神鏡封魔録


伝説

  1.

朋之は絵美奈の手を引くと裏庭の池へと歩いて行った。
「朋之、一体どこへ?」
「まあどこでもいいんだけどな、戻ってくる目印が必要だ。迷子になって永遠に時空のはざまを彷徨うなんてのはごめんだからな」
朋之は池の傍で足を止めると耳からあのピアスを外して水中にぽんと投げ入れた。
そのまま真っ直ぐ上に向って腕を振り上げると呪文を唱え始める。

ぱっと強い光が広がり、すぐに水面が波立ったと思ったら、あっと言う間に池を取り囲むように水が噴き上がった。
朋之は絵美奈を硬く抱き寄せ、縁のレンガに足を掛けて水の膜の中に飛び込んだ。
不思議な事に朋之も絵美奈も身体は少しも濡れていない。
水流は二人を包み込むように高く高く立ち上がっていった。

薄い水の膜を通して周りの世界がビデオの早回しのように目まぐるしく移り変わって行くのが見える。
現代から江戸時代、戦国時代を超えさらにはるかな過去へと―――
まったく音の無い静寂な空間に包まれて絵美奈は呆然とその様子を見守った。

「朋之、私達・・・」
その声は男の声の様に低くしかもひどくゆっくりと響いて自分の声とはとても思えない。
絵美奈は朋之の腕を握る手に力を込めた。

どれほどそうしていたものか、永遠に近い時が流れたような気もしたがほんの一瞬だったような気もした。
水の膜が低くなり完全に見えなくなった時、絵美奈は改めて朋之にしがみついた。
二人は太陽の光を反射してキラキラと輝く大海原の只中に立っている。
朋之は水面に足を付いて平然と遠くに見える海岸線を眺めていた。

「朋之、ここは一体どこ?」
足の下に波の流れを感じながら絵美奈は恐る恐る尋ねる。
おそらく朋之の手を離したらあっと言う間に自分は波に飲み込まれ溺れてしまうだろう、絵美奈はそう思った。

「ここはあの家がある辺りの遠い昔の姿だ。俺は場所の移動はできないからな」
「あの辺りは海の底だったのね」
「ああ、どれほどの昔か俺にもよく分からないがな・・・」

「・・・それで、どうするの、これから・・・」
朋之はそうだな、と呟くと絵美奈を抱き上げ、ひょいひょいと身軽に海の上を渡って陸へと向って行く。
狭い海岸はすぐ鬱蒼とした森へと続き、辺りには高い建物も一切見られない。
ただ遠くに富士山と思われる高い山が聳えているのが見えたが、山頂からは白い煙が上がっており、その山容は絵美奈が知っているものとはかなり形が違っていた。

海を渡ってくる朋之を見て海岸にいた数人の人間が恐れおののいて何事か話し合っているのが見えてきた。
そのうちの一人が逃げ出すようにその場を離れる。
やがて朋之が砂浜に着地した時には砂浜は大勢の人で溢れていた。

男も女も粗末な布で作った簡単な服を腰の辺りで紐で縛っただけの質素な身なりをしている。
数人の男は手に槍のような棒状のものを持っていたがそれを身体の前で構えはしても襲ってくる気配は微塵も感じられなかった。
みな一様に恐れを隠しもせず、自分の傍らに絵美奈を下ろした朋之を遠巻きに見てヒソヒソと囁きあっていた。

絵美奈にはその言葉がよく分からないが、彼等の表情やしぐさから二人の事を海から来た神様だと思ったようだ。
朋之が辺りを睥睨すると人々はびくりとして後退り、中には尻餅をつくものもいた。
やがて人垣が崩れ、その間から腰の曲がった老婆が杖を付きながら現れた。
胸にはいくつも勾玉を連ねた首飾りを何重にもジャラジャラと下げている。

老婆は朋之を一目見て腰が抜けたように倒れこんでしまった。
口元はワナワナと震えて何か言いたそうにしているが言葉にならないようだ。
朋之は静かにその老婆に近付きその肩に手を触れる。
相手の心を読み取っているのだ、と絵美奈は気付いた。

朋之は絵美奈の元に戻ると、
「ここより東北に数里進んだところに大きな集落があり、そこは代々強い力を持つ一族に守られているらしい。お前の先祖が住んでいた土地とも近いし行ってみるか?」
「そうね、でもこの時代って現代から見てどれくらい前なのかしら?」
老婆を取り囲みながら恐る恐るこちらを見詰めている人々の視線に少し気まずさを感じながら絵美奈は朋之に尋ねた。

「そうだな、おそらくこの地で農耕が始まったくらいだろうが・・・。この連中の様子を見ると狩猟が主らしいな。もっぱら魚を捕って生計を立てているのだろう」
そう答えつつ朋之はバングルを外して鳥を顕現させる。
突然にどこからともなく鳥が現れ、それが見る間に巨大化する様に砂浜に詰めていた人々は文字通り度肝を抜かれた。

朋之と絵美奈を載せた鳥は大きく羽を羽ばたかせる。
その途端、恐怖に耐えられなくなった人々は悲鳴を上げながら逃げ去って行った。
あの老婆だけが一人取り残され、腰で這いずりながらあわあわと言葉にならない奇声を発し続けている。
朋之はそんな人々を歯牙にもかけず悠然と鳥を東北の方角へと進めさせた。

「あの人たちの記憶、そのままにしておいていいの・・・?」
そう尋ねる絵美奈に朋之は至極平然と
「放っておいてもどうという事も無いだろう。アイツら俺らの事海の神だと思ったらしいが、当たらずといえども遠からず、だからな」

「そんな・・・」
まったく人騒がせな神様もいたものだ、と溜め息を付く。
そういえば神様が海からやってくる、と言う伝説があったような気がしてきた。
どこの話だったかよく覚えてないが・・・

東北へ向って少し行った所で鳥は高度を下げて行った。
眼下に周囲を小高い山に囲まれた集落が見えたところで朋之はゆっくりと鳥を地面につけた。
ここでも突然空から舞い降りてきた巨大な鳥に驚いた人々が簡単な木造作りの住居から飛び出てくる。
見慣れない服装の男女二人が飛び降りた途端鳥が姿を消した事に、集まった人々はそれこそ魂が消し飛ぶほどの驚きと恐怖を覚えたようだった。

ここでも位の高そうな老婆が一番最後に群集を掻き分けるように出てきて、朋之を見て地面に膝を突き拝み始めた。
それを見て他の人々もみな一様に朋之を拝み始める。
朋之は腕を組んだまましばらくそのままにさせておいたが、人々がいつまで経っても拝むのを止めようとしないのにうんざりしたものか、つかつかと老婆の傍に近寄ると
「尋ねたき事がある。拝むのを止めて私の話を聞け」
と言ったが、相手は萎縮して恐れ慄くばかりだ。

ふっと溜め息を付いた朋之は先程と同様に老婆の肩に手を置いた。
老婆はひえ〜、という悲鳴を上げてその場崩折れてしまう。
「案ずる事は無い、何もしやせぬ」
と言ったがそれがどこまで老婆に伝わったかは不明だった。

