉貴に奪われてしまったがな、月読の座なんてのは自分からかなぐり捨ててやったのさ。あんまり馬鹿馬鹿しくなったんでな」 怪訝な顔を見せる朋之に靖之はなおも少しずつ歩み寄ってくる。 その様子をただじっと見ているしかない絵美奈は心の中で懸命に朋之に呼びかけてみたが返事はなかった。 朋之は靖之に神経を集中しているのだろう。 他に気を回すことが出来ないほどに靖之の力は強大なのだ・・・ 「ようやく長年の望みが適う。俺の真の目的を読み違えた事がお前の敗因だ。今のお前に俺に抗う力はない、頼みの須佐はあの通りだし、建御雷も当分戻っては来れまい。残念だったな」 すぐ目の前に相手の顔が迫り朋之は僅かに後退った。 一瞬の躊躇を見逃さず、京介の口から黒いものが飛び出し、朋之の顔面を多い尽くした。 何とか手で引き剥がそうともがきながらも朋之は地面に倒れこむ。 ―――無駄だ、どの道お前は俺には適わぬ。大人しく従ったほうが得策だぞ 朋之の頭の中にそんな声がビンビンと響いてきた。 ―――よせ、やめろ、何をする気だ・・・ 靖之が自分を操るだけのつもりでないことに気付き朋之はそう尋ねた。 「ふん、分からないかな。まあいい、お前には知る権利があるわな、これから自分がどうなるのか・・・」 朋之の脳裏にはある風景が浮かぶ。 どうやら宮の内殿のようだ。 夜なのかあたりは真暗で数本の蝋燭の炎から放たれる柔らかな光だけが光源だった。 内殿の奥向きに置かれた水鏡、清浄な水を湛えた背の高い壷が見える。 そしてその壷の縁にしがみつくようにして乗っている黒い小さな塊が――― 塊は水鏡の縁をあちこちと瞬時に移動して動いている。 やがて水面を覗くのに飽きたのか塊は壷から飛び降り、床の上に降りた。 その時ようやく朋之はそれが人間の男であることに気付いた。 男は床の上に座っているのか、壷の半分くらいの高さにしかならない。 その姿のまま男は身体を揺すりながら少しずつ移動しはじめた。 朋之には初めなぜ男がそんな動きをするのかよく分からなかった。 なぜ立ち上がって歩かないのだろうか・・・ まさか・・・ 伯母の姿がフラッシュの様に脳裏を走りぬけた。 この男も・・・ そう思った瞬間、バランスを崩して床に倒れこんだ男は蠢くように身体を揺すって這いずろうとしている。 すぐにどこからか巫女姿の女性が現れ、男を抱き取った。 朋之はやっと理解した。 男は手と足が不自由なのだ――― 女の腕に抱かれた男の顔が細い光源に照らし出された時、朋之は激しい衝撃を受けた。 その顔は、思い出に残る父と瓜二つだった。 さらに言えば、成長し大人になった今の自分とも・・・ 「よく見ておけよ、これからお前はこうやって長い人生を渡っていかねばならないのだからな」 ―――どういう事だ、お前は・・・ ―――大丈夫だよ、落ち着いて! 頭の中に伊織の声が響いて晄琉は驚いて目の前の炎に包まれた姿を見上げた。 此方に背を向けているのでよく分からないが、その身体から強い光が放たれているように見える。 その光りが広がって行くにつれ、炎は消えていった。 伊織の手には不思議な形をした刀が握られている。 「貴様・・・!」 迦具土の顔に驚愕と恐れが広がった。 「プレートを刀に変えやがったか・・・」 「霊験七支の太刀だ。大人しく刀の錆となれ、迦具土・・・」 伊織の声はこれまでの若々しい少年のものから重みのある太い声に変わっている。 一振りで伊織は迦具土の身体をなぎ払った。 「くそ・・・。所詮は偽りの力か・・・だがそう簡単にはくたばらんぞ」 そんな言葉とともに迦具土は伊織の手首を握り強い炎でその手を焼いた。 「無駄だ、お前では私には勝てない・・・」 伊織の喉からは野太い声が迸る。 左手で逆に相手の腕を掴んだ伊織はその腕を簡単にねじ上げた。 迦具土はそれでも伊織の手首を掴んだままその手を焼ききろうとするかのように強い炎を吹き付ける。 伊織は少しも意に介せず相手の腕を自分の手からあっさりと引き剥がすとそのまま放り投げた。 「ぎゃっ」と言う悲鳴とともに迦具土の身体は宙に舞う。 伊織の刀が一閃して迦具土の身体は地面に叩きつけられたまま動かなくなった。 迦具土の体中から噴出していた炎も見る間に消えていく。 伊織が刀を胸に押し当てると刀はそのまま伊織の身体に飲み込まれ跡形もなく消えてしまった。 「・・・この人・・・死んだの・・・?」 腰を落としたまま晄琉が恐る恐る尋ねる。 「いや、まだ息はある、けど・・・」 伊織はぐったりと倒れた迦具土を半ば放心したまま見下ろしていた。 「止めを・・・刺せ、早く・・・」 俯いて倒れたまま掠れた声で途切れ途切れに迦具土が呟く。 どの道このままでは助かるまい、そうは思っても伊織は迦具土の命を奪うことに躊躇いがあった。 朋之の安全を脅かす恐れのあるものを生かしておくわけにはいかない、敵は躊躇なく抹殺するのが一族の掟―――たとえ相手が同族であっても・・・ いままでの伊織であれば相手に促されるまでも無く止めを刺していたことだろう。 だが、今の伊織には無抵抗の相手に攻撃を加えることはできなかった。 刃が迦具土に触れた瞬間流れ込んできた彼の思い―――天つ神への激しい憎しみの影に潜むその悲しみが伊織に彼の命を奪うことを躊躇わせた。 僕は戦死としては失格だ・・・ コイツは靖之様の力を借りて回復しまた絵美奈や晄琉を襲うかもしれないのに――― 伊織の頭に絵美奈の顔が瞬間的に浮かんで消える。 この僕としたことが、知らない間に随分と毒されていたらしい、 人間に・・・ だが不思議とそれが不快なものには感じられない。 伊織は朋之が絵美奈に惹かれたわけがようやく本当に分かったような気がした。 姫神様の力を以ってしても封じ込め切れなかった朋之の人間としての部分――― それが無意識に絵美奈を求めたのだろう。 