![]() 左腕に激しい衝撃を感じた伊織は即座に晄琉の身辺に危機が迫った事を感じ取った。 靖之が何らかの手を使って彼女に接触しようとしたのだろうか、伊織は絵美奈に急を告げるとそのまま瞬時に晄琉の元へと移動した。 晄琉は自宅近くの空き地に一人で立っている。 その様子に特別に変化は無さそうだった。 とりあえずほっとした伊織だが、ではなぜ雷輪環があれほど激しく反応したのだろうと訝しく思う。 伊織の出現に晄琉は一瞬呆然となったがすぐにあの綺麗な笑顔を見せて近寄ってきた。 「本当に来てくれたんだ」 「君、どうして・・・」 眉を寄せ訝しげな表情を浮かべる伊織に晄琉は 「ごめん、でもどうしても貴方に会いたかったから。私、あれからずっと貴方のことばかり考えていたんだ」 と言って俯いた。 「貴方のことと、お兄さんのこと・・・」 「それは・・・、けどどうして?何かあったわけじゃないだろう」 何も無いのに雷輪環が反応するわけ無い、と伊織は思う。 「何も無いと会ってくれないの?名前も教えてもらえないし」 上目遣いに恨めしげに見詰める相手に伊織は少しばかりたじろぐ。 「私の名前は晄琉、それはもう知ってるのよね。だから貴方の名前を教えて・・・」 「僕は・・・」 伊織は頭がくらくらするのを感じる。 これは、この娘は・・・ 「僕の名前くらいお見通しなんじゃないのかい・・・」 伊織は固く手を握り締める。 爪が掌に傷をつける痛みでどうにか相手の術中に嵌るのを堪えた。 「何の事・・・」 と言いかけた相手の腕を掴み有無を言わさず電撃をかける。 ぎゃっというしわがれた声と共に晄琉の身体から分離するように影が飛び退った。 「巫女か、国つ神にしてはなかなかの術者だな。もう少しで騙されるところだった」 伊織はフラフラと倒れそうになった晄琉をそっとその場に座らせると、白衣に緋袴といういでたちの年配の巫女と対峙した。 「ふん、若造が。鼻の下のばしてりゃいいものを・・・」 しわがれた声の老婆は二重に数珠を巻きつけた腕を伊織に向けて突き出しながら身構えた。 「婆さん、天つ神に逆らって勝てるつもりか?悪い事は言わない、年なんだし大人しくしたほうが身のためだよ」 どうも里の婆ちゃんを思い出してやりにくいな、と伊織は苦笑気味に言う。 「お黙り、青二才!穴牟遅様は上手く丸め込まれてしまったようだがこの婆はそう簡単にお前たちに降参などしないよ。 月読様は我等の協力を仰ぐ変わりに大層な褒美を約束してくださった。我等がこうして協力している事は紛れも無い事実、褒美はしっかり頂かなくてはね」 「月読様はそれこそお前たちの主、大己貴命から国つ神は切り捨て御免の承諾を得ているんだ。どうしてもやるというなら今度は手加減はしないぜ」 「何を言う、儂に命令を出しているのはその月読様ではないか、ふん、お前ごときにやられたとて月読様が元に戻してくださるわ!何と言ったってあのお方は時を操る事が出来るのじゃからな!」 老巫女の言葉に伊織は絶句する。 この婆さんにはまだ靖之の命令が届いている、やはり靖之は死んでなどいなかったのだ――― 全く、なんて生命力だろう、と思う。 この世の理不尽さへの怨念に突き動かされてでもいるのだろうか? それにしても・・・ 「婆さん、大己貴命から引き上げるよう命令が出てるんじゃないのかい?」 伊織は純粋な疑問を投げかける。 朋之様は穴牟遅に一杯食わされたのだろうか?、と。 「ふん、今代の穴牟遅様は腰抜けじゃ、儂は長年にわたり、先代先々代にお仕えしてきた巫女、一族のためになると思えば命令に背くことも厭わぬわい!」 「この娘に手出しすることが一族のためか?」 「先程久しぶりに月読様からのお言葉が届いた。この娘を無傷で連れてくればお約束の褒美を下さると。儂はそのお言葉に従っておるだけじゃ!」 扱い難い婆さんだ、と伊織は思う。 下手に使命感に燃えているだけに始末が悪い。 ただ撃退するだけなら造作も無いが、年寄りの女相手では本気を出すのも憚られた。 「月読様が約束された褒美って、なんだか知ってるのか、婆さん」 柔道の構えを取りながら伊織は訊いてみた。 「おうよ、お前さんら天つ神はこの星へ三つの宝を持ちこんだ。銀晶石、知恵の木、そして生命の木、そのうち最初の二つはとうに失われたが最後の宝、生命の木はちゃんと残っている。 月読様はその木の実を下さると約束した。それを頂けば我等も永遠の命を授かる。そうしていずれ我等を僻地へ追いやった人間どもを見返してやるのさ」 その答えに伊織は唖然としたように言葉を返した。 「呆れたな、そんなものが本当にあると思ってるのか、婆さん」 「婆さん婆さんと五月蝿いよ!私だって最初から婆さんだったわけじゃないんだからね。 まあそんなこたどうでもいいが、ふん、お前みたいな下っ端には教えてもらえないだけで、お前さんらの長、姫神様ってのは今でも最後のお宝をしっかりと握ってるはずだってのが我等に伝わっている話さね」 「そりゃ、我等がこの星に移り住んだ時にはそんなものがあったかもしれないけど、この星に我らの母星の樹木が根付くとは思えない。