神鏡封魔録


神鏡

  5.

闇と光が卍巴の様に交錯する空間の中を朋之は静かに歩いていく。
遠いその先には強い光を放つ光源が見えていた。
「月読殿、あの二人を上手く逃がしたつもりか?」
光の中心には七色に輝く古代の巫女装束を身に付けた美しい女性が座っている。
首からは勾玉を連ねた首飾りと飾り紐で括られた宝鏡を提げ、腰には青灰色の太刀を帯びていた。

「これはこれは・・・、姉上には珍しくご正装で、一体何事ですかな・・・」
朋之は相手のすぐ前に立つと皮肉な笑みを浮かべて静かに言った。
「我が悲願の成就も目前に迫ったのでな、念入りな祈りを捧げようと思っての。そなたにも共に祈ってもらいたいと思ったものでな」
女性はそう言うと朋之に右手を差し出した。

朋之が腰をかがめるようにしてその手を取った瞬間辺りは一変する。
壁一面鏡が張り巡らされた部屋に朋之は立っていた。
鏡の周囲には銀と青を基調にした繊細な浮き彫りが施されている。
「光栄な事ですね、本殿の最深部、一族の長しか立ち入りの許されないこの部屋にお招きいただけるとは」

姫神様と呼ばれる女性は形よく整った唇をほんの少し緩めて美しい微笑を見せた。
「そなたは特別ではないか、月読殿。そうだな、そなたも着替えてくるか?もはやそのようなむさ苦しい格好をする必要も無くなるのだから」
「・・・どういう事です?」
「我等を硬く縛り付けていた呪縛から逃れる時がもうすぐ訪れる、ということだ」
「?」

「靖之はしくじった。どの道アイツの目論見など初めから当てにはしていなかったが・・・」
「姉上?」
「靖之はわらわに約したのだ、そなたと妻をわらわの元に連れて来る、とな」
「・・・それで?それと妹と何の関係があるというのです。貴女は父とそれこそ約したはずだ、この私を引き取る変わりに母と妹には手出しはしないと・・・」

「それはあの娘に力が無ければ、の話。浩之はわらわを騙したのだ。あの娘にもそれなりの力はある。そなたほどの強い力は持ち合わせないようだが、仮にも宗主家の血を引く娘を今のままあちらの世界においておくわけには行かぬだろう。浩之の施した力の封印も解けつつあるようだしな」

「晄琉は、妹は幸せに暮らしているのです、あの娘に手出しは無用に願いたい」
「幸せ?わらわにはそのようには見えなんだが・・・」
「我らの思い描く幸せと人の世の幸せとは違うのです、姉上。父はあの娘に人間としての暮らしを望んだ、だから私も・・・」

「朋之殿、そなたは何か誤解しているようだ。浩之の娘はわらわの娘も同様。宗主家の者からしかるべき相手を選んで嫁がせようと思っておる。中途半端な力を持った娘が一人で渡って行けるほど人の世は甘いところでもあるまい」
「しかるべき相手・・・」
「そうだ、月読殿の妹に相応しい相手をな・・・」
「妹を権力争いの道具にするおつもりですか」
「朋之殿、何を・・・」

「先代の姫神様継承の時から宗主家内部にくすぶっている権力をめぐる水面下での闘争の激しさをこの私も知らぬわけではありませんよ。
実際私が月読命を継いだ時にも色々な事があった。
向こうの世に刺客が送り込まれたことさえね。
まあ、この私にそんなことを考えた相手には死ぬほど後悔させてやりましたけどね。
晄琉を遣って陰で貴女に反目する一派を懐柔するおつもりなのでしょう」

朋之の言葉に姫神はさもおかしそうに高笑いを上げた。
「ほほほ、朋之殿は面白い事を考えるの。それがあちらの世での学問の成果なのか?」
それには構わずに朋之は言葉を続ける。

「あの娘なら自分に相応しい相手は自分で見つけるでしょう。我らの目から見て賢い選択と思えなくとも自分で選んだ道ならあの娘はきっと自らの幸せをその手で勝ち取るはずだ」
「お前が言うのはあの建御雷のことか?」
「彼かもしれないし、まだ出会っていない他の者かもしれない。だが貴女が決めることではないはずです」

「ふっ、随分とあの者を気に入ったことよ。まあいい、本当はあんな娘、どうでもよいのだ。靖之がしくじったのでな、お前にここに来てもらうために少しばかり利用させてもらったのだ。お前はわらわを警戒して里には寄り付かぬ、そう思ったものだからな。まあすんなりと建御雷にくれてやるのも業腹だから少しばかり遊ばせてもらうがな」

朋之は表情を浮かべぬ顔で伯母をじっと見詰めた。
「この私に何の用です?」
「ほほ、用があるのはそなただけではない、そなたの妻にもだ。いい加減そなたの最愛の妻をわらわに引き合わせてくれてもよかろう?月読殿」
そう言って流し目をくれる伯母を朋之はただじっと見詰め続けた。