「朋之、どうするの?」
絵美奈は朋之に近付きそっと尋ねる。
その瞬間に人々の口からどよめきが起こった。
「な、何、一体・・・」

驚く絵美奈に朋之は
「お前のことを恐れているのだ。その服や髪、話す言葉がとても珍しく感じられるのだろうな」
と言って老婆に触れていた手を離した。
そのとき何かにスカートを引っ張られ絵美奈は驚いて朋之にしがみついた。
子供の一人が慌てて掴んでいたスカートを離し、逃げ去っていく。

「この時代に合成繊維など無いからな、お前の服が何で出来ているのか興味が湧いたんだろう。まあそんなことより、この婆さんは子供の頃祖母から不思議な娘の話を聞いたことがあるらしい。その祖母もまた爺さんか婆さんから伝え聞いた話らしいが・・・。
昔、幼い頃神隠しに会って何年も経って戻ってきた娘がいたと。戻ってきた時その娘は身篭っていてやがてこの上なく美しい女の子を産んだ。娘はその子の父親は神様だと言ったのだそうだ」

「!」
「じゃ、この村はその巫女姫の・・・」
「さあな、この村のことでは無いかもしれんな、ただの作り話かも・・・。娘はしばらくして生まれた子と一緒にまたいずこへか姿を消してしまったらしいし・・・。
それに、娘は勾玉らしきものは持っていなかったようなのだ。まあ、持っていたとしてもやたらに人に見せたりはしなかっただけかもしれないが・・・」

「そうなの・・・」
そう簡単に勾玉の行方が分かるはずは無いとは思うがどうにも心もとない話である。
「で、どうするの、朋之?」
「そうだな、ここにいても仕方ないし・・・」

朋之は再び老婆の肩に手を置く。
腰を抜かした老婆は今にも失神しそうだ。
朋之はすぐに手を離すとひょいと絵美奈を抱き上げ軽く跳躍した。
そのまま空中を漂うように進んでいく朋之を村人たちはそれこそ腰を抜かして泡を吹きながら呆然と見送った。

長い跳躍を幾度か繰り返しながら北側に聳える山中へと分け入った朋之は深い茂みの中へと踏み込み、やがて小さな泉の前へ出たところで絵美奈を下ろした。
「朋之、ここ・・・」
なんて綺麗な水だろう、水だけではない辺りの空気も澄み切っていた。

「ああ、あまり強くないが結界が張られているだろう。巫女姫と縁があるかどうかは分からんが、この清浄な空気はこの地が潔斎の地であった名残だと思う」
「じゃ、ここに勾玉が?」

朋之は軽く首を捻る。
「いや、そんなに強い気は感じられない。少なくとも今この近辺に勾玉は無いようだ」
「そうなの・・・」
絵美奈はそっと泉の周囲を見回した。

「勾玉は隠されている、と言ったよね」
「ああ、俺はそう聞いたが・・・」
「朋之や他の天つ神にも見つけられないような場所って、どんな所なんだろうね・・・」
「そうだな・・・。異界か時空の彼方か」

「時空の彼方?」
「うん、この宇宙には俺たちにもよく分からないことが多い。全く別次元の時空が存在しているらしいことは薄々分かっているんだが・・・」
絵美奈は封印の鏡が壊されヒルコ神達が街にあふれ出したとき乙彦が言った言葉をふっと思い出した。
―――別次元に通じる小さなブラックホールを作ってコイツラをその別次元に移動させるんだ―――

「乙彦君なら、須佐之男命なら、別次元に通じる道を作り出せるんじゃないの?」
「多分な。だが、巫女姫に須佐と接触する術はないと思うし・・・」
「そっか・・・」

朋之は左腕からブレスレットを外して泉にそっと沈めた。
「蛟の精よ、月読の前に真実を映せ」
朋之がそう呟くと静かな波紋の広がった泉の面には人の姿がぼんやりと浮かび始めた。

夢で見た月読命―――
間違いない、長い髪、端正な顔立ち、優しそうな瞳、そして首にはあの首飾りを提げている。
そうだ、夢で見たあの人はこんな風だった―――絵美奈の脳裏に夢の記憶がはっきりと浮き上がってきた。

どこがどうと言う事は出来ないが、全体の雰囲気が朋之と似ている。
朋之がもう少し大人になったらこんな感じになるのかもしれない、絵美奈はじっとその姿を見詰めた。
そしてその胸元を飾る首飾りを―――
あれ?夢で見たのと少し違っているような気がする―――絵美奈は不思議に思いさらに揺れる水面を凝視した。

でも一体どこが・・・
そう思ったとき、泉に移った人物は首からその首飾りを外すと誰かに手渡した。
その相手はぼんやりとかすんでよく見えない。
やがて泉は再び波打ち、映像は消えて行った。



  2.

「これ以上は見れないか・・・」
「朋之・・・」
「勾玉に関しては禁則がかかっている」
「どういうこと?」
「あの月読は勾玉の行方を決して誰にも知らせたくなかったらしい。全く厄介な事だ」

朋之はそっと泉に手を入れる。
水は強く波打ち、朋之の腕の周りで水流を作ったと思うとすっとブレスレットに戻ってその腕に巻きついた。
軽く手を振って水滴を払い落としながら朋之は再び絵美奈を抱き上げ山の麓へと跳躍した。

少し開けた平地に立つと朋之は絵美奈を静かに下ろした。
平地の周囲には山桜の木が周囲を囲むように植わっている。
「ここは・・・?」
「多分あの村の聖地だろう。ここで祭りなどを行うんだと思うが・・・」

ふと気がつくと村人が何人か集まって遠巻きにこちらを指差している。
朋之はそんな連中は軽く無視して
「仕方ない、あと百年かそこら遡ってみるか?」
と言った。
「え、でも・・・」

「あまり頻繁に時間軸を弄るのは好ましくは無いんだが・・・」
朋之はそう言うと先程と同じ様に腕を振り上げる。
二人の周囲は今度は風の膜で覆われた。
その様を目の当たりにした村人はそれこそ腰を抜かして泡を吹く。
「もう、朋之ったら、面白がってるでしょ!」
「ははは、バレてた?連中があんまり驚くものだからつい、ね」

薄膜のフィルターを通して周りの景色がめまぐるしく移り変わるのはさっきと変わらない。
だが先程と違って時折膜が乱れ強い風が吹きぬけるのが感じられた。
絵美奈が不安げに朋之を見上げた時、ビシッという音がして空間が大きく歪んで見えた。

―――まずい、時空の裂け目に入ってしまったか・・・
瞬間的に朋之の考えが絵美奈の脳裏を走り抜けた。
「朋之!」
足元から漆黒の闇が二人を飲み込もうとするかのように広がってきていた。

―――絵美奈、お前だけでも・・・
抗いがたい強い力で弾き飛ばされ絵美奈は思わず朋之の手を離してしまった。
「いやっ、朋之!離れないで、私も一緒に・・・!」
あっと言う間に朋之は漆黒の闇に飲み込まれる。
静寂だけが支配する空間に放り出された絵美奈は、ただ朋之の名を呼んだがその声も音にはならないようだった。

あちこちで様々な色の光が明滅する不思議な空間を絵美奈は漂うように浮かんでいる。
自分が進んでいるのかどうかも分からなかった。
あの時どうして自分は手を離してしまったのだろう。
片時も離れたくないと心から思っていたはずなのに

朋之―――
そうだ、自分はいつまでもこんなところに居るわけにはいかない、はやく朋之を探さなければ・・・
朋之、どこにいるの・・・?