生命の木なんてのはとっくに枯れてしまってるさ」 「だからお前は馬鹿なんだよ。お前たちにそう思わせておいて姫神様は生命の木の実を独り占めするつもりなんだ。そんなことも分からないのかい?」 伊織は答えに窮した。 婆さんは生命の木がまだあると信じきっているが伊織はいまだかつてそんなものは目にした事が無い。 里の伝承でも三つの宝は全て失われたと言われていた。 知恵の木は先祖が初めてこの星に降り立って間もなく、銀晶石は数多のプレートを作成した時に、そして生命の木は先祖がこの島国に移り住んだ時に枯れてしまったのだと――― だが、待てよ・・・ 失われたといわれた銀晶石も僅かながら宮の宝物倉に残されていて靖之はそれを知っていた。 ならば生命の木だって・・・ 木そのものは確かに枯れてしまったかもしれないがその実は何らかの方法で保存されて残っているかもしれない。 いや、もしかしたら宮の奥深くには今でも生命の木なるものが栽培されているのかもしれない。 伊織達里人は何も知らないだけで――― 「けど、婆さん・・・」 伊織の口調が急に代わったことに老巫女も怪訝そうな視線を向けてきた。 「なんじゃ?」 老婆は腕に巻いた数珠を硬く握り締める。 「生命の木の実を手に入れたとて、お前たちに有効に働く保障は無いのだぞ。お前たちは我等に比べて格段に力も弱く身体の構造だって・・・」 恐らく今の我等だってその実の力に耐えられるかどうか・・・ 天つ神とはいえ我等もまたあまりにも人間に近付きすぎてしまっている。 そう、自分達の遠い先祖はあのヒルコ神に近い形態をしていたに違いないのだ。 でなければ彼らが我等と同族と見なされるわけが無い。 そんな天つ神に有効なものが国つ神たちにどのように作用するか分かったものではない。 だが・・・ 永遠の生命と言う魅力はそんな危険性への喚起を無視させてしまうほどに大きいらしい。 老婆は伊織の言葉に 「そんなことを言って脅かして諦めさせようってかい?その手には乗らないよ。穴牟遅は怖気づいたかもしれないがわたしゃあの小僧っ子ほど甘くないんだからね」 とますますいきり立った。 伊織が閉口していると、一瞬空が陰り 「何をぐずぐずしている。問答無用に斬り捨てろと申したではないか」 と涼やかな声がしてすぐ側に朋之が降り立った。 その肩にはあのチョウゲンボウが止まっている。 晄琉は腰を下ろしたまま突然現れた背の高い少年を呆然と見上げた。 老巫女もまた虚を突かれたように朋之の端正な顔を見詰めている。 「朋之様・・・」 「一族最強といわれたお前がこの頃は随分と甘くなったようだな。それがいいことなのかどうか俺には良く分からんが・・・」 朋之はそう言って老巫女に向き直ると 「命が惜しくないとは度胸のある婆さんだ。それに免じて今回だけは見逃してやる、即刻穴牟遅の元へ戻って身を慎むがよい」 と言った。 「何じゃ、お前は。偉そうに・・・」 老巫女は不審そうに朋之を睨み返す。 「婆さん、この方が本当の月読命様だ。お前が信じてるのは偽者なんだよ」 伊織は老婆に憐れさを感じ始めている。 この老婆も巫女の端くれなら一目で朋之が何者か分かったはずだ。 だが自分が騙されていた事を認めたくないのだろう。 認めてしまえば夢に描いた褒美も泡と消えてしまうことになってしまうのだから――― 「だまれ、コヤツが月読様であるはずが・・・。月読様は・・・」 先程までの威勢はどこへやら、すっかり弱腰になった老婆は朋之がついと近付くとつられるように一歩下がった。 朋之は老巫女のすぐ前に立つと腰を抜かして尻餅をついてしまった老婆を見下ろしながら静かに言った。 「国つ神の巫女よ、生命の木の実とはお前たちが思っているようなものではない。我らの先祖が永い宇宙の旅に出るために一時的に身体の組織を変えるために使ったもの。そなた等がうかつに口にすればそれはただ身を滅ぼす元にしかならぬ。帰って穴牟遅にそう伝えよ」 「そのような戯言、信じられるか!」 朋之の強い力の威圧にかなりの狼狽を見せながらもなおも強気な姿勢を見せる老婆だが、それが空元気であることは伊織にも簡単に見て取れた。 「別に信じなくても構わぬがな」 朋之はそういうと伊織に頷いてみせる。 伊織は躊躇いがちに手の先から軽く電撃を放った。 腕に巻いていた数珠が粉々に吹き飛び、老婆はあわあわと辺りを這いまわった。 「これはまた、隋分お手柔らかなことだな、建御雷」 「月読様、お年寄り相手に本気は出せませんよ、しかも一応女性ですしね・・・」 「お、お前たち、覚えておれ!」 老婆は慌てふためきながら逃げ出して行く。 その姿はすぐに霧に包まれたように見えなくなった。 その後姿を苦笑混じりに見送る二人にそっと近付いた晄琉は 「お兄さん・・・?」 と囁くように声をかけた。 