なぜ姫神様が浩之様ではなくあなたを選んだのか、その理由をわかっていらっしゃいますか―――
京介の最期の言葉が脳裏に閃く。
なぜ父ではなく自分だったのか、それは・・・
「姉上、いや伯母上、貴女はまさか・・・」
突然に足元がぐらつくような感覚を覚え朋之は咄嗟に足を踏ん張った。

辺りの空気がビシビシと痺れるように揺らぐ。
これは・・・
はっとする朋之に伯母はにこやかな笑顔を浮かべたまま
「封印が破れたようだな」
と事も無げに言う。

―――絵美奈!どうしたのだ?何かあったのか・・・
強く呼びかけてみたが返事はない。
完全に封じたはずの地脈が再び動いた、それはつまり封印の鏡に異変があったことを意味している。
同時に封印の巫女である絵美奈にも―――

「どうした?落ち着かぬようだな、朋之殿」
「姉上、分かっていらっしゃるのでしょう、我等が封じた東の地の地脈の封印が破れました」
「らしいの」
「私は行かなくてはなりません」
「なぜ?」

「夜の世界の安寧を守るのが私の役目、このまま放っておくわけにはいかないでしょう」
「ほほほ・・・、月読の役目を果たすなどそなたにとっては厄介ごと以外の何物でもないと思っていたが、随分熱心になったものだな。その点ではそなたの妻に感謝せねばならぬかもしれぬな」

「姉上、結界を解いて下さい」
朋之は静かながらも決然とした口調で言った。
「ふん、そなたの妻も封印の巫女だろう。自分の力で何とかするだろう」
「姉上!」

「行かさぬ、と言ったらそなたはわらわを倒してでも妻の元に向うのかな?」
楽しそうに自分の顔を見詰める伯母に朋之は憮然とした視線を向けた。
「そのような役目、本当はもうどうでもよいのだ、わらわとそなたにとってはな・・・」
伯母の目が怪しく光るのを見て朋之は目を細めた。

「わらわに逆らうつもりか?靖之でさえわらわには敵わなかった、そなたに勝ち目はないぞ、場所もこの日照殿ではのう」
「どうでしょう、やって見なければわからない」
朋之はそう言って軽く手を上げた。
部屋中の鏡にひびが入り鏡面が砕け散る。
同時に朋之は台座に腰掛ける伯母に掴みかかった。

その手が触れる直前、相手の身体は消えうせる。
見回す朋之の目の前に伯母の顔が現れ、首筋を掴まれた。
「愚かだな、はなから勝てぬ戦を挑むとは。浩之殿も何を血迷ったのか、息子に人間の学問を修めさせようなどと。我等にそのようなものは不要。そもそも人間に知識を与えてやったのは我等の先祖なのだからな」

女とは思えぬ力で首を締め上げられ朋之の意識は薄らいだ。
―――のう、朋之殿。あちらの世界の事など我等の預かり知らぬ事。ヒルコ神にくれてやればよい。どの道あやつらは昼の世界では生きられぬ。天変地異でも起こらぬ限りはな
伯母の声が直接頭に響いてきた。

―――伯父が、靖之殿がその天変地異を目論んでいるとしても・・・ですか
―――のようだな
―――姉上、それを知っていて・・・
―――今の靖之にはそれは出来ぬ。だからこそあやつめはそなたの力を欲したのだ。今そなたがのこのこ出て行けばそれこそ靖之の思う壺ぞ
―――それでも、私は・・・

―――そんなにあの娘が大切なのか。あの程度の娘なら他にいくらでもいるだろうに
―――貴女には分からないでしょう。なぜこれほど惹かれるのか自分でも分からない、でもあの娘でなければ駄目なのです。他の誰とも見返る事などできない・・・
圧倒的な力に押しつぶされ意識を手放しそうになりながらも朋之は持てる限りの力で抵抗した。

伯母は自分の命を奪う事はしない、朋之にはその確信があった。
案の定首を絞める力は急速に緩み、朋之は倒れるように落下した。
「さほどに妻が大事か」
床に腰を着いた朋之の面前に伯母が下りてくる。
朦朧とした瞳でぼんやりと自分を見ている朋之に伯母はそっと微笑を見せた。

「もう何処にも行かず、ずっとこの里に居れ。そなたにはこの里で一番美しい娘を娶ってやろうほどに、な」
伯母はそう言って朋之の手を取った。
「鏡の破片でせっかくの綺麗な肌に傷がついてしまったな」
伯母がそう言ってもう片方の手を朋之の手に乗せた途端、朋之はもう一方の手を素早く動かして伯母が首から提げていた鏡を掴んだ。

「何をする!」
朋之の力を持ってすれば鏡を吊り下げている細い鎖を断ち切る事は容易い。
鏡を手にして宙に舞い上がった朋之は追いすがる伯母を結界を張って突っぱねた。

「伯母上、どうやらご来客のようだ。この鏡はお借りする」
「待て!逃がさぬぞ」
「もう夜だ。貴女はゆっくり休まれるがよい」
「逃さぬといっているだろうが」
相手の顔が面前に迫る。