絵美奈は精一杯辺りに注意を払ってみたが朋之の気配はどこにも感じられない。
朋之は時空の裂け目とやらに捕らわれてしまったのか。
ならば自分はどうしたら、どうしたら朋之を助けられる・・・?

絵美奈の目の前を七色の光が閃いては消えて行く。
そうだ、私は勾玉を探しに旅に出たのだ。
勾玉の行方、それを知っているのはあの月読命だけ・・・

夢の中で駆け寄ってきた月読命の胸には確かに美しく輝く勾玉を連ねた首飾りが揺れていた。
彼はそれを本当に巫女姫に、前世の自分に渡したのだろうか―――
その辺の記憶がどうにもはっきりしないのがもどかしい。
勾玉はどこへ・・・?

ふっと歪んだ空気の膜の向こうに見覚えのある映像が過ぎった。
あれは―――
見渡す限り広がる草原に手を取り合い佇む少年と少女。
どちらもまだ子供だ。
二人は何事か話し合いやがて頬を染めて俯く。
少年の方の胸には勾玉を連ねた首飾りが揺れている。

月読命、貴方は神器の勾玉をどこへやったの・・・?
二人は手を取り合って走り去る。
後にはただ無限の草原だけが広がっていた。

朋之・・・、朋之を助けて、そして勾玉を見つけ出さないと・・・
朋之・・・
遠くに一際強い光を感じ絵美奈はそちらへと手を伸ばした。
その光の先で朋之が自分を待っていてくれる、そんな気がして・・・

「朋之・・・」
目の前に浮かんだ顔に絵美奈は話しかける。
「ひどいよ、朋之、ずっと一緒にいてって言ったのに・・・」

相手も口を開いて何か言葉を発したが絵美奈にはよく聞き取れなかった。
「え?何?今何て言ったの・・・?」
相手はまた口を開いて何事か話しかけてきたが絵美奈にはやはりよく分からない。
相手は首を横に振って軽く溜め息を付くとそっと絵美奈の頬に手を当てた。

違う・・・、この手は朋之じゃない・・・
ハッと驚いた絵美奈の心に相手の思考が流れ込んできた。
―――ああ、私はそういう名の者ではない、残念ながら・・・

朋之とよく似た力の波動・・・
でも次第にはっきりしてくる視覚が捕らえたのは朋之の面影をどこか宿した別の若い男の顔だった。
薄暗い狭い部屋の中で仄かな明かりに照らし出された端正な顔、その中できらきらと輝く緑色の瞳は朋之のものとよく似ていた。

「貴方は!」
そう言って飛び起きた絵美奈は初めて自分が板張りの床の上に寝かされていた事に気付いた。
「大丈夫か?そなたは時空の間を彷徨っていたのだ。あのままでは永遠にあの開かれていながら閉じられている無の空間を漂い続けねばならない、だから助けたのだ。そなたは私の知っている娘によく似ている。放っては置けなかった」

長い髪を真ん中から分け両耳の辺りで輪に結んだ髪型と古代の服装、そしてこの顔は―――
「貴方は月読命ね・・・!」

絵美奈の言葉に相手は苦笑交じりの笑みを見せる。
「ああ、確かに少し前まではそう呼ばれていたな。だが今の私はただの天つ神の一人。璋瑛王、それが私の名前だ」

自嘲気味に呟く相手の胸に首飾りは下がっていない。
この人があの月読命なら勾玉は一体どうしたのか・・・
「私、私は未来から来たの。貴方に会って勾玉の行方を聞くために・・・」

「勾玉・・・?」
「ええ、そうよ。貴方は確か勾玉を連ねた首飾りを胸から提げていたはず」
「!」
璋瑛王は驚いて絵美奈を見詰める。

「未来から来たというそなたがなぜ私の首飾りの事を知っているのだ・・・?」
「夢で見たの、貴方を。私は・・・」
璋瑛王は両手で絵美奈の顔を包むようにしてじっと見詰める。

「まさか、そなたは・・・。そなたは巫女姫に、私の妻によく似ている。その顔も姿も身体から湧き出る力の波動も」
その言葉とともに絵美奈は硬く抱き締められていた。
「そうか・・・、妻は無事に子を産んだのだな。だからそなたがこうして遠い未来から私を訪ねてきてくれることになった、そうなのか・・・?」

「そうよ、私は朋之と、今代の月読命と一緒に時を渡ってきたのよ。三種の神器の一つ、勾玉を手に入れるために・・・」
「今代の月読命―――」
璋瑛王はじっと絵美奈を見詰める。
その聡明そうな瞳にさっと一瞬影が走り抜けたような気がした。

「私が見つけたときお前は一人で漂っていて他の者の気配はなかったが・・・」
「朋之は私を弾き飛ばしたの、お前だけでもって言って。あの人は何時も・・・!」
絵美奈の目から大粒の涙がポロリと落ちる。

璋瑛王は瞬時に絵美奈の思考を読み取ったらしく、
「その者は時空の裂け目に飲み込まれてしまったのかも知れぬ」
と考えを巡らすように言った。
「時空の裂け目?」

「ああ、かなり無理な時間操作を行ったのだろう?空間がその時空のひずみに耐え切れず亀裂を生じさせたのだ。時空の裂け目は歪んだ空間、そこに飲み込まれたものはまず再び外へ出る事は出来ない。
お前はその裂け目に沿って出来た無の空間、時空の間に押し出されたものだろう、恐らくな・・・」

「そんな、じゃ、朋之はどうなってしまうの!?」
「普通の人間ならまず生きてはいられないだろうが・・・」
その言葉に絵美奈は気を失いそうになる。

璋瑛王はその肩を掴んで絵美奈を支えると
「しっかりしろ、その者は今代の月読、そう言ったか?」
と尋ねた。
「え、うん、そうよ」
「ならばプレートを持っているな・・・」
「もちろんよ!」

「では・・・」
璋瑛王はじっと絵美奈の顔を真正面から見詰めると絵美奈の右の掌に自らの左の掌を重ねた。
えっ、何・・・!?―――
重ねられた掌から白銀の光が一瞬迸った。
ひんやりと硬いものが押し付けられそれが溶けるように自分の身体にスルリと入り込んだような気がして絵美奈は思わず手を離した。

「あの、今のは・・・?」
絵美奈は手を裏返したり、振ったりしてみたがどこといって前と変わりはなかった。
璋瑛王は笑って
「そなたに力を授けたのだ。今のそなたなら時空の裂け目を破り今代の月読の元へたどり着けるだろう」
と言った。

「え・・・っ」
「そなたには少しだが天つ神の血が流れている。新しい力を使いこなすことができるだろう。その力を以って今代の月読のところへ飛ぶがよい」

「あの、教えて、貴方が提げていた首飾りはどうなったの?」
「あれは我が妻に渡した。傍仕えの巫女を通してだが、その者は必ず妻に渡すと約束してくれた。嘘を付けば私にはすぐに分かるから・・・」

「じゃあ三種の神器の一つ八尺瓊勾玉も・・・」
「だから八尺瓊勾玉は・・・」
璋瑛王がそう言いかけたとき
「璋瑛王、その者は・・・」
と言う声がして薄暗い部屋の中にさっと明るい光が射した。
そのあまりの眩しさに絵美奈は目が眩んで何も見えなくなった。