ゆっくりと振り向いた朋之は穏やかな微笑を浮かべてじっと晄琉を見詰めた。 記憶を消すつもりだ―――と伊織はすぐに気付いた。 朋之はどうしても晄琉と接触を持ちたくないらしい。 なぜそこまでかたくなに兄であることを拒否するのか伊織には理解できなかった。 朋之様、と声をかけようとした時、朋之はふっと視線をそらせた。 「やっぱりな、お前は俺のことを忘れないらしいな」 「お兄さん、貴方は私のお兄さんなんでしょう?答えて下さい」 晄琉の必死の瞳に折れたように朋之は呟く。 「ああ、そうだ。俺が伯母の元に引き取られたときお前はまだ赤ん坊だったな」 「お兄さん・・・!」 朋之の言葉が終わる前に晄琉は朋之に抱きついていた。 「どうしてもっと早く会いに来てくれなかったの?私の事知っていたんでしょう・・・」 朋之は軽く溜め息を吐くと呟くように答えた。 「それが父の望みだったから・・・」 えっ、と晄琉と伊織は驚いて朋之を見遣った。 「朋之様、どういうことです、それは・・・」 二人の視線に朋之は軽い苦渋の表情を浮かべて呟くように言った。 「俺を差し出してまでも父はお前を守りたかったんだ、伯母である一族の長、姫神様から」 「朋之様!」 「伊織、お前は気付かなかったか?コイツも力を封じられている。父がわざとそうしたんだ、でないと・・・」 ―――わが一族と認められる力を持っていると分かれば伯母は晄琉をも手元に置こうとするだろう。それが何を意味するかお前は分かっているか? 頭の中に響く朋之の声に伊織ははっとする。 ・・・普通ならそうしてただの人間の娘から生まれた子は重鎮の座に付く事はできず、次の世代を生み出すためだけに宮の奥深くに閉じ込められて過ごすのが当たり前なんだ――― 確か京介はそう言っていた。 ―――それでは・・・ ―――次の世代を生み出すための道具として一生を過ごす、その相手は一人とは限らない。子を産む能力がある間は拒む事も出来ずにずっと・・・ ―――そんな、それでは酷すぎる、けど・・・ アイツは俺と関わらないほうがいい、初めから兄などいなかった、それでいいんだ、朋之はそう言った。 なぜその言葉の本当の意味に気付かなかったんだろう 僕は本当の愚か者だ―――伊織は今更ながら自分の短慮を悔いた。 「朋之様、僕は・・・」 「お前のせいではない、いずれこうなるだろうと感じてはいたんだ」 「朋之様・・・」 「どの道これ以上時間稼ぎはできないようだ。なぜなら・・・」 朋之は晄琉を抱き締める手に力を込める。 「あの巫女に命令を下したのは伯父ではないようだからな」 呆然とする伊織の目の前で世界が大きく歪んでいった。 |
![]() 暗く湿った空間の只中で絵美奈は目を覚ます。 身体は横たわったまま宙を漂っていた。 暗がりの所々に小さな明かりが同じ様に漂っている。 あれは先代の須佐之男を尋ねたとき洞窟の中で見た生き物と同じだ・・・ 絵美奈は軽く痛む頭に手を当てながらゆっくりと起き上がった。 目に見えない壁に守られて絵美奈はフワフワと浮かんでいる。 ずっと下には黒く粘り気のあるものが溶けては固まり融合しては離れを繰り返しながら蠢きまわっているのが見えた。 ここはどこなのだろう――― そっと伸ばした手にひんやりとした覚えのある感触が伝わる。 封印の鏡だ、そう思って急いで引き寄せ硬く胸に抱いた。 周りをもっとよく見ようとして振り返った絵美奈は思いのほか近くに他者の顔を見出して驚いて身を硬くした。 「貴方は・・・誰?」 すぐ後ろに座っていたのは細身ながらも屈強そうな体躯の少年―――年の頃は朋之と同じか少し上くらいだろうか、凛々しい眉に切れ長の瞳が精悍そうな印象を与えていた。 「ご挨拶だな、俺が分からないとは。随分心配してくれたんじゃなかったのか?」 低く落ち着いた声はすっかり大人のものだ。 絵美奈はじっと相手を見詰める。 ふいにその着ている服が朋之のものであることに気付き絵美奈ははっとした。 「ああ、これか。悪いが無断で拝借した。これまでの服ではどうにもこの身体が収まりきらなかったのでね。まあ、アイツの服も少しばかり小さいが仕方ない、我慢するしかないからな」 いわれてみれば肩口や胸元は少しばかり窮屈そうだ。 「貴方は・・・」 絵美奈を見詰め浮かべた不敵な笑顔には面影がある。 「乙彦君・・・なの・・・?」 「やっと分かったのか。まあ急激にあいつの時を進めてしまったからな、無理もないか・・・。 本当は朋之の身体が欲しかったが、仕方ない、とりあえずの一時しのぎに借りる事にしたのさ。何と言っても俺は・・・」 そう言って乙彦は絵美奈をグイと引き寄せ抱き締めた。 「お前を俺のものにすると決めたのだからな・・・」 乙彦君の中に入り込んだ靖之が彼の時を進めたのだ―――瞬時に絵美奈は悟った。 同時に精一杯の力で相手をはねつけようとするが乙彦の身体を借りた靖之は尋常ならざる力で絵美奈の動きを封じた。 