信じられないくらいピュアな優しさと包容力にあふれたあの無垢な少女を・・・ 「大丈夫、貴方火傷が酷いわ・・・」 そう言われて初めて伊織は自分が体中火傷だらけである事に気付いた。 「ああ、僕は大丈夫だよ、こんなのすぐに直る。それより君の方こそ」 迦具土の結界は破れ、伊織は晄琉と共に夜の草原に立っていた。 辺りには篠つく雨が降っている。 「雨?さっきまで雲ひとつなかったのに・・・」 晄琉が空を見上げた時雨粒とともに一筋の光りが落ちてきた。 「闇御津羽、君が降らせたのか・・・」 いつのまにか青白く輝く光に包まれた少女が迦具土を見下ろしていた。 「愚かな奴だな、どうせ利用されるだけなのに・・・」 「君、一体どうして・・・」 「月読様が、お前一人では手に余るだろうと・・・、だが今度ばかりは私の出る幕はなかったようだな。お前にしてはよくやったぞ、建御雷」 「でも、コイツはまだ・・・」 「ああ、分かってる」 闇御津羽は迦具土の背に手を置いた。 水流の幕が迦具土を包む。 「コイツは私が葬る。こんな奴でも我が一族の端くれだからな。止めを刺したのは私だ。お前は気に病むな」 闇御津羽はそういうと珍しく口元に微笑を浮かべ、迦具土を包んだ水流の球体とともに天に舞い上がり消えていった。 闇御津羽に心中を見透かされたな、と思う。 きっと彼女にとって僕はいつまでも未熟な半端者なんだろうな―――と。 このままではまだ当分彼女に頭が上がるまい。 だが今は彼女の心遣いがありがたかった。 そしてその彼女を差し向けてくれた朋之も・・・ そうだ、急いで朋之様のところに引き返さなくては、そう気付いた伊織は自分を呆然と見ている晄琉に気付いてこの娘の記憶を消さなくては、と慌てて近寄った。 だが、晄琉の反応は伊織よりも素早かった。 「貴方は・・・誰?どうして私を助けてくれたの?貴方は私の事はじめから知ってた、なのにどうして知らない振りしたの・・・?」 「それは・・・」 「月読って誰?それに朋之って・・・」 晄琉はじっと伊織の顔を見詰める。 ああ、この娘は何て朋之様に似ているんだろう、そう思った瞬間伊織は目の前の少女を抱き締めていた。 |
![]() 朋之の頭の中に容赦なく伯父靖之の思考が流れ込んでくる。 「俺は昼の世界のことは預かり知らぬ。ずっとああやって暗闇の中で生きてきた。だがある日、魔がさしたというのか、たまたま姉の不在の時にその水鏡を垣間見てしまった。 そこには浩之が映っていた。俺と同じ顔をしたアイツは美しい妻と可愛い子供たちに囲まれていとも幸せそうに笑っていた。 お前は知らぬかも知れぬが、俺と浩之は双子なのさ。 だが俺は物心ついたことからずっと月読として闇の世界で生きることを強要された。 外の世界に触れることも許されずにな。 なぜだ、ほんの少し何かが違っていれば俺がアイツだったかもしれないのに、なぜアイツはあんなにも楽しそうに光の中で笑っていてこの俺は暗闇の中で惨めな人生を送らねばならない? だから俺は決めたのだ、この俺がアイツになってやるのだと。そしてアイツはこの俺の代わりに一生を闇の中で過ごすのだ、とな。 力は俺の方が数段強かったからな。 俺は姉に知られずにアイツを見つけ出して魂写しの秘術を施して入れ替わってやるつもりだった。 そのほうがただ殺すよりずっと面白いと思ってな。 だから里を捨てたのだ。 俺の世話係だった巫女を上手く操って結界の隙を突いて里を抜け出した。 その気になりゃあんな結果なんざ穴だらけだからな。 だが姉は一枚上手だった。 この俺を見つけ出して力ずくでプレートを奪い取りやがった。 あの女はずっと浩之に月読を継がせたがっていたからな。 だがそんな事は俺も予想がついていたからな、お前が思っているとおり事前にレプリカを作らせておいたのだ、あの伊斯許理度売命にな。 野郎、初めは渋っていたが銀晶石を見せたら急に目の色変えやがって、完璧とは行かないがそれ相応のものを作ってくれたぜ。 なにせお前の使える術は大抵は使えるのだからな・・・ 姉は俺から取り上げたプレートを持って浩之を訪ねたが人間の女に夢中のアイツは歯牙にもかけなかった、いい気味だぜ。 けどあの女もやっぱりしたたかだよな、浩之よりも格好の適任者を見つけたというわけさ。 お前を手放した後浩之は次第に身体も力も弱まっていった。 だが俺はしばらくは様子見を決め込むしかなかった。 あまりすぐに手を出すと姉に感づかれるからな。 姉が新しい月読にすっかり満足して浩之の事を忘れるまでほとぼりを冷ましたというわけだ。 待つのはじれったかったが楽しみでもあった。 もうじき俺には自分の思い通り動かせる身体が手に入るんだからな。 待ちに待ったあの夏の満月の夜――― 姉はこの季節岩屋に籠もるため何があっても手出しできないことを見越した上で俺は念願の計画を実行に移した。 上手くいくはずだったんだよな。 俺は浩之になってそして今度は浩之が俺の人生を生る―――そうなるはずだった。 だが俺もやはり頭に血が上っていたのだよな。肝心なことを忘れていた。 俺と反対にアイツは内臓がボロボロだったんだ。 アイツの身体は魂写しの秘術に耐えられなかった。 俺は生まれて初めて泣きたくなったぜ。 やっと思い通りに動かせる身体を手に入れられたというのに、手に入れたとたんその身体は生きる事を止めてしまったのだからな。 死人の身体はどれほど秘術を尽くしてもいずれは腐って土に帰ってしまう。 それではこれまで手を付くし待ち続けた甲斐がないというものではないか――― だが、絶望の中でのた打ち回るうちにふと思い出したんだ。アイツと一緒に水鏡に映っていた子供・・・ そうだ、もう一人いるじゃないか、俺たちと同じ顔をした格好の奴がさ。 しかも心身ともに健康と来ている。その分力は弱いが秘術を施すにはそのほうが好都合だ。 だから俺はずっと待ってたんだ、再び絶好の機会が訪れるのを。 