神鏡封魔録


秘境

  1.

伊織と別れた晄琉は幼女に導かれるままに洞窟の中を進んで行った。
初めはじめじめした感じのただの洞窟だったが、突然、周囲の壁に朱塗りの柱が立ち始め、道はいつの間にか回廊となってその先に壮麗な御殿が見えてきた。
御殿の手前には住んだ水をたたえた湖が広がっている。
洞窟の中だというのに辺りはぼんやりと明るくしかもほんのりと温かかった。

ここは一体どこなのだろう、いつの間にか洞窟を出ているのだろうか。
樹木は湖の周囲に見られるが空は見えていないところを見るとやはりまだ洞窟の中なのか・・・
「ご心配なく、ここは我らの住居。遠い祖先が切り開きこのような建物を作りました。人間の世界に住む人から見れば異界といえるかもしれませんが」
幼女は微笑を浮かべながら静かに言った。

少しでも自分の不安を取り除こうとしてくれているのだろうか・・・
不思議な子だ、と幼女の後姿を見遣りながら晄琉は思う。
この間、ほんの少しだけあった闇御津羽と言う少女の事を晄琉はぼんやりと思い出した。

口調は厳しくどこか冷たげだったけど、でも本当は優しそうで・・・
あの伊織が心から信頼しているようだからきっといい人なんだろうけど―――
伊織とはどういう仲なのだろう、晄琉は少し気になっていた。

ずっと待っていた、伊織がもう一度会いに来てくれるのを。
もちろん兄に会えるのが待ち遠しかった事もあったが・・・
伊織は晄琉にとっては初めてできた心を許せる相手だった。

自分が幾度も襲われるのは伊織や兄が何か危険な事に巻き込まれているからだろうと晄琉は薄々感じていた。
だからこそずっと伊織に側に居てもらいたかったけど―――
従僕ってどういう事なのだろう。
晄琉には伊織の言ったことが本当には分かっていなかった。

晄琉を綺麗に飾られた小振りの部屋に案内すると幼女はここで少し休んでいてください、といって出て行った。
部屋は昔の中国風の感じだが、長いすや寝台もあってゆっくり寛げそうだ。
とにかくこうなったからにはここで伊織が戻るのを待つしかない、そう思った晄琉は長いすに腰を下ろした。

すぐに幼女が飲み物をお盆に載せて戻ってきた。
冷たく甘いその飲み物を口に運びながら晄琉は幼女から闇御津羽やその一族の事を少しでも聞きだそうと話を始めた。
初めは口が重かった幼女も次第に打ち解けてきて、少しずつ自分達一族の事を話しだした。

彼女達水の一族は早くから里を離れこの深山幽谷に居を構え天つ神たちとも、また人間たちとも交わりを絶って暮らしてきた。
それはこれからもずっと続くはずだったのだが・・・
幼女はそう言って言葉を濁す。

「どうしたの?」
晄琉は幼女が出してくれた甘い果汁らしき飲み物を口に運びながら尋ねた。
「最近になって闇御津羽様は頻繁に里を訪れていらっしゃいます。我等はどんな勢力に対しても独立のはずが闇御津羽様は・・・」

晄琉はじっと幼女を見詰める事で先を促した。
「いえ、何でもありません。この頃は水も土も空気もすっかり汚れてしまって我等も暮らしにくくなってしまいました。
我が一族は清らかな水のあるところでなければ生きられない。そんな場所がなくなってしまいつつあるのです」

晄琉は壁に穿たれた丸窓から微かに見えている湖を眺めやった。
「でもこの湖はとても綺麗に澄んでいる。ここから流れ出ている川も・・・」
「ええ、ここは我等の聖地ですから、でも・・・」
幼女はそう言うと悲しそうな顔をする。

「何かあるの?」
怪訝そうな晄琉に幼女は慌てて
「何もありはしません!」と言うと、
「お腹が空かれたでしょう、なにか食べ物をお持ちしましょう」
とこれ以上晄琉と話すのを避けるようにして出て行ってしまった。

どうしたんだろう、私変な事訊いてしまったのかな・・・
そう思ってしばらく待っていたが幼女は中々戻ってこない。
少し退屈になった晄琉は少しばかりこの不思議な御殿の中を探検してみようと思った。

渡ってきた回廊とは反対の方向に向ってみる。
不思議な事に誰にも見咎められる事無く晄琉はかなり奥まで進んで行った。
さっきのあの子はどこへ行ってしまったんだろう
それにこの人気の無さはどうしたというのか
これほど広い御殿なんだからもっと人が一杯いてもよさそうなものなのに・・・

ふっと、どこからか苦しげな声が聞こえてきたような気がして晄琉は足を止めた。
何だろう、今の・・・
そう思った途端、
「お客様、困ります。勝手に歩き回られては」
と言う声がしてさっきとは別の幼女がすぐ脇に現れた。

「貴女、一体どこから・・・?」
幼女はそれには答えず、
「この先へ進まれてはなりませぬ。元の部屋にお戻り下さい」
と両手を広げ行く手を塞ぐような仕草をしてみせた。

晄琉は一瞬躊躇ったが
「何故進んではいけないの?この先に何があるの?」
と尋ねてみた。
さっきの子がずっと姿を見せない事と関係があるのだろうか、そんな考えが頭に浮かぶ。

「この先にだれかいるの?」
「いいえ、誰もおりませんが・・・」
少しばかり憮然とした晄琉は
「いいじゃないの少しくらい見てみたって。何もしやしないわよ」
と言って幼女の肩に軽く触れた。

その途端幼女の身体はゆらりと揺れシュウシュウと音を立てて縮んで言ったので晄琉は驚いて悲鳴を上げそうになった。
幼女がいた所にはヤツデの葉っぱが落ちている。
何、一体どうしちゃったの!?
たじろぎながらも晄琉は葉っぱを摘んでみたが、何の変哲もないただのヤツデの葉にしか見えなかった。

不思議に思いながらも好奇心には勝てず、晄琉はその先へと進んで行った。
回廊はどんどん下りになり曲がりくねりながらどこまでも続いている。
途中何人か似たような幼女に出会ったが晄琉が触れるとみな木の葉や蛙などの小動物に変わってしまった。

回廊はやがて朱塗りの観音扉の前で行き止まりになった。
その前にはずんぐりした体型の武将姿の中年の男が座っている。
晄琉の姿を認めてその男は驚いたように目を見張る。
「これはこれは月読様!このようなところにどうして・・・」
「月読?私は・・・」

「私をお忘れでございますか?以前闇御津羽様のお供でこちらの世界のお住まいにお伺いしたときに一度お会いした事がございます」
この男は何を言っているのだろう、晄琉は戸惑った。
「あれから幾年か経ったように思いますが月読様には少しもお変わりなく、恐悦至極に存じます」

「何を勘違いしているのか知らないけど・・・」
晄琉の言葉に男は
「勘違いなど、そのお顔もお姿もお見上げしたそのままでいらっしゃるのに、どうしてそのような事を仰るので?」
と怪訝な顔をする。
そうか、この男は私をお兄さんだと思っているのだ、ようやく晄琉は合点した。
でもどうして?お兄さんは男で私は女なのに・・・

