神鏡封魔録


鳥船

  1.

絵美奈は朋之とともに家へと向かった。
度重なる時間旅行のせいか、少しばかり気分が悪い。
海外旅行の時差ぼけとはこんな感じだろうか、と思いながら家に入った途端、絵美奈は濃厚に残っている強い気配を感じ取った。
朋之も同様らしく、一瞬にしてその顔が緊張で強張るのが手に取るように分かった。

「朋之・・・!」
「ああ」
慌しく応接間に駆け込んだ二人の目に映ったのは大きくひび割れた姿見と細かい破片が散らばる床に倒れている乙彦の姿だった。

「乙彦君!」
慌てて駆け寄ろうとする絵美奈を手で制し、朋之はゆっくりと乙彦に近づいた。
その身体をそっと抱き起こすが反応がない。
「プレートを奪われたな。それもかなり強引に」
乙彦の身体からぱらぱらと数片の鏡の欠片が落ちた。

「乙彦君、大丈夫なの?それにこの気配・・・」
知らないはずなのに知っているこの気配―――これは朋之の伯母、天照の気配だ、と絵美奈は悟っていた。
それにこの余りの人気の無さにはどうしたことだろう。
絵美奈はぞくっと寒気を感じた。

伊織と晄琉はどこへ行ってしまったのか?
二人とも姫神様に連れ去られてしまったのだろうか・・・
不安げに見つめる絵美奈の視線を意識しながらも朋之は
「ふん、もう隠す必要もないということか・・・」
と呟いた。

伯母は朋之にとうとう最後通牒を突きつけた。
晄琉を取り戻したいなら絵美奈を連れて自分に会いに来い、と・・・。

軽く溜息を漏らした朋之が乙彦をソファに運ぶ間に絵美奈は靖之のプレートを探しに階上へ向かった。
姫神様がこの家を訪れたならあのプレートや八咫の鏡、須佐の剣も奪い去られたかもしれない、そう思ったからだったが、プレートは鏡や剣とともに乙彦の部屋に置かれ、特に異変は無いようだった。

取り合えずほっとしたものの、朋之と離れていることが急に不安になった絵美奈は鏡と剣、そしてプレートを抱えるようにして慌てて応接間へと取って返した。
自分がいない間に朋之は一人で行ってしまう、そう危惧したのだった。

「朋之!」
そう叫んで応接間に飛び込んだ絵美奈に朋之は
「どうした!何かあったか・・・」
と血相を変えて駆け寄った。

思いのほか強い力で抱き締められ、絵美奈は
「ううん、何かあったってわけじゃないけど・・・」
と手にしたプレートを落としそうになりながら答えた。
「朋之が一人で行ってしまうんじゃないかと思って・・・」

朋之は何とも言いがたい複雑な表情を一瞬浮かべた後、
「本当はお前を危険な場所に連れて行きたくない。だが―――お前を一人で置いておくのはもっと危険だろう」
と言った。
「朋之・・・」

朋之は絵美奈から剣を受け取るとベルトに差込み、プレートを手に取った。
「鏡はお前が持っていろ。お前は封印の鏡の巫女だ。俺よりも鏡の力を引き出せるだろう」
朋之は伯母から鏡を奪うとき自ら切り取った鎖を静かに指で撫でた。

再び繋がった鎖を確めるように撫でた後朋之はその鎖をそっと絵美奈の首に通した。
ほんの少し首を傾げながら自分を見つめる朋之の顔は、うっすらと笑顔を浮かべているにも拘らず何だか今にも泣き出しそうに絵美奈には感じられた。

朋之―――この人にこんな顔は似合わない・・・
絵美奈はそう思った。
「大丈夫だよ、朋之。どんなことがあっても私たち、ずっと一緒だよ」
「そうだな」

窓を開け放ちバングルを空に放った朋之は見る間に巨大な姿となった鳥に絵美奈を抱えたまま飛び乗った。
「白昼だが、相当の上空を行けばそう人目にはつかないだろう」
鳥は二人を背に急上昇する。
この鳥に乗って移動するのにも大分慣れたが、それでも絵美奈は周りから吹き付ける強い風に煽られ朋之にしがみつかずにはおれなかった。

二人を乗せた鳥は高く高く舞い上がる。
次第に強く感じられる寒さと息苦しさが、空気が薄くなっていることを絵美奈に感じさせた。
「この高度では息が苦しいか?」
「うん、少し、でも・・・」
その途端ふっと呼吸が楽になり、朋之が結界を張ってくれたことに絵美奈は気付いた。