その日のためにあの京介を仲間に引き入れた。 国つ神どもとも渡りをつけた上で時期を待った。 封印の鏡の効力が切れ、天つ神どもがのこのこと出てくるのをな。 お前がこの世界にいることは分かっていた。 封印に異常があれば、退屈な日常の繰り返しに飽き飽きしているお前は必ず見に来るはずだ、そう踏んだのが見事に当たったよな。 封印の邪魔をわざとさせたのは、そのほうが危機感を煽らせたお前は早くカタをつけようと思い切った行動に出るだろうと踏んだからだ。 お前は性格は浩之よりこの俺に似ている、そう分かっていたからな。 さあ、これだけ聞かせてやればもう充分だろう? その身体をこの俺に差し出せ!お前などが使うよりもよほど有効に利用してやる。 お前の妻もこれ以上ないってほど幸せにしてやるから、安心するがいいさ。 そしてお前はこの先の長い人生を地の底を這いずって生きるんだ。あのヒルコどもと一緒にな」 ―――お前の目的は俺の身体を乗っ取ることだったのか・・・ 「お前の身体と本物のプレートさ、月の力を解放し自らの力とするあの術だけはレプリカのプレートでは実現できないからな。あの伊斯許理度売命でもコピーできなかったその術を俺のものにしてあの姉に一泡吹かせてやるのが一番の目的だ。他にも思うところはあるがお前などに語って聞かせても詮無いこと」 靖之は朋之の口から体内に入り込もうとする。 「長かった屈辱と煩悶の時もこれで終わりだ・・・」 不気味なうす笑いを漏らしながら靖之は魂写しの秘術をかけ始める。 「残念ながらお前にこの秘術は使えぬだろう、お前は半分はただの人間、全く浩之も物好きだよな、あんな何の力も無い女のどこがよかったのか」 脳味噌を鷲掴みされたような嫌悪感に朋之は渾身の力で相手をはね付けようともがく。 ―――止めて!!朋之から離れてよ!伊織君、早く戻ってきて・・・ 朋之の魂が悲鳴を上げているのが絵美奈にもビシビシと感じられる。 自由の利かない身体に歯噛みしながら絵美奈は必死に伊織に呼びかけていた。 だが伊織はかなり遠い場所に行ってしまっているのか絵美奈の声は届かないようだ。 ―――いくら抵抗してもお前に勝ち目はない、大人しくこの身体を明け渡せ。そうすれば楽になれるぞ・・・ そんな言葉が脳内を走り回り体中の感覚を麻痺させる。 それでも朋之は口から入り込もうとする異物と必死で戦っていた。 ここで力尽きてしまえば自分は全てを失ってしまう。 そんな事は絶対に嫌だ――― ――――朋之! ここで初めて絵美奈の声が朋之に届いた。 絵美奈・・・、そうだアイツを一人にするわけには・・・ 朋之は残されたありったけの力で異物を押し返した。 思いがけないその力の強さに靖之も一瞬たじろいだようだ。 ―――驚いたな、まだこんな力が残っていたとは。だがこれで最後だ 一度は完全に押し出された黒い塊がもう一度の口の中にズルリと入り込もうとしているのを感じ朋之は体中をこわばらせた。 伊織に抱き締められた晄琉は少したじろいだようだが、逆らわず相手の胸に顔を埋める。 すぐに我に返った伊織は慌てて晄琉の身体を離した。 この娘はずっと追い求めていたあの時の少女ではない、だからこんな風に触れてはいけないんだ・・・ 「ごめん、僕は・・・」 「ううん」 晄琉はそれだけ言うと逆に伊織にしがみついてきた。 「もう少しだけ、こうしていて。もうずっと誰かに抱き締めてもらうことなんてなかったから・・・」 少女の身体から漂う甘い香りに伊織は少しばかり照れくささを感じつつ、そっと相手の背に手を回した。 伊織の腕で幸せそうに微笑みながら少女は呟く。 「私にはお兄さんがいるのね・・・」 「君・・・」 驚いて反射的に離れようとする伊織を晄琉はグッと抱き締めてくる。 「朋之―――それがお兄さんの名前なんだわ、そうなんでしょ」 答えようがなく黙ったままの伊織に、晄琉は 「ねえ、このままいなくなったりしない?もう少し一緒にいてくれる?」 と甘えたように尋ねてくる。 「え、うん・・・」 頬に触れる少女の髪にくすぐったさを感じながら伊織は戸惑いがちに答える。 朋之様のことも気になるんだけど、この娘をこのままにしておくわけにもいかないか・・・ 伊織の答えに安心したようにそっとはなれた少女は 「ごめんなさい、貴方も酷い火傷してたのに、痛かったよね・・・」 と顔を曇らせた。 「僕は大丈夫だって、頑丈にできてるからさ」 先程とは見違えるほどに回復している伊織の火傷の傷をみて晄琉はかなり驚いたようだ。 「ありがとう、また助けてくれて」 この前よりはずっと素直なその態度が伊織には返ってやりにくい。 「僕はただ・・・」 君のお兄さんに・・・ じっと見詰めてくる少女の瞳に伊織は続く言葉を飲み込んでその腕に静かに触れた。 その腕を通して晄琉に力を注ぎ込む。 少しでも早く火傷を治してやりたかった。 「ずっと不思議に思ってたの。私は一人っ子のはずなのに、お母さんはいつも四人分の食事を用意したし、買い物に行くといつも決まって一番先に手に取るのは男の子の服だった。 一度物置で古い写真を見つけたわ。小さい男の子の写真。 お父さんとお母さんと一緒に写っていたのに二人ともこんな子は知らないって言った。 その写真もいつの間にか無くなってしまったけど、でもよく覚えてる。だってその子の顔はお父さんとそっくりだったもの。 私にはお兄さんがいてあなたはお兄さんのこと知ってる。 こうして私を助けてくれたのはお兄さんがそう頼んだから、そうなんでしょう」 伊織には答える言葉が無い。 それを肯定と受け取ったらしく晄琉は急に笑顔を見せた。 「ねえ、お兄さんの事教えて、お願い。 お兄さんて、どんな人?背はあなたと同じくらい?」 「いや、僕よりも高いよ」 「へえ、じゃスゴク高いんだ」 「そうだね、ずっとバスケやってたらしいし。