伯母が術をかけてきた瞬間を狙って朋之は手にした鏡を相手の顔先に突きつけた。
それ自体力を持つ宝鏡はかけられた術を相手に跳ね返す。
悲鳴を上げ怯んだ相手を尻目に瞬間緩んだ結界を破り朋之は外界へと飛び出した。

「ふん、随分と慌てたものよ。上手く逃れたつもりだろうが、そなたは未だ我が手の内。そうとも知らず存分に動き回るがよいわ」
冷たい笑い声が部屋中に響く。
千々に砕けた鏡面の一つ一つにゆっくりと宙を漂い忍び笑いをもらす美しい巫女姿の女性の姿が無数に映しだされていた。



  6.

幾重にも山並みが重なる深山の只中、清らかな泉が湧き出ている森の中へ伊織は晄琉を伴って移動した。
闇御津羽は姉闇淤加美神クラオカミノカミや他の水の一族と共にこのすぐ側の天然の洞窟に居を構えていた。
里を離れて暮らす天つ神でそこそこの力があり、しかも信頼できる相手は伊織は闇御津羽しか思いつかなかった。

一刻も早く彼女に晄琉を預け絵美奈たちの元へ向わなくては
闇御津羽はまた迷惑そうな顔をするかもしれないが、預けるのは朋之の妹だ。
何だかんだ言ってもきっと引き受けてくれる、伊織には確信にも似たものがあった。

「ここはどこなの?」
晄琉の問いに伊織は
「僕等の一族の住む場所だ。この一族を束ねているのは心から信頼できる相手だから・・・」
と答えた。

「ふうん、随分山奥に暮らしているのね・・・」
晄琉は物珍しそうに辺りの景色をキョロキョロと見回しながら伊織についてくる。
深い森の奥に隠された洞窟に踏み入って行くと突然広い空間が開け、古代の中国風の御殿が見えてきた。
その壮麗なたたずまいに晄琉は目を丸くした。

「建御雷様、突然のお越し、いかがされました?」
唐風の衣装を身に纏った幼女がふっと姿を現し伊織の前に跪く。
それが式神である事を一目で悟った伊織は
「闇御津羽は?留守なのか?」
と尋ねた。

「はい、生憎つい先程お出かけになりました。すぐに戻られるとは思いますが、お待ちになられますか?」
「いや、その時間はない、そなた、すまぬがこの方をほんのしばらくお預かりしてもらえぬか。私は行かねばならぬところがあるのだ」
そう幼女へ返された言葉に晄琉は驚いて伊織を見詰めた。
自分一人こんな辺鄙なところに置いていかれるとは夢にも思っていなかったのだろう。

「こちらは?」
「この方は月読様の妹君、詳しく話している暇は無いが所用が終わり次第お迎えに上がるから・・・」
その言葉は晄琉の声に掻き消される。
「いやよ、私一人置いていかないで、お願い!」
「けど・・・」

幼女は伊織と晄琉の顔を交互に見て尋ねる。
「お預かりするのは構いませぬが、いかが致しますか、建御雷様」
伊織は溜め息をつくと
「そなたも感じているだろう、東の地で異変があった。私は月読様の奥方様と弟君を助けに行かなくてはならないのだ」
と最後の方は晄琉に言い聞かせるように言った。

「あの方達に、とくに奥方様に何かあったら、僕は月読様に顔向けできない・・・」
伊織の困りきった顔に晄琉もしぶしぶながら
「分かった、ここで待ってる。貴方が迎えに来てくれるのを」
と言ってくれた。

その言葉を受けて伊織は晄琉に
「すぐに迎えに来るよ、心配しないで待っていてくれ」
と言うと、幼女に
「では、頼む、闇御津羽が戻ったらよろしく伝えてくれ」
と言い置いてあっと言う間に姿を消してしまった。

ホント、慌しいんだから。でも、それだけ心配なのよね、お兄さんのお嫁さんの事・・・
兄朋之の妻だという女性、まだ見ぬその相手は伊織にも随分大切に思われているらしい、そう思うと晄琉は少しだけ不機嫌になった。

地表の割れ目から噴出すマグマの流れに乗って乙彦と絵美奈も結界に守られながら外界へと飛び出した。
突然の地震とそれに続くマグマの噴出に街中がパニック状態になっている。
ここは、はじめて絵美奈が朋之の助けを借りて妄蛾を封印したあの場所だ、と絵美奈は瞬時に悟った。

あの時朋之と街を見下ろした歩道橋が今度は幻覚ではなく本当のマグマに飲み込まれようとしている。
大地の裂け目から湧き出しているのはマグマだけではない。
無数の黒い影が途切れる事無く噴出し辺りの空気を黒く染めている。
あっと言う間に街は壊滅状態になった。

「どうしよう、乙彦君。鏡がないと私、何もできないよ・・・」
涙をこぼす絵美奈に乙彦は
「しっかりしろ!鏡はただの寄代、封じ込めるものは何でもいいはずだ」
と言う。
「でも・・・」