「どうしたことだ、なぜ下界へ放逐したはずのこの娘がここにおる!」
怒りに震えた若い女性の声が響いた。
「姉上・・・」
ようやく慣れてきた目に美しく着飾った相手の姿が映る。
璋瑛王とよく似た顔立ちのその女性がこの時代の天照である事は間違いなかった。

「我が弟から離れよ、この恩知らずの泥棒猫が!」
天照はそういうと絵美奈に向って手を振り上げた。
璋瑛王は姉と絵美奈の間に割って入って絵美奈を背に庇うと姉の手を掴んだ。

「おやめ下さい、姉上、この者は」
「ふん、少しばかり成りを変えたところでわらわの目はごまかされぬ、月読、いや璋瑛王よ、この部屋にこともあろうにこの者を引き入れるとは、一族に対する重大な背信行為であるぞ」

「姉上、巫女姫は私の妻だ。父上は我等の結婚を喜んでくださった・・・」
「一族の長はこのわらわだ!わらわが認めぬ以上、この者はそなたの妻などではない!」
「姉上・・・」

「愚かで薄汚い人間の娘が、目をかけ天界に招いてやった恩も忘れて弟を誑しこむとは。万死に値するところ放逐だけで勘弁してやったのだ、それを感謝するどころか、わらわの目を盗んでこうして弟のところに忍び込むなど!このあばずれが!」

「姉上!いくら姉上といえど私の妻を侮辱するのは許さない」
静かな物言いとは裏腹にその言葉には激しい怒りが込められている。
璋瑛王の周りの空気がぞわぞわとざわめくのを絵美奈は感じた。

同時に対する天照の周辺の空気も不穏な動きを見せ始めた。
二人の力はほぼ同じだ、と絵美奈は直感的に悟った。
この二人は双子だった。持って生まれた力も互角、だが璋瑛王にはプレートが無い・・・



  3.

激しい衝撃の予感に打ち震えた絵美奈だが天照は振り上げたその手を力なく落とした。
「そんなにもその巫女に心を奪われてしまったのか?このわらわを敵に回し一族を裏切っても構わぬと思えるほどに・・・」
その声は今までの居丈高な口調とは程遠い、弱々しく力ないものだった。

まさか、この人は・・・
だが彼女が弱さを見せたのはほんの一瞬、すぐにまたもとの猛々しい表情に戻り絵美奈を睨みつけた。
「姉上、私は・・・、一族と貴女のために力を尽くしたいという気持ちに嘘は無い。だからこうして幽囚の身に甘んじてもいるのです・・・!」

「黙れ!そなたはわらわを・・・、一族を裏切ったのだ!もうよい、望みどおりそなたが妻と定めた女と運命を共にするがよい!」
その声とともに空間が歪む。
璋瑛王と絵美奈の周りはあっという間に闇に閉ざされた。

「私たち、どうなるの・・・?」
怯える絵美奈に璋瑛王は
「案ずる事は無い、私が結界を張ったから。さあそなたはそなたの探し人の元へ行くがよい。その者のことを強く念じれば道は開くはずだ」
と優しく諭すように言った。

「でも貴方は?このままでは貴方は・・・」
璋瑛王はふっと笑って言う。
「構わぬ。こうして生きていても私は死んだも同然。早く死ぬか遅く死ぬかの違いだけだ」

「だめよ、巫女姫は貴方を待ってる、貴方が来てくれるのを。どうして彼女のところに行ってあげないの!?」
絵美奈は璋瑛王の腕を掴んで叫ぶように言った。

「私が巫女姫の元へ行けば姉はこんどこそ彼女を殺すだろう。私は彼女に生きていて欲しい。たとえ共に暮らす事は出来なくても・・・
それに累は巫女姫だけではなく、その周囲のものどもにも及ぶかもしれぬ、へたをすれば下界に甚大な被害が出てしまうかもしれない」

「それは・・・、でも・・・。私は、私だったら、朋之と共に生きられないなら、せめて一緒に死にたい。巫女姫だってきっと同じ気持ちだと思う。彼女がそれをしないのは・・・、できないのは・・・子供がいるからだわ!」
「・・・ああ、そうだな、そなたの言うとおりなのだろうが・・・」

漆黒の闇が結界を揺らす。
「お願いよ、一緒にここを出ましょう!貴方だって自分の子をその手に抱きたいはずよ!」
「だが・・・」
璋瑛王の瞳に迷いの影が過ぎる。

「このままずっとこの部屋で一生を送るつもりなの?妻をただ一人遠くに追いやって、生まれてくる子を見ることもなく・・・」
絵美奈は真っ直ぐに璋瑛王の眼を見詰めて言った。
「私だって妻とともに生きたい。この先の長い時を喜びも悲しみもともにしながら・・・。だが姉は・・・」
璋瑛王はそう言って辛そうに心持ち顔を背けた。

そう、あの人は愛している、実の弟である璋瑛王を・・・
結婚に反対したのは巫女姫が人間だったからではない。 相手が誰であろうと他の者に取られてしまいたくなかったのだ。
自分には決して許されない想い・・・
ならば誰にも渡さない―――
そうやって巫女姫から引き離したとしても自分の想いが報われる事はないと分かっていても・・・

そして璋瑛王もそれに薄々気付いている。
だから黙ってこんなところに幽閉されているのだろう。
だけど・・・

結界が破れ漆黒の闇が絵美奈と璋瑛王の間にも落ちてきた。
「貴方は逃げてるんだわ、なにもかも巫女姫一人に負わせて、自分一人こんなところに逃げ込んで・・・」
「私は・・・」
「巫女姫は貴方を待ってる、何があろうと貴方が傍にいて守ってあげたら・・・」

辺りを包む闇にもう相手の顔すらも見えなくなった。
早く逃げないと、この闇に包まれたら全てが終わる―――
絵美奈はそう直感する。
だが自分一人で逃げるのは・・・

その時絵美奈の右手に温かいものが触れた。
―――そなたには勝てぬな・・・
ほんの一瞬流れ込む暖かな想い、それと共に右の掌から迸った眩い光の中絵美奈は弾かれるように宙に舞い上がった。

―――そなたの会いたい相手の事を強く念じ、閉ざされた空間を切り開くのだ・・・
―――璋瑛王、貴方は・・・?
既に右手に触れる感触はなく、絵美奈はただ一人暗黒の空間に取り残された。

ここはどこだろう、また一人になってしまった、いや・・・
絵美奈は自分の右手を驚きを持って眺めた。
掌がこの漆黒の闇の中で光を放っている。
これは一体どうしたこと?璋瑛王はこの手に何をしたのだろう・・・?