君も女の子にしては高いほうだろ」 「よくそう言われるけど。歳は?あなたより上なの?学校は?趣味は?私に似てる?」 「歳は十八で、僕より二つ上の高三、趣味はギター、顔は君にそっくりだ。多分性格も、ね」 「本当?ねえ、お兄さん、今どこにいるの?私、お兄さんに会いたいわ」 それは・・・、と思いながら伊織は、朋之もまた危険な状態にあることを思い出した。 どうしよう、なるべく早く戻らなければならないのに・・・ 伊織は晄琉をちらりと見る。 「ごめんね、今は会わせてあげられないけど、いつかきっと・・・」 その言葉に晄琉の顔は小さく曇った。 「なるべく早く会えるよう僕も力を尽くしてみるよ、だから」 「うん、分かった。貴方は嘘は付かない、そう信じてるから」 力強く頷く晄琉に伊織も笑顔を見せて言う。 「悪いけど、僕が不思議な力を持っていること、誰にも話さないで貰いたいんだ。でないと君とはもう会えなくなるから・・・」 「私、誰にも言わないわ。貴方の事もお兄さんのことも」 晄琉はそう言うと首から提げていた、前に伊織が渡したペンダントに触れた。 「これ、私が持っていていいの?」 「ああ、君に又さっきみたいな事が起こればこれが僕に教えてくれる、だから決して身体から離さないでいてくれ」 そう言って晄琉の手をとり伊織は家まで送ってやった。 あっと言う間に自宅の前へと来てしまったことに、晄琉は唖然として伊織の顔を見詰めた。 「僕たちは普通の人間には持ち得ない力を生まれながらに持っている。少しだけど君もね。本当はこんなこと君には絶対に話してはいけないんだけど」 「お兄さんが私たちと一緒に暮らせなかったのはその力のせいなのね・・・」 伊織はゆっくりと頷く。 「でも、僕等は・・・」 その言葉を遮って晄琉は 「分かった。今は何も聞かないし、誰にも話さない。でもきっとお兄さんと会わせてね、約束だよ」 と言って笑った。 伊織は一言ああ、と言って朋之の元へ引き返した。 絵美奈には言わなかったが朋之は力を使い果たしていた。 結界を張る力も無いくらいに・・・ それは乙彦も感じたはずだ。 嵐の神須佐之男が付いていればもし京介や靖之に襲われても何とか切り抜けられるだろうが・・・ これまで靖之が自分たちの前に姿を見せていない事が引っ掛かる。 どうにも胸騒ぎがしてならなかった。 |
![]() 黒い影が京介の身体を捨て朋之の顔へと覆いかぶさった瞬間、京介の身体は支えを失った紙人形の様に地面に崩折れた。 先生は死んでしまったのだろうか・・・ その光景を目の当たりにした絵美奈は呆然とそう思った。 黒い影はうごめく塊となって朋之の顔面を覆い、その開かれた口から体内に入り込もうとしている。 朋之が渾身の力でそれを押しとどめているのが絵美奈にも分かった。 何とか朋之の力になりたいと思いつつ、絵美奈の身体はその意思に反して指一本動かない。 あの男が朋之の身体を乗っ取り、朋之があの男として生きて行く、そんな事は絵美奈には考えられなかった。 だがそれが目の前で現実になろうとしている。 ―――いやだ、そんなこと!誰か助けて・・・! 絵美奈は乙彦に何度も呼びかけたが返事は無い。 彼もまたかなりの深手を負っていた。 ―――こんな時に自分は何もできないなんて 悲しくなるほどに自分は無力だ・・・ 絵美奈は心の中で涙を流しながら黒い塊が朋之の身体に徐々に入り込んでいくのをただ見詰めていた。 朋之・・・ 知り合って一月にしかならないのに思い起こされるのは朋之と過ごした楽しい時ばかり。 初めて好きになった人、そして初めて自分の事を好きだといってくれた人・・・ どんな姿になったとしても自分が愛するのはあの朋之だけだ――― 朋之の身体が完全に乗っ取られてしまうところなど見たくなかったが、今の絵美奈には顔を背けることもできない。 絶望に胸をかきむしられそうになったとき、ふいに何かがすっと動くのが絵美奈の目に映った。 黒い影のようなものが倒れている乙彦に近付きあっと言う間に離れて行った。 ―――あれは・・・! ―――朋之! 絵美奈の呼びかけに朋之が軽い反応を示し、黒い塊が押し戻された。 その瞬間朋之の上に黒い影が飛び乗りその口から再び入り込もうとしていたあの塊を掴んだ。 全身で拒絶する朋之と呼応するようにその影は手にした塊を力づくで無理矢理に朋之の口から引っ張り出した。 「先生!」 絵美奈の口からようやく声が出た。 激しいハレーションが幾重にも重なって辺りを昼間の様に明るく照らし出す。 その只中でぎゃあああーーーー!という胸が悪くなるような邪悪な悲鳴が上がった。 朋之の顔から引き剥がされた黒い塊があの須佐の剣を突き立てられ地面に串刺しにされていた。 すぐ側で京介が体中から血を流しながら蹲っている。 「くっ・・・この死に損ないが・・・」 くぐもったようなひどい声が辺りに響き、京介の身体は弾けとんだ。 「この俺が・・・こんな・・・」 その声と共に絵美奈は身体の自由を取り戻した。 「朋之!」 急いで駆け寄り抱き起こした朋之はそれこそ力を使い果たし、首を起こしているのもつらそうだ。 「朋之、先生が・・・」 「ああ・・・」 朋之は気だるそうな視線を不自然な形に身体を折り曲げて倒れている京介に向けた。 「アイツが助けてくれたんだな・・・、須佐の剣で・・・」 朋之はよろよろと立ち上がると、剣を背中に突きたてられた憐れな男の姿を悲しげに見下ろしながらゆっくりと京介の側まで歩いて行った。 膝を突いて屈みこんだ朋之はそっと京介の腕に手を触れた。 「京介・・・」 その身体からは急速に命の火が消えつつある。 それでもその心に確かに残る思いは朋之の心に伝わってきた。 ―――朋之様・・・、貴方をその運命から解放するために僕は靖之様の力が欲しかった。あの方の本当の目的が何なのか知っていたら僕は・・・ ―――もういい、何も言うな。