「ここから見えるか?」
「え、何が?」
そういわれてそっと下を覗いてみる。
あまりの高さに距離感が狂い、目眩を起こしそうになりながらも絵美奈は襞のように幾重にも重なった山の連なりの奥深くの一角が、高く舞い上がった土ぼこりで翳んでいるのを見て取った。

「あの土ぼこりのこと?」
「ああ」
「あんな山奥で何が・・・」
絵美奈は先代の須佐之男命が住んでいた洞窟が崩れた時の事を思い出した。

「闇御津羽を覚えているかな、古くからこちらの世界に住む天つ神の一族の裔、清浄な水の神だ。一度、いや、二度か会ったことがあるだろう?」
「うん、いつか火の神に襲われたとき助けてもらったし・・・。伊織君とは仲がいいみたいだしね」

「仲がいいかどうかは知らないが、アイツは随分闇御津羽を信用しているようだな。それはともかく、あの辺りはその闇御津羽の一族の隠れ里がある場所だ。いや、今となってはあった、と言った方が適切だろうが・・・」
「!どういうこと?」

「結界が破れ清浄だった地が穢れにまみれようとしている。水の一族は清らかな水がなければ生きてはいけまい。今ではもう闇御津羽とその姉闇淤加美の二人だけになってしまった一族だが」
「朋之・・・」

「結界が、最後の守りが破れたと言う事は闇淤加美神は恐らく死んだのだろう。微かだが感じられていた波動が今では全く感じられなくなっているからな・・・」
「朋之、まさか・・・」
今このときにこの深山で天つ神の一人が亡くなった―――これは偶然なのだろうか

「ああ、どうやら伯母が関わっているようだ。考えたくは無いが晄琉と伊織もな・・・」
「あの二人が?でも、どうして?」
「何が起きたのかはっきりとは分からない、だが晄琉は勿論伯母も長距離の移動は出来ないはずだ。俺たちの家からこの深山に飛ぶには・・・」
「そっか、伊織君が居なくては瞬時の空間の移動はできないんだ」
「ああ」

「伊織君を自由に動かす為に伯母さんは晄琉さんを利用したっていうこと?」
「多分な。伯母は脚が不自由だ。自分の脚で立って歩く事はできないんだ。 お前は気付いたかどうか知らないが、伯父の靖之も手足が不自由だったしな」
「・・・朋之・・・」

顔を曇らせた絵美奈をそっと眺めながら朋之は
「そんな顔するなよ。俺たち宗主家の人間は純血を保つ為にずっと近親結婚を続けてきた、だからどうしても血が濃すぎるんだ。この地の生き物としての自然の摂理に適っていないことは百も承知のうえで、そんなことを繰り返してきたのはそれなりに理由があるんだよ」
と言った。

「理由?」
「そうだ、伯母がこんなことをしているのもそのためだ。俺にとってはどうでもいいことだが、一族の長である伯母にとってはそうはいかないんだろうな」
「朋之、それは・・・」
深山の上空で大きく一回転し幾分高度を下げた後西へと首を向けた鳥の前に淡い光が現れた。

「!」
光は忽ちのうちに大きな竜へと変わり更に可憐な少女へと姿を変える。
「月読様、お待ちしておりました」
少女は真っ赤に目を泣き腫らしたままの打ちひしがれたような顔でそう言った。

「闇御津羽・・・」
朋之が小さく呟いた。
きっと朋之もこんな彼女を見るのは初めてだったのだろう。
凛として力強く何者にも負けない闘志を全身に漲らせている、小柄で細身の外見とは裏腹なそんな日頃のイメージとはかけ離れたその姿に絵美奈はかける言葉を失っていた。

「もうご存知と思いますが姉が亡くなりました。姫神様が・・・」
「伯母の目的はこの世界に散らばったプレートの回収だったのだな。そして闇御津羽、お前もそれに一役かっていたのだろう?」
朋之は沈痛な面持ちながらもその口調はどこか冷たい、絵美奈はそう思った。

「伊織はそのことにまったく気付いていないようだったが」
「月読様にはお見通しだったということですね」
「まあな・・・。晄琉の記憶を少しだけ読んだ時、迦具土の身体を連れ去るお前の姿がホンの一瞬だけ見えた。お前には進んで伊織に協力するいわれは無いはずだ。たとえ守る相手が俺の妹だとしてもな。そのお前が頼まれもしないのにわざわざ出てくるには理由があるはずだ、そう思った。それから・・・」