璋瑛王・・・?
闇がほんの少し薄くなりその黒いベールの向こうに璋瑛王の姿が見えたように感じられた。
一面の草原をかき分けゆっくりと進んで行く後姿、その姿は大人の様にも幼い少年の様にも見える。

璋瑛王はどうしたのだろう。
優しすぎるあの人は結局あの部屋で一生を過ごしたのだろうか、伝説どおり・・・
いけない、今は朋之を助ける事を考えなくては―――
絵美奈は朋之の姿を思い浮かべ心の中でその名を強く呼んだ。

右手が焼けるように熱く感じられ発する光もますます強くなる。
「朋之!」
そう叫んだ時絵美奈は懐かしい感触に包まれていた。

「絵美奈!お前どうして・・・」
朋之の腕に抱かれている自分に気付き、絵美奈は驚きと喜びで感極まって泣き出した。
「よかった、朋之とまた会えて・・・。朋之が死んでしまったら私・・・」

「馬鹿だな、俺が死ぬわけないだろう。でも正直、ここから永遠に抜け出せないかもしれないとちょっと焦ったけど・・・」
「璋瑛王が・・・」
「え・・・?」
「璋瑛王が私に力をくれたの・・・」
涙に暮れながら絵美奈はやっとそう呟いた。

「誰だって?」
「璋瑛王、あの月読命よ、伝説の」
「まさか・・・」
「本当よ、あの人が私の掌に触れたら何かが私の中に入りこんで・・・。この新しい力があれば朋之のところに行けると言ったわ」

「新しい力?」
朋之は怪訝そうに絵美奈の右手を見る。
確かに強い力の波動がその手から迸り辺りの空間を揺らしている事に朋之も気付いていた。

「不思議だな、こんな波動の力は初めて感じるはずなのに、ずっと昔から知っているような気がする。初めてお前と会った時と同じ様な感じだ」
朋之はそう言って絵美奈の右手を自分の胸に押し当てた。
眩いばかりの光の洪水に目を開けていられず絵美奈は硬く目を閉じたが、瞼の裏には強い光の残像が残っている。
右手を通して朋之の力が流れ込んでくるのを感じながら、絵美奈は元いた場所に戻りたいと願った。

絵美奈と朋之の力が交じり合う。
揺らめく空間をどれほどの間漂ったのか、ガクッと身体が重くなり足に衝撃を覚え絵美奈は目を開いた。
倒れそうになるところを支えてくれる強い腕に身体を預け絵美奈はうっとりと目を閉じる。
だがその瞬間に周囲から沸き起こったどよめきに絵美奈は否応なしに現実に引き戻された。

気が付くと周囲には古代の服装の人々が大勢取り巻いて呆然としてこちらを見ている。
どうやら何かの祭りの最中だったらしい。
ようやく辺りを見回して絵美奈は今いる場所があの巫女姫の話を聞いた村の北側の平地であることに気がついた。

あの時は何も無い平地だったのに今は石をいくつか積み上げて作られた室のようなものが中心辺りに作られていた。
一番上に積まれた石には注連縄が張ってある。
「おお、あなたは・・・」
人垣の中からよぼよぼの老人がよたよたと歩み寄り、絵美奈に畏怖の目を向けた。

「間違いない、貴方がたは六十年前にもこの村に現れた。その姿も着ている不思議なお召し物もあのときのまま・・・」
「六十年前・・・?」
「はい、そうです。あの時恐れ多くも貴女様のお召し物に触った子供が居た事を覚えていらっしゃいますか」
「まさか、貴方があの時の・・・」
目を見張る絵美奈に老人は懐かしそうな笑顔を向けて幾度も頷いた。

「どうやらあの時から大分経ってしまっているようだが・・・」
朋之が辺りを見回しながら呟く。
「私はもと居た所に戻りたいと思っただけなのに・・・」
「まあ、元いた場所に間違いはないな、少しばかり時間軸がずれただけで」
「うん・・・」

「今日は我等が収穫を祝い先祖に祈りを捧げる聖なる祭りの日、その良き日に稀人を迎える事が出来るとは大変光栄な事に存じます。どうぞ今日はこの村にお泊り下さって我らの寿ぎをお受けくださいませ」
老人の申し出に絵美奈はどう答えたものか朋之を見上げる。

「どうするの、朋之?」
「そうだな、少し無理な移動をしすぎて時間軸が乱れている。今時間移動をするのは危険かもしれない・・・」
「危険?」
「この世界の空間そのものが捩れて亀裂を生じてしまったら、この国の歴史そのものが破壊されてしまうかもしれない。今夜はこの村で休ませてもらうか」

「朋之、でも・・・」
そんなに呑気にしていていいの・・・?
と言いかけた絵美奈に朋之は軽くウインクしてみせる。
「大丈夫さ、ちゃんと出発した時に戻れば」
「だけど、今だって・・・」
「まだ時間軸の乱れが酷いからな。明日になればずっと落ち着くはずだ」

朋之は老人に向き直ると
「よかろう、私はそなたたちの村に祝福を与えよう。月読とその妻の名において」
と言って手を翳した。
途端に平地の周囲に自生した山桜がいっせいに花を咲かせた。
村人の間から再び歓声とどよめきが上がる。

「朋之、大丈夫なの、今時間軸をいじったら・・・」
「ああ、捩れを少し修正しただけだから」
朋之と絵美奈は祭りの上席に席を占め、素朴だがのどかで楽しげな村祭りの様子を愉しんだ。
供された米で作られた酒は申し訳ないが絵美奈の口には合わなかったが・・・

老人は六十年前朋之と絵美奈が姿を消したこの場所を神の国への出入り口として記念塚を建てて祭る事にしたのだ、と教えてくれた。
朋之はその話を聞いてただそうか、と言って酒を口にしている。
全く、悪戯好きなんだから・・・
日頃の言動とは裏腹に朋之が時折見せる妙に子供っぽい一面を、絵美奈は少し呆れながらもどこか愛しく思った。



  4.

それにしても巫女姫とその子供は一体どこへ行ってしまったのだろう。
そして璋瑛王はあの後どうしたのか?
こうして人の世が平和であると言う事は璋瑛王が恐れた騒乱は起きなかったのだと思われた。

ということは、やはり璋瑛王はあの部屋に留まったのだ。
そしてそのまま亡くなった。
今はもうあの天照も亡くなって、おそらくその子孫に代替わりしていることだろう。

老人は村長らしく朋之と絵美奈の隣に少し控える形で座を占め、村の歴史や風習、古くからの言い伝えなどを問われるままに教えてくれた。
その話の中から小規模な人間同士の戦は頻繁に起こったことが窺えたが、天つ神が絡んでいるような大きな戦乱はなかったようだった。

石塚を取り巻く大きな輪の中心で年老いた巫女が豊穣の神へ祈りを捧げその周囲を村人が簡単な楽器の演奏に合わせて回りながら踊ったり歌ったりしている。
祭りは村人が交代で夜っぴて続けられるが、朋之は絵美奈の身を気遣って夜半近くには老人の家で休ませてもらった。

神の花嫁である絵美奈は村の女たちからあちこち触られて少々閉口気味だ。
女たちは絵美奈に触れることで幸運を授かろうとしているらしかった。
老人は村長で家も村で一番大きく立派なものだったが、現代の感覚からいえば粗末な掘っ立て小屋に毛の生えたようなものである。
その一番奥まった上室で絵美奈は朋之とともに休んだ。

すぐ隣で安らかな寝息を立てる朋之の髪を撫でながら絵美奈は璋瑛王のことを思った。
優しすぎるあの人は結局あの部屋で一生を過ごしたのだ。
生まれてきた子を見ることもなく・・・
そう思うと込み上げてきた涙が堪えきれずに一粒頬を伝った。