逃げ惑う人々を眼窩に見下ろしながら絵美奈は乙彦と共に宙を漂っている。
―――ははは・・・、早く朋之を呼べ!お前らではこの状況をどうにも出来ぬだろう。急がぬと被害が増えるばかりだぞ・・・
絵美奈と乙彦、二人の頭に直接声が響いた。

「ちくしょう!」
乙彦は絵美奈を結界に残し、地表めがけて急降下した。
「乙彦君!」
乙彦はマグマに飲み込まれようとしていた宝飾店のショーウィンドウを叩き割って、硝子ケースの上に備え付けられていた鏡をひっつかんだ。
こんなのでも何とかなるだろう、巫女の力が強ければ・・・

急いで絵美奈の元へ引き返す乙彦の前に黒影が立ちふさがる。
影はやすやすと結界を破り抱き締めるように絵美奈の身体に巻きついた。
「アイツ!」
歯噛みする乙彦を尻目に影は絵美奈をがんじがらめに縛り上げて行く。
「いやああああっ!」
絵美奈の口から悲鳴が漏れた。

夕暮れの空は一面黒い霧に覆われたように漆黒の闇へと飲み込まれて行く。
その空一面に稲光が走った。
「伊織か!」
絵美奈に絡み付いていた黒い影が衝撃に一瞬怯んだ隙に乙彦は天叢雲剣を一閃させる。
呪縛を解かれた絵美奈は支えを失って一気に落下した。

「巫女姫様!」
危うく地面に叩きつけられる寸前、伊織の腕が絵美奈の手を捕まえた。
そのまま抱きかかえるようにしてあの歩道橋の上に降り立った伊織は絵美奈をすぐ傍らに下ろした。
「よかった、ご無事で。姿が見えないので心配しましたが」

「伊織君・・・」
思いがけない援軍に緊張が緩んだのか絵美奈の目には涙が浮かぶ。
すぐに乙彦も駆けつけ絵美奈に取って来た鏡を渡した。
「これを使ってアイツらを封じろ!」
「うん、でも・・・」
絵美奈は戸惑う。

この間に合わせの鏡でこれだけのヒルコ神たちを封じきれるものだろうか、朋之の助力も無いのに・・・
「迷ってる暇は無いぞ!ぐずぐずしていればそれだけ被害が広がるだけだ」
乙彦に急かされ絵美奈は鏡を地表の破れ目に向けた。
あとからあとから留まることなくあふれ出てくる異類異形の者達、マグマの噴出とともに辺りは既に死の街と化しつつある。
今は自分の力を信じてやってみるしかない、被害を最小限で食い止めるために・・・

なおも絵美奈に纏わりつこうとする影を伊織と乙彦は交互に攻撃して跳ね返した。
須佐の剣に反応して上空から激しい雨が降り注いでくる。
噴出したマグマはその雨で冷やされシュウシュウと煙を上げた。

「あれは一体・・・」
伊織はその影に見え隠れするプレートの片鱗を見取って乙彦に尋ねた。
「靖之の奴がヒルコ神に取り付いたんだ。封印の鏡も壊されてこの有様というわけだ」

乙彦の答えに、
「やっぱり靖之様は死んではいなかった、なのに何故月読様はあんな危険なものを巫女姫様や須佐殿のすぐ側に置いておいたのか・・・」
と伊織が呟く。

「さあな、アイツにも何か考えはあったんだろうけどよ、そんなことよりお前一体今までどこに行ってたんだ、それに朋之はどうしたんだ?絵美奈が危ないってのに何やってんだ、あのすかした野郎はよ!」

黒い霧が少しずつではあるが鏡に吸い込まれて行く。
絵美奈は懸命に封印の呪文を唱え続けた。
だがあふれ出るヒルコ神に対して鏡に封じられる数は圧倒的に少なすぎた。
「まずいな、ヘタすると鏡が壊れる・・・」
伊織が呟く。

「ああ、やはりあの鏡では無理だったか」
鏡もまがい物だし、絵美奈の力だけではこれだけのヒルコ神を封じきれない。
それが分かっていて朋之を呼ばないのは靖之の本当の狙いが未だ朋之であることを絵美奈も分かっているからなのだ。
だが―――

「朋之様は姫神様のところだ、多分・・・」
乙彦の意を察したのか伊織は電撃を迸らせながら言った。
靖之の宿る影は際限なく形を変え電撃を避け続けながら執拗に絵美奈を狙っている。
「そうか、だったらアイツは当てにはできねえな、俺たちだけで何とかするしかねえってか・・・」

「須佐殿、何を」
「仕方ない、俺も力を解放する。どの道この辺りはもう手の施しようがないからな」
「でも・・・」
「あの鏡ではそろそろ限界だ。お前は絵美奈を守ってやれ、いいな」
そう言って乙彦は絵美奈のほうへ顎をしゃくってみせる。
絵美奈の手にした鏡には既に横一線に深い亀裂が走っていた。