乙彦君の魂は・・・? 絵美奈は触れ合う身体を通して乙彦の心に呼びかける。 返事は無いが、彼の魂はその身体の中に眠ったままである事は分かった。 靖之によって眠らされているのか・・・ その動きを察したのか 「出来れば魂移しの術を使いたかったが入れ替わる身体が無くなってしまったからな。だがコイツが目を覚ます心配はないから、安心して大丈夫だ」 と乙彦の身体を乗っ取った靖之がニヤリと笑いながら言う。 「ここは・・・どこなの?私、どうしてこんなトコにいるの?」 「さあ、どこだと思う?」 「まさか、ここって・・・」 「ここは地の底の世界―――下で蠢いているのはお前が封じたヒルコ神たちだ」 絵美奈は青ざめてもう一度下方を見下ろす。 「あの連中には俺たちに手出しは出来ないさ。今はな」 「どういうこと?」 「アイツらはお前のことを憎んでいる。お前は封印の巫女だからな」 そう言って靖之は絵美奈が胸に抱いた鏡を静かに手に取った。 黒ずんだままの鏡面にそっと触れた後靖之は鏡を傍らに置くと皮肉な笑みをその顔に浮かべた。 「この結果から出た途端、奴等に身も心も喰い尽くされる。それがいやなら俺の傍を離れないことだ」 靖之はそう言って笑うと強引に唇を重ねてくる。 逃れようもなく口付けを受けながら絵美奈は心の中で朋之の名を呼んだ。 「やっぱり朋之でないといやか。まあ、コイツだってそこそこいい男だと思うがな」 靖之は絵美奈の反応を楽しむようにブラウスのボタンに手をかけた。 いや、こんな男の思い通りになるなんて死んでもいやだ・・・! 絵美奈はその手を思い切りはねつけた。 「あきらめろ、お前に逃れる術はない。お前の声は朋之には届かぬ。どの道朋之にも伊織にもここまで入り込む事はできないからお前がここにいると分かったところでなにもできやしないさ。 少々予定が狂ったが新しい身体と愛しい女、俺はやっと望みのものを手に入れられたというわけだ」 朋之、伊織君、助けて!――― 絵美奈は叫んでみたが靖之の言葉どおりその声はどちらにも届かないのか返事はなかった。 朋之も伊織君も、二人ともどこへ行ってしまったのか 乙彦君、お願いだから目を覚まして!――― 必死の呼びかけに答えてくれる者はいない。 うろたえる絵美奈の目に靖之の背後に落ちているあの霊剣天叢雲剣が映った。 何とかあの剣を手にする事はできないだろうか・・・ 靖之は油断しきって絵美奈を抱く事に気を取られている。ここは言いなりになる振りをしてあの剣に少しでも近付くしかない・・・ 虫唾が走るような嫌悪感に堪え絵美奈は幾度も口付けを繰り返しながら少しずつ身体をずらしていった。 靖之は絵美奈を横たえその上にのしかかってくる。 絵美奈は諦めた振りをして体の力を抜いた。 それを感じ取ったのか靖之は野卑な笑みを浮かべながらブラウスのボタンを一つ一つ外していく。 胸元が外気にさらされ男の手が下着に触れるのを感じて泣きそうになるのを堪えながら絵美奈は神剣へとそっと腕を伸ばした。 気付かれないように少しずつ・・・ 露になった白い肌に靖之の口から賛嘆の溜め息が漏れる。 「ほう、お前は結構着やせするんだな。なるほど、朋之は毎晩さぞかし愉しんだのだろうな、こうやって・・・」 靖之の手がじかに肌に触れた瞬間絵美奈は心の底から嫌悪感を感じ、嘔吐しそうになった。 相手が本物の乙彦だったなら、ここまで嫌ではないだろう、だが、コイツは・・・ 身体を失ってもなおその意思だけがあのプレートに宿りこの世に留まり続けている・・・ 一族への怨念と生への妄執に捕らわれた怨霊だ。 こうして自分を求めるのは朋之から大切なものを全て奪い去りたいからに過ぎない。 そんなにも血を分けた甥が憎いのだろうか。 朋之・・・! 堪えきれなくなった涙が一滴絵美奈の頬を伝った。 ほんの一瞬靖之の手が止まる。 無意識のうちにも乙彦の身体が靖之の意思に抵抗しているのだ。 「どうした、お前だって本当はこの女が欲しいんだろうに。せっかくその望みをかなえやろうというのに何を逆らう・・・?」 靖之は身の内なる乙彦に話しかけている。 乙彦の魂が無理矢理にねじ伏せようとする強大な力を跳ね返して目覚めようとしているのを感じて、絵美奈もまた乙彦に強く呼びかけた。 ―――乙彦君、助けて! 「無駄だ、アイツは目覚めぬ。この俺には勝てぬわ」 乙彦を屈服させた靖之がそう言って底意地の悪そうな笑みを見せる。 絵美奈は思い切り顔を背け心中で朋之の名を叫んだ。 絵美奈の心中にはお構いなしに靖之は容赦なく愛撫を与え続ける。 涙混じりの嗚咽を漏らしながら絵美奈は身をよじり僅かずつ剣へと近付いていった。 もう少し、あともう少しで剣に手が届く―――そう思った矢先手首を捕まれ強く押し付けられた。 「さすがに巫女姫様だ、なかなか油断ならないな・・・」 靖之は自分の考えなどとっくに見通してそれを愉しんでいたのだ、絵美奈は口惜しさで真赤になった。 靖之は刀を絵美奈の手の届かない場所に放り投げる。 