「それから?」
「東の地脈が破れたとき俺は伯母と―――姉上と一緒にいた。そのとき尋ねてきたものがある。里のものならあのような訪ね方はしないだろう。あの時はそのおかげで虎口を脱する事ができたこともあって、さほど気に留めなかったが」
絵美奈はただ驚いて朋之と闇御津羽とを交互に見遣っていた。

「姉は病気でした。我等がこの世界に住むのは限界だったのかもしれません。この星はすっかり汚れてしまった、もう我等の住める場所ではない、でも代を重ね力を失い続けた我等に今の世界に適用できるよう身体を作り変える事はもうできないのです。それでも姉は私のために・・・」
闇御津羽の瞳からは綺麗な涙が一粒零れ落ちた。

「姫神様は姉の身体を癒す薬を下さると約束してくれた、だから私は・・・」
「ふん、それでも伯母に盲従するというのか。いくら尽くしてもお前に待っているのは姉と似たり寄ったりの末路だぞ」
「そのような事わかっています。だから私にも切り札が必要なのです」
涙を零しながらも闇御津羽は決然と言った。

「切り札、か」
朋之はそう言って僅かに眉を吊り上げると絵美奈に
「しっかりとつかまっていろよ」
と言い置いてひらりと鳥から飛び降りた。

そのまま闇御津羽と対峙するように宙に浮かんだ朋之は静かに腰の刀を抜く。
「お前の真意は分からぬが、あくまで俺の行く手を遮るというならお前は俺の敵だ」
「月読様、貴方と争いたくはありません。ですが、私はどうでも奥方様の身柄をお預かりしたいと思います」
その言葉に絵美奈は驚いて闇御津羽を見詰めた。

「そのようなことこの俺が承知するとでも?」
「月読様、貴方にその刀の真の力は引き出せないでしょう。ここは一つ私と手を結んでくださいませんか。そのほうが貴方にとっても得策のはず・・・」
「断る。妻を取引の条件にはさせない。どんなことがあっても守り抜くと誓ったのだ。伯母からも他の全ての者からも」

天叢雲剣が一閃するのと闇御津羽の身体から迸った水流が二人の身体を包み込むのが同時だった。
泡立つ水の膜に包まれ、絵美奈には一体何が起こっているのかさっぱり分からない。
だが闇御津羽の目的が自分であることに絵美奈は強い衝撃を受けていた。
ただ一人の親族を失い、帰る場所までも失った闇御津羽はこの自分を使って何をするつもりなのか―――

やがて水の膜に包まれた球体が急激に落下して行き、後には抜き身の剣を手にした朋之が残った。
朋之はゆっくりと剣を鞘に戻すと絵美奈の傍へと戻ってきた。
辺りには剣が呼んだのか厚い雲が集まりだしている。
朋之は元通り鳥に飛び乗り絵美奈を抱えるように座ると
「ちょうどいい、この雲に紛れて進むことにしよう」
と笑って言った。



  2.

「あの・・・、あの人、闇御津羽はどうなったの?」
球体は急激に下降し、森の奥深くと思われる場所に四方に水滴を飛び散らせながら落下した。
「水流を掻い潜って一撃を与えた。致命傷にはならなかったが、しばらくは自由に動けんだろう。須佐が使えば一撃必殺なんだろうけどな」
「そう・・・」

闇御津羽がどうにか一命を取り留めたと知って絵美奈はほっとした。
自分のために朋之が誰かの命を奪うような事になって欲しくない、そんなのは奇麗事だと分かっていながらも絵美奈は心からそう思った。

「先を急ごう、これ以上邪魔をされたくない。伯母が本格的にプレートの回収に乗り出したのなら里人も危険だからな」
「そんな・・・」
朋之の伯母、姫神様は里人からもプレートを奪うのだろうか、乙彦にしたように無理矢理・・・。
いや、里のものは長には絶対服従らしいから喜んで自分から差し出すのかもしれないが―――

鳥はいつもよりずっと早く風を切って飛んで行く。
絵美奈は振り落とされないよう必死で朋之にしがみついていた。
随分進んだと思われる頃になって、朋之の背中越しにはるか遠く小さな光が追いかけてくるのが見え始めた。
体勢を立て直した闇御津羽が猛烈なスピードで追ってきているのだ、と絵美奈は気付いた。