俺にもっと力があれば・・・ 朋之には京介を回復させるだけの力は残っていなかった。 ―――僕のことなど気になさらないで下さい、僕もまた宗主家の呪縛にとらわれた者、この心臓ではもともとそう長く生きられない事は分かっていた。だから・・・ ―――京介・・・ ―――朋之様、分かっていらっしゃいますか、なぜ姫神様が浩之様ではなく貴方を選んだのか、そして表面だけでも貴方の結婚を認めたのか・・・ ふらりと揺れる朋之の身体を寄り添った絵美奈が支えた。 ―――どういうことだ、京介、お前は何を・・・ 京介の首がガクリと揺れ、意識も途絶えた。 突然に訪れた虚無の世界のあまりの静寂さは息をつくことすら躊躇われるほどだ。 虚ろな瞳で京介を見下ろす朋之を絵美奈は言葉もなくただ抱き締めた。 「朋之様!」 突然の声にいままで閉じられていた空間の壁に一気に穴があいたように新鮮な空気とこの世の喧騒が戻ってきた。 「伊織君!」 ようやく戻ってきた伊織は辺りを一望して、自分がいない間に何が起こったのかおおむね理解したようだった。 「よかった、伊織君が戻ってきてくれて・・・」 緊張の糸が切れたのか絵美奈の目からはあとからあとから涙があふれてきて止まらなかった。 「朋之様、ご無事で!?」 伊織は絵美奈の腕の中でぐったりしている朋之に駆け寄ると、その腕に手を置き自らの力を流し込んだ。 「ああ、何とかな。お前も大分力を使ったようだが・・・」 「僕はなんともありません。闇御津羽が助けてくれたし。けどこちらは大変なことになっていたようで・・・」 伊織は晄琉を置いてでももっと早く戻るべきだったと唇を噛んだ。 「京介が俺を助けてくれたんだ。アイツ・・・」 朋之はそういうとゆっくり身体を起こした。 伊織は京介の身体に触れたがその心臓は完全に鼓動を止めていた。 「すみません、僕がもっと早く戻ってきていたら・・・」 朋之はその肩に手を置いて言う。 「お前が気に病むことではない、晄琉は無事なのだろう?」 「はい、それは・・・」 伊織もまた急いで立ち上がると靖之の方へと歩を運ぶ朋之の後を追おうとした。 「俺はもう大丈夫だ、それより須佐を見てやってくれ、アイツも酷い怪我をしているはずだ」 朋之に言われ伊織は乙彦の側へと飛ぶ。 その言葉どおり乙彦の怪我も酷かった。 倍返しの術―――か・・・ 靖之は自分に従おうとしなかった天つ神よりも国つ神の血が多く流れる同族に容赦などしなかったらしい。 その腕に触れかすかにだが着実に刻んでいるその脈動を感じ、伊織はひとまずほっとして相手の身体に力を注ぎこんでやった。 意識が戻るにはもうすこし時間がかかるだろうがまず大丈夫だろう、そう思って顔をあげると、冴え冴えとした月光を背に朋之は剣に刺し貫かれた伯父靖之の姿を静かに見下ろしていた。 この人もまた一族の犠牲者に変わりはないのだが・・・ 塊がザワリと揺れ、朋之の足首に絡み付こうとした。 激しい嫌悪感に朋之はその背に刺さった剣を引き抜きもう一度渾身の力を込めて相手の身体に突き立てた。 漏れ出る言葉もなく伯父は力なく地面に張り付く。 その様を絵美奈は目を見開いて見詰めていた。 「貴方のことを気の毒には思うが共感はできない。さようなら伯父上・・・」 朋之はそう言うと絵美奈のほうを振り向き、 「血塗られた同族殺し・・・か、いつかの式神の言ったとおりだな・・・」 と呟く。 絵美奈は大きく頭を横に振って朋之を抱き締めた。 乙彦を抱きかかえた伊織が二人の元へ駆けつける。 乙彦をそっと横たえた伊織が靖之の身体から天叢雲剣を引き抜くと靖之の身体は急速に縮まっていき、やがて輝きを失った鉛色の円盤に吸い込まれるようにして消えてしまった。 先程から驚きの連続に感覚が鈍くなってしまっているのか絵美奈はその様をただただ不思議な思いで見つめていた。 落ちていた鞘に剣を納める伊織に代わって、絵美奈が無言でその円盤を拾い上げ静かに朋之に差し出す。 真ん中に大きな穴が開いた円盤を朋之はなんともやりきれない表情で無言で受け取った。 後の始末を伊織に任せ朋之は絵美奈とまだ意識の戻らない乙彦とを連れ、式神の鳥で一足先に屋敷へ戻った。 清潔な服に着替えさせた乙彦を部屋に寝かせると、朋之と絵美奈は応接間で伊織が戻ってくるのを待つことにした。 「先生は朋之を助けたかったのね、そのために伯父さんを利用するつもりだった。 けど、利用するつもりが利用されてしまったんだわ・・・」 ポツリと呟く絵美奈に朋之はただ、ああ、と一言漏らした。 自分の計画は無謀すぎたのか、朋之は後悔に押しつぶされそうになるのを懸命に堪えていた。 だがどの道封印の鏡はそう長くはもたなかった。 いずれは完全に壊れて封じられた者達が息を吹き返しこの世に這い出てきてしまっただろう。 けど・・・ 自分がもうすこし上手く段取っていれば、少なくとも乙彦にあれほどの怪我をさせずに済んだかもしれない。 あの時京介が命を賭して自分を守ってくれなければ今こうしてここにいるのは自分ではなく伯父だったろう。 伯父は朋之のものを全て自分のものとするつもりだった。 朋之はすぐ傍らに座りじっと自分を見上げている絵美奈の顔をそっと撫でた。 とくに自分の妻であるこの娘を――― 「朋之、どんな事があっても私が好きなのは朋之だけだよ・・・」 そんな事を言ってくれる絵美奈が心の底から慕わしく可愛いと思う。 「分かってる、俺も同じだ」 朋之はただただ目の前の相手が愛しくてならなかった。 「伯父は京介の封じられた力を戻したんじゃない、自分の力をほんの少しだけ分けてやって力が戻ったと錯覚させただけだったんだ。京介はそれに気付いてなかった」 「でも、最後は伯父さんを倒せた・・・」 「ああ、あの剣には須佐の・・・いや乙彦の念が籠もっていたからな、それが京介の思いと共鳴したんだろう。