「まあこれくらいでなくては面白くない。さて、次はどうするかな?、巫女姫様は・・・」 絵美奈はカッと目を見開いて相手を睨みつけたが効果はなかった。 自分の力では須佐の力をも手に入れた靖之には到底かなわない。本当にこのまま言いなりになるしかないのか・・・ 靖之の手が下半身へと伸びた瞬間絵美奈は身体中を電流が走りぬけたような衝撃を覚えた。 いや、いやだ!私は・・・ あの封印の夜のような激しいハレーションが幾度も繰り返され、絵美奈の視界は瞬間的に真っ白になった。 酷い叫び声と共に身体から圧迫感が消える。 何が起こったのか分からないままに絵美奈は急いで身体を起こした。 目の前で白銀の閃光に包まれ靖之が苦悶している。 「くそっ、この小娘が・・・」 その口から漏れる悪態にこれは自分がやったことなのだろうか、と絵美奈は呆然となった。 靖之は膝をつき胸の辺りをしきりにかきむしっている。 その仕草に絵美奈は乙彦の魂が靖之の意思と戦っているのを直感した。 今の衝撃で乙彦の魂が完全に目覚めたのだ。 乙彦は自分の身体から異物である靖之を追い出そうとし、靖之はそれを必死で押しとどめようとしていた。 絵美奈は急いで神剣天叢雲剣を手に取り鞘を抜き放った。 蒼白の刃は明滅を繰り返すハレーションを反射してキラキラと輝いた。 乙彦の身体は結界のうちを転げまわるようにして今度は喉をかきむしっている。 どうしよう、と絵美奈は思った。 この剣を使っても傷付くのは乙彦の身体だけだ、この間の京介の様に。 どうしたら乙彦を助けられるだろう・・・ 「くそっ、生きている身体と言うのは本当に手間がかかる・・・」 そう言って靖之は絵美奈の手にした刀に眼をとめ、 「それをこっちへよこせ!」 と手を伸ばした。 咄嗟に身を引く絵美奈に靖之は飛び掛るようにして剣を握った手首を掴む。 「何をするつもり・・・」 と絵美奈が言いかけた途端、靖之は絵美奈の手首をしっかり握り締め、その手にした剣で自らの宿る乙彦の左胸を刺し貫いた。 |
![]() 「いやっ、やめてよ!そんな事をしたら・・・」 乙彦は死んでしまう・・・ 剣を身体に刺したまま靖之はゆっくりと体勢を立て直した。 「そう気に病むこともあるまい、巫女姫よ。この男はお前の愛しい相手ではないのだろう?」 「それは・・・、乙彦君はそんな相手じゃないけど、でも・・・」 この人は根っからの天つ神なのだ、と絵美奈は思う。 天つ神は傲慢で残酷、国つ神の血が勝っている乙彦は利用するだけ利用して、その価値が無くなれば簡単に捨て去るだけの存在なのだ。 「朋之の弟で・・・大切な仲間だわ!」 絵美奈はそう叫んで靖之に体当たりを食らわせた。 お前にこの身体に宿る資格はない、速やかに出て行け! 絵美奈はそう呟きながら乙彦の胸に刺さった剣の柄に手をあてた。 邪悪な心を持つこの強大な天つ神をこそ封じなくては・・・ 絵美奈の心に今まで感じたことの無い強い怒りが込み上げていた。 「ふっ、封印の巫女よ、お前にこの俺を封じるなど無理な話だ・・・」 靖之の言葉に耳を傾ける事無く絵美奈は穢れを封じる呪文を唱え続ける。 乙彦の内なる力は思った以上に強く、靖之が虚勢を張っていることに絵美奈は気付いていた。 彼の想いと自分の力が重なればいかに強い力を持つ靖之でも封じることが出来るかもしれない。 乙彦の胸に突き刺さったままの刀が白銀の光を放ち始める。 この世のものとは思えぬ美しい光に辺りは昼の様に明るくなった。 これが銀晶石の光――― その名の通りなんて美しいものなのだろう・・・ 乙彦の身体の中でも同じ清浄な光が明滅するのを絵美奈は感じた。 あれが乙彦君の・・・須佐之男命のプレートの輝きだ、そしてもう一つ・・・ 絵美奈は乙彦の胸に手をあてる。 その手がずぶずぶと乙彦の身体に飲み込まれて行くのを絵美奈は半分驚き半分平然と見下ろした。 絵美奈の手は乙彦の体内に収まったもう一つの銀晶石、靖之の作らせたレプリカのプレートをやすやすと掴み取った。 「何をする・・・!」 靖之は呆然として絵美奈を見詰めた。 なぜこの女にこんなことができるのだ・・・、その瞳はそう語っている。 絵美奈自身にもよく分からない、自分にこんな力はなかったはずだ。 でもなぜか今の自分にならできるように感じられたのだ。 これを取り出せば乙彦は助かる・・・そう確信して絵美奈はゆっくりとその手を乙彦の身体から引き出す。 「よせ、やめろ・・・」 乙彦の口から出る靖之の声は低くくぐもってエコライザーをかけたようになっていく。 絵美奈はプレートを乙彦の身体から引き出すと、そのプレートに靖之の魂を封じ込める呪文を唱え始めた。 乙彦の身体は絵美奈の手が離れた瞬間、傷跡も残さず元通りに戻っていた。 そのまま乙彦は膝を突いて倒れこむ。 乙彦の身体は見る見る縮まって元の幼い少年の姿に戻っていった。 同時に二人を包んでいた結界が消え、絵美奈と乙彦はバランスを崩して落下し始めた。 