少しばかり疑問に思ったがこの扉の奥に何があるのか知りたくてたまらなくなっていた晄琉はこの誤解をそのままにしておく事にした。
「私はこの扉の中を見て見たい」
先程の朋之の口調を真似て晄琉はそう言ってみた。

「月読様のご命令といえど、この扉を開くわけには・・・」
男が言いよどむのに
「私の言うことが聞けぬと言うのか?」
と晄琉は居丈高に言う。
すこし偉そうにしすぎちゃったかな、でもお兄さん、あのお婆さんにはこんな感じで喋っていたし・・・

「はっ、闇御津羽様より何人もこの扉を通してはならぬと仰せつかっておりますが・・・」
その言葉に、やっぱり駄目かと踵を返そうとした晄琉に男は汗をかきながら言った。
「ほかならぬ月読様のご命令とあれば従わぬわけには参りませぬ。闇御津羽様にはご内密にしてくださるという事なら・・・」
男はそう言って音を立てないように静かに扉を開く。

「恐縮ですがなるべく手短にお済ませくださいますよう・・・」
平身低頭する男の前を悠然と通って晄琉は扉を開け、奥に広がった薄暗い空間へと足を踏み入れた。
樹木の根だろうか、岩肌に何重にも絡みつくように這っているのが薄ぼんやりと見える。
岩がむき出しになった地面には天井の岩から滴り落ちてくる水滴で濡れていた。

初めは暗くてよく見えなかったが目が慣れてくるにしたがって、空間のずっと奥に銅像のようなものが立っているのが見えてきた。
晄琉は岩肌に手をあてながらそっと奥へと進んで行った。
少し薄気味悪かったが、恐怖心よりも好奇心のほうが勝っていた。

近付くにつれ銅像の様に見えたものはわずかながら動いている事が分かってきた。
どうやら微かではあるが規則正しく脈うっているようだ。
生き物のようだけど、どうしてこんな所に?閉じ込められているのだろうか・・・

晄琉は恐る恐る近づいて行く。
間近で見るとそれは大きな蛇の様に見えた。
身体を覆う鱗の一枚一枚が信じられないくらい大きい。
その生き物が苦しげに呼吸するたびに鱗が苦しげに震えた。

晄琉は蛇は勿論、爬虫類は大嫌いだった。
普段なら悲鳴を上げて逃げ出すところだが、その生き物はあまりにも苦しげで辛そうだったので晄琉は思わずその身体に触れていた。
そうする事で少しでもその生き物が楽になればいいと思って・・・

―――貴方は・・・月読様・・・?
消え入りそうなほど細く弱い声が突然頭の中に響いて晄琉は驚いて手を離した。
今の声は一体・・・
晄琉は驚いて蛇を見る。
この蛇が喋ったのかしら・・・

―――私は蛇ではありません、この私がお分かりにならないところを見ると貴方は月読様ではないようですね・・・
「私は・・・、月読と呼ばれているのは私の兄です」
晄琉は朋之の事をこの方が本当の月読様だ、と言った伊織の言葉を思い出してそう言った。

―――どうしてこんな所にいらっしゃるのです?ここには誰も入れぬよう厳重に言い渡してあるはずなのに
「ごめんなさい、私がどうしても中を見たいと言って我侭を言ったのです。外で番をしていた人は私をお兄さんだと思って・・・」
―――貴方はこんな所にいてはいけません。すぐにここをお出になって下さい。ここに長くいれば貴方も穢れてしまいます・・・

「なら、貴方も・・・」
―――私はここを離れられません
「どうして?」
―――私はここでこの地を穢れから守っているのです。我が身に穢れを受けることで・・・
「!」

―――私がここを離れ勤めを放棄すればこの清浄な地はあっと言う間に穢れに染まり、我等が住める場所ではなくなる・・・
「でも、それでは貴方が・・・」
晄琉は薄闇になれた目で、大きな蛇に見えたその相手が本当は竜身である事に気付いた。

竜は涙で潤んだ瞳でじっと晄琉を見詰めていたがやがて身体からボウッとした光を発すると次第にその姿を変え、水干を纏った少女の姿になった。



  2.

顔立ちの整った美しい少女だ。 歳は自分より少し上くらいだろうか。
ただ顔色も悪くずいぶんとやせ細っている。
たっぷりした袖から覗いている手首は血管がくっきりと浮き出て、無惨なくらいだった。
「貴方が力を分けてくださったお蔭で少しだけ楽になりました。貴方は、女の方だったのですね・・・」
「はい・・・」

さっきも思ったけど私って男に見えるのかしら、晄琉は少しだけ不思議に思った。
「ふふ、貴女は昔の月読様にそっくりです。あの方、少し前までは今の貴女よりも長く髪を伸ばしていらっしゃったから、本当に女の子の様にみえたのですわ」
少女は苦しげな息の下からそう言ってそっと笑った。

晄琉は朋之の端正な顔を思い出す。
そうか、だからあの門番は私のことを兄と間違えたのだ。
「お兄さんはなぜ髪をそんなに伸ばしていたのかな、女の子に見えるくらいに・・・」

「宗主家の貴種筋に当たる方は男でも成人するまで女性として巫女の修行を受けることがあると昔祖母から聞いた事があります。姫神様と呼ばれる一族の長に万一の事があった時すぐに取って代われるように。それは次の姫神様となるに相応しいものがいない時に限られるのだそうですが・・・」
「そうなんだ・・・」

「どうかしましたか?」
少し俯いた晄琉に少女は優しい眼差しを送りながら尋ねてきた。
「うん、私お兄さんの事本当に何も知らないな、と思って。つい最近までお兄さんが居る事も知らなかったくらいだから仕方ないけどね」

兄は伊織が言ったとおりの人だった。
背が高く精悍そうで、亡くなった父に、そして自分によく似ていた。
あの兄が髪を伸ばして女の子のようだったとは晄琉には想像がつかない。
でも、待って・・・
伊織が時折じっと自分を見詰めるのはもしかして・・・

「そうですね、でも月読様も大層お喜びでしょうね、あの方に本当の家族と呼べる相手はずっといらっしゃらなかったのだから」
「え・・・」
驚きを表して見詰める晄琉に少女は
「さあ、貴女はもうここから出て下さい。貴女に何かあったら月読様は我等を許さないでしょう」と言った。
「でも、貴女がこんなに苦しんでいるのに・・・」

少女は悲しそうに微笑む。
「仕方ないのです、近頃は水も空気もすっかり汚れてしまって。私達一族はずっとこの地の清浄な水源を守り続けてきました。でも汚れは酷くなる一方で、私たちの力を持ってしても浄化しきれなくなってしまったのです。
とうとうこうしてこの身に汚れを取り込む事でしかこの聖地を守る事はできなくなってしまいました」