乙彦は決然とした表情で剣を真っ直ぐ天空に向けて挙げた。
その剣の周りに空気の渦ができ始める。
渦は周りの空気を巻き込む形で次第に大きさを増しやがて竜巻となった。

絵美奈の手にした鏡が音を立てて砕ける。
伊織はその衝撃で後ろへ吹き飛ばされる絵美奈を支え結界を張った。
割れた鏡から噴出した黒い霧は周辺のものと合わさって乙彦の起こした竜巻に少しずつ飲み込まれていく。
強い風と雨にさらされた死の街はまさに荒涼として、地獄とはこんなところなのだろうかと絵美奈には思われた。

靖之のプレートを飲み込んだあの影は激しい気流に逆らいながら乙彦に絡みつきその首を絞めた。
乙彦はそれに動じる事無く、目を閉じたまま何事か呟き続けている。
影は乙彦の手首や手にした剣にも巻きついていくが竜巻の勢いは衰えなかった。

―――乙彦君!
―――待ってろ、今コイツラを時空の彼方に放り出してやる
―――時空の彼方って
―――別次元に通じる小さなブラックホールを作ってコイツラをその別次元に移動させるんだ

―――そうすると、ヒルコ神たちはどうなるの?
―――わからない、俺も時空の彼方へ行った事はないからな
―――そんな、ヒルコ神だって同族だと言ったのは貴方じゃないの・・・
―――じゃ、他にどうすればいい?俺にはコイツラを封じる事はできないんだ

絵美奈がたじろいだ瞬間
―――させるか!
靖之の声が割って入り乙彦は影に覆われる。
その手からもぎ取られた剣が地面に落ち、竜巻は勢いを失い始めた。



  7.

再び黒い霧が宙に広がり始めた時、上空で何かが光るのを感じ、絵美奈は思わず空を見上げた。
「朋之!」
大きく羽根を広げた鳥がその目を過ぎりすぐ側に最愛の相手が降り立った。
朝登校するので別れたばかりだというのにもう何ヶ月も会えなかったような気がして絵美奈は我知らずその胸に飛び込んで号泣していた。

「朋之様、ご無事で!」
そう声を掛ける伊織に朋之は緊迫感に満ちた声で答える。
「ああ、お前こそ。晄琉はどうした?アイツも無事なのか?」
「はい、緊急事態のようなので闇御津羽のところに預かってもらっています」

「闇御津羽の・・・?」
「他に信頼できる相手が思い当たらなかったので・・・。いけませんでしたか?」
「いや・・・」

困ったように見詰める伊織に朋之は、
「巫女姫には格好の鏡を調達してきた、それよりお前は須佐に加勢してやれ」
と言って影に取り付かれもがいている乙彦の様を顎でしゃくって見せた。

その意を受けて伊織は瞬時に飛び去り、黒い影に手を触れると強烈な電撃を見舞った。
「この無頼漢が!」
影は乙彦から離れ朋之の前に降り立つ。
意識を失い倒れ掛かる乙彦を支え地面に寝かし伊織もまた朋之の側近くに戻った。

「やっと姿を現したな、朋之」
「全く、貴方がまだ何か企んでいる事は分かっていたのですこし泳がせて見るつもりだったが、何ともタイミングの悪いときに行動を起こしてくれたものですね、伯父上」
朋之は絵美奈に鏡を握らせると背に庇いながら影と向き合った。

「ふん、この俺の向こうを張ろうとはいい度胸だ。もう少しでお前の妻を俺のものにしてやれたのにな・・・」
影はゆらゆらと微妙に形を変えながら朋之に挑みかかる。
「まあ、この身体を手に入れられれば後はいくらでも自由にできるが」

「俺の・・・月読の力を手に入れて何をするつもりですか。まさか本気でヒルコ神達にこの世を明け渡してやるつもりではないでしょう」
掴みかかる手を跳ね除けながら朋之は尋ねる。
同時に絵美奈に向って呼びかけた。

―――絵美奈、その鏡を使ってヒルコ神を封印しろ!早くしないと四散して手がつけられなくなる
―――え、でも・・・
―――それは本物の銀晶石で作られた宝鏡。その呪力は前の鏡の比ではないはず。俺の力がなくても封印できるはずだ

「お前に聞かせてやるつもりはない」
影は腕を伸ばし朋之の背に回すとグイと引き寄せた。
「どの道俺がお前になるのだからな」
伊織が須佐の剣で影に切りつける。
腕を落とされてもすぐに別の部分が伸び、新しい腕となった。

―――朋之・・・
躊躇っている絵美奈に朋之は更に強く呼びかけた。
―――早く!お前なら大丈夫だ、自信を持て
―――うん・・・
絵美奈は胸の前に鏡を構え呪文を唱えた。