次第にその光は大きくなり、小さくだが竜の姿が見て取れるようになってきた。
やがて激しい水の奔流がいく筋もすぐ傍まで届くようになる。
―――朋之、大丈夫なの・・・?
―――全く、式神では竜のスピードには適わないか。くそっ、肝心な時にいつも伊織はいないんだからな

茶化すように明るく言う朋之だがその顔には隠しきれない緊張感が漂っている。
自分と引き換えに闇御津羽は姫神様に何を望むつもりなのか。
「朋之、もう追いつかれるわ!」
思わず声が出たとき、鳥は急降下を始めた。

「ああ、もうすぐだ。どうにか闇御津羽からは逃れられたな」
激しい下降に絵美奈はそれこそ文字通り内臓が口から飛び出そうな感覚に襲われ気分が悪くなった。
ふっと気が遠くなり、腕から、いや全身から力が抜けていくのを朧気に感じる。
そんな頼りない身体を朋之はしっかりと抱きとめていてくれた。

地表に近付くにつれ鳥は小さくなっていき、やがて一条の光となって朋之の腕に戻る。
どこか奥深い山中と思われる深い森の中に小さな光の明滅がみえてきて、朋之は絵美奈を横抱きにしながらゆっくりとその光の中へと降りていった。
「ああ朋之、気分が悪い・・・。戻しそう・・・」
朋之の腕の中で絵美奈はぐったりと頭をその肩に凭せ掛けた。

頭がズキズキと痛み酷く気分が悪かった。
朋之は絵美奈を板張りの床の上にそっと座らせた。
「悪かったな、いきなり急降下して。だがお前をアイツに奪われるわけにはいかない。闇御津羽があくまでお前を狙うと言うなら今度こそ―――」

―――息の根を止めねばならない
言葉にはならないその続きを思い、絵美奈はやるせない思いで溜め息をついた。
アイツはお前のためならどんな事でも平然とやってのける、それが自分にとってどれほどつらい事でも・・・
そう言った乙彦の言葉が思い起こされた。
朋之だって本当は闇御津羽と戦いたくなどないはずだ―――

「どうだ、歩けそうか?」
「ごめん、少し休ませて。本当に気持ちが悪くて・・・」
「吐いてしまった方が楽になるかな?」
「ううん、大丈夫と思う。さっきよりはずっと楽になったし」
「そうか」

少し気分が落ち着いた絵美奈はざっと辺りを見回して尋ねる。
「ここはどこ?随分古い建物のようだけど、ここが宮と呼ばれているところなの?」
ほとんど日の射さない薄暗いその場所は木造の柱に四方を囲まれた広い板の間で、天上には孔雀のような羽の鳥が宙を舞う図が描かれているのが薄っすらと見て取れた。

「ああ、ここは宮の外陣。外からの来訪者を迎える場所だ。普通のものはこの先の宮の内部には入れない。ほら」
そう言って朋之が指差した方を見ると暗い中にも硬く閉じられた扉があるのが見えた。

「あの向こうは宮の外回廊でそこから外庭や里へ通じる道に出られる。そして向こうは・・・」
そう言って朋之は今度は反対の方向を指し示す。
そちらにも扉があったが、こちらの扉は反対の扉よりはよほど上質な木材で作られているのが一目で分かった。
「あの扉は宮の内殿へ続く扉だ。いつも里へ戻る時、俺はここで伊織と別れる。アイツは内殿には入れないからな」

「そうなんだ・・・」
朋之はその扉の前に立つと須佐之男の洞窟でしたように手を扉の前にかざした。
その手から迸った青白い光が扉に不思議な文様を描く。
光はすぐに消え、扉が音もなく横に滑った。

本来なら伊織は朋之の顔すら知らずに暮らしていたのだろう。
そしてそれは絵美奈とて同じ事。
朋之の父が人間の娘と結婚しなければ、そして息子を外の世界で育てるよう言わなければ、絵美奈は朋之の存在すら知らずに一生を終えただろう・・・
決して交わるはずの無い人生が触れ合う縁というものの不思議さに絵美奈はほうっと溜め息を付いた。

扉の向こうには長い回廊が続いている。
「どうだ、歩けそうか?」
朋之は絵美奈の前に膝を着いてそっと顔を覗き込んだ。
「まだ顔色が悪そうだな・・・」
「うん、でも・・・」
そう言った途端朋之は絵美奈をひょいと抱き上げた。