「そんな・・・」
「我等は滅び行く一族なのかもしれません。里を離れこの地に移り住んだ時からこの運命は決まっていたのかも・・・」
晄琉には言葉も無い。
「さあ、早くここから出て。私と会った事は他の者には内緒ですよ」
少女はそういうと苦しそうに咳き込み、再び竜身に戻った。

「でも・・・」
「早く!」
竜はそういうと身体で晄琉をそっと押しやる。
いつまでも留まるわけにはいかず、晄琉は心を残しながらもその場所を後にした。

こんな山奥にまで環境汚染は広がってしまっているのだろうか、そう思うと心が重い。
門番の男に軽く会釈してその前を通り過ぎ、来た道を少しばかり引き返したところで目の前に一筋の光が落ちてきた。
晄琉の目の前に光に包まれた少女の姿が現れる。
「貴女は・・・」
顔かたちは先程の少女とよく似ている、いや瓜二つと言ってもいいだろう、だが先ほどの少女に比べれば血色もよく身体中から生気が漲っているのが感じられた。

「私はこの隠れ里の主、闇御津羽神でございます。このようなむさ苦しいところへようこそおいで下さいました、晄琉様」
涼やかな高音でにこやかに話しかけてくる。
「私の名前を知ってるの?」
「失礼とは存知ましたが少しだけ貴女の心を読み取らせて頂きました。建御雷はよほど慌てていたようですね。全く、私は便利屋ではないというのに・・・」

「建御雷って伊織さんのこと?」
「ええ、あの少しばかり単純で思慮の足りない無骨者のことです」
闇御津羽はそう言って笑顔を見せる。
そんな、と呟いてから晄琉は
「あの、ご迷惑をかけてすみません」
と言って俯いた。

「とんでもない、月読様の妹君においでいただけるなど、大変光栄なことにございます」
「でも・・・」
主の留守に勝手に歩き回ってしまったことはどうにも気まずい。
出入りを禁じられた部屋にまで立ち入ってしまったし・・・

闇御津羽はふっと溜め息を漏らすと
「姉に会われたのですね」
と小声で言った。
「ごめんなさい、私・・・」
闇御津羽は微笑を浮かべているがその目にはどこか翳がある。

「あの、どこかへお出かけだったのでしょう、留守の間に勝手をしてしまって・・・」
「ええ、少しばかり我等が長、姫神様のところへ」
闇御津羽は晄琉の頭越しにあの部屋のほうを見遣る。
「えっ」

「病気の姉のために薬を頂きに」
「薬を?」
先程の少女の苦しみようを晄琉は思い出した。
同時にその姫神様から晄琉を守るために父は自分を差し出したのだ、と言った兄の言葉を・・・

「ええ、ですが頂く事は出来ませんでした。姫神様は少しばかり、その・・・」
闇御津羽はふっと笑うと
「ご機嫌が悪くて」と付け足した。
「そうですか」
晄琉は何を言っていいか分からず俯いた。

「ご心配なく、貴女の事は姫神様に言うつもりはありませんから」
と静かに言った。
「貴女は月読様の妹で大切なお客人。こうしてお預かりしている間は何があろうとも、この私が貴女をお守りします。ただ、もう建御雷がお迎えに参上するでしょう。東の地もそろそろ落ち着いたようですし」

「本当?」
パッと輝いた晄琉の顔を見て闇御津羽もまた綺麗な笑顔を浮かべた。
「それよりお部屋にお戻り下さい。身体がすっかり冷えてしまっているようですよ」
そう言われてやっと晄琉は体中鳥肌が立っていることに気が付いた。
あの部屋は思ったより寒かったようだ。
闇御津羽の姉と話している時は気付かなかったが・・・

「あの、あのね」
晄琉は闇御津羽に姉の事を尋ねようと思ったがどうしても言い出すことが出来なかった。
晄琉を部屋に案内して少し軽い話をしたところで闇御津羽は伊織の来訪を気配で感じ、晄琉に
「少し失礼します」
と言って部屋を出た。

言葉の端々から晄琉が伊織に惹かれていることを闇御津羽は感じ取っていた。
全く、あの無神経者が・・・
伊織が朋之に特別な感情を抱いている事は闇御津羽も先刻承知だ。
伊織としてはただじっと見守る以上の事は望んでいないのは確かだが―――

闇御津羽の思いは朋之へと飛ぶ。
朋之は妹が人として当たり前の人生を送ることを望んでいる。
自分には許されなかった人生を―――
でも、朋之様、貴方だって本当は・・・
だからあの方を人生の伴侶に選ばれたのでしょう?

闇御津羽は軽く頭を振る。
朋之様は強い方、ご自分の人生はきっとご自分で切り開かれる、それより今は・・・
洞窟の外に伊織が立っている。
闇御津羽はゆっくりと歩を運びその面前に立った。

「闇御津羽、留守に勝手をして申し訳なかった。でも・・・」
皆まで言わせず闇御津羽は
「月読様はご無事なのか?」
と尋ねた。

「ああ、僕に訊くまでもなく君も気配で分かっているだろう?」
伊織の言葉に闇御津羽は頷きながらも
「念のため確めてみただけだ」
と答えた。

「ふうん・・・」
伊織は値踏みするような目で闇御津羽を見詰める。
「それよりお前は妹君を迎えに来たのだろう?」
「ああそうだ、朋之様も気にしておられる、早く無事な姿をお見せしないと」
分かった、と伊織にそう言うと、闇御津羽は軽く手を叩く。
不意に幼い少女が姿を現した。

闇御津羽は幼女に晄琉を連れて来るよう命じると伊織に向き直った。
「建御雷、お前は・・・姫神様に背くつもりなのか?」
闇御津羽の単刀直入の問いに伊織は言葉を失う。
「どうなのだ、答えよ」
「それは・・・場合によっては」
伊織はぐっと拳を握り締めてそう答えた。

「姫神様に逆らえばお前は裏切り者だ。お前の係累も揃って里にはいられなくなろうに」
「分かってる、けど僕は朋之様に・・・」
言いよどむ伊織に闇御津羽は軽く顎をしゃくって先を促す。
「朋之様に思い通りの人生を歩んでもらいたいんだ」
「朋之様に―――」

「ああそうだ。あの方の幸せが僕の喜びだと分かったから、だからそのためなら僕はどんな事だって・・・」
闇御津羽は小さく溜め息を吐く。
「そうか」
「それは君だって同じだろう?」
伊織の問いに闇御津羽は寂しげな微笑を返す。
そのあまりに彼女らしくない反応に伊織はかなり戸惑った。

やがて微かに葉音がして洞窟の入り口を覆うように生えていた樹木の陰に晄琉が姿を現した。
「伊織さん!」
晄琉は嬉しそうな笑顔を見せて駆け寄ってくる。

「やあ、約束どおりすぐに迎えに来ただろう」
伊織も笑顔でそう返した。
「え〜、結構遅かったじゃない」
「そうかな、でもいろいろあってこれでも精一杯急いだつもりなんだけど」
朋之様が待っているから、と言って伊織は晄琉を伴い慌しく姿を消した。

その後も闇御津羽はしばらく洞窟の入り口に立ち尽くしていた。
朋之様の幸せが自分の喜び―――確かにそれはこの私にとっても同じことなのだが・・・
そう心の中で呟いて―――



  3.