靖之が阻止しようとするのを朋之が撥ね付け伊織が電撃を浴びせる。
鏡は強い光を発し辺りを真昼の様に明るく照らし出した。
「貴様、この鏡は・・・」

四散した黒い霧は力を失い簡単に鏡に吸収されて行く。
靖之のプレートを飲み込んだ黒い影もまた激しい抵抗を示しながらも結局は吸い込まれてしまった。
あの鉛色のプレートだけがカランと地面に落ちる。
後には荒涼とした風景の中にぽつんと絵美奈たちだけが取り残されたように立っていた。

小さな声がして乙彦が目を覚ます。
駆け寄った伊織に助け起こされ乙彦はふらつきながらも立ち上がった。
「乙彦君!」
駆け寄る絵美奈の肩越しに乙彦は
「よう、遅かったじゃねえかよ!お蔭で俺は要らぬ力を使っちまったぜ」
と声をかけた。
元気そうに振舞っているがその声はどこか弱々しい。
乙彦も相当の力を使ったのだ、と絵美奈は気付いた。

「まあ、ちょっとな。でも凄い鏡が調達できたろう?」
そう言って朋之は絵美奈の肩に手を置いた。
「うん、これ・・・」
「三種の神器の一つ、八咫の鏡だ。これで二つの神器が揃ったわけだ」
えっ、と驚く絵美奈に乙彦は人の悪そうな笑顔を浮かべて言う。
「よく言うぜ、最後の一つは月読、お前さんがしっかり握ってるんだろうによ!」

「そうなの?」
「そうなんですか?」
絵美奈と伊織が同時に尋ね朋之もまた人を食ったような微笑を浮かべて言った。
「まあな」

朋之は崩壊した建物の残骸ばかりが続く光景をしばらく見回していたがほっと溜め息を付くと呟くように言った。
「それにしても酷い事になってしまったな・・・」
「朋之様、僕は・・・」

伊織の言葉を遮って乙彦は
「仕方ねえだろう、俺たちだって精一杯やったんだ。お前こそ靖之の奴が動く事を分かっててなんでコイツの側を離れたんだよ!」
と絵美奈を示しながら語気を荒げた。
「それは・・・」
晄琉のために・・・と言う言葉を伊織は飲み込んだ。

朋之は珍しく俯いて
「悪かったな、アイツがヒルコ神たちにまで手を回していたとは思ってなかったから・・・」
と言った。
「朋之・・・」
絵美奈の髪や服の乱れから朋之には何が起きたかあらかた想像が付いたようで、そっと絵美奈の肩に手を回した。

「禁じ手だが・・・」
朋之はそう言うと決然と顔を上げた。
「この場の時を少しだけ戻そう。生憎今は月の出にはもう少し間があるがお前のおかげで俺は力を温存できたからな」
そう言って乙彦の肩をぽんと叩くと朋之は静かに目を閉じ指を絡め合わせて印を結んだ。

結界に包まれ宙を舞いながら絵美奈は辺りの光景が物凄いスピードで逆行していく様を感嘆を込めて見守った。
見る間に街は修復され人々は息を吹き返す。
地表が元通りに閉じたのを感じたのか朋之は印をといてゆっくりと目を開いた。

靖之のプレートはどうなるのかと絵美奈は心配したが、プレートはぴくりと動く事もなく先程落ちたそのままに地面に転がっている。
「朋之、あのプレートは・・・」
かなりの力を使い、流石に顔色が悪い朋之に絵美奈は恐る恐る尋ねた。
「大丈夫だ、あのプレートがまだ靖之の意思に支配されているとしても、その鏡がある限り迂闊な動きは見せないはずだ。三種の神器が揃えばアイツを完全に封じ込められる」
朋之はそう言って笑った。

「だがその前に・・・」
朋之は乙彦を見詰める。
「地脈を浄化できるか、須佐?」
「誰に物を言ってるんだ、月読。朝飯前だよ」
乙彦は心外だといわんばかりに唇を尖らせる。

「だがお前も相当力を使っただろう?」
「もう大丈夫だ。俺にはこの剣があるし」
須佐はそう言って伊織から受け取った天叢雲剣を少しだけ上げて見せた。

「絵美奈」
朋之は絵美奈に声を掛けると
「お前も一緒に行って地脈を浄化するんだ」
と言った。
「えっ、私が・・・?」

―――お前が居た方がアイツは力が出るだろうからな。口では強がっているがアイツも相当疲れているはず、お前の力を貸してやってくれ
―――うん、分かった・・・
「じゃ、乙彦君、一緒に行こう」
と言って手を差し出した。

その手を照れたように取ると乙彦は疾風に包まれて姿を消す。
二人の姿が見えなくなった途端に伊織は
「晄琉さんのこと、早く迎えに行かないと」
と朋之に行った。

「晄琉は闇御津羽のところ、だったな」
「はい、あのあと家に戻って巫女姫様と須佐殿の姿が消えていて、お二人を探している間に地脈が破れたのを感じたので・・・。あの方を一人であの家に置いていくのも危険かと思ったものですから」