「里の様子が変だ。結界も随分弱まっている。闇御津羽に追いつかれたくないからな、辛いかもしれないが少し我慢してくれ」
「大丈夫だよ、それより様子が変、ってどういうこと?それに闇御津羽は・・・」
「取り敢えずはどうにか振り切ったがまだ諦めてはいないはず、油断は出来ないな」
「でも彼女は宮の内殿には・・・」
「普通なら入れないが、彼女は伯母の客人として特別な出入り口を使えるんだ」

朋之は絵美奈を抱き上げたまま朱塗りの欄干が続く長い回廊を進んで行く。
いつか夢で見た長い長い廊下とよく似ているような気がした。
いくつもの部屋の前を通り過ぎ、曲がり角を曲がったその先に絢爛たる部屋が現れる。
壁一面鏡を張られたその部屋に絵美奈には見覚えがあった。

「ふん、すっかり修理は済んだんだな」
入り口で内部を一瞥し、朋之はそう呟いた。
無人の部屋の中央には大きな水甕が置かれている。
その甕にも美しい鳥が羽を広げた姿が繊細な浮き彫りに掘り込まれていた。

一面の鏡が絵美奈を抱いた朋之の姿を無数の象として映している。
「私、この部屋を知ってるわ・・・」
絵美奈は朋之の腕から滑り降りるとそっと水瓶の傍に歩み寄った。
あの時はこの水瓶はもっと奥に置かれこの場所には美しい玉座が置かれていた。

絵美奈は水瓶の縁に手を置きそっと中を覗き込んだ。
僅かに揺れる水面に自分の顔が揺れながら映るのを絵美奈はぼんやりと見詰める。
その顔はゆらゆら揺れながら少しずつ変わっていく。
「ふふ、人間の巫女がわらわに取って代わるつもりか・・・?」
そんな声が聞こえた気がして絵美奈は驚いて後退った。

「絵美奈!」
慌てて駆け寄った朋之が自分の身体を抱き寄せるのを絵美奈はどこか夢うつつで感じていた。
「しっかりしろ!身体を取られるぞ」
朋之と触れ合った瞬間、はっとして絵美奈は我に返った。
同時に水瓶の水面がバシャッと言う音を立てて跳ね上がった。

「朋之、私・・・」
絵美奈の右の掌が青白く輝き始める。
―――やっとお膳立てが整ったか・・・
そんな声が頭を掠め、絵美奈は驚いて辺りを見回した。

何時の間に現れたのか伊織と晄琉がすぐ傍に立っている。
「伊織!」
朋之の一喝に伊織は全身をピクリと震わせ、それからハっとしたように朋之を見詰めた。
「朋之様・・・、僕は・・・」
伊織はおもむろに辺りを見回し、
「僕はどうしてこんなところに・・・?」
と呆然とした面持ちでそう言った。

「知れたこと、わらわがそう命じたからだ」
傍らに立った晄琉がそう言って伊織の胸に手を当てた。
「よせ!」
朋之が剣を抜いて斬りつけたが一瞬早く晄琉は右手に青白く輝くプレートを掴み、左手で軽く伊織の身体を押した。

伊織は力なくその場に崩折れる。
「伊織君!」
絵美奈が伊織に駆け寄ろうとしたとき、大音響とともに天井の一部が崩れ落ちてきた。

天上にも張られていた鏡が粉々になって降り注いでくる。
「絵美奈!」
伊織を抱き起こした朋之が振り向いたとき、落ちてくる破片を避けようと身をよじった絵美奈の身体に光を放つ紐状のものが巻きつくのが見えた。

「きゃ・・・いやっ・・・!」
絵美奈の身体は光に包まれるようにして床から浮かび上がり、あっと言う間もなく大穴の開いた天上から消えて行った。
「待て、絵美奈!!!」
ハッと気がつくと、晄琉の姿も消えていた。

くそっ、闇御津羽の奴、結界が緩んでいるのを利用してここまで入り込んだか・・・。それにしても今のは伯母の命令か、それともアイツ自身の意思でしたことか―――

―――伊織!!
朋之は伊織の両腕を掴んで強く呼びかけた。
落下する破片は二人の上空で止まったまま宙に浮いている。

―――伊織、しっかりしろ!自分を取り戻せ!!
伊織の虚ろな瞳が僅かに動き、朋之を視線の先に捉えた。
―――伊織、俺が分かるか・・・?
「朋之・・・様・・・?」
朋之、と言う名を口にした途端、伊織の瞳は精彩を取り戻した。