洋館へと戻った伊織は晄琉を応接間に案内した。
「お兄さんは?」
辺りを見回しながら晄琉は尋ねる。
「うん、多分部屋にいると思う。巫女姫様の具合がよく無いんだろう。ちょっと様子を見てくるよ」

そう言って応接間を後にしようとする伊織を引きとめて晄琉は少し拗ねたように言う。
「お兄さん、いつもお嫁さんにべったりなの?」
「うん、まあ・・・。でもいつもはこんなことないんだ、今日は巫女姫様も色々あって少しまいっているんだと思う」

「ふうん・・・、お兄さんは本当は私に会いたくなかったんじゃないのかな」
「そんなこと・・・!」
どこか投げやりな晄琉の口調に伊織は驚いて叫んだ。

「だって十数年ぶりに会ったっていうのにあんまり嬉しそうじゃなかったし。よくテレビなんかで感動の再会!とか言ってるじゃない?あんな感じ、少しもないって言うか、お兄さんなんだか冷たかった・・・」
「僕テレビって見ないからよく知らないけど」
「!そうなの!?」

「ああ、僕らには用のない代物だからね」
「でも・・・」
光は視線でテレビを示した。

「ああ、それは須佐殿、乙彦君のために最近つけたばかりだし、僕はほとんど見たことないよ。興味も無いし」
息つく間も無く切り替わる画面にどうしても慣れることの出来ない伊織はテレビと言うものがあまり好きではない。
乙彦や絵美奈は喜んで見ているけど、付き合って一緒に見る気はしなかった。

「その乙彦君っていう子はどうしてるの?お兄さんの弟だけど私の弟ではないっていう子でしょ」
晄琉は興味を引かれて尋ねた。
「うん、彼もかなり疲れていてね、やっぱり眠っているようだ。今日は巫女姫様のために一番力を尽くしたんだしね」

「あの・・・、一体何があったの?この間私のこと襲ったあの変な人みたいなのがまた現れたの?」
絵美奈も乙彦も眠っているという。
それだけでも尋常な事とは思えなかった。

「いや、そうじゃないんだけど、まあ手短に言うなら、朋之様には敵がいる。そいつが巫女姫様や君に手出しをしてくるんだ。朋之様に言うことを聞かせる為にね」
「敵・・・」
「朋之様は君を危険に巻き込みたくなかったんだ。だから君と接触しないようにしてたんだよ。僕はその言いつけを破ってしまったけど」

「でも、じゃ、お兄さんのお嫁さんは・・・。力の強い巫女だとは言ってたけど」
「うん、彼女を巻き込んでしまった事、朋之様は後悔してるんだと思う。だからこそ巫女姫様のこととても大切にしてるんだ。朋之様も僕も初めはこんなことになるとは思っていなかったのも本当だし・・・」
晄琉は言葉も無く俯く。

伊織はそんな晄琉の様子を見て言った。
「とにかく朋之様に君が着いたことを伝えてくるよ。朋之様、君のこと本当に大切に思っている、それは嘘じゃないから」
「うん、分かってるよ・・・」
晄琉は伊織の顔をチラと盗み見ながら
貴方は―――貴方も私の事大切に思ってくれる?―――と考えていた。

一応ノックをしたが返事が無いので伊織が躊躇いながらもそっとドアを開けて中へ入ると、朋之はベッドの側に椅子を置いて腰掛け、絵美奈の手を握っていた。
「朋之様、巫女姫様は?」
「安心して眠ってしまった。すぐに眠くなってしまうようだな、コイツは」
朋之は握っていた手を離してその頬を静かに撫でてやった。

封印するために力を使うのは想像以上に絵美奈の体力を消耗させてしまうのかもしれないと伊織は思った。
朋之も同じ事を思っているのだろう、繋いだ手から力を注いでやっていた事は伊織にもすぐ分かった。

「朋之様、晄琉さんが・・・」
「ああ、分かってる。応接間に居るのか?」
「はい」
朋之はゆっくりと立ち上がったまま考え込むように黙っている。

「朋之様、巫女姫様には僕がついていますから、妹さんと話してやって下さい。ずっと貴方に会いたがっていたんですから」
朋之はやはり黙ったまま口元に微笑を浮かべるとすれ違い様に伊織の肩をポンと叩いて部屋を出て行った。

晄琉は豪華なソファに埋もれるようにして所在無げにちょこんと座っている。
朋之が部屋へ入って行くと晄琉は慌てて立ち上がった。
「あの・・・」
「おかしなものだな、ずっと会いたいと思っていたはずなのに、いざ会ってみると何と言っていいかよく分からん」
朋之はそういうと照れたように笑った。

「私に会いたいと思っていてくれたの?」
晄琉は朋之に促されて腰をおろしながらおずおずと尋ねる。
「当たり前だろう。俺はお前が羨ましかった。両親とともにこの世界で暮らせるお前が」
「お兄さん・・・」
晄琉もまたいざとなると何を話したらいいか分からなかった。
兄もまた自分に会いたがっていたと知ってとても嬉しかったのだが・・・

「一度だけ、お前の事を見に行ったことがある。お前がみっつ位の頃かな、そのとき俺の世話をしてくれていた爺さんが、姉上、いや伯母には内緒だといってお前たちの家のすぐ近くに連れて行ってくれたんだ。
お前は両親と手を繋いで坂道を歩いていた。父も母も俺の事をすぐ間近で見ても誰だか分からなかった。
それ以後両親とは会っていない。爺はまた連れて行ってやると言ってくれたけど、俺はもういいと言った」

「それは・・・、お父さんもお母さんもお兄さんの事覚えてなかったから?」
「いや・・・」
言いよどむ朋之に晄琉はどうして、と尋ねた。
「爺が・・・」
「え?」

「爺は俺には決して言わなかったが俺を両親に会わせた事で、後で伯母から酷い仕置きを受けたんだ。それこそしばらくは立って歩くのも辛いくらいの・・・。
だからどんなに会いたくても爺に頼む事は出来なかった。その爺はあの伊織の祖父だ」
晄琉は言葉も無くただ朋之を見詰めた。

朋之は晄琉の頬をそっと撫でて
「大きくなったな・・・。本当に大きくなった」
と言った。
その手に自らの手を重ねながら晄琉は言い募った。
「お兄さん、私お兄さんと一緒に暮らしたい。もうあの家に帰りたくない。私お兄さんにお父さんやお母さんの事色々話してあげられる。だから・・・」