なるべく早く迎えに行くと約束した手前、あまり遅くなるとまずい、と伊織は思った。
「闇御津羽のところに居るのなら間違いはないだろう、悪い気配も感じられぬしな」
朋之は晄琉の名が出た途端ピクリと動いたプレートを足で踏みつけた。
「野郎、まだ山っ気があるってか」
「朋之様・・・」

―――大丈夫だ、八咫の鏡がこちらにある以上、この前のように簡単にはやられぬさ。それに今はお前もいるしな
朋之はそう言って伊織に力強い笑顔を見せた。
―――はい・・・
やはり僕はこの人が好きだ、と伊織は改めて思った。
どんな形でもいい、ずっと側に居たい。この人の信頼を勝ち得る事のできる存在になりたい、と―――

「そういえば、僕が尋ねたとき闇御津羽は留守だったんです。どこかへ出かけたばかりだとか出迎えてくれた式神が言ってました。
緊急だったのでその式神に晄琉さんを預けてきたのですが」
うっかり言いそびれてました、と伊織はそう言って朋之に詫びた。

「闇御津羽が・・・?」
朋之は怪訝そうな視線を向ける。
「どこへ行ったのかまでは訊きませんでしたが・・・」

「そうか、あの二人が戻ったら入れ替わりで晄琉を迎えに行った方がいいかもしれないな。まさかとは思うが・・・」
「朋之様?」
日照殿の結界を抜ける前、伯母を訪ねてきた者の気配を確かに朋之は感じた。
あの時はさほど気にも留めなかったが、あれは一体誰だったのか―――



  8.

再びあの暗く湿った空間に絵美奈は乙彦と共に身を置いた。
遥か眼下にはあの黒いタール上のものが蠢いている。
真の暗闇の中でも絵美奈の持つ鏡はかすかな光を放っていた。
黒い生き物はその光を恐れるように身を捩っているように見える。

乙彦はじゃ、始めるか、と言ってニヤリと笑うとくるりと絵美奈に背を向け両手を突き出した姿勢のまま口の中で呪文を唱え始めた。
それは絵美奈が封印の時に使う穢れをはらう呪文と同じ趣旨のものだった。
乙彦の掌の上で小さな光が生まれそれがやがて徐々に大きくなって行く。
かなり大きさを増した光の球はゆっくりと上空に舞い上がり始めた。

光は次第に強く輝きを増していく。
地を這っていた黒い物体はその光の中に溶け込み、やがて様々な生き物となって飛び出して行く。
それはあの聖域、先代の須佐之男を訪ねたときに見た湖の傍らで憩うあの生き物達と同じ者達だった。

乙彦の掌からは同じ様な光の球がいくつも生まれては飛び立ち、光り輝きながら宙を漂って行った。
「乙彦君・・・」
絵美奈はそのあまりにも美しく幻想的な光景にただただ魅せられていた。
「ここの地脈はかなり大きいからな、少し時間がかかるが待っていてくれ」
「うん・・・」

やがて辺りがすっかり清浄な空気に包まれたのを見計らって乙彦は絵美奈の手をとり宙を飛び始めた。
「どうだ、随分と住みやすそうになったろう?」
「うん、本当に・・・」
もはや地をのたうつタールのような生き物はどこにもいない。
辺りに充満していたどす黒い負の感情も消えていた。

青白い光に満たされた清浄な空間がどこまでも広がり絵美奈たちを迎える。
乙彦は結界を解いて絵美奈を地面に下ろした。
美しい光を明滅させながら様々な生き物が辺りを飛び交っている。
地面にはまた多種多様な生き物達がその身を休め憩っていた。
いつか朋之と共に地脈を垣間見た時に感じた怒りや憎しみや悲しみは今は感じられない。
ただただ静寂の時がゆっくりと流れ続けていた。

絵美奈は静かに目を閉じて静寂の音に耳を傾けた。
異類異形といわれた生き物達の息遣いが聞こえてくるような気がする。
ふっと絵美奈は小さな音を耳にした。

鈴虫の声ようなその音はあまりにもか細く、よほど耳を澄ませないと聞こえない。
だがその音は確かに周りの空気を振動させ心地よい安らぎを絵美奈に齎してくれた。
「これ、何の音かな・・・」

そっと呟くと乙彦は
「ああ、これはお前たちが妄蛾と呼んでいた奴の羽音さ。人間には幻覚を見せ恐怖感を引き起こす作用があると言われている」
と教えてくれた。

「え、でも・・・」
絵美奈の脳裏には確かに妄蛾により引き起こされた惨状が焼きついている。
だが今聞くこの音は高く澄んでとても清らかに感じられる。
少なくとも恐怖感など微塵も感じさせなかった。

「お前たちの知っている姿とは違うというんだろう?けど、これがコイツ等が真にありたいと望む姿なんだぜ」
「うん、そうだね・・・」
乙彦の言葉に絵美奈は素直に頷いた。
絵美奈は目を瞑ったままそっと手を伸ばす。
辺りを飛び交う生き物達の気配が伝わってきた。