「絵美奈!」 乙彦は咄嗟に絵美奈へと手を伸ばす。 いまだ朦朧とする意識の中で乙彦は絵美奈の手を掴み、精一杯の力を振り絞って結界を張った。 二人は結界に包まれゆっくりと宙を漂う。 眼下では相変わらず黒いどろどろの物体が離合集散を繰り返していた。 「絵美奈!大丈夫か、しっかりしろ!」 輝きを失い鉛色に変色した真ん中に穴の開いたプレートを握り締めたまま放心状態の絵美奈を乙彦は激しく揺すぶった。 「どうした、魂を持っていかれちまったのか・・・?」 絵美奈はまだ呆然とした面持ちを遺しながらも、今ではダブダブになった服を少しもてあまし気味に絵美奈の両腕を掴み心配そうに見つめている乙彦をじっと見下ろした。 「乙彦君・・・、大丈夫なの・・・?」 その答えにほっとしながら乙彦は 「全く、聞いてるのはこっちだぜ、でもよかった、意識はしっかりしているようだな」 と言って安堵の笑みを見せた。 「乙彦君こそ、剣が胸に・・・」 天叢雲剣はいまだ乙彦の胸に突き刺さったままだ。 「ああ、これか」 乙彦はなんという事も無いと言う風に柄に手をあて徐に剣を引き出した。 「靖之の奴も結構ツメが甘いな。この剣は元々俺のもの。俺のプレートの一部を変形させたものだ。 だからこの剣で俺を傷つけることなんざ、どだい無理な話ってことさ」 乙彦はそう言うとすぐ側に落ちていた鞘に剣を収めた。 「え、じゃあ・・・」 「この俺の体内に入った途端プレートと融合したのさ。おかげで俺の力は強くなった。靖之にとっては大誤算、というわけだ。 あの野郎には俺の力が急に強くなったわけが分かってなかったろうけどな」 乙彦はそう言って絵美奈の手にしたプレートを軽く指で弾くと、今度は心からの笑みを見せた。 「そうだったんだ、よかった、乙彦君に何かあったら私・・・」 涙ぐむ絵美奈に乙彦は照れたようにフイと視線を逸らす。 「俺に何かなんてあるわけないだろ、それより胸、早くしまえよっ」 「あっ!」 絵美奈は胸元が露になったままだった事にようやく気付き慌てて後ろを向くと身支度を整えた。 今更になって心臓がドキドキしてくる。 乙彦も少しばかり頬を赤く染めていた。 「アイツ、俺の身体を使ってお前を奪おうとしたのか?」 無言で頷く絵美奈を見遣りながら 「全くとんでもねえ野郎だぜ・・・」と呟くと、 「さて、せっかくこんな所に招待されたわけだから、ついでにこの地脈を浄化してしまおうか?」 と続けて言った。 えっ、と絵美奈が訊き返した途端、手にしていた靖之のプレートがつるりと滑り落ちた。 あっと思う間も無くプレートは結界を抜け、見る間に落下して行く。 ―――巫女姫よ、俺はただでは死なぬ・・・ そんな声が絵美奈の頭に響いた。 「くそっ、あの野郎・・・」 乙彦は結界を張りなおして絵美奈を包むと大急ぎで落ちて行くプレートを追った。 プレートが落下するスピードはぐいぐいと速まり、全力で追う乙彦も追いつけない。 見る間に眼下に広がる黒いドロドロした塊に吸い込まれてしまった。 「乙彦君・・・」 「全くなんてしぶとい野郎だろうな。奴め、ヒルコ神と同化しやがった」 絵美奈を守る結界の側に戻ってきた乙彦が宙に舞いながら舌打ちする。 「ええっ・・・」 プレートが飲み込まれた辺りの塊が次第に形を取り始め、おぼろげながら人の形になっていくのを絵美奈は呆然と見詰めた。 ヒョロヒョロと伸びた手が結界を破り絵美奈に迫った。 「いやっ!」 乙彦がさえぎる間も無く黒い手は絵美奈の抱える封印の鏡を瞬時に奪い取り遠ざかっていく。 「待てっ!」と一言、乙彦は剣でその手に斬りつけるが自在に形を変える腕は斬っても斬ってもすぐに元通りに繋がってしまう。 あざ笑うかのような高笑いが虚ろな空間に響き、黒い手は鏡を叩き割った。 「いけない、そんなことをしたら・・・」 粉々に砕け散った鏡の破片が辺り一面に舞い上がる。 「まずいな、封印が解けるぞ!」 はるか下方、離合集散を繰り返していたどろどろの黒い物体の動きがにわかに活発になった。 この空間自体がなにやら動き始めているようだ。 ゴロゴロと不気味な音が地の底から響いてきて辺りの空気を振動させている。 音は次第に大きくなり、耳を劈くばかりの轟音となった。 ―――どうしよう、鏡が割れてしまうなんて・・・。朋之のおかげでやっと封印出来たのに・・・、朋之、どこにいるの?朋之がいてくれないと私、どうしていいか分からないよ・・・ 絵美奈は泣きそうになるのを懸命に堪えた。 やがて眼下の地面がぱっくりと割れ、真赤に煮え滾ったマグマが吹き上げ始めるのが見えた。 乙彦は絵美奈の手を取ると結界を張りながらマグマの上昇に合わせて上へと舞い上がる。 ―――封印の鏡は壊れた。我等を縛るものは最早ない。この世は今度こそ我等のものだ そんな声が当たり一面に響き渡る。 地下に広がる空間は復活の希望に沸くヒルコ神たちの意思に完全に占められている。 その意思に突き動かされるように吹き上げたマグマは外界への出口を求めて天井を、硬い地表の殻を押し破ろうとしている。 このマグマがあふれ出したら地上は地獄になる、絵美奈はそう思った。 上方から微かながら一条の光が漏れてくる。 地殻の弱い部分が破れ始めたのだ。 ―――ははははは・・・、どうした、お前の愛しい男を呼んだらどうだ?今ならもうお前の声が届くはずだ 「!」 靖之はまだ朋之の身体を狙っている、それが分かっていて朋之を呼ぶ事は出来なかった。 |