「お前がこの世界で暮らす事が父の願いだった。そしてそれは今は俺の願いでもある。お前は俺とは関わらないほうがいいんだけどな・・・」
「お兄さん!」

朋之は優しい微笑を浮かべながら
「とにかく落ち着くまではお前を一人で置いておくわけにもいかない。しばらくはここにいてもらうしかないな」
と言った。
晄琉の満面の笑顔に朋之は
「お前の家族の事は伊織に手を打たせるから安心して休むといい」
と言って立ち上がろうとした。

「私、お兄さんに会ったら聞いてもらいたかったことが一杯あるの・・・!」
つられて立ち上がった晄琉に朋之は
「ああ、分かった。とにかく空いている部屋へ案内するから」
と言ってその手を取った。
晄琉は朋之に子供の頃からのことを思いつくままに話し続けた。
朋之はよくもこれほど話す事があるものだ、と思いながらも辛抱強く聞いてやった。

やがて晄琉の目が眠たげに細められるのを見た朋之はその目の上にそっと手を翳した。
たちどころに晄琉の目は閉じられ力を失った身体が倒れかかる。
朋之はその身体を抱きかかえ、ベッドに寝かしてやった。

ずっと付いていてやるべきかとも思ったが絵美奈のことも気になった。
目が覚めたとき自分が側にいなかったらあの泣き虫はどれほど心細い思いをするだろう、と。

部屋に戻ると伊織はベッドの側でじっと絵美奈を見守っていた。
「大丈夫、巫女姫様はぐっすり眠ってます。顔色もよくなったし、朝になれば元通り元気になるでしょう」
そう言って立ち上がった伊織に朋之は晄琉の家族に暗示をかけるよう指示した。

「姉上が晄琉をどう利用しようと考えているか分からないうちは一人で置いておくのも危険だからな」
「朋之様・・・」
厳しい顔つきに変わる伊織をじっと見詰めて朋之は口を開いた。

「伊織・・・、もしお前が里に戻って姉上のために働きたいと思うなら・・・」
「朋之様!」
「俺にはお前を止める権利はない。お前には家族が居るし―――」

「今更そんなこと言わないで下さい!僕は何があっても貴方を護る、それだけです」
そう言い置いて伊織は姿を消す。
朋之は溜め息とともに見送った。

自分がこの世界で生きる事はかほどに罪深いことなのか、巻き込みたくないと思う相手を次々と巻き込んでしまう、そうまでして自分はこの世で生きる事に執着するのか・・・
朋之の脳裏には父の言葉が甦る。
―――私は貴方に術をかける、貴方のこれからの人生がより豊かで実り多いものとなるように

父が自分にかけた術とは一体何だったのだろう。
宮の奥深くに閉じこもり宗主家の一部の者としか接する事もなく生きて行く自分にどんな豊かで実り多い人生があるというのか、朋之は幼い頃からずっとそう思ってきたのだが・・・

伊織はすぐに戻ってきて自室で休んだようだ。
気配でそれを知った朋之は自分もまた絵美奈の隣に身を横たえた。
護ってやると言ったのにこんな目に合わせてしまった、その自責の念が朋之を苛んでいた。
自分にもっと力があれば、せめて父と匹敵するくらいの力があれば、と思う。
もう二度と他の男にお前に触れさせたりしない、朋之は絵美奈の長い髪を指に絡めた。

夜半、漆黒の闇の中を目に見えない何かが動く気配を感じ朋之は閉じていた目を開いた。
誰かがこの家の中を窺っている。
自分の張った結界を破る事無く潜り込もうとする微かな気配―――
姉上が水鏡で覗いているのか・・・
朋之は心の中で呟いた。

姉、いや伯母はどうやら晄琉を利用する事を考え始めたようだ。
彼女に対抗するためには最後の神器である八尺瓊勾玉を手に入れなければ・・・
実体の無い霧のようなものが無理やりに頭の中に入り込んでくるようないやな気分に朋之は硬く目を閉じた。
いけない、考えを読み取られる・・・

「朋之・・・」
小さなかすれた声がすぐ側で漏れる。
その瞬間周りを圧していた気配は霧消した。
「目が覚めたのか」
なんとも上擦って自信無げな声だが、それだけ発するのが精一杯だった。

「何だかとても嫌な気分がして・・・。ごめんね、起こしちゃった?」
眠たげに目を擦りながら尋ねる絵美奈を朋之は思い切り抱き締めた。
思わず上がる小さな悲鳴に手を緩めた朋之は
「すまん、気分が悪いんだったな。痛かったか・・・」
と尋ねた。

「ううん、気分はもう何ともないよ。でも・・・」
絵美奈はそっと朋之の額を撫でると、
「朋之こそ、すごい汗だよ、大丈夫なの・・・?」
と言った。
その手をぐっと握りながら朋之は激しい口付けを落としてきた。
「ん・・・」

「絵美奈、俺を抱いていてくれ、もっとしっかり・・・」
「朋之、どうしたの?何かあったの・・・?」
「そうじゃないけど・・・」
二人折り重なるように倒れこむと朋之は
「今すぐお前が欲しい。だめか・・・?」
と尋ねた。
答える変わりに相手の首に両の腕を回して絵美奈は優しく口付けた。



  4.

誰かの気配を感じたような気がして晄琉はふと目を覚ました。
隣に座っていたはずの朋之の姿は無い。
そうか、私眠ってしまって・・・
枕元に点された常夜灯で嵌めたままだった腕時計を見ると、夜中の二時過ぎだった。
お兄さんは部屋へ戻ってしまったんだ。もっと色々話したかったのに・・・

お兄さんにはお嫁さんがいる―――そう思うと今更ながら顔が赤くなってくる。
どんな人なんだろう、あのお兄さんがとても大切にしている人、そして伊織も・・・
自分が兄と会っていた間、伊織はずっと絵美奈の側についていたのだ。
それも相手はどうやら眠っていたらしい、そう思うとどうにも落ち着かない。

晄琉は絵美奈の姿を想像してみたが具体的なイメージは全然湧いてこなかった。
きっと綺麗な人なんだろうケド―――
晄琉が、絵美奈が朋之や伊織と自分との間に立ちふさがっているようで何とはなしに面白くない、そう感じてしまった瞬間、
―――ふふ、お前もあの女が嫌いか・・・
そんな声が聞こえたような気がした。

何、今の・・・
聞き覚えがあるような無いような不思議な声、ただ女の声だったのは確かだ。
胸から下げた雷輪環がほんの少し揺れていた。

なんだか気味が悪い、晄琉は急に一人でいるのが不安になってそっとドアを開けて廊下を眺めてみた。
階段を挟んで反対側の奥の一番大きな部屋が多分兄の部屋だろうけど・・・
お義姉さんも一緒だろうから訪ねてみるのも気まずい。
そう思っていると途中の部屋のドアが開いて伊織が顔を覗かせた。

「どうかした、眠れないの?」
「うん、変な声が聞こえて・・・」
「変な声?」
「そう、女の人の声で・・・」

「この家には女の人は君のほかには巫女姫様しかいないはずだけど」
そう言って伊織は奥の部屋を振り返った。
「多分、違う人だと思う」
声の感じは落ち着いた大人の雰囲気だった。