「朋之様、僕は貴方の期待に沿うことが出来ませんでした・・・」
「今はそんなこと言っている暇は無い、それより俺に力を貸してくれ、プレートを奪われたその身体では動く事も辛いだろうが・・・」
「僕がお役に立てるならどんな事でも・・・。でも・・・」

朋之は自らの力を伊織に注ぎ込んでやった。
「頼む、伯母の好き勝手にさせるわけにはいかないんだ・・・」
「朋之様・・・」
朋之の腕に縋るようにして立ち上がった伊織は、朋之の思い描いた場所へと一瞬にして飛ぶ。
二人の姿が消えた直後、大地を震わせるような大音響とともに日照殿の天井が崩れ落ちた。



  3.

絵美奈は自分を包み込んだ光が闇御津羽の発するものであることにすぐに気付いた。
「闇御津羽・・・無事だったんだ・・・」
絵美奈の呟きに闇御津羽は竜身のまま心に呼びかけてきた。
―――私の心配をしている場合ではないでしょう。でも貴女が私のいう事を素直に聞いてくれるなら貴女を傷付けるつもりはありません。

「闇御津羽・・・、一体・・・」
「姫神様は私の働きに見合うものをまだ返してくださっていない、私は当然の報酬を要求するだけです。でも私一人では恐らく会ってはもらえないでしょう」
「でも私がいたって・・・」

「貴女は月読様の妻―――姫神様が本当になりたかったのは貴女です」
「!まさか、闇御津羽、あなた私の事・・・!」
絵美奈は逃れようと身をよじったが竜は絵美奈の身体に強く身を巻きつけ離そうとしない。
「大人しくなさい、今この状況で私から離れたら、それこそ命はありませんよ」
そう言われ、絵美奈は自分が闇御津羽とともに宮と呼ばれる建物の遥か上空に浮かんでいる事を思い出した。

見下ろした建物の一部の屋根に大穴が開いているのがよく見える。
その建物から真北に少し行った辺りに巨大な岩の塊が見えてきた。
岩の中央辺りから細い光が立ち上っている。
闇御津羽はその光目指して高度を下げた。
光は岩に開いた小さな穴から立ち上っている。
近付くにつれその穴は次第に大きくなり、立ち上る光の量も増えていった。

絵美奈は不意に少女の姿に戻った闇御津羽に抱きしめられるようにして光の中をゆっくりと岩の中に吸い込まれるように降りて行った。
絵美奈たちを飲み込んだ後穴は急速に縮んでいき、ホンの一筋光を通すほどの小ささに戻って行く。
岩の中は空洞になっていて両脇に細い通路が穿たれていた。

上空から見たときは大きな岩に見えたがここはどうやら洞窟の中らしい、空洞の空間のほぼ中央に置かれた香炉から立ち上っている細い光を頼りに辺りを見回した絵美奈は香炉の奥に畳が敷かれていることに気がついた。
畳が敷かれているほうの岩壁には七色の布が下げられ榊が素焼きの花瓶に生けてある。
「闇御津羽、ここは一体どこ?」
絵美奈は闇御津羽の手をぎゅっと握り締めながら尋ねた。

自分を攫った相手だが絵美奈には闇御津羽が敵だとはどうしても思えなかった。
「闇御津羽というのは受け継いだ神の名、私の本当の名前は瑞紀と言うのです」
「あ、そうだったんだ・・・」
「私の双子の姉は瑞穂と言いました、もうこの世にはいませんが・・・」
闇御津羽はそう言ってじっと絵美奈を見詰めた。

あまり見詰められて絵美奈は妙に気恥ずかしくてなぜか赤くなって視線を逸らせた。
「貴女は本当に強運の下に生まれついた幸せな方・・・。月読様が惹かれたのも、姫神様が羨むのも分かるような気がします」
「姫神様が・・・羨む?」
驚く絵美奈に闇御津羽は僅かな微笑を返す。

「あの方は一族の長でありながら我等を裏切った。その報いは受けていただく、たとえこの身と刺し違えても、姉の受けた苦しみの何分の一かでも味わってもらわねば姉も浮かばれないでしょう」
「そんな・・・」

「貴女には申し訳ないがこの私に協力してもらいます。どの道姫神様を倒さなければ貴女も月読様と結ばれる事は出来ないのです、他に道は無いはず」
闇御津羽の言葉に表れた有無を言わさぬ強い意志に絵美奈はただ目を見張って相手を見詰めた。