京介自身にも少しは力が残されていたようだし・・・」 俺が俺でなくなったら迷わずに殺せと無理矢理に結ばせた血の盟約――― 乙彦はあの盟約を守るため剣に特別な術を施していたのだろう。 月読を倒すためには自分もまた相当な深手を負うだろう事を乙彦は予見していたのかもしれない。 伊達に歳は食ってないってか・・・ 安心して疲れが出たのか自分に寄り掛かったまま何時の間にか眠ってしまった絵美奈を抱き寄せ、朋之もまたそっと溜め息をついて目を閉じた。 伊織は京介の遺体を闇御津羽の住む深山幽谷の渓流に運んだ。 京介もまた天つ神であり、朋之を助ける為に命を落とした、そう思うとその亡骸を人間の目に付くところに葬りたくはなかった。 闇御津羽は少し迷惑そうな顔をしたが黙って京介の遺体を引き受けてくれた。 ずっと里にいればいずれは思兼神をついで姫神様の右腕として一族を束ねる要職についたであろうに、と一言だけ呟いて。 伊織が家に戻ると、朋之は絵美奈と寄り添うようにしてぐっすりと眠り込んでいた。 どんな時も決して警戒を怠らず、熟睡したことなどなかった朋之がこんなに無防備に安らかな眠りについているところを伊織は初めて見た。 それだけ力を使って疲れ果てていたのだろう。 伊織は朋之の側を長く離れすぎた事を後悔した。 テーブルの上には靖之のものと思われる鉛色のプレートが置かれている。 正確には元はプレートだったもの、というべきだろうか。 真ん中に大きく穿たれた穴が、刻まれた文様をずたずたに分断させていた。 そのすぐ脇には封印を終えた宝鏡が置かれていた。 鏡面が黒くにごっているのはあまりにも多くの異類異形を一度に封じ込めたためだろうか。 巫女姫様も確かに強い力を持ってはいるが、遠い先祖のような力は持ち得ない。 代を重ねるごとに力が弱まってしまうのは如何ともしがたいのだ。 朋之には考えがあるらしいから、充分休息を取ってから何か手を打つつもりなのだろうが、このどす黒い鏡の色を見ていると何となく不安な気持ちになってきた。 とにかくこのままでは風邪を引く、とそっと朋之の肩に触れると、朋之は弾かれたように目を開けた。 「伊織・・・、戻ったのか」 「朋之様、お部屋で休まれた方がいい。巫女姫様も・・・」 朋之はそうだな、と呟いてから 「ご苦労だったな、お前も疲れたろう、ゆっくり休め」 と言った。 少しだけでも眠ったせいか、大分顔色が良くなっていることに伊織はほっとする。 「朋之様、妹さんは・・・」 晄琉が朋之に会いたがっていることを早く伝えなければ、伊織はそう思った。 朋之はじっと伊織を見詰めてから 「アイツの記憶を消してこなかったのか?」 と尋ねた。 「朋之様!どうして・・・」 「アイツは俺と関わらないほうがいい。生まれたときから兄などいなかった、それでいいんだ」 「なぜそんなことを言うのです、朋之様。貴方だって妹さんのこと・・・」 朋之は暗い瞳で伊織を見遣る。 「靖之様の件もとりあえず一段落したわけだし、一目だけでも会ってあげたらどうです?」 そうしたらあの娘はどれほど喜ぶか・・・ 「成る程な、お前にアイツの記憶は消せないか」 「朋之様!」 心中を見透かしたような朋之の物言いに伊織はついムキになる。 「分かった、妹の事は考えておく」 朋之はそう言って軽くいなすと絵美奈をそっと揺り起こした。 「ん・・・」 小さな声を上げて絵美奈が目を開ける。 「いつの間にか二人して眠ってしまったようだが、伊織も無事戻ったし、部屋で休もう」 朋之はそういうとまだ眠たげな絵美奈の手をとって立ち上がらせた。 「朋之様、僕が・・・」 部屋まで、と言おうとする伊織を朋之はお前も疲れているだろう、と言って止めた。 「朋之様、鏡とこのプレートはこのままにしておいてもよろしいので?」 伊織が不安げな表情で尋ねると、 「そうだな」 と朋之は封印の鏡を手に取ると、 「これは巫女姫の側に置いておいた方がいいだろう」 と絵美奈に手渡した。 鏡はまたずっしりと重みを増したようだ。 朋之はプレートの周りに結界を張ってとりあえずその夜は応接間に置いておくことにした。 「靖之様は亡くなったのでしょうか?。僕はなんだかいやな感じがしてならないのですか・・・」 青ざめる絵美奈をちらりと見て朋之は 「大丈夫だ」 とだけ言った。 ―――このプレートは姉上に渡すつもりだ。何と言っても本物の銀晶石だし、姉上でなければ完全に処分する事はできないだろうから・・・ 伊織の心に朋之の言葉が響く。 姫神様に会うことを絵美奈に知られたくないのだろうと伊織もそれ以上は言わずに朋之たちの後から部屋に戻った。 |
![]() 日の光の差す事の無い真の闇が支配する空間に一筋の光が差す。 「思ったより早かったな・・・」 そんな声と共に光の筋は強さを増し空間を薄ぼんやりと照らし出した。 深山の洞窟の中を思わせる場所に、畳が幾畳か敷かれていてその上に長い着物を纏った女性が座って天井を見上げていた。 天上には小さな穴が開いていて光はそこから差し込んできている。 女性が軽く片手を上げるとその穴は急速に広がり、差し込む光の量も格段に多くなった。 その光に包まれるようにして白銀に光る鱗を煌かせた美しい竜が舞い降りてくる。 竜は女性の姿を認めるとその姿を変え、小柄な少女の姿となった。 「ご苦労であったな、闇御津羽よ」 「滅相もございません、姫神様・・・」 少女はひざまずいて深く頭を垂れる。 「よい、近うよれ、我が望みのものが手に入ったようで嬉しいぞ、闇御津羽」 少女は小さく「御意」と呟くと頭を下げたまま相手に近付きその手にしたものを差し出した。 「迦具土のプレート、か・・・」 「はい。迦具土は永眠しましてございます」 「ふ、あれも外れ者だが我が一族、手厚く葬ってやっておくれ」 その言葉の優しさとは裏腹に、この方は迦具土のことなど本当は全く眼中にないのだ、と跪いたまま闇御津羽は思う。 