![]() グニャリと歪んだ空間の中に女の笑い声が響き渡る。 「何、この声・・・」 朋之の腕の中で晄琉は恐る恐る辺りを見回した。 空間はどんどん狭まりその周りは真の闇に閉ざされて行く。 「伊織!」 朋之は鋭く一言伊織に声をかけると、晄琉の身体を伊織に押し付けた。 「コイツを頼む、どこか安全な場所へ連れて行ってくれ!」 「朋之様!」 「早く!結界が完全に閉じられてしまう前に!」 何時に無く切迫した朋之の顔つきに伊織は気圧されたように頷くと晄琉を抱いて空間を移動した。 どこか安全な場所、と言っても・・・ 伊織はとりあえず晄琉を朋之と暮らす洋館へ連れて行った。 初めて目にする洋風の家に晄琉は物珍しそうにあちこち眺めている。 その手を引きながら伊織は 「巫女姫様!」 と叫んで絵美奈を探して回った。 目ぼしいところはほとんど探したが絵美奈の姿はどこにも無い。 「おかしいな、まだ学校から戻っていないのか・・・?」 念のためと伊織は乙彦の部屋を覗き、そのベッドが空になっていることに気がついた。 乙彦が目覚めたのか・・・ そういえば応接間に置いておいたあの壊れたレプリカのプレートが無くなっていたようだ。 伊織は朋之と絵美奈の部屋にとって返し、封印の鏡も消えていることを確めた。 間違いない、絵美奈と乙彦に何かあったのだ・・・ 「あの・・・、どうかしたの?」 恐る恐る聞く晄琉に伊織は 「何でもないよ、君に紹介しようと思った人がいないもんで少しばかり焦ってるだけさ」 と務めて明るく言った。 この娘に余計な心配はかけたくない、伊織はそう思った。 「紹介したい人って?」 「ああ、まあ何ていうか・・・、朋之様、君のお兄さんの奥方様と弟君に当たる人たちなんだけど」 「えっ!?」 驚く晄琉に伊織はあの二人のことをどう説明したら上手く分かってもらえるだろうか、と少しばかり頭を抱えた。 「一人は園部絵美奈さんと言って、強い力を持つ巫女様で、ついこの間朋之様と結婚したばかりだ。まあ正式な結婚とはまだいえないかもしれないけど」 そういいつつ今度は伊織は階下に向った。台所でほんのかすかだが人が動く気配を感じたのだった。 「だって、お兄さんって高校生でしょ。なのにもう・・・」 晄琉は目を丸くしている。 「僕等の一族は結婚が早いんだ。こちらの世界よりもずっとね。まあ巫女姫様はこの世界の人だけど少しだけど一族の血を引いてるからね」 「じゃあ・・・、もしかして貴方も?」 おずおずと尋ねる晄琉に伊織は照れたように笑って見せながら 「いや、僕はまだ・・・。縁談が無いわけじゃないんだけどね」 と言った。 「ふうん・・・」 晄琉はなんとも複雑な表情を見せる。 そうこうするうち台所の奥の野菜置き場兼務の納戸で伊織は床に倒れこんでいる家政婦の飯塚さんの姿を見つけ出した。 「おばさん!」 伊織はそっと肩に手を触れ、飯塚さんが生きていることを確認した。 よかった、飯塚さんはただ眠っているだけのようだ。 「おばさん、しっかりして!」 伊織が軽く揺り動かすと飯塚さんはうっすらと目を開けた。 「悪いけど、コップに水を汲んできてくれないか?」 伊織に言われ晄琉は慌ててキッチンに向う。 晄琉の汲んできた水を一口含むと飯塚さんはほっと一息ついて、 「伊織さん、戻られたんですか?」 と尋ねた。 「ああ、今しがたね・・・」 「私、一体どうして・・・そうだわ、ここで夕飯に使う野菜を選んでいたら急に目の前に誰かが・・・」 飯塚さんは記憶を辿るように途切れ途切れに言葉を紡ぐ。 「誰かが現れたの?」 「・・・確かに誰もいなかった筈なのにその辺りに突然・・・」 そう言って飯塚さんは少し先の暗くなった納戸の奥を指差した。 「そう、あれは乙彦お坊ちゃんのようでした。背丈がそれくらいでしたから」 飯塚さんはそう言ってから今度は怪訝そうに晄琉を見詰めた。 「こちらはどなた様で?朋之様によく似ていらっしゃるけど・・・」 「ええと・・・」 このおばさんはいい人だがここで見聞きした事はすぐに朋之の後見人である北条翁に伝わりそのまま姫神様の耳に入ってしまう、それを恐れた伊織はじっと飯塚さんの目を見詰めて晄琉の事は忘れるよう暗示をかけた。 何だか頭がぼんやりする、と言う飯塚さんを今日はもういいから、と言って帰らせた伊織を晄琉は驚きの目で見ている。 巫女姫様の様に僕のこと気味悪がってしまうだろうか、とふと思ったがそれは杞憂だった。 