朋之ももし絵美奈の命が危険にさらされると分かったら、同じ様に絵美奈と別れることで守ってくれようとするだろうか。
絵美奈は軽く頭を振る。
朋之はあの人であってあの人でない。
きっと違う道を選んでくれる、そう信じてるから・・・

そっと繋ぎ合わせた手から仄かな光が溢れる。
璋瑛王が授けてくれた力、身体中がほっと温まるような優しいこの力は一体どんなものなのか、絵美奈は心地よいぬくもりに包まれてそっと目を閉じた。

瞼の裏にあの天照の悲しげな顔が浮かんで消えた。
あの人は弟を愛していた。
天照と月読―――同母の姉弟・・・
まさか・・・
絵美奈の気配を察したのかゆっくりと朋之が瞳を開いた。

「どうした、眠れないのか?」
朋之はそう言うと絵美奈を引き寄せる。
「朋之・・・、朋之の伯母さんは、まさかとは思うけど・・・」

朋之は絵美奈の心を読み取ったのか
「ああ、あの人は愛しているんだ、俺の父を・・・」
と静かに言った。

京介の言葉―――伯母がなぜ父ではなく自分を選んだのか・・・
初め朋之にはその意味がよく分からなかった。
だが日照殿で伯母と対峙した時に感じたのだった。
自分はあらゆる意味で父の身代わりなのだと―――

親族結婚を繰り返してきた宗主家でも唯一許されなかった事、それは同母の兄妹姉弟の結婚だった。
同じ母から生まれた姉弟は結婚する事は出来ない、だが伯母と甥なら―――

朋之の存在を知った伯母は諦めきれない弟への思いを甥に向けたのだった。
父はそれに気付いたのだろう、だから朋之が出来る限り外界で暮らせるように手を打った。
ならば、父が自分に施した術とは・・・

「朋之・・・」
腕の中で不安げに名を呼ぶ絵美奈を朋之はぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫だ、俺の妻はお前だけだ、他のどんな女とも結婚などしない、どんな事があってもな・・・」
重ねた掌から暖かな光が迸る。
その光に包まれるようにして二人は固く身体を繋ぎ合わせた。

朋之の腕の中でまどろみながら絵美奈は璋瑛王の夢を見た。
その胸に揺れる首飾りをぼんやりと眺めながら絵美奈は気がついた。
そうか、朋之の水鏡で見た璋瑛王が下げていた首飾りには中心に結わえ付けられていた一際大きくて美しい勾玉が欠けていたのだ―――と。

翌朝、絵美奈は朋之に夢で見た璋瑛王と首飾りの事を話した。
朋之はさしたる反応も見せずただ黙っている。
その様子にすこし物足りないものを感じた絵美奈だが朋之は何を聞いても生返事しか返してよこさなかった。

村人にとってはかなりのご馳走だろうと思われる朝食を済ませ、絵美奈は朋之に伴われ老人の家を出た。
時空の乱れがほぼ収まっている事を感じ取った朋之はずっとこの村に留まって欲しいと懇願する老人達に言った。

「そなたたちの気持ちは嬉しいが私は一つ所に留まる事はできない。ここは大地の恵に満たされた美味し土地。そなたたちが平和に暮らせるよう私も今一度祝福を与えよう」
朋之はそう言って両手をさっと広げた。
枯れ草の大地があっと言う間に緑の絨毯に変わる。

村人が驚嘆する間に朋之は式神の鳥を顕現させると、絵美奈を抱いてさっと飛び乗り海へと向った。
上空から村人がひれ伏して拝んでいるのが見える。
「全く、朋之ったら少しやりすぎよ。タチ悪いったら・・・」

「たまにはいいだろ〜。常日頃少しも神様らしい生活をしてないんだし」
「ホントに、変な伝説が生まれちゃったらどうするの」
「それもまた一興だろ?」
「呆れた!」

「さて、このあたりか・・・」
朋之は陸から少しはなれた海上に出ると絵美奈を抱き寄せ、海面の上にすっと降り立った。
鳥は以前の様に一条の光となって朋之の腕に巻きつき元のバングルに戻る。

「朋之、こんどはどうするの?」
絵美奈は朋之の身体に硬く身を寄せながら尋ねた。
「仕方ない、俺たちの生きる時代へ戻ろう」
「でも、勾玉は・・・」

「勾玉は隠されている。誰の手も届かない場所に。俺たちには近づく事が出来ないだろう」
「そんな・・・!」
「俺たちにも手が出せないが、伯母や靖之にも同様だ。ここは勾玉抜きで戦う事を考えるしかない」

「けど、それじゃ・・・」
不安げに眉を顰める絵美奈の右手をそっと握って朋之は笑みを見せた。
「大丈夫、璋瑛王とやらはお前に凄いものを授けてくれたらしいじゃないか。この力があれば・・・」

重ね合わせた手がぼうっと光を帯びる。
互いに力が混ざり合い一つに解け合うような不思議に心地よい感覚に絵美奈が酔いそうになった時、周囲を水の膜が包み朋之と絵美奈を取り巻いた。
「大したものだな、昨日より時間軸の動きがずっと安定している。それに・・・」
朋之は繋いだ手を見下ろした。

重ねた掌が熱い。
二人の手の間迸り出る眩い光がこの閉ざされた不思議な空間を包み込んでいた。
その光に守られ導かれるようにして二人は時の旅を続ける。
周囲は昨日同様ものすごいスピードでこんどは反対に過去から現代へと移り変わって行った。

ふっと身体が重くなったように感じ、絵美奈は現代に戻ってきたことを知った。
日の高さから見て出発した時より二時間くらいは時間が経過してしまっているだろうか。
朋之は絵美奈を抱きかかえられるようにして、池の中から地面へと飛び降ると水面へとすっと手を差し出す。
小さな水しぶきが上がった時には朋之の掌にはあのピアスが載っていた。


慌しく出て行った朋之と絵美奈を見送った後も、乙彦と伊織はしばらくテレビ画面を見詰めていた。
あの光は今はもうテレビ画面からは消えている。
「ねえ、一体何の事?」
怪訝そうに尋ねる晄琉に伊織は
「いや、何でも・・・」
と口の中でもごもごと呟いた。

「いやな予感がするな。俺はあのプレートを見張る。お前は・・・」
乙彦はそう言って晄琉を指し示すと
「コイツをしっかりガードしてやれ」
と言ってプレートと鏡を手に自室へ戻った。

「お兄さん達もあの子もどうしちゃったの?」
晄琉は不審そうな表情を隠しもせずに伊織に尋ねてくる。
「うん、君には見えなかったかもしれないけど、あの山の向こうは僕等の里がある場所なんだ。何重にも結界が張ってあるから普通の人間には知られる事は無いと思うけど。
その里の上空に一筋の光が差していた。あれは・・・」

「どうしたの?」
「あんな光は見た事が無い。何か悪い事が起こりそうな気がする」
顔を曇らす伊織に晄琉は困惑を隠せない。
「どういう事なのかよく分からないわ」
「僕にもよく分からないよ。ただ・・・」
「?」

「姫神様は、僕たちの長は何かとんでもないことを考えているのかもしれない」
そうだ、靖之を影で操っていたのは姫神様だ。
封印を破りヒルコ神を甦らせる、そうまでして姫神様が得たかったものとは何なのか・・・
靖之が朋之の身体を乗っ取ることが姫神様の意に沿うとはどうしても思えないのだが・・・