どうでもいいからこそあんな優しいお言葉が出てくるのだ、と。 「建御雷は何も気付いておらぬだろうな」 「はい、私が月読様に遣わされたという言葉をすっかり信じていましたから」 「それではすぐに分かってしまうだろうに・・・」 姫神様の少し機嫌を損ねたような声音に恐縮しながら 「大丈夫だと思います。建御雷は別な事に心を奪われていますから・・・」 と震える声で答えた。 「朋之の妹、か・・・。何の力も無い娘を建御雷は望むのかの。まあどの道あの者にくれてやるわけには行かぬだろう、あれでも宗主家の血を引く娘となればの」 そう言って姫神様は鈴を転がしたような美しい声を響かせて笑った。 「姫神様・・・」 「どうした、おかしな顔をして?」 「姫神様、わが姉のこと・・・」 闇御津羽はここでやっと顔を上げ微笑を浮かべた相手の美しい顔をちらりと見てはすぐにまた俯いた。 「ああ、分かっておるとも。お前の働きには報いよう」 姫神様はそういうと懐から硝子でできた小瓶を取り出し闇御津羽に向け投げてよこした。 「これでかなり楽になるはずだ」 「姫神様、残りは・・・」 「お前にはもう一働きしてもらおう、残りはそれが首尾よういってからじゃ」 そう言って姫神様は片手を振る。 それが会見の終了の合図である。 あとは何を言っても取り合ってはもらえない、闇御津羽は再び竜身に戻ると空中高く舞い上がる。 闇御津羽の姿が消えると共に天上の穴は消えていき、空間は再び真の闇に閉ざされた。 翌日は皆起き上がる気力もないくらいに疲れ果てていた。 昼過ぎになってようやく目覚めた絵美奈はベッドの端に腰掛けて俯いている朋之の姿を認めて、 「起き上がったりして大丈夫なの?」 と声をかけた。 「ああ、まあな。まだ力は完全には戻らないが・・・」 朋之はそう言って立ち上がるとゆっくりとした足取りでクローゼットへと歩いて行った。 奥の壁面一杯に設えられたウォークインクローゼットはほとんど朋之の服で一杯で申し訳程度に絵美奈も自宅から持ってきた服を入れさせてもらっている。 朋之はしゃがみ込んでしばらくごそごそと何かやっていたが、やがて立ち上がると振り向いて手にしたものを絵美奈に見せた。 「それ・・・ギター?」 「ああ、奥にアンプも入っている。ずっとしまいこんだままにしてたからちゃんと鳴るかどうか分からないけど」 絵美奈もまた立ち上がって朋之の側に寄った。 「どうしたの、急に」 いままでギターがこんな所にしまってあったなんて絵美奈は気付きもしなかった。 朋之は悲しそうな愛しそうな何ともいえない表情を浮かべてギターを見詰めている。 「これ・・・、アイツが、京介が買ってくれたんだ。俺の誕生日に・・・」 「!」 「もう二年になるかな、十六になったときに。ずっと欲しかったんでしょう、と言ってさ」 朋之はそう言って弦の上を指を滑らせた。 アンプにつながれていないエレキギターからは指が弦を擦る音しか聞こえてこない。 「俺はずっとこっちの世界では何かに夢中になるなんて事はないように、どこかで自分にブレーキをかけてたんだな。どの道里に戻る時にはこの世界のものは全て捨てていかなくてはならないから、その時すこしでも辛くならないように・・・。だからギターも好きだったけど自分で買おうとは思わなかったんだ。 正直誕生日にプレゼントを貰うなんて両親と別れてからはずっとなかったことだからさ、本当はとても嬉しかったんだけど、俺もあんまり素直な方じゃないから・・・」 そう言って朋之は寂しそうな笑顔を見せる。 「そのすぐの夏休みにアイツは俺には一言も言わず里を出て行ってしまったから、結局礼を言う事はできなかったんだよな・・・」 「朋之・・・」 絵美奈はそっと朋之を抱き締めた。 その身体はいつもに増して華奢で、どこか頼りなく感じられた。 ギターを元通りにしまった朋之が乙彦の様子を見てくると言ったので絵美奈も一緒に行くことにした。 結局一番酷い怪我をしてしまった乙彦のことがやはり気がかりだった。 乙彦は夕べ寝かされたままの姿でベッドに横たわっている。 目を覚ました形跡はなかった。 朋之はその腕をとって力を注いでやったが乙彦はただ眠り続ける。 「乙彦君、大丈夫なのかな・・・」 と心配する絵美奈に朋之はただ一言わからない、とだけ呟いた。 傷はすっかり塞がっているのだが――― 靖之のヤツ、乙彦に何をしたのか・・・ あの時靖之はただの倍返しだけではなく乙彦に何か術をかけたのだ。 靖之は完全に息の根を止めたわけではない、まだ何か仕掛けてくるかもしれない。 油断は出来なかった。 昏々と眠り続ける乙彦の頬に絵美奈はそっと手を当ててみた。 子供特有の血色のよい柔らかい頬はほのかに温かい。 早く目を覚ましてまた元気のよい笑顔を見せて欲しい―――そう願いながら絵美奈は朋之とともに乙彦の部屋を後にした。 それからの数日眠り続ける乙彦のため朋之は登校せず家に詰めていた。 絵美奈は一日休んだだけで翌日から伊織と共に学校へ通ったが、伊織の様子も以前とは少し違っているのが何となく感じられた。 どこがどう違うのかうまく説明する事は出来ないのだが、朋之の妹、晄琉という少女に会った事が原因なのだろうと思う。 乙彦の鏡に映った晄琉の姿を見たときの伊織の驚き方は普通ではなかったから・・・ 顔にはまだ幼さが残っていたが綺麗な少女だった。 朋之とよく似た顔立ちと長く艶やかな黒髪を持つ・・・ ―――思えば随分と長い片思いだったものね と言って笑った伊織のどこか寂しそうな顔が目に浮かんだ。 伊織は相変わらず時折意識を飛ばしては朋之の身辺の警戒に当たっていた。 あれからずっと朋之は乙彦のため家から一歩も出ずに過ごしている。 鏡もプレートもあのままだ。 