そうだ、我等は同族・・・
もとは同じ船に乗って遠い星からやってきた。
この地で生きるその生き方が違ってしまっただけだ・・・
「これがお前の望みだったんだろ?」
そう言って微笑む乙彦に絵美奈もまた嬉しそうな笑顔を返しながら頷いた。

「靖之はこいつらに昼でも外界で生きられるようにしてやると持ちかけたらしいな」
「え・・・?」
「朋之の月の力を解放する術を使ってアイツはこの地球に異変を起こすつもりでいたらしい」
「異変?」

「ああ。具体的にどうするつもりだったかは知らないが、この星の生態系を維持するための絶妙のバランス、それをほんの少し狂わせればこの星は死の星となる。ヒルコ神達は光が苦手だ。だったら日の光をさえぎってしまえば・・・」
「そんなことができるの・・・?」

「まあ方法はいくらでもあるさ。この星の周囲に太陽光線を遮る物を置けば地上に届く光は随分少なくできる。もっと簡単にこの星の軌道を少しばかり太陽から遠くするだけでもその影響は計り知れないだろうな」
「まさか、いくらなんでも軌道を変えるなんて・・・!」

「ある程度の大きさの隕石でもぶつければその衝撃でこの星の位置をずらす事は可能だろう。この間もテレビって奴でそんな話をしている学者がいたと思うぜ。
この宇宙にはいろんなものが漂ってるしな」

朋之が使った月の力を解放する術―――、それをもっと強大な力を持つ靖之が使えば乙彦が言うような事は可能かもしれない・・・
「外界で生きられるようにしてやる代わりに力を貸せと靖之が言ってきたのだと、ヒルコ神達はそう言っている。もちろん靖之が本当にそんな事をするつもりだったかどうかまでは俺にはわからないけど」

「靖之と言う人はそんなことまでして、一体何が目的だったのかな・・・」
「さあな、朋之の身体とお前を手に入れたかったのは確かだろうが、この星を死の星にしてしまったら自分だって生きづらいだろうにな、いくら天つ神とはいえ代を重ね人間との同化が進んでしまっているのは確かなんだから」

自分を奪おうとした靖之の狂気にも似た光を帯びた瞳を思い出して絵美奈は激しく身震いした。
乙彦はうんざりしたような目付きで、
「まあ、あんな奴の考える事なんざ俺には想像もつかないさ。それよりお前の願いがかなってよかった。
お前の望みは朋之の望み、お前が願ったとおりの世界を実現させてやりたいとアイツ本気で言いやがったんだぜ」
と気を取り直すように言った。

「でもさ、大人になった俺って結構男前だったろ?俺、嘘は言わないぜ、俺のほうが絶対いい男になるって前に言ったけど、本当だっただろうが」
乙彦に軽い口調で言われ、絵美奈は今更になって大人になった乙彦と幾度も口付けを交わしたことを思い出し赤くなった。
硬く抱き締められて激しい愛撫を受けて・・・
こんなこと朋之には絶対言えない・・・

乙彦は靖之に眠らされていたためかその辺の記憶はあまりはっきりしないようだったが、絵美奈の心中を察したのか軽く頬を染めると、
「分かってるって、アイツに知れたらそれこそ何されるか分からないから絶対に内緒だぞ」
と言った。
「うん・・・」

身体を乗っ取られ魂を封じられながらも乙彦は自分を守ろうとしてくれた、絵美奈にはそれが嬉しかった。
「ありがとう、乙彦君・・・」
「お前は一応兄貴の嫁さん、だからな。朋之の奴、本気でお前に惚れてるし・・・」
「そう・・・かな・・・?」
絵美奈は何と言っていいか分からず頬を染めた。

「あの洞窟でアイツは本気で俺のこと殺すつもりだった。お前のためならアイツ、どんなことだって平然とやってのける。それが自分にとってどれほどつらく苦しい事でも・・・。
それが分かったから俺は身を引いてやる事にしたのさ。
ま、ちょっとばかり悔しかったから、お前は意外と胸がデカくて抱き心地最高だから残念だけど仕方ない諦めてやるよ、って言ってやったらアイツ、マジで切れそうになったけどな」
乙彦はそういうと軽くウィンクしてみせる。

初めてあの洋館に乙彦をつれてきた日、乙彦は朋之に何事か耳打ちしていたのを絵美奈は思い出した。
全く、そんなことを言っていたなんて・・・
半ば呆れつつもやはりどこか憎めないこの少年に絵美奈もまた笑顔を返したのだった。

再び風に包まれ絵美奈と乙彦は朋之と伊織の待つ歩道橋へと戻った。
結界のおかげか絵美奈たちの姿は街行く人々には見えないらしい。
絵美奈の顔を見て朋之は
「願いは適ったようだな」
と言った。

二人と入れ替わりに伊織は姿を消す。
訝しむ絵美奈に朋之は
「アイツには妹を迎えに行かせた。すぐに戻るだろう、多分・・・」
とだけ話した。