「何か、意味のあることを言っていた?」
伊織にそう問われて晄琉はとっさに答える事ができず、
「ええと・・・、女がどうとか言ってたようにも聞こえたけど、よく分からなかったから・・・」
と言って誤魔化した。

伊織は念のため晄琉の部屋を見回ってみたが不審な者は見つけられなかった。
窓を開け外の様子も伺ってみたが特に異常は無いようだ。
ただ・・・

晄琉が寝ていた寝室の辺りに強い力の残滓が極く微かに感じられた。
左腕に巻いたチェーンもほんの少し震えている。
何とも嫌な感じだ―――
伊織は自分が部屋の前で番をするから朝まで休むように言ったが、晄琉はこの広い部屋で一人で過ごすのは怖いと言って聞かなかった。
伊織はちらと朋之の部屋を伺ったがこちらも結界が張られている。
伊織は溜め息をつくとベッドの側についていてやることにした。

上手く消してはいたがあの気配は確かに伊織も知っている相手のものだった。
姫神様が本気を出せば伊織などひとたまりも無いだろうが、それでも晄琉を一人にするのは危険な気がしたのだった。
何だか今日はこんなことばかりだな、と思いながらも晄琉が自分にじっと信頼の眼差しを注いでくれるのを感じるのは心地よかった。

伊織が見守っていてくれる、そう思うと晄琉はなぜか心が温かくなるような気がして、静かに目を閉じた。
そういえば、父の死後母と二人伯父の家に身を寄せた時には母は何時も自分が寝付くまで側にいてくれたっけ・・・
両親が生きているうちにお兄さんと会いたかった、そして四人で暮らしたかった、晄琉の目には薄っすらと涙が浮かんだ。

伊織がずっとこうしていてくれるなら眠ってしまいたくない、そう思いながら目を閉じていた晄琉の目の前がぼうっと明るくなった。
暗がりにあの龍の姿が浮かび上がる。
何処からとも無く差し込む細い光に鱗の一枚一枚が反射していた。
竜は苦しげに口を動かしているが言葉にはならない。
だが晄琉には「助けて・・・」と訴えているように感じられた。

その身体に触れようとしてそれが幻である事に気付く。
はっとした瞬間に目が覚めた。
自分は夢を見ていたのか―――
まだ少し痛む頭に手を当てながら起き上がると、
「やあ、よく眠れた?」
と声がかかった。

朝の光が大きく取った窓からカーテンを透かして差し込んでいるのが見える。
その光に眩しげな視線を注ぎながら伊織がゆっくりと立ち上がる。
「うん、夢を見ていたみたい。にしても・・・、ずっとここにいてくれたの?」
「まあ、僕も少し心配になったからね。でも朋之様には内緒だよ」
そう言って伊織は部屋を出て行く。

晄琉もまたベッドから下り、部屋の隅の置かれた姿見の前に立った。
夕べは制服のまま眠ってしまったため、スカートが皺だらけになってしまった。
溜め息を付きながら服を直しているとドアがノックされ、伊織がすぐ外に立っていた。

「あのさ、朝食の準備が出来てるからよかったら食べない?夕べは食事も取れなかったろ?」
「あ、そういえば・・・」
「ごめん、ホントに気がきかなくて。僕等は定時に食事を取る習慣がないもんでつい・・・」

「え、そうなの?」
伊織とともに階段を下りながら晄琉は驚いて尋ねた。
「ああ、君と巫女姫様以外は三日くらい食事しなくても平気な連中ばかりだからね」
「はあ・・・」

家政婦の飯塚さんは昨日晄琉と会った事は全く覚えていないらしい。
伊織が晄琉の事を絵美奈の友人だと紹介すると、
「そうですか、お嬢様の。おかわいらしい方ですね」
と言って温かい笑顔で迎えてくれた。

「でも、朋之様によく似ていらっしゃる」
「ああ、偶然にしても珍しいよね」
伊織がそう言うと飯塚さんは本当にね、とだけ言ってキッチンに戻ってしまった。

広い食堂で晄琉に付き合う程度にしか箸を運ばない伊織と二人差し向かいで食事を取るのは少し気まずい。
晄琉は
「ねえ、お義姉さん・・・と乙彦君という子はまだ眠ってるのかな?その・・・お兄さんも・・・」
と尋ねた。

「うん・・・、朋之様は出かけたんだ、ついさっき」
「え・・・」
「あ、大丈夫、すぐ戻ると言っていたから。小一時間もすれば帰ってくると思うよ」
伊織が自室に戻るのを待っていたかのように朋之は伊織を部屋に呼ぶと自分は少し出かけてくると言った。

「絵美奈はまだ眠っているが、アイツが起きるまでには戻るから。アイツ、だいぶ疲れてるからな・・・」
そう言って朋之は照れたように視線を逸らせた。
絵美奈の疲れが昨日の封印騒動の為だけでない事はその様子が物語っているが、伊織は気付かない振りをして部屋を出た。

「乙彦君のほうはもう起きてるかもしれないから、ちょっと見てくるよ」
伊織はそう言って箸をおくと食堂を出て行ってしまう。
「いや、別に今でなくても・・・」
と言いかけた晄琉の言葉はおそらく聞こえていないだろう。
晄琉は仕方なく一人きりの朝食を済ませた。

やがてワイワイと階上が賑やかになり食堂に嵐が飛び込んできた。
「よう、朋之の妹だって?へえ、ホントによく似てるな。まるでアイツが女になったみたいだぜ」
入ってくるなりそう言って晄琉の事を上から下までしげしげと見詰めながらそのミニ台風、いや少年は言った。

「そんな風にジロジロみたら失礼ですよ、須佐殿。こちらは・・・」
伊織が嗜めるのを鼻で笑って
「何言ってるんでぃ、自分が一番喜んでるくせによ」
と切り返す。
伊織は珍しく頬を赤らめて
「そっちこそ何言ってるんですか、須佐殿。変な事言わないで下さいよ」
と慌てて言った。

「あの・・・」
呆然と二人のやり取りと見詰めている晄琉に伊織は
「晄琉さん、こちらが須佐之男命を継いだ乙彦様です。朋之様は月読命ですからお二人はまあご兄弟という事になるのですが・・・」
と気を取り直して紹介した。

「ふうん、晄琉っていう名前なんだ。可愛いな、アイツの妹にしておくの惜しいぜ」
乙彦は早速晄琉の側によってその手を取る。
「晄琉さん、乙彦様、須佐殿は見かけどおりの子供ではありませんから注意して下さい」
と伊織に言われても晄琉には何の事かよく分からない。
「よく言うぜ、お前のほうが俺より何ぼも危険だろうによ!」
乙彦はそう言って意味ありげな笑みを浮かべ伊織を振り返った。

「で、絵美奈は?まだ寝てるのか・・・?」
「え、はい。そのようです」
「そんなに具合悪いのか、アイツ。そういえば昨日も気分が悪そうだったけど」

「まあ昨日は巫女姫様もかなり力を使いましたからね、結局封印はお一人でなさったわけですし・・・」
「そうだな・・・」
その後しばらく話しこんだ後、場を応接間に移して乙彦と晄琉はテレビを見始めた。

伊織は二人をその場に残してそっと自室へ戻る。
どうしてもテレビになれることの出来ない伊織は二人に付き合って見る気にはなれなかった。
それに絵美奈のことも気になる。
なるべく近くにいて変事に備えるに越した事はないだろうと思ったのだった。
鳥の羽音が窓のすぐ外で響き、伊織は朋之の帰館を知った。



  5.