裏庭の方で瞬間的に強い光が迸るのが応接間の窓からもほんの少し見えた。
朋之の気配がこの世界から消えるのを感じ、伊織は生まれて初めて言いようの無い不安にかられた。
朋之の居ない間、自分はこの娘を、大切な朋之の妹を守りきれるだろうか・・・

不意に右手に温かい感触を覚え、伊織はハッとなった。
いつの間にか伊織の右手は晄琉の両手に包まれるように握られている。
「ずっと傍に居てくれるよね。今度は一人で置いて行ったりしないよね・・・」
「ああ、勿論・・・」
そう言いかけて伊織は頭を鋭い刃物で刺し貫かれたような痛みを覚え、思わず頭を抱えしゃがみ込んだ。

「何、どうしたの・・・」
晄琉もまた傍らに屈みこみ伊織の顔を見詰める。
伊織は頭を両手で抱えたまま苦しげな呻き声を上げている。
その額には脂汗が浮かんでいた。

「伊織さん!」
「ああ、頭が、頭が割れそうだ・・・」
どうしていいのか分からず、晄琉はうっすらと涙ぐむ。

―――ふふふ、お前は建御雷が好きなのだな
晄琉の頭の中に聞き覚えのある声が響いてきた。
この声・・・!
間違いない、夕べの声だ・・・

―――力技だけの無骨な男のどこがそんなに気に入ったのかの
「やめて!誰なの?伊織さんを苦しめないで」
晄琉はガタガタと震えだした伊織の身体を抱き締めながら宙に叫んだ。

甲高い笑い声が聞こえたように感じた瞬間、伊織はがっくりと脱力し前のめりに倒れ掛かる。
晄琉はその身体を支えようとして尻餅をついた。
「伊織さん、しっかりして」

どうにか起き上がった晄琉はそっと伊織の身体を揺すってみるが、伊織は意識を失ってしまったらしく反応は無かった。
―――身の程知らずが、この私に逆らおうなどと考えるからだ。まあ、朋之への忠誠心は見上げたものだがな

晄琉は声の主が伊織たちの一族の長、姫神様と呼ばれる女性である事に何となく気付いていた。
「やめてよ、何でこんなことするの・・・!」
―――ふふ、そなたに力を貸してやろうというのに、何をそのように怒るのだ
そんな言葉を無視して晄琉はぐったりと横たわる伊織の両肩をつかんで揺さぶった。
「伊織さん、しっかりして・・・!」

―――その男は今のままではそなたの思い通りにはならぬ。ほら・・・
何かの気配に空気がごく僅か動いたような気がして晄琉はびくりとした。
その腕の中で伊織がゆっくりと目を開ける。
「伊織さん!」
伊織はゆっくりと起き上がるとそっと晄琉を抱き起こした。

「晄琉様、貴女は朋之様の妹―――。この僕に何なりとお命じください・・・」
その言葉に晄琉は驚いて目を見張った。
「伊織さん、一体どうしたの・・・?ねえ、この人に何をしたの・・・?」
晄琉は目に見えない相手に向って叫んだ。



  5.

伊織は生気のない瞳でぼうっと晄琉を見つめている。
―――どうした?このものはそなたの命令を待っている。何なりと命じるがよかろう
「伊織さん!」

「はい、何でしょう晄琉様」
「やめてよ、私あなたに命令して言うことを聞いてもらいたいなんて思ってないよ!」
「僕は・・・」

「晄琉!」
荒々しくドアが開かれ乙彦が応接間に駆け込んできた。
こいつは・・・!
部屋に満ち満ちている気配に乙彦の足は戸口のところで止まった。
伊織は完全に意識をコントロールされている。

「乙彦君、伊織さんがさっきからおかしいの・・・」
「ああ、こいつは完全にやられちまってるな」
乙彦は引きずるようにして伊織をソファに座らせるとあたりを見回した。

―――ほう、須佐か、久しぶりだの
「うるせいっ!俺のことくらいとっくにお見通しだったんだろうがっ!」
「ねえ乙彦君、この声一体どこから・・・?」
晄琉はどうしていいかわからず乙彦につられるようにおろおろと部屋の中を見回した。

ふとその視線が部屋の隅に置かれた姿見に止まる。
今、何かが光ったような・・・
晄琉はゆっくりとその鏡に向かって一歩踏み出した。
「おい、よせ・・・」
引きとめようとする乙彦の手を振り払い、晄琉は魅入られたように鏡に近づいていく。

―――若く、美しい娘だ。そなたはわらわの若いころに似ているな。あたりまえか、そなたの父はわらわの弟だ。我等が父君の命に従い人間の娘と関係を結ばざるを得なかった弟・・・。
わらわは悲しかった、浩之が母の違う弟であったならばそのようなこと絶対に許さなかったものを・・・
そんな声が部屋に響いた。

「勝手なことをぬかすな!」
鏡のすぐ前に立った晄琉はそこに映った自分の顔がグニャグニャと崩れて行くのを見て悲鳴を上げた。
「晄琉!鏡を見るな!!」
そう叫んで乙彦が駆けつけるがその声は晄琉には届かない。
歪んだ鏡の中の顔が少しずつ人間のものになって行く様を晄琉はただただ見詰め続けた。

やがて鏡には美しい大人の女性の顔が現れる。
「これが今代の天照・・・我が姉上というわけか」
「須佐よ、随分と変わった器に宿ったものだな。その昔このわらわに大見得を切って一族を見限ったにしては憐れな末路だ」

鏡の中の瞳が妖しく光る。
いけない、この目を見ては―――
晄琉は呆然と思ったが目を逸らす事はできなかった。

「ざけんなよっ、ババア!」
乙彦が手近にあった椅子を鏡に叩きつけた。
鏡面に大きなひびが入った瞬間、全てのものが静止した。

その割れて飛び散った数片の鏡のかけらの一片一片が窓から差し込む日の光に反射してキラキラと輝きを放ちながら空中に留まっている様を晄琉はほとんど放心状態で見詰めていた。
なんて綺麗なんだろう・・・

「晄琉、しっかりしろ!身体を乗っ取られちまうぞ!!」
乙彦の叫ぶ声がどこか遠くで聞こえるような気がするが、晄琉にはその言葉の意味がもう分からなかった。
この煌きに満ちた美しい世界を永遠のものにしたい―――そんな思いに駆られて晄琉は輝く鏡の一片に手を伸ばした。

「晄琉!駄目だ!気をしっかり持て!」
遠くで誰かが叫んでいるのがおぼろげに聞こえた瞬間、晄琉は目眩を感じ頭に手を当てようとしたが、自分の手は意に反してピクリとも動かなかった。

へんだ、身体が思うように動かない・・・
晄琉は自分の身体が自分のものでなくなったような奇妙な感覚にとらわれていた。
おかしいわ、私は手を動かそうなどと思っていないはずなのに右手が勝手に動いて・・・