本当はあのプレートだけでも姫神様に処分を頼みに行った方がいいと思うのだが、朋之は伊織の言葉に耳を貸さない。 晄琉のことにしても同様で、朋之は一向に妹に会いに行こうとはしなかった。 あの娘は伊織の言葉を信じて兄と会える日が来るのを楽しみにしているのだろうに、そう思うといても立ってもいられなくなる。 晄琉に嘘つきだと思われたくなかった。 内緒でこっそりと様子を見に行ってみようか、とも思うが朋之にはすぐに分かってしまうだろうと思うとその勇気も出なかった。 朋之の考えている事は伊織にはよくわからない。 もしかしてまだ何かが起こると踏んで様子を見ているのかもしれない。 朋之が自分の知らない方法で姫神様と時折連絡をつけている事は伊織も気付いていた。 これまでも朋之が突然里に戻ると言い出したり、急に伊織を使いに出したりと言う事はしょっちゅうで、初めは伊織も不思議な気がしたものだった。 一度朋之に聞いてみたことがあるがうまくはぐらかされてしまったが・・・ こうしてただ静観しているだけのように見えて水面下では何らかの動きがあるのかもしれないが、伊織にそれを窺い知る事はできなかった。 そうして一週間ほどが過ぎた頃、放課後伊織と共に帰宅しようとしていた絵美奈は突然伊織の顔が緊張感で強張るのを感じた。 「伊織君?」 と声をかけ、そっとその左腕に触れた瞬間に、伊織の腕が激しく痙攣しているのが分かった。 「どうしたの?」 驚いて小声で尋ねる絵美奈に伊織は 「巫女姫様、どうやら緊急事態が起きたらしい。僕は行かなくちゃならない」 と囁き返す。 「行くってどこへ?」 「朋之様になら分かるはず。巫女姫様を一人にして申し訳ないけど今の君ならそう簡単に手出しできるものはいないだろうから・・・」 そう言って絵美奈をじっと見詰めると次の瞬間伊織の姿は消えていた。 「待って・・・」 という絵美奈の声にまだ教室に残っていたクラスメイトが数人振り向いたが、つい今しがたまでその場にいたはずの伊織の姿が見えないことに疑問を持つ者はいないようだった。 軽く溜め息を吐いた絵美奈は、こんなこと何回経験しても慣れないな、と思う。 仕方ない、一人で帰ろうと鞄を手に教室を出ようとしたとき、朋之の声が響いてきた。 ―――絵美奈、聞こえるか? ―――朋之! ―――伊織の奴はもう行ってしまったか? ―――え、うん・・・ ―――そうか、仕様のない奴だな・・・ ―――朋之、一体何があったの? ―――ああ、ちょっとな・・・。すまないが俺も少しばかり出かけないとならなくなった。お前はなるべく早く戻って乙彦を見てやってくれないか。 ―――うん、いいけど・・・ ―――出来るだけ早く戻るようにするけど、お前も十分気を付けろよ、お前になにかあったら・・・ ―――朋之? ―――いや、何でもない。じゃあな・・・ 朋之の声が聞こえなくなると同時に絵美奈は窓の外にすっと影が過ぎるのを感じた。 急に空が曇って日の光を遮ったようだった。 その様子にいわれの無い不安を感じる自分に絵美奈は軽く頭を振って変な考えを振り払った。 今までずっと伊織に空間移動してもらうのに慣れてしまった絵美奈には、朋之と暮らすあの洋館までの道程が大層長く感じられる。 自分にも空間移動の力があったらよかったのに、とつくづく思う。 電車を乗り継ぎ一時間半ほどかけてようやく家が見えてきた。 久しぶりに混み合った電車に乗って人いきれに酔ったのか気分が悪い。 家に着いたら少し休もう、そう思って玄関のドアノブに手をかけた。 玄関は開いているが人の気配は無い。 おかしいな、飯塚さんが来ているはずなのに。朋之が出かけるので断ったのだろうか・・・ 一応、「飯塚さん?」と声をかけてみたが返事はなかった。 変だな、飯塚さんならもし途中で帰ったとしても鍵をかけていくだろうに、そう思いながら絵美奈は朋之に言われたとおり乙彦を見舞う事にした。 朋之と伊織が急に出かけたわけは何なのだろう、もしかして乙彦に関係あることなのだろうか・・・ 音を立てぬよう乙彦の部屋のドアを開けた絵美奈はそっとベッドに近寄ってみた。 乙彦はやはりあの夜と同じ姿勢で眠っている。 もしかして乙彦の目が覚めたのでは、と思ったがそうではなかったようだ。 絵美奈は小さく溜め息を吐くと閉まったままのカーテンを少しだけ開けた。 冬が近付いてきた証拠に日は随分短くなってきている。 夕暮れの最後の残照が目に痛かった。 「悪いがカーテンを閉めてくれ、明るいところは苦手だ・・・」 そんな声に驚いて振り向くと確かに今まで眠っていたはずの乙彦の目がパッチリと開かれていた。 「乙彦君、目が覚めたの!?」 言われたとおりカーテンを閉めると薄暗い部屋の中を絵美奈は急いでベッドに駆け寄った。 「よかった、ずっと目を覚まさないからみんな随分心配したんだよ・・・」 乙彦は起き上がろうとして小さく手を上げる。 絵美奈はその手をとって助け起こそうとした。 思いがけない力で絵美奈の手を握った乙彦はおもむろに身体を起こしながら呟く。 「それはすまなかったな・・・」 えっ、と目を見張る絵美奈をじっと見詰めながら乙彦は信じられない言葉を紡いだ。 「美しい巫女姫よ、やっとお前を我が物にできる・・・」 目を見張り身を引こうとする絵美奈だがその手をしっかりと握られていて振りほどく事は出来なかった。 これは、乙彦ではない!この目を見てはいけない・・・! そう思いつつも魅入られたように絵美奈は乙彦の瞳から目を逸らせない。 「アイツらがいなくなってお前と二人きりになれるチャンスを窺っていたのだ。思ったより早く訪れたな」 ―――朋之!どこにいるの!?乙彦君が・・・ 「無駄だ、この家は既に我が結界のうち。お前の声は朋之には届かん。ついでに言うと面倒な家政婦も眠らせてあるしな」 ―――いや、助けて・・・ 絵美奈の身体からは見る見る力が抜けていき、同時に意識も薄れて行った。 |