朋之は窓から部屋に入ると真っ直ぐ寝室へ向った。
音を立てないようにしたつもりだったが、ベッドに近付くと絵美奈は薄っすらと瞳を開けて眩しそうに見上げてきた。
「朋之・・・」
愛しげに自分の名を呼び差し出された手を優しく引いて起きるのを手伝ってやりながらベッドに腰掛けた朋之は、そのまま温かく柔らかい相手の身体を抱き締めた。

「出かけてたの・・・?」
「ああ」
そっと重ねられる唇から伝わる温もりが朋之の身体中を言い知れぬ心地よさで満たした。
絵美奈はまだ少し疲れているようだ。
あの後かなり激しく求めてしまったから・・・

「大丈夫か?もう少し横になっていても・・・」
「ううん、あんまり寝ていても頭が痛くなっちゃうから」
そう言って起き上がると絵美奈は
「着替えるから隣の部屋に行ってて」
と言った。

「何を今更・・・」
そう言ってもう一度口付けようとする朋之に、絵美奈は
「もう、こんなに日が高いんだから、お預け!」
と言って軽く身をかわすがすぐに抱き取られてしまう。

朋之は強引に唇を重ねると
「分かったよ、奥様のご機嫌を損ねると後が怖い」
とからかいながら隣の居間へと出て行った。
この時間ではもう学校には間に合わないだろう、そう思って絵美奈は私服に着替え朋之の待つ居間へと向った。
朋之も制服姿ではなかったし。

「ねえ、どこへ行ってたの?」
絵美奈に聞かれ朋之は
「ああ、例の勾玉を手に入れにね・・・」
と少し不機嫌そうに答えた。

「勾玉・・・?それ、どこにあるの?」
絵美奈は単純に興味を引かれ見せてくれるよう朋之にせがんだ。
「残念ながら見つけられなかった」
「え、だって夕べは・・・」

「あの時は靖之が聞いていたからな、勾玉がこちらの手中にあるように匂わせたんだ」
「朋之・・・」
「勾玉は隠されている。この世界にある事は間違い無いんだが、俺一人の力では探し出せなかった」
「どういうこと・・・?」

「姉の天照が鏡、弟の須佐が剣、そしてこの俺、月読が持つのは勾玉―――。だがこの三つが同時に同じ場所に揃う事はもう無いだろうと言われていた。まず須佐が一族を抜け人の世で暮らすようになったし、月読も・・・」
朋之はソファに掛けると絵美奈を膝の上に抱いた。

「月読は人間の娘を愛し、結局は姉に幽閉された。プレートは剥奪され、本当なら当然勾玉も返還されるはずだった。だが・・・」
「朋之が持っていないと言う事は一族には伝わってないのね」
「ああ、月読は巫女姫に勾玉を託したのだと伝え聞いている。生まれてくる二人の子供、本当の自分の後継者に渡すために・・・」
「あ・・・っ」

絵美奈はいつか見た夢を思い返した。
夢で見た月読命は確か首飾りを下げていたように思う。
光り輝く宝玉をいくつか連ねた―――よく思い出そうとすると映像はぼんやりと薄れてしまいどうしてもその様をはっきりとは思い出せなかった。

「お前の家には鏡のほかに何か伝わっていなかったか?品物でなくとも、何かの言い伝えとか」
「ううん、そんなの聞いたこと無いけど・・・」
「そうか・・・」
朋之はじっと考え込む。

月読は巫女姫に神器の一つ勾玉を与えた。
一族のうちでははっきりそう伝わっていた。
そして巫女姫はそれをはこちらの世界のどこかに隠した。
歴代の姫神達にも探し出す事の出来なかった場所に・・・

三種の神器の一つ、天つ神の至宝とも言える勾玉は生まれてくる子供が天つ神の血を引く証拠となる品、そんな大切なものを巫女姫が粗略に扱うはずが無い、とすれば・・・

朋之にはいくつか心当たりがあった。
伯父靖之の影が身辺にちらつき始めてから折に触れて探してはいたのだが、どこも勾玉の隠されていた痕跡さえ感じられなかった。
まあそう簡単に見付かるくらいなら靖之が、いや、伯母のほうがとっくに見つけ出していただろうが・・・

朋之は意を決したように
「俺はお前の系図を辿って関係ありそうな場所を色々探してみたが、どうしても見つける事は出来なかった。それで時渡りをしてみようと思うんだが・・・」
と言った。
「時渡り・・・?」
「ああ、言葉どおり時間軸を超え過去や未来へ行ってみることだ」
朋之の言葉に絵美奈はただ驚いて相手を見詰め続けた。

「どこまで遡れるか分からないが、行けるだけ過去へ遡ってみようと思う」
「朋之・・・」
いつもは自分の考えを伝える事などほとんど無い朋之が今、こんな話をするのは何故だろう、と絵美奈は訝しみながら相手を見詰める。
「なるべく早く戻るから・・・」
そう、朋之がこんなことを自分に言うのは・・・

「分かった。でもそれなら私も一緒に行く」
絵美奈は決然としてそう言った。
朋之は予期せぬ反応に驚いて絵美奈を見詰めている。
「だめだ、そんなこと」
「どうして・・・?」

「どうしても。お前はここで待っていろ、昨日あんな目にあって参っているんだから」
「もう大丈夫だよ、充分休んだんだから」
「それでも、お前を連れて行くわけには・・・」

「危険だから?」
「絵美奈・・・」
「帰って来れなくなるかもしれないから・・・?」
「おい・・・」
朋之はそう言ったきり言葉を失った。

「だから私に教えたんでしょう、時を遡る事・・・。もう二度と会えなくなるかもしれないから」
「そうじゃないよ、でもどんな事が起こるか俺だって分からないから・・・」
「だから、私も一緒に行く」
「だから、ダメだって!俺は二度とお前を危険な目に合わせたくないんだ」

「でももう一人で待つのはいや!二度と会えなくなるかもしれないなら尚更・・・。それに勾玉を受け取った巫女姫は私の先祖なんでしょう?だったら・・・」
「絵美奈・・・」
「お願い、何かあったら一人より二人の方が手を打ち易いし」
「馬鹿言うな、お前を連れて行くくらいなら伊織を連れて行くさ。俺は・・・」

「私は貴方の妻でしょう?違うの?」
「・・・違わない、けど・・・」
「だったら決まり!絶対抜け駆けして置いて行ったりしないでね」
朋之は溜め息をついて絵美奈を見詰める。
そんな朋之に身体を預けて絵美奈は
「お願いよ、もう二度と離れたくない。私を一人にしないで・・・」
と小さく呟いた。