「ここは姫神様が年に一度力を蓄える為に籠もる特別な御座所―――伝説の天の岩戸の元となった場所です。このずっとずっと地下深くに一族の中でも高貴な血を受け継いだものしか立ち入れない場所がある。
特別な結界が張られたその場所は私などは立ち入る事も出来ないが、貴女ならそこへの道を開けるはずです」

「私にそんなこと出来るわけ無いよ」
「貴女からは以前会った時には無かった力の波動を感じる。私の見込み違いでなければ・・・」
闇御津羽はそう言うと絵美奈の手を引きツカツカと畳を踏みつけながら奥の壁へと向った。
五色の布の垂れ幕を開いたほうの手で引き上げる。
その奥は何の変哲も無い岩壁に見えたが闇御津羽は掴んだ絵美奈の手をその壁に向けて上げさせた。

「!」
驚いた事に絵美奈の掌から青い光が迸り岩壁に当たるとそこに不思議な文様を浮き上がらせた。
須佐之男の洞窟で朋之が浮かび上がらせた文様とよく似ている。
「やっぱり思ったとおり、貴女は・・・」

闇御津羽がそう言いかけたときどこからとも無く低い声が響いてきた。
「これはまた、珍しい事もある。月読の印ではないか。今代の月読は女か」
「見ての通りだ。早く扉を開けよ」
との闇御津羽の答えに
「おう」
と一声、岩壁は音もなく横に滑りその先に下へと伸びた通路が現れた。

「いそいで、姫神様に追いつかれる前に辿り着きたいのです」
闇御津羽はそう言うと絵美奈の手を引っ張る。
一歩踏み出した途端、通路は二人を乗せたまま滑るように静かに動き出した。
「うわっ、何これ、動く歩道?」
岩壁が元通り絞まる音を背後に聞きながら、絵美奈は後ろに倒れそうになり慌てて闇御津羽の袖を掴んだ。

「まあそんなものですね」
道は緩やかに下り始めどんどんスピードを増していく。
これはただの洞窟の通路ではない・・・
通路の動くスピードに身体が慣れないせいか、先程のまでの気分の悪さがぶり返してきたようだ。
絵美奈は軽い吐き気を覚えて口元を押さえた。

「ご気分が優れないですか?」
珍しく闇御津羽が心配げな口調で尋ねてきた。
「うん、ちょっと・・・」
絵美奈がそう答えると闇御津羽はそっと背を摩ってくれた。

絵美奈は少し気持ちが和らぐのを感じながら、あっという間に背後へと飛び去っていく周りの岩壁を見やりつつ、この一族の遠い祖先は本当にこの地球で生まれた生命体ではないのだと、改めて思った。

そして自分の身体にもその血が極薄くではあるが流れているのを絵美奈は今はっきりと感じている。
それを象徴するかのように闇御津羽の袖を掴んだままの右の掌がぼんやりと青白く光り、少しだが熱を持ってきていた。

それをじっと見下ろしながら闇御津羽は呟くように言う。
「姫神様の気持ちも分からぬでもない。どれほど強い力を持っていたとしても本当に欲しいものは決して手に入らない―――それはこの地で生きるには余りに強大な力を持ちすぎていた我らに定められた宿命なのかもしれません。でも貴女は・・・」

「え・・・?」
「月読様は、いえ、朋之様は貴女を選んだ。強い力を持ちながらその力の使い方を知らない人間の娘―――何者に縛られることも無く自由に生きることの出来る幸福な人」

そうか、この娘も朋之の事が好きだった―――
絵美奈は初めて洋館で会った日、朋之の言葉にぽっと頬を染めたこの少女の顔を思い出した。

「私は貴女が嫌いだ。何も知らず何の努力もせずただ誰かに守られ幸せだけを与えられ、それに疑問を持つ事すらなく当たり前の様に生きている貴女が・・・」
「闇御津羽、私は・・・」
「貴女は天つ神でも最高位の男性を手に入れようとしているのだ、そのためには少しくらい犠牲を払ってもらわねば、ね・・・」

闇御津羽はそう言うと絵美奈を抱え上げ宙に浮かんだ。
そのまま半身を竜に変え、今までとは比較にならない速さで飛び始める。
―――少し我慢して下さい、このままでは追いつかれる
―――追いつかれるって、誰に?