晄琉はただ伊織の持つ不思議な力に感心しているようだ。 「伊織、と言うのが貴方の名前なの?」 「うん、そうだけど、まだ言ってなかったっけ?」 「教えてもらってないわよ、みんなそう呼んでるからそうかな、と思っただけで」 晄琉は少しばかりご機嫌ナナメのようだ。 「悪い、君と関わってはならないときつく言われていたから」 「お兄さんに?」 「え、うん・・・」 「貴方ってなんでもお兄さんの言いなりなの?」 少し険を含んだ言い方に少したじろぐ。 確か巫女姫様にも似たようなこと言われたっけ。 「僕はあの人の従僕だからね」 朋之は従僕はいらないと言ってくれた、でもそれはあくまで二人だけの間でのことであって、里に戻れば厳然とした身分制度に縛られてしまう。 武官である伊織は本来朋之や晄琉の顔を見ることさえ叶わぬ身分なのだ。 晄琉に言っても通じないだろうが・・・ 「従僕・・・」 「あの方の身の安全を護るのが僕の役目。僕は朋之様の命令には逆らえないんだ」 「でも、初めて会った時、私を助けてくれた。本当はいけないと言われていたんでしょう?」 「あの時は・・・」 「私の記憶も消すつもりだった?さっきのあの人の様に?」 晄琉は飯塚さんのことを言っているのだろう。 伊織は黙って頷いた。 「お兄さんにとって貴方は従僕かもしれないけど、私は違う。私・・・」 晄琉はじっと伊織を見詰めていたが急に話題を変えた。 「そういえば紹介したい人ってもう一人いるんでしょ、どんな人?」 「え、ああ、朋之様と言うよりは月読様の弟に当たる、須佐之男命の力を継承した乙彦と言う男の子なんだけど」 「さっきの人が言っていたお坊ちゃん?」 「うん、そうだ。まあ朋之様の弟という事になるのかな」 「じゃあ、私の弟でもあるわけ?」 「いや、そういうわけでもないんだけど・・・」 「何だかよく分からないわ」 晄琉はそう言って笑った。 可愛い、と思う。この娘を姫神様に奪われるわけにはいかない。 この娘には名前の通り光こそが似合う。京介が言うような惨めな暮らしは絶対にさせない、伊織はそう決意した。 にしても・・・ 飯塚さんの話では乙彦は目を覚ましたようだ。 そこへ一人で戻ってきた絵美奈と合流したのだろう。 だが飯塚さんを眠らせた理由は何だ? そしてなぜ二人して姿を消してしまったのか・・・ プレートも宝鏡も一緒に・・・ 一体なにが起こっているのか、自分に水鏡を使える力が無い事が伊織は口惜しかった。 二人で応接間に戻り身体を休めながら伊織は晄琉にあの国つ神の巫女が何をしようとしたのか訊いてみた。 「何をって言われても・・・。学校から家に帰ろうと歩いていたら突然頭が痛くなって・・・、そうね、誰かの声が頭の中に直接聞こえてくるような気がしたわ。何て言っていたのかよく覚えてないけど・・・。 それで気がついたら貴方が目の前に立っていたのよ、私の腕を掴んで」 「ふうん・・・」 あの国つ神の巫女は晄琉に催眠術でもかけて言いなりなさせようとしていたのだろう。 靖之からどこかへ連れてくるように命じられて・・・ 靖之に? いや、違う・・・ 朋之様はあの巫女に命令を下したのは伯父ではないようだと言っていた。 確かに、今の靖之にそんなことが出来るとは考えにくかった。 もしそうならばもっと早くに自分達に対し何らかの手を打たせただろう。 とすれば、靖之の振りをしてあの巫女を動かしたものがいるという事だが・・・ 靖之とほぼ同等かそれ以上の力を持つ者といえば伊織には一人しか思い浮かばない。 伊織はその姿を御簾越しにしか見たことの無い、一族最強の力を持つ女性――― だから朋之は自分達を逃がしたのか! 伊織の心に衝撃が走った。 いけない、今朋之は一人で伯母と・・・一族の長、姫神様と対峙していることになる。 自分に何ほどのことが出来るわけでもない、だが伊織は少しでも朋之の力になりたかった。 自分はずっと朋之を護っているつもりで、でも本当は朋之に護られていた、それにやっと気付いた今は・・・今度こそ朋之の本当の護りになりたい、伊織はそう思った。 一刻も早く里に戻らねば それこそ手遅れにならないうちに――― その時突然大地がぐらぐらと揺れ動くのを感じ、晄琉は伊織に抱きついた。 激しい地震に伊織も晄琉を抱き締めたまま屈みこむ。 大地が悲鳴を上げているのを感じ、地脈の封印が破れたのだと伊織は即座に悟った。 やはり絵美奈と乙彦に何かあったのだ。 微かにだが二人の気配が感じられるようになった。 朋之の事も気になるが絵美奈と乙彦を助けに行かなくては だが・・・ 伊織は晄琉を見詰める。 この娘をこの無人の家に一人置いていくわけにはいかない。 自分の留守に守る者もいないこの家で何が起こるか予測がつかなかった。 かといって連れて行くわけには勿論いかない。 どこかにないか、晄琉を預けられる安全な場所は・・・ いくら考えを巡らせても伊織に思いつける心当たりは一つしかなかった。 |