「仕方ないな、まあ巫女姫様には強い力がある。それを信じることにするか」
「強い力・・・」
「ああ、お前の力は安定しなくて俺にもよくつかめないが、時にとてつもない力をみせるからな、お前は・・・」
「まさか、私にそんな力は・・・」

「あるさ、昨日だって一人で地脈を封印できたろう?」
「だって、あれはあの鏡が・・・」
「ああ、鏡も確かに強力だ。だがその力はそれを引き出す巫女の力に比例する」
「そんな、朋之はあの時そんなこと言わなかったじゃない・・・!」
「本当の事を言えばお前は萎縮して自分の力を出せなくなってしまうだろ?そう思ったから鏡自体の力だけで封印できる、と言ったんだ」

「朋之・・・」
騙したの・・・、と言おうとして絵美奈は代わりに軽く溜め息をついた。
そうだ、この人は相手の為なら上手に嘘のつける人・・・そう分かっていたはずなのに―――

「でもお前なら絶対に封印できると分かっていたから・・・。お前の本当の力を出すことが出来れば、だから・・・」
夕べも絵美奈が目覚めた途端に伯母の気配は消し飛んだ。
絵美奈には自分では全く気付いていない、朋之にも未知な力が備わっているのだ。
それが絵美奈の意思でコントロールしきれないのがもどかしいが・・・

「ごめんね、いつまで経っても自分の力を使いこなせなくて・・・」
すまなそうに俯く絵美奈をそっと抱き締めると、朋之は絵美奈を膝から下ろしその手を取って歩き出した。
「言い忘れていたが妹が来ているんだ、お前にも紹介しておかないとな」
「えっ!」

妹って、あの乙彦の鏡に映った朋之にそっくりな女の子―――?
絵美奈は慌てて
「そんな、それならもっといい服に着替えなきゃ」
と寝室に戻ろうとする。

握った手に力を込めて引き止めると朋之は
「その格好で充分。巫女姫様が美人でスタイルも抜群だと一目で分かるから」
と言った。
「ふざけないで、こんな普段着で・・・」
薄紫のセーターにチェックのミニフレアという自分の服装を見下ろし絵美奈は思わず赤くなった。

「構わんさ、向こうも中学の制服だ。着替える余裕などなかったからな」
絵美奈はどうにも気が重いが朋之は手を離してくれそうも無い。
引き摺られるようにして廊下へ出ると伊織も諮ったように部屋から出てきたところだった。

「お帰りなさい、月読様」
「よう、建御雷。どうだ、巫女姫様は綺麗だろう?」
「え、はい。紫が色白のお顔によく映えて。巫女姫様は脚が長いからミニスカートがとてもお似合いです」
「やめてよ、もう・・・」

極く平然とそんな歯の浮くような台詞を言い合う二人についていけず絵美奈は溜め息をつくしか無い。
「では、建御雷のお墨付きももらった事だし、自信を持っていこう」
朋之はそう言って絵美奈を階下へと導いた。

晄琉は乙彦と一緒にテレビを見ていたが、急にざわついた気配に敏感に振り向いた。
「よう、絵美奈、やっと目が覚めたのか。どうした?まだ疲れてるみたいだぜ」
乙彦がふんぞり返ったまま尋ねてくる。

「うん、ちょっとね、でももう大丈夫だよ」
乙彦にそう答え、絵美奈は晄琉のほうを向いた。
ホント、朋之にそっくり・・・
「はじめまして、私、園部絵美奈です・・・」
絵美奈はそう言って笑顔を見せた。
あ〜あ、顔が強張ってないといいんだけど・・・

「あ、私は吉沢晄琉です。ヨロシクお願いします・・・」
晄琉もまた朋之と寄り添い立つ少し年上の少女を見て、うわ〜、本当に高校生だ・・・、と妙なところに感心していた。
高校一年という年齢よりは幾分幼く見える絵美奈に晄琉は想像していたよりはずっと好印象を受けた。
綺麗、と言うよりは可愛い、というほうが似合っている。
彼女をじっと見守る朋之の様子を見ているうちに、兄がこの少女をどれほど大切に思っているか晄琉にも充分伝わってきた。

「あの、いらしてるの知らなくて・・・、こんな格好でごめんなさい」
絵美奈はそう言って恥ずかしそうにしたが、カジュアルな服装はとてもよく似合っている、と晄琉は思った。
「メシは喰ったのか?」
兄に問われ晄琉は素直に頷いた。
こんな単純な何でも無い会話を兄と交わせる事がとても嬉しい。

「そうか、お前はどうする?」
朋之にそう尋ねられた絵美奈は、あまり食欲ないから・・・と答えた。
「後で皆でどっか食いに行くか?どうせ今日は学校はフケだろ〜?」
乙彦がテレビのチャンネルをガチャガチャ変えながら言う。
テレビが一瞬映し出した山村の風景に朋之は眼光を鋭くした。

「おい、今のもう一度写せ!」
テレビの画面は既に別のチャンネルに変わっていたが乙彦は
「え、これか?」
と呟きながらいくつかチャンネルを戻し、朋之の言った山村の風景を映している局へと合わせた。

「なんてこと無いふるさと紀行番組だぜ・・・」
と言った乙彦の目も画面に釘付けになる。
「どうしたんですか、二人とも・・・」
伊織は絵美奈、晄琉とともに怪訝そうにテレビを見詰めた。

それこそどこかの山奥の村の様子をテレビは淡々と映し出している。
こんな映像のどこが・・・と思いながら伊織はハっと気付いた。
山村の上空には厚い雲が覆っている。
その雲の一部が僅かに夕焼けの様に光っていた。
一瞬その雲から一筋の光が村を囲む山々の更にずっと奥へと真っ直ぐに射したように見えたが、次の瞬間にはその光も夕焼けのような明かりも消えて、雲はただの白い雲に戻っていた。

伊織にも極く微かにしか見えない、おそらく絵美奈や晄琉には全く見えていないだろう、だが朋之や乙彦にははっきりと見えていたに違いない。
「これは、急いだ方がよさそうだ。巫女姫のお腹が大丈夫なら今すぐ出発しよう」
朋之はそう言うと伊織に
「俺と巫女姫はしばらく出かける。なるべく早く戻るつもりだ。晄琉の事はお前に任せる。須佐もいるし大丈夫とは思うが何かあったらお前の判断で対処してくれ」
と真顔で言った。

「待てよ、俺も一緒に・・・」
そういいかけた乙彦に朋之は
「この家には靖之のプレートが置いたままだ。鏡と剣、それを操る者―――つまり俺かお前のどちらかはここに残るべきだ」
と強い口調で言った。

「分かった、どこへ行くつもりかは知らないが充分気を付けろよ!」
今度は絵美奈を危険な目に合わせるなよ―――その言外の意味を汲み取って朋之は大きく頷いた。