答えは無い、だが、いまや遙か後方に遠ざかったはずのあの岩の扉が開いて再び閉じられた気配を絵美奈もかすかに感じていた。
闇御津羽はさらにスピードを上げる。
絵美奈は闇御津羽の竜身に縦に長く深い傷が出来ているのに気が付いた。

鱗も少し剥がれ落ちているようだ。
朋之に斬られた傷だろうか―――
自分の事を嫌いだと言い切った闇御津羽だが、絵美奈はそれが彼女の本心からの言葉ではないような気がした。
ただそう思いたかっただけかもしれないが・・・
果てしなく続いているように見えた通路だが、やがて遠い先に仄かな光が瞬くのが見えて絵美奈は軽く目を細めた。

伊織は朋之の指図のままに里の北の結界に当たる岩山の崖下へと朋之を連れて飛んだ。
プレートを失ったとはいえ、瞬時移動の能力は持って生まれたものだ。
ただ戦士としての力はほとんど失ってしまったが、それでも朋之の役に立てればそれだけで嬉しかった。

朋之が切り立った崖に手を触れると表面に五芒星が浮き上がった。
「朋之様、ここは里の結界。これを破れば・・・」
不安げに呟く伊織に朋之は軽い笑みを見せる。
「里の結界を破りはせぬ。まあ大分弱まっているから、もうあまり意味は無いだろうが・・・」
「朋之様?」

「お前も気付いているだろう?里の様子がおかしい。姉上が里人からプレートを回収したのだ。その結果、里を守っていた結界も弱まったということさ」
「そう、ですか・・・。だから闇御津羽にまでああも簡単に・・・」
「ああ、この分ではもっと余計な連中まで首を突っ込んできそうだな。邪魔が入らぬうちに済ませたいものだ」
朋之がそう言って岩壁に触れる手に力を込めると、五芒星の下にさらに魔方陣のような複雑な文様が浮き上がってきた。

朋之が小さく呪文を唱えると岩壁に縦に一筋亀裂が走り、ゆっくりと左右に割れ始めた。
岩壁の中に細い通路が出来上がる。
朋之は伊織を促すように手を振ると自ら先に立って通路の中へと進んで行った。

少し歩いたところで開けた空間に出る。
地面の真ん中に先程見た魔法陣のような文様が薄っすらと光を放ちながら浮き出ているのを伊織は不思議な思いで見やった。

「お前はこれを見るのは初めてだな。あの円形の模様の真ん中に立ってみろ」
朋之にそう言われ、
「こう・・・ですか」
と伊織は魔方陣の中へと足を踏み入れた。

朋之がすぐ隣に立つといきなり底が抜けたように地面が落ち込み伊織の身体は朋之と共に急降下していった。
「朋之様、これは?」
「我等がご先祖様の残した遺産―――遠く後にしてきた母星の文明の名残だろう」
「なるほどね・・・」

普通の人間なら驚いて腰を抜かすところだろうが伊織は訓練をつんだ戦士だ、この程度で動じるような事はない。
ただ、こんな仕掛けがこの山の中に隠されていた事に大いに驚いた。
この分では他にもこの里には隠された仕掛けがあるのかもしれない。

どれほど下がったものだろう、落下の速度が弱まり、次第に止まったと思うと今度は水平の移動が始まった。
前方に巨大な金属製と思われる扉が閉まっているのが見えるが、朋之と伊織が近付くとそれはひとりでに開き二人が通り過ぎると背後でひとりでに閉まる。
そんな扉をいくつも超えたとき伊織は前方に幽かな青白い光を見出した。

「とりあえずどうにか間に合ったようだな。闇御津羽のスタンドプレイのおかげか、それともこれもまた伯母の予定のうちか―――」
「朋之様・・・」
「ここがこの里の心臓部、どうやら炉はまだ稼動しきっていないようだ。伯母上も少しばかり手こずっているとみえる」

地面の移動が終息し伊織は朋之に従って面前に広がった壮大な空間に足を踏みだした。
硬い金属製の床だが足音は立たない。
ひんやりとした冷たい感覚が足を通して伝わってくる。
巨大な円形の部屋を形作っている周りの壁も床と同じ金属で作られているようだ。

部屋の中心には円形に壁が仕切られている。
半透明のその薄壁を通して中に大きな楕円形の不思議な物が置かれているのがどうにか見て取れた。
鈍い鉛色をした不思議な物体―――

「これは・・・」
「ああ、遠い昔先祖がこの地に渡る時に使った乗り物だ。この地では天の鳥船と呼ばれたが・・・」
そのとき薄壁のはるか向こう側で空気が僅かに揺らぐのが感じられた。