晄琉が右手を振り上げ乙彦の前で止めると乙彦はビクリと小さく震え、その場でへなへなと崩折れ膝を着いた。
―――乙彦君!
そう叫んだつもりが声にならない。
その代わりに思いもかけない言葉が口から飛び出してきた。
「ふふ、そなたも身の程を知らぬやつじゃな。いくらプレートを受け継いだとて、国つ神の血が勝ったその器ではそなたにわらわを倒すことなどできまいぞ」

晄琉の身体は鏡の前でくるりと一回転した。
その動きにあわせて制服のスカートがふわりと舞い上がる。
鏡に映った顔には楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「あはは、思い通りに動く身体とは何と気分のいいものだろう。靖之が浩之や朋之の身体を欲しがるわけか。
晄琉とやら、しばらくこの身体、わらわの自由にさせてもらうぞ」

―――いや、やめて!!!
晄琉の心の声は言葉にならない。
「むだだ、そなたにわらわに勝つ力はないわ」
晄琉の手は乙彦に近づく。
その手が乙彦の胸に触れるとそこから強い光が四方に走った。

すぐに光は消え、晄琉の手には鈍い色の小さな円盤が載っている。
「く・・・っ」
乙彦の口から小さな呻きが漏れたがその首がガクッと垂れ乙彦はそのまま床に倒れ込んでしまった。

「ふふ、回収すべきプレートはあとわずか、か・・・。建御雷!」
晄琉の命令に伊織はゆっくりと立ち上がる。
その瞳に精彩を欠いたまま伊織は
「晄琉様、ご命令は?」
と尋ねた。

「建御雷、訪ねたき所がある。そなたもよく知っている場所だ」
「御意」
伊織はそう言って晄琉の手を取る。
―――伊織さん!これは本当の私じゃないわ!
晄琉は精一杯叫んだつもりだが伊織には届かないようだ。

―――お兄さん、お兄さんがいてくれたら、伊織さんも・・・!
そうは思うが晄琉には朋之がどこへ行ったのか見当もつかない。
伊織は感情のこもらない人形のような眼差しで晄琉を見つめている。
―――私、こんな目で見つめて欲しいなんて思ってないよ・・・

初めて会ったとき自分より体格のいい相手を何人もあっという間に投げ飛ばしてしまった伊織―――でもその瞳は少し悪戯っぽそうにキラキラと輝いていた。
―――どうしてこんな風になっちゃったの・・・?

伊織とともに虹の中のような空間を抜け、晄琉はほとんど光の射さない湿気の多い空間にいた。
もしかして、ここって・・・、そう思ったときには晄琉の手はぬれた岩肌を伝っていた。
闇に閉ざされた空間の最奥、ぬれた岩壁に張り付くようにして横たわり目を閉じている巨大な竜の元へと晄琉はしっかりした足取りで進んで行く。
伊織はその後ろから少し離れて従った。

気配を感じ徐に目を開いた竜は晄琉の姿を認めると、
「どうしてまた来たのです。貴女はこんなところに来てはいけない・・・」
と言ってはっとしたように口を噤んだ。

「久しいの闇淤加美」
その言葉に竜はしばらく無言でいたがやがてゆっくりと言葉を発した。
「お久しぶりです、暁野アケノ様。我等が一族の偉大なる長であられる貴女様がなぜこのようなむさくるしいところへ・・・」

「ふふふ、聡いそなたは既に知っておろう、わらわが自らこの地を訪れた理由ワケを・・・」
晄琉の手はその言葉とともに竜の胸元へと伸びる。
―――この人はさっきと、乙彦君のときと同じ事をするつもりだ・・・!
でも、そんなことをしたら―――晄琉はその手を止めようと精一杯頑張ってみたが、自分の手でありながらどうしてもいう事を聞いてくれなかった。

―――伊織さん!お願い、やめさせて、伊織さん!!
晄琉は強く伊織に呼びかけた。
ほんの一瞬伊織の目が生気を取り戻したように見えたが、その瞳に浮かんだ光は次の瞬間には跡形もなく消えていた。

「むだなこと。人間の女の血が混じったそなたにはわらわを抑えるだけの力はない。まあそう心配せずとも用が済めばそなたに返してやる、この身体もその男もな」
虚ろな空間に高い笑い声が響く。
その手がひんやりとした硬質の鱗に触れる感覚が晄琉にも伝わってきた。

―――この人は大層弱っている。心臓の鼓動は弱々しく今にも止まってしまいそうだ
晄琉の手は容赦なく竜の身体にずぶずぶと入り込んでいき、心臓のすぐ傍で光り輝いている丸いものを掴み取った。
―――いけない、コレを無理矢理奪い取ったらこの人は死んでしまうだろう・・・
晄琉の手はその瞬間ピクリと振るえ動きを止めた。

「ふうん、そなたにこんな力があったとは・・・。浩之の封印は完全に解けていなかったという事か?それとも朋之が細工をしたのかの・・・」
朋之と言う名が出た瞬間伊織の身体が小さく震えた。
「つっ・・・」
晄琉は弾き飛ばされ岩壁に右半身をぶつけていた。

「このようなこと、朋之様なら望まれない・・・」
岩壁を背に体勢を立て直した晄琉と対峙するように竜を背に庇いながら伊織が立っている。
―――よかった、伊織さん意識が戻ったんだ
打ち付けられた痛みも忘れ晄琉はほっと安堵した。

「この、不心得者がっ!」
晄琉の手は伊織に向けて突き出される。
その手はかすりもしなかったというのに伊織の身体は数メートル吹き飛ばされていた。
伊織は軽く一回転すると見事に着地する。
だがその瞳にはもう生気はなかった。

「何事だ!」
高く鋭い声が空間を引き裂き、さっと一条強い光が差し込んだ。
「姉上!」
―――この人はたしか、闇御津羽・・・。伊織が心から信頼できる相手だと言っていた
そう思った時晄琉の手は闇淤加美のプレートを掴み取っていた。

「姫神様!これが何代にも渡り貴女様にお仕えしてきた我等に対する仕打ちなのですか・・・」
姉に駆け寄ろうとする闇御津羽を伊織が力ずくで止める。
「建御雷!離せ!お前は・・・」

もみ合う二人を他所に目を閉じた竜は物凄い地響きを立てて地に崩折れた。
「姉上!」
闇御津羽の目から涙が零れ落ちる。
竜は、闇淤加美神は死んだのだ―――晄琉は瞬時に悟ったがその目が涙をこぼす事はなかった。

「何もそう悲しむこともあるまい?わらわはそなたの姉を永劫の苦しみから救ってやったのだぞ」
地鳴りのようなゴロゴロという不気味な音が鳴り止まず、辺りが揺れ始めた。
「姉に全てを押し付け自分一人のうのうと生きてきたそなたに恨まれる筋合いもあるまいがな!」

洞窟の天井が崩れ始めた時、伊織は闇御津羽を突き放すと晄琉の手を取った。
あっ、と思ったときには晄琉の身体は伊織とともにはるか上空にあって深山の一角が崩れ落ちるのを見下ろしていた。
「晄琉様、いずこへ参りましょうか?」
伊織の声は瞳同様何の感情も帯びてはいない。

「ふふ、種は全て蒔いた。後は駒が自分から集まってくるのを待つだけだ。そなたにももう少しだけ協力してもらうぞ」
最後の言葉は伊織に向けたのか、それとも自分に言ったのか・・・
無力な自分に歯噛みしながら晄琉はただ兄のことを思った。